第2話 真実と事実の狭間
しばらくしてから舞香と会うことはなかった。舞香の仕事が忙しいというのもあったのかと思ったが、どうやらそうでもなかったようだ。明日美はそれからも平凡な毎日を過ごしていたのだが、舞香のことを思い出すことはあまりなくなっていた。
今までに知り合った人の中でも印象深い相手だったにも関わらず、なぜ思い出すことがなかったのかということがどういうことなのかと考えていたが、
――また近いうちに出会う――
という思いと、
――彼女とはここまでだったんだ――
という思いとが交差しているようで、その中間をとって、舞香に対しての意識が中和された感覚になっていたのではないだろうか。
明日美は四月になって進級したが、高校までの頃のようにクラスがあるわけでもないので、さほど進級への意識はなかった。それよりもそろそろ就職活動を控えていることを考えると、もう学生気分だけではいられないことへの一抹の寂しさを感じていた。
――結局、友達もできなかったわね――
と思っていたが、そんな時、駅を降りてすぐのところでビラ配りをしている集団を見かけた。
雰囲気は明るいわけではなく、暗い人たちが多かった。いつもであれば、そんな集団を見て見ぬふりをして、なるべく目を合わさないようにしていたのだが、その日はビラを受け取ってしまった。そこに書かれている内容を見ると、明らかに宗教団体。ほとんどの人はビラを受け取ることさえ拒否していて、目を合わせようとしない様子を見ていると、それはまるで普段の自分を見ているようで、複雑な気分だった。
明日美もアルバイトでビラ配りをしたことがないわけではなかった。街頭に立ってのビラやティッシュ配りは何度かある。そのたびに、
――受け取ってもらえるだけでありがたい――
と思っていた。
だが、道行く人のほとんどは、こちらと目を合わせようともしない。それは自分を思い出せば分かることなのだが、その時の心境としては、
――なんて鬱陶しいんだ――
という思いしかなかった。
きっと目を合わせると、露骨に嫌な顔を向けたに違いない。そういう意味では視線を逸らしてくれる方が幾分か気が楽なはずなのに、無視されるという状況が続くと、分かっていることではあっても、胸に痛みを感じる。
――これって何の罰ゲームなのよ――
ただビラやティッシュを配るだけでよく、受け取ってもらおうが無視されようがもらえる時給に変わりはない。そういう意味では決してきついバイトではないのだが、精神的に痛みを感じさせられるというのは困ったものだった。
たまに無意識に受け取ってしまうこともあった。そんな時は何か考え事をしながら歩いているので、何かを差し出されると無意識に受け取ったというだけの条件反射にしかすぎないのだが、相手は歓喜に満ちた表情で、
「ありがとうございます」
と言って、喜んでいた。
ただ、その表情は喜びというよりもホッとしたという安堵の表情だった。やはり彼らにも言い知れぬ精神的な蝕みに得体の知れない寂しさを感じていたところに受け取ってくれる人がいるだけで、救われた気がしてくるのだろう。
――私は受け取ってもらった時、どんな表情になっていたんだろう?
と思い返したが、この人のようにあからさまな喜びを表したという気がしていない。
むしろ、受け取ってもらったことはあったはずなのに、歓喜の気分になったという記憶はない。その一瞬で喜びは消えてしまったのか、それともある時突然に、喜びの意識が消えてしまったのか、それは記憶の奥に封印されたわけではなく、完全消滅に近いものだったような気がする。
この日の明日美は、確かに意識としてはボーっとしていた。何かを考えていたのだろうが、何を考えていたのかすら、すぐに忘れてしまうような精神状態だった。
こんな精神状態に陥ることは短大に入って何度かあった。
高校時代までにもあったのだろうが、意識としては違うものだった。躁鬱症に似ていると思っていたが、実際の躁鬱症と違う気がした。自分が他の人と同じでは嫌だという意識があるからなのかも知れないが、躁鬱症にもいくつかの種類があるような気がして、その中でもかなり薄いところを自分が引き当てたような気がしていたのだ。
――だから、まわりからは私のことを躁鬱症だって思っている人はいないと思うわ――
と感じていた。
それなのに、友達も少なく、一人でいることに対して寂しさを感じるわけではないのに、別の意味での寂しさを感じていた。それは一人を寂しいと感じている他の人の感覚に近いものではあるのだろうが、決して交わることのない交差点のように、お互いに意識が重なることはないと思っていた。
ビラを受け取ったことで喜んでいる人の顔を見ると、
――懐かしいわ――
と感じた。
この人の顔を見て、自分が以前にも同じような感覚に陥ったことを思い出したのか、それとも単純に、かつて似たような表情をしている人をどこかで見たということを懐かしく感じているだけなのかも知れないと思うと、
――そのどちらでもないかも知れない――
という思いもこみ上げてきて、
――私って、やっぱり天邪鬼なんだわ――
という思いにさせられた気がした。
「これは何かの宗教団体なんですか?」
明日美は笑顔を向けている相手に聞いてみた。
「宗教団体と考える人もいるでしょうね。私もそう思っていました」
その人が明日美と同じくらいの年齢の女の子だったこともあって、思わず話しかけてしまった明日美だが、話しかけたことに対して後悔はなかった。だが、相手に答えを求めていたわけではなく、ごまかされたのであれば、それはそれでいい気がした。
――ただの冷やかしだって思えばいいんだわ――
と思うだけのことであって、宗教団体ならその時だけのことで済ませばそれでよかったのだ。
しかし、彼女の回答は、明日美の求めていたものではなく、マジでの返答だった。しかもその返答には、どこか気になるところを残すものであって、冷やかしで聞こうとした自分の気持ちを察したかのような見事な受け答えをされてしまったような気がしていた。
「私もそう思っていたというと、今は違うということなんですか?」
とこれも思わず聞き返してしまった。
このまま何も聞かずに終わらせることは、明日美にとって中途半端で終わってしまいそうで、嫌な気分になっていた。
「ええ、そうですね。宗教団体だと思って、私は半分冷やかしの気分だったんですが、話を聞いてみると、宗教というよりも科学に近いような気がしたんです。確かに宗教団体と言われると、そう見えるかも知れませんが、受け取る人それぞれなんだと思うと、今私がここにいる意義を感じることができるんです」
という彼女の返答はあまりにも曖昧だった。
それだけに、明日美にとっては気になるところだった。自分が期待した答えをまったく返してくれているわけではない彼女の得体の知れない雰囲気に、自分が魅了されているのを感じたからだ。
「よく分からないんですが、ここでビラを配っているのは、いわゆる布教活動だと思ってもいいわけですか?」
と聞くと、
「ビラを見てもらう方がいいかと思います。ここで私が答えてしまうと、余計な先入観を与えてしまうことになるので、その質問には答えないようにしているんですよ」
と彼女は言った。
――じゃあ、最初の回答は許されるということなのかしら?
