魔法のエッセンス

森本 晃次

第1話 魔法のエッセンス


 三宅優子は、近くの花屋のパートをしていた。初めて優子に出会ったのは、今から半年ほど前であっただろうか。

 優子に会った時の第一印象であるが、

「清楚で素敵な女性だ」

 というものだった。花にはそれまでほとんど興味もなかったくせに、さも興味があるかのように、優子に花について尋ねることが多くなった。さすがにまったく知らないというのもおかしいので、本屋で本を買って、少し予備知識を得たところで話しかけたりしたのだ。

 店の店員は他にもいるのに、優子にだけ話しかけている自分に対し、

「あの人、露骨だわね」

 と、思っている人もいるかも知れないが、それでも、構わないと思った。優子に対して、最初は花の知識を持っていないと恥かしいと思ったくせに、それ以外のことに対しては無頓着なとことが、自分らしかった。

 この男、名前を松田という。近くの貿易会社で部長をしていた。貿易会社の中でもそれほど大きな会社ではないので、部長と言っても、それほど大したことではない。むしろ、自分から、

「部長をしています」

 などというのは、却って恥かしいくらいで、最初は自分のことを話すことはしなかった。松田は、今年で五十歳になった。中年も後半というところであろうか。一度結婚歴はあるのだが、十数年前に離婚した。いろいろと揉めたが、一人娘を結局松田が引き取り、育てていた。

 一人娘の真美は、今年で二十二歳になった。短大を卒業し、社会人三年目になっていた。中学生の途中くらいから、高校生の途中くらいまで、どこの娘にもあるのだろうが、父親と話をしない時期があったが、短大に入学すると、急に丸くなり、よく話をするようになった。それが、松田にとって、一番嬉しいことだった。

 再婚を考えなかったわけではないが、考えた時期が、ちょうど真美と話もできない時期だったので、再婚よりもまず娘が気になった。おかげで、その時の自分は、毎日が、

――本当に今こうやって考えているのは、自分なのだろうか?

 と、自分の存在自体に対して、疑問を抱いていたのだった。

 それでも、真美が心を開いてくれるようになってからは、自分が中年であるということも忘れ、女性を気にするようになった。

「今さら、再婚を考える気は失せてはきたんだけどな」

 と思いながらも、まわりの女性が気になるようになってきたのは、皮肉なことではあったが、これこそが、男の性のようなものではないのかと思ったりもした。

 ただ、会社の女性を意識することはなくなった。どうしても、仕事を前提に話をしている人たちなので、まずは仕事優先だと思うと、女性として意識しても、そこから先に踏み込むことはできない。それが松田の性格なのだろう。

 毎日の通勤路で、優子とは帰宅途中の毎日顔を合わせて、

「こんばんは」

 と、挨拶を交わすことが日課だったのに、女性として意識し始めたのは、最近のことだった。一目惚れというわけではなかった。

 だが、一目惚れではないだけに、ジワジワと気持ちが高まってきたおかげで、それほど焦ったりする気持ちはなかったのだ。

 松田は、一年くらい前までは、会社の仕事が忙しく、帰宅時に花屋の前を通りかかる時は、すでに閉店後だった。そこに花屋があることすら知らずに、毎日の通勤に、この道を使っていた。もっとも、他の店も同じで、一年前から徐々に帰宅時間が早くなってくると、今まで通っていた道が、まるで違う道のように見えてくるから不思議だった。

「早い帰宅も悪くないな」

 最初は、早く会社を出ても、することがあるわけではない。時間を持て余すだけで、何をしていいのか分からなかったこともあり、スナック通いが続いたりした。

 最初は分からずに何軒か通ってみたが、中には明らかにぼられてしまったと思える店もあり、スナック通いを止めようかとも思ったが、しっくりとくるお店が見つかったこともあって、そこの常連になっていた。

 カラオケを歌うわけでもなく、いつもカウンターで、グラスの氷の音を楽しむかのように、チビリチビリと飲んでいるだけだった。

 店の女の子も、最初はどう対処していいか分からなかったようだが、慣れてくると、話しかけていい時なのか、悪い時なのかが分かるようになり、却って、客としては扱いやすい方だったようだ。

 薄暗い店内にある花にも興味を持つようになった。

 名前は知らないが、じっと見ていると、

「松田さんは、お花に興味があるんですか?」

「と聞かれ、

「まあね」

 と答えたが、それ以上は女の子も話を続けようとはしなかった。花を見ている松田の目は、花というよりも、さらにその向こうに見えているものを映し出しているような気がしたからだった。

 実際に見ていたのは、優子だった。そのことを、最初から松田も分かっていたわけではない。意識はしていても、ボーっとして見ているだけだった。

 元々、集中して何かを見るということが苦手な松田だった。見えているものも時間が経ってくれば、次第に最初に見えていたものと微妙に違ってくるからなのかも知れないと思うからだった。

 曖昧に答えたことで、店の女の子は、どのように感じただろうか? 勘の鋭い人になら、分かってしまうのではないかと思うと、少し恥かしくなった。

「お前は、すぐに態度に出るからな」

 と、学生時代に言われたことがあった。それをいい方に解釈した松田は、

「そうかい?」

 と、まんざらでもない表情を浮かべたが、相手に見透かされて気になるのは、むしろ、学生時代の頃の方だった。

 優子と初めて話をしたのは、花屋に立ち寄るようになって、数回目だった。目が合いそうになると、恥かしさから目を思わず逸らしてしまっていたが、却ってよそよそしい。思い切って話しかける方が、まだマシではないかと思うようになっていた。

