隆子の三姉妹(後編)

森本 晃次

第1話 第4章

 隆子がゆかり先輩と信二の墓参りをしている時、洋子は付き合っている彼氏と、ホテルの一室にいた。

 洋子の彼氏の名前は、隆二と言った。隆二は洋子にとって初めての男性だった。付き合う相手は決まらなくても、処女ではないと思われていたのだろうが、実際には身持ちはかなり重たかった。実際に気に入った相手でなければ、自分を許さないと思っていたからだ。

 だが、そんな女性ほど一度タガが外れると、

「どうして、今までこんなに身持ちが重たかったのかしら?」

 と考えるもののようで、隆二と出会った時に、

「電流が走ったみたい」

 と思ったのだ。

 そのことを隆二に話すと、

「それは嬉しいな、君のような女性にそう言われると、男冥利に尽きるというものさ」

 普通なら、こんな歯が浮くようなセリフを言われて喜ぶような洋子ではないはずなのに、なぜか隆二にだけはどんな言葉を言われても違和感を感じることはないように思えてならなかった。

 隆二は洋子の身体にピッタリと嵌った。他の男を知らない洋子は、

「これを幸せというんだわ」

 と、感じていた。

 だが、それは彼とホテルにいる時だけだった。

 ホテル以外の場所では、なぜか不安や恐れが彼に付きまとっているのを感じる。

――彼が他の女性に走ったらどうしよう――

 という思いが渦巻いているわけではない。

 どちらかというと、このまま彼に溺れてしまうかも知れない自分が怖かったりする。ホテルのベッドで彼の腕の中にいる時だけが、その思いを打ち消すことのできる時間だった。

 かと言って、彼と一緒にいない時間は、それほど不安も恐れも感じない。約束すれば必ず彼は現れる。そして、洋子を決して裏切ることはないという思いを抱いているからだ。

 洋子は、、恋愛をしたいという思いは人一倍あったが、足を踏み入れることには、さらに人一倍警戒心があった。

 それは、最初に悪い方から考えてしまうからではないかと思っていた。恋愛に関して不器用だと思っているのは、その思いがあるからで、何事も最悪なケースを考えてしまうのは、恋愛以外にもあることなので、洋子にとっては想定内の考えなのだろうが、その思いが隆二にもあった。

「お願い、どこにも行かないで」

 ベッドの中で、そう言って、彼に抱きついたこともある。

「何言ってるんだよ。俺がどこに行くって言うんだい?」

 彼は、きっと洋子が自分の浮気を心配しているのだろうと思ったのだろう。優しく髪の毛を撫でた。

 髪の毛を撫でられるのは、洋子にとってはウイークポイントを刺激されたことであり、気持ちがすでにここにあらずというほど、昇天しかかっていた。

「おっと、そう簡単にいかれてしまっては困るんだよ。ゆっくりと可愛がってあげようね」

 妖艶な笑みは、身体の力を一気に抜き、意識が朦朧としてくるほどになってくると、もう彼に任せるしかなくなってしまった洋子は、手の平だけ、力が入る身体になっていた。

 彼が入ってくると、もう洋子は自分ではなくなってしまうのを自覚していた。

――私は誰なの?

 隆二は満足そうな顔で洋子を見下ろす。それは、完全に相手を征服した快感で、それは身体が受ける快感とは違って、比べ物にならないものなのかも知れない。

「誰?」

 洋子は、声にならない声を上げた。自分たちを冷静に見ている誰かが確かに存在している。

「誰なの?」

 再度、訴えた。

 洋子は不気味な恐怖に駆られたが、それも隆二の与えてくれる振動で、薄らいでいく。

「お願い、快感に集中させて」

 と叫ぶが、相手は何も言わない。

 さもありなん、相手は何かをしているわけではない。ただそこに存在しているだけなのだ。

――存在している?

 その言葉が一番ふさわしいのかどうか、洋子には分からなかった。ただ、その時に感じた不安は、今までにも感じたことがあるような気がして仕方がない。それも、今までに一度だけではない。かつて定期的に感じた感覚であり、むしろ懐かしさすら感じるほどである。

「由美」

 思わず声を上げた。

 この声だけは声になったようで、

「えっ?」

 隆二は身体を揺さぶるのを止めた。

「由美って?」

「ごめんなさい。妹の名前なの。どうして今その名前を呼んでしまったのか分からない。ごめんね」

 と、その場を取り繕った。取り繕ったと言っても、妹であることは事実だが、なぜその時妹の名前を叫んでしまったのか、洋子にはすぐには分からなかった。隆二もそれが分かったのか、それ以上何も言わなかった。

 だが、洋子は冷静になってくると、快感の中に誰かがいて、存在しているのかどうか疑問を感じた時、思わず浮かんできた顔が妹の顔だったことまで思い出した。それがさっき考えたことのすべてなのか、それとも一部だけしか覚えていないだけなのか分からない。ただ、意識は繋がっていたわけではない。そう思うと、すべてではなかったと考える方が自然であろう。

「ちょっと、落ち着こうか?」

「ごめんなさい」

 せっかく盛り上がった気持ちと身体を収めるのはかなり難しいかも知れないが、彼がそこまで精神的にデリケートな男性ではないということは洋子も分かっていた。すぐに回復し、洋子にのしかかってくるだろう。

 洋子もそれを待っているが、二人同時に気持ちが元に戻るわけではない。洋子はなるべく彼よりも先に自分が我に返ることに集中していた。

――どうして由美なのかしら?

 という思いは残ってしまったが、今は集中しないといけないと思った。

 隆二は、その日は、それ以上何もしなかった。しなかったというよりも、何もできなかったと言った方が正解だった。洋子が叫んだ名前が男性であればいざ知らず、女性であるのに、どうしてそれ以上何もできなかったのか、洋子には理解しかねていた。

「今日は、すまない」

 と、隆二は一言いうと、その日は帰っていった。洋子はまるで一人取り残された気分になったが、これもしょうがない。無意識とは言え、自分の口から出てきたものだからである。

――それにしても、由美はこんなところにまで顔を出すなんて――

 優位性を取られていると感じていたが、一番肝心なところで現れるなんて、反則もいいところだ。洋子にとって由美は、やはり天敵のようなものである。

 一人取り残された洋子は、ホテルを出ると、そのまま一人で帰るのも寂しすぎる。ちょうどその日は、姉も帰ってこない。そう思うと行ってみたい場所は一つだった。

 由美に連れて行ってもらったバーが、ちょうどホテルからそれほど遠い距離ではなかった。ただ一つ気になるのは、ホテルの帰りに、お気に入りだと思っている店に立ち寄ることだった。男性に抱かれた身体で、気に入っている店の敷居を跨ぐというのは、心苦しい気がしたからだった。

 しかし、一人になって気持ちが冷静になってくると、ホテルにいた時間が、かなり前だったように思える。時間が経ってしまえば、ほとぼりが冷めたという考えもあまり好きではなかったが、このまま寂しく帰るよりもよほどマシではないだろうか。洋子は足が勝手にバーに向かっているのを感じると、心苦しさが次第に薄れていくのを感じた。

 隆子はこの店に来てマスターと話をしていると、いつの間にか、自分の中で発想が膨らんできて、過去に封印した記憶を解き放つようになっていた。洋子はマスターと話をするというよりも、一人になって、自分の空間を作ることを目的としていた。

 孤独な空間が、必ずしも寂しいというわけではない。孤独でも寂しさを伴わない孤独もある。寂しさは感情であって、振り払おうと思えばできなくもない。しかし孤独は環境なので、振り払うことはできない。自分がそこから立ち去るしかないのだ。

 洋子は、ずっと無趣味だった。芸術的なことには、まったく興味を示すことはなく、現実的なところがあるくせに、一人になりたいと思うのは、その現実から逃げ出すためであった。

 矛盾した考えであるのは分かっていたが、孤独が好きだという方が強いのか、それとも人ごみの中が嫌だという思うの方が強いのか、まわりから見ても、自分の中でも無表情、無感情な自分がどうして生まれたのかを考えていると、一つ一つの矛盾がそこには存在していたように思える。

 洋子は、自分を歪んだ性格だと思っている。決して他の人と同じではないという自負のようなものがあり、それを当然のように思っていた。不器用なところがあるのは、その考えが影響しているのだが、本人はそれでもいいと思っている。

 洋子は店に入ってから、話をしようとは思わなかった。マスターが話しかけてくれたら話をしてもいいと思っている程度で、息詰まる雰囲気の空気が、店内に充満していた。

 だが、マスターはそれでもニコニコしている。洋子の気持ちを分かっていて、それで少し悪戯でもしてみようと思っているのか、絶対に笑顔を崩さない気持ちを持っているようだった。

――本当にこの二人は姉妹なのだろうか?

 と、それぞれの性格を思い浮かべてみたが、考えてみれば連れてきたのは由美だった。由美も分かりにくい性格の女の子だが、同じ分かりにくい性格でも、洋子とは正反対だ。二人を並べて比較してみたい気分になっていたが、並べることが難しいことは、マスターも重々承知していた。

 由美の場合は、一口で表現すれば、小悪魔というところであろうか? 手を出すと最初は甘えてくれるところが何ともくすぐったさを感じるが、次第に見ているだけで恐怖を感じるようになる。それはきっと男にとって、自分の中にある異常性欲に気付かされるからなのかも知れない。

 では、洋子の場合はどうなのだろう? 洋子には一口で表現できる言葉は見つからない。しいていえば、伝説の「雪女」のような雰囲気が付きまとっている。手を出す時に気付かないのは由美の場合と変わりはないが、次第に気付いてくる由美とは違い、最後まで気付くことはない。気付いた時には身体が凍り付いてしまっていて、相手に恐怖を与える暇を与えないのではないだろうか。そういう意味では、由美に対してよりも恐ろしい。洋子には由美にはない大人の魅力と妖艶さが備わっているのだ。

 由美を好きになる男性は、洋子のことは眼中にない、洋子を好きになる男性は由美のことが眼中にない。姉妹で一緒にいることはあっても、一人の男性を相手に二人が一緒に存在することはなかったであろう。由美にしても洋子にしても、二人の好みの男性もまったく違っている。

 洋子の場合は、好きな相手の雰囲気は変わらないが。由美は今までに何度も自分の好きな男性のタイプが変わっている。基本的に好きになる相手が変わるというのはあまり考えられないが、由美の場合は好きになった男性から嫌われたり、そっぽを向かれると、それまでタイプだったはずなのに、アッサリと自分のタイプを変えてしまう。

 由美は相手があってこその自分の好みのタイプなのだが、由美の場合は、あくまでも自分中心である。どんなに格好のいい男であっても、自分に対して興味を持たなかったり、邪険にする相手は、由美には用はないのだった。

――まるで水と油みたいだわ――

 二人が共通して相手に感じていることだったはずなのに、なぜ洋子は肝心な時に由美の名前を口にしたりしたのだろう。自分でもよく分かっていないが、由美を必要以上に意識するのは、今まで感じたことのない相手が自分に対して持っている優位性を恐れている証拠なのかも知れない。

――優位性って何なのかしら?

 洋子は自分が姉の隆子に対して優位性を持っていること、姉がそれを意識していることに気付いてはいるが、さほど強く感じているわけではない。それは自分が由美に感じている思うほど大きなものだとは思っていないからだ。

 三姉妹の中でそれぞれ優位性を持っていることで、うまい具合に均衡が保たれているのを一番意識しているのは、洋子だった。三姉妹の中で姉も妹も持っているのは洋子だけである。立場的な意味でも一番理解しやすい位置にいると言ってもいいだろう。

――三姉妹だから成立するんだわ――

 これが二人姉妹だったら、一方通行の優位性だけでは、主従関係でしかありえない。二人姉妹を見ていて、主従関係を見つけることができなければ、二人の間に優位性は存在しないということだ。

――もし、他の人が私たち三姉妹を見たら、容易にそれぞれの優位性を見抜くことができるのだろうか?

 洋子は、難しいのではないかと思った。洋子と由美の関係であっても、それぞれに並列して見ることが難しいのに、三人を見るということが果たしてできるだろうか? ただ、逆に三人だから見えるという考え方もできる。だが、その可能性は限りなく低いのではないかと洋子は感じていた。

――やはり三姉妹の中にいない限り、簡単に分かる関係ではないんだわ――

 と、洋子は考えた。

 洋子が隆二と知り合ったのは、そんな三姉妹の優位性について考えていた頃だった。

――付き合いはじめてから、隆二は私に対しての気持ちが大きくなってくれていることはあっても、しぼんでいくことはないだろう――

 と思っていたが、確かに気持ちの大きさはその通りかも知れない。しかし、徐々に遠ざかろうと隆二が考えていることを洋子は気付いていない。踵を返してしまっているのであれば、気付くのだろうが、こちらを向いたまま、摺り足で後ずさりしているのだから、洋子には彼が遠ざかっているという意識はなかった。

 洋子が不器用に見えるのは、相手の気持ちを分かろうとしないからであった。本人は分かろうと努力をしているのだが、実際には違うところを見ていることで、すれ違うことも少なくない。それを平行線だという意識があるのであれば、このままでは交わることはないと自覚するのだが、平行線という意識もないので、結果的に分かろうとしているようには見えないのだ。

 努力はしていても、謙虚ではない。それは洋子の根本的な性格から来ているもので、自分の中で勝手に「平行線」を作ってしまうのだ。洋子が気付かない平行線というのは、自分の中で勝手に平行線を作ってしまうので、それを平行線だという意識がなければ、永遠に気付かないままである。

 確かに今まで彼氏ができなかったのは、平行線を男性が感じるからであろう。洋子にとって彼氏ができるということは、

「平行線の払拭」

 と言ってもよかった。

 大人の雰囲気を持っていながら、ウブなところのある洋子は、初対面の男性には好印象であった。しかし、減算法に伴って付き合っていくうちに、次第に点数がなくなってしまう。男女の付き合いにまで発展する点数ではないということだ。

 男女の付き合いへの閾値とはどれほどのものなのだろう? ここまでは許せるという境界線のようなものがあるのだろうが、洋子はその線を逸脱してしまっているのだろうか。

 洋子は中学時代にも結構モテていたような気がする。だが男性との付き合いはタブーだと自分に言い聞かせていた。別に理由があったわけではない。しいて言えば、恋愛が怖かったというのが、一番近かったのかも知れない。

 洋子のことを好きになった男の子は最初は洋子に対して憧れのような目で見ていたのだが、ある時、突然変なものでも見るような視線に変わってしまう。次第にその視線も感じなくなるのだが、なぜ急にそんな意識を男性が持つのか不思議だった。

――私が変な意識をしてしまうのかしら?

 と考えたが、どうしても、そんな感覚はない。

 確かに自分が意識しないところで相手がどう感じるか分からないところがある。そう思うと洋子は、自分が怖くなった時期があった。その時に恋愛が怖くなったのだが、どうして男の子の視線が急に変わってしまったのか、しばらくすると分かってきた。どうやら、由美が関係しているようだ。由美があることないこと相手の男性に吹き込んでいる節がある。もちろん、相手の男性はそんなことは言わない。もし悟られると、自分が洋子を好きになってしまったこと、そして、人から言われたことを信じて、毛嫌いしてしまうこと。こんなことを人には知られたくない。しかも当事者の相手には絶対に知られたくない。自分だけで抱え込んでいるのも辛いのに、それ以上抱え込むことは嫌だった。

 洋子が本当に怖かったのは恋愛に対してではない。由美がどうして自分の悪口を洋子のことを気にしている男性に言うのか、その理由が分からないだけに怖かった。

 その頃はまだ、由美が洋子に対して優位性を持っているなどという意識はなかった。どちらかというと、洋子ほどではないか、一人でいることが好きな女の子で、誰かといるとしても、それは隆子と一緒の時がほとんどだったからだ。

 だが、洋子は気付いていなかった。由美にとって、洋子のそばにいる時間が隆子ほどではないが、結構占めているということを。洋子にその意識がないことで、由美に何らかの疑問を植え付け、まるで洋子が由美を遠ざけているような意識を与えてしまったのかも知れない。

 由美は、洋子のことが嫌いではない。洋子のようで勝手に恐怖を感じ、優位性を相手に与えるきっかけを作っているに過ぎない。

 由美にとって、洋子への優位性など、別になくてもいいのだ。最近になって洋子もそのことに気付き始めた。

 そうなると、洋子の中で由美の存在は次第に大きくなっていく。隆二とのベッドの中で、思わず由美の名前を口にしてしまうのもそのせいだろう。

 しかし、この期に及んでも、洋子は自分が由美に対してどう思っているのか、ハッキリと分かっていない。それは、自分にとって由美に対しての気持ちの中で認めたくないところが大部分を占めているからであった。

 由美の方は、自分の意識が洋子に大部分向いていることは分かっていた。

 ある時期までは、洋子に対してよりも、隆子に対して向いている気持ちの方が強かった。ある時期とは、隆子がゆかり先輩に走った時である。由美は女の直感でそれを察した。まだ子供と言ってもいいくらいの時期なのに、勘の鋭さは三姉妹の中でも群を抜いていた。

 由美は隆子への視線に嫌悪感が現れた。

 隆子にも分かっていたはずだ。だが、知らないふりをしていた。

――まさか由美が――

 という思いがあったからだろう。

 それはまるで洋子が由美によって感じさせられた気持ちに似ている。そういう意味では作為的であっても、そうでないにしても、結局由美は相手に嫌悪感を与える宿命のようなものを持っているのかも知れない。

 由美は、誰かを意識していなければ我慢できない性格だった。隆子に対して嫌悪感を感じたことで、その目は今度は洋子に向けられることになる。

 由美からすれば、隆子の方がよほど、親近感があった。一つ上の姉であるはずなのに、洋子に対して相当な距離を感じるし、歩み寄ろうとしても、なかなか近づくことができない。それは、由美のせいではなく、洋子の方で平行線を意識しているためのことだということを、由美には容易に理解できるものではなかった。

 洋子を意識するようになった由美にとって、本当に分かりにくい相手であることを示唆していたのは、あまりにも男性に対して不器用だったことだ。洋子が孤独が好きなタイプだということは分かっていた。分かっていたが、絶えず誰かを求める性格ではないかとも感じていた。もっとも、洋子自身は否定するに違いないが、自分のまわりに誰かがいないと我慢できない由美には痛いほど洋子の気持ちが分かった。分かった上で、洋子を見つめようとしても、結局分からないところが膨らむ結果になってしまう。

 一つの綻びが、致命的になりかねないことは決して少なくない。洋子にはそんな危険性が孕んでいるように由美には見えていた。

 もし、自分が姉であれば、洋子に対して、腫れ物に障るような接し方をするだろう。だが、妹の立場では、却ってぎこちなくなってしまう。洋子のような女性に対しての接し方がどれほど難しいか、由美には分かっていたが、それでも接しなければいけない気持ちは由美の中で一つのジレンマを形成していたのである。

 この時、由美は漠然としてだが、

――私は本当に洋子姉ちゃんと血が繋がっているのかしら?

 と、考えるようになった。隆子と洋子もあまり似ているようには思えない。そう思った時、洋子だけが姉妹の中で血が繋がっていないのではないかと思うのだった。

 実は、洋子と由美の血が繋がっていないのではないかという疑問は、以前から隆子にはあった。だが、それは姉妹の中で本当に血が繋がっていないとすれば、洋子ではなく由美だという思いだった。

 隆子と洋子の血が繋がっている証拠は、輸血してもらったことがあったのでハッキリとしている。となれば、疑念が湧くものだとすれば、由美と洋子の間のことである。

――由美は私たちの妹のはずだけど――

 隆子が物心ついた頃から由美は自分たちと一緒に育っていたはずだ。疑う余地などないはずなのに……。

 どこまで隆子が由美に対して知っているのかと言われればハッキリとは言えないが、由美が何となく洋子に対して血の繋がりに疑問を持っていることに気付いていた。それの考えを否定できるだけの根拠らしいものが少しでもあれば、説得もできるかも知れないが、少しでも反論されれば、それに対してどう答えていいのか、隆子にはその術がまったく思いつかない。三人とも、もう大人なのだから、余計なことを言わなくても、自分の考えで解決できると思うしかないのだと、隆子はそう思うしかなかった。

 由美の気持ちを知ってか知らずか、洋子は隆二との間のことで、いろいろ考えていた。洋子が由美の名前を口にしたその日から、彼の態度が変わってしまったからである。

 ぎこちなさは最小限だったが、何かに気が付いたのであれば、もっとオタオタしてもいいような気がしていた。隆二が落ち着いた大人の性格であれば分かるのだが、洋子から見れば、少なくとも自分より考え方も、仕草も子供だった。考え方や雰囲気は隠そうとすれば余計に分かるもので、隆二には隠そうとするところがなかった。洋子が隆二と付き合うようになったのは、そんな気持ちがあったからだ。

 それなのに、下手に落ち着いている様子は、洋子から見れば中途半端で、隆二らしくなかった。

――どうしてかしら?

 考えられることはただ一つ。最初から洋子のことを分かっていたということである。それも付き合い始めてからではない。付き合う前から知っていたということになる。

――私のことを知っていて、隆二は近づいてきたのかしら?

 そう言われれば、そんなふしもないわけではない。出会いも偶然だと言われればそれまでで、そんな出会いも悪くないと思って新鮮な気持ちで付き合おうと思ったのを、今さらながらに思い出すことができる。

 洋子は、そんな隆二がなぜ今さらのように何に対して態度を変えたというのだろう。

 付き合い始めから、洋子の性格の中で、気になるところがあって、それを心の中で否定してきたのだが、それが事実だったということで愕然としたということだろうか。彼の立場に立ってみれば、洋子がベッドの中で妹とは言え、女性の名前を口にしたということは、まさか自分がレズビアンではないかという思いを抱いたことになる。

――でもどうして私がレズビアンだって思うのかしら? しかも最初から――

 それよりも、レズビアンが嫌なら、最初から近づかなければいいのに、どうして近づいたのか、それが分からない。何かの理由があったのだろうが、まさか、ただの興味本位というわけではないだろう。

 もし、興味本位なら、その通りレズビアンだと思った相手に、ここまで露骨に嫌な態度を取るとは思えない。しかも、本人は至って冷静なのだ。

 これではまるで洋子が悪者ではないか。

 隆二だけが悲劇のヒーローで、不幸に叩き落す役が洋子だという設定は、納得いくわけがない。

 洋子としても、それほど隆二のことが好きだったわけではない。いつの間に彼をこんなに意識するようになったかと言えば、やはり身体の関係になったからだろう。とろけそうな快感の中で、自分の理性までも吹っ飛ばしてしまうようになってしまうなど、想像したこともなかったからだ。

 これも、洋子が恋愛に不器用だということに繋がってくる。

 恋愛に不器用なせいでどれほど損をすればいいというのか、洋子は今考えている。

 まだ今はこの程度で済んでいるが、これからの恋愛を考えると少し怖くなってくる。

――今は本当なら隆二のことを考えなければいけないのに、さらに先のことを考えてしまうなんて、私らしいわ――

 と、思わず苦笑いをしてしまったが、それも自分が恋愛に不器用なんだという意識を再認識させる結果になった。

 ただ、由美のことは気になっている。あの時由美の名前を呼んだのも何か自分の中に思うことがあって言ったに違いない。それが何なのか分からないが、洋子にとってそれは、自分の中に潜在的に持っているものに共鳴したに違いない。

 洋子は、あの日を境に、隆二が少し変わったことに気付いていた。自分を避けるだけではなく、まったく見かけなくなったのだ。知り合いに聞くと、

「しばらく旅行に行くって言ってたよ」

 という話を聞かされた。

「旅行?」

「ああ、何でも、兄の墓参りもしたいって言っていたからね。もう一人のお兄さんと一緒に出掛けたんじゃないかな?」

「えっ? 隆二さんってお兄さんが二人いたの?」

「そうだよ。洋子ちゃん、知らなかったのかい?」

「ええ」

 隆二は、あまり自分のことを話そうとはしなかったが、特に家族のことは一切話をしてくれなかった。洋子も自分の家族のことを話したいとも思わなかったので、何も言わなかったが、もし彼が自分の家族のことを話していたら、洋子は隆子や由美のことを話しただろうか?

 いや、やはり話したりはしなかっただろう。それにしても、隆二も三兄弟だったとはビックリした。墓参りの相手は長男であり、次男の兄と一緒に墓参りに行ったという。二人は結構仲が良くて、長男の墓参りにも、二、三か月に一度は行っているという。洋子は自分たち三姉妹は仲が悪いわけではないが、それ以上に冷え切った関係だったのではないかと思うのだった。

「墓参りかぁ」

 洋子は、以前に付き合ったことのあった山男の彼のことを思い出していた。

「ごめんなさい。やっぱり私って、不器用だわ」

 と、思い出した彼に向かって、あらぬ方向を向きながら話しかけていたのだった。


 隆子はしばらく帰るつもりはなかった。部屋にはそのつもりの置手紙を書いてきた。それでも最初は一泊くらいのつもりだったが、それだけでは何しにここまで来たのか分からない。隆子は何かを探しにやってきたのだ。おじいさんも、

「せっかく来たんだから、ゆっくりしていけばいい」

 と、言ってくれた。

「じゃあ、お言葉に甘えますね」

 と言って、ゆっくりすることに決めた。

 あまり上手ではないが、以前に少し齧ったことのあるデッサンをしてみたかった。マスターの店の絵を見て、また描いてみたいと、前から思ったからだ。

 水平線の絵を描いていたが、やはり思うように描けない。時間的に夕凪の時間を描きたいと思ったこともあって、どうしても限られてしまう、それでも、毎日のように描いていると、次第に形になってくるもので、描ききった時、何か答えが出そうな気がしていた。

 夕凪の時間以外は、他の場所でデッサンを続けていた。毎日のように墓参りに行っているが、墓参りの後、田園風景を描いてみたりした。

 その日は、田園風景の絵も、自分なりに満足のいくものだったので、気分的にも久しぶりに満足の行くものだった。ここに来てからというもの、墓参りが目的だということもあり、どうしても後ろ向きな考え方になってしまっている。落ち着きたいという気持ちで、ここに留まっているつもりだったが、実際には、現実世界に戻りたくないのだ。今戻れば気持ち的に中途半端になるからなのだが、本当はここにいる時間が長ければ長いほど、カルチャーショックは否めないだろう。それでもここにいるということは、本当に今の時点で現状復帰を怖いと思っているからなのか、それともここにいることで、何か新しい発見でもあるとでもいうのだろうか。少しでも前向きな気持ちにならなければ、今のまま戻ったとしても、ロクなことにはならない気がした。

 それは、今の状態で元に戻れば、鬱状態が襲ってくるような予感があるからであった。ここは、自分の世界ではないと分かっているのに、このまま戻ってしまうと、その反動から鬱状態に陥ると思ったのだ。何か自分に納得のいく答えが見つからなければ、中途半端なまま戻ることになり、それが鬱状態を引き起こすのだと思うのだった。

 隆子は、妹たちが少し気になっていた。

 出張だと思っているのなら、あまり帰ってこないと気にするかも知れないと思ったからだ。かといって、電話で話せるような内容ではない。このまま帰っても鬱状態に陥るのなら、却って余計な心配を掛ける。いないならいないで妹たちもそれぞれにいろいろあるだろうから、何も言わない方がいいだろう。もし、言わなければいけないとしても、今はその時期ではないと隆子は思っていた。なぜなら、まだ隆子の中で気持ちの整理がついていないからだった。

 隆子がこの街で過ごし始めて、三日が経った。容赦なく降り注ぐ日差しは都会に比べると激しいように思う。しかし、ビルの谷間の狭い道を、まるでアリが行進しているかのように人ごみの中で蠢いていると、必要以上な暑さを感じる。喧騒とした雰囲気は、決して人に優しいものではないのだ。

 ずっと都会にいると、そんな当たり前のことまで忘れてしまっていたようだ。

「やっぱりここにいて正解だったわ」

 元の生活に戻る時のカルチャーショックが怖くもあったが、中途半端な状態よりもよっぽどマシである。

 その日も墓参りをするため、花を手にぶら下げて、小高い丘を登っていくと、墓地の方から線香の香りがしてきた。ここ数日毎日お参りをしていたが、墓地から線香の香りがしてきたことはなかった。

 線香の香りは、隆子には特別な思いがあった。

 隆子がこの街で死にかけた時、線香の香りがしたような気がした。鼻をついたと言った方が正解かも知れないが、その思いは、さらに子供の頃を思い出させた。

 隆子は子供の頃、今では信じられないほど、活発な女の子だった。女の子と遊ぶよりも男の子と遊ぶ方が好きで、さらに家で遊ぶよりも表で遊ぶ方が好きな方だった。

 そんな活発な隆子は、結構ケガもしたりした。

 あまり握力が強くなったので、他の男の子と同じようにしていては、危ないことも何度かあった。

 実際に鉄棒で遊んでいて、背中から落ちたりしたことがあった。その時、数秒間息ができなかった、声を出そうとしても、完全に口パクで、声が出ない。まわりの友達も隆子がどれほどの痛みを感じているかなど分かるはずもなく、人によって表情も様々だった。

 その時に感じた痛みは、実際の痛みよりも激しいものだったに違いない。

――まるで石を齧ったかのようだわ――

 息ができなかったくせに、鼻だけはよく通った。鼻だけで呼吸をしていると、埃を吸ってしまうからなのだろう、石を齧ったように思ったのはそのせいだったに違いない。

 鼻が必要以上に通る時というのは、身体に何らかの痛みを感じる時なのか、あるいは、呼吸ができない時に、息継ぎをしようとした時なのかのどちらかであった。

 ただ、この街にいると、最初から鼻がよく通った。それだけ空気が新鮮だということなのだろうが、隆子は、この街にいると、胸を締め付けられる気がしてくることが時々あったが、その理由が、鼻が通りやすくなっているからなのかも知れない。

「まるでパブロフの犬だわ」

 それを、条件反射というが、まさしく電光石火のような感情に、この街の空気の濃さを感じることができた。

 都会の空気は淀んでいて、淀みのせいで濃い空気が身体を犯してしまうような気になってしまう。

 しかし、田舎の空気は新鮮なのだが、それはすべて一種類も新鮮だとは思わない。確かに空気だけを取れば、淀んでいるわけでもなく、純粋さは最高なのだろうが、それだけに、他の香りが通りやすくなってくる。それがいい香りであっても、悪い香りであっても、人に対しては公平だった。

 隆子は、ここで様々な花の香りを嗅いだ気がした。特に好きなのは、金木犀の香りであった。

 どこから香ってくるのかハッキリとは分からないが、近づいた時から、その周辺全体に甘い香りが漂っている。

 甘い香りは金木犀だけではないはずなのに、他の甘い香りすら、金木犀に掛かれば、吸収されてしまうようだ。

 それも匂いが混ざって、気持ちが悪くなるような香りではない。金木犀は単独な香りを漂わせているが、時々違う香りがしてくる。それも違和感があるわけではない。元々金木犀の存在を知ることもなく、香りだけを感じているのだ。

 金木犀の匂いを思い出していると、墓地が近づいてくるのを感じた。その日も金木犀の香りだけを感じながら、まるで吸い寄せられるかのように近づいていったが、気が付けばそこに線香の香りを感じたのだ。

 線香の香りはそれまで無意識に吸い寄せられるように、当たり前のように昇ってきた隆子に、ふとした違和感を感じさせた。

――墓地なのだから、線香の香りがしてくるのは当たり前のはずなのに――

 思わず、苦笑いをしていた。

 だが、違和感がどこから来るものなのかが分かってくると、自分らしいと感じた。

 金木犀の香りは、そこに最初からあるものだ。しかし、線香の香りは必ず誰かの手が存在し、墓前に手向けたことを意味している。

――誰かがいるのか、それとも、ついさっきまで誰かがいたんだ――

 と、人が介していることを感じさせた。

 ここ数日毎日墓参りに来ているのに、どうして今まで金木犀の香りに気付かなかったのだろう?

