不可能ではない絶対的なこと

森本 晃次

第1話 舞香のこと

この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


「この世で唯一、不可能ではないと確実に言えることは、死ぬことだけである」


 この間まで、少し歩けば額にうっすらと汗が滲んでくるような夏を思い出されるような陽気だったかと思えば、気が付けばめっきりと朝晩は寒くなり、霜が降りている日も少なくなっていた。

 季節はすでに十二月をまもなく迎える時期であり、街にはイルミネーションが目立つようになっていた。

――どこに行っても聞き慣れた音楽が耳に馴染む時期になってきたんだわ――

 と、駅に向かう毎日変わらぬ光景を見ながら、島崎明日美は感じていた。

 短大の一年生の明日美が、ついこの間高校生だった自分を思い出していたのは、今の時期というのが、一年の中で、その一年が一番短かったことを感じさせる時期だということを思い出させたからだった。

 どこに行っても流れているクリスマスソング、クリスマスをテーマにした曲は少なくはないのだろうが、どこに行っても流れている曲というのは、それほど多いものではない。スタンダードな音楽を聴いていると、意味もなくワクワクしてしまう自分がいるのだが、ワクワクしたところで何かがあるというわけではないのにワクワクしてしまう自分に苛立ちを感じるくせに、この時期を嫌いだとは思えなかった。

――ウソでもいいから、ワクワクさせてくれるのはそんなに悪いことではない――

 と感じていた。

 明日美は、

「夏と冬ではどっちが好き?」

 と聞かれた時に、

「冬」

 と迷わずに答えるだろう。

 その理由は、

「夏は頭がクラクラして立ちくらみを起こしたり、身体に纏わりつく汗が気持ち悪かったりするからよ」

 と答えていた。

 しかし、明日美のまわりの人のほとんどは、冬の方が苦手だった。

「どうして? 冬は寒いでしょう? 寒いと身体が固まってしまってケガをしやすい。それに風邪もひきやすいし、インフルエンザなど、深刻な病気も多いじゃない」

 と言っていた。

 確かに女性というのは男性に比べて寒さに弱い。冷え症が多いのは女性の特徴だ。明日美も皆と同じように冷え症なのだが、それよりも夏の暑さによる立ちくらみや貧血を深刻な悩みとして毎年感じていた。

「でも、冬もいろいろな行事もあるし、それに何と言っても食べ物がおいしい。だから、冬を本当に嫌いだと言いきれないところが私にはあるのよ」

 と、高校時代の親友は話していた。

 だから、彼女も本当は夏の方が苦手なのではないかと思っていたが、彼女が自分から、

「夏の方が苦手」

 と言いださない限りは、触れないようにしていた。

 明日美の友達にはそういう人が多かった。自分の気持ちを押し隠そうとするのに、明日美にはすぐに看過されてしまう。だが、明日美もそのことを追求しようとは思わない。下手に追及してしまって相手を気付付けることはしないようにしたかったからだ。

「明日美って、変わってるわね」

 まわりに気を遣っている自分が、まわりからは誰からも気を遣われていないような感じだった。唐突にあからさまなことを言われてドキッとはするのだが、どうやらその気持ちがあまり表には出ていないようなのだ。そういう意味でまわりからは、

「明日美って、何を考えているのか分からないところがあるわ」

 と陰口を叩かれていることも明日美は分かっていた。

 だが、それはそれでいいと思っていた。その方が却ってまわりに気を遣ってあげているという感覚がないからだ。下手に気を遣ってあげていると思うと、それに対しての見返りを期待してしまう自分がいるからで、見返りを期待しないでいい代わりに、まわりから言いたいことを言われている方がいいと考えるのも、まわりが言うように、本当に明日美は変わっているのかも知れない。

 明日美はそんな自分を誰も好きになってくれることはないと思っていた。実際に自分が誰かを好きになることがなかっただけに、人を好きになるという感覚が分からなかったのだ。

 明日美は、自分が実際に見たり感じたりしたことしか信じない。人が何を言おうとも、自分中心というべきなのか、人を信用しきれない。

 自己中心的な人間とは違う。自己中心的な人間は、あくまでも自分が中心というだけで、まだ人を信用する余地を残している。しかし、自分中心の考え方というのは、自分が納得しなければ容易に信じることのないという意味で、融通の利かない性格だと言ってもいいだろう。

 そういう意味では我儘な人の方が、まだ扱いやすいのかも知れない。明日美のようにまわりを信じないようになってしまうと、次第に信じているはずの自分も信じられなくなってしまう。その時に、

――私は自己中なんじゃないかしら?

 と感じるのだが、自己中であることを認めたくない自分がいる。

 明日美はあくまでも自分は自己中心的な人間ではないことを自負していて、

――あんな人たちと一緒にされては困る――

 と感じていた。

 要するに天敵のように毛嫌いしているのだ。

 他の人たちから見ると、明日美と自己中心的な人とはどこが違うのかと言いたいのだろうが、明日美に言わせれば、全然違うと言いたいのだろう。違いが分からない人がいる限り、明日美は自己中心的な人を毛嫌いすることをやめない。

 明日美は、

「私は自分中心の我儘な性格なんじゃなくって、自分が第一なのよ」

 と友達に話していた。

「それが自己中心なんじゃないの?」

「違うわよ。自己中心の人は自分が第一だとは思っていないと思うわ。あくまでも人と違うということを証明したいという思いが強くて、第一に考えることは、自分が人とは違うという思いなのよ」

 と明日美は言うが、他の人にはその理屈がいまいち分かっていないようだった。

「でも、明日美だって、自分は人とは違うんだって言ってなかった?」

 と言われることがあるが、それは違う。

「私は確かに他の人とは同じでは嫌だっていう意識は強いわ。でも、それも自分が第一だっていう思いの方が強いので、他人との比較は二の次なのよ」

 という。

 しかし、友達はそれでもよく分からない。

「明日美は変わっているという印象が強いんだけど、明日美自身、その意識はあるの?」

「あるわよ。変わっていると言われる方がいいくらいだわ。最初は人と同じだと言われなかったことが嬉しかったんだけど、最近考えるのは、人はそれぞれであって、まったく同じ人なんて存在するわけないんだから、変わっていると言われることが、個性を認められているように思えて、嬉しく思うのよ」

「皮肉なのに?」

「私は皮肉だって思わない。人のことを変わっているという人の方が、よほど変わっているように思えるじゃない。その人こそ、自己中なんじゃないかしら?」

「明日美が嬉しく思うのは、皮肉をいう人に対して、反面教師のように感じているからなのかも知れないわね」

 と言われて、

――なるほど――

 と感じた。

 明日美は、自分だけ一人で考えている時は、自分の理論は筋が通っていると思っているが、こうやって誰かと話をすると、たまにであるが、自分の筋が通っていないことを感じることがある。だが、それは自分を納得させるための理屈が優先するからであって、まわりまわって、結局は同じところに着地点を求めているような気がするのだった。

 明日美は自分を変わり者だと思うようになったのは、友達に言われたことと自分を納得させるための理屈に温度差を感じた時で、その温度差はいつも感じるわけではない。

 しかも、その温度差を感じるのは一瞬のことであり、その瞬間我に返ってしまうと、感じた温度差を忘れてしまっている。

 それは温度差を感じたということすら忘れてしまっているようで、まるで一瞬の夢を見たかのような感覚だと言えばいいのかも知れない。

 そのことを人に話すと、

「それはまるで夢を見たかのような感覚なんじゃない?」

 と言われた。

 友達の方が自分よりもよく分かっているようで、普通なら癪に障るのかも知れないが、このことを看過した友達に対しては、癪に障るようなことはなかった。それよりも敬意を表するくらいの気持ちになっていて、彼女と話をしていると、

――自分なのに分からないことも結構あるんだわ――

 と感じさせられた。

 むしろ、

――自分だからこそ分からないこともある――

 と言われているようで、本当なら気付いているはずのことに気付かない自分を思い知らされたようで、目からウロコが落ちているかのようだった。

 意外と近くにあることの方が目につきにくいものであるということは、昔から言われていて、誰もが知っている常識的なことだと思っていたはずなのに、自分のこととなるとまったく感じることもなかったのである。