という疑問を感じたので、
「それは、団体の中の決まりなんですか?」
と聞いてみた。
「そうではありません。私が勝手に思い込んでいるだけです。ただ、最初に私が答えたのは、あくまでもどう感じるかというのは、受け取る人の感覚で違うということを言いたかっただけなんですよ。だから、私の回答に曖昧さを感じたんじゃありませんか?」
と言われてドキッとした。
「まさにその通りですね。だからあなたへの二度目の質問が出てきたわけで、それに対してボカすような回答だったので、少し疑問に思った次第なんですよ」
と明日美は言った。
「そうなんだって私も思いました。だから、必要以上なことを私は言わないということを、分かってもらいたいという気持ちで回答したんですよ」
と彼女は言った。
「よく分かります。私もそんな気持ちで人と接することができれば、もっと友達ができたかも知れないと思っています」
と明日美は言った。
この明日美の回答は、半分本音であり、半分ウソである。
言葉の表面上の気持ちとして本音であろうが、友達ができたかも知れないというところに対して、裏で、
「友達なんかいらない」
と自分に言い聞かせているということを自覚しているにすぎなかったからだ。
「きっと、あなたのような人が、このビラを見ると、何かを感じるんでしょうね。ほとんどの人はビラを見て、宗教団体であるというだけで毛嫌いして、すぐに捨ててしまうに違いないからですね」
という彼女の言葉に虚しさはなかった。
――ビラを配っているのに、それを簡単に捨てられると普通ならショックを感じるだろうに、彼女にはそんな気分は微塵もないようだ――
と明日美は感じていた。
そういえば、明日美がビラ配りをしていた時もそうだった。最初こそ、自分の配ったビラを、見えなくなってから捨てるならまだしも、見えるところで見られているのを分かっていながら、これ見よがしに捨てている人もチラホラいた。
「差し出されると無意識に受け取ってしまうので、こんな私に今度からビラなんて渡さないでね」
と言わんばかりだった。
その時は、相手の気持ちが分かるのだが、いちいち一人一人の顔など覚えているわけもない。しかも、数人が並んでビラを渡しているので、私が渡すとは限らない。相手はそんなことを分かっているのかいないのか、自分の感情を表に出しているだけだった。
もちろん、相手がどんな気分になるかなどおかまいなし、しょせんは自分だけがよければそれでいいのだ。
――世の中なんてそんなものよ――
明日美は半分、世の中に諦めかけていた。
気を遣って人のためにしている人がいるのを時々見る。
しかし、気を遣われて喜ぶ人もいれば、気を遣われたことすら気付かない人もいる。そんな人は本当に気付いていないのだ。
人に気を遣う人に限って、相手も自分と同じような性格の人ばかりだと思いがちなのではないだろうか?
だから気を遣ってあげた相手が、それに気付かなかったり、気付いていても無視したりすると、
「せっかく気を遣ってあげたのに」
と露骨に嫌な顔をしたり、言葉に出して感情を表に出したりする。
そんな姿を見ていると、
――人に気なんか遣うからそんな嫌な気分になるのよ――
と感じ、さらに
――しかも、それを表に発散させるから、他の人まで嫌な気分にさせられる――
と感じる、
そんな人を見て明日美は、
――偽善者だ――
と感じる。
偽善者という言葉、ほとんどの人が嫌なイメージとして使っていることだろう。しかし、そんな人の中にも同じ偽善者と呼ばれるような人も少なくはないだろう。それだけ人に気を遣うことを美学のように感じ、見返りを当然のように求めようとしている人がいるという証拠である。
明日美は、この時、
――相手が宗教であっても宗教でなくても別に関係ない――
といつもだったら思うのだろうが、この日は少し違っていた。
――宗教であってほしい――
と思っていたのだ。
それは相手の人に話しかけて、相手が曖昧ではあったが回答してくれたことで感じたことだ。
――今まで感じた宗教団体とは少し違っていることを私は期待しているのかも知れない――
と明日美は感じていた。
明日美は自分の親が宗教団体を毛嫌いしていることを知っていた。特に父親の毛嫌いの度合いは激しく、どちらかというと母親はさほど宗教団体に対して毛嫌いをしているという雰囲気ではない。あまりにも父親の毛嫌いの激しさから、逆に擁護したいような雰囲気も見られたが、それも父親の毛嫌いの激しさに打ち消されているようで、母親の性格も手伝ってか、何も言えなくなっていた。
意思表示のハッキリしている父親と、意思表示がまともにできない母親、そんな雰囲気が明日美の家族のイメージだった。明日美はどちらに似たのか、自分から意思表示をすることはない。両親の性格をそれぞれ受け継いでいるのだろうが、いいところを受け継いだという意識は本人にはない。悪いところばかりを受け継いでしまったことに明日美は苛立ちを感じ、その感覚が時として、
――親のようにはなりたくない――
と感じさせるのだった。
それがひいては、
――人と同じでは嫌だ――
という拡大解釈に走っているのではないかと思わせ、明日美にとって自分と他人との違いに大きな結界を感じるのだった。
父親が宗教団体を毛嫌いしているというのは、小学生の頃に初めて感じた。当時住んでいた団地の集合ポストに、当たり前のように入っていたいろいろな広告の中に、宗教団体の勧誘が入っていた。そのことをクラスの人に話すと、
「何それ。そんなの入ってなかったわよ」
と、簡単にあしらわれたが、どうやら、一軒家のポストには入れていないようだった。
単純に、
――団地のポストに入れる方が簡単だから――
と小学生の頭で考えていたが、そこに理由があるということを考えていなかった。
中学くらいになると、
「一軒家に住んでいる人より団地に住んでいる人の方が貧しいので、入信する人が多いのではないか」
と考えるようになったが、それも正解ではない。
「一軒家の方が、皆それぞれに独立しているので、孤独や寂しさを感じている人が多いだろうから、入信する人が多いとも考えられる」
とも言える。
どうして団地のポスティングだけだったのかという理由は結局分からなかったが、そのうちにポスティングもなくなった。ポスティングに対する効果が見られないことでやめてしまったのか、それとも住民の訴えから、警察より警告が入ったのか分からないが、ポスティングは本当に一時的なものでしかなかったのだ。
今となってみれば、宗教団体のポスティングなど普通では考えられないという印象で、その時の宗教団体は結局、
――大した団体でもなかったんだ――
と思わせた。
実際にその団体の名前をそれ以降聞くことはなかった。自然消滅したのではないかと思うほどであった。
「しょせん、こんな団体、長続きなんかしないさ」
とポスティングの段階から父親はそう言っていた。
そういえば、街でビラを配っている団体に対して露骨に見せる毛嫌いの表情に対して、ポスティングの団体に対しては、そこまで露骨な雰囲気はなかった。
――相手が見えないからかな?