 金木犀の香りを感じるようになったきっかけが何かあるのではないかと隆子は感じていた。そこに誰かと出会うという発想が芽生えたのは確かだ。だが、それが自分にとっていいことなのか、それとも悪いことなのか、その時の隆子には分からなかった

 さらにそれが知っている人なのか知らない人なのか、それもハッキリしない、漠然とした何かが隆子の中にあった。

 隆子はいつものようにスケッチブックと鞄をその場に置いた。そして、墓前に座りこみ、交互に二人の墓前に手を合わせる、信二の方の墓前には、いろいろと置かれているにも関わらず、ゆかり先輩の方は寂しいものだった。

――信二さんの方の墓参りなのね――

 信二の家族のことは、何も知らない。それは信二に対しても同じことで、何も言わない信二に隆子の方も話す必要はなかった。

 金木犀の香りを嗅いでいると、隆子はゆかり先輩と一緒にいた頃のことを思い出した。二人は時々一緒に出掛けていた。快活な性格のゆかり先輩は、社交的でもあったが、それに比べて隆子は、大人になるにつれて快活さが失われていったこともあり、社交的ではなかった。

 社交的ではなかったから快活さが失われたと言っても過言ではないだろう、

 隆子にとって、ゆかり先輩と出かけるのは嫌いではなかった。元々楽しいことは嫌いではない。ただ、まわりから控えめだと思われていることもあって、自分から動いて快活さな性格だと思われることを隆子は嫌った。

 本来の自分の姿ではない自分を、まわりに誤解されることが、隆子にとって一番嫌なことだった。特にそれがいいことであればあるほど嫌なのだ。それは、まわりの期待に応えることができないことを分かっているからで、まわりの期待に応えられないことが、どれほど自分の中で苦痛として残るか分かっているからだ。

 それは、隆子自身がまわりに期待しないことにも影響している。

「あの人は、人に頼らず、何でも自分だけでこなそうとするからね」

 と、悪い意味で噂されていた。

 仕事をしていて、どうしても協調性は必要だ。

 一人で何でもこなせるよりも、協調して一つの大きなことをできる方が、会社にとってはありがたいからである。

 だが、隆子はそんな風には思っていない。確かに自分一人でこなさなければいけないと思うのは結構きついことだが、

――私だからできるんだ――

 という気持ちではなく、

――人と協調したくないから、自分でするしかない――

 という方が数倍きつい。しかし、それが隆子の中で強い意志となって現れれば、それは隆子のいいところであり、他の人にはマネのできないこととしてのかけがえのない長所なのだと隆子は感じていた。

 しかし、長所は短所と背中合わせ、一歩間違えれば長所も短所にならないとは限らない。まわりから短所だと思われていることでも本人には長所としか思えないことであれば、やはりそれは長所なのではないかと、隆子は思うのだった。人によって考え方は違うものだが、本人が考えることは一つである。そう思うことが自分を信じることだと思うのだ。

 そんな隆子は、まわりの人を信じることは今も昔もほとんどなかった。特に全幅の信頼を置いていた人と言えば、ゆかり先輩だけで、今、どうして隆子はゆかり先輩の何を好きになったのか、今さらのように思い出そうとしていた。

 ゆかり先輩には、以前付き合っていた男性がいたという。

「私はその人のことが好きで好きでたまらなかったのよ。私のような女でもいいって言ってくれた男性はその人だけだったの。でも、その人には、心の中に思っている女性がいたのよ。その人は私に対して、隠し事は一切なかった。だから、そのことも知っていたの」

「いい人だったんですね」

「ええ、私があの人のことを好きになった一番の理由は、『僕は不器用だから、思っていることは相手にすぐに分かっちゃうんだ、だから、それなら最初に言っちゃおうって思うようになってね』と言ってくれたの、彼がそう言いながら笑ったので、私も思わず微笑み返したの。その時に、吹いてきた風が気持ちよくて、それで好きになったのよ。風が気持ちを押してくれたような感じなんだけど、おかしいでしょう? これが私の考え方なのよ」

 ゆかり先輩なら、そんな男性を好きになる理由も分かる気がした。

 隆子は、そんなゆかり先輩だから、自分が好きになったのだと思っている。

「それでね、その人が好きだった女性に対しては、片想いだったらしいの。片想いの辛さもいろいろ話してくれたわ。片想いで何が辛いか分かる?」

「いえ、分からないですけど」

「ということは、隆子ちゃんは片想いの経験がないということ?」

 片想いの経験がない女性などいないというのが隆子の基本的な考え方だった。先輩の言葉に少しムッとしたが、

「そんなことはありません」

 と少し強い口調で言うと、ゆかり先輩はニッコリと笑って

「じゃあ、隆子ちゃんは、好きな人に片想いを知られたくないと思う方?」

 少し考えた。実際にあまり深く考えたことのなかったことだからである。

「そうですね。知られたくないと思うかも知れませんね」

「ということは、それほど強く知られたくないと思わない方なのね。きっと知られると恥かしいという程度のことなんでしょうね」

 確かに先輩のいう通りである、隆子は先輩の話に対し、次第に引き込まれていくのを感じていた。先輩は続けた。

「片想いというのは、本当に相手に知られたくないと思う時、これが一番辛いものなのよ。それは私も感じたことがあるから分かるの」

「私は、さすがにそこまで感じたことはなかったわ」

 と、隆子がいうと、

「じゃあ、その人が彼女のどこが好きだって言っていたと思う?」

「難しいですね」

「その女性は、男女問わずに、まわりからすぐになつかれる性格だったらしいのよ。たとえば、初対面から二、三度目で、下の名前で呼ばれるようになったり、一緒にいても、軽く肘打ちをされて、『分かるでしょう?』なんて言われるほど、すぐに相手に馴染んでしまう。または相手が馴染んでくるようなそんな女性だったんだって。、でも彼が片想いだったのは、自分に勇気がなかったからだというだけではなかったのよね。私には彼から言われなくても、気持ちは分かったわ」

「どうしてなの?」

「それはね。男女問わずにすぐに馴染めるということは、優しい態度を取るのは自分にだけではないかも知れないって思っちゃうことなの、だから、それ以上仲良くなるのが怖いのかも知れないわね。適度な距離がいいという人がいるけど、そういうことなのかも知れないわ。そういう意味で打ち明けられないことの本当の理由は、彼に勇気がないからだって言えるんでしょうね」

「じゃあ、ずっと片想いだったんですか?」

「そうね、結局何の言えないまま終わってしまった。それが彼には自分の中にトラウマを作ってしまう結果を産んだ」

「まるで永遠にトラウマが解けないような言い方ですけど、どうしてそこまで?」

「彼はその時知らなかったらしいんだけど、彼女の命はそんなに長くなかったらしいの。彼女ももちろん、そんなことは知らなかった。でも、サナトリウムに入院したことで、そのことが分かったようで、彼は結局彼女に合わせる顔がなくなったみたいで、お見舞いにいく勇気がなかったと言っているのよ」

「悲しいお話ですね」

「悲しい……。確かにそうね。でも、一体誰に対して、誰がどう悲しいのかしら? 私は悲しいという言葉はその時の状況に使うべきではないような気がするのよ。隆子ちゃんには分からないような気がするんだけど……」

 確かに、その話は先輩が聞いたことで、それを又聞きして、それを理解しようとするには難しさを孕んだ問題だ。だが、隆子は何となく分かる気がした。そして、隆子が感じている思いと、先輩が感じていることも若干違っているような気もする。それだけ、先輩は相手の男性に近い場所にいたのだと思う。

 少し相手の男性が羨ましく感じられたが、それよりも、自分の入りこめない世界が二人の間には存在していることを感じた。ただ、先輩も同じことを考えているのかも知れない。そう思うと、先輩と隆子と、どちらが苛立ちが強いのか、隆子には分からない気がしてきた。

――ひょっとすると、私の方が強いように思うわ――

 そう感じていたのだ。

「それでね。その人は、自分の殻に閉じこもってしまったの。それがどれほど辛いものなのかって彼のことばかりを考えている時期が続いたの」

「……」

 先輩が、相手のことを思えば思うほど、隆子は聞いているのが辛くなってきたのを感じた。

「でも、気付いたの。本当に辛いのは彼よりも、私の方じゃないかってね。それはきっと自分が女性だということで、彼が好きだった彼女の立場に立って考える気持ちが強すぎるってね。入れ込みすぎると、我を失うって聞いたことがあるけど、まさか、それが人を介して、他の人の気持ちが自分に乗り移るなんて、想像もしていなかったわ」

 この話で少し隆子の溜飲が下がったのを感じた。

――だから私は先輩のことが好きなんだ――

 隆子の気持ちに逆らうことなく、今までもそうだったように、ベストのタイミングで離れそうになっている感情が元に戻ってくる。これほど素晴らしいタイミングもないものだった。

 隆子は先輩のことを再度思った。

――先輩も辛かったのよね。私が先輩の苦しさを包み込んであげないといけないんだわ――

 そう思ったのも、先輩が自分のことを隠さずに話してくれるからだ。やはり、先輩が好きになる人には男女問わず、共通性がある。ということは、隆子と先輩が好きになった男性はどこか似ているということなのだろうか?

 隆子は先輩の話を聞いてよかったと思ったが、その時はきっと、

「煩わしい話を聞かされた」

 という顔をしていたかも知れない。

 隆子は、そういうところが素直ではない。それは隆子自身短所だと思っている。そしてまわりの人もそう思っていることだろう。自他ともに短所だと思っていることは、本当に短所なのだから、治すべきところであろう。

 隆子はそれをまるで自分の病気のように感じていた、必要以上に意識してしまうと、却ってよくないことを隆子はその時分かっていなかった。

「いつから分かるようになったんだい?」

 と、聞かれても、

「ハッキリとはしないの」

 としか答えられない。まさしくその通りに違いない。

 そのあと先輩が好きだった人の彼女がどうなったのか、先輩の口からは聞くことはできなかった。亡くなる前に彼が告白できなかったことは分かっても、彼がそれからどうなったのか、きっと先輩は自分の口から話すことはできないと感じたのかも知れない。

 それでも、隆子に話さないではいられなかったという気持ちには間違いないようだ。そう思うと、先輩がやはり自分が好きになった相手として間違いではなかったことを確信したのだった。

 先輩のことを好きになった時の気持ちを隆子は思い出していた。

 先輩から声を掛けられた時、最初はビックリした、しかし、いつの間にか先輩と一緒にいることが、自分の存在意義とまで思えるほどになった。先輩が好きになった相手の話を聞いた時もそうだったが、最初のインパクトは、

――強引な人――

 だったはずなのに、次第に気を遣ってくれていることに気が付いてくると、

――強引さは、優しさの裏返し――

 であるかのように感じさせられた。

 ゆかり先輩に抱かれている時だけが、隆子にとって至福の刻ではなかった。ただ、ゆかり先輩がしてくれる話を聞いていたから、先輩の腕の中にいる時が一番の至福の刻になっていることに気が付いた。

 ゆかり先輩が隆子と別れてから、どうやって信二と知り合ったのか分からない。隆子は信二と付き合ったわけではなかったが、ゆかり先輩と別れてから、気になる相手であったことに違いはなかった。

 ただ、一つ隆子が信二に感じたことは、

――この人は、いつも何か重たいものを背負っているような気がする――

 と感じていたことである。

「もし、その思いがなければ、付き合うことになったかい?」

 と聞かれると、

「そんなことはないわ。付き合うかどうかの決定的な事情ではなかったもの。でも、一つの大きな理由になったことは確かだわ」

 と答えたに違いない。

 信二とは、何度か会って話をしたりしたが、いつも話は重たい雰囲気だった。おおよそ知り合って間もない男女が付き合っている雰囲気ではなかったことに違いはなかった。

 話が深く入り込むことに、隆子は嫌な気はしなかったが、話が重たくなるというのは、自分が望んでいることではない、話が重たくなると、会話が重たくなり、会話を重ねるごとに次第に重くなりそうで、前にも進めず、後ろにも戻れない、そんな感じになってしまう。

 信二のことは、ほとんど知らないと言ってもいい。家族のことを言いたくないのは、家族に何かあるからなのかも知れない。

 ただ、そのことを一度、ゆかり先輩から聞かされたことがあった。

 ゆかり先輩と信二は心中だった。ただ、その結果は、信二がその場で即死していて、ゆかり先輩は、即死とはいかず、病院に入院することになった。

 しばらくは面会謝絶で生死の境をさまよったが、一週間ほどで、何とか話ができるくらいに回復した。それはまさしく蘇生と言えるほどだったということを、病院の先生から聞かされた。

 ゆかり先輩と信二の心中については、家族はもちろんのことだが、知っている人は少なかった。隆子と、それ以外の親しい数人くらいのもので、ゆかり先輩のお見舞いも、隆子は一人で出かけた。隆子にとってはそれがよかったのだ。

「でも、まさかこんな形で隆子ちゃんと再会するなんて思わなかったわ」

 と先輩に言われて、

「そうですね。その思いは私も先輩に負けないくらいに持っているわよ」

 隆子は、自分のことをもう先輩の知っている自分ではないと思っている。それは自分が変わったということもあるが、先輩自身が変わってしまったことで、自分が知っている記憶が歪んでしまうほどになっているのではないかと思ったからである、

 立場的にも、今では自分の方が強いのではないかと思えるほどで、それは先輩自身が悪いんだと思うようになっていた。目の前で寝たきりになっている先輩は、以前の面影は感じられず、

――ここまでやつれちゃうなんて――

 と感じさせられた。

「どうして、私のことを知ったの?」

「先輩が私のことを、ここで話したと聞いてますよ」

「私が?」

「ええ」

「私が……」

 明らかに戸惑いを隠せない様子の先輩だった。

 少し考えてから、

「そうかも知れないわ。私にはそんなに頼りにしているほどの人はいないから」

 今でも先輩は隆子のことを頼りにしているというのだろうか?

「私、記憶の半分が欠落しているのよ。私と一緒に死のうとしてくれた彼のこともほとんど知らないもの」

――一緒に死のうとしてくれた?

 それを聞いた時、心中の首謀者は先輩の方だということが分かった、。

 そして、先輩の記憶が欠落しているのは、ショックがそれほど大きかったのか、それとも死に切れなかったことで、死のうとしたことへのバチが当たったのか、どちらかではないかと隆子は感じていた。

「信二さんって、どんな人だったのかしら?」

 と、隆子が聞くと、

「彼の親が心中していることだけは覚えているの。だって彼が言っていたんですもの『俺は親の呪縛から結局逃れられなかったんだ』ってね」

 その話を聞いた時、信二がどうして心中を企てるような人だったのかを知った。隆子の知っている信二は、心中はおろか、自らの手で、自分の命を粗末にするような人だとは思えなかったからだ。

 信二がゆかり先輩に隆子のことを話したのかと思うと、少しビックリした。

 隆子が、信二と付き合わないと決めたのは、信二は自分と付き合うような男性ではないということを感じたからだった。

 ゆかり先輩が信二と付き合うようになった理由は、先輩の中にあるトラウマが影響しているのかも知れない。

 先輩が片想いでいた男性に似ているところがあったからなのか、それとも、自分の中にあるトラウマを払拭してくれる男性がいるとすれば、その時に出会った信二だけではないかと思ったからなのかも知れない。

 片想いの相手が永遠のトラウマとなったのだから、ゆかり先輩にとって、信二も最初は片想いのようなものだったのかも知れない。

 しかし、ゆかり先輩は押しに弱い方だった。信二が押しの強い男性であれば、ゆかり先輩が信二に「堕ちた」のも分かる気がする。

 信二は話をする時には、話題性に事欠かなかったが、急に会話を切って、一切話すこともなく、相手が話を挟むことのできない雰囲気を醸し出すのが、信二という男性の特徴だった。

 ゆかり先輩と信二がどれほどの仲だったのか、想像するのは難しいだろう。だが、一緒に死のうとまで思い、そして、相手だけが死んで自分だけが生き残った。自分のことは覚えているが、彼のことはあまり記憶にないようだ。

「頭に後遺症が残っての記憶の欠落ではなく、精神的なものなので、思い出す可能性は結構あると思いますよ」

 脳外科の先生の話だったが、要するに外傷の面では問題ないので、後はメンタル面だということを言いたいのだろう。隆子を安心させるつもりでの言葉ではあったが、精神的なことの方が問題としては大きいのではないかと思う隆子には、複雑な思いだった。

 身体に問題がないということは大切なことだ。前提としての第一段階が問題なかったとということだからである。

 だが、精神的なものは、漠然としているだけに、本当に元に戻るのか、いや、戻ったということを、誰が証明できるというのだろうか、それを考えると、隆子の頭は重たくなるのだった。

 先輩と離れてから、それぞれの新しい人生を歩んでいると思っていたのに、先に進むことができず、苦しんでいた先輩のなれの果てがこの状態だと思うと、一気に襲ってきそうになる鬱状態を抑えることができるか、隆子には自身がなかった。

 ゆかり先輩は、隆子の心配をよそに、次第に元に戻っているかのようだった、先輩の記憶の欠落は、やはりトラウマから来るもので、時間が解決してくれるものだった。

 ゆかり先輩も自分の記憶が欠落していた時期があったなどという意識はない、本当に一部の人間だけが、ゆかり先輩の記憶が欠落していた時期が、ほんの少しあった程度だということを知っているだけだった、

 ゆかり先輩の体調も精神的にもほとんどよくなって、隆子もほとんど先輩のことを気にしなくなっていた。

 先輩は、数日後に退院して、家に帰った。

 いや、帰ったことになっていた。実際には帰っておらず、先輩が家に帰っていないことを、しばらく誰にも分からないでいた、病院も退院してしまえば、ちゃんと家に帰ったものだと思っていた。本当にしっかりしていないと、退院させるわけもないからである。

 隆子も、もちろんちゃんと先輩が家に帰ったと思っていた。ただ、若干の不安があったのも事実だった。不安は気のせいだと思い、隆子は自分の考えている嫌な予感を、打ち消そうと必死になっていた。そうしないと、自分まで落ち込んでしまって鬱状態に陥りそうになるからだ。

 鬱状態というのは、由美を見ているととく分かった。隆子は自分が躁鬱症になったのは、由美の影響だと思っていたからだ、

 ただ、それは由美が悪いわけではない。由美を見ていると鬱になりそうな自分が想像でき、鬱状態を避けることができなくなるからである。

 そんな時、由美が自分の反面教師の役割をしているのに気が付いた。

――由美に対して優位性があると思っていたけど、本当は反面教師としてのリスクを負った上での優位性なのかも知れない――

 誰かに対して何かの作用があれば、逆に反発もあって当然のことではないかと思うようになったのは、その頃からだった。

 鏡に写った自分の姿が、左右反対であるかのように、反面教師というのは、まったく同じものが左右対称になっているものだと思っていたが、微妙に違うもののようだ。それが相手の性格の特徴であり、由美の場合には鬱状態がそれに当たる。

 もちろん、最初から鏡に写ったものほどソックリだとは最初から思っていなかった。それを同じに感じるようになったのは、由美に対しての優位性が見せた幻だったのかも知れない。そう思うと、優位性は人を惑わせる「魔女」のような存在なのではないかと思うようになっていた。

 それは、姉妹に限ったことではなく、隆子にはゆかり先輩がその相手だと思っていた。二人の間に優位性が存在したのかと今さらながらに思い起してみたが、自分がゆかり先輩に感じていたものだということに気が付いた。そして、どうして先輩と別れることになったのかというのを思い出してみると、そこに自分の先輩に対しての優位性があったことに気がついたからだ。

 ゆかり先輩の方から別れを促したように思っていたが、自分が無意識に先輩に対し、別れを促すよう、無言のプレッシャーを与えていたのではないかと思うと、先輩が心中を図ったことも、優位性が紆余曲折を繰り返しながら影響していったのではないかと思うようになっていった。

――私がゆかり先輩にプレッシャーを与えたんだ――

 ゆかり先輩の心中も、そしてその相手になった信二も、隆子の中にあるゆかり先輩への優位性が影響していたのではないかと思うと、息苦しさに耐えられなくなりそうだ、何事も悪い方に考えてしまう性格の隆子には、自分の考えを抑えることができなくなってしまっていた。

 隆子は先輩がどこに行ったのか分からなかった、だが、自分の優位性に気が付いた時、先輩が、また自殺を試みることを確信した。

 だが、その時に思ったのは、

「先輩の自殺を止めないといけないのかしら?」

 ということだった。

 いや、それよりも、

「私に先輩がしようとしている自殺を止める権利があるのかしら?」

 ということだった。

 自殺しようとする人を放っておいていいわけはない。かといって、自分が止めて病院に入れたとしても、また同じことを繰り返すだけではないかと思えた。

「じゃあ、他の人に話して、止めてもらおうかしら?」

 とも思ったが、こんな話を人にして誰が信じてくれるものか。

「君の勘違いだよ。そのうちに戻ってくるさ」

 と言われるのがオチである。

 何よりも、

「どうして彼女が自殺すると思ったんだい?」

 と、聞かれても、答えようがなく、黙っているしかないのが現状だ。

 隆子はどうしていいのか分からなくなった。自分で止めることはできない。人に言っても、信じてもらえそうにもない。八方塞がりだ。いっそのこと、先輩が死にたいのなら、思い通りにさせてあげるべきなのではないか?

 それにしても、なぜそんなに死にたいのだろう? もちろん、先輩の中には何か死ななければいけない理由のようなものがあるに違いない。それを残念ながら隆子には分からない。それが少しでも分かっていれば、隆子もここまで苦しまずにいられるのにと思うと、自分の運命のようなものを恨まずにいられなかった。

 ゆかり先輩が死んだという話を聞かされたのは、それから一週間経ってからのことだった。場所は元々心中したところ、そして遺書には、

「信二さんと同じところに葬ってください」

 ということだった。

 一つ気になったのは、隆子に知らせないでほしいということを書いていないかと思ったことだったが、そのことに関しては何も書かれていなかったということだった。隆子に関してのことを記している個所はまったくなく、最初から隆子のころが眼中になかったのか、それともわざと何も書かなかったのか、永遠に謎になってしまったことで、隆子には新しいトラウマができた。それが、

「ゆかり先輩の隆子への優位性だった」

 今まで隆子がゆかり先輩に対してだけ優位性があるものだと思っていた。それも一方通行のもので、実際にはゆかり先輩も隆子に対して持っていたのかも知れない。

 だからこそ、ずっとゆかり先輩からの「無言のプレッシャー」を感じることもなかったのだ。

 だが今では本物の「無言のプレッシャー」を感じるというのも、実に皮肉なことだ。それも、「永遠のトラウマ」として心の底にへばりついて、消えることがないことを示している。

 そう思うと、

――どうして、こうなる前に、何とかできなかったのだろう?

 と思うようになっていた。

 そう、隆子はゆかり先輩に対して、

「生き残った」

 という意味のプレッシャーを感じさせられている。

「あなたも一緒に死ぬべきなのよ」

 と、言われているような気がする。

 でも、ゆかり先輩に対して隆子は身も心も提供してきた。それなのに何を今さら、自分が苦しまなければいけないのかと考えるようになった。

――提供してきたという「おこがましさ」が、ゆかり先輩にはたまらない優位性だったのかも知れないわ――

 隆子は優位性を感じていると思いながらも、それが具体的に何を意味するものなのか分かっていなかった。これは妹たちに対しても同じなのだ。

 洋子に弱いと思っているが、それは強い反発の裏返しなのかも知れない。それは三人が三すくみになっていることで、優位性は感じながらも、反発心を感じなかった一番大きな理由なのかも知れない。

 隆子は、ここに墓参りに来るのは、先輩に対して悪いことをしたという感覚からではない。義務感が働くからではない、

「あなた一人が生き残って」

 と言っている先輩に、自分が生きていることを、霊前で見せつけるために墓参りに来ているように思えてならない、先輩がどうしてしななければいけなかったのか、その理由は分からない、しかし死ぬことが本当に先輩にとっての最善の道だったのか、隆子は今でも分からない。それを自分が生きていることで証明しようと考えているのだろうか? 今の隆子にはそこまで分からない。

 それが分かる時が来るとすれば、隆子が死ぬ時なのではないかと感じるのは、隆子と死んだゆかり先輩だけなのかも知れない……。


 洋子は元カレの墓参りをしてきた。何年ぶりの墓参りだったのだろうか。墓前にて、

「ごめんなさい」

 と答えたのは、あまりにもご無沙汰だったからなのか、それとも新しい彼氏ができたことへの謝罪なのか、そのどちらでもあるようだ。

 洋子にとって、墓参りを怠ってしまったのは、彼氏ができたことで、元カレのことを、忘れてしまいそうになっていた。ご無沙汰だったのは、時間がなかったからだというよりも、本当に忘れてしまいそうになったことで、なかなか足を向けることができなくなったからだ。

「逃げていたとしかいいようがないわ」

 そう思いながら墓参りをした。

「でも、もうここには来ない方がいいのかも知れないわ。あなたのことを忘れるという意味ではなく、私は前を向いて歩きたいの」

 それが彼に対してどういうことを意味しているのか分かっていた。しかし、不器用な洋子には、元カレの思いを抱いたまま、他の人と付き合うなどできっこない。前を向いて歩いていきたいと言った洋子の気持ちは、至極当然のことなのだ。

 言葉で何を言っても、相手は何も答えてくれない。しかも、きっと相手はこちらの気持ちなど、百も承知ではないだろうか。すべてを見透かされ、絶対的な優位を相手に与えてしまった。

「絶対的な優位」

 それは、相手の死であった。

 洋子は、墓参りを済ませると、隆二の兄の墓のある場所に行ってみたくなった。一度そう思ってしまうと、洋子は突っ走るタイプなので、人からは落ち着いて見られていても、集中していると、まわりが見えなくなる性格だというのも、分からなくはないだろう。

 場所は知っていた。一度連れてきてもらったことがあったからだ。洋子と来た時は、洋子の事情もあるので日帰りだったが、兄弟で来る時は、数日間いることが多いという。

 隆二と会えなくてもよかった。ただ、気分転換ができればよかった。そう思って隆二を追いかけていくつもりで、洋子は電車に乗り込んでいた。

 墓地の場所も分かっている。前に来た時には気付かなかったが、金木犀の香りがしてきていた。どこから香ってくるのか分からない。だが、あたりには甘い香りが充満してくるのだった。

 金木犀の香りを嗅いでいると、ホッとした気分になってくるのは、嫌なことをすべて忘れさせてくれるからなのかも知れない。

――本当にすべてを忘れさせてくれる――

 それは、嫌なことだけなのだろうか?

 洋子は、どうしても、いいことをすべて素直に受け止めることができない。いいことがあれば、その裏に必ず悪いことが潜んでいるものだ。

「嫌なことすべてを忘れられるのは、この世からいなくなった時だ」

 と思っている。

 この世からいなくなれば、一体どこに行くというのだろう。天国なのか地獄なのか、解釈は人それぞれだが、

「本当の地獄は、この世なのかも知れない」

 と、思っている人も少なくない。

 だから、人は宗教に走り、死んだ先で幸福になりたいと思う。

「マルチ商法がなくならないわけだ」

 と、隆二が話していたのを思い出した。

 隆二に対しては、自分の側からも、隆二の側からも、優位性を感じることはなかった。そういう意味では新鮮な相手だったが、逆に、それが本当なのかも知れない。洋子は今まで自分のまわりの人に対して、優位性を感じなかった人はほとんどいなかった。必ずどちらからかに優位性が存在し、立場が確立していたのだ。

 却ってそちらの方が接しやすかった。自分の立場が明確な方が、相手との距離も測ることができるからだ。

 優位性は、近親者になればなるほどハッキリとしていて、優位性を感じない相手には、どうしても距離があるように思えてならない。

「優位性のあることが、秩序を保っているのかも知れないわね」

 と、以前隆子姉さんと話をした時に言っていた言葉だった、

 今から思えば、それは隆子の洋子に対する「挑戦」のようなものだったのかも知れない。隆子は、洋子に対して、相手からの優位性を感じている。それは、洋子が感じているよりも数倍大きなものに違いない。優位性は相手に対して持っている人よりも、相手から受ける方が数倍大きなもののようだ。隆子もそれを感じているからこそ、敢えて洋子に対して、挑戦してきていたのだ。

 洋子は、それに対して答えを出すことはできなかった。だが、洋子は自分の方が優位であることを自覚している。別に慌てることなど、何もないのだ。ただ、妹の由美も含めて、姉妹三人の間で三すくみが成立していることは、お互いに牽制し合っていることで、ある意味都合がよかった。

 三女の由美は、自分が姉二人とは血が繋がっていないと思い込んでいたようだが、実際には、本当の姉妹だった。性格的に似ていないことと、洋子に対して優位性を感じていたことから、そう思うようになっていた。

 由美は、三すくみになった優位性を感じたことはなかった。あくまでも自分が次女の洋子にだけ優位性を感じているのだと思ったからだ。長女の隆子に対しては尊敬おkそすれ、優位性については意識がなかった。ただ、実際には隆子に対しての尊敬の念が、本当は優位性によってもたらされたことだと、気付いていなかったのだ。

 由美は、自分が躁鬱症であるという意識はあった。しかし、洋子も本当は躁鬱症の気があるのに、自覚していない。一つのことに集中すると、まわりが見えなくなってしまったり、不器用なところがあるからだ。実直で素直な性格なのだが、由美に対しての優位性を感じてしまったために、実直で素直な性格が、視界が極端に狭かったり、不器用だったりする性格だけが表に出てきてしまうのだ。

 洋子と由美の関係は、隆子との関係に比べて、実に近い関係にあった。

 由美には洋子が近くにいれば、感覚で分かるようになっていた。

「洋子姉さんが近くにいると、私には分かるのよ」

 というと、他の人は、

「そんなバカなことはないでしょう」

 と言って笑うのだが、本当に近くにいるのを知ると、愕然としてしまう。姉が最初から近くに来ることが分かっていると、近づいてくる時が分からない。そばにいるというのが分かるのは、最初からそばにくるという事情を知らない時だけである。それだけに姉妹間の深さから来るという信憑性もあった。

 由美にそんな能力があるなどということは、洋子には分かるすべもなかった。


 由美は、裕也と一緒に、旅行に来ていた。姉二人が出かけているのをいいことに、裕也と二人、楽しもうと思っていたのだ。

 三姉妹の中で一番強かな考えを持っているのは由美ではないだろうか。しかし、一番若いということもあり、世間知らずなところが多い。男が、

「一緒に行こう」

 と誘えば、何の疑いもなくついていく。付き合い始めて、それほど長い期間でもないのに、

「君のお姉さんが心配していたらいけないから、会ってみようかな?」

 と言われて、由美は有頂天になった。

 由美が姉二人に裕也を引きあわせたのは、

――彼のことを、姉二人が悪く言うわけはない――

 という思いがあったからだ。心配を掛けてはいけないという言葉に、相手を気遣うという意味が含まれていることを素直に感じてくれるに違いないと思ったからだ。

 だが、実際には、却って姉二人に不信感を持たせてしまった。大体から、付き合い始めてそれほど経っていないのに、いきなり連れてくるというのもどうかと感じた。由美が引きあわせたいと言っても、何とか言い訳を繕い、引きあうきっかけを作らせないようにしようとするのが普通ではないだろうか。

 由美は、そんな姉の気持ちを、分かろうとはしなかった。しかし彼を認めさせるためには、もっと彼のことを知る必要があると思ったのだ。彼は姉たち二人が自分に好印象を持ってくれていないことが分かっている。それでも由美の気持ちを分かってくれていて、まずは、由美の溜飲を下げることから始めないといけないと思うようになっていった。だが、今回由美を誘って旅行に出たその心がどこにあるのか、由美には分かるところまではなかなか行っていなかった。

 姉たち二人から見れば、由美も裕也も子供だった。完全に上から目線だということも分かっている。分かっていながら、由美は敢えて、子供っぽさを前面に出した。そんな由美を裕也が窘めてくれると思ったからだ。

 だが、裕也は自分から何もしようとしない。由美のすることをじっと見ている。

 見守っているという雰囲気を感じなくもないが、裕也には人を引っ張っていく力が今一つで、その分、相手の考えを尊重するところが大きかった。

 由美は背中を見ながら、後ろから追いかけていけるような男性であれば最高だと思っていた。だが残念ながら裕也にはそういうところがない。由美が時々尻を叩かないと、本当に何もしようとしない。

――この人は考えすぎるところがありすぎるのかしら?