 ただ、自分でも分からないようなことを、他人が分かるはずもないという理屈が明日美の中にあったのだが、それは単純に、

――自分が先にあって、他の人を見る余裕がある人というのは、そんなにいない――

 と思っているからだった。

 明日美はその友達とはいつから仲良くなったのか、ハッキリと意識したことはなかった。気が付けば仲良くなっていたのであって、そもそも明日美が考えている友達という意識とは少し違った関係性にある仲だった。

 彼女の名前は坂戸舞香という。

 舞香と知り合ったのは、本屋でのことだった。

 普段から短大からの帰りには、いつも駅前の本屋に寄るのが日課になっていた。

 その本屋はそれほど大きいわけではなく、立ち寄る人はいつもまばらだった。それは明日美が学校から帰る時間だったからであって、まだ夕方くらいだったからだ。六時を回った頃から通勤の帰宅ラッシュが始まることで、会社帰りのサラリーマンやOLが結構立ち寄っているようだった。

 明日美はその日、いつものように夕方の四時過ぎくらいに本屋に立ち寄り、文庫本のコーナーを眺めていた。雑誌コーナーであれば、少しは人もいるのだが、文庫本コーナーともなれば、明日美の立ち寄る時間に人がいることは稀であった。その日も誰もいないことを確認して文庫本の棚を目で追うようにして背表紙を眺めていたが、ふいに誰かの気配を感じて、思わず立ち止まった。

 その人はすぐそばまで来ていて、

――どうして気付かなかったんだろう?

 と感じたが、なるべく平静を装うようにしようと明日美は感じた。

 相手は明日美がそこにいようがどうしようがお構いなしという雰囲気だった。それが、明日美に対して、相手の気配を感じさせない雰囲気を醸し出させたのだろうと考えた。

 明日美はそんな彼女を思わず観察してしまった。彼女は明日美に観察されているのを意識していないのか、明日美と同じように本の背を眺めていた。

 明日美はそんな彼女を見ながら、

――あれが普段の私の姿なのかしら?

 と感じた。

 人の姿を見て、自分をイメージするというのは、子供の頃にはちょくちょくやっていたことだった。それがいつの間にしなくなったのか自分でも忘れてしまっていることに明日美はショックを覚えた。

 彼女がどんな本を探しているのか、その時の明日美には想像もつかなかった。明日美も彼女の様子を横目に見ながら、自分も同じように本の背を眺めていたのだ。

 明日美は読む本のパターンが決まっているわけではない。ただ、読まないジャンルは決まっているので、それ以外という探し方をしている。

 明日美は基本的にはノンフィクションは嫌いだった。ドキュメントであったり、誰かをモデルにしたようなサクセスストーリーだったりという作品はあまり好きにはなれなかったのだ。

 中学時代に、国語の授業でよく読書感想文を書かされたのだが、その時の国語の先生が選ぶ題材のほとんどがドキュメントだったり、サクセスストーリーだったりした。読書感想文自体嫌いな明日美は、さらにその題材になっているのが、人の成功例である。自分中心を自負している明日美が自分中心を意識するようになったのがその時で、

――なんで、人の喜びをこちらも感じなければいけないんだ――

 と思ったからだった。

 そこに妬みがあるのを否定するつもりはない。確かに人の成功例を自分の励みにする人もいるだろうが、それを強制するということには納得がいかない。その頃から明日美は妬みや嫉妬を露骨に感じるようになったのだった。

 明日美が読む本のほとんどはミステリーやホラーだった。フィクション色の強いもので、現実からかけ離れた感覚が好きだった。そんな明日美がどうして歴史学を専攻しているのか、同じ歴史を専攻している人から見れば不思議に思えたようだ。

 まわりの人は比較的、本を読むのが好きな人が多かった。そのほとんどが歴史に関係のある本で、それは当然といえば当然なのだが、皆が読む本は小説ではなく、歴史書と呼ばれるものがほとんどだった。物語というよりも歴史学として読むような本が多く、内容は物語ではなく、ドキュメンタリーだった。明日美は皆が読むような本を読むことはなかった。

「学校のテキストだけでいいじゃない」

 というのが明日美の考え方で、あくまでもドキュメンタリーは嫌いだという立場を貫いていた。

 だが、舞香と出会うことでその信念は揺らぎ始めた。舞香も歴史が好きな女性だったのだ。

「歴史の本って、私はフィクションを読むことはないの」

 と舞香は言った。

「どうして?」

「私は歴史を見る時、その時代の中の一点に絞って見ることが多いのよね。歴史小説のようなフィクション系の小説は、人を中心に描かれていることが多いでしょう? しかもそこには作者の考えを描いているように見えるんだけど、実際には読者がいかに楽しく思えるかというのを中心に描かれている。それを考えると、個性がないように思えるのよ」

 と舞香が言ったが、

「それがフィクションというものじゃないの?」

 と明日美が言い返すと、

「他のジャンル、ミステリーだったりサスペンス小説だったらそれでもいいと思うのよ。でも歴史小説に限っては、私は許せない気がするのよね。だって、歴史小説というのは、小説を読む人の中で考えられている常識があるでしょう? 時代背景をある程度分かって読んでいる人が多い。だから常識が分かった人が読んでいるという時点で、ノンフィクション色が強いのよ。それをいかに興味をそそるかのように、エンターテイメントを織り交ぜるかになるんでしょうけど、そうなると、作者はまず読者の興味について考えてしまうように思うのよ。私はその考えが分かる気がするので、その時点で作者が自分にジレンマを感じてしまっていると思ってしまうの。だから、そんな状態で面白い小説を書くことはできないと感じるのよ」

 と言った。

 それを聞いて明日美は、これ以上舞香に質問する気は起きなかった。明日美は歴史小説という意味でのフィクションについて舞香がどのように考えているのか分かった気がしたからだ。

――舞香にも私と同じように、小説に関して自分だけのタブーを持っているんだわ――

 と明日美は感じた。

 明日美は舞香との出会いを思い出していた。

 背表紙を見ながら同じように蟹歩きをしていた二人だったが、明日美の方は舞香のことを意識していたが、どうやら舞香の方は明日美を意識していないようだった。後になってその時のことを聞いてみたが、やはり、

「うん、私は意識していなかったわ」

 と平然と言っていた。

「どうして?」

 と聞くと、

「私は集中していると、まわりが見えなくなることが多いので、他の人がそばにいてもあまり意識しないようにしているのよ」

 と言っていた。

 明日美には不思議だった。

 明日美はそばに誰かがいると意識しないわけにはいかない性格だった。特に同じような行動をしている人がいると、その人の心境を探ってみたくなる。本の背を眺めていたはずなのに、頭の中では違うことを考えている。目だけは本の背を追いかけていて、頭の中では違う発想になっている時の明日美は、自分がどこにいるのか分からなくなったり、時間の感覚がマヒしてしまうことが往々にしてあった。だからこそ、相手を意識するようにしていた。

 相手を意識することで自分が自分でいられると思っていたのだ。

 明日美は子供の頃から、何かをしながら他のことをしていることが多かった。テレビを見ながら勉強をしたり、本を読みながら食事をしたちである。

 明日美の両親はそんな明日美のことが気になっていた。

「明日美ちゃん、ごはんを食べる時は、本を読むのをよしなさい」

 と言われていた。

「はい」

 とは答えるものの、空返事であることは明白だった。

 両親もそのことを看過して、思わずため息をついていた。そのため息が明日美は嫌で、

――なんで、そこでため息をつくのよ――

 と思っていた。

 ため息を諦めと考えていたのだ。自分の両親は説教をしながら、簡単に諦めてしまっている。

――簡単に諦めるくらいなら、説教なんてしなければいいのに。中途半端がわざとらしいのよ――

 と思っていた。

 だが、明日美は大人になるにつれて、自分もいろいろなことを簡単に諦めるようになっていることに気付いた。その感覚がどこから来るのか分からなかったが、少なくとも両親からの遺伝であることだけは分かっていた。理由が分からないのだから、

――しょせん遺伝から来ているんだ――

 という結論に至るのも当たり前のことだった。

 だが、中学三年生になる頃までに、どうして自分がそんなに簡単に諦めるようになったのか分かるような気がしていた。

 明日美は自意識過剰だということには、結構早い段階から気付いていた。小学生の頃から分かっていたような気がする。自意識過剰ということは、他人の意見を受け入れることをしない性格を作り出していた。それも早い段階で自分が自意識過剰だと分かったからだと思っている。

