逃亡記

 どこまで行けばいいのか、もう、途方に暮れております。逃げても逃げても追い立てられ、つけ回され、振り返ればそう、にやにやと嗤っている。

 わたしが何をしたのでしょう。

 いえ、心当たりが全くない、訳ではございません。

 貧しいだけの寒村でうまれ、物心ついたときからしてきたことは痩せた土を耕すことと、飢えた親兄弟と食いものを奪い合うこと。

 はい、弟が川に足を滑らせて落ちたのも、そういうことでございます。ですがね、父も母もわたしを責めることはなかった。

 そう、口がひとつ減ったのですから、ねえ。

 それなのに、弟が川に流された数ヶ月後には母のお腹が膨らんだのですから、わたしはいったい何のために、あんなにひどいことをしたのでしょうね。

 川に流されながら、わたしのことをじっと見ていた、あの弟の顔だけは一生忘れられません。

 そんな村ですから、力仕事ができる年頃には早々に飛び出しました。

 何才の頃か?

 あはははは。育ちの良い学生様は言うことが面白い。

 あんな村で生まれたもんはね、自分の年齢なんて知りやしません。親も数えてないのですから、わたしに分かるはずがない。

 村を出たと言ったって、わたしみたいなものに行ける所なんてたかが知れてます。

 ええ、山をくだって谷を越え、少しはマシな仕事がありそうな漁師町に転がり込んで。

 ええ、そこでひと通りの悪いことを仕込まれて、鰊も捕らずにやってたことは酒に博打に女に喧嘩と、いつの間にかいっぱしの渡世気取りですよ。

 はい、そのときに買った恨み、なんでしょうかねぇ。とったタマは上下左右の指で数えても足りないんじゃないでしょうか。

 いや、やっぱり川を流れていった弟ですかね。悪さをしていたときに掻っ捌いた奴らの顔なんて覚えておりませんが、ねえ、弟の顔はね、忘れられないんですよ。

 追われている、と気がついたのは、漁港にいられなくなって、その頃、工場で賑わいだしていた富士市に流れ着いたときですねぇ。

 あそこは、綺麗なところだった。ほら、海を背にしてね、富士山を眺めるんですよ。ガキの頃はなんとも思ってなかった富士山が、こんなにも大きくて素晴らしいと思えるなんてねぇ、考えてもいなかった。

 それなに、奴が現れて、わたしを追いかけだした。

 突然でしたよ。

 夜にね、安酒をしこたま飲んで、そうだ、那須原商店の裏手で立ち小便をしてたんです。

 そしたら、ほら、あるでしょ、誰かにじっと見られているってやつが。

 あれを感じたもんだから、なんだよ、人が小便を垂れているところがそんなに面白ぇかとカチンときて、いちもつをね、じっと見て来やがる奴に向けてやったんで。小便でもかけてやろうと思って。

 そしたら、そいつが、でっかい顔をこっちに向けて、ニヤニヤ嗤っていやがった。

 魂消ましてねぇ、小便はとまるはいちもつは縮むは、もう這う這うのていってやつですよ。

 腰が抜けそうになるほど驚いて逃げ出したんですが、あの野郎、ニヤニヤ嗤いながら足音も立てずに追い掛けてきやがる。

 怖くってねぇ、斬ったはったが出来る宿六とならいくらでもやり合えますが、足音も立てねぇ化け物には太刀打ち出来ねぇ。

 その夜からですよ、そいつに付きまとわれるようになったのは。

 ええ、毎晩ですよ、毎晩ヤツはわたしを追い回す。

 昼間はいいんですがね、姿形もねえから。

 夜ですよ、夜になるといつのまにか背後にいやがって、ニヤニヤ嗤ってやがる。

 しかもね、野郎はどんどんと細くなったと思って、もう消えちまうんじゃないかってほど細くなって、ついに消えたと思ったら、また現れて、太くなっていかやがる。

 そのあいだもヤツはね、ニヤニヤ嗤っている。

 怖いんですよ、ええ、学生様、わたしには学もなんにもありゃしねぇから、この世の仕組みが分からねぇ。

 ほら、心霊だとか幽霊だとか、そんなもんがこの世にはあるもんなんですかね。

 なんです、どうして笑うんですか。わたしは嘘なんてついては居ませんよ。本当に毎晩、毎晩ヤツは現れてわたしを笑うんです。

 そう、どこかね、弟の笑顔に似ていやがるんで。

 だから、怖くて仕方がねえんだ。

 わたしはきっと、弟に祟られているんですよ。

 えっ、なんです、そりゃ、なんですか。

 はあ、聞いたこともねえな。

 だから、わたしには学もなにもねぇんで。

 それが弟の霊魂ってやつですかい。

 へっ、オツキサマ。

 馬鹿言っちゃいけねえ。

 わたしを毎晩追い立てているのはお月様なんですかい。

 そんな、そりゃあんまりだ。

 じゃあ、わたしは、どこにも逃げられないじゃないですかぁ!

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