 話をして感じたことは、思ったよりもハスキーな声だということだ。もっと可愛い声だと思っていたのだが、慣れてくると、それが新鮮に感じられ、時折、笑う時の声が、色っぽく感じられるのが、嬉しかった。

 なるべく笑ってもらいたいと、いわゆる「おやじギャグ」を連発していたが、その印象からか、

「松田さんって、面白い方ですね」

 と、言って、口を押えて笑っている。その姿を見ていると、くすぐったくもあり、照れ臭くもあり、ただ、確実に馴染んできていることに、嬉しさを隠し切れない松田であった。

 女性に歳を聞くのは失礼だと思ったので、まず自分が五十歳になっていることを告げると、照れている松田以上に、今度は優子が照れているのか、耳たぶを真っ赤にしながら、モジモジした態度で、

「実は、私も四十歳代後半なんですよ」

 と、答えてくれた。

「えっ?」

 思わず出てしまった驚きの声に、さらに今度は顔を真っ赤にして、困ったような表情を優子は浮かべていた。

 どう見ても、三十歳代前半にしか見えない。行っていたとしても、四十歳には絶対に見えないと思っていた。

 少しポッチャリはしていたが、それも愛嬌で、肌に目立つような皺は感じることもなく、笑顔に浮かぶエクボが素敵な女性が、まさか四十代後半だなんて、あまり女性の年齢を読むことができない松田であっても、ビックリであった。

 驚きの声を思わず発してしまっても、すぐには、失礼なことをしているという意識に辿り着くことができずに、しばしボーっとしていた。それでも我に返ると、

「これは失礼。ちょっとビックリしました」

「いえ、いいんですよ。結構、皆さん年齢を言うと驚かれるので、慣れてはいるんですよ」

 と、言ってくれたが、

「またか」

 と思ったに違いない。それでも、なるべく表情を変えない優子は、すぐに、顔にエクボを作っていた。

 トレードマークのエクボを見ると、松田も安心したのか、ホッと胸を撫で下ろした。一瞬、気まずい雰囲気が漂ったのではないかと思ったが、思い過ごしで、それほどのことはなかったのである。

 そんなことがあってから、松田は花屋に立ち寄りやすくなった。花の種類も独学の勉強と、優子から教えられたことで、少しは、普通に花が好きな人程度くらいにはなれたかも知れない。

 スナックにも、何度か花を持って行った。

「松田さんは、お花に詳しいんですね」

 と言われても、

「そんなことはないよ」

 と言っているのが、謙遜に聞こえるくらいの知識は持つようになっていた。さすがに、お花の話で時間を費やせるまでにはなっていないが、話題の中のエッセンスくらいにはなっているはずだ。

 店の女の子は、そんな松田に一目置くようになった。きっと年齢的にも多趣味で、部長という役職の立場からも、いろいろ知っているのだろうと思ったことだろう。

 確かに、

「広く浅く」

 の知識はあるだろう。だが、それも「ドングリの背比べ」で、必要以上の知識はなかった。突出しているかも知れないといえば、学生時代から読み込んできたミステリーの話くらいだろうか。

 日本の推理小説はもちろん、外国の小説にも精通しているが、お気に入りは、やはりミステリーに入り込むきっかけになった、日本の古いミステリーであった。

 大正末期から、昭和初期という時代背景も微妙な時代の内容には、今では想像もできないイメージを読むだけで思い浮かべなければいけないことに興奮を覚えるくらい、思い入れていた。

 学生時代に、歴史が好きだったこともあり、特に明治から大正、昭和初期という激動の時代は、ミステリーだけではなく、史実としての本にも興味を持って読みふけったものだった。

 歴史関係の小説は、どうしても、ノンフィクションから入らないと、間違った認識を頭に植え付けてしまう。一時期、戦国時代のシュミレーション小説も読んだが、史実を知っていると、却って、その違いにドキドキした感覚を与えられる。本を読んでいての興奮やドキドキは、新鮮な感覚を呼び起こすだけのものは十分にあったのだ。

 オカルトの話は、スナックではウケた。特に店の女の子は、皆怖い話に興味があるようで、

「いやだわ、一人で夜、おトイレに行けなくなっちゃうわ」

 と言っているが、そういう女の子に限って、薄暗い室内で、一番目が輝いていたりする。実に不思議なものだった。

 しばらくして、優子と二人きりで会うようになって、同じ話をしても、優子は興味津々で聞いてくれる。

 それが小説に対して興味津々なのか、それとも、話をしている相手が松田なので、松田に対して興味津々なのか分からない。だが、どっちでもよかった。むしろ、自分に対して興味津々であってほしいと思う松田だったのだ。

 花屋さんには、パートの女の子が三人いた。仕入や配達、そして店番と、それぞれシフトで回しているようだが、他の若い女の子たちに比べても見劣りしない優子は、客からも人気があるようだった。

 中には個人的に話をする人もいるようで、松田は気が気ではなかったが、それを顔に出すわけにはいかない。まだまだ優子とは始まったばかりで、独占できるまでの関係ではないのだ。