 しかも自分が自意識過剰だと気付いた時に最初に感じたのじゃ、両親のことだった。両親もそれぞれに自意識過剰なところがある。家族で仲良くしているようにまわりからは見られているようだが、家に帰れば、ほとんど誰も話をしようとしない。表ではいい顔をしているくせに、家に帰れば自分中心の家庭だった。

 それなのに、自分の娘には、まわりに協調することを望んでいるように見えた。短大に入る頃には分かる気がしたが、その理由は、

「自分の娘には、自分たちにない協調性を持ってほしい」

 と望んでいるのだ。

 普通に考えれば、

「親としては当然のこと」

 と言えるのかも知れないが、早い段階で、諦めが早い両親の特徴を見抜いてしまった明日美にとって親のその考え方は、

「自分勝手も甚だしい」

 としか思えなかったのだ。

 お互いに声に出さないからイライラする。ここで敢えて言葉表現で書いたのは、そんな明日美の思いがあったからだ。

 明日美が簡単に諦めるようになったのも、早い段階で両親の考えを看過したからだと思っている。

――知らぬが仏――

 という言葉があるが、まさにその通り、下手に知ってしまうと、意識してしまうのも仕方のないことで、それがまだ自分というものを確立させることのできない子供であれば、どちらに寄るのか分からない状態であって、諦めが早い方に寄ってしまったのも仕方のないことだろう。

 それが子供の頃に親を見て気付いたからなのか、それとも生まれ持っての性格からなのか分からないが、どちらにしてもその元凶が親にあることは明白である。そう思うと明日美は自分の運命すら、諦めてしまうようになるのではないかと思うようになっていた。

 学校では友達は少ない方ではないと思っていたが、親友と呼べる人は一人もいなかった。明日美は成長するにしたがって、親友と呼ばれる人を作るのが困難になるということを分かっていた。

――高校時代までに作ることができなければ、きっと一生親友なんてできないに違いないわ――

 と考えていたが、そこに根拠があるわけではない。

 あくまでも明日美の勝手な思い込みに過ぎないが、親友というものがどういう人なのかという本質的なことが分かっていなかったので、漠然とだが、そう思っていたのだろう。

 高校時代までの友達というと、

――ただ、一緒にいて楽しければいい――

 というものだった。

 それは明日美に限ったことではなく、まわりの皆も同じように感じていた。そのことを明日美は分かっているつもりだったが、まわりの人にはきっと分かっていないだろうと思っていた。

 その思いが明日美にはありがたかった。

 いつの間にか、自分が人よりも優れているということを感じるようになっていた明日美は、

――変な友達ならいない方がいい――

 と思うようになった。

 自分を低下させる評価をまわりに与えるような友達なら、いない方がマシだという考えが元になっているのだが、それは友達が自分に影響を与えて、それがまわりに気付かせることになるという前提の元に考えられているものだった。

 だからこそ、友達を選ばなければいけないと思うようになったのだが、友達の選定には自分が冷静にならなければいけないということが一番だった。

 その頃の明日美は、

――冷静にものを考えるということは、冷めた目を持つことに繋がる――

 というものだと思っていた。

 冷めた目で見るという考えは、諦めが早くなった自分を、さらに追い詰めるような気にさせることで、本当は嫌な思いのはずなのに、どうして冷静にものを見るということを考えなければいけないのかと思うようになっていた。

 友達を絞らなければいけないという思いとは裏腹に、

――親友と呼ばれる人がほしい――

 と考えるようになったのも事実で、その二つが相反した考えであるかのように最初は感じていたが、友達を絞ることで親友という定義が見えてくるということに気付いたのは、やはり高校を卒業する頃だった。

 それは自分の考えに反する矛盾した思いであることも分かっていた。

 せっかく気付いたことではあるが、自分の中ではリミットと考えていた親友ができるであろう時期に理解したということは実に皮肉なことだと思ったのだ。

 だが、親友というのがどういうものなのかということに気付いた時、それまで自分の考えとして確立していた、

――親友を作るなら、高校時代まで――

 という考えが間違っていたことを思い知らされた。

 それを感じさせてくれたのが舞香との出会いであったが、舞香との出会いからすぐにそのことに気付いたわけではない。

 まして、舞香を最初から自分の親友だと思っていたわけでもなく、明日美にとってそれまでの友達とは異色な人だという意識はあったのだが、それ以上のものはなかった。舞香と出会ったことで最初に感じたのは、舞香という女性に対してなのか、舞香との出会いという出来事への思いなのか分からなかったが、

――新鮮さ――

 というイメージが他の人との出会いの中で感じることのできなかったものである。

――新鮮さって何なんだろう?

 明日美はそう感じていたが、舞香の方も明日美との出会いに同じような新鮮さを感じていたことを明日美は分かっていなかった。

 もっとも、明日美が感じたのと同じような感覚があったからこそ、明日美は舞香のことを親友だと思うことができるようになったのだし、舞香の方でも明日美のことを親友だと思うようになったに違いないと明日美は思っていた。

 舞香と一緒にいる時間は、明らかにそれまでの友達と一緒にいる時間とは違っていた。舞香と一緒にいると、時間の感覚はマヒしているように感じたし、舞香との会話には、それまでになかった魔力のようなものを感じたのは気のせいではなかった。

――舞香は、超能力者なんだろうか? 私の言いたいことを的確に言ってくれる――

 と感じた。

 舞香という女性は、きっと他の人から見れば、これ以上分かりにくい人はいないと思わせるに違いないのだが、明日美が見た時、

――これ以上分かりやすい人はいない――

 と思えた。

 だが、それも舞香と出会ってすぐに気付いたわけではない。最初はやはり一番分かりにくいと思っていた。だからこそ、他の人の目がどう感じるかということも分かるというものなのだ。

 そこで明日美は気付いた。親友というものがどういう存在かということである。

――親友とは、自分で意識していない間に、自分を変えてくれる力を持った人のことを言うのだ――

 と感じたことだ。

 だから、親友は一人である必要はないが、一生のうちに一人もできないという人もかなりいるに違いない。そんな親友に出会えた人は、それだけで人生の中の成功例としての一つを自分の中に刻み付けることができるというものなのだろう。

 舞香を親友として見るからなのか、舞香には自分に似たところがたくさんあるような気がした。ただ、舞香には相手に気を遣っているという素振りはない。自分さえよければいいという雰囲気を醸し出しているのだが、明日美に対しては気を遣ってくれているようにしか思えない。いい意味で誤解を受けやすい性格なのかも知れないと感じたが、それが舞香にとってどう反映されるものなのか、よく分からなかった。

 舞香は、自分のことをなかなか話しがらないくせに、よく明日美のことを聞いてくる。他の人だったら、そんな相手に自分のことをペラペラ話すことはないのだろうが、明日美はついつい話してしまう。舞香の話し方が誘導するのか、それとも明日美の方の話したいと感じている感情をくすぐるのか、ほいほいと話してしまう自分に対して不思議に感じる明日美だった。

 舞香は明日美の話を聞いたからと言って、何かをアドバイスしてくれるというわけではない。ただ黙って聞いているだけで、たまに相槌を打ってくれるだけだ。明日美にとってはその方が気が楽なので何とも思わない。二人は相性が合っていると考えていいに違いない。

 舞香のことを知るようになったのは、知り合ってから半年ほどしてからだった。舞香が自分の口から少しずつ話してくれるようになったからであるが、舞香の様子がその頃から変わってきたというわけではなかった。

 舞香が高校を卒業してから働き始めたことは知っていた。そして本屋で会ったあの時だけではなく、舞香は読書が好きな女の子で、本屋には毎日のように訪れていた。

「そんなに本を読むのが好きなの?」

 と聞くと、

「ええ、私は歴史が好きなので、歴史の本を読むのが好きなのよ」

 という舞香に対して、

「そうなの? 私も歴史が好きなのよ。でも歴史の本を読もうという気はしないんだけどね」

 と明日美がいうと、

「なんとなくその心境は分かる気がするわ」

「えっ、どうして?」

「私も最初は歴史の本を読もうという気にはなれなかったの。私は本を読む時はフィクションしか読まなかったからね」

 それを聞いて、明日美は舞香と知り合ったという意味がなんとなく分かったような気がしてきた。

――二人は知り合うべくして知り合った仲なんだわ――

 と感じた。

 明日美は舞香のことを早い段階で、

――親友だ――

 と思っていたが、舞香の方ではどうだろう?

