ほれみやんし

 廃村になって五十年は過ぎた。昭和四十六年九月の台風二十九号の大雨で地滑りが発生。早朝に村を呑み込んだ。

 ほぼすべての家屋が泥や倒木に吞まれ、三人が圧殺した。

 林業が支えの集落だった。その木材となる山が甚大な被害を受けた。

 木は、伐採出来るまでに何十年、ものによっては百年以上かかる。

 ここで生きていくことは出来ない。

 台風被害から半月後、集落は県庁に集団離村を通達した。

 すべての村人が離村した。

 押し潰された家はそのままに、家財道具も服もほとんどが残された。

 三年としないうちに集落へと続く道は木々に覆われ、跡形もなくなった。

 墓も放置され、井戸は荒れるに任せられた。

 そして、それは湧いた。

 集落の至るところに鏡があった。

 泥に埋まった畳み部屋の片隅にある鏡台。衣紋掛けの隣で傾いた姿見。玄関には手鏡が落ちていて、洗面台にも鏡がある。

 全部で二十、いや三十はあるだろうか。

 六十年間、誰の姿も映していない鏡たち。

 その中からぬっと顔を覗かせる老婆の顔の片割れ。

 左目だけのときもある。水に沈んだように、顔の半分だけを出しているときもある。横顔で出てくるときもある。

 老婆はあちらの鏡、こちらの鏡の中を移動して、顔を覗かせ、あたりをぐるりと見回す。

 すると廃村に老婆の声が鳴り響く。

「ほれみやんし! ひきさがしおって!(それみたことか、めちゃくちゃにしやがって)」

 そして老婆は鏡の奥に消えていく。

 六十年間、廃村で続く一幕。

 離村して、津市で部屋を借り、新しい生活を始めたひと。彦根市や大津市、大阪や名古屋に向かったひともいる。

 彼らは新しい家、新しい仕事、新しい生活を手に入れた。しかし、そんな環境で、全員が耳にしている。

 老婆の罵るような声。

「ほれみやんし! ひきさがしおって!」

 みな知らない。

 そのとき、部屋の鏡に、怒りに満ちた老婆の顔が映っていることを。

 ほれみやんし!

 ひきさがしおって!

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