「松田さんと、一緒にいる時が、一番落ち着くわ」

 と、時々言ってくれたが、その言葉だけで、他のことはどうでもよくなるくらいに嬉しくなった。

 松田というのは、それほど単純な男なのだ。

「男も年を取ると子供のような純粋な気持ちになってくるのかな?」

 と、自分を顧みて、世の中の男全部がそうなのかという思いを浮かべたが、

「いや、そんなことはない。一部の人間だけだ」

 と、すぐに否定した。

 今まで会社で仕えてきた上司を思い浮かべれば、年を取って丸くはなっても、子供のような純粋さを感じさせる人はいなかった。

「俺は部下から、どんな風に思われているんだろう?」

 と、感じたりした。

 上司と部下の関係を考えると、仕事を思い出してあまり楽しくはないが、優子と一緒にいる時は、そこまで嫌でもなかった。それだけ、

「何事を考えても、優子と一緒にいれば新鮮なのだ」

 と、感じるのだった。

 デートとまではいかなかった。

 年齢的には近くても、まわりから見ると、十歳以上も年の差のある男女にしか見えないだろう。

「老紳士と、淑女」

 何か、淫蕩な匂いがプンプンしてきそうである。

 もし、自分がまわりから見ていれば、そうとしか思えないだろう。不倫カップルのような訳ありな関係だったりである。

 離婚経験のある松田だが、不倫経験は一度もない。結婚している時に、他の女性に見向きもしなかったと言えばウソになるが、

「まったく見向きもしなかった」

 と言い切った方が、どれほどウソっぽいか分からない。見向きもしなかったなどと言えば、誰が信じるだろう。そこまで松田は聖人君子ではない。

 松田は、結婚相談所に登録していた。結婚相談所で、今までに数人の女性を紹介されたが、いつも最後は相手にフラれてしまった。原因は、離婚してから娘を引き取り、育てていることが一番なのだろうが、いつも、最初に娘のいることは話している。

 当然、結婚相談所からも予備知識としての話は聞かされているはずなのだろうから、知っていて当たり前であろうが、いつも、そのことを分かった上で付き合っているはずなのに、最後になって相手が断ってくるのだ。

 どこかに原因はあるのだろうが、松田にその理由は分からない。

 必ず、どこかに理由があるはずだが、その理由の中には共通したものが存在していることだろう。

 娘の真美は、父親が再婚することを反対しているわけではない。松田も、もし娘が再婚に反対であれば、結婚相談所になど、登録することもなく、娘に対してだけ自分の目を向けるように、毎日を生きていくという気持ちを持つことで、自分の存在価値を見出すことを心がけるに違いない。

 結婚相談所というところは、最近まで敬遠していた。恋愛の醍醐味は出会いから始まるもの。出会いには、偶然やハプニングはつきもので、逆にそれがないと、楽しみがないのと同じだ。この年になって、恋愛を楽しみだと思うのもおかしなことかも知れないが、いくつになっても男であることには変わりない。

 娘がいると、自分が年であることを自覚させられるかのように思えてきて、年齢差がそのまま、自分に哀愁をもたらすように思えてくるのだった。

 十年ぶりくらいに同窓会を開くという話が飛び込んできたのが、二年前だった。皆それぞれ年相応になっていて、懐かしさの中で、それぞれに立派になっている中、ストレスも抱えているのが見て取れる。松田も自分が部長職であることを、その時は忘れて、無邪気に楽しんでいた。役職がついていないやつもいて、羨ましく思えるほどだった。

「お前は気楽でいいな」

 という言葉が、喉元から出そうになるのを堪えた。これを言ってしまえば、惨めになるのは自分である。それだけの社会的立場を持っていて、仕事上では絶対に口にしないことでも、つい同窓会であれば思わず口にしてしまいそうになるから不思議だった。

「松田、お前離婚したんだって?」

「ああ、そうだよ」

「何でだよ。離婚するくらいだったら、俺が口説いたのに、お前がいたから俺は遠慮したんだぞ」

 元女房は、学生時代からの知り合いだった。同窓会にも現れるんじゃないかと思ったが、それはなかった。松田に気を遣ったとは思えない。もう離婚してから五年以上の月日が経っていたのだ。

 この時話しかけてきたのは、元女房を好きだった男だった。それを知っていながら、松田は告白したのだ。

 告白に関しては、松田に戸惑いはなかった。

――フラれたら、どうしよう?

 という意識よりも、

――告白しない限り、先に進まない――

 という思いが強かったのもあるが、それよりも、他に彼女を好きな男がいるということが、松田に告白を誘発したのだ。

 告白してしまうと、交際はスムーズに進んだ。お互いに気になっていただけに、会話も弾んだ。最初から会話のシュミレーションができていたようなものだが、それでも、シュミレーション通りに会話が進むのは、すごいことだと言えるだろう、

 交際期間は、結構長かった。交際を始めて、そろそろ五年が経とうとしていた時、やっとプロポーズしたのだった。断られるわけはないと思いながらも、万が一を思い、緊張で胸が高鳴っていた。

 それでも、すんなりと結婚するとまでは行かなかった。彼女の父親が堅物と言ってもいいくらいの牙城が高く、何とかハードルを飛び越えると、今度は父親との仲が急接近したのだ。