 明日美が舞香のことを親友だと思うようになった頃は、まだ明日美のことを警戒していたような気がする。もっとも警戒していたと言っても、尻込みしていたような雰囲気ではなく、手さぐり状態ではありながら、その視線には熱いものが感じられ、

――舞香には目力がある――

 と感じさせられた。

 今まで明日美のまわりに目力を感じさせる人はいなかった。明日美自身が、

――自分には目力がある――

 と感じていたこともあって、目力のある人同士は引き合うことはないという意識を持っていた。

 お互いに相手の視線を感じると、目を合わそうとしないはずだという勝手な思い込みなのだが、明日美が相手を避けている証拠だと感じるようになったのは、中学に入ってからのことだった。

 小学生の頃までは、まわりに目力の強い人を感じることはなかった。中学に入ってまず自分に目力を感じた。それは鏡を見るようになったからで、鏡に写った自分が、小学生の頃とまるっきり違っているのを感じた。

 それは成長期に入ったことで、誰もが通る道なのかも知れなかったが、まわりに目力を感じる人はおらず、逆に背伸びを感じさせるわざとらしさを、最初にまわりに感じたことで、

――目力など感じることはないんだわ――

 と思い知った気がした。

 特に男子を見ていると、顔にはニキビだったり吹き出物だったりと、成長期とはいえ、あれほど気色の悪いものはないと感じていた。それでいて、やっていることは背伸びにしか過ぎない。まわりの女の子の身体は着実に大人に近づいているのは感じられた。もちろん、自分も含めてであるが……。

 がそんな大人に近づいている同級生を見る目と、大人の女性を見る目とが同じに見える同級生の男子に対し、

――こんな連中に恋心なんて抱く気が知れないわ――

 と毛嫌いするようになっていた。

 だからと言って、大人の男性に興味を持つわけではない。同級生の男子に対して抱いた気持ち悪さがそのまま男性全体に感じる思いに結びついたことで、男性恐怖症の一歩手前にまで行き着いたことを明日美は自分なりに理解していた。

 そういう意味で、中学時代は明日美にとって、

――消してしまいたいほどの過去――

 だったのだ。

「それほど大げさなものじゃないわよ」

 と人からは言われるかも知れないが、人の意見など関係なかった。

 そんな中学時代の経験は誰にも話をしないつもりだったが、親友になった舞香には話をした。

「そんな過去があったのね」

 と舞香はしんみりと言ったが、最初明日美は舞香の反応に、

――バカにされているのではないか?

 という思いを抱いていた。

 そのために、

――こんなことなら話さなければよかった――

 と、せっかく今まで誰にも言わずに自分の腹の中だけで収めてきた気持ちを、親友だからということで軽々しく口にしてしまった自分を恨めしく思うほどだった。

「でもね」

 舞香は少しずつ話を始めた。

「男なんて、明日美が考えているよりも、もっと陰湿で本能のままに生きているものなのよ。明日美の感じたことに間違いはないんだけど、あなたは男の本性を知らない。そういう意味ではまだ幸せなのかも知れないわ」

 明日美はそれを聞いた時、

――あなたに何が分かるのよ――

 と感じたが、舞香が話を終えた時、明日美を見たその表情に憐れみを感じさせたことが明日美には舞香に対して疑問を抱かせてしまった。

――何よ。今の目は――

 明日美は何も言えなくなった。

 舞香は話を続ける。

「男って、特に思春期というのは、自分を抑えることができるかどうかを決める最初で最後の猶予だと思うの。もし思春期に自分の理性を抑えることができる人になっていれば、決して女性に対して悪いことをするようなことはない。でも、思春期の時代に自分を抑えることができなかったら、その人はいつもギリギリのところにいて、最終的には足を踏み外してしまい、悪い方に踏み出してしまう。そうなると、もう自分では抑えることができなくなってしまうのよ。その感情は本人にはどうすることのできないもので、犯罪というのは、そんなところから生まれるとも言えるのかも知れないわね」

 と、淡々と語った。

 その語り口調があまりにも冷静すぎるので、明日美はゾッとしてしまった。気持ち悪さを感じたが、それは今までに感じたことのない気持ち悪さだった。

「舞香は、どうしてそんなに冷静に考えられるの?」

 と明日美が聞くと、

「そう? 私は冷静になっているという感じはないのよ。ただ、あなたに分かってもらいたいという気持ちがあるのは事実なの。きっと誰かに分かってもらおうとして話を続けていくと、次第に相手から冷静に見られるような口調になってしまうのかも知れないわね」

 という答えが返ってきた。

 明日美はますます分からなくなった。

 それは舞香という人間の性格が分からなくなったというよりも、明日美自身が考えていることが本当に正しいのかどうか分からなくなってきたと言った方がいいかも知れない。それは明日美が舞香という女性を信じられないと思っているのに、親友としての地位が下がってきたわけではないという意味もあるし、そもそもどうして舞香を親友だと思ったのかというところまで遡って考えるからなのか分からない。

 舞香以外に親友という意識を持った人はいなかった。

 親友というものが自分にできるという意識も、中学に入るまではなかったくらいだ。親友という言葉を意識したのが、消してしまいたい過去の時期として今でも君臨している中学時代とカブっているのが、自分でも不思議だった。

 その理由は、自分にも間違いなく思春期がやってきたということであり、まわりの変化があまりにもセンセーショナルに写ったことで、自分のことは二の次だった。明日美はまわりを気にするあまり、自分のことは後回しになっているということに気付いたのも中学時代だったのだ。

 消してしまいたい過去になってしまった理由の一つに、自分のことを後回しにしてしまう消極的な自分がいたことを消してしまいたいと感じていたようにも思った。だがその思いはあくまでもまわりに感じた気持ち悪さの産物であって、結果論でしかないと言えなくもないだろう。

「舞香の中学時代って、どんな感じだったの?」

 と明日美は思い切って聞いてみた。

 明日美の考えとしては、舞香が話をしてくれる可能性は低いと思っていたので、

「嫌なら、いいのよ」

 と付け加えた。

 すると、舞香は一瞬深呼吸をしたかと思うと、おもむろに話し始めた。

「私の中学時代というと、きっと明日美の中学時代を彷彿させるようなものだったのかも知れないわ」

 と言い出した。

「それは誰ともかかわらなかったということで?」

「そうじゃないわ。私の場合はまわりが私に近づくだけで気持ち悪さを感じていたわ。そばに誰かが近寄っただけで、本当に身体が避けてしまうような条件反射とでも言うのかしら?」

 という舞香に対して、

「それって、潔癖症ということなのかしら?」

 と明日美が言うと、

「それに近いのかも知れないわね」

 と舞香が答えた。

 すると、

「でもね、私が見ている限り、舞香にはそんな潔癖症な雰囲気は感じられないのよ。本当に潔癖症の人というと、誰かが触ったものを手にすることを嫌ったり、人に触られたりするとアルコール消毒をするような雰囲気なんだけど、舞香には感じられないのよ」

 と明日美が言った。

「今はそこまではないんだけど、中学時代の私はひどい時には、まわりの人と同じ空気を吸っていることさえ嫌だった時期があったわ」

 と舞香が初めて遠くを見るような表情になったのを、明日美は見逃さなかった。

「何が舞香をそんな風にしたのかしらね?」

 と明日美がいうと、

「それは明日美も同じことでしょう? 明日美も自分の中学時代を消してしまいたい過去だと言ったけど、何がきっかけだったのか、覚えていないでしょう?」

 と言われて、

「確かにそうかも知れないわ。まわりの男子を見て、気持ち悪いという思いを次第に抱き始めて、最後には吐き気を催すほどの気持ち悪さになっていたわ。その途中経過に関しては、今では思い出せないわ」

「でも、きっかけはどこかにあったはずでしょう? そのきっかけを思い出せないということは、自分にとってそのきっかけはそれほど大きなものではなかったのか、それとも、最終的な印象が強すぎて思い出せないかよね」

 という舞香に対して、

「それは、時系列的に前後して覚えているのも原因かも知れないわ。どれが最初だったのかすら分からないほど、自分の中で混乱していたのだとすれば、私にとって消してしまいたいほどの過去になるまでに紆余曲折がいくつもあったのかも知れないと、今では思っているのよ」