 と感じる。

 今までの由美なら、男性と二人で旅行に出ようなどということを考えるようなことはなかった。姉二人に紹介までしたのだから、余計に黙って二人だけで旅行に出るようなことは今までであれば、するようなことはなかった。

 それなのに、今回は出かける気になったのは、彼が墓参りに行くという話を聞いたからだ。

 ただ、一人ではなく、兄と一緒というではないか、その人は由美はまだ会ったことがない。ひょっとすると、由美を誘ったのは、お兄さんを紹介するつもりだったからなのかも知れない。

 今まで、家族のことを話そうとしなかった裕也。兄弟三人とも、適度な距離を持っていて、ちょうどいい関係だったというが、そのうちの長男という一角が崩れた。

「一つ上の兄とは、元々うまく行ってなくてね。長男がいてくれたから、何とかうまく行っていたんだが、兄に一体何があったのか、女性と心中したというじゃないか。僕は高校生だったんだけど、ただの自殺ではなく、心中だったって聞いた時、兄に心中するような相手がいたのかと思うと、意外な気がして、本当に心中なのか、最初はどうしても信じられなかったんですよ」

「でも、今はお兄さんともうまく行くようになったんでしょう?」

「うまくいくというよりも、お互いに自分の考え方がいろいろ見えてきたような気がしてきたんだよね。それまでは、何だかんだ言っても、長男がいてくれたことで、甘えがあったことには違いないだろうからね」

「私たち三人も、それぞれ適度な距離を持っているんですよ。性格もそれぞれに違っていると思うし、でも、そんな中で一番上のお姉さんが一番遠い距離にいるような気がします。私と一つ上のお姉さんは、それぞれ牽制し合っているような気がするんだけど、まだまだ甘いところがあるんじゃないかって思うんですよ」

「そうかも知れないね。僕も一つ上の兄には、頭が上がらないところがあるんだけど、でも、追いつけない気はしないんですよ。今は兄として上を見ていると、そのうちに対等になって、すぐに追い越しちゃうんじゃないかってね」

「並んでからが早いということ?」

「そうだね、並んだ時点で相手がすべてを悟るんじゃないかな? 弟に追い越されることが必然だったことを」

 追いかける方よりも、追いかけられる方がプレッシャーだということは分かるが、追いかけられていることを分かっておらず、気が付いた時には横に並ばれていたということであれば、プレッシャーが劣等感に変わる。相手からの優位性を感じた瞬間に、今度は相手の背中しか見えなくなる。

 相手は、今まで自分よりも後ろを歩いていたはずだ。年齢で追いつくことができないのと同じで、特に弟からは追い抜かれることは絶対にありえないと思っていたことが、いつの間にか追い越されていて、見えているのは相手の背中だけである。

「あんなに大きかったのか」

 と感じた時、弟がどういう目で自分を見ていたのかということを想像してしまう。

 由美も、姉二人の背中を見つめていたが、時々、

――自分が先頭に立ったら、二番目は誰なんだろう?

 と考えたことがあった、

 優位性の三すくみから考えると、自分が先頭になった時は、真ん中が隆子姉さんで、最後が洋子姉さんではないかと思った。逆に一番上が洋子姉さんであれば、真ん中が自分で、最後が隆子姉さんになるだろうと想像していた。

 ただ、由美は自分が先頭になるという発想はまったくなかった。前を誰かが歩いていないと落ち着かない。不安が募り始めると、収拾がつかなくなる。由美はそんな性格をまわりに知られたくなくて、虚勢を張っているところがある。さらに子供でいれば、自分の前に誰かが立っているということが自然であることの証明であるかのように思え、由美が控えめなところがあるという意識を持っている人もいるくらいだ。

「洋子姉さん」

 由美は、裕也の背中を追いかけるように歩いていたが、力のない歩き方で、何かを考えているようなのだが、何を考えているか分からなかった。

 裕也の背を見つめているのは、自分が何かを考えていることを感じさせないためだったように思う。しかし、いきなり背筋がビクンとなったかと思うと、口から洩れた声は姉の名前だった。

 裕也の兄の墓参りを済ませた後、裕也は由美を伴って宿に向かおうとしていたところだった。この土地には裕也の知り合いがいるにはいるが、いきなり由美を連れていくわけでもいかない。何よりも由美が嫌な思いをするのが分かっているからだと、由美には話していた。

 由美も裕也と一緒にいれば落ち着いた気分になれるのだが、それはお互いにフリーな状態でのことである。

「じゃあ、どうして由美は、姉たちに彼を紹介したの?」

 と聞かれることだろう。

「裕也と私は境遇が似ているの。兄弟姉妹が三人というのも同じだし、二人とも末っ子だし、境遇が似ていると、相手の育った環境を見てみたいと思うのは当然のことなのよ。だからまずは私のお姉さんたちに紹介して、その後私が裕也のお兄さんたちに紹介してもらおうと思ったのよ。でも、一番上のお兄さんが亡くなっているということだったので、墓参りをしたいと思ったのよ。それも私の姉妹に紹介したすぐ後にね」

 と答えるに違いない。

 裕也は、由美が洋子の名前を口にした時、ハッキリと分かった。

――由美は、洋子姉さんに対して、優位性を感じているくせに、何かを恐れているんだ――

 一体、何を恐れているのか、裕也は自分の兄弟たちのことを思い出していた。

「本当は、俺とお前の間に一人妹がいたんだ」

 次男が教えてくれた。

 それは長男が亡くなってからのことだった。

「その妹は、お前が生まれる前に養女に貰われて行ったんだ」

「そんな話は初めて聞いたよ」

「そうだろうな。お前だけには教えてはいけないって話だったからな。その妹の名前が由美というんだ」

「えっ」

 あまりにも青天の霹靂であり、声を出すこともできず、その場の静寂はどんなに小さな音でも吸収するのではないかと感じていた。

「そうさ。お前が付き合い始めた由美ちゃんは、俺にとっては妹であり、お前にとっても血の繋がった姉なんだからね」

 そういえば、由美は裕也よりも二歳年上だった。相手が年上だろうが年下だろうが、裕也には関係なかった。由美とは血の繋がりがあるというのには、身体中の血液が逆流しそうになるほどだったが、由美が養女だったという事実も、さらに逆流した血液がもう一度反対に流れ始めるような気持ち悪さを感じた。鳥肌が立ってきたと感じたのも、そのせいであった。

 裕也は、それでも由美と付き合っている。

 ただ、どうして次男はそのことを裕也に告げたのだろう? しかもこの時期に何を思ってのことなのか分からない。

――ひょっとして、いざとなった時、兄さんは自分の暴走を止めてもらおうという意識があるからだろうか?

 と感じていた。

 裕也が変わったのは、その頃からだった。その意識は由美にもあった。

 元々ベタベタするのはあまり好きではない裕也だったが、それは由美の同じだった。裕也の後ろから散歩下がって歩くことはあっても、自分からはしゃいだりすることもなかった。

 裕也にすべてを任せているわけでもない。反対するべき時は反対する。その関係が二人には一番スッキリしていた。

 由美の方も、三姉妹の中では一番落ち着きがないように見られるが、実際に一番したたかで、頭がいいのは由美なのかも知れない。

――実は、私はお姉さんたちと血が繋がっていないのかも知れない――

 と、血の繋がりに一番最初に気が付いたのは、本当は由美だった。

 洋子はそのことを知らずに、自分が最初に気付いたと思っている。そういう意味で由美はしたたかであるし、頭がいいのだ。

 もし、自分が最初に気付いたのだと洋子に悟られれば、優位性のバランスが崩れてしまう。由美は優位性が三すくみの状態になっていることに気付いていた。そして、それがバランスの元に成り立っていることも分かっていた。

 優位性のバランスは、裕也たち兄弟にもあった。そのバランスも兄が死んでしまったことで一度は崩れてしまったが、それを崩壊に導かなかったのは次男の機転が影響していた。

「由美は俺たちの兄妹だ」

 という事実を告げられたことで、荒治療ではあったが、兄弟の間で優位性のバランスの崩壊を防いだのだ。

 裕也は今度の旅行で、「姉弟の名乗り」をするべきかを真剣に悩んでいた。ただ、次男がこのまま放っておくことはしない。それなら自分からハッキリさせた方がいいという考えも強かった。

 裕也には、由美が洋子の名前を口にした瞬間、隆二がそばにいることを感じた。ただ、その時隆二がどんな心境でいるのかまでは、想像できるわけもなかった……。


 隆二は、由美の名前を口にした洋子をマジマジと眺めていた。

――この女は、由美が自分とは血の繋がりがないことを知っているのか?

 と感じたからだ。

 さらに、由美の名前を呼ぶほど意識しているということは、由美に対して妹としてではない何かの感情を含んでいるのではないかと思うのだった。

 洋子にとって隆二は、特別な感情を抱いていることを隆二には分かっていた。洋子の元カレが亡くなっているという事実をハッキリと知っているわけではないが、隆二も兄を亡くしていることもあって、人の死というものに対しては敏感になっている。

 洋子が時々何かを思いつめたような顔になるのは、隆二の腕の中にいる時だった。何かを必死に我慢しているように見えるが、洋子にしてみれば、それは必死に忘れようとしている証拠なのかも知れない。

――私はとっくに吹っ切っているのよ――

 と思っている。

 吹っ切るというのがどういうことなのか、洋子にはハッキリと分かっていない。

――忘れるということなのかしら?

 頭の中では、

「記憶の封印」

 だということは分かっているつもりだ。

 だが、記憶の封印をしようとするには、忘れるという意識を持ってしまってはいけないのだろうか。洋子が忘れてしまおうと思った時点で、記憶の封印は難しいと思うようになっていた。

――忘れたくないという思いが、忘れないという思いに発展し、さらにその思いを封印しようと考えるものなんじゃないかしら?

 と考えているからである。

 記憶を封印するには、いくつもの段階を踏まなければいけないことになる。時間もかかるし、その間に心境が微妙に変化してしまっては、記憶を封印するなど難しいと思っている。

 大体そんなに簡単に記憶を封印できるのであれば、苦しむなんてこと、そんなにあるわけがないだろう。この思いは洋子一人で抱え込んでいるつもりでいたが、本当は同じ感覚でいるのは、隆二も同じだった。だからこそ、隆二に洋子は惹かれるのだろう。

 隆二は、洋子の気持ちをある程度分かっているつもりだ。

――この女は、俺と同じ傷を持っている――

 と感じていた。

 三兄弟の中で一番頭がいいのは、隆二だった。

 三兄弟の中で一番機転が利くのは、亡くなった長男だった。そして、一番したたかではないかと思えるのは三男の裕也だ。隆二はその中でも一番頭がいいと思うのは、先を読むことができるところだった。

 頭の回転の速さもそこには含まれていて、若干の勘もあった。

 洋子と付き合う男性は、それくらいではないと務まらないかも知れない。

 洋子も頭の回転の速さに関しては、負けていないかも知れない。だが、洋子の中にできてしまったトラウマは頭の回転の速さを微妙に鈍らせる。しかも、それは肝心なところで起こるので、最終的な判断を誤ってしまう可能性は大いにあった。

 自分で頭の回転の速さを自覚しているだけに、最終的な判断を誤るかも知れないことを意識しているだけに、自分が怖くなるのだ。

――自分を信じられなくなってしまっている――

 それがトラウマが引き起こした副作用ではないだろうか。洋子にとって隆二と付き合うことはある意味

「諸刃の剣」

 と言っても過言ではないだろう。

 金木犀の香りを感じながら、

「お姉さんも、同じ香りを嗅いだのかしら?」

「きっとそうだよ、でも、君のお姉さんだけだもんな、二人に関係があるのは」

 隆二は、隆子とゆかり先輩のことも知っているのだろうか? 関係という言葉を敢えて選んだのか、それとも偶然なのか、洋子は隆子と一緒に住んでいたのだから、いくら隆子が隠そうとしても分かるものである。特に同じ女なのだから、

「信じられない」

 と思いながらも、

「そういう関係もありなのかも知れないわ」

 とも感じていた。

 それだけに、この間のベッドの中で、洋子が妹の名前を呼んだことで、

――隆二さんが、私と由美との関係を疑っているのではないか?

 と思うようになった。

 いくら何でも、隆二は自分と由美に血の繋がりがないことまでは知るはずはないだろう。姉妹でレズビアンなど、さすがに想像するだけで、鳥肌が立ってくるというものだ。

 洋子はレズビアンではない。男性に対して興味がないような雰囲気を醸し出していることで誤解されがちだが、洋子にとって自分を守るということは、

「あまり目立ったことをしないようにする」

 ということである。

 物静かに見えるのも、目立った行動を取ったりしないから、そう見えるだけで、洋子が保守的になったのは、好きになった人が、もうこの世にいないことが大きな影響を及ぼしているのだった。

 由美は洋子が近づくと分かるというが、洋子も隆子が近くにいると分かる時がある。いつでも分かるわけではないところが何事にも自信を持つことのできない洋子らしいところであった。

 不器用なのは、わざとそう見せているだけで、本当は要領も悪いわけではない。要領がよくて、器用だと思われてしまうと、下手に人から慕われたり、期待されたりする。自由に動けないことが、洋子にとっては、一番嫌なことだった。

 隆二が洋子を気に入った理由の一つに、

「洋子は、俺が考えていることのさらに先を読んでいるようだ」

 と思うことだった。

 他の人であれば、自分よりも先を読まれてしまうと、癪に障って、相手にしない気分になるのだが、洋子に関しては、先を読まれても、さほど癪に障ることはない。それが洋子の魅力の一つなのだと感じるのだ。

 洋子と一緒にいて、会話が弾むということはなかったが、下手に会話が弾みすぎると、却って疲れてしまう。それを思うと、何を考えているか分からないところもあるが、肝心なことだけを話す間柄の方が、感情の籠った話ができそうな気がしていた。

 それにしても、どうして洋子は由美の名前を口にしたのだろう? 隆二は由美と洋子の血が繋がっていないことを分かっている。由美が自分たちの兄妹だということをである。

 それを分かっていて付き合っている裕也の気持ちが隆二には分からない。決して愛し合うことのできない相手だということを分かっていながら、裕也は何を考えているのだろう。

 裕也は、いつも相手のことばかり考えている男ではない。むしろ、

「自分のために、相手がどうあるべきかを考えるタイプではないか」

 と思っている。

 裕也と由美を引きあわせたのは、実は隆二だった。隆二は由美のことを以前から知っている。そのことを洋子にも隆子にも話していない。

 もちろん、由美が他の人に話すこともないだろう。表面上、由美と隆二が知り合いだということは、その気になって調べないと、分からないことである。

 今では、由美と隆二、そして裕也を含めたところで、いろいろ作戦が練られている。

 考えてみれば、この三人は実の兄妹ではないか、ただ、問題は由美と裕也の関係である。最初から姉弟だと思っていた裕也に対し由美は、そこまでは何も知らなかった。

「もし、由美に対して三人の血が繋がっていると話す時は、それが最終決断の時になる可能性が大きい」

 と、隆二は裕也に話した。

 その時の裕也の顔が少し寂しそうだったのを、隆二は気付かなかった。

――俺は完全にピエロにされてしまうかも知れないな――

 と、裕也は感じた。

 その思いは、目の前に存在している由美に対しての思いであることに、最初から気付いていたわけではなかった。

――由美を好きになってはいけない――

 と、最初から考えていたわけではない。

――姉を好きになるはずなどない。何も知らずに後から妹だと言われるより、最初から姉だという目で見るのだから、好きになる余地があるはずはない――

 と思っていた。

 だが、実際には本当に好きになったのかどうかは分からないが、最初に考えていたほど意識していないわけではない。

 それは最初から姉だという意識があるからなのかも知れない。

「姉だから、好きになってはいけない」

 と、もう一人の自分が語り掛けてくる。

「そんなことは分かっているさ」

「どうしてそんなにムキになるんだい?」

「ムキになんかなっていないさ。お前も俺だったら分かるだろう? 分かりきっていることを指摘されれば、苛立ちを感じることを」

「それがムキになっている証拠さ。まあいい、本当の自分をお前はこれから知ることになるんだからな」

 と、不敵な笑みを浮かべるもう一人の自分。今までにももう一人の自分が語り掛けてきたことがあったが、そのたびに不敵な笑みを浮かべていたのを思い出した。一体もう一人の自分は敵なのか味方なのか、それともただの傍観者なのか、不敵な笑みから想像することは難しかった。

 今までにもう一人の自分が現れた時、自分の意志に反して、もう一人の自分の思惑通りになっていた。今回も同じようにこの男の思惑通りになってしまったことが悔しい。

 だが、好きになってしまったことを後悔していない。むしろ、好きになれる相手が現れたということの方が裕也には嬉しかった。

「姉だから好きになってはいけない」

「こんなことを言いだしたのは誰なんだ? 別に構わないではないか。倫理や道徳などクソ食らえだ」

 と裕也は思うようになった。これが開き直りというもので、逆切れとは違うと思っている。

 裕也はまだ由美を抱くことはしない。正直、抱きたいという意識がない。

「好きになることと、身体を欲することとは、本来別なのかも知れない」

 と思った。

 だが、それが微妙に違う感情であることに気付くまでに、それほど時間は掛からなかった。

――好きになったから身体を欲するのか、それとも身体を欲するから相手を好きだと思うのか――

 裕也は、そのどちらかだと思っていたのだが、そうではなく、最近思うことは、そのどちらも真実だということである。やはり好きになることと身体を欲することは別物ではないということである。裕也が由美の身体を欲しようと思わないのは、好きという感覚の種類が違っているからだと考える方が、説得力がある。

 それがいとおしい思いなのか、それとも相手を自分のものにしてしまいたいという「欲」というものから来ているのかの違いである。

 欲が前面に出てしまうと、身体に対する欲は必然である。身体を重ねることが大きな目標ではあるが、本当に相手のことが好きであるなら、身体を重ねることは目的完遂ではなく、プロセスの一つである。それも一つの愛の形であり、尊い気持ちの一つに違いないと思う。

 しかし、裕也は今まで愛の形は、身体の関係ありきだと思っていた。だから、由美に対して相手が妹だと思うことから、好きになることはないと思っていた。

 だが、実際には愛おしさがこみ上げてきた。それで終われば姉弟としての愛情で済むのだろうが、裕也にはそれで終わる気がしなかった。

 愛おしさも、次第にこみ上げてくると、相手の身体を欲するようになる。つまりは、相手を好きになるきっかけとしての愛おしさなのか、それとも最初から姉としての愛おしさなのかどちらなのかが分からなかったからだ。

 裕也は、今まで年上に憧れることが多かった。それは、自分に姉がいるということを知った時、姉への憧れがそのまま、

「年上好き」

 に変わってしまったのかも知れない。

 年下に興味が失せたわけではない。由美のように年上でありながら、甘えられたり、慕われたりすることが裕也にとって一番の快感だったからである。

 由美は、裕也が身体を求めてこないことにいつ痺れを切らすだろう。裕也は、もしその時自分が由美の身体を欲していれば、一線を超えてもいいと思っている。感情を愛情に混じり合わせると、そこから先は本能の赴くまま行動すればいいのだと思っている。

 由美は今まで恵まれた生活ができていたように裕也の目には見えていたが、実際に一緒にいると、由美はどこか寂しそうな顔をする時がある。そんな時、裕也はドキッとした気持ちにさせられる。

 大人のオンナとしての妖艶さを感じるようにも思うし、寂しそうに虚空を見つめるその先に、ひょっとして自分の姿を思い浮かべているのだと思うと、裕也はまたしても愛おしさを感じ、抱きしめてしまいたい衝動に駆られるのであった。

 普段は、大人の雰囲気を醸し出すような妖艶さを感じさせることのない由美なのに、寂しそうな雰囲気が似合っているというのだろうか。

 人は見る角度によってまったく違って見えることがある。少し斜め前から見ると、相手が正面を見ていても、少し向こう側を見ているように感じる時がある。それは自分を中心に考えるからだ。しかも、その時に日差しが当たっていると、表情に大きな違いが出てくる。思ったよりも顔が小さく見えたりするのもそのせいだ。シルエットの部分が顔を小さく感じさせるからに違いない。

 さらに表情が違って感じるのは、相手がこちらをまったく意識していないと感じるからだ。こちらから視線を逸らしたということは、顔を合わせることのできない何か事情がある場合か、あるいは、何かを考えていて、集中できていないかのどちらかであろう。後者であれば、相手は自分のことしか考えていないことになり、こちらが入り込む隙間すらないのかも知れない。

 また正面から相手を見る時は、こちらが気後れしないようにしないといけないという気持ちが強く、余計な緊張が顔面に入ってしまう。それが目力になっていればいいのだが、睨みつけているように思われると最悪だ。相手が怯えてしまうか、警戒心を持たせるか、どちらにしても、それ以上の歩み寄りは難しい。視線を合わせることができない人は、このことを意識しすぎているのかも知れない。

 由美の場合は、相手の顔をまともに見ることができないことが多い。ただ、それは初対面の人や、あまり馴染みのない人に対してのことではない。親しい人に対しての方が多い。相手が洋子や隆子であってもそうだ。まともに顔を見ることができなかったりすると、

「あんた、ちゃんと目を見て話をしなさい」

 と、よく洋子から言われたものだ。

 洋子に対して優位性を感じているはずの由美なのに、目をまともに見ることができない。目を見てしまうと、優位性が発揮できないばかりか、今まで培ってきた優位性までリセットされそうに思うからだ。

「まるでメドゥーサみたいだわ」

 メドゥーサというのは、ギリシャ神話に出てくる女性で、髪の毛がヘビになっている。その視線に見つめられると、どんなに屈強な人間であっても石にされてしまうという力を持っている。

「メドゥーサって死んでも、その能力は消えないっていうけど、女の一念というのはすごいわね」

「それを執念というのかしら? 私たちにもそんな執念ってあるのかしら?」

 という会話を友達としたことがあった。

 洋子と目を合わせてしまうと、知りたくもないことを悟ってしまう予感があった。それがどんなものなのか想像もつかなかった。洋子の方でも由美が視線を合わせることができない理由を、漠然としてだか分かっている。そして、自分たちに血の繋がりのないことを、由美が悟ってしまうということも、洋子にとっては、避けたいことだった。

 由美が他から知ることに関しては仕方がないことかも知れないが、自分の視線から悟られるというのは、きっと洋子にとって、後々まで後悔の念に悩まされることになりそうで、それが怖かったのだ。

 由美にとって、自分のことを知りたいという気持ちは人一倍強いのではないかと洋子は思っていた。

 三姉妹の中で生活していると、成長していく過程の中で由美の中に好奇心とは別に、

「もっと自分のことを知りたい」

 という気持ちが溢れているのを感じるからだった。

 自分のことを知りたいと思うことは好奇心とは違うものだと洋子は思っていた。もし、由美が自分たち姉妹のことをもっと知りたいと思っていたとすれば、それは好奇心という言葉では片づけられないものが、由美の中に存在しているからに違いない。

 由美のことを一番気にしているのは洋子だった。

 洋子は、由美に対して、目を見て話をするように促していたが実は、目を見られないことにホッとしていた。もし、目を見て話されると、自分の気持ちの奥底まで見られてしまう気がするからだ。

 それは、洋子にもモヤモヤと漠然とした感覚であり、まるでマグマのようにドロドロとしたもので、

「冷たく燃えている感情」

 という表現が一番ぴったりくるかも知れない。

 その感情は、由美も感じていたが。ただ、その思いが洋子と視線を合わせない理由だというわけではない。

 洋子と由美の間で、視線を合わせられない理由に微妙な開きがあることを、お互いに分かっていない。ただそれをもし分かっている人がいるとすれば、それは隆子ではないだろうか。隆子は二人の間を中立の立場で見ることができる。だが、厳密に言えば、洋子に近いのかも知れない。それが血の繋がりということであり、どうしようもないことだ。

 どうしようもないことを理解しないまま、二人を見ていると、ある程度までは分かってくるが、肝心なところまでは分かっていない。それは洋子にも由美にも漠然としているところで、結局、誰も肝心なところが分かっていないのだ。

 そうなると、肝心なところが顔を出す時は、本人に意識がない間に芽生えてくることになり、肝心なところが表に出てきたことを最初に誰が感じることができるかと言えば、隆子ではないだろうか。やはり、客観的にものを見ることができる人間が、二人の間に存在する衝突や感情を悟ることができるのだ。

 隆子が見ていて、洋子と由美の二人の間の感情で、押しているのは、由美の方だった。それは優位性がもたらしたものであり、客観的に見ているのだから、それこそ当然のことに思える。

 押しているのは由美の方だが、どちらが強いオーラを発揮しているかというと洋子の方である。オーラというのは、醸し出ているものであって、醸し出しているものではない。まるで温泉から上がってきて、身体から発散される湯気を見ているようだ。

 しかし、洋子が発散しているオーラは醸し出ているものではなく、醸し出しているものだ。

 洋子に自分でその意識があるかどうかは分からないが、結果的に洋子の方から醸し出しているものである。

 それは、無意識の中で全身全霊を込めて、由美に対して向けられているものだ。

「全身全霊を込めることができるのは、無意識の中に意識を持った時だけなのかも知れない」

 と、洋子は後になって気付くのだが、その前兆になったのが、この時のオーラだったのではないだろうか。

 洋子は、本当は自分が何もかも知っているのではないかと思うことが時々ある。そんな時に限って、

「そんなことは知りたくもない」

 と思っていることばかりなのではないかと思うのだ。

 隆子は、そんなことを洋子が思っているとは知らないが、そのことを考えている時の洋子は、普段と違って、自信のようなものが漲っているように思う。

 もちろん、洋子の中に自信などという意識はない。普段から、自分には自信を持つことができないという意識があるからだ。

 それだけに自信過剰の人間を洋子は一番嫌いだったりする。いつも冷静に見えているのは、そんな感情も含まれているからであって、本当は無意識の中に存在している冷静さなのではないだろうか。

 隆子にはそのことが分かっていた。分かっていて何も言わない。洋子が自分に対して優位性を持っているのは、隆子が分かりすぎていることに影響しているのではないかと思うようになっていた。

 そういう意味では、洋子が由美のことを分かりすぎるくらいに分かっているくらいに、由美は隆子のことを分かりすぎるくらいに分かっているのだろうか?

 分かっているというよりも、気になって仕方がない気持ちになることが、頻繁にあることで、

――もっと知りたい――

 という感情がこみ上げてくると、血の繋がりは別にして、一緒の環境で育ってきたのだから、ある程度まで知ることはできるはずだ。

 ただ、それが、

「知りすぎていること」

 になるのかどうかまでハッキリと分からない。

 三姉妹の中で知りすぎていると言えるのは、洋子が由美に対してだけなのかも知れない。それが由美の洞察力によるものなのか、由美の中で知られたくないという思いがさほど大きくなく、洋子の視線を受け入れるだけの門戸を開いているからなのか分からない。

 隆子が全体のことを掌握していれば、三人の中での三すくみなど存在しないのかも知れない。隆子はしっかりしているつもりでも、三人が距離を適度に置いていることで、把握できない部分が大きい。

 由美は、洋子が近づいてきたら分かるというが、それも、自分のことを掌握されているという意識からの、恐怖心が煽られることで、神経が研ぎ澄まされた結果なのかも知れない。

 洋子が近づいてきていると感じた由美は、思わず逃げ腰になってしまっていることを、裕也に看破されていた。

「どうしたんだい? 何か不安なことがあるのかい?」

 由美が何かに怯えているのは、前から分かっていたが、それが洋子に対してだということまでは知らなかった。しかし、裕也はその少しあと、由美が怯えている理由を知ることになる。そして、そのことが由美の中で繋がらなかった糸を、一本に修復することになった。一本の糸が繋がった瞬間を今までに見たことがなかった裕也は感動を覚えたが、実は自分の中にも、どこかで切れている糸があるのを自覚していた。

 それが自分だけで解決できるものではないということが分かってくると、身内に対しての見方が少し変わってくる気がした。

――自分の知らない自分を知っているんだ――

 と思うようになると、まるで目の前に鏡が置いてあるのではないかという錯覚に陥ってしまった。

 それはマジックミラーのようなもので、自分からは相手を確認することはできないが、相手からはこちらの様子が手に取るように分かる。それが心の中のことであれば、なおさら相手に見透かされていることになる。見透かされていることを自覚しているということは、マジックミラーとしての機能は度返しにして、相手に悟られることで、見透かされているという恐怖心を植え付けることになるのだ。

「何でもないの」

 と、由美なら答えるだろうと思っていた裕也だったが、

「実は、洋子姉さんが近くにいると、私には分かるの」

 と答えた。

 由美は、他の友達には、姉が近くにいると分かるということを話していたが、裕也に対して初めて話したような気がした。

――どうして、今までは話さなかったんだろう?

 という思いがあったのと同じように、

――どうして、今なんだろう?