と思っていたが、その感覚は半分外れてはいたが、半分当たっていたのだった。
ただ、その宗教団体は実際につぶれたわけではなかった。どうやら空中分解したようで、一部はつぶれてしまったようだが、一つだけがかろうじて生き残っていた。
もちろん、元々の団体と名前が違っているので、生き残った団体があの時のポスティングの団体であるということを知っている人は稀だったに違いない。
人数的には数人しかいないようだった。
十人にも満たない団体では、布教活動などほとんどできるはずもなく、密かな活動を余儀なくされていた。
しかし、宗教団体としての規模が次第に小さくなっていくことは、社会的にも許されることではない。一応団体として存在している以上、一定の大きさを保っていないと存在できないのが、今の社会だった、彼らの運命は、このまま自然消滅していくか、あるいは、もう少し大きな宗教団体と合併するか、大きな団体に吸収合併されるかのどれかでしかなかった。
それまでの経緯に関して細かいことはよく分からなかったが、一番可能性として考えられる最後の吸収合併の道をやはり彼らは歩むことになった。
結構大きな宗教団体に吸収されることで、それまで密かにやっていた存在を彼らは自分で打ち消すことになったのだ。
小規模な団体となった瞬間から、彼らには感情や感覚というのが欠落していた。彼ら自身が救われなければならない存在であり、宗教団体としての機能はおろか、彼ら自身、一種の難破船のごとくであり、救済される立場だったのだ。
そんな彼らに救いの手を差し伸べた宗教団体を彼らは受け入れ、救済の手が伸びたということで、さらに宗教団体というものが今まで自分たちが考えていたものと違うという意識が芽生えた。
それは初めて宗教団体に入信した時の感覚がまるで前世での出来事のように、今の世界で感じたことではないと思わせ、今までの自分たちお人生にどのような影響を与えてきたのか、いまさらながらに考えさせられていた。
彼らは吸収されたという意識よりも、
――救済された――
という意識の方が強く心の中に根付いたようだった。
そんな彼らは団体に対して従順だった。
新しく入信してきた人たちと自分たちは明らかに違うという意識を強く持ち、彼らとの違いと鮮明に感じていた。
その思いが普通に入信してきた人たちから毛嫌いされるようになっていた。
実は明日美の父親は、そんな彼らの中にいた。
ただ、家族に自分が宗教団体に身を投じているということを感じさせないようにするために、わざと宗教団体を毛嫌いしている素振りを見せていたので、いまさら宗教団体の布教活動を行うことは許されなかった。
そういう意味では、他の団体に吸収合併されたことを複雑な思いで感じていたのは、明日美の父親だけだったのかも知れない。
他の人は新たな団体に所属することで、
「朱に交われば赤くなる」
という状況を甘んじて受けとめようとしていたが、父親には許せないことだった。
そもそも父親が入信したのも、
――他の連中と同じでは嫌だ――
という意識を強く持っていたので、仕事仲間とも一線を画し、実は結婚前に付き合っていた女性たちとも一線を画すようにしていたのだ。
そんな父親の様子を、他の人と同じように比較することもなく眺めていた女性が母親だったのだ。
母親は生まれつき、人に逆らうことをしない人だったのだ。少し天然なところもあったので、他の人に対してはものすごい人見知りの状態だったのだが、父親に対してだけは違っていた。
自分から会話をする方だったのだが、態度としては、完全に三行半の状態だった。父親はそんな母親を好きになった。
――この人は、俺に対してだけ態度が違う、そして、そんな俺に対してだけ従順なんだ――
と感じていた。
父親はきっとそんな女性を求めていたのかも知れない。
母親と付き合い始めるまでには何人かの女性と付き合ったことのある父だったが、最初はいい雰囲気でも、急に別れがやってきていた。
「あなたといると、全然楽しくないの」
と、いつも判で押したようなセリフで別れを告げられた。
父親は自分から相手を嫌になることはなかった。
――せっかく好きになってもらったんだから――
というのが父親の考えで、
――好きになってもらった相手を嫌になるなんて、そんなもったいないことできるはずもない――
と思っていた。
この感覚自体が、そもそもずれているのだ。好きになってくれたということを履き違えている。そこには自分が好きになるという言葉は出てこない。あくまでも相手中心の考え方で、それが相手に分かってしまうことで、相手からすれば、
「楽しくない」
という言葉で言い表されるのだろう。
別れを言い出す方も、どう言って別れを切り出すかということに悩むはずである。しかし父親に対して誰もが感じる感覚をいとも簡単に感じることができる。これほど別れに際して簡単な相手もいなかったことだろう。
だから、いつも同じセリフで別れを告げられる。その理由について父親はまったく見当もつくはずなかったのだ。
父親もそれなりに悩んだはずだ。しかし、悩んでも答えなど出るはずもなく、結局どう解釈していいか分からず、一人で悶々と考え込んでいた。
考えは堂々巡りを繰り返し、そのうち、
――堂々巡りを繰り返しているうちに、答えが生まれてくるんだ――
という少し歪な答えで、自分を納得させることになった。
その考えが、どこでどうなったのか、宗教団体への入信という形になった。
そのうちに団体は分裂に瀕し、孤立した活動を余儀なくされた。
父親は、
――これこそ、自分らしい――
と感じるようになり、そんな自分の本性を誰にも見破られたくないという思いが強くなっていた。
そのために家族の前では、露骨に宗教団体を毛嫌いするようになり、まわりに自分の考えに対して大きな結界を見せつけるようになった。
だが、本人は結界を人に悟らせているつもりはなかった。ただ毛嫌いをすることで、自分が宗教団体とは縁遠い存在であるということを示せればそれだけでよかったのだ。
そんな父親の気持ちとは裏腹に、明日美は父親に対して反抗的な気持ちが芽生え、黙っている母親に対しても毛嫌いをするようになった。
父親の露骨さを見るたびに、
――人に気を遣うなんて、無駄な労力だ――
と思うようになっていた。
露骨さというのは、明日美には嫌ではなかった。むしろ、隠そうとする方が明日美はわざとらしさを感じ、嫌だった。
宗教団体というものに対して毛嫌いしている父親をまともに見てしまったことで、父親に対して、ひいてはまわりに対して、
――気を遣うなんて損をするだけのことだ――
と感じていた。
だが、明日美は舞香と知り合って、舞香が父親に対して何も感じていないという雰囲気に興味を持った。
――父親なんて――
と舞香も感じているのだろうと思ったが、そこには明日美が感じる自分の父親への思いと同じなのか違うものなのか、本当は分かりたいと思っていたのだが、分かってしまうと、舞香と一緒にいる時間が極端に減ってしまいそうで、それも嫌だった。
明日美はある日の帰り、ビラ配りの宗教団体を見かけた。それまでにビラ配りの宗教団体をあまり見かけることがなかったのに、久々に見ると宗教団体に対して毛嫌いをしていた自分を思い出していた。
それと同時に思い出す自分の父親のイメージがよみがえってくると、自分の中でデジャブを感じるのだった。
その感覚を感じたのがいつのことだったのか、ほとんど分かっていない。舞香と出会う前だったのか、出会ってからのことだったのかという基準も分からない。ただ、最初に感じた基準は、舞香との出会いだったのが自分の中では気になっていた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
その雰囲気は、宗教団体を思わせるものではなかった。
宗教団体というと、もっと密かなもので、後ろめたさを感じさせる雰囲気があり、
――謙虚さを売りにでもしているのか?
と感じさせるものだったのに、そのビラ配りには後ろめたさは感じられなかった。
むしろ、元気さを感じさせるもので、
「もらいたくなければ、それでもいいのよ」
と言っているかのようにも見えた。
――上から目線を、まさか宗教団体に感じるなんて――
それが彼らの開き直りに感じさせられたが、不思議と嫌な気分はしなかった。
――ここまで堂々とされると、納得できる気がするわ――
と感じたが、その意識としては、
――堂々巡りって、堂々としているから巡っていても、簡単に忘れることができないのかも知れないわ――
堂々巡りをあまりいいイメージに捉えていなかった明日美だったが、堂々としている開き直りと考えると、悪いイメージだけだとは言えないような気がしたのだった。
ビラを配っているだけなのに、いろいろ考えさせられるのは、相手の術中に嵌っていることになりそうなのに、明日美に警戒心はなかった。
明日美は自分がビラ配りをしているところを想像してみた。もし、知り合いに会ったりすると恥ずかしいという気分になると感じた記憶は残っているが、それは自分がまだアルバイトを初めてすぐだったということで、それも仕方のないことだと思っていた。
明日美は、そのビラを手にして中を見てみた。
宗教団体であるとずっと思っていたが、その内容はなるべく宗教団体であるということをひた隠しに隠しているかのように見えて、それが情けなく感じられた。
――さっき、開き直りを感じたのに――
と思うと、ビラを配っている人が気の毒に感じられた。
――あんなに頑張っているのに、その内容は彼らの努力を否定しているようで、何とも言えない気分になってくるわ――
団体とその中の個人ということになると、そういう関係も仕方のないことなのかも知れないが、宗教団体においては、仕方がないでは済まされないような気がした。せっかく団体を信じて入信してきた人たちの気持ちをどのように考えているというのか、明日美は彼らに対しての同情をあらわにしている自分を感じていた。
団体の活動を気にしていた時間は、それほど長いものではないと思っていたが、気が付けば結構な時間が経っていた。時計を見るまで分からなかったが、そろそろ三十分が過ぎようとしていた。
明日美はそれほど気の長い方ではない。むしろ気が短い方で、飽きっぽい性格も、気の短さから来ているのだと思っていた。
ただ、この気の短さは明日美が自分の中でも嫌いな性格の一つだった。それは気の短いということが悪い性格だということよりも、父親を見ていて、気の短さしか感じなかったからだ。
いつもイライラしているように見えた。特に母親に対しては、自分の方が絶対的な立場を有しているようだった。何があっても母親よりも自分が優位に立っている。その様子を見ながら明日美は苛立ちを覚えていたが、当の本人である母親はそのことを甘んじて受け入れているように思え、それも苛立ちの一つとなっていた。
――どうして抗おうとはしないのかしら?