 明日美は、もっともらしく答えたが、実はその時、舞香との会話で思いついたことだった。

 舞香と話をしていると、それまで気付かなかったことを思い出させる。そんな存在の舞香を明日美は、

――親友だ――

 と感じるようになったのだろう。

「私ね。歴史の本を読んでいる時が一番落ち着くの」

 と舞香は言った。

「私は歴史は好きなんだけど、あまり本を読んだことはなかったわね」

 基本的にはフィクションが好きな明日美は、歴史の本を読むのはあまり好きではなかった。

 本屋に行けば、歴史の本はたくさんある。時代を中心にした本もあれば、歴史上の人物に焦点を当てた話もあった。そのほとんどはノンフィクションである。学校の歴史では習わないような興味深い話があるということなのだが、どうもノンフィクションと聞いただけで敬遠してしまう明日美は、自分がどうして歴史が好きなのか、不思議だった。

「明日美はノンフィクションが嫌いだって言ってたけど、史実とは少し違ったフィクションを描いた小説もあったりするんだけど、そっちには興味ないの?」

 と舞香に聞かれて、

「知ってはいるんだけど、読む気にはなれないの。史実を曲げてまで話を作っているというところが私的には許せないところなのよね」

 というと、舞香は、

――やれやれ――

 という表情になった。

「変わっていると思うんだけど、好きな学問を愚弄しているかのように思う小説は、許せないと思うのは当然のことよね」

 と明日美が言うと、

「じゃあ、ノンフィクションを騙されたつもりで読んでみるというのも一つなんじゃないかって思うんだけど、それも嫌なの?」

 と舞香に言われて、

「そんなことはないんだけど……」

 と、煮え切らない様子だった。

「じゃあ、私が読んだ本を貸してあげるから、読んでみればいい。面白くないと思えば、翌日にでも返してくれればいいのよ」

 と言って、舞香は翌日自分が読んだ本を持ってきてくれた。

 時代的には飛鳥時代から奈良時代に向かってのもので、明日美にとってはあまり興味のある時代ではなかったが、

――舞香が薦めるのだから――

 と、本当に騙されたつもりで見てみることにした、

 その日、舞香と別れてすぐに帰宅した明日美は、夕食や入浴を早々と済ませて、自室に入った。布団に横になって、眠ってもいい体勢にすることでリラックスして読もうという気持ちの表れだった。

 さすがに興味のある時代ではないので、読み始めはよく分からないというのが本音だった。

 それだけに読み進むには自分の中で気分をリラックスさせなければいけないと思った時点で、横になって本を読む体勢に最初から持っていけていたのは、自分の中でのファインプレーだと思った。

 もし、少しでもリラックスして見ることができなければ、いくら舞香に薦められたとはいえ、早い段階で挫折していたのは間違いないだろう。

 明日美が興味を持っている時代は、平安末期から鎌倉初期、あるいは戦国時代関係と言った、歴史好きにはいわゆるミーハーと呼ばれる時代だった。それ以外の時代にはどうにも興味を持つことができず、歴史が好きだというのも一部の人に公言しているだけで、ほとんどの人は知らないに違いない。

 明日美は本当はミーハーは好きではなかった。中学高校時代など、アイドルにうつつをぬかしている連中を横目に、

――私はあんな連中とは違うんだ――

 と思っていた。

 あくまでも他の人とは違うということを自他ともに認めるような自分でなければ嫌だと思っていた。その最たる例が、

――自分はミーハーではない――

 という思いからだった。

 歴史が好きになったのも、

――歴史を好きな女の子は少ない――

 という思いもあったからだが、まさかその少し後に歴史ブームが起こって、「歴女」と言われるような歴史好きの女性が話題になるなど思ってもみなかった。

 しかも、自分が好きな時代は、歴史好きの人ならだれでも興味を持つような時代だったことで、自分が歴史好きだなどというのが恥ずかしい気分になっていたこともあって、まわりにあまり言わなかったのだった。

 明日美が一人で行動するようになったのも、歴史が好きになってからだった。それまでは友達と行動することが多かったが、ある日気づいたのだ。

――このまま友達とずっといても、自分が目立つことなんかないんだ――

 意識していないつもりだったが、明日美は友達と一緒にいる時、いつかは自分が輪の中心に立つことを願っているということを意識するようになっていた。

 だが、いくら待ってもそんな機会が訪れることはなかった。なぜなら輪の中心に行くには、それなりの技量と何よりも器量が必要だったのだ。

 技量は努力で何とかなることもあるだろうが、器量に関しては持って生まれたものであり、自分の中にないと判断すれば、永遠に輪の中心になんかなれるわけはないのだ。

 それを世間では、

――限界――

 というのだろう。

 明日美は早い段階でその限界に気付いてよかったと思った。そう思って自分を顧みると、輪の中心になろうと思っていた自分が可笑しくなってきた。冷静な目で一歩下がって集団を見ると、自分以外の人も皆、虎視眈々と輪の中心になりたいと狙っていたのだ。

 どれだけ自分だけしか見ていなかったのかということを思い知らされた。そして、いまだに集団に属していて、しがみついている人たちが可愛そうに思えてきたのだ。

 明日美は、その頃からミーハーが嫌いになり、人のやらないことに興味を持つようになった。それが歴史であったのだ。

 明日美は、そこで壁にぶつかった。それが、

―ーノンフィクションは嫌だ――

 という思いと、

――同じフィクションでも、歴史に関してのフィクションはもっと嫌だ――

 という思いの間で渦巻いている自分の中のジレンマだった。

 それを解消させようと思い、明日美は時間があれば本屋に赴いていた。毎日のように通って、本の背を眺めていたところで、何が解決するというのか、明日美には理解できない自分を感じていた。

 そんな時に知り合ったのが舞香だった。

 明日美は舞香に自分と同じ匂いを感じた。最初こそ舞香の目は他の人が見る明日美への視線のように、警戒心に満ちているかのように感じたのだが、実際には違っていた。

 明日美はそれまで気付かなかったのだが、いつも行く本屋で今までにも何度か舞香とニアミスを繰り返していた。本棚を挟んでまったく同じ棚を見ていたり、背中合わせに同じ場所にいたりしたのだが、それだけ明日美はまわりを意識していなかったのだ。

 だからと言って、本棚に集中していたからだというわけではない。逆にまったく集中していなかった。何かをいつも考えている明日美は、本の背を眺めながら、いつも何か余計なことを考えていたのだ。だからこそ集中できていない自分がまわりのことに気付くはずもない。それは本屋に限らず、いつものことであった。

 舞香の方は、逆に明日美のことを意識していたようだ。声を掛けようという意識はあったようだが、何をどう声を掛けていいのか分からなかったというのが本音だったようだ。

 その様子を分かっている本屋の店員もいて、その人は女性だったのだが、二人を見ていて、

――青春だわ――

 と感じていた。

 静寂の中での本屋で、何も語ることもなく、かたや意識をしていて、かたやまったく意識をしていない二人がニアミスを繰り返している、そんな状況に青春も何もないと思われるが、店員はなぜかそう感じていた。

 やっと二人が声を掛けあったのを見た時、

――この二人は、結構相性の合う二人なんじゃないかしら?

 と感じたようで、見ていて安心感のようなものがこみ上げてきた。

 彼女は彼女なりにいろいろ考えているようだが。まわりからは天然と思われていて、そんな彼女の本質を分かる人がいれば、本当の親友になれるのではないかと思うのは、だいぶ後になってからであるが、舞香が感じたことだった。

 舞香は、いつも誰かのことを意識している。それは明日美を意識したことで自覚したのだったが、本屋の店員を意識しているという感覚は、すぐには分からなかった。本屋の店員があまりにも天然に見えて、意識すること自体、

――まるでウソではないか――

 と相手に感じさせる雰囲気を、本屋の店員は秘めているようだ。

 それが彼女の長所なのか短所なのか分からなかったが、

「長所と短所は紙一重」

 という言葉と、

「短所は長所と背中合わせ」

 という二つの言葉を知っていたことで、どちらでもいいように思えた。

 紙一重と背中合わせという言葉、矛盾しているかのように思うのだが、本当に矛盾しているのだろうか?