 という思いが交錯した。

 由美は、本当は洋子に対して優位性を持っていることを知られたくなかった。姉がそばに来ると分かるということを話してしまうと、

「どうして分かるんだい?」

 と聞かれるだろう。

「何となく」

 と答えればいいのだろうが、それであれば納得するとは思えない。いずれ話をしておかないと、姉に対して優位性があるくせに恐れているのを悟られることになる。お互いに恐れを感じているという関係はが何を意味しているのか、由美には分からなかった。

 裕也には、逆に分かってしまった。

 由美が洋子とは血の繋がりがなく、逆に自分と血が繋がっていることで、

――本当は最後まで黙っておきたいことなのだが、話してしまわないと気が済まない――

 という状態になっていたに違いない。

 裕也に分かってもらおうとして話をしたわけではない。裕也が、自分の感じていることを素直に話してしまいたい相手であるということなのだ。

 裕也は年下なのに、どこか頼りになるところがある。そのことに関して、なぜなのか、由美は絶えず考えていた。今までに年下を頼りになるなどという発想は、頭の中にはなかった。ひょっとすると、これからもないだろう。あるのは、裕也に対してだけだった。

 裕也と知り合った時のことを思い出していた。

 その時、由美はちょうど好きになりかかっていた男性から、事実上フラれたような格好になっていた。別に告白をしたわけではない。告白するつもりもなかった。ただ、そばにいられるだけでいいと思っていた相手で、自分よりも二つ年上の男性だった。

 由美には年齢以上に頼りになる男性に思えた。

――男性に対する感情に、年齢は関係ない――

 と思っていたのだが、実はそれは錯覚だった。

 頼りになるかどうかというのは、相手の雰囲気と年齢差を比較することで感じることだった。そのことに気付いたことで、さらに年齢差を意識しないわけにはいかなくなった。裕也に対して自分よりも年下なのに、しっかりしているのを感じると、

――きっとこの人は、私なんかよりも、波乱に満ちた環境で育ってきたんだわ――

 と感じた。

 どれほどの波乱なのか、見てみたい気がしてきた。付き合うことになるとはその時はまだ思っていなかったが、その時以下の関係になるということはないだろうという予感はあったのだ。

 由美は、好きになった人に対してはもちろんのこと、他の人であっても、少しでも自分より勝っているところを見つけると、

「この人には勝てない」

 と、簡単に諦めてしまうところがあった。そんな由美に対して、

「もっと、自分に自信を持てばいいのに」

 と言ってくれたのが裕也だった。

「俺は由美よりも年下だけど、年下だなんて感じたことはない。年齢がどうであろうと、男女の仲に変わりはない」

 そう続けた裕也は頼もしかった。腕を組んで歩いている時であっても、裕也の背中を見ながら歩いているような気持ちになっているのだった。

 裕也が、

「兄の墓参りに行くんだけど、一緒に行ってくれないか?」

 と言われた時は嬉しかった。

――彼の背中を見ながら歩いてもいいんだ――

 と言われているようで嬉しかったのだ。

 ただ、その時の裕也の表情が普段よりも真剣だったことが気になっていた。

――まさかプロポーズされるんじゃないかしら?

 と感じたほどだ。

 付き合い始めて、まだそれほど経っていないのにプロポーズはさすがにないだろうと思っていたので、真剣な面持ちには緊張が走ってしまった。

 その時裕也は、由美と一緒に二人で旅行して、自分の気持ちに節目をつけたいと思っていた。姉である由美に対して自分がどんな態度を取ればいいのか、中途半端ではいけないと思っている。

 墓参り先で裕也は、兄の隆二と落ち合うことになっている。隆二は洋子を連れていることだろう。由美が、

「洋子姉さんが近くにいる」

 と感じたのも、まんざら信じられないことではない。

 もちろん、裕也は隆二との待ち合わせの計画を綿密に立てていたわけではない。何しろ偶然を装うことなどできないからだ。作為がなければ、落ち会うことに必然性は考えられない。

 隆二は今回の計画に消極的だった。ここで裕也と落ち合ったことをどう言い訳すればいいか分からないからだ。洋子は裕也と面識があるが、まさか自分が裕也の兄であるなど、思ってもいないに違いない。

 しかも、裕也が連れてくる由美は、自分の妹に当たる。まさか自分のことが分かるわけもないが、何か嫌な予感がしていた。

 由美は、裕也と歩きながら、ふいに何か予感めいたものを感じた。

「これから、誰かと会う約束でもあるんですか?」

「えっ、どうしてなんだい?」

「いえ、洋子姉さんが近くにいるような予感ばかりがさっきからしていたんですけど、今度はそれ以外に、誰か違う人の予感がしたんです。今までに感じたことのない思いなんですけど、初対面のはずなのに、以前に会ったことがあるような感じがする人なんです」

 正直、裕也は由美が恐ろしくなった。まるで、

「あなたのことは何でもお見通しよ」

 とでも言いたげであるのが分かるからだ。

「そんなことはないよ」

 と、もうここまで来てしまっては言えるはずもない。ここから計画以外の態度を取るのは、あまりにも不自然さを誘発するだけだった。

 なるべく平静を装うしかないと思いながら、何とか普段の自分を取り戻そうと懸命だった。

「それはまるでデジャブのようだね」

 平静を装うには、まるで他人事のように話題を変えるしかなかった。

「そうかも知れない。時々、私は自分の記憶がところどころ欠落しているんじゃないかって思うことがあるのよ」

「どうしてだい?」

「何かを思い出そうとすると、途中から急に先がなくなっているのに気付くんですよ。それはまるで道を歩いていて、そこから先が忽然と消えているような感じで、霧に包まれた道の向こうには、本当に今までと同じ道が繋がっているのかと疑いたくなる。そう思った時って。心の中では、繋がっているわけはないという結論は出ているんですけどね」

 由美は、自分の記憶を道に喩えていた。その喩えは実に的確なのかも知れないと裕也は感心していた。

 しかし、感心しているだけではいけない。いかにして由美の意識をはぐらかせるかが問題だった。

 今、ここで意識がはぐれたとしても、隆二に会った時には、最初に感じた感情がよみがえってくるに違いない。予知というのは、まったくの勘違いでない限り、その人の感じた思いとさほど開きがないものらしい。ということは、由美が感じた思いは、的を得ているということになるだろう。

「由美は、自分に予知能力があると思っているのかい?」

「予知能力はないと思っているわ。姉のことがそばにいるのを分かるのも、予知能力ではないと思っているのよ」

「そうかな? 僕は違うと思っているんだ」

「どういうこと?」

「君が考えているのは、テープの逆回しに似ているということかな? 君はお姉さんがそばにいることを感じたという一点しか見ていないだろう? 本当はその先にある、お姉さんと会っている自分を想像しているからじゃないかって、僕は思うんだ」

「……」

「つまりこういうことさ。君はお姉さんとこれから出会うとして、出会った時のことを想像し、その時のイメージが最初に浮かんでくるんじゃないかな? でも、その意識は実に薄いものとして、記憶の中に無意識に格納されてしまう。そうなると。君は、そこから遡った『お姉さんがそばにいる』という思いに勝手に移行しているのかも知れないね。これは記憶の改ざんになるような気がするんだけど、それを君自身が許せることではないので、ほとんどの記憶がなくなって、最初の意識だけが残ってしまった。君の感じる記憶の欠落というのも、案外同じところに行きつくんじゃないかな?」

 同じようなことを何度も繰り返して、くどいくらいに話をしたことで、裕也は由美の発想を袋小路に閉じ込めて、何とか考えさせようとするのだった。

 由美は、裕也に洗脳されてしまうのではないかという発想もあった。あまり人の言うことは信じないうようにしようというのが由美の基本的な考え方だった。そのことを教えてくれたのは、洋子だった。洋子が由美に口で何かを説明したというわけではない。言われたことを、

「はい、そうですか」

 と言って納得するほど由美は素直な性格ではなかった。

 素直ではないが、その分、自分の頭で考えるようにしている。そんな由美が何も考えていないような素振りをする時というのは、相手の話を鵜呑みにしてはいけないと思った時や、裕也のようにしつこく言われて洗脳されそうになった時であった。

 洋子が、好きだった彼を、山で亡くした時のことだ。それまでは人と話をする時、いつも何かを考えているのが分かっていた洋子が、その時、まるで抜け殻のようになって、何も考えられない状態に陥っていた。

 由美には、洋子の心の中まで覗けるわけではないし、洋子に好きだった男性がいたということすら知らなかったくらいだ。

 ただ、抜け殻のような表情だったが、目はいつもの姉と変わらなかった。もし、その時姉の目までが抜け殻のようになっていたら、今の由美も違った性格になっていたかも知れない。

「私のこの性格には姉さんによる優位性が大きな影響を与えているんだわ」

 そう思うようになってから、由美は姉が自分のそばに来た時に分かるようになったのだ。

 姉が近づいたことが分かるということを裕也に話すと、

「きっとそうなんだろうね。何だか『信じる者は救われる』という言葉があるけど、まるでそんな感じがしてくるよ」

「えっ、それはどういうこと?」

「そのうちに分かってくると思うけど、でも、優位性に対して、それが何を意味しているのかということに気付く時がくれば、その時に分かってくるんだと思うよ」

 裕也の話を聞くたびに、首を傾げてしまう気持ちにさせられることが多いが、ただ、それもその時々の話を点としてしか見えていないからで、線で結ぶと何か一つの結論が生まれるのではないかと思うようになってきた。それが分からない間は、裕也の話を信じているしかないと思っている。

 金木犀の香りに、次第に慣れてくるのを感じてくると、今度は線香の香りが鼻を刺激してきた。

 金木犀の甘い香りは、そこにあっても、どこから香ってくるのか分からない時がある。それは、少々遠くにいても、甘い香りに誘われて、気持ちだけがまるで金木犀に囲まれているかのような感覚に襲われる。それは、見えない暖かい腕に抱かれているかのように思えるのだ。

 暖かい腕は、緩やかに大きな波を誘う。目を瞑っていれば船に揺られているかのような感覚だ。

 どうしても船酔いから逃れることのできない由美だったが、この時に感じた大きな波は決して酔いを誘うことはない。心地よさからそのまま眠りこんでしまうのではないかと思うほどだった。

 線香の香りは、逆にどこから香ってくるのか、すぐに分かる。もし分からなければ、不安に陥ってしまうのが線香の香りであろう。

 その場所には、必ずふさわしい匂いというのが存在する。墓地であれば、線香の香りは当然、ふさわしい匂いである。金木犀の香りは、墓地にふさわしくないと思われがちなのだろうが、

「香りはしてくるのに、それがどこからなのか分からない」

 という意識は、

「これほど、墓地にふさわしいこともないのかも知れないわ」

 と、由美は思うようになった。

「こちらからは見えないけど、向こうから見えてくることもあるんだわ」

 それが、血の繋がりのない姉の存在を感じている自分と似ていることに、由美は気付いていない。血の繋がりがどれほどのものなのか、由美にはきっと分からないだろう。

 裕也は、金木犀の香りを嗅いだことで、由美に対して、

「俺はお前の弟なんだ」

 と言えないことの辛さを感じていた。

――血の繋がりなんて、クソ食らえだ――

 と、裕也はそう思っていた。

 血の繋がりがある以上、男女の付き合いはタブーである。

――じゃあ、俺は一体何をやっているんだ。これじゃあ、ピエロよりもひどいじゃないか――

 と思っていた。

 まるで人身御供のような気持ちになっている。決してあってはいけないことを自覚しながら、それが目の前に広がっているのだ。

――俺がどうしてこんなに苦しまなければいけないんだ――

 心の中でそう思いながら、能天気に見える由美が羨ましかった。だが、実は由美にも裕也の苦悩している姿は見えていた。理由は分からないまでも、

――私がそばにいてあげよう――

 と思うようになっている。

 そばにいるだけで、それだけでいい相手という存在を、今までの由美は信じられなかった。人を好きになったのなら、一緒にいないと我慢できない。それが恋愛なのだと思っていた。

 そばにいたいと思うことの延長が、恋愛感情なのか、それとも、恋愛感情があるから、そばにいたいと思うのか。由美は当然、後者だと思っていた。だから、そばにいるだけでいいという相手にそれだけで満足できるはずはないと思うのは当然のことだ。

 だが、前者であれば、そばにいるだけでいいという相手だという理屈になるとも思えない。それよりも、そばにいたいという感情と、恋愛感情とは、別に一つの線上に広がっている必要はない。そう思うと、由美は裕也のことを、恋愛感情以外に、他の感情を抱いているのかも知れないとも思える。

 そこまで考えてくると。

――由美は、ひょっとして俺たちに血の繋がりがあるのではないかとウスウス感じているのかも知れない――

 とも思えてきた。

 由美は、時々表情が一変する裕也の顔を感じることがあった。

 その時に、

――どこかで会ったことがあったのかな?

 と感じることがあった。それは、昔の記憶というよりも、デジャブに近いもので、本当に裕也だとは思っていない。似たような表情をする人を見たという記憶が意識の中のどこかにあって、その思いにどこか時間差を感じる。

 由美はその辻褄の合っていない時間差の辻褄を合わせるために、以前どこかで会ったような気がすると思おうとしているのかも知れない。

「デジャブというのは、感情であり、決して現象ではない」

 と、何かの本で見たような気がしたが、そのことを思い出していたのだ。

 金木犀の香りから、線香の香りへと変わり、すぐにまた金木犀の香りが戻ってきた。

――線香が消えたのかな?

 と思ったが、線香というのは、火が消えてからの方が煙となることで匂いが残る。それなのに線香の香りを感じなくなったということは、金木犀の匂いが、線香の香りに押し切られたということであろうか。

 金木犀の甘い香りを今までに、しつこいと感じたことはない。それはどこからともなく漂ってくるからで、その時のように、線香の香りを打ち消すほどに強い匂いを嗅いだことがないからだ。

 金木犀の香りとは記さずに「匂い」としたのは、そのせいであった。

 どんなにいい香りであっても、他の匂いを打ち消すような、しかも、その場に一番ふさわしい匂いを打ち消すような匂いであれば、しつこいと感じても仕方がないだろう。ただ、この匂いが、

「近くに洋子姉さんがいる」

 と感じさせた理由の一つであったのも否めなかった。

 その時、洋子はまさか由美もこの場所にいるということを知る由もなかった。そう、あくまでも、

「由美も……」

 という意識である。


 この街にもすっかり慣れている隆子は、墓参りとデッサンを繰り返しながらの毎日にある程度満足していたが、どうしてもゆかり先輩が何を思って死を選んだのかという、永遠に分かるはずもないことを隆子は頭に思い描いている。

 永遠に分からない謎を持ったまま生活しているのは洋子も同じだった。

 元カレが洋子に何かを言おうとしていたことは事実だったように思えてならない洋子は、永遠の謎として自分が死ぬまで分かりっこない謎を心に秘めている。誰にも悟られないように細心の注意を払いながらである。

 そんな洋子を見ていて、隆二は洋子が何を考えているか分からないというイメージを決定的なものにした。洋子の気持ちは本人にしか分からない。その人が隠そうとすればするほど表に出てしまう人もいるが、洋子に関してはそんなことはなかった。

 内に籠ろうとする相手を今までに何人も見てきたつもりの隆二である。しかも、肉親である兄を亡くしたという意味では、好きだった人を失った洋子と同じではないだろうか。

 ただ、肉親という言葉がどれほどの重みを持っているのか、隆二は少し疑問を感じていた。それは、由美が自分たちと兄妹であるということ知ってからだった。

 特にその思いを今切実に感じているのが裕也だと思うと、忍びない気分にさせられてしまう。

 兄がそこまで感じてくれているということを知らない裕也は、姉弟としての自分と、由美のことを好きになってしまった自分の中で葛藤が起こっていた。

――兄たちに相談できることではない――

 言ったら、まず血の繋がりを切々と説明され、当たり前のことしか言われないと思ったからである。こんな時に肉親から言われる正当なことというのは、聞く方にとっては、ウザく感じられて仕方がない。

――言わなければよかった――

 と感じるのがオチである。

 洋子は、隆二がどんなに考えても自分の気持ちの奥深くまでは入り込めないことを分かっていた。もし、洋子の気持ちを分かるとすれば、それは隆子しかいないと思っていた。しかも、隆子はそんなことはしない。ああ見えても必要以上のことをしないのは、三姉妹の中では隆子が一番だった。

 現実的だというべきだろうか。本当は、洋子の方がよほど現実的に見えるが、それは洋子が静かだからであって、実際には不器用な洋子に、現実的な考えはできるはずもない。現実的な考えができる人は、現実的なことを実現できる人である。その点に対して、まったく自信のない洋子に、現実的なところを求めるのは無理というものである。

 隆子は、洋子を見ていて、すぐに自分と同じように大切な人を亡くしたのだということが分かった。不器用な洋子は、隠し事にも「不器用」なのだ。

 だが、隆子はそのことに触れようとしない。それは洋子が自分に対して感じている優位性が邪魔をするからだ。もし特別なことをしてしまってせっかくうまくいっている関係を崩す必要もない。必要以上のことはしない隆子にとって、それは必然の行動であった。

 洋子は、神妙に好きだった人の墓参りを済ませた。ひょっとすると、もう自分が彼の墓参りをすることはないと思っているからなのかも知れない。自分にとって彼を吹っ切ることは絶対に必要なことで、隆二と知り合ったことで吹っ切れるようになれるかどうかが、洋子にとってのカギであった。

 最初はきっかけという意識だけだった。別に好きになるつもりもなかったし、友達の延長くらいでよかった。それなのに、まるでそれを見越したかのような彼の態度に、最初の頃は忌々しささえ感じられた。

――地団駄を踏みたくなるというのは、こういうことを言うのかも知れない――

 きっかけだけのつもりが好きになってしまった自分に対しての気持ちである。この時自分が恋愛に対して不器用だということを思い知らされた。本当は、どうせ恋愛をするなら、主導権は自分が握りたいと思っていた。それなのに、好きになってしまったことで、やきもきさせられるのはいつも洋子の方だった。

 そのうちに、いつの間にかホテルで彼に抱かれていた。それも、ごく自然にであった。

 男性に抱かれる時くらい、自分の中でどのような気持ちになって、そしてどのようなシチュエーションで抱かれることになるかなど、ある程度想像を膨らませるものだと思っていた。それが恋愛の醍醐味だからである。

 それがあれよあれよという間に彼のペースに乗せられて、気が付けば、彼の手の平の上で踊らされていたかのように、何も考える隙すら与えられなかったのである。これは彼なりに気を遣ってくれたからなのだろうが、洋子にしてみれば、

――女としての屈辱――

 であった。自分のことを、

「不器用だ」

 と言いたくなるのも無理もないことだろう。

 元々忘れなければいけないと思っている彼がいなければ、こんな屈辱を味わうようなこともなかっただろう。

 ひょっとして洋子が男性に対して不器用になったのは、最初に付き合った人が、もうすでにこの世にいないことが影響しているのかも知れない。

 彼のことも最初から好きだったわけではなかったはずで、

「彼のどこが好きだったの?」

 と聞かれても、何と答えていいのか分からないだろう。

――本当に好きだったのだろうか?

 とも思えてきた。

 それを確かめるすべはもうない。彼が生きていたとしても、果たして確かめることができたかどうかも怪しいものだが、本当にいなくなってしまったのだから、永遠の謎となってしまった。

 永遠の謎という言葉が洋子に重くのしかかる。不器用だというレッテルを甘んじて自分で貼らなければならなくなったことに、彼への皮肉を一言でも言いたくなる。墓参りに赴いた時、そのことを感じた。

「本当に好きだったんだよね?」

 と返ってくるはずのない質問を物言わぬ墓石に語り掛けた。まわりは暑さと湿気でムンムンしているのに、墓石だけは冷たく乾いた状態でそこに佇んでいる。

 そこには金木犀の香りは漂ってこない。漂っているのは、線香の匂いだけだ。線香の匂いは鼻をつく。だが、嫌いな匂いではなかった。

 あれはいつ頃のことだっただろうか? 母に連れられて、家族で墓参りに行ったことがあった。洋子が小学三年生、まだ家族と一緒にいることに何ら違和感のなかった頃だ。

 三姉妹の中で一番最初に家族との隔絶を感じたのは洋子だっただろう。一時期は、姉も妹も隔絶の対象だった。そばに近づいてきたり、そばにいるだけで、気持ち悪さを感じた。露骨に嫌な顔をしたはずなのに、隆子も由美も、何らリアクションを示そうとしなかった。――リアクションがないんじゃ、自分一人が苛立っているだけなんて、何か損した気がするわ――

 と、損得勘定が先に出てきたことに洋子は我ながら驚いた。

 自分で自分を不器用だというようになった理由がここにあることを、いまだに洋子は知らない。もし、それが分かった時、洋子に不器用さが抜けるかというと、それはないような気がする。その大きな理由の一つに、洋子は自分が恋愛に不器用であることを、実はそれほど嫌いだとは思っていないからだ。

 それを認めたくないという思いもあってか、余計に自分が不器用だということを敢えて意識するようにしているのだ。

 そんな彼とのことを吹っ切りたいなどというのは、考えてみれば、無謀だと言ってもいいことだったのかも知れない。思った通り吹っ切るなど無理なことであり、では吹っ切らないまでも、

「彼から卒業する」

 という考えを持つことで、先に進むことができるのではないかと思うようになっていた。

 洋子は近くに隆子がいることを意識していた。隆子は今までに何度も一人で出かけた場所に自分の存在を残す意識を持っているわけではないのに、何かしらの形跡を見つけることができる。それは洋子だから分かることなのかも知れない。洋子は自分が近づいたことを由美に分かってしまうことを知らない。だが、もし分かったとすれば、同じような意識が由美の中に存在しているのだろう。

 隆子の痕跡を洋子だから分かるというわけではない。たとえばそこに漠然と誰かの服が脱ぎっぱなしになっていたとすれば、それが隆子のものであればすぐに分かる。

 それは、洋子にすれば分かること自体別に不思議なことではない。

「姉さんなら、こういう服を着るというのを、私が知っているから分かることなのよ」

 と答えるだろう。

 確かにそれなら、洋子になら隆子のものだということが分かって当然だ。

 洋子に言わせれば、

「姉妹なのだから、当然よね」

 というだろうか。姉妹だから分かるということが姉妹の特権だと考えれば、当然だと一言では言い表せないこともあるだろう。

 洋子からすれば、この言葉を口にしたら、すぐに

――言うんじゃなかった――

 と感じるに違いない。

――姉妹だから分かるというのなら、由美のことも分かって当然だ――

 と考えるからだ。

 洋子は隆子のことは分かっても由美のことは分からない。要するに、洋子にとって分かる分からないは理論的に考えて分かることが表に出てくるだけのことなのだ、姉妹だから分かるという考え方は、理論的ではない、現実的ではないということだ。

 洋子は自分が考えられる範囲内に隆子がいるということである。由美に関しては、どこか自分の想定外のところがある。その部分がどうしても洋子の中で納得できるものではないことで、隆子ほど分かるところが少ないのだ。

――姉妹だったら分かって当然だという思いは、少なくとも由美には通用しない――

 と思うのだった。

 洋子は、由美が自分たちと姉妹ではないことを知らない。

 だが、実は姉妹ではないことを知らないのは洋子だけだったのだ。実際には隆子には分かっていた。

 それは優位性だというよりも、隆子の方からすれば、洋子と違って由美の考えていることがよく分かるからだ。むしろ隆子には洋子の考えていることは分からない。

 それが三人の中に存在する優位性の三すくみだということになるのだろうか。三人は口にこそ出さないが三すくみを感じている。三人の中で一番三すくみを信じていないのは、実は由美だった。

 三姉妹の中で自分だけが一番例外だと思っているのも実は由美だったのだ。性格的にも隆子と洋子はまったく似ていないように見えるが、自分と洋子、自分と隆子の距離は同じくらいだ。

 三人三様で、それぞれに突出した性格だと思っているのは隆子だった。自分を頂点にして洋子も由美もそれぞれ横一線に並んで見えている。それはやじろべえの中心に自分がいて、左右の手の先に洋子と由美がいる。自分のバランスによってどちらが上に来るか、つまりは中心は自分だという自負が隆子を支えていた。

 もちろん、そんなことは表に出さない。表に出してしまうと、一気にバランスが崩れるのが目に見えていて、それを支えるはずの自分が耐えられなくなることを隆子は悟っていたのだ。

 洋子は、論理的に考える方で、行動パターンを考えると分かってくるのは姉の方だった。実際には勘違いも多かったのだが、無意識に隆子が洋子の勘違いに合わせてあげていることが往々にしてあった。そういう意味では由美が、

「姉二人は似たところがあって、自分が一番離れたところにいるのだ」

 と感じさせることになったのだ。

 隆子の視線が上から目線であることを由美は分かっているが、相手が姉では当然だと思っている。三人の中で一番常識的に考えられるのは由美であった。由美は一方向だけを見ていればいいから楽だった。

 ただ、洋子の存在が大きすぎて、その向こうにいるはずの隆子を感じることができない。洋子を飛び越して、隆子を感じることは無理だった。

 だから由美にとって姉というと洋子だった。最近になって、やっと隆子の存在を意識できるようになったのは、洋子が何かを吹っ切って、新しい人生を歩み始めたからだと思うようになった。由美は洋子に彼氏ができたことを知っていた。それも洋子のことだから、

「前の彼氏に少しでも似たところを探して付き合うようになったのだろう。お姉ちゃんは吹っ切ったつもりでも、絶対に同じような人を選ぶはずだ」

 と感じていた。

 さすがにそれが自分の彼氏の兄だとは思っていなかった。由美が裕也に何か惹かれるものがあったとしても、洋子の場合は偶然なのかも知れない。

 いや、偶然というのは少し違う。作為があったのは隆二の方だった。隆二は裕也が由美に近づいたことを知って洋子を知った。そこで、二人はお互いに気になるとところを見つけたのだ。

 好きだった人を山で失った洋子、そして、一番親しいと思っていた兄を心中という信じられない失い方をした隆二、二人が惹き合うのは、必然なのかも知れない。

 洋子は、なかなか好きだった男性を諦めきれずにいた。そんな時、隆二が言った言葉が洋子を惹きつけた。

「諦めるとか、忘れてしまおうなんて考えるから苦しいのさ。記憶の中で温めておいてあげると思えばいいんじゃないか?」

 その言葉を聞いた時、隆二にも自分と同じような痛みがあるとは知らなかった。それを知った時、

――あの人は、自分にも言い聞かせていたんだわ――

 と感じると、急に身体から力が抜けていくのを感じた。

――私、こんなにも身体に力が入っていたのかしら?

 と感じた時、

――誰かに身体をほぐされたい――

 と、感じた。その時初めて自分が隆二に男性を感じたのだと思った。

 人の暖かさを自分が欲しているなど、信じられないくらいだった。好きな人がいなくなって、

――私は一人で生きていくんだ――

 と思うようになった。姉や妹に対しても同じことを感じた。肉親であっても、心の中まで侵入してくることはないと思っている。もちろん、自分も勝手に相手に侵入することはない。洋子は自分のまわりに侵すことのできない「結界」を作った。

 だが、隆二と知り合って、姉妹たちを見てみると、何と二人にも結界があるではないか、これ以上は入り込むことのできないこと、それはやはり肉親であっても同じことだった。

――いや、肉親だから見えるのかも知れない――

 ただ、結界は由美にも見えた。洋子の考えている肉親というのは、血の繋がりとは関係がないのだろうか。

 そう感じた時、由美に対して、血の繋がりのないことへの、何かこだわりを持っていた洋子は自分が抜け殻のようになっていくのを感じた。身体から離れた魂が、相手からは見えないのをいいことに、相手の心を見つめようとしていることに自分で気付いた。

 由美は洋子が自分に近づいてきていることが分かったようだ。だが、由美は警戒心を強めようとはしなかった。むしろ、

「入ってくるなら、入って来ればいいわ。いくらでも見せてあげる」

 とでも、言いたげだった。

 では、自分が逆の立場ならどうだろう?

 由美が自分を見ようとしている。

――何を見ようとしているのだろう?

 まず、最初にそれを感じるに違いない。しかし、今まで由美が自分に何かを知ろうとしたことがないと思っているので、まったく想像がつかない。

 怖い気もするが、何が知りたいのか分かれば、対処もできる。そして何よりも、今までの優位性を逆転できるかも知れないと思うに違いない。

 そう思うと洋子は由美を甘んじて受け入れようという気持ちになるかも知れない。

 由美が洋子の侵入を受け入れたのは、同じような発想があったのかも知れない。

 だが、どうもそれだけではないようだ。こちらが入りこもうとするのをいいことに、入りこんだら、今度は逃がさないというような意図も感じられる。甘んじて受け入れることで、相手を逆に知ることができる。この考えは洋子の中では手に取るように分かった。

 洋子は隆二に墓参りに誘われた時、断ることもできた。もし、今までの洋子なら、時期尚早という判断を下していたかも知れないからだ。

 恋愛に不器用な洋子は、決して無理なことはしない。無理なことをして、後悔したくないというのが洋子の考え方だった。

 恋愛経験がほとんどないのは、自分が恋愛に不器用だからだというわけではなく、恋愛に不器用だという風に思っているからだということにいつになったら気付くのだろう?

 それを一番分かっていて気にしているのが実は由美だということを、洋子が知ったら、どんな気持ちになるだろうか。

 由美はその顔が見たいと本当は思っていた。洋子が由美のことを分かっているよりも、由美が洋子のことを分かっている方がかなり多い。それは二人の度量に大きな影響があるのだ。

 度量としては、妹の由美の方が大きくて深い。

 これは姉の隆子から見た目であるが、考えていること、さらに自分の考えに対してどれほどの幅を広げることができるかということを一番分かっているのが由美だった。

 しかも、由美は長所と短所をしっかり把握していて、まわりとの協調を無難にこなしている。だからこそ、あまり妥協しないのだと隆子は見ていた。要するに「大人」の考え方ができる女性なのだ。

 隆子はそんな由美に一目置いている。由美もそれを分かっているので、隆子の意見に逆らうことをしない。優位性はそんな二人の関係から滲み出てきたごく自然に発生したものだった。

 では、洋子に対してはどうだろう?

 洋子は、隆子から見ても、由美から見ても、謎の多い女性だった。

 自ら結界を作っていて。侵入しようものなら、何が起こるか分からないという意識を相手に与えている。洋子が最近自分の結界に気が付いたようだが、無意識の結界だと見えていただけに、二人は気になっていた。

 隆子にも由美にも決して自分の中で結界を作っているわけではない。まわりからそれが見えるわけでもない。洋子の気のせいには違いないが、そんな妄想を抱くことは、洋子にとって、自分自身にもまわりにも大きなマイナスイメージだった。

 洋子はそのうち、世の中の全員に、結界が存在しているのではないかという妄想に駆られたことがあった。それがちょうど、好きだった人を失った時であって、洋子のそれまでの性格からすれば、好きだった人を失ったショックに耐えられるかどうか、隆子には少し怖さがあった。

 隆子が心配していたのは、洋子が思いあまって、自殺を考えないだろうかという最悪の展開と、もう一つは、洋子が考え込んでしまった挙句に、自分の殻に閉じこもってしまって、まったく出てこなくなってしまうという二つの危惧であった。

 実際には、最悪の展開を迎えることはなかったが、洋子は自分の殻を作ってしまい、そこから出てこなくなった。まるで、

「天岩戸に閉じ籠ってしまった天照大神」

 のようではないだろうか。

 こうなってしまっては、誰か力の強い屈強な人間が扉をこじ開けるか、作戦を考えて、表に興味を出させるか、あるいは、氷塚気持ちが氷解するのをただ待ち続けるかのどれかしかない。

 最後の一つは現実的ではないが、最初の考えは、もっとまずい。その時はうまく行ったとしても、強引にこじ開けたのだから、いつ元の戻ろうとするかも知れない。強引に引っ張ると、必ず反動があるものではないか。

 ただ、作戦を考えるにも、洋子の根幹にある性格が分からない。一歩間違えると、取り返しのつかないことに繋がるかも知れないからだ。

 それこそ、入り込んではいけないその人のプライバシーの侵害になってしまう。一度信用を失うと、取り戻すには数倍の労力と時間を要する。ことは慎重に運ばなければいけない。

 最初は、洋子のことをあまり気にしないようにしようと、隆子は考えた。かと言って、いつまでも放っておくわけにはいかない。天岩戸をこじ開けるには、段階を踏むという作戦を考えなければいけないと隆子は考えていた。

「こんな時、ゆかり先輩ならどうするだろう?」

 先輩がまだ心中する前のことだったので、別れてしまった先輩だったが、今でも尊敬している唯一の人であることには変わりない。ゆかり先輩のつもりで考えようと思ったのも無理のないことだった。

「あなたにだって、一人になりたいと思うことあるでしょう?」

 どこからか、ゆかり先輩の声が聞こえてきたような気がした。

「はい、もちろん、ありますよ」

「じゃあ、どうしてその思いになってみないの? 洋子さんは今一人になりたい、一人がいいと思っているんでしょう? だったら、その気持ちにどうしてなろうとしないんですか?」

 隆子はそれを聞いて、目からウロコが落ちたような気がした。

「そうだわ。ずっと相手の身になって考えようと思っていたはずなのに」

「それはあなたが、一人でいることが悪いことだとして勝手に思いこんで、考えないようにしていたからなんじゃない?」

「ええ、確かにそうです。私にだって、一人になって考えたいと思うことがありますからね」

「それだけなの?」

「えっ?」

「一人になりたいのは。考えたいと思うことがあるからなの? もっと他にも一人になりたい時ってあるでしょう?」

 言われてみればそうだった。一人になりたいと思うことは何度もあった。そのすべてが考え事をしたいからだったというわけではなかったはずだ。

「何も考えずに、ただ佇んでいるだけでもいいと思うこともあったような気がするわ」

「そうでしょう? 普通は、そっちの考えの方が圧倒的に多いと思うのよ。考え事をするのに、まわりに人がいると煩わしいと思うからでしょう? でも、佇んでいるだけならそんなこともなく、ただそこにいるだけでいい。後ろ向きも前向きも関係ない考え方なのよ」

 ゆかり先輩の話はいちいちもっともだ。こんなに尊敬していた先輩とどうして別れることになったのだろう? 