不思議で仕方がなかった。
何かを守ろうとしているのであれば分かるが、何を守ろうとしているのだろう?
母親が必死になっているところを見たことがない。何をされても抗うこともなく、嵐が通り過ぎるのを待っているだけにしか見えなかった。あくまでも受動的なその態度に、いつも明日美は、
――いったい、何を考えているんだろう?
としか思えなかった。
ただ、父親は明日美に対して苛立つことは何もなかった。苛立っているのは母親に対してだけなのに、明日美はいつも自分にも父親が苛立っているかのようにしか感じることができなかった。
明日美は、そのことに最近気が付いた。そして、その理由がどこから来るのかをずっと考えていたが、考えがまとまるにもそんなに時間が掛かったわけではなかった。
――私は被害妄想なんだわ――
理論立てて考えればすぐに分かることではないかと思った。
被害妄想というのは、意外と自分では気づかないものだということを分かっていたような気がする。気が付いてから感じたことなので、被害妄想というのは、やはり受動的な考え方の人がなりやすいものだとも言える。そんな明日美にとって母親は、
――自分を映す鏡――
として写っていた。
ただ、明日美は基本的に母親が好きではなかった。それは自分が被害妄想だと感じるようになって、余計に深くなったものであり、決定的になるのも時間の問題ではないだろうか。
――お母さんがどうしてお父さんに逆らえないのかが分からない。分からないはずの私がどうしてそんな母親と鏡を通して感じる相手であるというのだろう?
そこに矛盾を感じた。
矛盾というのは、自分で認めていることを自分で納得できないということなのかも知れない。逆もあることで、自分で納得できるくせに、認めることができないというのも矛盾だと言えるだろう。
この二つは紙一重とも言える。見方によっては、そのどちらとも言えることも往々にしてあるのかも知れない。
――どちらが多いのだろう?
と考えた時、明日美の中では、納得できることを自分で認めたくないと感じる方が多いような気がした。
母親に対しても本当はそうなのかも知れないと思ったが、それは、自分が認めたことに対して納得できないと考える方が、矛盾というものを正面から考えた場合に出てくる考え方として安易な場合が多いと考えられるからだった。
「長所と短所は紙一重」
と言われ、その紙一重というのは、
「背中合わせだ」
という言葉に言い換えることができる。
矛盾に対しても同じことが言えるのではないだろうか。
考え方の発展性にまったく逆の方向から考えるという発想に、紙一重であったり、背中合わせであったりする考え方は、長所と短所のように、何かの比較対象がなければ成立しないと思える。
矛盾というのも、言葉通り、矛であったり、盾であったりするものが存在している。それが自分に対して納得するということであり、自分が認めるという考え方であったりと、形として形成されていないものであっても、ありえるという当たり前のことに気が付くのは、その時の精神状態によるものなのか、それともその人の持って生まれた感性によって、決まった瞬間が待っているということなのか、明日美はいろいろと考えてみた。
ただ、明日美はその相手を母親に見出したくない。そう思うことで自分に矛盾を感じたという事実を認めたくない自分もいる。そう思うと父親がいつも苛立っていた理由もなんとなく分かってきた気がした。
――お父さんも、矛盾を感じていて、それを発散させる場所がなかっただけのことなのではないか?
と感じた。
家族の長として怒りの矛を収めなければいけない立場だったのだが、八つ当たりにしか見えない自分に父親はどう感じていたのだろう?
娘から、
「なんて、ひどい父親なんだ」
と思われていることは重々承知なのだろう。
そう思いながらも母親に怒りをぶつけるのは、他ならぬ娘である自分に怒りをぶつけないようにしているという証拠なのだろう。
明日美はそう思うと、今では父親に対して怒りを感じることはなくなった。しかし、今までの思いから、急に父親への思いを変えてしまうことは怖かった。
せっかく父親が母親への怒りの矛先を、母親本人に向けようとしてくれていることに気付かせないようにしようとしている態度を考えると、急に態度を変えるのはよくないことだと思ったのだ。
家での態度を変えることをしてはいけないと思うと、明日美はあまり家にいたくないという思いが強くなった。
――どうにもうまく噛み合っていない状態だと、一歩下がって全体を見つめなければいけないのかも知れないわ――
と感じたこともその思いに拍車をかけた。
明日美は、宗教団体が行っているビラ配りを見ながら、そこに父親がいるのではないかという、ありえない想像をしている自分に気が付いた。
――ありえないことほど、想像してみると楽しいことはない――
まったく表情を変えることなく、ただビラを配っているだけの父親は、本当に面白くないような顔をしていた。
それはまるで洗脳されている人が、何も考えることなく、言われるがままで行動していることを示している。
――それこそお父さんらしいわ――
と明日美は考えていた。
そんなイメージをありえないと言いながら、まったく違和感なく想像できるのも、一種の矛盾に違いない。
矛盾についてもいろいろ考えてみた。
学校で習う学問の中にもいろいろな矛盾が隠されているような気がしていた。数学などは問題に対して、回答が必ず一つはあるものだとして納得しているが、
――そういえば、中学の時に先生から、「解なし」というものが存在するという話を聞いたことがあったわ――
というのを思い出した。
その時は別に不思議にも思っていなかったが、問題があって必ず一つ以上の回答があるという数学に、解なしなどという発想が存在するというのは、今考えれば、それこそが矛盾と言えるのではないだろうか。
またもう一つの考え方として頭に思い浮かんだのは、
「メビウスの輪」
というものだった。
それは異次元への入り口のように言われているもので、一本の帯の中央に、一つの直線を引いて、その線を捻じることで重なるはずのない直線が重なるというものだったように思う。それこそが矛盾というものだ。
また明日美の考えたこととして、
「鏡に映した姿」
というものを想像してみた。
鏡に写った姿は、左右対称であるというのは誰もが把握している事実である。そのことに対して異議を唱える人は誰もいないだろう。
しかし、
「なぜ、上下が対称ではないのだろうか?」
ということに疑問を呈する人はそうはいない。
「言われてみれば、確かにその通りだ」
と思うのだろうが、最初から疑問として頭に描く人はなかなかいないだろう。
それについては学説としては定説があるように聞いたことがあったが、そう簡単に理解できるものなのかよく分からない。