「今度、男同士でゆっくりと飲もう」

 と言ってくれた。きっと義父さんも、話し相手がほしかったに違いない。それが娘婿ならなおさらのこと、話が弾む相手でなければいけないと望むのも無理のないことなのかも知れない。

 自分の父親は、あまり社交的な人ではなく、本当にただの堅物、変わり者の雰囲気が強かった。だから、義父にも同じイメージを持ったのだが、本当の親子では見えないものを義父に見たのかも知れない。

「離婚は、結婚の数倍のエネルギーを必要とする」

 と言われるが、まさしくその通りだった。

 松田が自分から言い出した離婚でもなく、どちらかが不倫をしたなどという、ハッキリとした理由があるわけでもない。

「性格の不一致」

 という一言が一番的を得ているのだろうが、この言葉は実に都合のいい言葉である。性格の不一致と表現すれば、何でも許されると思うからだ。

 性格の不一致を理由にされると、何を言っても、相手の言い分を覆すことはできない。

「そんなあやふやなことで離婚には応じられない」

 と、言えばいいのだろうが、頑なな相手を目の前にして、果たして以前のような楽しかった生活に戻ることができるかと言えば、できるはずなどない。ある程度まで説得を試みて、それでもダメな場合は、身を引かなければ、そこから先は精神の消耗戦でしかなくなってしまう。無駄な労力を費やすのは、お互いに苦痛なだけであった。

 ただ、その理屈がすぐには分からない。

「ひょっとしたら、彼女も楽しかった頃のことを思い出してくれるかも知れない」

 という淡い期待を抱くのも男の性だった。

「ギリギリまで我慢するが、我慢の限界を超えた時は気持ちがぐらつくことはない」

 というのが女性の性だが、それを男の前で気持ちをあらわにするのは、すでに我慢の限界が過ぎてからだ。自分だけが自分で作ったバリケードの中に入り込み、まわりからの影響を完全に遮断している。いくら説得を試みても、冷めた目で、いなすような目で見つめられるのがオチであった。

 松田が、女性の気持ちを分かるようになったのは、離婚を経験してからであろう。それまでは無頓着だったと言ってもいい。だが、頭の中で理屈としては分かっていても、実際に付き合っていれば、状況に合った判断ができるであろうか? きっとできないだろうと思うのだった。

 離婚に費やしたエネルギーは、今から思い出すだけでも、ゾッとするほどである。もちろん、二度と同じ思いはしたくないという思いが強く、一時期、再婚など考えられないくらいだった。

 それは、松田に限ったことではなく、離婚を経験した人は、なかなか再婚を考えるまでには至らないだろう。

 逆に離婚してからすぐ、再婚する気満々だった人が、なかなか再婚するまでにたどりつけず、次第に気持ちが萎えてくると、

「もう、再婚なんて、考えられない」

 という気持ちになったという人を、何人か知っている。要するに、気持ち的に再婚の意志を、持続していくにも限界があるということだ。

 再婚に関しては、意志というよりも、覚悟と言った方がいいかも知れない。一度結婚に失敗しているのだから、もう一度同じ失敗を繰り返さないとは限らない。それを分かっていて行動することは、覚悟と言えるだろう。尻込みするのは、覚悟が足らないからだと、松田は思った。

 理由はいくらでも作ることはできる。卑怯ではあるが、娘のためだということもできる。同情的な目で見てくれる人もいるだろうが、どこまでの人が同情で見てくれるだろう? 松田と真美のことを知っている人は、

「覚悟が足りない」

 と思うのではないだろうか。

 同窓会に出席している人の中には、離婚経験者もいる。中には再婚して、今はうまくいっている人もいるが、中には、

「バツニになっちゃった」

 という人もいる。

 二度の結婚に失敗したというのは女性で、学生時代には、本当に目立たない女の子だった。きっと最初の結婚は、結婚というもの自体に持っていた憧れが強く、結婚に踏み切ったのではないだろうか。離婚してしまえば、今度は寂しさがこみ上げてきて、自分が結婚というもの自体に憧れていたことに気付く。そして、本当の寂しさを知るのだ。

 学生時代から、寂しさには慣れていたはずだ。自分では、

「寂しいなんて感情は、私にはないんだ」

 と思っていたかも知れない。だが、実際に離婚を経験し、取り残されたことを自覚すると、自分の知っている孤独とはまったく違う感覚に襲い掛かられてしまう。それが寂しさから来るものであることを、おそらく最初は気付いていないことだろう。

 だが、自分が否定していたのが、本当の寂しさだと知ると、想像していなかっただけに、余計強く襲い掛かってくることに気付くのだった。

 寂しさは焦りを呼ぶのだろう。人恋しさが人一倍となり、今度は、何とか寂しさから逃れようと、もがくようになる。もがきは焦りとあいまって、

「誰でもいいから」

 と思い始める。そうなると、助けを求める感覚になり、目の前に現れた人が救世主に見えるのだ。

 相性など、考える余裕もない。どうすれば、寂しさから逃れられるかだけを考えているところに、優しくなんかされると、コロッと相手に参ってしまうことだろう。

 交際期間もそこそこに、結婚に踏み切ってしまうことも考えられる。

 ただ、結婚してからというのは、以前と同じだ。結婚生活に、さほど最初に結婚した相手と変わりはない。あの頃は結婚に対しての理想とのギャップにすぐ、離婚に踏み切ってしまったが、今度はさすがに考えなければいけない。