――私に勇気がなかったのね――

 何に対しての勇気なのか分からない。ただ、ゆかり先輩がいてくれたおかげで、自分も二人の妹たちの姉でいられるような気がして仕方がなかった。

 だが、そんなことを考えている隆子に、またしてもゆかり先輩は話しかける。

「それはあなたが自分の中に持っていたもの。私はそれを引き出すことに一役買っただけのことなのよ」

「私は先輩から逃げ出したんじゃないかって思うと、どうしても気が引けるんですよ」

「私はあなたに逃げられたとは思わない。一種の卒業ね。逃げたというのは、ずっとそこにいることを前提にした相手が、その立場に耐えられなくなったことを示す言葉なのね。でもあなたは、ずっと私のそばにいるという人じゃないわ。だから、卒業という言葉を私は使うのよ」

 まさか、この時の卒業という言葉を隆子は、自分がゆかり先輩に使うことになるとは思わなかった。しかも、今度は、

「永遠の卒業」

 である。

 決して望んだわけではない卒業、それはゆかり先輩も同じではないか。ただ気になるのは、隆子の知らない相手、しかも男性を相手に心中を図ったということである。一度は行き残ったが、またその後に命を絶つ。信じられないことだ。あれだけ人の命を大切に思っていたはずの人が、そこに何があったのか、きっと想像を絶することがあったに違いない。 ゆかり先輩とのことを思い出していると、自分が洋子に何かをしてあげなければいけないと再認識する。それはきっとゆかり先輩が自分に何かしてあげようと思っていたことを、できなかったことで後悔しているのではないかと思うからである。

 洋子が何を考えているかを、まずは探ろうと思っていたが、もし、これがゆかり先輩なら同じことをしただろうか? 考えてみれば、相手が何を考えているかなど、そう簡単に分かることではない。それを最初にやろうというのが、無謀なのである。

 では、どうして最初に相手が考えていることを探ろうとするのかというと、それが一番簡単に思いつくことだからである。人間は最初に思いついたことを、最初にすることだと錯覚してしまうくせがある。その理由としては、

「忘れてしまうからではないか」

 と、感じるからだった。

 意外と最初に思いつくことの方が難しいということは得てしてあるものだ。

 今回のように、安易な考えを起こしてしまうと、一歩間違えると、二進も三進も行かなくなることもある。それは足を踏み入れると抜けることのできないアリジゴクのようではないか。

 洋子は隆子のそんな気持ちをまったく知らなかった。姉に対しては相手からの優位性を感じてしまっているため、まともに正面から顔を見ることはできないと思っている。

 実はこの思いがせっかく洋子の気持ちをほぐそうと思っている隆子に大きな障害をもたらしている。そのことを洋子も隆子もお互いに分かっていない。特に相手の心の奥まで入り込もうとはしない隆子には、特にそうだった。

 相手の気持ちに入り込もうとしないと、却って相手の考えが結構見えてくるものだ。

――ゆかり先輩は、そこまで分かって言ってくれたのかな?

 と隆子は思ったが、そうなのかも知れない。

 だが、それでも肝心な部分は分からない。苦労してここまで辿り着いた人であれば、ここから先も分かるのかも知れないが、隆子のように苦労したわけでなければ、分かりっこない。

 洋子のことを考えていると、いつも自分のことを顧みていることに気が付いた隆子は、これもゆかり先輩が自分と一緒にいる時、ゆかり先輩も自分のことを考えていたのだと感じていた。

 洋子には、自分のことを自分で再生する能力を持っていた。ショックなことがあっても、それを乗り越える力があることを疑いながらではあるが持っていた。

 その力はいかに疑っていても、信じている気持ちが少しでもある以上、自分一人で立ち直ることは時間の問題だった。

 そこに一番必要なのは、「きっかけ」だった。途中苦しむことも必要であり、苦しむことによって、立ち直るきっかけを見つけることができる。

 人が悩みから立ち直るには、何かきっかけが必要だという理屈は誰もは認識していることだとは思うが、きっかけは自分で見つけられる時、そしてまわりから与えられる時、それぞれにある。

 隆子は人から与えられる場合の方が多いように思っている。そして自分で見つけることができる人は限られた人間ではないかと感じていた。

 自分で見つけることができたと思っていても、そこには人が介在していることが多い。それはそれで悪いことではないが、自分で見つけることのできる能力がその人に備わっているわけではない。そういう意味では自分で見つけることのできるきっかけを備え持っている人は、本当に「選ばれた人間」だけなのではないかと思うようになっていた。

 洋子が選ばれた人間だとするなら、もっと目立ってもいいような気がするのだが、意外と能力は内に籠められたものであって、表になかなか出てくるものではないのかも知れない。そのことを隆子は分かっていなかった。

 隆子が洋子のことで気に病んでいる時、洋子は自分のことで精一杯だった。自分の世界に入りこむと、まわりが見えなくなるというところは洋子にもあった。

 元々一つのことに集中すると、まわりのことが見えなくなる性格である。まわりが見えなくなるのも仕方のないことで、洋子の性格を分かっている人がいるとすれば、それは隆子であるだけに、隆子が分からないことは他の人に分かるはずもない。もし分かる人がいたのだとすれば、死んでしまった洋子が好きだった男性だけなのかも知れない。

 そのことを意識するあまり、彼のことを忘れてはいけないと思う気持ち、何とか記憶の中にいい思い出として格納してしまわなければいけないということを戸惑ってしまう。

 それをジレンマとして受け取ってしまうと、洋子に襲ってくるのは鬱状態だった。鬱状態という意識は洋子にはなかった。内に籠る性格は以前からあるからだ。

「お姉さん、私って、そんなに内に籠っているかしら?」

 洋子は思いあまって隆子に確認してみた。

 聞かれた隆子の方にも、いずれ聞かれるかも知れないという危惧はあったが、その時に何と答えていいのか分からずに、自分の中で答えを出しあぐねていた時期があった。先延ばしにしているうちに、ついに聞かれたのである。

 分からないことを曖昧にして引き延ばしていると、時間が経てば経つほど、堂々巡りを繰り返してしまって、答えを求めることが困難になってくる。

「私が逃げているからなのかしら?」

 と考えるが、間違ってはいない。しかし、逃げているからだとしてそこで結論づけてしまうとそこから先に進めなくなることを隆子は分かっていなかった。

 それはいくら妹のことだとはいえ、自分自身のことではない。

――自分自身のことで他にも考えなければいけないことがあるんではないか――

 と考えると、洋子のことがどうしても後回しになってしまう。

 この考え方も、隆子にとって、マイナスイメージになる考え方だ。

 隆子は洋子の考えがどうしても分からない。それは、洋子が自分のことをどこまで分かっているかということが分からないからだ。普通分からないことであれば、話をしているうちに気付くものだが、洋子に対しては最初から分かっていること以上に、他に思いつくことがないという発想だ。それが姉妹という関係から来るものだと思うと、由美の中にある結界を意識せざる負えなかった。

 邪魔ではあるが、ここをぶち破るわけにはいかない。結界といえども、どこかに抜けるところがあるのではないかと隆子は思っている。それを隙だとして捉えるか、それとも冷徹な中に流れている暖かい血の存在を誰かに知ってもらいたいために空いている隙間なのか、確かに存在しているような気がしているのだ。

 隆子は、触れてはいけないものがあることを意識していると、そのうちに、洋子の中にある再生能力に気が付いてきた。

――私が気を病む必要はなかったのかしら?

 それまで気を張って洋子を見ていた気持ちに余裕ができると、力が抜けてくるのを感じると、それまでこちらを意識することのなかった洋子が、隆子を意識するようになってきた。

 洋子からすれば隆子が歩み寄ってくれたという意識があるからだ。その頃から、洋子は隆子に対して心を徐々にであるが、開いていくのを感じていた。

 洋子が隆子に歩み寄ってきたというのは、大きな進歩である。ただ、それは隆子の性格とその能力によるものが大きかったりする。隆子は相手に自分から歩み寄ったりはしない。そのかわり、相手を自分のペースに引き込むように画策するのだ。

 画策するといっても、意図的にしているわけではない。まわりから見ると、隆子の方が忍耐強いだけだ。相手が折れるよりも先に自分が折れることはない。それだけ自分に自信があるのかと思いがちだが、本人にはそこまで意固地になっているつもりはないのだ。

 本人が意固地になっている意識があるわけではないので、まわりも根負けしても、さほど悔しいという思いはない。いつの間にか隆子に引き込まれているということを後で知っても、苦笑いをするだけで、しまったという感覚を相手に与えるものではなかった。それも隆子の仁徳なのかも知れない。

 洋子は元々隆子とさほど考え方が違うわけではない。一番間近で一緒に育ったのだからそれも当然だろう。逆に同じ兄弟姉妹で、まったく似ていない人もいる。それは見て育つ方が、相手と自分の間に埋めることのできない溝に気付いた時、相手を反面教師として見ることになるからだ。

 その時に感じるのは、

――決して交わることのない平行線――

 という考え方だ。

 だが、本当に平行線ならば、距離があるというだけで、方向性が違っているわけではない目指しているものは違っても、見えている方向は同じなのだ。それはそれで悪い関係というわけではない。

 洋子は最初姉との関係を、そんな関係だと思っていた。反面教師として見ているので、どうしても敵対心が湧いてくる。しかし、そのわりに姉の隆子から闘争心は見て取れない。それどころか、姉が歩み寄ってきているのではないかと思えていた。

 その感覚を洋子は、自分が姉に対しての優位性だと思っていた。

 しかし、その時に隆子は優子からの優位性を感じていたわけではない。むしろ、洋子が隆子に歩み寄り始めて、その時になって隆子が感じ始めたものだ。

 洋子が歩み寄ってくることは分かっている。それなのに、一緒に感じる優位性は何なのか、よく分からなかった。

 だが、今は少し分かってきた。

「優位性というものは、相手に対して余裕を感じるようになって、そこから生まれるものだ」

 ということである。

 余裕がそのまますべて優位性に繋がるということはないだろうが、きっかけから形になるまでのプロセスにおいて、目に見える瞬間があるとすれば、その時しかないだろう。ただ、それを堪忍することは難しい。逆に確認する必要もないのかも知れない。

 三姉妹における三すくみの優位性を一番最初に感じたのは、洋子だった。自分が由美から受ける優位性。それが血の繋がりに関係のあることだっただけに、複雑な気持ちになり、頭の中が整理できなくなった。そんな精神的に余裕のない洋子の頭の中に、余裕を持って接してきた由美の余裕は半端ではなかっただろう。それだけ大きな優位性に気付いてしまうと、今度は自分が発散している優位性も、さらには隆子と由美の間にある優位性も見えてきた。それぞれに三すくみの状態になっているというのも、大きな理由だったに違いない。

 ただ、隆子も優位性という意味では、姉妹同士で感じていたことにはビックリしたが、以前から感じていたものだった。それはゆかり先輩に対してであって、優位性は少なからず接する相手がいて、その相手とまったく同じ立場でもない限り、必ずどちらかに存在するものだ。

 優位性が悪いというわけではない。優位性のおかげで、二人の意見が完全に一致しなくても、障害となるわけでもなく、スムーズに先に進めるのだ。

 それを当たり前のように捉えているから分からないだけで、世の中にそんなに当たり前だと言えるようなことがそんなにたくさん存在するというのもおかしなものではないかと隆子は思っていた。

 すべては、ゆかり先輩が教えてくれたこと、やはりゆかり先輩は隆子に与えた影響は甚大なものだった。そんなゆかり先輩がどうして死ななければいけなかったのかを考えると、胸が押さえつけられる思いだが、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がないという思いがないではなかった。

 だが、それでもゆかり先輩の死の原因を突き止めたいという思いは少なくない。ゆかり先輩が隆子以外の妹たちにも影響を与えているのではないかと、隆子は思っていた。直接的な面識があったかどうか分からないが、隆子が知らない間に影響を与えているのだとすれば、ゾッとするものを感じていた。


 隆子はこの墓参りをするようになってから、

――妹たちと、ここで会っているのを想像してしまう――

 と感じるようになっていた。

 別に会話があるわけではないが、墓参りに来た相手に驚きながら、平静を装っているのを想像すると、ゾッとするものがあった。

 実際に隆子は、ここにいる間は毎日のように墓参りをしている。時間は決まっているわけではないので、朝の時もあれば夕方の時もある。

 ただ、夕方に来る方が多い。デッサンを済ませてから墓参りに来るからだ。朝くる時は、いつもが夕方なので、たまには気分を変えてみたいという思いが強いからで、やはり基本は夕方だ。隆子は夕方の時間が好きだった。いわゆる夕凪と言われる時間である。

「昔は嫌いだったのに」

 夕方、特に夕凪の時間帯を、隆子は子供の頃は嫌いだった。

 夕凪という時間には、無性に空腹感が襲ってくる。燃えているような空も嫌いだった。あれだけ真っ青だった空が、ここまで変わってしまうのは恐ろしい。そのくせ、襲ってくる暗黒の夜が怖いわけではない。

「星が出ているからかしら?」

 煌めく星を見ていると、昼と明らかに違う世界が広がっていることを考えさせられる。

――誰も、昼と夜の存在に疑問を感じないのだろう?

 まるで一足す一が二になるという理屈を覚えこまされた感覚だ。算数の基礎である一足す一を誰もが疑問に感じずに素直に受け入れている。ひょっとすると本当は疑問を抱いたのかも知れないが、納得したと感じた瞬間に、疑問に思ったことも、納得したことさえも忘れてしまったみたいだ。そう思うと、人間の記憶というのは実に曖昧なくせに、自分に都合よくできているものだということを感じることができる。

――妹たちとの関係も、同じようにどちらかが昼なら、どちらかが夜というように、お互いをまったく意識しない時が存在するのかも知れない。でも、それも意識の外のことなので、誰も気が付いていないのかも知れないわね――

 と、感じるようになっていた。

 時々、相手が何を考えているのか分からなかったり、話が通じなかったりするのは、途中が抜けているからなのかも知れないと思うと、納得できなかったことも理解できるのではないかと思えるのだった。

 隆子は、その日、夕方の時間の墓参りだった。金木犀をいつものように感じながら、墓参りを済ませると、いつも昇ってくる道とは別に、違う道が繋がっていたことに気が付いた。

「この道を行っても帰れそうね」

 いつもの階段とは違い、つづら折れになっている道を、ゆっくり降りていくことにした。こんな道があるなんて最初から分かっていればこっちから行ったのにと思ったが。なぜ今まで気付かなかったのか、隆子は不思議だった。

「こんなにハッキリとして見えているのに、不思議だわ」

 道なりに歩いていると、途中から風が吹いてきた。ちょうど、夕凪の時間が終わったのかも知れない。ここから先は夜のとばりが襲ってくるまで時間の問題だった。

「今日はいつもよりも少し遅かったのかしら?」

 と、思ったが、時計を見ればそんなこともない。まるで季節が一日で、一月分過ぎてしあったような感覚だ。

「そういえば、風も心なしか冷たい」

 昨日まで聞こえていた騒々しいセミの鳴き声も、今日はすっかり失せていて、聞こえてくるのは、秋の虫の声だった。

「こんなに一足飛びに季節が進むなんて」

 秋は落ち着いた気分にさせられる。それだけ余裕を持てる時期なのだが、だからこそいつも通ることのない道を歩いてみようと思ったのかも知れない。

 普段なら、もし新しい道が見えていたとしても、果たして行ってみようと思ったかどうか。いや、きっと行ってみようなどと思わなかったに違いない。知らない土地で、しかも、夕暮れということになると、危険極まりない思いがしてくるからだ。

 そういう意味では隆子は臆病だった。

 子供の頃のお化け屋敷、肝だめし、言葉を聞いただけで、ゾッとしていた。そんな隆子を面白がって、よくからかわれたものだ。それでも苛めの対象にならなかったのは、やはり隆子の中に何らかの仁徳のようなものが存在していたからなのかも知れない。

 臆病な隆子だったが、妙に度胸が据わったところがあった。他の人皆が怖がったり薄気味悪いと思うことに対しては、却って隆子だけが怖さがないように見えた。

 ただ、それは開き直ったからで、精神が気持ちを凌駕したのかも知れない。そういう意味では、本当に隆子が臆病なのかどうか、誰も臆病だと言える人はいないのではないだろうか。

 隆子は、次第にあたりが暗くなって行くのを感じると、そこが、暗黒のトンネルに続いているのではないかと思えてきた。

「見えているものすべてが、モノクロに見える」

 道端に花が咲いているが。色はついていない。まるで白黒映像を見ているようだ。

「昔の白黒映像の方が、却ってリアルな感じがするって思ったことがあったわね」

 昔の映像をテレビで特集したりすることがあるが、事件や事故、あるいは戦争の映像など、ほとんど白黒映像である。人によっては、

「色がついていないから、そんなにリアルな感じはしないわ」

 と感じている人がいるかも知れない。

 しかし、隆子は色がついていないからこそ、余計に想像力が増して、よりリアルに感じると思っていた。

 隆子は、そう思いながら、右手で耳たぶの後ろの髪の毛を掻き始めた。これが隆子の考え込んだりした時のくせだった。

 色がついていないことでリアルに感じるのは、夢も同じではないかと隆子は考えていた。

 夢は目が覚めた時には覚えていないことが多いと言われるが、覚えていたとしても、夢の中に色は存在しない。

「色が存在していれば、夢というのも覚えているのかも知れない。夢を覚えていないから、夢に色がないのか、色がないから覚えられないのかが分からない。いや、それ以外にも想像できないような理由が存在しないとも限らない」

 と、考えればきりのない堂々巡りを繰り返してしまう隆子だった。

 暗黒のトンネルに恐怖を感じながら、ここから引き返す方が却って時間が遅くなって、もっと恐怖を感じることになると思う隆子は、そのまま進むことにした。それは恐怖を感じることはあっても、恐怖を感じることで、お化けや幽霊の類が出てくることは絶対にないという、根拠が微妙な考えによるものだった。

「恐怖を煽っているのは、他の誰でもない。自分自身なんだ」

 と隆子は思っている。

 それだけに自分の選択が大きな意味を持つ。誰のせいでもないということは、自分の選択がすべて、そこに運を感じてしまうと、臆してしまうのではないかと思う。思い立ったら、一気にまくしたてるしかないというのが、隆子の考えだった。

 前に進むしかないという状態はハッキリしている。足踏みなどしている暇はない。躊躇すればするほど、夜は確実に近づいてくるのだ。

 そこに分岐点があるとすれば、

「天国と地獄」

 なのかも知れない。

 そのどちらも本当は死ななければ行くことはできない。しかし、本当に天国も地獄もあの世にしかないのだろうか?

「死ぬも地獄、生きるも地獄」

 という言葉を聞いたことがある。借金地獄などという言葉もあるくらいだ。突っ込んでしまってはいけない世界に足を踏み入れると、抜けなくなることもこの世には少なくない。特に男女関係において苦しんでいる人は、今の言葉が身に沁みているだろう。中には自業自得の人がいたとしても、誰も助けてくれない状況に陥ったことを自覚してしまえば、きっと、地獄を見るに違いない。その人が自ら死を選ぶことも十分に考えられる。

「そんなことで」

 と人はいうかも知れないが、自ら命を断とうする人の気持ちはその人にしか分からない。それをまわりが勝手な想像で、

「そんなこと」

 と表現する権利がどこにあるというのだろうか。

 もしそれが肉親であったとしても、許されることではない。死を意識した人に対しての冒涜になるのではないか。

 隆子も自ら命を絶つ人は、弱虫だとまで思ったことがあった。しかしそれが浅はかな考えではないかと思うようになった。

「生きようと思っても生きられない人がいるのに、それを自らで命を断つなんて、生きられない人への冒涜だ」

 それが本心から言っていることなのかどうか分からないが、隆子にはそれでも、死を意識した人の気持ちを無視していいということにはならないように思えてならない。

 とは言いながら、隆子にはゆかり先輩が許せない。ゆかり先輩は一度は助かった命なのに、再度自殺を試み、本当に死んでしまったのだ。二度目は裏切りにしか思えなかった。

 誰に対しての裏切りかというと、もちろん隆子自身に対しての裏切りであり、そして何よりゆかり先輩の自分自身に対しての裏切りである。

 ただ、ゆかり先輩の中で、

「死ぬも地獄、生きるも地獄」

 ということを、嫌というほど味わったのかも知れない。どうせ地獄を味わうなら、今は知らない死んでから行く地獄を味わいたいとまで思ったとしても無理はない。

 本当に死んでしまったら戻ってこれないことは分かりきっているのに、そこまで頭が回らなかったのだろうが、そこまで行きつくには一体何がそこまでさせるというのか、やはり本人でないと分からない「聖域」が存在しているに違いない。

 ゆかり先輩が死んでしまったことへのショックはだいぶ抜けてきたが、完全に記憶の奥に封印することはできないでいる。最終段階になって先に進まないことは隆子に苛立ちを与えた。

 隆子はつづら折れの坂道を半分くらいまで来た時、ふと前から誰かがやってくるのを感じた。

 反射的に隠れたが、なぜ急に隠れる気になったのか自分でも分からなかった。しかし隠れたことはとりあえず正解だったように思う。目の前に見えているのは、妹の由美と、以前家に訊ねてきた裕也だったからだ。

「どうしてあの二人がここに?」

 隆子にはどうしても分からなかった。

――この場所は私だけのものであって、誰にも侵されたくないところだ――

 と思っていたからだ。

 神聖な場所を侵された気分になった隆子は、自分の頭の中の理論が音を立てて崩れていくのを感じた。

 目の前にいる女性は妹の由美だということは分かっているはずなのに、妹として見ることができなくなっている精神状態に戸惑っていた。

 いつも冷静に考えている隆子は、思考回路に狂いが生じることなどなかなかないことだった。先輩が死んだという話を聞いた時も、ショックであり、理屈が分からず戸惑ったが、その時に一番戸惑った理由は、先輩の死を自分のせいだと決めつけていたことからだった。

 隆子は自分を責めた。何が悪いのか分からないが、自分が悪いのだという結論は持っている。その中でプロセスを考えるだけだったので、思考回路が崩れたわけではなかった。

 その時は、かなり立ち直るのに時間が掛かった。思考回路が崩れていたわけではないのに時間が掛かったというのは、元々考えていた結論が間違っていたからである。

 隆子は自分が悪いと思い、自分を責めた。しかし思考回路がどう考えても、先輩の死に、隆子が関わっているわけではない。それは当たり前のことだった。しいて言えば、

「あの時、別れてさえいなければ」

 別れた原因がハッキリしないのは、自分で思い出したくないという気持ちの表れなのか、それとも、原因はどうであれ、別れたということが隆子の中でトラウマになっているということなのだろう。

 だが、重要な別れたという理由がここまで曖昧であるにも関わらず、別れたことが先輩が死のうとしたことに影響があるなど、どうして感じたのだろう? 別れたという事実だけが先行してしまい、理由が後からついてきているからであろうか。

 しかし、隆子はその時、先輩と別れたということだけしか見ていなかった。何かを考える時は、まわりから全体を見つめないと分からないということは分かるはずだった。

 先輩がこの世からいなくなってしまってから、隆子の考え方は大きく変わった。それまで正しいと思っていたことを打ち消してみたり。逆に間違っていると思っていたことは、今では正しいこととして意識しているほどである。それを一つ一つ話していると、時間がいくらあっても足りない。こういう話をするのが好きだった隆子だったが、あまりにも内容が大スペクタクルに及ぶと、話もできなくなってくる。

 それは年齢を重ねるほど、大スペクタクルは大きくなってくる。減ることはなく増える一方なので当たり前のことなのだが、それだけ人に話さなくなると、自分の中で抑え込むようになる。どこまで自分のキャパが耐えられるかなのだが、耐えられなくなるまでには当然自分の中から危険信号を発するはずなので分かるのだが、まだそこまでは酷い状態ではなかった。

 ただ、耐えられなくなる前の信号が送られる前にも段階が存在する。

 その段階というのが、

――意識の感覚がマヒしてしまう――

 ということだった。

 確かに隆子には、

――感覚のマヒ――

 が存在したように感じた。そのせいなのか、隆子には耐えられなくなる信号が伝わったのかどうか、曖昧だった。

 隆子は由美と裕也の姿を見ていると、ついついゆかり先輩とのことを思い出していた。したくないと思っていた後悔をしているようで、由美と裕也がどうしてここにいるのか理由を考えているつもりで、二人から何か責められているように思えてきたのだ。

 その時、急に由美が遠い存在に感じられてきた。今まで本当の妹ではないのではないかという意識はあったが、不思議と、

「由美に限って」

 と思っていた。

 しかし、由美を見て本能的に隠れてしまった自分、由美のそばにいるのが自分のほとんど知らない人であるということが、思考回路をマヒさせた。しかも三姉妹の中で一番表情が豊かなはずの由美がまったくの無表情である。

「あれが由美に感情がない時の表情なんだ」

 と、背筋がゾッとするのを感じた。

 二人が向かう先には、隆子が参ってきた墓地しかないはずだ。二人に共通の誰が眠っているというのだろう?

 隆子はそのことを頭に浮かべてはいたが、深くは考えられなかった。追いかけてみれば分かるからだ。

 二人の歩幅は次第にゆっくりになってきた。

――時間の経つのがゆっくりになってきた?

 と思いながら、二人の顔を覗き込もうとしたが、完全に逆光になっている。さっきまで木陰は完全に闇を示していたが、今は木々の合間から、光が漏れてくる。しかもその光は木漏れ日という程度の生易しいものではない、差し込んでくる光をまともに見てしまうと目が潰れてしまいそうなほどだった。

 かすかに吹いてくる風も、木々を揺らすことで、見え方も瞬時に変わってしまう。もし逆光ではなく、まともに顔が見えたとしても、表情は瞬時に変わっていることだろう。そんな状態で表情をハッキリと見ることはできない。それなのに、無感情な表情だということがどうして分かったというのか、それは最初に、目の前に現れたのが由美だと分かった瞬間、その時の第一印象がそのままに残っているからだ。

 人ごみの中であっても、自分が知っている人を見つけた時のその瞬間、すべてのことを感じるのかも知れない。近づいてきたり、時間が経ってくると、最初の印象を忘れてしまい、最後の印象が残ってしまうことを、隆子はこの時に初めて知った。おそらくこのことを自覚している人は、他にはいないように感じた隆子は、大きな発見をしたはずなのに、それほどの感動はなかった。

――本当はもっと前から知っていたような気がする――

 と感じたからだ。

 隆子がいろいろ考えていると、いくらゆっくりと言えども、すでに二人は隆子の前を通りすぎ、自分の後ろに気配を感じるようになった。

 隆子もそれに合わせて、ゆっくり踵を返そうとしたが、足が金縛りにあったかのように後ろを振り向くことができない。

 その時は、ちょうど風は止んでいて、焦れば焦るほど、汗が身体中から吹き出しているようだった。

 後ろの気配は、隆子のことなど気にすることなく、どんどん遠ざかっていく。

――私だけ、時間が止まってしまった?

 そんなバカなことなどあるはずないのに、またしても、おかしな方へと考えが向いてしまった。

 ただの金縛りに遭っただけのはずなのに、隆子がそう考えたのは隆子ならではの発想であった。

 隆子は足元の影を意識していた。

 踵を返すことができなくなったのは、足元の影を何者かの介在で、釘打ちしたのではないかというものだった。それはまるで忍術のようなもので、影を制止することが、身体本体も動かせなくする効果を持っていて、金縛りはそこから来るものだという発想である。

 時間が止まって感じるのも空想科学的な恐怖発想で、同じ恐怖発想には変わりないが、隆子は時間が止まっていると感じる方が、怖くないように感じたのだ。

 それは人それぞれに違うもので、もっとも、影への釘打ちなどという発想を他に誰がするというのだろうか? そう思うと、隆子の中で、

「悪い方にばかり考えてしまう」

 という発想はなかったのだ。

 隆子の中では、二人がこの界隈から姿が消えれば、動くことができるはずだという確信めいたものはあった。ただ、なかなか先に進もうとしない二人に苛立ちを覚えながら、ここまで時間を長く感じたことのなかったと感じながら、隆子はやり過ごすしかなかったのである。

 隆子は、二人がこの界隈から消えたからと言って、再度二人を追いかけようなどという発想はない。やり過ごした瞬間から、二人を追いかけることはできないのだという確信があったからである。

 隆子は二人の気配を感じなくなった時点で、思っていた通り、金縛りから解放された。一気に身体から力が抜けて、その場にへなへなと座りこんでしまいそうなのを必死に堪えようとしたが、さすがにそれは無理だった。

 自分がこれから進もうとしている木漏れ日の道、そしてここまで歩んできた道、双方を見たが、ちょうどそこが中間のように思えてならなかった。この場所で金縛りに遭うことは最初から約束されていたことのようで、誰かの手の平の腕で踊らされていたような気がして仕方がない。その誰かが、まさか由美ではないはずだと今までなら確信できたものを、今ではできない自分が不思議で仕方がなかった。

――自分が変わったのか、それとも由美が変わったのか――

 少なくとも隆子は自分が変わったという意識はない。

――意識がないことが、おかしいのかも知れないわ――

 普通ならありえないはずの今の状況について考えるわけではなく、由美との関係についての方が気になってしまうのは、核心部分から遠ざかっているようで、実は核心部分の近くを彷徨っているだけなのかも知れないと隆子は感じていた。

 後ろにやり過ごしてしまったことで、すでに由美は見えなくなってしまっている。今追いかけることは無駄であるとともに、無理なことのように思えたのだ。

 隆子は、しばらく座り込んでいたが、一息吐くと、下を向きながら立ち上がった。そして、そのまま下を向いたまま、ゆっくりと歩き始めた。木漏れ日の間は決して顔を上げることなく前に進んでいる。それは、由美が歩いてきた航跡を瞼に残さないようにしようという、ささやかな抵抗に思えて仕方がなかった……・


 由美がつづら折れの坂を上りきった時、目の前に広がる墓地には、金木犀の香りが漂っていた。そこには洋子が隆二と一緒に、隆二の兄である信二の墓に手を合わせていた。

 洋子は後ろを振り返ると、そこに由美を見つけた。

 洋子は驚きのために声が出ない。

 洋子の驚きは、そこに由美がいたという意外性に対しての驚きではない。由美にはその時墓の前に洋子がいることが分かっていたはずだ。それなのに、洋子を見た時の由美の表情が、ビックリしたように見えたからだ。

 隆子が近くにいた時、まったくの無表情だった由美と同じ人物だとは到底思えない。もちろん、両方の顔を見た人はいないからだ。

 いや、そんなことはない。その時に一緒にいた裕也が見ていたはずだ。だが、裕也は相変わらずの無表情だ。一体何を考えているのか。本当に抜け殻になってしまったのかと思えるほどだった。

 由美は洋子の前に出ると、普段の由美に戻っていた。だが、由美はその時、洋子と一緒にいる隆二が目に入った。その時に見えた隆二の表情にはさすがに由美も愕然とした。

 まるで抜け殻になってしまったかのような青白い表情。

――どんな光が当たったとしても、決して生気が戻ってくるような気がしないわ――

 と感じた。

 ふと後ろを振り返った時、裕也も同じような表情をしていたのだが、裕也に関しては、由美はさほど驚きを感じなかった。裕也が無表情になるということは今までにもあったという思いがあったようだ。

「お姉さん、どうしてここに?」

 と由美は洋子に訊ねた。

「彼のお兄さんの墓参りよ」

 と、答えて、洋子は隆二の方を見た。

 洋子は隆二の表情を見て、さほど驚いている様子はない。洋子も隆二が時々こんな表情になることを分かっていたのかも知れない。

 だが、由美と違うのは、裕也を見て、驚きを感じないことだった。

――裕也に対して、他人のように思っているからだろうか?