今こうやって考えているから分かる気がするのかも知れないが、他のことを考えたり、考えることをやめたりすると、その思いは急に冷めてしまって、もはや思い出すこともなかなか難しくなるのではないかと思えてきた。
そういう意味で、似たような発想として矛盾というか、不思議に感じることもあった。それは鏡に写った左右対称に上下対称という発想よりも、生活に密着したものではないので、なかなか気付くことはないだろう。
しかし、こっちの方がキチンとした学説として成り立っていることを明日美は、学校で先生から聞いたことがあった。
あれは高校の時だっただろうか。それを教えてくれたのは数学の先生でも科学の先生でもなく、美術の先生だった。それは、美術的なビジュアルに訴えることで確認できることであり、芸術家ならではの発想ではないだろうか。
「皆さんはサッチャー効果という言葉を聞いたことがありますか?」
と先生が言った。
その先生は女性の先生で、時々急に不可思議な話をする人だった。
その時は誰も頷く人はいなかったが、実際に知っている人もいるようだった。先生はそのことを分かっていて、敢えて触れようとしなかったが、その言葉に興味を持った生徒は明日美だけではなかったようだ。
先生が続けた。
「サッチャー効果というのは、正面から見た絵と、逆さにして見た絵で、まったく違った絵になるものを言います。左右から女性が覗き込んでいる絵を逆さから見ると、花瓶のように見える絵を皆さんの中で見たことがある人もいるかも知れません。錯覚の一瞬なんでしょうけど、人間には錯覚を受け入れるという柔軟な目を持っているということを忘れないようにしてくださいね」
と言っていた。
その時に質問した人がいて、少し詳しく話が進んだのを覚えているが、それがどんな内容だったのかまで覚えていない。
「サッチャー効果というのは、なるほど、人間の錯覚が生み出したものなんでしょうけど、それは考え方にも言えることなんだって先生は思っています。人は矛盾というものを誰もが抱えていて、それをどこかで納得させたいと思っているんでしょうね。でもそれを納得させてしまうと自分の考えが何か一つに凝り固まってしまうという疑念を抱いている。だからなるべくなら、矛盾は矛盾として残しておくような習性があると私は思うんです」
という先生の話に、
「それは一般的に言われていることですか? それとも先生の意見?」
と質問した人がいた。
「先生の意見です。だから、信じる必要はありませんが、一つの考え方として覚えておくのはいいことだって思うんです。何を信じるかということではなく、人それぞれにいろいろな考え方があるということを覚えておいてほしいと思っているからですね」
というと、質問した生徒は、
「分かりました」
と言って、すぐに引き下がった。
矛盾というものがどういうものなのか考え方もいろいろだが、家族に対して、そして自分自身に対しての矛盾を感じていた明日美は、ビラ配りを見ながら、矛盾について考えている自分の時間がマヒしているのを感じていた。
時間のマヒを感じていると、子供の頃にも同じような感覚があったのを思い出していた。子供の頃と言っても、記憶があいまいで、本当にいつのことだったのか、定かではなかった。
あれは確か、友達とかくれんぼをしている時のことではなかったか。子供の頃はお転婆で、男の子と一緒に遊ぶことも少なくなかった。男の子と遊ばなくなったのは小学生の五年生になってからのことだったので、その頃に何かがあったという意識はあったが、それがこの時の記憶だったのだということにずっと気付かないでいたのだ。
かくれんぼをしている時、鬼になることが多かった明日美だったが、その日は五人の友達とかくれんぼをしていた。いつもは四人だったのだが、その日は珍しく五人となったわけだが、その一人は普段は遊びに参加することはなく、いつも誘っても、
「今日は塾なんだ」
と言って、申し訳なさそうにしていた子だったのだで、いつの間にか誰も誘うこともなく、彼を誘うという意識すらなくなっていた。
だが、その日は信じられないことに、
「僕も誘ってくれないかな?」
と、彼本人から言ってきた。
ビックリした他の四人と明日美は、断る理由などあるはずもなく、
「もちろんだよ。皆で楽しもう」
と言って、彼を快く受け入れた。
かくれんぼはいつものように始まって、いつものように明日美が鬼となった。
「また、私が鬼なのね」
と明日美が呟いたが、いつものことなので誰も無表情だった。
しかし、その日初めて参加した男の子は無邪気に笑っていたのだが、その表情が本当に新鮮で、明日美はその時の彼の表情を忘れられない気分になっていた。
かくれんぼはいつものように始まった。
「もう、いいかい?」
明日美の声だけが公園の中で響いた。
いつもであれば、他の子供たちも数人はいるのに、その日は珍しく誰もいなかった。明日美の声が響くのも当たり前のことで、最初は意識していなかったが、声の響きを意識していたということは後になって思い出した。
明日美はいつものように、一人一人と隠れている人を探していった。
「見―つけた」
と言って、どんどん見つけていく。
それはまるでいつものことのように、見つけた相手はすごすごと出てきて、ニッコリと笑って、降参したようだった。
――後一人だわ――
と明日美は、三人目を見つけた時、いつものように感じた。
もう一人も特徴は分かっている。
――きっとあそこにいるわ――
と思って探しに行くと、
「見つけた」
とこれもいつものように、
「見つかった」
と言って出てきた友達を見た時、
「さあ、これで全員見つけたわよ」
と明日美が完全宣言をしたのだが、それに対して誰も意義を申し立てなかった。
そのことが後になって明日美に不思議な感覚を植え付けることになったのだが、その時は本当に誰も違和感を感じることはなかったのだ。
誰か一人でも、
「もう一人いるわよ」
とその時に言っていれば、明日美は今の呪縛に囚われることはなかったかも知れない。
明日美たちは、全員が見つかると、時間的にも日が沈む時間になるので、誰彼ともなくお開きになるというのが日課だった。
その日も、
「それじゃあね」
と誰が言い出したのか、いつものその言葉に先導されるかのように、
「またね」
と言って、皆がそこでバラバラに帰って行ったのだ。
考えてみれば、かくれんぼが終わってから急にお開きになるというのもおかしなもので、誰も疑問を呈することもなく、その場を去っていく。
「もう少し遊んで行こうよ」
と誰か一人でも言い出せば、
「そうだね、今度は何をしようか?」
という会話になったであろう。
それなのに、誰も何も言わずにお開きになるということは、友達同士で遊ぶということよりも、決まったメンバーで決まった遊びをするというだけの毎日恒例の時間をこなしているだけだということであった。
そんな中に楽しさなんかあったのだろうか?