「二度の失敗は、許されない」

 プライドが許さないという気持ちもあるだろう。

 彼女のような女性は、プライドの強さも人一倍だと思う。一人でいて、孤独を感じながら、寂しくないと思ってきたこと自体、それがプライドというものだろう。

 松田には、彼女の気持ちが、なぜか手に取るように分かった。だからといって、彼女と今さら腹を割って話をしようとは思わない。

――おそらく、彼女の方で、俺を相手にしないかも知れないな――

 それは、学生時代の感覚と似ているのかも知れない。

 一言で言えば、人見知りと言えるのだろうが、今度は、波乱万丈の人生を歩んできて、そんな中、自分の気持ちの整理がいまだについていないことで、人間不信に陥っているのかも知れない。人間不信の対象は、相手が男性というだけではない。女性であっても同じかも知れない。逆に女性に対しての方が強いのではないかと思う。それは自分が女性であって、女性の気持ちは、女性にしか分からないからだ。

――私なら、今の自分のような女性を相手にすることはないだろうな。むしろ、毛嫌いするかも知れないわ――

 と思うのだった。

――それにしても、俺もどうして人のことはこんなにも分かるんだろう?

 と、自分のことを棚に上げて思うのだった。

 松田は、他の同窓会メンバーを見渡した。

 一番仲がよかった友達が、この中では目立っている。いろいろな人から話しかけられて、丁寧に答えている。その様子を見る限り、彼の一番いいところは、

「陰日向のないところ」

 ではないだろうか。

 松田も、本当は自分がそうあるべきだと思っているが、自覚はしていても、なかなかそうもいかない。仕事でも部長職をしていると、陰日向なく、一直線な性格ではたちまち、立ち行かなくなってしまう。それが分かっているから、どうしても、人を贔屓して見ることができなくなってしまう。

――離婚の原因はそこにあるのかも知れないな――

 松田は、それほど器用な性格ではない。

 会社と家での自分をうまく使い分けることが苦手で、どうしても家でも会社と同じ感覚で見てしまうのだ。

 家に仕事を持ち込まないという信念は持っていた。持っていたのだが、それが却って、妻に不信を抱かせたのかも知れない。態度は会社にいる時と変わらないのに、会話がないわけだから、

「この人は何を考えているのかしら?」

 と、思われても仕方がないことなのかも知れない。

 会社にいる時と、会社を離れてからの自分は、本当は使い分けなければいけないのに、陰日向なく接しなければいけないという思いが強いことで、家での態度がギクシャクしてしまったのだろう。

 松田は、妻に対して、すまないと思うのはそこであった。

 だが、どうしても謝ることはできなかった。それはプライドが邪魔しているというよりも、自分には、どうしても妻を許せないところがあるからだった。

 確かに女性の性だと言えば、それまでなのだが、

「どうして、限界に達するまでに話をしてくれなかったんだ?」

 と思うからで、もう少し前に話をしてくれていたら、最悪の結果を招くこともなかったかも知れないと思うのだった。

 最悪の結果、それは離婚である。

 少なくとも新婚当初は、

「こんなに幸せでいいのかな?」

 と思うほど、有頂天だった時期が、まるで昨日のことのようだ。

 離婚を経験したことが、新婚当初の有頂天だった時期よりも、さらに昔に思えてくるから不思議だった。

――嫌いなことは、思い出したくない――

 という感覚とは、若干違うものだった。

 時系列の崩れは、感情に大きく作用されると思っている。幸せだったことを思い出したくないと思うことも多く、幸せだったことを思い出そうとすると、どうしても時系列として、離婚の苦しみを避けて通ることができないからだ。それでも、楽しかった頃を思い出せるのは、時系列に逆らった感覚が自分の中にあるからだろう。そう思うから、楽しかったことを思い出す時は、まるで昨日のことのように鮮明な意識になるのだった。

 同窓会メンバーを見ていると、まるで人生の縮図を見ることができる。なぜなら、皆と一緒に過ごした時期が、確かに自分にはあったからだ。懐かしさだけではないものが、頭の中に渦巻いて、

「皆、どんな人生を歩んできたのだろう?」

 と思うことで、時系列に歪みができたり、入れ替わったりすることで、学生時代が、まるで昨日のことのように思い出される。この感覚は松田だけではないだろう。

「皆と一緒だった頃が、まるで昨日のことのようだよ」

 と、いう声があちらこちらで聞こえてくる気がするが、それはきっと本心なのだろう。大なり小なり、皆同じことを考えているに違いない。

 卒業してから、三十年近くも経つのに、皆貫禄が付き、年相応に老けているのに、見ただけで、誰だったか、すぐに分かってしまう。目立たなかった人でも同じで、中には、学生時代には目立たなかった人が、今では、化粧の乗りもよく、十分に綺麗になっていて、見分けがつきにくいはずなのに、それでも、すぐに分かってしまう。イメージは変わっても、根本は変わっていないという当然のことを今さらながらに思い知った気持ちだった。