 洋子なら考えられることだ。洋子の心の中にある本当の冷静さや、冷たさを一番知っているのは、自分だということを由美は思っていたからである。

 由美と洋子は、いくつかの墓石を挟んで対峙している。距離的にはまだ結構あるのに、最接近しているかのような雰囲気が墓地という異様な雰囲気の中で漂っている。

 金木犀の香りが、さらに二人を包み込み、どこで咲いているのか分からないが、どこからともなく漂ってくる香りを暗示させるかのような二人の立ち位置に、適度な距離が必要だということを気付かされた。

 すると、さっきまで青白い表情だった裕也が口を開いた。

「墓参りは終わったかい?」

 これは正面の兄である隆二に声を掛けたものだったが、こちらもさっきまであれだけ真っ青な表情だった隆二の顔色は復活していて、

「ああ、終わったよ。兄さん、お前が来るのを待っていたって言っているよ」

「そっか、俺もかなり墓参りに来ていなかったからな。兄さん怒ってたかい?」

「そんなことはないさ。兄さんはお前に感謝こそすれ、怒ったりなんかしないさ。信二兄さんが入院している時、毎日のようにお参りに来てくれていたことを喜んでいたからな」

 それを聞くと、裕也は下を向いて黙り込んだ。

「俺は、信二兄さんを裏切ったような感覚なんだよ」

「そんなことはない。俺もある程度は知っているつもりだ。お前が裏切ったなんてことを思いこむ必要はないんだ」

 と隆二は、裕也を窘めていた。

 その間、由美と洋子は、完全に固まっていた。まるでさっきの裕也と隆二のように、女性二人の会話の間のようだ。

 そう、この場所では、二組の男女のカップルがいるはずなのに、別の世界として、兄弟同士、姉妹同士の関係が存在していた。四人いる世界の中に単独で二人ずつの世界が存在するという、実に不可解な世界である。

 裕也の言う「裏切り」という意味を、死んだ信二が知っているのだとしても、それは仕方がないと思ったが、なぜ隆二までが知っているというのか、裕也には不思議だった。

 裕也は、信二が心中を図ったということを聞いた時、正直、兄弟として恥かしいと思った。

「自殺なんて、気持ちは分からなくないが、やっぱりいけないことなんだと思うよ。もっと他に何かあるはずだからね」

 と言っていたのが、他ならぬ信二だったからだ。

 それは兄としての弟たちに対しての教訓であり、まさか自分にそんな立場がやってくるなど考えもしない一種の他人事のように思っていたのかも知れない。

 それなのに、そう言っていた本人が自殺、しかも心中という最悪の中でもさらに最悪な形で死のうとしたなど、考えられなかったからだ。

 隆子は、ゆかり先輩と心中を図った男性の方は即死だったと聞かされていたが、実際には同じ病院にしばらくは一緒にいたのだ。

 信二の方はしばらくして死んでしまったが、ほぼ時を同じくしてゆかり先輩の方の記憶が欠落していることが分かった。

 それまでは、意識不明な状態から、意識が戻って、身体の方はある程度回復していたのだが、精神的なところでは何とも言えない状態だった。要するにどっちに転ぶか分からない状態であり、結果としては、記憶の欠落はあったが、最悪な状況は逃れられたようだった。

 その時、兄の様子を見に毎日のように病院に通っていたのが裕也だった。

 信二は、寝たきりだったが、意識はある程度ハッキリとしていた。まさかそれから一月もしない間に亡くなってしまうなど、ありえないほどの状態だったのだ。

「兄が急変したのは、俺の責任なんだ」

 裕也が自分を責めた理由は、裕也の心の中に、ゆかりが入り込んでしまったことだった。裕也がゆかりに興味を持ったのは、

「兄はどんな女性と心中しようと思ったのだろう?」

 と感じたことだ。

 裕也は絶対に、兄が女に騙されて一緒に死ぬことを強要されたと思っていた。強要されたわけではなくとも、どこかに武器を隠し持っているのだと確信していたので、

「一体、どんな女なんだ?」

 と思ったのも当然だ。

 女に対してあまり免疫をその時の裕也は持っていなかった。さぞや化粧の濃い、元々の顔をそこから想像もできないような女性であると思っていた。

 それなのに……。

 車椅子で移動する痛々しいゆかりを、同い年くらいの女性が付き添っていた。

 表情はハッキリとしていなかった。虚ろな表情は哀れさを誘ったが、

「騙されないぞ」

 とばかりに睨みつけた裕也に対し、ゆかりの表情は、ニッコリと笑顔を向けた。その表情に一切の曇りは感じられずに、裕也の中で戸惑いだけを残してしまった。

――そんな――

 今までの自分の考えを根底から覆さないといけない気持ちにさせられた。こんな思いは今までに一度もなかったことだった。それだけに裕也の戸惑いは消えることはなかった。消えるどころか、ゆかりに対しての気持ちが新たに生まれてくるのを感じた。それまで女性を好きになったことのない裕也が、初めて好きになったのだという意識を感じさせられた瞬間だった。

 それがまさか兄に対しての裏切りになるなど、考えもしなかった。それだけ兄に対しての気持ちと、ゆかりに対しての気持ちとは違うものだと感じていた。

 それは自分への言い訳だったに違いないが、好きになってしまった感情を抑えることはできない。

「抑えられない感情があるなら、それがお前の真実だ」

 という話をしてくれたのは、信二兄さんだった。

 その兄が心中を試みたということは、突き詰めると、俺たちに対しての裏切りになるのかも知れないと感じたが、その時の信二兄さんにそこまで感じる方が罪だという気持ちになっていた。

 信二兄さんと話をしていると、それまで悩んでいたことを一言で解決してくれるほどのオーラを感じることができた。そんな人が何を思って心中など試みたのか想像もできなかった。

 死のうとしている人を止めるなら分からなくもない。しかし、一緒になって死のうとするなんて……。

 だが、逆に兄さんらしいとも言えるのではないだろうか。優しすぎるというべきなのか、それとも、感受性が強すぎるのか。後者は考えにくい。感受性が強いというよりも、自分の意志をしっかり持っているのが、兄さんだったはずだ。裕也はそんな兄を誇らしいと思っていたのに、心中をしてしまった兄さんは、その瞬間、裕也の想定を逸脱してしまっていた。

 裕也は、病院をウロウロしているうちに、自分が病気でもないのに病気になったかのような気がしてくるタイプだった。熱もないのに、頭がボーっとしてくる。思考回路がマヒしてくる要因は、元々の自分の性格にもあったのだ。

 病院に毎日のように通っていると、裕也は何が目的だったのかを忘れてしまっていた。兄の病室を訪れた後、ゆかりの部屋を訪れる、ゆかりと兄がどうして心中をしようとしたのか分からないが、一緒にいるだけが、生きている証拠に思えてならなくなっていた。

 生きていることについての意義など考えたこともなかったのに、ゆかりを見ていると、生きていることの意義を教えられそうな気がしてきた。

 裕也は、ゆかりの病室にも顔を出すようになった。自分が信二の弟だということを話すべきか迷っているうちに、次第に言いそびれてしまい、結局言えずじまいだったが、これも兄に対しての「裏切り」の一つになってしまった。

「時間が経ってしまえばしまうほど、話しにくくなることもあるんだ」

 という意識を思い知らされた気がした。

 兄に対しての裏切りが、裕也にとっていくつあるのか分からない。少しずつ増えて行っているようにも見えているが、原因はたった一つである。逆にいえば、一つが解決すればすべてが解決することに繋がるのかも知れない。ただ、最初は一つでも放射状に広がてってしまったことであれば、そう簡単なものではないだろう。

 ゆかりと一緒にいると、楽しい気分にさせられた。どちらが病人なのか分からないほどで、ゆかりは兄と心中しようとした相手だとは思えないほど明るかった。

 それが人と一緒にいる時だけだということを誰にも気付かせないほどの明るさは、先生たちすら騙されたほどだった。

「あの患者さんは、もう大丈夫でしょう」

 と、医局では話をしていたほどだった。

 だが、裕也には、この明るさが本心からでないことは分かっていた。分かっていたが、ゆかりの笑顔に魅了された自分は、精神が凌駕してしまったのではないかと感じるようになった。

 ゆかりの明るさも次第に煌びやかさが抜けていくのを感じた。煌びやかさが色褪せてくると、西に傾く日差しや蝋燭の炎を想像させる。

「消え入る寸前にパッと明るく煌めく」

 そんなイメージを感じさせる明るさが、ゆかりにはあったのだ。

 本当の明るさではないのだろうが、十人いれば十人が、

「なんて明るいんだ」

 と、感じさせられる明るさであった。

 蝋燭や西日を感じると、明るさが色褪せているのが分かってくる。ただ、それは「儚い明るさ」であって、永遠に続くものではない。それどころか、消える寸前のものであって、それをどうして医者は気付かないのか、裕也は医者も信じられなくなっていた。

 医者というのは、自分の専門外のところまでは入り込まないようで、下手に入り込んで間違ったアドバイスをしてしまったりしたら大変である。そう思うと、余計に自分がそばについていてあげないといけないと思うようになってくる。危なっかしさが、、裕也を惹きつけるのだった。

 信二とゆかり、先に死んだのは信二の方だった。

 ある程度まで回復していたはずなのに、急に容体が急変し、一晩がヤマだと言われていた山を、越えることができなかったのだ。

 信二は兄弟二人がこっそり引き取り、今の墓地に荼毘に付した。

 ゆかりも後を追うように死んでしまったのだが、裕也はそのいきさつを知らない。

 信二が死んでしまったことで、病院に来る大義名分がなくなってしまったことが大きいのだが、死んでしまった信二に対しての裏切りが、信二の死という形になって現れてしまったことで、もうゆかりに会ってはいけないんだという意識を植え付けてしまった。それがどれほど中途半端なことになるのかということを、その時は分からなかった。

 一番中途半端だったのは、自分の気持ちに対しての整理である。

 会うことを拒否したのは誰でもない、自分の勝手な思い込みだった。

 だから、二度と会えないことになるという事実を分かっていたにも関わらず、結局会えなくなってしまったことで、裕也は一生消すことのできない傷を自分の心の中に残してしまったのだ。

 その思いは次第に強くなっていった。

 そして、彼の後悔は異常な形で表に出てきた。ゆかりの過去をほじくり返すことを始めたのだ。

 まるで死者に鞭打つような行動だが、裕也にとって、ズタズタになってしまった自分の意識を正当化させるために考えたのが、ゆかりをずっと自分の意識の中に留めておくことだった。そのためにまず最初にゆかりという女性のすべてを知りたいと思うことだった。どこまでできるか分からないが、裕也にとって、自分への後悔と、兄への裏切り、そしてゆかりへの思いを一つにつなぎ合わせるためには、不可欠なことだと思うことが大切だった。

 ゆかりがレズであることを知ってしまった時、

「後悔したくなかったはずなのに」

 と思った。後悔したくないために始めたゆかりの過去を探ることが、まさか新たな後悔を産むことになるなど、想像もしていなかった。だが考えてみれば、それも十分にあることだった。

「進むも地獄、戻るも地獄」

 ということであるなら、前に進むしかないではないか。そう思った裕也は、ゆかりを再度調べ始めた。

 今までに何に対して後悔をしたのかと言えば、中途半端に終わったことだったはずである。今ここで止めてしまったら、またしても中途半端に終わってしまうに違いない。新たな中途半端な後悔を産むくらいなら、

「毒を食らわば皿まで」

 というではないか。信二はその相手が誰なのか、いろいろと探し回った。それで見つけた相手が由美だった。

 裕也は、ゆかりがレズビアンだということまでは知っていたが、まさか相手が一人ではないなど想像もしていなかった。最初に出てきた名前が由美だったことで、由美がゆかりの唯一の相手だと思ったのだ。

 由美も、隆子も、まさかゆかりの相手が複数だったなど、思いもしない。もちろん、今も知らないことであり、それぞれが姉妹であるなど、想像を絶することであった。知ってしまえばどのようなことになるというのか、考えてみれば無責任な話である。

 そのことを知っているのは、この世にはいない。何という対造りなことであろうか。裕也はそれを承知で、由美に近づいたのだ。

 由美がどれほど裕也のことを想っているかは分からないが、少なくとも由美が思っているほど、裕也は由美のことを思っていない。明らかな復讐心を持って近づいた相手に、由美は疑いを持たなかった。

 由美がゆかりと知り合ったのは、偶然ではない。由美にもレズビアンの気があった。お互いに惹き合うものがあったのか、由美がゆかりを引き寄せたところがあったのだ。

 ちょうどその頃、ゆかりは隆子との関係が切れてから、しばらく経っていたのだが、ゆかりは、その頃から死を意識するようになっていた。そのことを由美は察していた。ゆかりが死を意識していたことで、由美がゆかりを引き寄せたといっても過言ではない。

 由美は、なぜゆかりが死を意識しているのか分からなかったが、自分が入り込んではいけない領域だと最初から考えていた。もし、少しでもゆかりの死への意識に立ち入ろうとしていたなら、その時点でゆかりは死を選んでいたことだろう。いずれ死を選択するゆかりだったが、同じ死を選ぶにしても、由美を知る知らないで、全然違ったと思っていることだろう。そういう意味では、ゆかりは隆子よりも由美の方が自分への影響が強かったと思っているに違いない。

 ゆかりの性格を図るには、隆子の側から見るよりも、由美の側から見る方が、本当のゆかりを見つけることができるかも知れない。隆子の知っているゆかりと、由美が知っているゆかりではまったく違う人のようである。二重人格とまでは行かなくても、それはそのまま由美と隆子の性格の違いと言ってもいいかも知れない。

 信二や裕也が感じた由美の印象は、妖艶で神秘的なところが同居しているような女性であった。隆子と一緒にいる時には感じることのできないゆかりを、少なくとも二人の男性と一人の女性は知っている。どちらが本当のゆかりなのか、誰に分かるというのだろう。

 ただ、ゆかりは隆子の影響をかなり受けている。それはゆかりが隆子とは元々性格が似通っていないことを表している。自分にないものを求めるという意味で、隆子と知り合ったのも必然だったのだろう。

 逆に由美とは、結構似ているところがあった。躁鬱になるところもよく似ているのだが、由美はゆかりが決して自分と似ているとは思っていなかった。

 どちらかというと、ゆかりは相手に合わせる方であり、ただ、相手のいいところも悪いところも合わせてしまうので、相手には似ているという意識を持たせることはなかった。

 裕也は、ゆかりのことを調べていく中で、由美に行きついたが、由美と一緒にいることで、ゆかりが自殺した原因が分かるのではないかと思い近づいたのだが、由美を見ている限り、ゆかりの中に自殺を考えるようなところはなかった。

 なぜ、ゆかりが信二と知り合ったのかというのも、分かっていなかった。二人の間に共通の知り合いがいるわけでもなく、趣味による共通点が見つかるわけでもない。警察の調査でも二人の間に接点もなく、以前から知り合いだったという事実もない。

「自殺しようとしている人が、偶然知り合ったというところではないですかね」

 と、刑事はどこにでも転がっている話のような言い方をした。普通に考えれば、そんな偶然、そう簡単に転がっているわけでもない。それなのにあたかもどこにでもありそうに話すのは、やはり職業上、いろいろなパターンの人間模様を見てきたからだろう。

 刑事という人種に知り合いがいるという人はそんなにはいないだろう。裕也も刑事に知り合いなどいないし、話をしたこともない。だが、簡単に話しているのを見ると、本当にどんな偶然であっても、どこかに必ず必然性を感じさせる何かがあるのではないかと思わせるところがあるように感じられた。

 ゆかりが隆子と別れた後、妹の由美と知り合ったというのは、ただの偶然ではないことは分かっている。だが、隆子も由美も、お互いにゆかりと関係があったことを知らなかった。

 裕也は由美に近づいたが、最初は付き合うつもりなど、さらさらなかった。ただ、自分よりも先に、兄の隆二と由美の姉である洋子が付き合っているという事実を知った時、

――これこそ、運命の悪戯だ――

 と感じた。

――これは本当に偶然なんだろうか?

 運命の悪戯が偶然という言葉と同意語だというのは、少し違っている。偶然という言葉でしか表現できないが、それでも場合によっては、偶然として片づけたくないと思うようなことがあった時、運命の悪戯という言葉で肩を付けようとするのではないだろうか。そう思うと、運命の悪戯という言葉は、何かの辻褄合わせに思えてならない。

 ただ、この場合の運命の悪戯は、作為的なものだった。

 由美は、隆子のことを意識しすぎるほど気になっていた時期があった。ちょうどその時期がゆかりと付き合っている時期だった。

 隆子を見ていて、人に絶対に知られてはいけないという意識を持っていることが分かった。意識すればするほど、まわりに目立ってしまうことは得てしてあるものだ。

 隆子が誰かに恋している様子が見て取れたのだが、あまりにも隠そうとしている意識が強すぎることに気が付くまで少し時間が掛かった。

「何かおかしい」

 と思ってはいたが、まさか相手が女性だなどという発想はまったくなかった。

 確かに相手が女性であれば、隠そうという意識があっても無理のないことだが、それは自分の中の気持ちが表に出るのを隠そうとするものだった。隆子の中に、女性と付き合うということよりも、女性と付き合って精神的に自分がどのように変わっていくかということの露見が怖いという思いがあるのだ。

 女性と付き合っているなどということを知られると、汚らしく見られてしまうことも覚悟しなければいけないのだろうが、汚らしく見られるよりも、さらに何が露見することを嫌がっているというのだろう。由美がその時の隆子に対して何を感じたのか、ゆかりという女性を知らないことには、始まらないと思っていたに違いない。

 隆子はゆかりと別れて、男性を好きになることはしばらくなかった。吹っ切ったつもりでも隆子の中にいるゆかりは、他の人に対する表情とは、まったく違っているのではないだろうか。

 女性を好きになったことが隆子にとって、今までの自分の人生を否定するかのような感覚だったが、ゆかりと別れてからしばらく悩んだ中で見つけた結論は、

――あまり余計なことを考えないようにする――

 ということだった。

 人間不信にも陥った。誰かが近くに寄ってくると、自分と明らかに違う臭いに気が付いて、吐き気とともに息苦しさに耐えられなくなる。

 それでも姉妹たち相手には、今までと変わらなかった。三すくみの状態だったことで、今までと変わりはないという思いが強く、自分の居場所はここだけだと思うようになったことで、いつの間にか人間不信もなくなっていて、元の自分に戻っていた。

「こんなに早く元の自分に戻れるなんて」

 と思ったが、実際には相当の時間を費やしていた。立ち直るため、意識は一つの方向だけを向いていた。そのため、一つの方向以外のことはすべて忘れていく。

「立ち直るためだけにその間の時間を使ったんだわ」

 ということを知らずにいると、時間の感覚がマヒしてくる。自分中心の時間が展開されたのだと錯覚してしまう。

 それでも立ち直ることができたと思ったことで、以前の自分に戻れたと思っていた。

「以前の自分って、いつの時点の以前なのかしら?」

 余計なことを考えないようにしているくせに、理論的なことだけは頭の中に残ってしまう。解決しておかなければいけないことだと思うのだった。

 ゆかり先輩と知り合う前の自分であることに違いはないが、どの時点なのか、自覚できていない。ただ、三姉妹の長女だという意識だけはよみがえってきた気がする。立ち直れたかどうかは別にして、まずはゆかり先輩と知り合う前の自分に戻りたいという意識を達成できたことはよかったと思っていた。

 由美は、そんな隆子を見ていて、明らかにおかしかった時期が存在し、今は落ち着いていると感じた時、姉に何があったのかを探ってみたいと思った。それは好奇心の表れに過ぎなかったが、姉と自分の性格を比較して、

――姉に何があったのか、知らないままではいたくない――

 と思うようになった。

 その頃、ゆかりは一人だった。

 ゆかりは一人でも、別に寂しいという感覚に陥ったりしないのではないかと、まわりからは見ていると、そう思えた。

「孤独という言葉が似合わないように感じる」

 それがゆかりという女性と知り合った人が感じるゆかりへの印象だった。

 隆子が変わってしまった影響を与えたのがゆかりだということを知らずに知り合った由美は、ゆかりと知り合ったことで最初に感じたのは、

「こんな世界があるんだ」

 という思いだ。

 自分に対して、否定的なことをあまり考えない由美は、ゆかりを素直に受け止めた。その時、ゆかりには少し躊躇があったことを由美は知らなかった。

 由美は確かに積極的であったが、積極的な由美に臆するようなゆかりではなかった。どちらかというと、相手が積極的になってくると、自分も負けないようにしようと思うのがゆかりだった。それなのに、躊躇したというのは、明らかに由美を相手に後ずさりしていた。

――一歩下がって、少し広い範囲から見てみよう――

 という思いを与えた。

 ゆかりは、その時直感で、由美の中に隆子を見たのだ。

――姉妹なんじゃないかしら?

 隆子に二人の妹がいたのは話に聞いていた。そして、隆子の中に一つの悩みがあり、その時、妹のうちの一人の血が繋がっていないということで悩んでいることも知っていた。

 隆子が三女だと言っていたので、自分でも調べてみたが、果たして三女は由美というではないか。

――どういうことなの?

 ゆかりは考えてしまった。

 ゆかりの感性は、

「由美は間違いなく、隆子と血の繋がった妹だ」

 と告げている。

 それなのに、隆子は真剣に悩んでいた。その悩みがゆかりとの関係に少なからずの影響を与えたことに違いない。

 ゆかりは、由美と一緒にいた時期は、隆子と一緒にいた時期に比べれば短いものだった。どうして一緒にいられなくなったのかという本当の理由は曖昧だった。離れていったのがゆかりの方であれば、ハッキリとした結論が出てくるような気がしたが、離れていったのは由美の方からである。

 それはまさに青天の霹靂に近いものがあった。

 由美の方から離れていくなど、想像もつかなかった。

 隆子との場合も曖昧だったが、由美の場合でハッキリと分かっているのは、由美の方から離れて行ったということだ。

 由美は姉たち二人と血が繋がっていないということを、ずっと自覚してきた。それを姉たちに悟られないようにするのは、本人にとって簡単に考えていたが、実際にやってみると、気を遣うということ自体から、相当な疲れを伴うものだった。

 血が繋がっていないことを意識していると、由美の気は楽になっていた。

 姉たちに気を遣っていないわけではないし、姉たちから気を遣われていることも分かっている。

――何に対して気が楽なのかしら?

 その答えは寂しさを感じることにあった。

 姉たちと血の繋がりがないという意識があると、寂しさが意識されるようになった。しかし、その寂しさは本当の寂しさではない。感じている寂しさを素直に表に出すと、人間関係がうまく行くように思えたからだ。

 だが、由美はゆかりと一緒にいて、ゆかりに身も心も任せていると、ゆかりが、

「あなたは姉たちと血が繋がっているのよ」

 と言っているかのように思えた。

 その時初めて、隆子とゆかりの関係についての疑念が由美の中にこみ上げてきた。

――どうして気付かなかったのかしら?

 調べれば簡単に分かることだったはずだ。

――まさか、最初から予感めいたものがあり、調べることを怖がっていたんじゃないかしら?

 と思うようになった。

 自分に対しての疑念だったはずなのに、それが今度は隆子に対しての疑念に広がり、さらにはゆかりも信じられなくなった。由美は気付いていないが、その時の心境は、隆子がゆかりと別れを迎える前と同じような感覚だったのだ。

 由美は、ゆかりと話をする気がしなかった。

 それは、隆子も同じだったが、話をしても、結局自分の意見がハッキリしていないのに、結論はおろか、自分の考えすら分からないまま終わってしまうように思えたからだ。

 そうなると、黙って姿を消すしかない。それが由美の側の考えだった。

 ゆかりの方はどうだろう?

 自分が何も悪いことをしたわけでもないのに、相手から何も言わずに勝手に去って行く。ゆかりの性格を知っている人は、疑念を感じると、話し合いなどできる状態ではないところまで相手が行きついてしまうのではないかということに気付くだろう。だが、ゆかりと付き合っている人は、ゆかりとのことを口外しないようにしている。もちろん、ゆかりも同じなので、二人の別れは誰も知らないところで行われている。お互いに主観的になって、結局、平行線を描いたまま、交わることがないのだから、なぜ別れるのかという理屈に行きつくことはないのだ。

 ゆかりは、隆子や由美との別れを迎えたような経験を他にもしていた。そのたびに同じ感覚、つまり、

――私が何をしたというの?

 という考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返し、自分の感情や感性が泥沼に入り込んでしまっていることに気付かされた。

 それがゆかりが自殺をしようとした理由の一つであることに違いない。ただ、それだけだったのかということは、ゆかりが入院して回復を始めた時、記憶が欠落してしまったことで、知る可能性はかなり低くなっていた。

 ゆかりが一緒に心中しようとしていた信二にも、同じような感覚があったのではないだろうか。

「自殺をしようとした本当の理由を、彼は知らなかったんだ」

 と、ゆかりはずっと思っていた。

 助かって病院に入院してから、心中しようとしたということを教えられて、信二のことを思い出したが、記憶の中にあるのは、自殺しようとした理由について、二人で話し合ったわけではないということだけだった。ゆかり自身も、自殺の理由をハッキリと分かっていなかったが、彼の方は、もっと漠然としていたのではないかと思えた。

――だから、私は気が楽だったんだ――

 相手に気持ちを悟らせることのない信二の表情は、無表情ではあったが、相手に安心感を与えるようなものだった。それがゆかりにはありがたかった。

――彼も私に同じことを感じていたのかしら?

 だから、あんなに安心した表情だったのかも知れないと思うと、不思議な感覚だった。お互いに、

「この人とだったら、楽に死ねる」

 と思っていたのかも知れない。

 信二が死を覚悟した理由は、信二の病気にあった。信二も躁鬱症だったが、死ぬということに対して恐怖心のようなものはなかった。

「世の中で一番怖いのは、死だという人がいるけど、俺は別に死ぬことが怖いわけではない」

 と豪語していたが、

「死というものに対しての冒涜だ。あんなことを言うやつは、本当に一回死んでみればいいんだ」

 と、まわりから蔑まれていた。だが、信二が本当に死ぬということを怖がっているわけではないというのは本当のようだった。

「苦しかったり、痛かったりするのが怖いのか、それとも、もうこの世の人と会うことができないと思うから怖いのか。どっちなんだろう?」

 と、信二は思っていた。

 前者であれば、理屈は分かるが、後者であれば、別に死というものは怖くない。この世に生きている人で、本当に大切だと思える人が、信二にはいなかった。

 信二は、自分が思っているほど、まわりは自分のことを想ってくれていないと、思うようになっていた。小学生の頃から、

「目上の人やまわりの人を大切にしないといけない。大切にしていると、いざという時に助けてくれる」

 と言われたものだが、冷静にまわりの人を見ていると、いざという時、本当に助けてくれるような気がしないのだ。

 そういう意味で、人と接触するのがあまり好きではない。相手が女性であればまた違ってくるのだが、自分が以前のように純情な男性だという意識を持っていることで、人との違いを上から見てしまう癖がついてしまっているのかも知れない。

 そんな信二とゆかりがどうして知り合ったというのだろう?

 お互いにどちらかが歩み寄らないと、共通点などないように思える気がするのだが、歩み寄ったとすれば、ゆかりの方ではないかと思えた。信二はいくら相手が女性であったとしても、考えを共有できる相手でなければ、歩み寄ってきた相手に対して受け入れる体勢を作ることができるのだが、自ら歩み寄ることはない。

 裕也は、信二は本当は死にたかったわけではなく、ゆかりと付き合っている間に感覚がマヒしてしまって、死ぬことに対しての免疫ができたことで、死ぬことに対して「付き合わされた」のではないかと思うようになっていた。


 由美は、裕也に対してまったく疑念を抱いていなかったわけではない。一緒にいる時に時々、上の空の時があったり、由美を遠くから見ようという意識を持っている時があることを知っていたからだ。

 遠くから見ているというのは、別に裕也が後ずさりしているわけではない。なるべく視野を広げようという意識があることで、広い範囲の中で由美だけを見ようとすると、遠くから見ているように感じるからだ。

 兄の墓参りに行こうと言われた時も、本当なら、

「何をいきなり」

 と思うに違いなかったはずなのに、遠くから見てみると、何か裕也に考えがあってのことだろうと思うと、もし、その時裕也にその理由を聞いたとしても、決して答えが裕也の口から出てくるはずがないということは分かっていた。

 裕也は、兄の墓の前で、由美の姉と、さらにはその洋子と付き合っている自分の兄と出くわした。裕也と隆二の会話は何もかも分かっているかのように由美にも洋子にも感じられたが、実際には何も分かっていない。そこの墓に眠っているのが自分たちの兄であるということ以外、洋子や由美とさほど違いなく事情をわきまえているのではないかと思っていた。

 由美は急に裕也が遠い存在に感じられるようになっていた。二人きりの時は、姉の隆子や洋子よりも近い存在だと思っていたのにである。

 それは、裕也を男性として見ているからなのか、それとも弟のように思えていたからなのか、洋子と出会ってしまってから思い起すようになると、本当にどちらなのか分からなくなっていた。確かに、裕也を弟のように感じた瞬間があった。それは一度だけだというわけではなく、何度かあった。それも、遠い間隔ではなく、ごく短い間に何度か感じたものだったはずだ。

 由美は、洋子と墓前で出会ったことで、その前の道で他の誰かの視線を感じたことを今さらながらに思い出した。その視線は、一度意識してしまうと誰だったのかということは分かっている。姉の隆子だったのだということに間違いないだろう。

 この場所に、主要な人物は何かに引き寄せられるように終結したのだ。確かに裕也と隆二の間で作為はあったのだろうが、そこに隆子が絡んでいるというのは、不思議に思われた。

 いや、実は不思議でもなんでもない。隆二は隆二で裕也と同じように、兄のことを気にしていた。そしてゆかりのことを調べているうちに行きついたのが、隆子だった。

 隆子にいきなり近づくわけにはいかないと思いながら妹の洋子に近づいた。すると隆二の中で、洋子と別れられないという思いがこみ上げてきた。完全に引き寄せられて、別れることができなくなったのだ。

 裕也は兄に対して裏切りを感じ、隆二は洋子と知り合ったことで、洋子に逆らえないということは、そのまま自分に対して正直であり、裏切ることができないということを感じるようになっていた。

 隆子のことがどうでもよくなったわけではない。ただ自分に正直になった隆二は、洋子と二人でいることに集中したいと思っていた。

 そんな時、自分の腕の中で快感に集中していたはずの洋子が妹の名を口にした時はビックリした。

 洋子にはレズビアンの気はない。由美の名前を口にしたのは、ただ、彼女がいうように、妹に対して意識が過剰になっていたからだ。

――もし、あの時、洋子が口にしたのが姉の隆子の名前だったとしたら?