明日美本人は楽しかったように思う。逆に少しでもパターンが違っていれば、ここまで長続きしなかったのではないかと思うほどだった。
もし、あの時何か事件がなければ、もっと遊びは続いていたような気がする。それだけ毎日の日課に違和感がなく、永遠に続くものだと思っていたのではないだろうか。
その事件とは、毎日の日課に入り込んだその友達のことが原因だった。
家に帰って普通に晩御飯を食べていた明日美はまったく気付かなかったのだが、親がどこかとずっと電話をしていた。
「ええ、うちには来ていませんよ」
であったり、
「見かけていませんね」
という声がちらほらと聞こえた。
明日美の母親も、その時明日美に何も聞かなかったので、明日美もそれが一緒に遊んだ友達であるということに気付かなかった。
次の日になって、いよいよ事態は深刻さを増してきた。何しろ、その日になってもその友達が帰ってこなかったわけだから、それも当然であろう。
警察も出動し、学校の先生も父兄たちも、それぞれ捜索に参加していた。知らなかったのは子供たちだけだったのだが、さすがに一晩発見されなかったことで、各家庭でその友達のことを自分の子供に聞くということになった。
「ああ、それなら昨日一緒にかくれんぼをしたよ」
他の友達は平然と言ってのけた。
「それからどうしたの?」
親もさほど緊張感もなく聞いてきた。まさか自分の子供が関わっているなど思ってもいなかったからだろう。
「別に何もないよ」
実はその時になって、その友達も異変に気付かなかった自分が怖くなったようだ。
だから、さすがに、
「昨日、最後にはいなかった」
とは言えなかった。
後ろめたさを抱えたまま、いつもの五人はそれぞれに恐怖を感じていたが、それもすぐに解消された。
「見つかったぞ」
その日の午前中に、友達が見つかったと連絡があった。
「どこにいたんだい?」
誰かの親が聞くと、警官は、
「公園の奥にある廃品物置き場の中の冷蔵庫にいたみたいです。最初は閉じ込められたような感じになったようなんですが、すぐに開いたみたいで、本人にはまったくケガもありません」
と報告された。
明日美はそれを聞いて、ホッと胸を撫で下ろしたが、よくよく考えてみると、
――もし私が閉じ込められたら、どんな気分になるだろう?
と感じた。
彼が閉じ込められていた時間がどれほどのものかハッキリとは分からなかったが、
――私だったら、三十分でも恐ろしくて耐えられなかったかも知れないわ――
と感じた。
他の友達も同じようなことを言っていた。
「俺なら、耐えられないよな」
と口々に呟いていたが、すぐにその会話も続かなくなり、次第に気まずくなってくるのを嫌がっているのが分かってきた。
一人一人気まずい雰囲気になっているのが分かったのか、この話をタブーにしようと思ったようだ。それが暗黙の了解となり、今でも皆の心のトラウマになっているだろうと明日美は思っていた。
その時の友達は、それから少しして転校していった。転校の理由は、
「家庭の事情」
ということだったが、本当だろうか・
明日美たちは安心してホッとした気分になっていたが、本音としては、永遠にその時の真相が分かることはないということを、
――中途半端な気分に終わってしまいそうで嫌だ――
という気持ちにさせられることを嫌ってもいた。
明日美は、その時のことを時々思い出す。
――どうして、あの時、誰も何も言わなかったんだろう?
明日美は完全に友達が一人増えていたことを忘れていた。
自分一人がそうだったら分かることだが、他に四人もいて、誰も気付かなかったということが怖い。もし、あの時、気付かれないのが自分だったらと思うと、恐ろしさは背筋を汗でぐっしょりと濡らしていた。
――友達って何なのかしら?
と考えたが、それよりも、
――人の意識って、何なんだろう?
という思いの方が強かった。
確かに毎日のマンネリ化が招いたことだったのだろうが、それが自分に何をもたらすというのだろうか?
マンネリ化が悪いとでもいうのだろうか? もしそうであれば、今もマンネリ化の中にいるが、それが一番平和で、違和感なく過ごせる毎日を保てることが今の自分にとって一何の幸せだと思っている。
ただ、それはこの時のトラウマを忘れてしまっているから感じることだ。明日美は自分が、
――都合の悪いことはいつも忘れようとしている――
ということを分かっているように思っている。
それも、無意識のうちなので、確信犯であることは分かっている。だが、それが悪いことなのかと言われればそんなことはない。だが、あの時友達のことに気付かなかったのは、この無意識という意識が作用しているように思えてならない。
――でも、あれは私だけのせいじゃない――
それが明日美にとっての救いだと思っていたが、考えてみれば、人のせいにしてしまう自分を増長させているだけで、言い訳にしかなっていないことを証明しているだけだった。
明日美がもう一つ気になっているのは、
――友達がいなくなってしまったことに気付かなかったというのは、本当のことだろうか?
という思いだった。
確かに、
――おかしいな――
という意識はあったが、それはまわりの雰囲気の異様さに対してだけで、それが自分にかかわってきているなど、想像もできなかった。
それが自分を擁護する感情から来ているものだったのかどうか、今となっては分からない。自分を擁護している感覚だったとすれば、その時にいた全員が共犯である。そう思うと、あの時の皆は、何か見えない力に動かされ、誰も気付かないようにさせられていたのではないかと思わせるものを感じた。
――何か見えない力?
考えられるとすれば、行方不明になった友達本人でしかありえない。
「僕も誘ってくれないかな?」
と言い出したのは本人だった。
明日美も友達も自分たちのことだけを考えていたが、当の本人がどう考えているかなど、後になっても考えたことがなかったではないか。
――あの時の彼は、どうしていたんだろう?
見つかったという話を聞いたが、彼がどうしてそんなところにいたのかであったり、それまで誰も探しに来なかったことへの話はまったく漏れ聞こえてくるものではなかった。
――それではあまりにも中途半端じゃないかしら?
ただ、その思いがあったから、明日美や友達もなるべくあの時のことを思い出さないようにしようと思えたのかも知れない。
――あれは忘れなければいけない過去なんだ――
まわり皆がそう思っていたのだとすれば、やはり何か見えない力が働いていたように思えてならないだろう。
「もう、あの話は誰もしないように」
と誰かが言ったのかも知れないが、暗黙の了解のように、話題はタブーとされてしまっていた。
ただこの話はここで終わるわけではなかった。
あれは高校になってからのことだっただろうか? ある同窓会での出来事だった。それまでこの話題はタブーとされてきたはずだったのに、その同窓会で一人がこの話を持ち出したことで、急転直下、それまでの定説に翳りが見えた気がした。
もっとも、その話にどこまでの信憑性があったのか分からないので、明日美も同窓会の時は自分でも恐怖に震えあがるような気分にさせられたが、同窓会が終わるとその気分の高揚も次第に萎んできて、今ではそんな話があったということすら、たまに思い出す程度だった。