 同窓会に出席しながら、結婚から離婚までを、一気に駆け抜けて思い出していたが、すぐに、忘れられそうな気がした。

――きっと、心の奥に封印されるのだろう――

 と思った。

 封印されることで、

――忘れたわけではなく、思い出さないだけだ――

 と思うようになり、忘れてしまったことを正当化するころができる。

 普段は、思い出す必要はなく、いつか思い出さなければいけない時に思い出せばいいだけなら、それで構わないだろう。

 同窓会メンバーの中で、いまだ一度も結婚経験もなく、独身でいる男がいた。学生時代はそれほど目立たないわけでもなく、何事も平均的にこなす男だった。

「何でもそつなくこなす」

 これが彼の特徴で、

「可もなく不可もなく」

 これが、彼に抱いたイメージだった。

 何でもそつなくこなすということは、いいことも悪いことも、突出したものがないことを示していた。

 そんな彼には友達はいても、親友はいなかった。実はそんな彼を、松田は気にしていたのだ。

 それは、彼の将来を気にしていたわけではなく、自分がいずれ、彼のように親友が誰もいなくなるのではないかという懸念であった。実は、半分的中しているのではないかと思っている。

 今の松田は、確かに会社では部長職ということで、社会的地位は悪いものではない、そのために、若い頃には、親友だと思っている人との仲よりも、仕事を優先してしまったこともあった。それはそれで無理のないことなのだろうが、後悔の念にあと後から襲われるのだった。

 後悔してしまうと、自分から、親友との仲をギクシャクさせてしまう。仕事での人間関係はそれほど悪くなくとも、プライベートな人間関係がギクシャクしてしまったことが今までに何度もあったからだ。

 結婚生活が、その最たる例であったに違いない。

 松田は、彼を見ていると、かつての自分を思い出すようだった。

――やはり俺は、不器用なんだな――

 と感じてしまった。

 だが、そんな彼の方から松田に話しかけてきた。ひょっとすると、離婚したことを誰かから聞いて、話をしてみたいと思ったのかも知れない。

「松田、久しぶりだな」

「ああ、元気だったか?」

「うん、何とかそれなりにだな」

 いかにも平均的な人間の表現らしい。だが、彼を見ていると、それほど寂しそうにない。それを思い切って訪ねてみると、

「ああ、結構俺は楽しんでる方じゃないのかな? 元々、想像や妄想することが多かったので、今でもそのくせが残っているせいか、嫌なことがあっても、すぐに忘れられる。それが結構いい方向に言っているのかも知れない」

「そうなんだ」

「お前は、俺がずっと独身なのを気にしているかも知れないが、確かに途中で、寂しくてたまらない時期があったが、それでも今は、さほど気にならない。なぜなら、適当に遊ぶこともできるし、いくらでも想像力を膨らませられる。現実から目を逸らしているのは事実だけど、現実だけを見つめていたって、楽しいことはないさ」

 と言って笑っていた。

 彼は多趣味な男でもあった。趣味も性格と同じで、広く浅く、深く入り込むことはなく、すべてが嗜む程度で、極めようとはしない。それを訊ねてみると、

「極めてどうするのさ。確かに目標にすることは悪くはないと思うけど、目標を達成してしまったら、その先どうするんだってね」

「それはそうだが」

「俺は、考え方を変えたんだ。目標は達成するためにあるんじゃなくって、持ち続けることに意義があるんじゃないかってね」

「確かにそうだ。生きがいは持ち続けるという継続が一番だもんな」

「その通り、俺は今、結婚相談所にも登録しているんだが、それも、目標を持つという気持ちを明確にしたいがためなんだ。まあ、大きな声ではいけないけどな」

 と言って、笑い声だけは豪快だった。

 豪快な笑い声は、まわりの声にかき消されたが、松田の耳にだけは、余韻を与えながら、残ったのである。

「結婚相談所か」

「お前も登録してみればいいんだよ。別に難しいことではないし、社会的なものも、プライバシーは絶対だから、心配はない」

「そんなものか?」

「目標を継続させることを考えれば、おのずと答えは出てくるものさ」

「なるほど」

 彼の話を噛み締めながら聞いていると、最初はそこまで感じていなかったことも、時間が経つにつれて、次第に考えが深くなってくるのを感じたのだ。

 さっそく、結婚相談所の門を叩いてみた。いろいろ調べてみると、結構たくさんあるものだった。

 本当に結婚を考えているシビアなところから、普通に出会いを求める人間のサポートまであり、それほど堅苦しく考えることもないように思えた。

 実際に登録してみると、登録者の中から、相性の合いそうな、近所の人を紹介してくれるシステムになっている。実際に会うまでには少し時間が掛かるが、それもプライバシーの問題が絡んでいるので、それは仕方がないことだった。

 松田は、紹介された人と、今までに何人か会った。だが、相性が合った人と会うと言っても、あくまでも統計的なもの。どこまで信憑性があるか分からない。あまりにも信じ込みすぎると、相性があまり合わなかった時の相手は、お互いにがっかりするものだった。

 だが、落胆するわけではない。相手も同じようにコンピュータの相性を全面的に信じていないようだ。それが救いなのか、付き合う前から、お互いに次はないということが多い。

 ただ、話を聞くと、中にはもう少し話をしてみれば、相性が合うのではないかと粘ってみる人もいるという。女性の方が引いてしまうのだが、相手が真剣だと、無下に冷たくもできない。そう思うと、苛立ちを自分だけが背負うのは不公平に感じるようだ。そういう意味では、松田のような性格だと助かるという女性もいたりした。