 と、隆二は思った。

 ひょっとすると、墓前で出会ったのは、由美と裕也ではなく、隆子だったかも知れない。隆二の妄想に近い想像は、当たらずとも遠からじだった。実際にこの場所に三姉妹と、自分たち兄弟が集結したからである。

 隆子と墓前で出会っていれば、どうだっただろう?

 シチュエーションとしては、腰を落として墓前に手を合わせている隆子に、隆二と洋子の二人が、後ろから覗き込んでいるというシーンが思い浮かんでいた。隆子は後ろから二人が忍び寄ってくるのを知ってか知らずか、熱心にお参りしている。猫背になり、あまりいいとは言えない姿勢で参っているその姿に、洋子は哀愁を感じていたに違いない。隆二は、哀愁というよりも憐みを感じている。それはゆかりと隆子を「同類」としてしか見ることができないからであろう。

 隆二には、ゆかりに対しての怒りはない。ただ、事実を知りたいと思っていた。洋子は何も知らないようだ。裕也が由美に近づいたのと、隆二が洋子と一緒にいるのは、まったく違う理由だった。

 隆二は洋子のことは知っていた。

 別に最初から近づこうなどと思っていたわけではない。洋子が少しでも隆二の考えているような女性でなければ、ここまで接近することはありえなかった。だが、洋子は隆二が思っていたような女性であり、知り合うに十分だと感じたことで、二人は出会った。

 隆二にしてみれば作為があったに違いないが、洋子にはその作為を感じることはなかった。それだけ隆二はさりげなく、そして自然だった。

 洋子も最初から人を疑うような女性ではない。最初から疑えばきりがないと思っているからだ。疑えば誰にでも一つや二つ人には言えない何かがあるのは分かっている。相手のことをよく分かっていない間から、疑ってしまうと勘違いをしてしまう可能性が高い。そうなれば、まったくその人と違う相手を思い描いて、結局悩むのは自分になってしまう。洋子は、これまで人から裏切られたり、修羅場を見たことがなかったので、甘い考えなのかも知れないが、それでもいいと思っていた。

 ただ、ベッドの中で洋子が由美の名前を口にした時、妹だとは思っても、ゆかりの相手だった姉と血が繋がっていると思うことで、変な先入観を持ってしまいそうになった。だが、洋子が由美に対して血が繋がっていないという疑念を抱いていることと、三姉妹の中でそれぞれ何かの壁を持っていることだけは見て取れた。その壁が、三すくみの関係であることまでは分からなかったが、他人である隆二にしてみれば、そこまで分かっていれば十分だったに違いない。

 洋子たち三姉妹と、亡くなった信二を含めた自分たち三兄弟が、いろいろ似ているところもありながら、結びつけるきっかけになったのは、よくも悪くもゆかりの存在が大きかった。

 隆二は、裕也が兄に対して後ろめたさを感じているのは知っていた。ゆかりを好きになってしまったことが原因なのだろう。二人が付き合ったという事実はないが、お互いの気持ちを打ち明けあったことは間違いないようだ。

 好きになった女性が兄と心中しようとした女性で、二人は死に切れず、同じ病院に収容された。

 信二は死んでしまったということで、、信二がまだ死んでいなかったのを知っているのは限られた人たちだけだった。

 どうして信二が死んだことになったのかというと、それは信二が望んだからである。

 最初から死ぬつもりで、すべてを整理してしまった信二だったが、心中なので保険も降りない期間だったこともあり、そちらの問題はなかった。

 病院では意識はあったが、完全に記憶ではない。むしろ、肝心なところの記憶と意識が曖昧だった。

「俺は、彼女を見た時、死のうという決心が固まったんだ」

 と信二は二人の弟たちに話した。

「そんなことってあるのかい? 本当に二人は知り合いじゃないの?」

「ああ、俺が死のうと思っていたところで、彼女と知り合ったんだ。だけど、彼女は俺ほど死にたいとは思っていなかったようなんだ。心中に引き込んだのは、俺の方だったのかも知れないな」

 と、言いながら下を向いて考え込んでいる信二だった。

「たぶん、俺はそんなに長くは生きられないと思っている。でも、もう自殺しようとは思わない。死ぬ勇気なんてそう何度も持てるものじゃないさ」

 と言っていた。

「それはそうだ」

 と、二人は答えたが、死のうとしたこともない二人に、それ以上の確定的な言葉が出てくるはずもない。

 裕也がその言葉を聞いて、

「兄は、一緒に死のうとしたほどの女性だったんだ。少なくともその時、本当に好きになれる相手を見つけたと思ったんじゃないか」

 と感じた。

「俺は、もし死のうなどと思わなければ、彼女を幸せにできたかも知れないなんて考えることもあるんだ。死を意識したから、そんなことを思えるんじゃないかな? 覚悟のようなものだけどね」

 と、信二が言っていた。

 幸せと死とは背中合わせ、それは天国と地獄も背中合わせと言葉を変えることができるのではないだろうか。

「どっちに転ぶか分からない。だから人生は面白い」

 どこかの自己啓発の本にでも載っていそうな言葉だが、その時は自然と頭の中に浮かんできた。

 隆二はそんなことを感じていた裕也とは違い、漠然と聞いていた。まるで他人事のような気分だ。いくら兄とはいえ、自分が体験したわけでもないことを、相手の言葉だけで想像するなどできっこないからだ。

 自分が冷静なのは分かっている。冷静というよりも、冷徹なのかも知れない。あくまでも中心は自分なのだ。

 だが、隆二はこの時から、少しずつ変わって行った。

 冷徹で冷静なのは、

――あくまでも自分が中心。自分さえよければいいんだ――

 という発想の元の冷徹さで、そんな自分に少なからずのジレンマを抱いていたのが分かっていた。

 だが、この時兄の病床で、裕也と二人で兄の話を聞いた時に感じた何か、それをしばらく忘れていた。記憶を、意識して封印していたのだ。

 忘れなければいけないほどの大きなものだった。それは裕也も同じだったのかも知れない。

 だが、記憶を封印するというのは、思い出したくないことを封印するものだが、それは無意識の元に封印されるものであって、この時は意識的に封印した。ということは、いずれその時が来れば思い出すというような類のもので、その時というのを静かに待っている自分をいつの間にか感じるようになっていた。

 封印したということは確かに思い出した。しかし、それがどういうことだったのかということを感じるまでに近づいてきたことを意識していた。「その時」は遠くない将来だということである。

 ここで、洋子たち三姉妹と、隆二たち三兄弟が揃う予感があった。今は時間と空間の悪戯なのか、それとも人間の本能から出会うことを拒否しているのか出会っているわけではない。それはまだ「その時」ではないからなのではないだろうか。

 隆二は、信二の墓前でお参りしていると、病院での三人の会話がよみがえってきた。それは裕也も同じだったのかも知れない。

 さっきまで裕也は由美をずっと意識していたはずなのに、隆二と洋子に出会った時から、隆二を意識するようになった。その意識というのは、どこか自分の気持ちをけん制しているようで、

――兄さん、俺の気持ちを分かってくれよ――

 とでも言っているかのようだった。

 だが、隆二にもすぐには、その視線の意味を分からなかった。自分を意識して見ているのは分かっていたが、何を言いたいのかまで分かるほど、その状況に隆二は入り込むことができなかった。

 隆二は、その場面にふさわしい自分を頭に描くようにしている。そして、その場面にふさわしい自分が現れると、その時に自分が感じることは、ほぼ間違っていないと思うようになっていた。その場にふさわしい自分を思い描くことはなかなか難しいが、できてしまうと、そこから先は自分に自信を持っていいことを証明されたことだと思うのだった。

 そして、洋子たち三姉妹にも自分たち三兄弟と同じことが言えるのではないかと思っている。それを握っているカギは、今は死んでしまったゆかりなのかも知れない、そうなると今のキーパーソンは、隆子であり由美である。ただ、今は二人の間にかなりの距離があるので、その距離を埋めないと、どうすることもできない。その距離を埋めることができる人がいるとすれば、洋子しかいないだろう。洋子は明らかに隆二に近い、近いだけに結界が設けられていて、それ以上先に進むことができないこともあるが、きっかけが何であるかくらいは分かるというものだ。

 そしてそのことを一番分かっているのが洋子ではないだろうか。洋子だけがゆかりを知らない。客観的に見ることができるのは洋子だけだ。

 しかし、隆子も由美も、ゆかりを崇拝しているところがある。何も知らない洋子は口を挟むことはできないだろう。

――何を言っても他人事――

 と言って、片づけられるのがオチである。

 隆二はまずは自分たちがあの日、兄の病床の脇で、どのような話をして、何を感じたのかを思い出そうとしていた。

 その時、兄の心はゆかりに向いていたかも知れない。

 だが、確かに自分たち兄弟の顔を正面から見て話をしてくれた。

――いや、最初は俺や裕也が一方的に話をしていたような気がするな――

 それは、兄の深刻な顔を見たくない一心から、自分たちで少しでも気分転換になればと思い、心中に対して触れることもなく、今の自分たちの現状や、考えていること、あるいは、過去に何を考えていたかなど、そんな話をしていたような気がする。

 その思いが功を奏したのか、深刻な話にはならなかった。だが、決して浅い話ではなかった。本当ならもっと以前からこんな話をしておけばよかったと思えるほど、自分たちの気持ちに正直になれた瞬間であった。

 三兄弟は時間を感じることもなく話をしていたに違いない。時々笑った記憶もある。それも心の底からの笑いだった。それこそ、何年ぶりに心の底から笑ったのだろう。そんなことを思わせる瞬間でもあった。

 隆二は、信二が寝ている傍らで、裕也の話を交えながら、信二と話をしていた。それを聞きながら裕也もしきりに頷いている。それを横目で見ていると、裕也の気持ちも自分と似たところがあることを確信した。

 しかし、それは交わることのないものだった。考え方の進み具合が違っているのか、先を行く隆二を追いかけているかのようだった。

 しかし、裕也が隆二の話の後に口を開いた言葉として、

「俺は兄さんのような考えに行きつくことがないような気がするな」

 と言った。

「でも、同じ路線で考えているんだろう?」

「そうなんだけど、たぶん、お互いに見ているのは、違うところじゃないかって思うんだ。確かに方向性は同じなのだろうが、兄貴が行きつくであろう場所を俺は見えていないような気がするんだ」

 隆二はそれを聞くと、裕也が途中までを見ていて、そして、その先を自分が見ているのではないかと思うようになった。

 その途中にブランクがあるかも知れないが、それを全体を総括して見ているのが兄だったのではないだろうか。いくら兄弟二人がムキになったところで、今まで兄の信二に適うことはなかったことを思えば、そう考えるのが一番自然な気がしていた。

 弟二人とも、兄に対して全幅の信頼を置いているのも当然のことであった。

 そんな兄が本当に自殺しようとした。しかも女性を道連れにである。お互いに死を意識するだけの理由はあったに違いないが、果たして二人が一緒に死ななければいけない必然性がどこにあったというのだろう。

 隆二は、兄の病状の傍らで感じたことを、思い出していたのだ。

 そして、自分たち三兄弟と同じことが洋子たち三姉妹にも言えるのではないかと思うようになっていた。由美が途中まで、そこから洋子が受け継いで、さらに全体を隆子が見つめている。そんな関係を考えると、由美が本当は自分たちと血が繋がっているというのも信憑性に欠けてきた。

 さらに三兄弟が三姉妹との距離を縮めたのは、ゆかりの死が大きな影響を及ぼしているような気がしていた。

――まさか、ゆかりは僕たち兄弟と、血が繋がっているのでは?

 そう思うと、兄がゆかりを道連れにしようとした理由も分からなくはない。

 兄は血の繋がりのあるゆかりを愛していた。しかし血の繋がりがあることを知っているのは兄の方だけで、ゆかりは何も知らなかった。しかし、兄の態度から、ゆかりもそのうちに知るようになった。それも、兄を愛し始めてからのことだった。

「もっと早く言ってくれていれば、苦しまずにすんだのに……」

 と、ゆかりは悔しがっていた。

 そんな時に知り合った由美に、ゆかりは惹かれたのだ。

 何と、ゆかりと関係を持ったのは、由美の方が最初だったのだ。

 レズビアンに目覚めたゆかりを見て、さぞや信二はショックだっただろう。

「俺が悪いんだ」

 そんな時にバチが当たったのか、信二は病気になった。

 あろうことか、ゆかりも同じだという。

 ただ、それはゆかりの方便で、病気ではなかったのだが、死にたいという気持ちは強かった。

 それも信二のゆかりに対しての罪滅ぼしのつもりだったのかも知れない。心中というよりは、ゆかりが引きこんだのだ。それでも信二は甘んじて受け入れたことで、心中が成立する。死に切れなかったことに対して信二の方がショックが大きかったのは、そういうことだったのだ。

 そのことを最初に悟ったのは。由美だった。

 由美は信二のことは知らなかったが、裕也を見ていて、引き込まれやすい性格であることは見て取れた。兄が心中したと聞いた時、間違いなく引き込まれたと思った。

 しかも、相手がゆかりだというではないか。ゆかりの性格もよく分かっている。由美が最初に気付くのは必然のことだった。

 由美が気付くと、由美といつも一緒にいる裕也も何となくだが、分かってくる。二人の間にあまり隠し事がないことが功を奏したのかも知れない。

 由美の発想の行きつく先を洋子は見つめている。洋子は由美が怖かった。自分のすぐ後ろにいる気がするからだ。それもゆかりと関係したことで、女でありながら、女の感性とは違った感覚を持つことができるようになった。

 由美は自分が男だったのではないかと思うようになっていた。だからといって、相手が女のような男性を好むわけではない。どちらかというと男らしい男に惹かれる。裕也にはそれがあった。

 男らしさとは、何も勇猛果敢なだけが男らしさではない。女性に対しての心遣いもキチンとでき、それをひけらかすことなく、すべてを自然にやってのけるような男性のことである。

 他の女性がどんな男性に憧れるのかが、高校時代くらいまでは異常なほど気になっていた。

 特に姉の隆子がどんな男性に惹かれるのかが気になったが、隆子を見ていて、それを悟らせない雰囲気があることに気が付いた時、

「この人に対して、あまり詮索しない方がいいのかも知れない」

 と感じた。

 それは、きっと自分とダブったところが多いと思ったからで、隆子を見ていると、自分の将来が見えてくるようで恐ろしかったのだ。

 隆子がのちに自分と関係があったゆかりと関係を持つなど想像もできなかったのはそのせいでもあった。もし、これが洋子であれば、きっと早い段階で気付いていたのかも知れない。

 由美や隆二がある程度の状況に気付き始めてた頃、やっと金縛りから解放された隆子は、つづら折れをもう一度昇り始めた。その先には洋子と由美が対峙しているということが隆子にも分かっていた気がしたからだ。自分が行ってどうなるものでもないのだろうが、少なくとも由美と洋子が絡んでいることは、自分によって繋ぎ合わせないといけないと思うのだった。

 息が切れてはいるが、それほど疲れているような気はしなかった。額から汗が流れ落ちているが、暑いとは感じない。汗は心地よかったが、足の重たさは、いかんせんどうにもならなかった。

 隆子が行ってみると、そこには会話はなく、全員が固まったように立ちすくんでいるところだった。

 だが、よく見ていると、それぞれの人間が信じられないような速さでものを考えているように思えてならなかった。そのわりにその場を支配している雰囲気を持っているのが隆二のような気がしていたのは気のせいであろうか。

 由美と裕也は、それぞれに自分のパートナーの方を気にしている。由美は裕也に信頼を得ようとし、裕也は由美から、今まで知らなかった部分を隆二に引き出してもらうことで、由美のすべてを知りたいと思っているようだ。

 洋子に至っては、どうも心ここにあらずというべきであろうか、隆二の方を見てはいるが、何かの感情を持って見ているわけではない、

 ただ、それは今に始まったわけでもなく、人と一緒にいても、どこか上の空の時が多かった。人の話を聞くことで、自分の中の何かを再発見しようとしているのか、考えていることとすれば、自分のことだと思えてならない。自分中心に見られがちだが、人にそんなことを感じさせないところが洋子の役得なのかも知れない。

 そのくせ不器用なところは相変わらずで、上の空になりながら考えているくせに、結論が出せるわけではない、

――本当は、結論など見つけたいと思っていないのかも知れない――

 と、洋子を見ていると、隆子は感じるのだった。

 由美が考えていることの先に洋子がいて、それぞれに交わることのない世界を生きていながら、それが一本の延長線上に位置していることを、隆子は感じていた。その延長戦を一本にした内容が、スッポリと自分に当て嵌まるのではないかとも思っていた。

 だが、いかんせん、二人同時に何を考えているかを理解することは難しかった。由美のことを考えている時に、洋子のことを考えるのは難しく、洋子のことを考えている時に、由美の考えていることを想像することは無理だった。

 その考えは、隆二の考えに非常に似ている。しかしまったく同じではない。今はもう死んでしまって確認することは不可能となってしまったが、信二と隆子の間に性格的な一致はない。信二がどれほど兄弟のことで悩んでいたかということを知っている人は、誰もいない。

 何に悩んでいたのだろうか?

 それは信二が自分を顧みることでしか分からないことだった。信二が自分を顧みることは非常に珍しく、レアな状態だった。普段から何かを考えていないと気が済まない信二が、ふとした時、急に我に返って、何も考えられなくなる時がある。まるで能面のような表情と顔色になるので、分かる人にはすぐに分かるのだが、本当に稀なので、それを実感したことがある人は本当にいるのか疑問である。

 信二がいなくなって、隆二の性格が変わってきたという人もいた。それも一人ではなく、二、三人の意見であり、簡単に無視できるものではない。

「隆二君は、信二君に近づいたような気がする」

「乗り移っているのかも知れないぞ」

 などと、オカルトじみたことをいう人もいたが、あながち無視できないと裕也は思っていた。

 確かに隆二はたまに普段気にしないことを気にするようになった。元々、細かいことを気にする方ではなかった隆二だが、この細かさは信二のものだと人はいうのだ。

「長男が亡くなったので、自分がしっかりしないといけないと思うようになったんじゃないの?」

 という人もいたが、

「いや、それとも違うようだ。今まで気にしなかったものを急に気にするというのは、何か性格は変わってしまったように思えたとしても無理のないことだとは思わないかい?」

 と言われると、思わず頷いてしまう裕也だった。

 隆子は、今の状況を見ていて、

――もし、あの中に私がいたら、私も同じように金縛りに遭ってしまうのだろうか?

 と感じた。

 金縛りと言えば、先ほど動けなかった時のことを思い出していた。

 本当は動こうと思えば動けたのかも知れない。動こうとする自分と、動きたくないという自分の心の中の葛藤が、あの場面で繰り広げられたのかも知れない。動きたくない自分は決して表に出ようとしない。いや、隆子自身が、表に出したくないという意識を持って、作為的に打ち消してしまっていたのだろうか。

 隆子にとって、先ほどの金縛りに遭っていた時間が長かったのか短かったのか分からないが、夢が意外と短いものだという考えが頭にあるので、金縛りの時間も夢と同じで、さほど長くはなかったのかも知れないと思った。本当にあっという間の出来事だったと、後から考えれば思うことというのは、想像以上に多かったりするものだ。

 その間にどれほどのことを考えたというのだろう? 夢と同じでほとんど覚えているものはない。短い時間にたくさんのことを考えるということは、同じ時間に重複して考えるということなのか、それとも、重複しないほど、ものすごいスピードで時間が過ぎてしまっているということなのか、隆子には想像がつかなかった。

 そのことを考えていると、ゆかりが死を覚悟して、実際に心中を図った時、何を考えていたのかが気になってきた。心中を考えるようになってから、実際に死のうとするまでの時間は、さぞかし長く感じられたに違いない。その間に覚悟というものを固めなければいけない。ただの自殺と違って心中には相手がいることだ。

 当然、死ぬ勇気は尋常なシチュエーションなどではないことは分かっている。勇気と覚悟というものが同じものなのかどうかも疑問である。

 隆子は、勇気を持つということは、前に進むために必要な力を自ら自覚することだと思っていた。心中のような後ろ向きの考え方に対し、勇気という言葉を使ってもいいのかが疑問だった。

 そういう意味で、覚悟というのは、死を意識する時などに使う言葉で、

「死んだ気になって」

 という時に使われることもあるが、勇気とは背中合わせの言葉のようだ。

 ただ、勇気が表に出ている時に本当に覚悟は表に出ていないものなのか、逆に覚悟が表に出ている時に、勇気は表に出ることができないものなのかを考えると、分からなくなってくる。

 どちらも自分の中で同居できるもののように見えて仕方がない。それはまるで長所と短所のようで、それぞれに背中合わせだったり、すぐそばに存在するもので、なかなか同時に見ることが難しいだけのものではないかと思っていた。

 ゆかりが死んでしまった時も、自分では死ぬことを覚悟だと思いながら、最後の一決心をつける時、勇気が必要だったのではないかと思うのだ。

 勇気を持つことで、死へと誘う自分に、今まで見ることのできなかったものをたくさん見たような気がする。それは自分の中だけで存在を認めていたもので、誰にも話していないことなのではないだろうか。人には一つや二つ、意識しているしていないは別にして、そういうものが存在している。それを生死の境を目の前にして、やっと映像にして見ることができるのだ。

――これが死への誘いというものなのかしら?

 と思うような気がする。

 隆子は、今までそんなことを考えたことはなかった。死ぬ覚悟も勇気もないのに、死に対して正面から向き合うことなど、できっこないと思っているからだった。

「死というものを冒涜してはいけないんだ」

 という考えを持っているからであって、これは冒涜に関しては他の人も同じなのだろうが、それと覚悟、勇気という感情と結びつける人はなかなかいないだろう。

「私がこんなことを考えるなんて」

 まるで自分も死を意識しているようではないか。

 隆子は今までに死というものに向かい合ったことはない。

「死にたい」

 と思ったことはあった。それは隆子に限らず誰もが一度や二度はあるだろう。その程度の度合いにもよるのだが、直視できないことを最初から分かっていて、意識しようと考えていたのだ。

「死というものを直視した時、どんなことを考えるというのだろう?」

 隆子は、今までに知らなかった世界を見ることができるような気がしていた。

 やだ、それは違う世界が開けるという感覚ではなく、目の前にいる人の気持ちが分かる気がしてくるという感覚だ。その人の目になって、前を見てみると、世界が違って見える。ひょっとすると、自分をその人がどのように見ているのかまで見えるかも知れない。そう思うと、まず最初に自分を探すに違いないと思うのだ。

 だが、そんな時に限って、自分が見つからない。鏡などを見て、自分の顔は意識しているはずなのに、自分の知っている顔を見つけることはできないのだ。

 だが、目の前にいるのは間違いない。目の前にいて見えないというのは、まったく知らない顔になって、目の前にいるということなのか、それとも、本当に見えていないというのかが分からない。最初の頃は、違う人の顔になっているような気がしていたが、考えていくうちに、本当に目の前にいないのではないかと思うようになっていった。

 そのうちに自分を探そうとしても、それは無理であることに気が付く。一旦気が付いてしまうと、無駄なことをするのをすぐに断念するのは、隆子の性格でもあった。

「私は、ゆかり先輩のことをずっと追いかけていたような気がしていたけど、本当は、目の前にいるはずの自分を探していたのかも知れないわ」

 それでは、永久に見つけることなどできっこない。

 それは、ゆかり先輩がこの世から消えてしまったことで分かりきっていることであった。もしゆかり先輩がこの世にいたとしても、隆子に自分を見つけ出すことなどできるわけがないからだ。

 今、ゆかり先輩と、信二の墓前にて、まるで一堂に会したかのように集まった当事者の面々を影から見ていると、その表情が全員無表情な理由が何となく分かってきた。

「あそこだけ、別世界になっているんだわ」

 その中に、見えないけど、隆子は自分もいるような気がして仕方がない。

 隆子は目の前にいる人を包んでいるバリアのようなものを感じていた。きっと、隆子でなければ、これが他の人が見ていたのであれば、見ることはできないに違いない。

 さらに、一人一人にもバリアのようなものが張り巡らされている。

「これ以上は、誰も私の中に入りこんでくることはできない」

 と言いたげだった。

 それはまさしく結界で、もし、この状況を見ることができる人がいるとすれば、結界の存在に気付くに違いない。

「おや?」

 隆子は、それぞれの人を見ていたが、そのうちの一人に結界が存在しないことに気がついた。

 それは意外なことに、由美であった。

 由美は、隆子が知っている限り、この中で一番自分中心に考える人であり、よく言えば、自分の世界をしっかりと持っている人だった。それなのに、自分だけ結界を持っていないというのはどういうことだろう?

 そう思いながら由美を見つめていると、そこにいる由美の顔が少しずつ変わってくるのを感じた。

「ああ」

 隆子は驚愕が、恐怖に変わっていくのを感じた。

 その顔はまさしく隆子本人の顔ではないか。無表情な顔に見覚えがある。今までに何度も鏡で見た顔だった。

 由美だから自分の顔を見たのか、それとも、この中で由美が一番隆子に似ているということから由美なのか、隆子は考えていた。

「やっぱり由美だからなのかも知れない。由美は私に何か言いたいことがあるんじゃないかしら?」

 と隆子は自分の顔になってしまった隆子を見つめていた。

 顔は隆子なのだが、隆子が見つめているその人は、由美でしかない。その意識に変わりはなかった。

 隆子にとって、由美を見ることは、今までにも何度かあったが、そういえば、由美の顔が逆光になっているのか、シルエットになって顔を確認できないことが何度もあったのを思い出していた。

 そう思って由美を見ていると、今度は、隆子の顔が、隠れている隆子に気が付いたのか、凝視されているのを感じた。

 目はカッと見開いて、唇は怪しく歪んでいる。まるで妖気を感じさせるその表情に、また金縛りに遭いそうになっているのに気付いた隆子だった。

 隆子は、夢を思い出した。

 今までに見た夢の中で何が一番怖い夢だったのかというのを意識したからである。

「そうだわ、今までに見た夢の中で一番怖いと感じたのは、夢の中にもう一人の自分が出てきた時のことだった」

 夢を見ている自分はあくまでも映像カメラのように客観的に見ているものだった。その中に主人公である自分が存在し、その自分に時々入り込んで、そこから見ることができるというのが、普通に見る夢だった。

 しかし、もう一人の自分というのは、映像の目になっている客観的に見ている自分と、主人公として夢を支配している自分とはまた別に、もう一人、夢の中に存在しているのである。

 その自分は、完全に自分ではない。最初こそ、主人公の自分に気付いていないのだが、不気味に何かを探している。それが主人公である自分だというのは、夢を見ていてすぐに分かった。

 主人公の自分は、最初からもう一人の自分の存在に気付いていて、何とか逃れようとするのだが、無理であった。

 映像の目になっている自分は恐怖に直視できないはずなのに、映像を映し出している以上、見ないわけにはいかない。もし、ここで止めてしまっては、夢と現実の狭間に嵌りこんで、永久に、そのまま夢の世界を彷徨ってしまう気がしていた。しかも、中途半端な状態になることは、分かっていて、死ぬことも生きることもできない。

 その時に「死」を意識して、覚悟を持たなければいけないことを自覚したような気がした。

 隆子は、心中しようとしたゆかりのことを少し不審に感じたことがあった。矛盾のようなものなのだが、最初はそれが何なのか分からなかった。

 それに気が付いたのは、この街でお世話になったおばあさんが亡くなった時で、その時と何かが違っていることに気が付いた。

 おばあさんも、年齢のせいもあってか、死を覚悟していたようで、キチンとした遺言を残していた。

「そうだわ。ゆかり先輩には遺言のようなものがないのよ」

 信二にも遺言がなかったということは聞いていた。心中と言っても覚悟の自殺である。遺言をしたためるのが普通ではないだろうか。

 ただ、後から分かったことだが、信二は兄弟たちには遺言を残していた。信二が三人兄弟の長男であることくらいは、隆子も知っていたのだ。

 ゆかりに遺言がないことは、誰もが不審に思っていたようだ。だが、それを口にする人は誰もいない。

「ゆかりさんらしいわ」

 と、他の人からは思われているに違いない。

 だが、隆子だけは、ゆかりに遺言がないのを気にしていた。ここに何度も足を運んだのも、実はゆかりの心境を知りたいと思ったからだ。墓参りしたからと言って、心境が分かるわけでもないだろうが、それでも来ないではいられなかったのだ。

 最初は毎月のように来ていた。最近はそこまで頻繁に来なくはなったが、それでも二か月に一度は来るようにしている。

 遺言というものまではなかったが、そこに、ゆかりの墓石の前に、蝋燭や線香を入れておくところがあるのだが、ふいにそこを開くと入っていたのだ。

「数か月前はなかったはずなのに」

 探し物がある時に、一度見たその場所になければ、二度と探すことはない。だから、隠すなら、一度調べられているところが一番いいと言われるが、まさにその通りだ。

 こんなところに一体誰が隠したのかも疑問であったが、日記があるというのも、誰かが持っていて、そして最近になってここに置いたということである。隆子は墓石のところしか探すところがない。ということは、その人もゆかりのまわりの人から見れば、影のような存在の人だったのかも知れないと思うと、その人のことを考え、他人のように思えない気がしていた。

 日記を持って帰り、少し読んでみた。書かれているのは、それほど長い期間ではなかった。二か月ほどで終わっているのだが、終わった日の二日後に、ゆかりは心中未遂を起こして病院に運ばれていた。

 この日記の存在を、隆子はもちろん知らなかった。ゆかりがここに自分で置いたわけもないのだから、誰かに託したのだろう。内容からすれば家族でないことは確かだ。こんなもの、見せられるわけもない。

 ゆかりの家族は、ゆかりに対して冷徹とも言えるほど冷たかった。心中未遂があった後でも、見舞いには来たが、まるで義務を全うしに来ただけだと言わんばかりに、いかにも面倒臭そうな態度だったのは、見ていて胸が苦しくなるほどで、吐き気を催しそうになっていた。

「あの娘が自殺なんて企てるなんて、ご近所様に顔向けできないわ」

 などと言って、もし、家に帰った後でも迫害を受けているのかも知れない。

 ゆかりがレズビアンに走った原因が家族にあるのか、それとも、ゆかりがレズビアンになったことで、家族の目が冷徹になったのか、どちらにしても、ゆかりは家族に受け入れられる運命の娘ではなかったということだ。

 心中の理由は、そのあたりにもあったのかも知れない。世を儚むには、十分な理由ではないだろうか。

「他に不幸な人はたくさんいる」

 と、言われるかも知れないが、本人にしか分からない苦しみを考えもせずに、他人事のように言われるのを心外だと思うのは、ゆかりだけではないだろう。

 そんなゆかりが日記を付けていたということは、日記の中に自分を照らして見ていたのかも知れない。ただ、それ以前の日記がないというのはどういうことだろう? ひょっとすると、この日記をここに隠した人が持っているのかも知れない。そこには、何かその人にとっては見つかっては困るものが書かれていたのだろうか? 隆子はその日記が、ここに書かれているのとはまったく違った内容であるように思えてならなかった。

 隆子は、日記を見ていて、少しでも気になるところがないかどうか、ゆっくり見てみることにした。とりあえず、部屋に持って帰って、ゆっくり読んでみようと思ったのだ。この日記を見つけてから、今日で三日目、まだ半分くらいまでしか読んでいない。

 それでも、ゆかり先輩が何を考えていたのか、漠然としてだが分かった気がした。

 何かに怯えているのは、少なくとも分かってきた。何日かに一度は、日記の中に夢のことが載っている。夢の話ではなく、夢に対しての自分の見解というべきか、夢に対して意識していることを書いている。似たような内容もあるが、言いたいことをどう表現していいのか戸惑っている様子が伺える。それも他人ごととして見ているからであって、当人にはどれほど真剣なものなのか、想像を絶するものがあるような気がした。

 その中で自分と同じような感覚を持っているように感じたのは、隆子がもう一人の自分を夢の中で意識しているのを感じたからだ。

 ハッキリと明記しているわけではなく、他の人が見れば、そこまで意識しているのを感じることはできないだろう。

――私だから分かるんだわ――

 と、隆子は感じたが、それと同時に、元々この日記帳を託された人も同じように、ゆかりの気持ちが分かっていたように思う。ゆかりの気持ちが分かる人間でなければ、ゆかり自身が自分の日記を誰かに託すなど考えられないからだ。

 それが一体誰だったのか、隆子には分かるような気がした。しかし、敢えてそれを意識しないようにしている自分がいるのも事実であり、その人の存在を今までは自分に優位性があると思っていた相手であることを認めたくないのだ。その人への優位性があればこそのバランスが、ここで崩れてしまうことは、隆子は絶対に避けなければいけないと思っていた。まさか優位性への爆弾を、死んだゆかり先輩の遺品でもあるかのように残されるとは思ってもいなかっただけに、隆子は誰を恨めばいいのか、自分の気持ちの落としどころに困っていた。

 ゆかり先輩の日記を見ていて出てくる夢は、情景まで浮かんでくるほどではないが、自分に置き換えてみれば少しは分かってくる。

――もう一人の自分に恐怖を感じているんだ――

 それは三人目の自分であって、客観的に夢を見ている自分と、主人公である自分が存在しているところなど、目を瞑ると、シチュエーションさえ分かれば、イメージとして浮かべるのは、そんなに難しいことではない。

 ゆかり先輩の日記が止まっている日を見ると、心中する一週間前のことだった。

 その間に、心中するだけの何かがあったのか、それとも、この日記の中にこそ、何かの真実が存在するのか、隆子にはすぐに理解できることではないように思えた。日記を半分までしか読んでいないのは、一気に読んでしまうことができないからだ。

 読んでいるうちに、どんどん想像が膨らんでくる。膨らんでくる間に次を読むと、せっかく膨らんでいる想像にストップを掛けてしまって、中途半端に終わってしまった想像は、次の日記にも影響してしまい、まったく違った方向に導かれてしまいそうだった。

――まさか?