 他の人が気にしないようなことを、舞香は気にするタイプだった。このことも矛盾だと感じたとしても、他の人はすぐに、

「どうでもいいこと」

 としてスルーしてしまうだろう。

 だから逆に長所と短所はれっきとした違うもので、相反するものであるという一般的な考え方から脱却できないでいた。

 しかし、舞香は疑問に感じたらそのことを考え抜くくせがあった。そこに結論を求めなくても、自分なりに納得できる何かを見つけることができれば、それは結論よりも自分のためになることで一つの答えを見つけられたという満足感を与えられたに違いない。

 舞香は長所と短所のことについて考えることで、自分の性格の一辺を垣間見たような気がした。

――私は中途半端な考えが一番嫌いなんだわ――

 という思いだった。

 最終的な結論を見なくても、自分を納得させられるだけでいいというところは舞香にとっての、

――中途半端――

 ではない。

 中途半端というのは、面倒くさいと感じたり、理解できないと最初から思い込んでしまってすぐに諦めてしまうことだった。最初のきっかけから中途半端で終わるかどうかが決まるというのが、舞香の考え方だった。

 そんな舞香が、本屋の店員を意識し始めたのは、明日美を意識するよりも前のことだった。

――もし、舞香が店員を意識していなければ、明日美と出会うこともなかったであろうに――

 と舞香は考えていた。

 なぜなら、舞香はこの本屋はたまにしか来たことがなく、別に毎日くる必要もなかったのだ。

 確かに明日美を意識するようになって毎日来るようになったと自分でも感じていたが、実際には店員を意識していたからだということにすぐには気付かなかった。

 そのことを気付かせないほどに店員は天然な性格だったのだ。

 もし明日美という存在がなければ、舞香ももう少し早く店員を意識したかも知れないが、明日美の印象が、店員の気配はおろか、舞香が意識した感覚すらを打ち消そうとしていたのだ。

 だが、一度感じたことをそう簡単に打ち消すことはできない。

 いや、明日美を意識するようになってから、舞香にとって店員を意識していたことが無意識ではあるが、自分の中で大きくなっていた。そこにあるのはお互いの平衡感覚で、舞香を中心とした二人の平衡バランスだったのだ。それは天秤のようなものであり、一定した平衡感覚ではない。絶えずゆらゆらしていて、それが平衡感覚を保っているのだ。

 明日美は、

――舞香が意識をしているのは自分だけだ――

 という意識をずっと持っていた。

 明日美の中には、一人の人を意識すると、他の人を意識するということができない性格だった。そのことに気付いたのは、つい最近のことであり、それを思うと、

――中学時代に、輪の中心になれなかったのは、この性格のせいだったのかも知れないわね――

 と感じた。

 そう思うと、輪の中心になりたいなどという大それたことを考えた自分が恥ずかしくなったのと同時に、輪の中心にいた人が自分にはない才能を持っていたのだと考えると、羨ましくも思えてきた。

 だが、自分にできないことをいつまでも追いかけるところのない明日美は、ある意味潔い性格だとも言えるだろう。

――これが私の性格なんだ――

 と何度感じたことか、明日美は一歩一歩そして確実に自分の性格を感じているように思っている。

 それに比べて舞香の場合は、

――本当は分かっているはずのことを、あとから確認するかのような性格なので、冷静に見えるのではないか――

 と明日美は考えるようになった。

 これは明日美にとっての成長であるが、実は明日美にとって持って生まれた性格でもあったのだ。

 舞香のよからぬウワサを聞いたのは、本当に偶然のことだった。短大の友達に舞香と同じ学校を卒業した人がいて、明日美が舞香と友達だということを知らず、ただの世間話として話した時のことだった。

 まず、舞香は高校を卒業していない。中退だったのだ。学校での成績はそれほど悪くはなかったのだが、急に三年生の途中から学校に来なくなった。学校の先生が訊ねると、

「私、中退します」

 と言ったそうだ。

 あと少しで卒業だちという時期だったので、

「もう少しで卒業なのに」

 と残念そうに語った。

 だが、本人が中退したいと言い出したのだから、その決意が固いともなると、いくら教師でも止めることはできない。

 舞香は学校では友達が少なかった。誰かとつるむことが大嫌いな舞香と、誘う人もいなかった。

「私は一人がいいの」

 と言われてしまっては、誰も何も言えなくなることだろう。

 明日美には、

――舞香の気持ちが分かる人なんて、なかなかいないわよね――

 と感じていた。

 自分も舞香の本当の気持ちまでは分からない。話をしていて相手の考えていることが分からないということが分かるだけだ。本当なら一緒にいることのないはずの相手と一緒にいる時間を持つことができるというのは、いいことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。

 それから少しして、舞香が自分の身の上について話してくれた。

「私ね。中退したことを親に話してなかったのよ」

 と舞香が言い出した。

「えっ? そんな大切なことを?」

「ええ、私の家には母親はいないの。お母さんは亡くなったって聞いたんだけど、なぜか家に仏壇はないの。敢えてそのことをお父さんに聞いてみようとは思わなかったんだけどね」

「どうして聞かないの?」

「だって、お父さんの気持ちを考えると、聞くのが可愛そうに思えたのよ・明日美にはそんな感情になったことはない?」

 という舞香に対して、

「私も確かに、相手の気持ちを察して聞かないということもあったけどね」

 と明日美は言ったが、

――私が舞香の立場だったら、どうだったんだろう?

 もちろん、父親がどんな人で、舞香がどんな状況で育ってきたのかを知らないので、一概に言えるわけもない。

 しかし、普通に考えると、

――やはり聞かないということはないんじゃないかな?

 と考えると、舞香という女性が、子供の頃は臆病だったのではないかと思えてきた。

「明日美なら分かってくれそうな気がするわ」

 と舞香は言ったが、明日美の中で、

――舞香が言うんだから、その通りかも知れないわね――

 と感じた。

 舞香と仲良くなってから、今まで自分が人のことを信用しないタイプであるということにいまさらながら思い知らされた。

 特に小学生の頃までは、人の言うことを信じないというよりも、自分が納得できないことは何であっても信用しなかった。その最たる例が、

「どうして勉強しなければいけないのか」

 ということだった。

 実際に先生に聞いたこともあった。その先生は女性の先生だった。

 先生は、

「それはそうでしょう? 一般的な常識を会得して、人としてまわりの人とつつがなく生活していくために最低の知識を身に着ける必要があるからよ」

 と言った。

 当たり飴のことを当たり前にしか言っていない明日美としては、

「そんな当たり前の返事を聞きたいんじゃないの」

 と答えた。

 先生は困惑して、

「だって、人は一人では生きていけないのよ。まわりと協調しながら生きていかなければいけない。そのために必要な勉強なのよ」

 と、少し興奮気味に話していた。

 その様子を見ながら、

――先生も確かな答えを持っているわけではなくて、それでも説得しなければいけないから必死になっているんだわ。最初の一言で私が納得してくれるとでも思ったのかしら?

 と感じた。

 他の人なら、先生の最初の一言で引き下がったかも知れない。先生が何も答えてくれなければ先生や勉強に対して、本当に疑問が残るのだが、答えてくれたのだから、とりあえずは納得するのだろう。

 明日美にしても、元々自分に納得するような答えを期待しているわけではない。それでも当たり前のことを当然のごとく答えた回答はないだろうと思ったのだ。同じ回答でももう少し表現が違えば納得したかも知れないが、明日美には納得のいくものではなかった。

「島崎さんは、どう思っているの?」

 と、先生は聞いてきた。

「分からないから聞いているんじゃない。でも先生の話にある『人は一人では生きていけない』という言葉、分からなくはないんだけど、それを強調されるのは私としては納得がいかない。まるで勉強のための言い訳にしか聞こえなかった」

 と明日美がいうと、

「言い訳にしか聞こえなかったのね。言われてみれば、言い訳に聞こえるかも知れないわね。正直、先生もさっき答えたような答え以外には思いつかないの。先生も完全に納得している回答ではないと思うので、あなたを納得させるなんてできるわけはないわね」

 と、まるで開き直ったかのように先生は答えた。

 今度は明日美が納得した。

「ごめんなさい、先生。先生を追い詰めるつもりはないのよ。そう答えてくれて私にはよかったと思っているわ」

 明日美は納得したわけではないが、先生の回答で一応の解決を自分の中でできた気がした。

――私は納得できないことは信じないけど、自分が納得するということには、たくさんのパターンが存在しているのかも知れないわね――

 と考えた。

 その時の先生との会話を思い出していると、舞香の言葉も何かのきっかけで納得のいくことになるのではないかと思えた。

「理解することと納得すること」

 この二つを、明日美は考えていた。

――理解することができるから納得するのよね。これが本当の流れなんだろうけど、私の中には、理解を通り越して納得できることも存在しているのかも知れないわ――

 と、先生との会話を思い出しながら考えた。

――じゃあ、先に納得してしまったことを、あとから理解することになるというのだろうか?