 付き合い始めた人もいたが、最終的には、どうもうまくいかない。ひょっとすると、相手が自分に好意を持ってくれたことで、相性が合っていると松田の方でも勘違いをしてしまったのではないかと思う。やはり異性と付き合うというのは難しく、しかも途中に仲介が入っていると、余計に気を遣ってしまう。それでも結婚相談所の利用wやめようとしないのは、

「目標は達成することにあるんじゃなくて、持続するためにあるんだ」

 という言葉が頭の中にあるからだろう。

 そんな時に出会ったのが、優子であった。

 優子の清楚な雰囲気は、花屋さんというシチュエーションも手伝って、松田の中で久々にヒットした出会いだという印象を強く与えた。

 偶然を偶然ではないと思う時、気持ちが有頂天になり、すべてが自分のために動いていて、時間さえも、自由にできるのではないかという錯覚まで感じることがある。躁状態に近いものなのだろうが、躁鬱症というわけではない。今までに鬱状態に陥ったことはなかったが、陥ってしまえばどうなるのだろう? 気になるところではあった。

 優子と知り合って、話すようになると、今度は娘の真美のことが気になり始めた。真美は、二十二歳になり、すっかり大人になっているので、本来なら、再婚に当たっては、気にすることなどないのだろうが、真美の性格を見ていると、どこか裏表がありそうで、父親から見ていて、時々怖くなってくる。

 裏表と言っても、悪意のあるものではない。本人もあまり意識していないもので、逆に親の目から見ると、心配になってくるのだ。ただ、それが親子関係という贔屓目で見るから裏表に見えるのかも知れない。それなら、まだいいのだが、誰に対しても裏表があるようでは、気が気ではない。そのうちに、

「お父さん、私、この人と結婚する」

 と言って、いきなり男を連れてきたらどうしよう。可能性は高く、覚悟が必要なことであった。

 もし、真美が結婚してしまうと、自分は一人ぼっちだ。その覚悟はしておかなければいけない。その時の孤独感は、間違いなく寂しさを伴うだろう。しかもそれは今までに感じた寂しさとはまったく違うもののはずである。

 結婚相談所に登録する気持ちになった一端は、娘の真美に対しての気持ちもあった。結婚していなくなって一人になった時に感じる寂しさ。それを考えたことも事実だ。

 そうなったらそうなったで、今度は自分の寂しさを満たされればそれでいいという考えもある。反対方向から見てみるというのも、一つの手段である。どちらの方向から見ても寂しさを満たすには、結婚相談所への登録で、自分に対しての損はなかったのだ。

 真美は、結婚相談所に登録して、時々デートをしている父親を知っていた。それに関しては、まったくのだんまりを決め込んでいた。何も聞かないし、口出しもしない。実際に、まったく意識していなかったと言ってもいい。

 父親のことだから、まずうまく行くことはないとタカをくくっていたのかも知れないが、その想像は間違っていなかった。ただ、優子に関しては、なぜか気になるようになっていくのだが、最初に松田が出会ってから、松田の様子から、結婚相談所以外で知り合った人がいることに気付くまで、相当早かったのである。

 それだけ父親をいつも見続けているからなのか、それとも、父親が自分を見つめる様子に何らかの変化を感じたのか、そのどちらにしても、真美の勘の鋭さを示している。真美は、松田が思っているよりも、かなり勘の鋭い娘だったのだ。

 真美は、時々自分が分からなくなる時があった。普段はしっかりしているのだが、時々言い知れぬ不安に襲われる時があるのだ。

「勘の鋭さが邪魔しているのかも知れない」

 と、感じるが、それだけではないことに、まだ気付いていなかった。

 真美には彼氏がいた。名前を勝則という。勝則は、そんな真美を最初から分かっていた。分かっていて付き合っていたのは、

「真美のことを一番理解できるのは、自分だ」

 と思っていたからだ。真美と付き合いだしたのも、元々は真美が勝則を好きになって、付き合ってほしいと告白したからである。

 それまで、女性から告白されたことなどなかった勝則だった。勝則のまわりに女性の影はあまりなく、男性からも、女性からも、勝則が女性と付き合っているイメージを持つ人はあまりいなかった。

 勝則が、女性を近づけないストイックなタイプに見えるからではなかった。ただ、女性と一緒にいるイメージが誰の頭にも湧いてこないのだ。一つの集団があれば、集団の中には一人くらい、そんな人もいるかも知れない。勝則が希少価値的な人間であることには違いなかった。

 だが、そんな勝則を好きになるというのは、真美も相当変わった性格なのかも知れない。誰も近づこうとしない人に対し、自分から告白して、付き合うようになったのだ。

――勘の鋭さが、何かを教えたのだろうか?