ただ、たまに思い出した時はさすがにその時の高揚がよみがえってきて寒気を感じるほどなのだが、すぐに冷めてしまい、またしばらく思い出すことはなくなってしまう。
まさに、
――熱しやすく冷めやすい話題――
というべきであろう。
その話題を持ち出したのは、小学生の頃、一番目立たない静かな少年だった人だ。小学生の頃も、彼を誘う自分たちがいなければ、誰も誘う人間などいるはずがないと、まわりは皆暗黙の了解のように感じていたに違いない。
そんな彼は高校生になったら、まったく違う男性に変わっていた。おしゃれや身のこなしなど、他の男の子に見劣りしないほどになっていて、
「あいつ、結構女の子にモテるらしいぞ」
と耳打ちする人がいたが、その雰囲気を見ている限り、信憑性はかなり高いものだった。
かくれんぼをしていた連中は、あの時のトラウマからか、誰も話をしようとは思っていなかった。それなのに、自分から声を掛けていたのは、小学生の頃には一番暗かった少年だったのには、ビックリさせられた。
「あの頃は楽しかったよな」
彼だってトラウマになるような出来事があったのは分かっているはずなのに、何をズケズケと憚りもなく話をしようとしているのか、明日美は理解に苦しんだ。
話しかけられた方も困惑して、
「あ、ああ、そうだよな」
と曖昧な返事しかできずに困っていた。
そこにもう一人が偶然通りかかり、
「君も一緒に僕と遊んでくれたよね。感謝しているんだよ」
と言って、話しかけた。
それは明らかに話の輪に巻き込もうという意図があったに違いない。
明日美は見て見ぬふりをしようと思っていたが、彼の様子を見ているうちにそんなことができなくなる自分を感じていた。
ただ、同じことを思っている人は他にもいたようで、
「お前は随分変わってしまったな」
と皮肉を込めて話しかけた人がいたが、彼は子供の頃、このグループのリーダー格の人間で、
――彼なら私と同じ気持ちに違いないわ――
と感じていた。
ただ、彼の言葉には明らかに挑戦的な部分が含まれていた。そこが男子と女子の違いなのかとも思ったが、意外と女性の方がハッキリとものをいう人もいて、一概には言えない気がした。だが、明日美はハッキリとものを言うタイプではない。やはりここは彼に任せておくのが一番ではないかと感じた。
「ああ、そうだな。小学生の頃の僕は、結構暗かったからね。でも、今は自分の意見をハッキリということに目覚めたので、そのおかげか、それまでは考えられなかった輪の中心に立つこともできるし、おかげさまで女の子にもモテるようになったよ」
その言葉を額面通りに受け取れば、これほど自尊心の強い男もいないだろう。だが、明日美には彼の言葉にはどこか打算的なところがあり、本心からそう言っているのではないという思いが頭を掠めた。そこに信憑性があるわけではない。あくまでも明日美の直観である。
だが、元々リーダー格の男の子にはその打算がどれほど伝わったのか、彼は露骨な態度の相手を前にして、完全に戦闘態勢に入っていた。
「それはよかったじゃないか。お前がそんなに積極的な男だったとは思ってもいなかったよ。小学生の時にはネコをかぶっていたのかな?」
完全に上から目線である。
「そうだね、そう思われるのは仕方のないことだけど、あの時の僕がネコをかぶっていたのかどうかすら見抜けないようなら、君も大したことはないようだね」
と、彼も負けていない。
「ふふふ、それはどうも。僕にはどうやら人を見る目がないようだね。君のことを完全に見くびっていたからね。でも、その手には乗らないよ。僕は君を相手にして喧嘩するほど程度の低い人間ではないからね」
皮肉を込めていうと、せっかくの言葉にも説得力を感じない。
だからと言って、言い訳のように聞こえるわけではない。ただ、聞いていて次第に耳が痛くなるのを感じた。どちらがいい悪いの問題ではない。お互いに罵り合うのはまったく意味のないことを繰り返しているように思えてならなかったからだ。
「ところでね。僕がどうしてこんなに変わることができたと思う?」
話の筋を変えてきた。
「ん? どういうことだい?」
「ほら、かくれんぼをしていた時、一人帰ってこないことがあって、大騒ぎになったことがあっただろう?」
と言われて、相手はきょとんとした。
「そんなことあったっけ?」
ととぼけていた。
とぼけられた方は、さっきの勢いからすれば、少しカチンと来てもよさそうなのに、それに関しては怒りをあらわにすることはなかった。
「ああ、あったんだよ。君が忘れているだけなのか、それとも本当に知らないのかは別にして、あの時から僕は変わることができたんだ」
というと、
「ちょっと待って。確かに大人が騒いでいることはあったけど、確かにあの時、五人全員いたのを俺は確認しているんだ。どうして帰っていない人がいるのか僕には分からず、次の日に見つかったと聞いて、その時の騒ぎは何かの間違いだったんじゃないかって思っていたんだ」
と彼がいうと、さっきまで二人の様子を傍から眺めていたその頃の仲間たちは、その言葉に一斉に反応を示した。
「そう、そうなんだよ。俺も同じことを考えていたんだ。確かに五人いたんだ。間違いない。それなのに帰っていないなんて言われて不思議に思ったんだが、その理由が分からないので、誰も何も言わないんだって思っていたんだ」
明日美はその話を聞いて、ビックリした。
あの時、確かに五人いたという意識は明日美にもあったが、明日美はそれが勘違いだと思っていた。本当は五人いたと思ったことが間違いで、いなくなった少年もいたような気がしていた。
あの時、明日美には違和感があった。いなくなった少年というのが、本当はあの時一番暗かった、今目の前でこの話題をほじくり出すようなマネをしている彼であれば納得がいったかも知れない。
しかし、実際には彼も、いなくなった少年も明日美は確認した気がしていた。それなのにまわりが騒ぎ出したことで、明日美の中にある自信は次第に萎んでいった。
――事実が一番強いもので、事実に反する感覚は、錯覚でしかない――
という思いが頭を巡った。
考えてみれば当たり前の感覚である。事実以上の真実はないのだ。それをどうして疑うことなどできるというのか。
だから、あの時、誰もこの話題について触れることはなかったのだ。触れてしまうことで自分の中にある事実が本当は間違いで、自分の目が正しかったんだという思いが少しでも鈍ってしまうことを恐れたのだろう。
――じゃあ、あの時いたもう一人って誰だったんだろう?
明日美は考えた。
確かに五人いた。その中で皆の顔を確認した。いや、したと思っていた……。
――待てよ。一人顔まで確認できた人がいなかったような気がする――
身長と身なりで、その人だと思い込んでいたが、本当にそうだったのだろうか・
明日美はその子を最後に確認した。最後に確認したことで、皆いたように錯覚したとあとから考えれば感じた。そうとしか思えない。そうでなければ、明日美の記憶は時系列に沿っていないように感じられるからだ。
――ということは、その少年の記憶は、その時ではなかった?