 明日美は先生との会話を思い出していた。

 あの時の先生の話は完全に言い訳だったように思う。何しろ開き直りに近く、興奮気味に語っていたのは、考えてみれば逆切れだったのかも知れない。そう思うと、明日美に理解できるはずもないだろう。いつまで経っても交わることのない平行線に感じられたが、先生の言葉を納得したということは、その時点で理解していたと言えるのではないかと感じた。

 つまりは、先に理解して、あとから納得するというのは正規の流れで、直に納得すると感じている時というのは、本当はその裏で同時に理解しているという流れが存在しているのだろう。その時に納得という印象が強すぎて、理解が裏に回ってしまうことで、理解していないという考えが自分の中に残ってしまう。だから、永遠に理解できないことが自分の中ではあるのだと思い込んでしまうことがあると考えている。

 考えてみれば、今までの自分の中に、そんな思いがあったと思うことが幾度かあった。それをいちいち覚えていないが、直に納得したという事実を思い出すたびに、理解について考えてみれば、容易に同時に理解していたということを感じることができるのではないかと思うのだった。

 今、こうやって舞香の話を聞いていると、納得した気分になっているということは、自分なりに理解もしているのだろうと思った。だが、リアルタイムでそのことを感じるのは初めてなので、どうにも理解できているという感覚に結びつかない。

――後で思い出さなければダメなのかしら?

 と思ったが、本当にそうであろうか?

「舞香のお父さんは、舞香に対しては優しかったの?」

 と明日美が聞くと、

「ええ、優しかったと思うわ。私が母親がいないことで悲しい思いをしないようにと考えてくれていたことも分かっているつもりだったし」

 と舞香は答えた。

「舞香はお母さんのことを覚えていないの?」

「ええ、私がまだ赤ん坊の時に亡くなったって聞いたわ」

「病気で?」

「いいえ、交通事故だって聞いたわ。でも仏壇がないのがおかしいと思ったのは、結構まだ小さかった頃からだったような気がするのよ」

「今はその理由は分かっているの?」

「ええ分かっているわ」

 と、舞香は少し戸惑いを見せた。

「どうしてなの?」

 その戸惑いのためか、明日美も一拍置いてから話を聞いた。

 その聞き方が舞香を警戒させたかも知れないとも感じたが、気のせいであってほしいと思った。

「実は、お父さんとお母さんが結婚した時、お母さんの親の方は大反対だったらしいの。それで結婚するのに、お母さんは駆け落ち同然だったらしいの」

「そんな事情があったのね」

「それでね。お母さんが交通事故に遭った時、向こうの親が、それ見たことかとでも言い長けに、お骨は実家が引き取るという話になったというの。駆け落ち同然で一緒になったという後ろめたさでしょうがなくお墓も仏壇も向こうの家にあるらしいんだけど、そのおかげで、私はお父さんが親権を持っていていいということと、お母さんとのことを事後で許してくれるということになったということなの」

 と舞香が話してくれた。

「なんとなくどこかおかしな気がするんだけど、でもそれも大人の世界のことで、しょうがないことなのかも知れないのよね」

 と明日美は納得したつもりになって答えた。

 明日美は続けた。

「だから、舞香はそんなお父さんと一緒にいて、何となくお父さんの苦悩が分かっていたから、余計なことを今まで聞かなかったということなのかしら?」

「ええ、そうかも知れない。確かに言われてみれば、聞ける雰囲気ではなかったということなのよ。私に勇気がなかったのもそうなんだけど、聞いてみて、会話になった時、お互いに何を話していいのか、まったく想像がつかなかったのが、聞けなかった最大の理由なのかも知れないわ」

 舞香の話をここまで聞くと、明日美にも納得ができる気がした。

――段階を持って納得できるから、理解できているのかも知れないわ――

 直で納得するということは、今までに何度もあったのを覚えているが、そのほとんどが段階を追っての納得だった。そう思うと、自分が納得と理解を同時にする時というのは、――段階を追って少しずつでなければできないことなのだ――

 と言えるのではないだろうか。

 明日美が舞香の話をそんな気持ちで聞いているなど、舞香には分かっていなかっただろう。

 それは当然のことであって、こんなことを考えているなど、話をしてくれている人に分かってしまうのは失礼に当たると明日美は思っていた。ただ、相手の話を理解して納得に至るまでに自分がどのような精神状態にあるかというのは大切なことで、それが分かっていないと人の話を聞くなどということが自分にとってどれほど大それたことなのかということを思い知らされるのではないだろうか。

「舞香のお父さんってどんな人なのかしらね?」

 と明日美が聞くと、

「ただの気の弱い父親よ。でも、時々キレることがあって、怖い時があるわ」

 と言った。

 その表情は父親を蔑んでいる表情で、毛嫌いしている雰囲気とは少し違っていた。そのことに明日美は気付いていたが、最初に舞香の父親に対しての表情としては至極当然のものだったので、なかなか不思議な雰囲気にたどりつくことはなかった。

「父親って、子供には本当の顔を見せないようにしようとするものなんじゃないかな? だから舞香のお父さんもそんな風に見えたとか?」

 明日美は、少しでも舞香の気分を損ねないように父親の擁護をしながら話に相槌を打つつもりだった。

「そんなことはないわよ。父親なんて結局は男でしかないのよ。相手が娘と息子とではきっと対応の仕方も違うんだと思うわ」

「でも、子供って異性の親に似ていたりなついたりするものだって聞いたことがあったけど、どうなのかしらね?」

「それは一般的な話であって、実際にはそうとは限らない。明日美のお父さんはどうなのよ」

 と言われて明日美は自分の父親を思い出していた。

 明日美の父親は商社マンで、いつも海外出張ばかりだった。ほとんど家にいることがなく、父親がどんなものなのか分からず、分からないだけに憧れだけがあった。しかもその憧れは絶対的なもので、どんなに父親と会話のない家庭でも、自分よりはマシではないかと思っていたのだ。

 明日美が、自分の父親が商社マンで海外出張ばかりで寂しかったという話を舞香にすると、

「そう、それは寂しいわね」

 と、けんもほろろで答えられた。

 その返事は明日美にとってまったく予期していない返事であり、明日美の中で戸惑いとなって残ってしまった。

――どうしてこんなに他人事のように言えるのかしら?

 今までにも感じたことがあった舞香の冷徹な部分だったが、この時ほど極寒なものはなかっただろう。

「ええ、そうね。寂しかったわね」

 と、相槌を打つしかなかった明日美だったが、舞香にとって明日美の相槌は想定内のことなのであろうか?

「私、お母さんがいなかったから、お父さんしか頼る人がいなかったのよ」

 と舞香は言った。

 確かに舞香にとって父親は父親本人でもあり、母親代わりだったのかも知れないが、今の舞香の言い方は、母親代わりというよりも、生きていくうえで頼る人間という意味での表現であり、家族愛以上のもっと切実な思いが舞香を支配していたのではないかと思わせた。

「私は、今のお父さん、本当のお父さんじゃないの。お母さんの再婚相手なの」

 と明日美も言った。

「血が繋がっていない父親でも、いないと寂しい思いがするものなの?」

 と舞香が聞いてきた。

「ええ、お母さんが再婚するまでは、お父さんがいないのは当たり前のことだって子供心に思ってた。でも、血が繋がっていなくてもお父さんができると、いない時、寂しいと感じるものなのよ。ひょっとすると、お父さんがいないのが当然だと思っていた時期に、自分が痩せ我慢をしていたんだって気付いたからなのかも知れないわね。だから、寂しさを感じるだってね」

 と明日美がいうと、

「それって、欲なのかも知れないわね」

 と舞香が言った。

「欲? 言われてみればそうなのかも知れないわね。痩せ我慢をしていた時期の自分を思い返して、もう痩せ我慢しなくていいって言っていたような気がするわ。でも、それが欲だったという考えはなかったわね」

「欲っていうのは、一度失くしたものが出てきた時、もう二度と失くさないようにしようと思うことも一つになるのかも知れないわね。一度知ってしまった思いは後悔となって自分の中に残る。それを再度リベンジできるんだから、余計に二度と失くしたくないと思うんでしょうね」

