痛いよ

 痛かったろうね。

 思うたびに、胸が引き裂かれるように痛んだ。

 逃れたい。

 だから、捨ててしまった。


 妻が自宅マンションから飛び降りたことを知ったのは、おかしなものでパトカーや救急車が集まってからだ。

 私はしばらくのあいだ妻が数十メートル下で重力によって押し潰されていたのに気がつかなかったのだ。

 そんな鈍感な夫だから、妻が自ら命を断つほど悩んでいたのに気がつかなかったのだ。

 胸が痛んだ。

 パトカーのサイレンが近づいてきて、すぐ下で停まった。それを追いかけるように救急車のサイレン。

 何かあったのか。

 私は寝ぼけ眼をこすってベッドで身をよじった。

 隣で眠る妻は起きているだろうか。

 私は、そんな間抜けなことを思っていた。そのときにはすでに、妻は息絶えていたのに。

 ベッドに妻はいなかった。寝室の窓が開け放たれていた。救急車のサイレンがまだ聞こえていた。

 胸を鷲づかみにされたような不安。窓から見えた赤色灯が毒々しかった。

 まさか。

 取るものも取りあえず部屋を出てエレベーターで階下に向かった。

 そして、変わり果てた姿の妻を見た。

 足は砕けて上半身に突き刺さっていた。薄暗いマンション前の歩道には臓物が飛び散っていた。顔は原形をとどめないほど砕け、歯が顎に付着していた。妻の死体の近くには、妻の血を下半身に浴びた中年の男性が立ち尽くしていた。あとで知ったことだが、彼が通報者だった。

 あまりにも痛々しい姿だったが、間違いなく数時間前まで私のとなりで寝ていた妻だった。

 警察は最初、事故と自殺、他殺も疑ったが、寝室の片隅から直筆の遺書が見つかり、その内容と状況から自殺と断定された。

 遺書には短く、今の生活での心の痛みに堪えられない、という趣旨のことが書かれていた。

 心の痛み。

 何も気がつけなかった。

 妻とは共働きだった。

 私は食品メーカーでの商品開発を、妻は印刷会社で営業をしていた。

 ともに忙しく、平日は二人とも帰宅するのは二十二時過ぎ。まともな会話もなく、疲れ果てて、ただ寝室でベッドに倒れ込む。

 朝は家を出る時間が違うため、私は妻を残して午前六時半には家を出た。

 そんな生活が三年は続いていたか。仕事や経済的な事情から子供を作ろうとはどちらも言い出さなかった。

 私は、そんな生活でも不満はなかった。

 妻も同じだと思っていた。

 しかし、妻は死んでしまった。自ら命を断って。

 心の痛み。

 何が、そこまで妻を追い詰めたのか、私には、まるで理解が出来なかった。

 私との生活が原因だったのか。それとも仕事か。いや、私が全く知らない心労が妻にはあったのか。

 分からなかった。

 それが情けなかった。

 妻を不意に失ってから、私の心は常に痛み続けた。

 痛い、痛い、痛い。

 いや、あのような姿で死んだ妻こそ痛かっただろう。

 自死を選んだ心のほうが痛かっただろう。

 私は生活のすべてに痛みを抱えて生きることになった。

 辛かったのは、生活の至るところに妻の面影が残されていたことだ。

 妻が使っていた食器、妻が好きだったカーテン、妻が買ってきた写真立て、妻の写真、妻が使っていた化粧品。

 それらを見るときに激しく心が痛んだ。

 だから、私は捨てることにした。

 妻の面影が残ったものを。

 妻の食器を捨てた。

 そのときだ。

 痛いよ。

 妻の声が聞こえた。

 ごめんね。

 私は心の中で謝り、妻が好きだったカーテンを外した。

 痛いよ。

 妻の声だった。

 私にはどうすることも出来ないんだよ。

 写真立ては妻の写真と一緒に捨てた。

 痛いよ。

 痛いよ。

 ごめんよ。

 涙が止まらなくなった。

 私に何が出来るのだろう。

 心の痛みを拭うには、妻との幸福な時間を忘れるしかない。しかし、それを望むほどに、妻の痛みが心に突き刺さってきた。

 私は妻が使っていた化粧品を抱えて、寝室で項垂れていた。化粧水の蓋を開けると、妻の匂いと柔らかな肌が思い出された。

 触れたい。

 思って心が砕けそうになった。

 手放そう。

 そう思ったとき、少し開けていた窓から妻の声が聞こえてきた。

「に、痛いよ」

 私に語りかける優しい声。

「瑠美子なのか」

 私は涙を流しながら立ち上がった。床に化粧品が落ちた。何かが割れて、寝室に妻の匂いが充満する。

「に、いたいよ」

 妻の声。

 私は窓に近寄り、カーテンがなくなった窓を開けた。

「一緒に居たいよ」

 落下していく妻が私を見上げて微笑んでいた。


 ずっと一緒だよ。


 私は妻を追って飛び立った。

 妻が邪悪に笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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