と、不思議な感覚に陥っていた。
「五人いた中で、一人だけ誰だったのか分からない人がいたんだ。俺はそれを明日美だと思っていたんだよな」
と、リーダー格の男性が口にした、
「えっ?」
それを聞いて明日美はビックリした。
明日美は逆にその時の風体から、分からなかった相手というのは、そのリーダー格の少年だと思っていた。もっとも、彼のような目立ちやすいタイプの少年を、雰囲気だけで破断したという自分が浅はかだったと今では思っているが、その時は、
――それだけで十分なはずだ――
と感じていたことだろう。
「でも、確かに五人いたんだよな」
とその時の当事者は皆口を揃える。
その語気には力がないが、それは人に話しかけているというよりも、自分に言い聞かせているかのようなので、それも仕方のないことである。
「俺が考えているもう一人は、二人とも違うんだ」
と一人がいうと、もう一人が、
「何かの輪廻のようじゃないか」
と言い出した。
「堂々巡りを繰り返しているそこが袋小路だったというイメージのようだ」
という人もいた。
皆それぞれに持っていたトラウマを、ここで克服しようとしているのかも知れない。そういう意味で本当に一番強いトラウマを持っていたのが、最初に話しかけてきた、当時一番暗かった彼だったのかも知れない。
「どうしてお前は、あの時から自分が変わったって思ったんだい?」
と、唐突に一人がそう訊ねた。
それを聞いて、
――待ってました――
とばかりに暗かった少年は顔が嬉々としていた。
「あの時、皆は知らないと思うんだけど、次の日に見つかったやつが隠れていた場所に最初に隠れたのは、この僕だったんだよ」
というと、もう一人が、
「えっ? じゃあ、どうして君と入れ替わったんだい?」
「僕はあの時、最初に隠れていたその場所を、そいつに見つかって、『ここは俺の隠れ場所だ。お前は出ていけ』って言われたのさ。僕は気が弱かったからその言葉に抗うことができず、スゴスゴと引き下がって、他の場所に隠れたんだ。案の定、すぐに見つかったんだ。最初に見つかったのはこの僕だったということさ。その時、僕はかくれんぼというゲームから解放されたんだよね。だから、客観的にその様子を見ることができた。鬼だった明日美さんの様子も、次々に見つかっていく人たちもよく見ると面白いと思ったよ。明日美さんも見つかった方も、同じようにホッとしている。見つかった方が悔しさを感じているなら面白いなんて思わない。当たり前のことだからね。そうやって見ていると、最後の一人がなかなか見つからない。その頃になると、もう最初に見つかった僕の存在なんて、誰の意識にもない。しかも僕は暗かったので気配自体も薄かったからね。そうなると、皆に見えないものが見えてきた気がしたんだ」
「どういうことなんだい?」
と誰かが聞くと、
「事実以上の真実はないって僕は思っていたんだけど、でもその逆はどうなんだろう? って思ったんだ」
という彼に対し、
「というと?」
さらに誰かが念を押すように聞いた。
「真実以上の事実ってあるのかなって感じたのさ。事実と真実という言葉を考えた時、普通なら、狭義の意味として事実があり、広義の意味として真実があるんだって思っていたんだけど、実際にそうなのかなって思う。真実と事実を同じ次元の上で考えていいものなのかって思うと、それまでの暗かった自分が可笑しく感じられたんだ」
「どうして、そんな風に思ったんだい?」
「だって、皆五人いたって言っているでしょう? 僕は四人だったって本当は思っているんだ。事実は確かに五人を示している。でもそれが真実なのかどうなのかを考えると、真実じゃどっちなんだろうってね? そしてやっぱり一人がいないって言われて、それが僕の代わりにそこに隠れたあいつだって知った。それは僕の防衛本能が彼の意識に働きかけて、そこに隠れるのは危険だということを彼を通して教えてもらったんじゃないかって思ったんだ。そう思うと、僕には人にはない不思議な力があるんじゃないかって考えて、そこから発想がそれまでとまったく変わった。ただ、そのせいもあってか、鋭い感覚に翳りが見えてきたような気がしてきたんだけどね」
と言って、彼が口元に不敵な笑いを浮かべた。
すると別の人がまたおかしなことを言い始めた。
「そうなのかい? 僕はもう一人違う人がいたような気がしたんだ。それも男ではなく女だったような気がするんだ」
とその話をし始めたのは、元々その日、かくれんぼをしようと言い始めた人だったように思う。
普段から目立つ方ではなかったが、たまに発言すると、彼の意見が通ることが多かった。本人は意識していないが、まわりに与える彼の影響力は結構強いものがあった。
ただ、それは彼の人間的な性格というよりも、彼が発言する時というのは、いつも意見が割れている時が多く、彼の発言によって割れた意見に結論を与えるもので、その時には彼が意見を一刀両断にしてくれたことを分かっているのだが、後になるとその理屈が忘れられていて、彼の意見がすべてを決めたように思われるところがあり、次第に彼の影響力が大きかったように思えるのだった。
そのことを明日美は思い出していた。その彼が口を開いたのだ。その口からどんな話が語られるのか、少し気になっていた。
彼の影響力の強さを感じていたのは明日美だけに限ってのことなのか、他の人は彼の言い出した話にあまり興味を持っていないようだ。
「どうして、そんな話を今になってするんだい?」
と言わんばかりの雰囲気に明日美は少し戸惑っていた。
まわりは誰の味方をするというわけではなく、傍観していると言った方がいいくらいだった。その様子を見ながら気にはなっているにも関わらず傍観している自分に対しても不思議な感覚を持っている明日美だった。
「女の子というのはどういうことなんだい? うちのグループで女の子というと、明日美くらいしかいないじゃないか」
そう言ったのは、自分の意見を横から掠め取られそうになっている昔は目立たない男の子だった。
「俺もそう思っていたんだけど、あの時だけは一人女の子が混じっていたような気がしたんだ。その女の子は明日美が連れてきたんだって思っていたんだけど?」
彼は言うに事欠いて、明日美をこの話の中に巻き込むような発言をした。
それを聞いてまわりの人は一斉に明日美を直視した。
さすがに一気に直視されたことのなかった明日美はビックリして、後ずさりしそうになっている自分に気が付いた。誰を見ていいのか分からない状況に戸惑いながらも、視線の痛さを初めて感じた気がした。それだけ今まで人に直視されたことがなかった証拠なのだろうが、誰か一人に直視されるのと、一気にまわりの視線を浴びせられるのとどちらが厳しいものなのか、想像もつかなかった。
「えっ、私?」
思わず自分を指差してしまった明日美を見て、皆驚きの表情を浮かべている。
「違ったかな? 違ったのならごめん」
と言っては見たものの、ここまで明日美に視線が集中してしまうことを想像していなかったのか、言った本人も戸惑っているのか、慌てて否定していた。
――謝るくらいなら、最初から余計なこと、言わなければいいのに――
と思ったが、浴びてしまった視線を思うと後の祭りだった。
「でも、言われてみれば、今まで遊んできた中で、明日美以外の女性がいたと言われればそんな気もするんだよな」
と今度は別の人が言い出して、それを見て、他の人も思わずだろうが、頷いているようだ。
――えっ? どういうことなの?
明日美はまた戸惑ってしまった。
――知らないのは私だけってこと?
と思うと、自分がいない時、誰か他の女の子が自分の代わりを演じていたように思えて不思議な感覚だった。
「そうだね。あの日の鬼も、今まで明日美だったと思っていたけど、別の女の子だったような気もしなくもないんだよね」
と言い出したから、明日美は根本から記憶を疑ってみなければいけないような状況に追い込まれていた。
「いやいや、あの時鬼だったのは、この私なんだけど」
というと、
「うん、確かにあの時は明日美だった」
と今度は他の男の子が言った。
「でも、明日美だったら、誰かの存在を忘れてしまうなんてことないと思うんだよ。だからあれは別の日のことだったんじゃないか?」
というと、今度は他の人が、
「うん、俺の記憶では、かくれんぼをしていて、誰かが行方不明になって捜索したというのが一回だけではなかったように思うんだけど、皆はどうなんだい?」
というと、
「それは俺も感じていたけど、明日美がさっき話していたのは、行方不明になったやつが転校していったことで、事の真相が分からなくなって、誰もが口にしなくなったあの時のことだよね。でも、それ以外に一人行方不明になって、その子はすぐに見つかったことで、何も問題にならなかった。ここにいる連中の中にも、そのことを気付いていない人だっていると思うんだよ」
ともう一人が言った。
「完全に影に隠れた話が存在していたということだね。話が錯綜してしまったのもそういうことがあったからなのかも知れないな」
「でも、俺は転校していったやつのことよりも、話題にもならなかったやつの方が気になっているんだよ。あの日のことを今でも意識している人がこの中にもういないように思っていたからね」
「俺もお前が言い出すまでは忘れていたんだ。でも、さっきの明日美たちの話を聞いて、頭の中で釈然としない思いがあって、それがどこから来るのか分からなかったので何も言わなかったが、お前が思い出させてくれたおかげで釈然とした気がしたんだ。今日は、そういう日なのかも知れないな」
と言って一人納得していたが、まわりにいる連中はやはり他人事であったが、その中に自分も当事者として存在していたことを理解できないでいるのだろう。
――真実と事実の狭間――
何が真実で何が事実なのか、錯綜している話の中で、明日美はいろいろと考えていた。だが、結論など出るはずもなく、その時は話が終わった。なんとなく話が収束したのだが、この話題を今後誰かが掘り出すことはないような気がした。
誰かが言ったように、
――今日はそういう日なのかも知れない――
と感じたのだった……。
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