 という舞香に対し、

「欲にも種類があるのかも知れないわ。消極的な欲と、積極的な欲とがね」

「その通り、今の明日美の話に出てくる欲というのは、消極的な欲なのかも知れない。消極的な欲というのは、他の人に分かる分からないは別にして、自分の中で隠したいと無意識に感じているものなんじゃないかって私は思うのよ」

 と舞香は言った。

「じゃあ、舞香はお父さんに対して、欲というものを感じないというの?」

「ええ、子供の頃に感じていた甘えたいという感情は、欲ではないと思うの。それを欲だと思ってしまうと、自分の中で持っている父親像を崩してしまうような気がするのよね。だからお父さんに対しては、感じたことをそのまま受け止めるようにしているの」

 と舞香は言った。

「私は違うかも知れないわ。父親に血の繋がりがないからそう思うのかも知れないんだけど、どこかお父さんに対しては遠慮のようなものがあるのよ。きっと自分なりの父親像というものがあって、血が繋がっていないんだから、自分なりの父親像に近づくことさえないという思いを抱いているのかも知れないわね」

 と明日美が言った。

「今の明日美の言葉の中で、『お父さんに対しての』という件は、いかにも血が繋がっていない相手に対してのものだって気がするわ。それは私に言わせれば遠慮ではなくて、自分から遠ざけているからなんじゃないかって思うの」

 と舞香が言ったが、それを聞いて明日美は少しムッとした気分になった。

――あなたに何が分かるのよ――

 と言いたい気分だったが、今の舞香にそれを言ってしまうと、話が空転してしまい、二度と重なることがない気がした。少しでも線をたがえてしまうと、この会話は成立しないだろう。明日美は舞香を直視できなくなっていた。

「舞香こそ、お父さんに対してどう感じているのよ」

 と聞いた。

 明日美としては、少しでも反抗したいという思いがあったのと、話を他に逸らしたいという思いから、こんな質問になったのだ。

「あの人を私は父親だとは認めたくないの」

 完全に捻くれているようにしか見えなかった。

「どうして? どうしてそんなに頑ななの?」

 と聞くと、舞香は少し遠い目をしたかと思うと、今度は目の前を凝視しているかのように見えて、明日美が黙っていたが、少ししておもむろに口を開いた。

「あの人は、私に襲い掛かってきたことがあったの」

 と、明日美は信じられない言葉を聞いてしまったことに気が付いた。

「えっ?」

 明日美は自分の発した声が言葉となって相手に伝わったのかどうか分からなかった。

 舞香も、明日美を振り返ることなく考え込んでいるようだったが、すぐに軽く頭を下げたことで、明日美は自分の声が相手に届いたことを理解した。

「一度だけのことで、しかも未遂だったので、このことを知っているのは私とお父さんだけなの」

 舞香の母親は亡くなっているので、母親が知ることはないだろう。

――もし、舞香のお母さんが生きていれば、舞香の苦しみはもっと大きかったのかしら?

 と明日美は思った。

 ただ、明日美の中で、

――どうして、今舞香はずっと秘密にしてきたことを私に打ち明けてくれたのだろう?

 と感じた。

 考えられることとしては、一人で抱えていることを苦しく感じたからではないかという思いだった。誰かに打ち明けるとすれば、その相手がたまたま明日美だっただけのことなのか、それとも明日美に打ち明けたのは、最初から決まっていた相手だったということなのか、明日美はそこまで舞香のことを知っているわけではなかった。

 明日美としては、本当は聞きたくない告白だった。

――こんな告白をされても、私にはあなたに何と返事をしていいのか、分からないわ――

 と、ただ戸惑うだけの自分に明日美は狼狽していた。

 そして、急に足枷を嵌められたようで、重苦しくなった雰囲気に呼吸困難に陥ってしまいそうな状況に、

――どうしてくれるのよ――

 と、思ったことで、今の自分がどんな表情になっているのか、急に気になってしまった。

 きっと、目の焦点が合っていることはないだろうし、舞香を直視できるはずもないことは分かっていた。

――舞香は、本当にどういうつもりで私に話をしたんだろう?

 確かに舞香とすれば、明日美の話にじれったさを感じていたのかも知れない。明日美は舞香の中に苦しみがあるのを感じてはいたが、胸に抱えている気持ちが想像とは違っていたことに困惑していた。

 明日美の想像は次第に妄想へと変わっていく。

――まるでテレビドラマのようだわ――

 テレビドラマでは、父親に蹂躙される娘の姿を描いた作品も時々シーンとして見ることがあった。

 ただ、あまりにも自分とはかけ離れた世界の出来事だと思うことで、他人事としてしか見ていなかった。

――いや、他人事として見ようという意識があったのかも知れない――

 人にはタブーという意識があり、タブーに抵触するような内容には、なるべく目を背けて、他人事だと思うようにするような気持ちが働く。

 それを本能というのだという意識は、明日美にはあった。本能という言葉は明日美も嫌いではない。

――本能があるから、人は生きていけるんだ――

 と漠然とであるが、本能への定義をそう感じていた。

 そもそも本能というのは条件反射に近いもので、漠然としたものでしかないと思っている。条件反射とは、本能が表に出てきたものであり、狭義の意味での本能の表れだと思っている。だから、本能というものは広義の意味でしかなく、

――広義なものは漠然としているものなのだ――

 と考えていたのだ。

 そういう意味では自分の中でタブーと感じているものも漠然としたもので、もし誰かから、

「タブーって、どういうものをいうの?」

 と聞かれると、どう答えていいのか返答に困るはずである。

 その言葉を額面通りに受け取って、タブーという言葉の定義について答えようとするのか、それとも、タブーと考えていることを例えとして答えようとするのかを考えてしまうからだ。

 たぶん、後者の方を明日美は考えることだろう。もしそうだとすると、自分の中にあるタブーを思い返してみて、あらためて考えるとすぐに何が思い当たるというのだろう?

 もし、その時に一つのタブーがあって、そのタブーが話題になったうえで質問されたことであれば、いくらか答えようもあるだろう。しかし、まったく前兆もなく、いきなり聞かれたのであれば、答えようもないというものである。漠然としているというのは、そういうことを言うのではないだろうか。

 明日美はこの時、舞香が何を言いたかったのか、考えてみた。

 その時にはビックリしたという思いと、他人のタブーに足を踏み入れそうになっている自分に恐怖を感じ、余計なことを考える余裕などなかったが、あの後、少し沈黙の時間が流れたが、最後は舞香の方から、

「このお話は、これでおしまい」

 と言ってくれたことで、フリーズしていた時間が解放されたのだった。

――フリーズしていた時間?

 それは文字通り凍り付いた時間であった。

 フリーズしていたと言っても、完全に固まっていたわけではない。時間の流れが極端に遅かっただけで、もしその場で誰から拳銃をぶっ放したとすれば、その弾丸は少しずつ標的を目がけて近づいていたに違いない。

 硝煙反応の残り香が感じられるほどの空間に風だけが時間の遅さに逆らって、普通に吹いている世界だった。標的目がけて突っ込んでいく弾丸は、ひょっとするとその風に煽られて、方向を変えるかも知れないと感じるほどのスピードの違いであった。

 もし、その状況で、普通の時間を過ごしている人がいるとすればどうだろう? 一気に身体が反応できずに、あっという間に死が訪れていたかも知れない。

 これも明日美の妄想だった。

 明日美は一度妄想モードに入ってしまうと、どこかで抜けることのできるホールを見つけないと、自分では抜けられないと思っている。今までにはホールを見つけるタイミングはドンピシャで、綺麗に抜けてしまったことで、自分が妄想モードに入っていたことは分かっていたが、入ってからのことはまったく記憶にない。もちろん、どのように抜けたということも覚えておらず、

――覚えていること自体がタブーであり、許されないことなんだ――

 と自分に言い聞かせていた。

 明日美の中でのフリーズは、今に始まったことでもなく、今までに何度もあったことだった。それだけに、

――フリーズを起こすのは私だけではないに違いない――

 と思っていて、そのうちに誰かと同じフリーズに落ち込んでしまい、その中で出会ったことをお互いにビックリしてしまうと考えていた。

 それこそ妄想であり、夢とフリーズ、そして妄想をごっちゃにしてしまうようになっていたのだ。

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