#5 Tears of Lilith
当主クライズ・ナイトレイらが神聖ロマヌスから帰領して一週間後。
ナイトレイ家の敷地内にある使用人寮でイェールは蝋印をパキリと割り、ロマヌスからの手紙に目を通していた。
「……使用人としての御役目も終わり、ですか」
手紙にはナイトレイ家への出向を終え、早々に帰任すべしと書かれている。
ジェリトリナ・ル・ナイトレイが聖なる儀式を終えた今、その任を終えるのは当然の事と言える。
神聖ロマヌスに戻れば神官、もしくは聖騎士への道が約束されているだけあってイェールの心は幾分清々しかった。
たった三年、されど三年。この戦乱の世において大陸有数の権力者に仕えたという経験は、今後何物にも代えがたいものになるだろう。
手紙を丁寧に折りたたんで胸にしまい、早速主であるクライズに挨拶に行こうと使用人寮を出た。
(おや?)
途中、ジェリトリナが世話をしていた花壇の前で座り込む少女を見つけ、イェールは歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
その声で少女は背筋を伸ばし、前掛けのしわを伸ばして振り返る。
「なんのことですか? イェールさま」
明らかに寂しそうな雰囲気を纏っていながら、使用人としてそれを顔に出さぬように振る舞う少女に、イェールはしゃがんで視線を合わせた。
ジェリトリナとは同い年で特に仲が良かっただけに、その胸の内は容易に推し量られるというもの。
子供の作り笑顔など、長く見ていられるものではない。
「立派な聖女様になられてきっとまたお会いできます」
「……」
「貴方も恥ずかしくないよう、その時までしっかりと勤めを果たさなければなりません」
「……その時って、いつでしょうか」
イェールの言葉で俯き、自分が落ち込んでいる事を隠せなくなった少女はつい本音を口にした。
「ジルさまはいつ戻ってこられますか!?」
ジェリトリナとの在りし日々を胸に、少女リリスの瞳に大粒の涙が浮かぶ。
この言葉に本来なら同じ使用人として諫めなければならないところだったが、今日限りで使用人を辞する事になるイェールは今だけそれを早めようとリリスの頭にそっと手を置いた。
使用人として、また友人としてジェリトリナを不安にさせないよう笑顔で見送ったとはいえ、逃れられぬ運命の別れを簡単に割り切れるものではない。
ましてや、十の子供にそれは難しい。
「リリス。聖女様の御役目は知っているね?」
「はい……世界中の人たちを幸せにすることです」
「そうだね。私にもいつかは分かりませんが、リリスを幸せにするためにお嬢様は必ずまた会いに来られるよ」
「ほんとうですか……?」
「ええ。だから貴方が泣いていたら、お嬢様も泣いてしまわれます」
「……あははっ」
リリスは昔、雷の音で泣いてしまったジェリトリナを思い出して笑った。
確かに、自分は慰めてばかりだった。
別れの日が近づくにつれジェリトリナは気丈に振る舞うようになっていったが、遠く離れてしまったとはいえ、慰め役の自分がいつまでも落ち込んでいては合わせる顔がない。
袖でグッと涙を拭き、両手を握ってリリスは力強く宣言した。
「ありがとうございます、イェールさま! リリスはもう落ち込んだりしません!」
「それがいい」
そういってリリスは改めて花壇に向かって袖をまくり、顔を出し始めている雑草をつまみ上げる。
花壇にはジェリトリナと一緒に育てた花が植わっており、今も庭師は手を付けない決まりとなっている。
別れの日に花壇を託され、ここの世話はリリスだけに許された仕事だった。
「とりゃぁぁっ!」
気合十分に雑草と格闘し始めたリリスを見て、『いつかまた会いましょう』とつぶやいてイェールは静かにその場を後にした。
公爵邸は当然ながら広く、常時十数人の使用人がいそいそと働いている。
ロマヌスからの出向という事もあり、イェールは使用人としては新人に属しながらもその立場は高い。
当然、立場上主人の来客の予定や執務が集中する時間帯は把握している。他の使用人とすれ違い様に挨拶を受けながら、主人がいるはずの執務室に脚を運ぶ。
今なら話をすることもできるだろうと扉を叩こうとしたその時、フッと匂い袋の香りが鼻を突いた。
(これは、奥様の)
ルクソル王家の子息にして主人クライズの妻であるローズ・ル・ナイトレイ。
いつも身に着けている匂い袋の香りがするという事は、中にいるのかもしれないと扉に伸ばした手を引いた。
ローズは王族なだけあって気が強く、よく言えば気高いと言えるが、悪く言えば冷酷。娘のジェリトリナには常に冷めた視線を送っていた事には気が付いていた。
長女フランシカは聖女として世界各国を巡り、それはそれはルクソル王家の覚えめでたく、長男のフィリップは公爵家の跡継ぎとして大事に育てられている。
フィリップに関してはあわよくば王の座も狙える血筋なだけに、子息の中では特に心を砕いていた。
今更ジェリトリナが聖女になったところで公爵家の旨味は少なく、それでなくともナイトレイ家の立場は王国の中ですでに盤石。
血が繋がっているとはいえ、貴族にとって子は将来家を守るだけの存在に過ぎないと、イェールはこの三年で嫌というほど思い知っていた。
そのこと自体を悪と断ずるようなことはしないが、『等しく神の子』という教えとはかけ離れた価値観を有する貴族達は、苦々しい一面を持っていることは揺るぎない。
夫人であるローズはそれがあからさまに見えてしまうだけに、ジェリトリナ付きだった彼はあまり良い印象を持っていなかった。
そして案の定、扉の向こうからローズの声が聞こえ、イェールはすぐさま隣の待機室に移動した。
(廊下に使用人の姿が無い……もしかしたら人払いしているのかもしれない)
であるなら、途中すれ違った使用人らが知らせてくれも良いように思えるが、今それを考えても仕方がない。
なるべく声を聞かないように意識をそらしたが、待機室の敷居を跨いだその時、ローズの怒声が響き渡った。
「王家になんと説明するの!?」
(王家? 全く……奥様は執務室がこの世から隔絶されているとでも思っているのでしょうか)
明らかに王家に対してやましさがあるかのような言葉が聞こえてしまったことで、イェールは無意識に会話の内容に耳を持っていかれた。
ローズのこの不用心さも頂けない。イェールはため息をつきながら待機室のソファに腰を沈めた。今執務室を訪れる者がいようものなら、クライズの側近として自分が止めなければならないのだ。
そうしてローズの熱はしばらく冷めそうにないと呆れたのも束の間、イェールの耳に到底無視できない言葉が飛び交った。
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