 それがゆかり先輩の作為によるものだと考えるのは考えすぎだろうか。ゆかり先輩は日記を残しながら、誰かに見られたくないという思いから、想像の腰を折るような内容をわざと膨らませて書いているのだとすれば、それはすごいことだ。

 ただ、ゆかり先輩の日記を、どこまで拡張して想像するかによって、まったく違った性格に日記がなってしまいそうで、微妙な感覚に襲われる。

 明らかに何かに怯えを感じているように思う。死を悟らせる何かがあるとすれば、この日記の中に含まれているように思えてならない。

 この日記をここに隠した人のことを考えてみた。ここに置いておくということは、万が一誰かに見つからないとも限らない。ゆかり先輩から日記を託されるような人がそんな愚かなことをするはずもないように思える。

 ということは、ここに置かれたのは作為があってのことで、わざと人の目に触れることを予期してのことなのかも知れない。この日記を最初に見つけるのが誰なのかを探っていたようにも思える、ひょっとすると、それが隆子であることを、その人は分かっていたのではないだろうか。

――ゆかりと隆子の関係を知っている人――

 そんな人が存在するのだろうか?

 ゆかりは自分に対してしたように、他の女性をそばに置くことも考えられなくもないが、だからといって、その人に、過去の相手である隆子の話をするかと言えば、可能性としては限りなく低いように思えて仕方がない。

 隆子は日記が、最近のものしか入っていないことも気になっていた。

 隆子と一緒にいる頃から、ゆかり先輩が日記を付けていたことは知っていた。その日記の所在が隆子には気になっていた。

「ここに隠した人が持っているのかしら?」

 とも、思ったが、ゆかりの性格からすれば、それ以前の日記は処分してしまった可能性も大いに考えられる。過去の日記がどんなものだったのかは分からないが、少なくとも何かに怯えているような日記ではないはずだ。

「この日記は、それまでのゆかり先輩が生きてきたことの集約されたもののようにも感じるわ」

 隆子と一緒にいた時期、そして他の誰かと一緒にいた時期、そして一人でいた時期と、ゆかり先輩は、明確に区別していただろう。ゆかり先輩はそんな性格の持ち主だった。

 毎日を一日一日の積み重ねとして、

「昨日より今日。今日より明日」

 という、一般的な考え方であるのとは別に。

「終わってしまった一日は、もう戻ってこない」

 という考えを持っているのも事実だった。

 つまりは、過去を振り返ることなく、後ろを見ないという発想によるものなのだろうが、それが、猪突猛進のような、

「とにかく前を見る」

 という考えとも違っている。

 同じ一日に対して、複数の考えが渦巻いている。しかもその発想は、一足す一は二という発想とも違っていて、前を見ているという発想は同じなのに、テンションの違いは明らかな発想であるのは不思議なものだった。

「ゆかり先輩は二重人格なんじゃないか?」

 と感じたことはなかったが、あとから聞く話のほとんどは、隆子の知っているゆかりではない。それは、ゆかりが途中からまったく違う人間になってしまったということなのか、ゆかりを変える何かを隆子が与えたというのか、それとも、ゆかりの中にある何かが、初めてその時に顔を出したということなのか、そのどれにしても、隆子と別れてから、こんな形での再会になるまで、まったく想像もしていなかったゆかりがそこにはいたということなのかも知れない。元々、心中など、隆子が知っているはずのゆかりからは、想像できるはずもないことだった。

 だが、ゆかりが二重人格だったというような話がどこからも聞くことができなかった。心中をしたという話を聞いて誰もが驚愕の表情を浮かべた。隆子があっけにとられた時のような表情をする人はほとんどいなかった。それだけ隆子の驚きが想像を絶するものだったと言えるのだろうが、本当にそれだけだろうか。

 ゆかり先輩は、隆子と一緒にいる時も、隆子と別れてからも、さほど友達が多かったわけでもない。

 ただ、何か人を惹きつけるところがあった。今まで知り合いが少なくとも何とかやってこれたのは、その仁徳によるものだったのかも知れない。

 ゆかり先輩と知り合う前の隆子は、男性に興味を持つ普通の女の子だった。男性ばかりを見てきたのだが、男性の中には女性っぽい考えの人も中にはいた。女性っぽいからと言って、か弱いだとか、ジメジメした性格だというわけではない。人への気の遣い方が、繊細だったり、弱弱しく見えるところを感じる男性のことだった。

 人に気を遣うことをさりげなくできる人が男性だと思っているので、どこかぎこちなさがあるところが見えれば、それは女性っぽいと考えてしまう。また弱弱しく見えるところも実際には、なるべく隠そうとしているのだろうが、却って目立ってしまうことで、感じるものだった。強さをさりげない素振りに求めてしまうからなのかも知れない。

 その感覚に至ったのは、由美を見ていて感じたことだった。女性っぽさの基準を由美の中に見ていたことで、それまで女性らしさを感じる女性がまわりにいなかったからだ。

 そんな由美に対して同じような意識を持っていた女性が他にもいたことを、隆子は知らなかった。他ならぬゆかり先輩である。ゆかり先輩は、由美の中に女性っぽさを感じていた。

 しかし、由美の中に感じたのは、「女性っぽさ」であって、「女性らしさ」ではない。その感覚は隆子に類似していた。やはり、ゆかり先輩と隆子は、同じ目線で女性を見ることができる女性のようだ。

 同じ目線の高さから見ていると言える。しかし、ゆかり先輩と隆子の間には、超えることのできない大きな壁があった。それは目線の高さの違いも含まれている。もっとも同じような性格の人間を、そこまで求めるだろうか。お互いに自分にないものを求めることから求め合うという共通の時間を持つことができたのだ。

 由美のことを隆子が考えていると、以前から由美の後ろに誰かの存在を感じることがあるのを気にしていた。それがまさかゆかり先輩のことだったなど、想像もしていなかったと思っていた。しかし、ここでゆかり先輩の日記帳を見つけ、そしてゆかり先輩には自分以外にも全幅の信頼を置いている人がいることを知ると、そこに由美の影を感じずにはいられなかった。

「ゆかり先輩の後ろに誰かを感じると、今度はそれが由美だということに気付くまで、そんなに時間が掛からなかった気がする」

 と、隆子は感じていた。

 ゆかり先輩の日記を見ていると、夢の中に感じたもう一人の自分が、自分に何か恐怖を与えていることを序実に物語っているような文章だった、

 今まで気付かなかったが、ゆかり先輩の文章は人を惹きつける魅力を持っている。言い換えれば人を洗脳することができるほどだ。

 ゆかり先輩は口数の少ない方だったが、それだけいろいろなことを考えていたということでもあり、考えていたことは声にして表に出すよりも、同じ表に出すにしても、文章にする方が上手であった。

 そんなゆかり先輩から、別れた時にもらった最後の手紙を思い出していた。あの時、隆子自身、自分の中で整理が付いていなかったこともあり、どう感じたのかも覚えていない。

 あの時は、なぜ別れたのか理由がハッキリしていないと思っていたが、何でも分かるつもりでいたはずのゆかり先輩が急に分からなくなったからだ。

 遠くに感じたと言った方が正解かも知れない。

 最初は、ゆかり先輩が男に走ったのではないかと思った。男性と親しく話をしているのを見かけたからだ。その時は相手が二人の男性だった。ファミレスの窓際だったこともあって、公共の面前であり、別におかしなわけれもない。むしろ男女が普通に会話しているだけで、こちらの方が自然と言えば自然だ。それを異様な雰囲気に感じたのは、その次の日からゆかり先輩の雰囲気が変わってしまったからである。

 かと言って、今までよりよそよそしくなったわけでも、男に走ったように見えるわけではなかった。状況判断だけで男に走ったと思っただけで、男に走ったにしてはおかしな雰囲気だったので、隆子はゆかりの雰囲気が変わったと思ったのだ。

 おかしかったのは、隆子の方だったのかも知れない。

 その気持ちを猜疑心というのだということに気が付いてもいなかった。猜疑心から嫉妬に走るのは、別におかしなことではない。猜疑心を感じずに、嫉妬に走ったように一足飛びで考えてしまったことで、ゆかり先輩と自分が遠ざかっていく理由がハッキリしないと思っていたのだ。

 嫉妬の方が猜疑心よりも、感情としては汚いのではないかと思ったが。猜疑心というのは、密かに自分の中に常駐しているものだという意識がある。嫉妬心は、猜疑心が呼び起こすものであり、猜疑心の存在を意識していないのに、嫉妬心だけを感じてしまうというのは、信管のない爆弾を爆発させるようなものではないだろうか。

 ただ、隆子には猜疑心がちゃんとあった。

 実はゆかりに対しても猜疑心を感じていたのだ。あまりにもその後の嫉妬心の方が強すぎて、猜疑心への意識がなくなってしまっていたのだ。そのことがゆかりと別れる原因になってしまったのだとすれば、後悔しても今さら遅いが、後悔だけしか、隆子には残らない。

「悔いを残すというのは、こんな気持ちなんだわ」

 悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。

 唇を血が出てくるほど噛み締めてしまいそうになる。途中まで力を入れると、本当に血が出てくるまで噛んでしまわないと、自分の気持ちが許せないほどになっていくのだ。そんな思いをしたのは、後にも先にもその時だけだった。

「ゆかり先輩も同じような思いをどこかでしていたのかも知れない」

 死を選ぶくらいなので、それくらいの気持ちになっても不思議はない。

 だが、その相手は一体誰なのだろう?

 ゆかり先輩と心中した信二との間には、恋人同士だったという形跡はないという。由美との関係もなかっただろう。もしあったとすれば、ゆかりが入院している時、駆け付けてくるのが普通であろう。

 では、ゆかりが死を選んだ理由がどこにあるのか分からないではないか。そのカギを握るのが日記なのかも知れない。

「まさか、本当に死んでしまいたいほどの理由が、その時のゆかりにはなかったのかも知れない」

 日記の中で気になるのは、もう一人の自分に怯えているところであった。

 ゆかりが、目に見えない何かに怯えるようなタイプだとは知らなかったが、考えてみれば、

「男と付き合うよりも女性を選ぶのは、それだけ自分に近い人を探そうとする気持ちの表れなのかも知れない」

 と感じた。もう一人の自分といっても、それは本当に自分ではなく、

――顔かたちが似ているだけで、まったく違う人間――

 そう思いたいがために、同性である女性ばかりを気にしていたのだと思うと、その気持ちは分からなくもない。ゆかり先輩の他人への感情は、自分自身の中にあるものへの恐怖の払拭から始まったものなのだ。

 そんなゆかり先輩の恐怖への払拭を一体誰が知っていたというのだろう? この日記帳をここに隠した人は最初から分かっていたというのだろうか? 分かっていて自殺するのを止められなかったのか、それとも自殺すると分かっていて、止めようともしなかったのか、隆子の想像は留まるところを知らない。

 隆子にとって、別れたといっても、ゆかりが気になる相手であることに違いはない。ゆかり先輩のことを思い出すと、

――自分に猜疑心があったら、どうなっていたのだろう?

 と思う。

 猜疑心というのは、あまりいいイメージではない。嫉妬にしても、憎悪にしても、相手に対してよからぬ感情は、すべてが猜疑心から生まれるもので、しかもその愛疑心は相手がどうであれ、すべては自分から発せられるものであり、一種のわがままな性格が形になったものだと言っても過言ではない。

 今から思えば、自分がどうして猜疑心を持たないようになったのか、分かるような気がする。

「好きな人から疑われたくはない」

 つまりは、自分がされて嫌なことは、相手にもしたくないという気持ちが強く、当たり前のこととして本能的に感じてしまったため、無意識に猜疑心を感じないようになったため、どうして猜疑心を持てなかったのか、自分で気付かなかった。要するに感覚がマヒしていたということなのかも知れない。

 ゆかりはそのことを悟っていたのかも知れない。

 相手のことを気遣うということに、日ごろから疑問を感じていた隆子だったが、それも相手の身になってみるということを先に考えることで、気遣うということとの間にあるギャップがどうしても、疑問を抱かせるのだった。

 ゆかりはそのことに気付いていたので、隆子との別れを、

「仕方のないことだわ」

 と思い、納得したのかも知れない。

 その後のゆかりは、隆子にとって、遠い存在になってしまった。

 遠い存在だからこそ、今まで気付かなかったゆかりの大きさに気付いたという一面も、この別れにはあった。

 遠くに感じると、どうしても小さく見えてくるものだが、大きさは変わらなかった。変わらないということは、大きな存在として、いまだに隆子の中で君臨していた証拠であった。

 隆子がゆかり先輩の墓参りをしているなど、死を目の前にした時、ゆかり先輩は想像できたであろうか? しかも、この日記を見られるなどということなど、まったく考えていなかったに違いない。

 それでも隆子はこの日記の中から、ゆかり先輩が、隆子に対して何か言いたいことを書き残しているのではないかという一縷の望みのようなものを探してみることにした。

 日記から滲み出てくるゆかり先輩の考えは、怯えばかりで、隆子はおろか、他の誰にもメッセージめいたものを書き遺している様子はない。やはり死のうとまで思ったのだから、他のことを考えられないほどの苦しみを、自分の中だけに抱えこんで、二進も三進も行かない状態に自分を追い込んでいたのかも知れない。

 ゆかり先輩の日記をここに置いた人は、隆子にこれを読んでもらおうという意識があったのだろうか? 相手が隆子ではないにしても、誰かがここに置いておけば読むかも知れないという希望的観測から置いておいた可能背が強い。

 日記を隆子は穴が空くほど何度も何度も読み返し、結局、書いた本人が何を言いたいのか、そして、これを自分に読ませようとした人の本心がどこにあるのか分からないまま、元の位置に戻しておくしかなかったのだ。

 日記は今も、最初に見つけた、墓石の前の引き出しの中にあるはずだ。あれを置いた人が持って行かない限り、誰かが気が付いたとしても、持っていくようなことはしないだろう。それは死者に対しての冒涜に繋がるのではないかと思うからで、持って行かないということは、それだけ本人との関係は深いものではなかったということを自覚している人に違いない。


 肝心の日記を墓石の前の引き出しに隠した由美の方は、この日記を見つけるのは隆子だろうということは分かっていた。

 ゆかりは、以前に自分以外の女性と一緒にいたことを教えてくれたが、最後までそれが誰か教えてくれなかった。よほどそれを知ってしまうと由美が大きなショックを受けると思ったに違いない。それでもゆかりの中で由美と一種にいたことに対して幸せだったと思ってくれていたのを思うと、死んでしまったゆかりだったが、不幸な死に方ではなかったのだと思うと、幾分か救われた気がした。

 由美の中には、ゆかりの死に対しての責任が多分にあるのだと思わずにはいられなかったからだ。

 由美は自尊心の強い女だ。姉妹の中では末っ子になるので、その感情が生まれるまでには時間が掛かった。どうしても、姉二人の個性が強すぎるので、自分が入り込む余地はないと思えてならなかったが、一歩表に出ると、今度は逆に姉妹の中で揉まれてきたことが由美にとっては財産になるのだった。

 由美は、ゆかりと知り合うまでに、男性と付き合ったことはなかった。それだけに、頭の中では、

「女同士なんて、何て不潔なのかしら」

 と、思い込んでいた。

 それは頭でっかちな感覚が、由美を支配しているからであって、それまで姉妹たちに支配される中、まわりを見た時、解放された感覚を感じたからだった。しかし実際には姉たちから守られていて、表に出ることが危険を孕んでいることの裏返しであると思い知らされると、却って、今までの考え方が、どこか「お嬢さん」だったことに気付かされる。姉たちから独立したいと思うより、姉たちにはない自分を出すことで、由美という人間性が個性となって醸し出されることを知ったのである。

 だが、しょせんは今まで大切に守られてきた身体、見る人が見れば、すぐに看破される。それでもゆかりは、由美の中に懐かしさを見つけた。それは隆子のイメージと重なるところがあったからだ。

 隆子も純情だったが、由美もさらに純情だ。口は隆子よりも達者で、口の利き方にも問題があったが、それでもどこか隆子と大切なところで共通点がある。すぐに分からないところも、ゆかりの中で闘争心を湧きあがわせた。付き合いがいがあるというものである。

 純情な性格に対しての闘争心は、ゆかりが生きていく上での一番の原動力だった。

「ゆかりが死を選んだのは、その闘争心がなくなってしまったのが原因なのかも知れないわ」

 ゆかりの闘争心に気が付いていたのは、由美だけだった。

 隆子は確かに賢い。由美に比べてもその賢さでは引けを取ることは絶対にない。しかし、貸し後過ぎると考え方にも融通が利かないというべきか、隆子には、どうしても受け身なところや、奇抜な発想が、由美に比べると欠けている。そのため、由美には発想できても、隆子には発想できないことも少なくなかった。しかし、隆子には由美にはない素晴らしいところがあった。それが決断力というもので、由美には決断できないことでも隆子にはできてしまう。それが長女と末っ子尾という環境で育った違いであった。

 ただ、由美はそのことは分かっていた。分かっていて、自分が隆子に頭が上がらない、そして優位性を持つことができない理由がそこにあるということを、ゆかりという女性を通すことによって知ったのだ。

 決断力の強い隆子だったが、ゆかりと別れた時期に関しては、

「あれで本当によかったのだろうか?」

 としばらく悩んだ。自分でも決断力に関しては悪い方ではないと思っていた隆子だっただけに、別れの時期への疑念は、隆子らしくなかった。だが、それでも、時間が経つにつれ、

「やはり、あれでよかったんだ」

 と思うようになった。要するに自分の中にある自信を取り戻しただけなのだが、それも自分自身の精神状態によるものであり、自信さえ持てれば、隆子の判断力に死角はないということである。

 由美はそれでも、隆子がゆかりの死の原因については、

「そう簡単に分かってたまるものですか」

 と、思うようになっていた。

 確かに日記の中に書いてある「もう一人の自分」という存在に怯えているのは間違いないことだが、それ以外に闘争心の欠如が原因だとは思いもしないだろう。特に隆子はその闘争心の存在すら分かっていないふしがある、それだけに、隆子は由美に大きく水を開けられているのかも知れない。

 ゆかりの墓に日記を入れておいたのもわざとである。

 ゆかりの自殺の原因の一つをわざと教えておいて、それでどこまで隆子が気付くかということを確かめたかった。一つを知ることで、もう一つを知る糧にするか、それとも、却って惑うことになるか、隆子を試してみようと思ったことに違いはなかった。

 ゆかりの中にあった闘争心を一番受け継いだのは、由美だったのかも知れない。いや、ゆかりが死んだことで、ゆかりが誰かに託したかった闘争心の存在を由美が知っていたことで、ゆかりの思い通りに由美が受け継いでくれたことを、あの世からちゃんと見ているだろうか? 由美はゆかりに託された日記を、ゆかりの形見として持っていながら、自分へのゆかりの思いの警鐘と、その闘争心を使う絶好の相手が、ゆかりのかつての相手であり、しかも自分の姉である隆子であることに、

「相手にとって不足なし」

 と思っていたことだろう。

 ゆかりが自殺を企てることを、由美はウスウス感じていたのかも知れない。隆子のようにゆかりがいなくなったことで、自分の中にショックを感じたわけでもない。確かにゆかりがいなくなってポッカリと穴が空いてしまったことは否めないと思っている。だが、空いた穴を意識することがないのは、隆子のように後悔を残したからではないだろう。

「ゆかりさんのことは、私が一番よく分かっている」

 自殺さえも分かっていて、しかもそれを止めることをしない。それはゆかりのことを一番分かっているという自負があるからで、他の人にはないものをゆかりも由美も、それぞれに求めてきた証拠だと思っている。

 その証拠が、日記を託されたことではなかったか。それなのに、そのまま日記を自分で保持しておけばいいものを、何を思って、隆子の目に触れるようにしたのか、自分でも分からない。

「ゆかりさんの闘争心を知ってほしいと思ったからなのか、それとも今感じている後悔がどこから来るものなのか、隆子本人に自覚してほしいという思いからなのか、どちらかなんだろうな」

 と、由美は思った。

 由美はさすがに隆子が何に対して後悔しているかなど分かるわけではない。ゆかりは由美に隆子とのことを一切話すことがなかったからだ。もし、由美が隆子の妹でなければ、過去にゆかりが誰かと付き合っていたということも分からなかったに違いない。

「知らぬが仏というけど、本当は何も知らない方がよかったのかも知れないわ」

 と思ったが、ゆかりと自分の間に後悔はないが、死んでしまったゆかりを想うと、隆子にもそれなりにゆかりのことを意識してもらわないと、浮かばれないという思いがあるのだ。

 隆子は、由美に対して優位性を持っているくせに、時々恐ろしく感じることがあった。それは、由美の後ろに誰かを感じるからであって、その人の雰囲気がまったく知らない人であれば、別に意識をすることもないが、それが今までの自分に大きな影響を与えた人ではないかと思うと恐ろしくなる。

「ゆかり先輩?」

 と思うこともあったが、すぐに打ち消した。

「まさかね」

 いかにもまさかである。

 隆子にとってゆかりは過去の人であり、今さらどんな影響を与えられなければいけないというのか。その時に、ゆかりの闘争心を感じたような気がしたが、闘争心がどこまで隆子を凌駕できるというのか、由美は他人事のような目で見ていたが、その心のうちは、ただ事ではなかった。

 隆子は、ゆかり先輩の墓前で、由美が何かをしているのを見たことがあった。今考えてみると、あれが日記を隠しているところだったのかも知れない。

「最初から、私がゆかり先輩の日記を探しているのを知っていて、あそこに日記を隠したのかしら?」

 と、由美がどこまで隆子を意識していて、隆子のことを知っているのか、どうしても気になってしまう。

 もっとも、その時は由美だとは思わなかった。ゆかり先輩の墓前に花が飾ってあるのがどうしても気になって、誰がしたのか見て見たかったのだ。

 その時は、信二の墓前にも花を手向けていた。

 由美と信二が何か関係があったというわけではないだろうが、裕也のお兄さんが信じであるということを最初から分かっていたのなら頷けなくもない。ただ、由美の性格から考えると、裕也の兄というイメージよりも、信二に対しては、

「ゆかりと心中しようとした男性」

 というイメージの方が大きいに違いない。

 元々は、由美と隆子の間で、どうしても歩み寄ることのできない結界が存在したが、それはゆかりだったのだろう。

 由美と洋子、隆子と洋子の間にも、踏み入れることのできない結界がある。

 それぞれの間に共通の、そうゆかりのような存在の人間が存在したのか、あるいはこれから現れるのか、ハッキリとしてこない。

 しかし、これから現れるかも知れない、結界を証明できるような人間の出現をじっと待っているというわけには行かなかったのだろう。

 この場所に、三人がそれぞれの思惑を持って集まってきた。もちろん、ここに来るだけの理由をそれぞれに持ってはいたが、三姉妹を結びつけるようなものは存在しないだろう。

 由美と洋子が墓前で鉢合わせたこと、それを影から一人佇んで見つめている隆子、三姉妹の関係から考えると、いかにも異様であった。

「三人とも、明日から、性格が変わってしまうかも知れないわ」

 と、隆子が感じるほどに、洋子も由美も、その場所から本当は逃げ出したいほどの怯えを抱え込んでいた。

 隆子は、その日、洋子と由美がその場の状況をどのように感じてやり過ごしたのか分からないが、会話がなかったのは確かだった。

 洋子は、この場所にに二度とくることはないと確信できたが、由美もここには来ないのではないかと思えた。

 では隆子はどうなのだろう?

 隆子も、日記を読んでから、

「もう、ここには来ない」

 と感じていた。それがまるで当初からの由美の目的であって、その目論見にまんまと嵌った気がしたのだ。

「ゆかり先輩は静かに眠らせておけばいいんだわ」

 隆子は、そう思うようにした……。


 それから季節もまわり、だいぶ皆落ち着いてきた。

 隆子たち三姉妹は、信二の弟たちとの関係を完全に断っていた。あそこで三人が出会ったのは、作為と偶然が重なり合ったものだが、それこそ、信二とゆかりの導きがあったからなのかも知れない。

 その日は、朝からデートだという由美は、出かける前から慌てていた。

 前にも同じような光景を見たが、あの頃は、台風を気にしている時期だったのは覚えている。

「あれから半年、長かったのか、あっという間のことだったのか」

 隆子はハッキリと意識できるほどの、時間的なスタンスを感じない。

 あれから、隆子の中で時間的な感覚は、完全に巻き沿いにしてしまっているようだった。

 洋子は、相変わらず恋には不器用なようで、彼氏ができたのかできていないのか、

「お姉ちゃんは、いつも違う人と歩いているからな」

 と、男女問わず、いつも違う人と歩いていることを皮肉を込めて言った。交友関係が広いようにも聞こえるが、実際には、深く付き合っている人はいないということだ。洋子の性格についてこれる人もいないのだろう。

 それでも成長の後は伺える。過去を完全に断ちきっているのは、三姉妹の中で完璧なのは洋子だけだからだ。

 由美はと言えば、今まで自分の存在自体に疑問を持っていたことが、自分の中での一番の悩みであったことに気付いたこともあって、三姉妹の中で一番性格が変わったのかもしれない。 

 というよりも、裏表が一番ないように思えて、その実一番裏表のあった由美に、裏表がなくなった。見た目そのままになったと言ってもいい。

 今日もどうやら、彼氏とデートのようだ。

 自分のことを分かるということが、どれほどのことかを理解したようだ。

「要するに自分に自信を持つことなのね」

 この一言が、由美のすべてを表している。元々、自信さえ持っていれば、三姉妹の中でも一番明るく社交的な由美なのだ。いかにも末っ子らしく、真っ直ぐに育ったという印象で、男性も三姉妹の中で由美を選ぶ人も少なくはないだろう。隆子も洋子も少し由美の性格に嫉妬するほどだが、それだけに由美を見れば、三姉妹全体のバロメーターが分かるのではないかと思えるほどになった。

「お姉ちゃん、遅刻するわよ」

「うん、分かってるわよ。そんなに慌てなさんな」

 と由美に言われて、明るい声を返しているのは隆子だった。

――私にこんなに明るい声が出せたなんて――

 由美にだけ、自信がどうのと言える立場ではない。隆子こそ自信を取り戻すことで、三姉妹の中でも一番の幸福を掴んだのだ。

 三姉妹にとって、ゆかりや、信二を長男とする三兄弟とのことは、まるで台風でも過ぎ去った後のようだった。

 別に何かがあったというわけではないが、彼らは自然と三姉妹の前から離れていった。三姉妹が追いかけることもなく、ゆかりと信二の墓参りも、三姉妹の中で、定期的に行くことに決まっただけで、嵐が去った後のその場所には、何事もなかったかのように、風が吹いているだけだった。

 その場所には、絶えず風が吹いていて、夕凪の時間でも、決して風が止まるということはなかった。地形的に無理もない場所なのだが、そんな地形に墓地があるというのもきっと何かの因縁めいたものがあるのかも知れない。

 隆子は、今日婚約者の家族と、自分の家族である三姉妹との顔合わせを控えている。緊張はしているが、それほど頭を悩ませるものではない。

「何とかなるわよ」

 それは、三姉妹がここまで培ってきたそれぞれの人生の中で、初めて目に見えて前に進む瞬間でもあった。

 今までが一進一退、そんな人生を歩んできた三姉妹。これからも隆子を中心に進んでいくことだろう。

 どこからか甘い香りがしてくる中、銀杏並木を歩いていく隆子は、それが金木犀の香りだということを忘れているかのように、まったく意識することのない後ろ姿を見せていた……。


                 (  完  )

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隆子の三姉妹(後編) 森本 晃次 @kakku

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