#9 Roar of Collapse

 大聖堂は途方もなく広い。


 それもそのはずで、ここ百年以上にわたり増改築が続いており、今現在も大なり小なり至る所で補修や改修が行われている。


 世界中の信徒からの献金はこういうところにつぎ込まれているのかと思いきや、なんとこれらの工事は信徒が無償で行っているというのを知ったのはつい最近こと。


 そんな事をしていては彼らの生活が干からびてしまうのでは思ったイェールだが、大聖堂の建設に携わる事は神に直接奉仕できる尊い機会だということで、こぞって人足がやって来るという。


 公爵家に仕えていたせいもあり、無意識に経済活動と奉仕を天秤にかけてしまっていたことを恥じながら、イェールは今日も今日とて雑巾を濡らして始まる一日を迎えた。


 聖堂内を塵一つ残さず掃除するのは直位階の神官の奉仕と決まっており、早朝から大勢の神官が清掃を行っている。


 広い聖堂を一日でくまなく掃除するのは不可能なので日ごと区画が決められているのだが、今日はイェールが待ちに待った正位階、明位階といった高官達がよく出入りする区画である。


 聖堂には明位階以上でないと入ることの許されない場所も複数あり、聖なる儀式が執り行われる儀式の間、聖遺物が納められている聖遺殿、各国から寄贈された宝物などを納める地下宝物庫などがそれである。


 そんな中でも最たるものが聳え立つ白亜の塔。


 その最上階は大神官が神託を授かる場所とされ、最も神聖性が高い場所として塔ごと厳重に封鎖されている。


 今いる区画も普段は呼び出しを受けない限り立ち入れない場所であり、イェールは大理石で出来た化粧床の目地を磨きながら、高官達の話に懸命に耳を傾けている。


「今日はプルディアのミゴット卿が猊下と―――」

「聖マリエスライトがスインドに入ったようで―――」


 しかし、入ってくる情報は取り留めのないものばかりである。


(そろそろか……っと)


 いつまでも同じ場所を磨き続けるのは怪しまれると思い、場所を変えようとした矢先、前から高官二人がやってきたので慇懃に頭を下げ、道を譲る。


 二人はイェールに目もくれず、窓から差し込む朝日に目を細めながら丸々と肥えた体躯を揺らして目の前を過ぎ行く。


「むふぅ。年甲斐もなく大いに食ろうてしもうたわ」

「いやはや、甘過ぎる蜜はあまり好みではなかったのだが」

「……言った通りだったじゃろう?」

「それはもう……主の御威光を示すには己が身を捧げんとな」

「ぐっふっふ。その通りじゃわ」


(……?)


 主は甘味を禁じていないとはいえ、高官ともあろう者がこんな朝からため息をつくほど食べたのかと呆れたが、それを顔に出すほど馬鹿ではない。


 高官とて所詮は人の子。神を信仰しながらも性格的には奢侈しゃしを忌む現実主義者であるイェールは、さもありなんと何食わぬ顔で二人を見送り、次は階上に取り掛かろうと足を向けた。


(なんでもいい。何か、何かお嬢様に繋がる取っ掛かりがあれば……)


 必死にジェリトリナの痕跡を探す日々。一歩歩くたびに焦りが込み上げ、そこからくる苛立ちを食いしばる度にギリリと奥歯が脳を揺らす。


 恐らく聖堂内で今のイェールが最も主の御業を欲しているだろう。


 どうかお嬢様の身をお守り下さい、と。


 そして、そんな彼の祈りは望まぬ形で叶うことになる。


 藁にも縋る思いで階段を上がり、高官たちの言葉を一言一句聞き逃すまいと壁を磨きながら意識を集中させたその時、開けた窓から聞き慣れない喧騒が聞こえた。


(なんでしょう)


 遠く街から聞こえる、悲鳴にも似た喧騒に意識を奪われて身を乗り出すと、目に入ったのは町の至る所から上がる、細い黒煙だった。


(火の手!?)


 聖都の町は殆どが石製であり、騒ぎとなるような火事は滅多に起こらない。にもかかわらず、複数箇所から同時に黒煙が上がるという事は、ある可能性が浮かび上がる。


「ま、まさかっ!」


 グッと石縁を握ったイェールは、最悪のシナリオを浮かべてしまいつい声を出してしまった。


 慌てて口を噤んだが、その声で一人、また一人と廊下に出てきた高官達もようやく町の異変を窓から視認した。


「なんだあの煙は!?」


 この声で騒ぎは瞬く間に広がり、聖堂内は『主よ、主よ』とのたまう神官達の声で満ちていく。


 民の身を案じる者は誰一人おらず、ただ怯えて騒ぐだけの神官らの姿にイェールは言葉もない。


 だが、彼らが火を恐れて怯えている訳ではない事は分かっている。


 皆が皆恐れているのは、大聖堂にやって来るという、悪鬼。


 黒煙はその前触れに過ぎないと。


 当然、他の者と同じく黒煙を見た瞬間に大賊ギンの事は頭に浮かんでいた。しかしそんな中、イェールは全く別の可能性に打ち震えていた。


 あの黒煙の中にジェリトリナがいる場合である。


 複数の黒煙は、たった一人を暗殺する為の偽装だったら。


 亡骸を焼失させるためだったら。


「お嬢様っ!」


 聖堂内では禁句と自身に課していた制約も忘れ、次から次へと浮かんでくる最悪のシナリオを振り払うようにイェールは声を上げた。


 騒ぎの中、脇目も振らず神官専用の居住区に駆け、自身の部屋に飛び込むや長らく閉じたままのキャビネットの戸を勢いよく開ける。


 ゴンと跳ね返る扉を身体で受け止めながら、中に立てかけられている二本の旋棍トンファーを握りしめた。


 聖徒時代、学と並行して鍛え上げた武器術。


 神官となった時から、もう振るう事は無いと思っていた。


(お嬢様を害する者あるならば、この手で……っ!)


 放火犯は火事場に居続ける習性があることは知っている。


 最悪、もしこの火の手が、この手で不信を排し、何としてでもジェリトリナの行方に繋がる何かを見つけ出さなければならない。


(早く、早くっ!)


 背に走る悪寒に耐えながら黒煙の位置を確認し、全てを周る為の最短ルートを脳裏に描く。


 そして最も近い黒煙に向かって走り出したその時、経験したことのない地揺れがイェールの前のめりの姿勢を崩した。


「うっ!」


(今度は何ですか!?)


 同時に聞こえる崩壊音。


 神の怒りが地上に降り注いだと、先ほどの神官達が頭を抱えてうずくまる様が容易に想像できる。


 だが、神の怒りでない事は直後に判明した。


 揺れる空気。


 凄まじきかな、その咆哮。


「ばーっはっはっはぁっ! 相変わらず胸糞悪い場所だ! 行けぃバカ息子共っっ! 薄汚ねぇ宝も、下らねぇ命も、腐りきった信仰も、根こそぎ奪えっ! 奪って、奪って、奪い尽くせぇーっっ!!」


 大聖堂に、再び悪夢がやって来る。


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