 と、真美は考えていた。

 勝則は、最初、真美が信じられなかった。

――何という物好きもいるものだ――

 と思ったが、好きになられて、素直に喜ばない男性もいるはずがない。勝則も次第に真美に惹かれていき、徐々に心をまわりに開いていくようになった。

 そのせいか勝則は、まわりに存在感を与えるようになっていた。不気味な存在というイメージは少しずつ消えていき、真美との仲もまわりから見て、次第に違和感がなくなっていくようだった。

 勝則を好きになる女性も出てきた。それは真美の計算外でもあった。他に誰も好きになるはずのない人を自分のものにして、しかも、女性と付き合ったことのない相手なので、いかようにも自分の好きにできるという計算もあったのだ。

 計算が狂ったというよりも、逆に嬉しくもあった。なぜなら、自分と付き合うことで、彼が他の人にモテるほど、性格が変わったということだからだ。

 ただ、勝則は、自分が変わったという意識はなかった。そこが真美の、

「もう一つの計算外だった」

 それでも、積極的な性格は、真美にとって長所だった。積極的ではあるが、決して押しつけではない。誰もが躊躇してしまうことを、真美は行動に移すのが早いということだった。

 そのことを分かっているから、勝則も真美には心を開いたのだ。

 勝則は、人間不信に陥った時期があった。あまり社交的ではない性格を、子供の頃から、苛めの対象にされていたからで、次第に人間不信に陥っていったのだった。一気に陥ったわけではなく、徐々に陥っていったので、少しだけ心を開いたとしても、全面的に心が開けたわけではなかったのだ。

 真美は、その方がよかった。他の人が、どこまで勝則のことを理解しようとしているか分からなかったが、結局のところ、理解は難しいだろうと思う。

「この人のことは、自分だけが理解しているんだ」

 と思いたい気持ちが、真美の中では満々だった。それが勝則に告白してでも、手に入れたいと思った相手だった。

 ただ、真美の中でも、勝則の他の人にはない、少し変わった性格は理解できなかった。表に出ている部分だけを見て、分かるものではなかった。それだけ、勝則が表に出している性格が絶対的な判断に必要なほど、あるわけではない。

 真美自身、自分の中の性格で分からないところがいくつもあった。勝則と付き合っていれば、それがどんなところなのか、分かってくるような気がした。

「人のふり見て……」

 ではないが、自分を見つめなおすという意味でも、勝則は、大切な人に思えてきたのだった。

 真美が勝則と付き合っていることを、松田は知っていたが、

「娘が選んだ相手だから」

 ということで、あまり気にしていなかった。

 真美が自分に似ていて、

「真美は、誰もが好きになる人を選ぶよりも、人があまり気にしない人を好きになる性格である」

 ということを、知らないからあまり気にしていなかったのだ。しかも、離婚経験のある両親の娘である。もう少し気にしていてもいいのかも知れない。

 真美も父親が、結婚相談所に登録していることは知っていて、なかなかうまく行かないことも知っていた。だが、そんな中で、優子と知り合ったことまでは知らなかった。

 真美は優子自身を知ってはいた。通勤路である駅まで行く途中にある花屋さん。何度か立ち寄ったことがあるからだ。

 そこにいる三人の店員さんで、一番気に入っていたのが、優子だったのだ。真美から見ると、優子はまだ二十代後半くらいに見えて、お姉さんの雰囲気だった。まさか父親が気に入っている女性で、年齢も父親に近いなど、想像もしていなかった。

 優子の方も、真美がまさか、松田の娘だなどと思ってもみない。松田に娘がいることは知っていたが、これほど身近な相手だと、思わなかったからだ。偶然というべき出会いは、どこで、どうつながっているか、分からないものである。

 真美は、このお店でお花を買ったことがあった。

「今日は、お父様への贈り物ですか?」

 優子が優しく声を掛ける。

「ええ、たまには娘らしいことをしたいと思いまして」

 と、しおらしいことを言う。確かに家に飾るためのお花があるといいと思っていたが、目的は優子と話をすることだった。年齢的に近いと思っていたが、どこか頼りがいのある雰囲気は、母親を思わせた。それもやはり勘の鋭い真美ならではなのかも知れない。

 ただ、この時、真美は優子にただならぬ雰囲気を感じていた。それは何なのか想像もつかなかったが、どこか惹かれるものがあるのだ。

――女の勘――

 と、自分の持って生まれた勘の鋭さが、何かを教えるのだった。ただならぬ雰囲気とは、見た目からは感じられない妖艶なもので、ギャップだと言ってもいいだろう。

 そのことを、松田は知らなかった。やはり、感じるのは、女性特有の勘が必要なのかも知れない。人を惹きつける何かを感じてはいたが、そこに妖艶さは感じられない。実際に一緒にいて、淫らな想像ができる相手ではない。そんな相手であれば、最初から付き合いたいなどと思わないだろう。

 だからといって、松田はセックスが嫌いなわけではない。付き合い始めれば、もちろん、身体を求め合うのは当たり前であるし、優子ともそうなるだろうと思っている。だが、付き合い始める前の段階で、想像力を膨らませることはなかったのだ。

 告白するまでは、それほど難しいことではなかった。何度かお店を訪れ、

「今度、ご一緒に食事でもいかがです?」

 と、声を掛けるのも、それほど度胸を決めるほとではなかった。

「ええ、いいですよ」

 優子も快く、返事を返してくれた。待っていたかのような声の抑揚に、松田は小躍りしたいほどであった。

 有頂天になった松田は、娘の様子を気にするようになっていた。娘からは、

「お父さん、再婚したい人がいたら、別に再婚してもいいよ」

 と、言われていたが、実際には気になるものだった。

 本当は、娘の立場からであれば、

「ここでお父さんに再婚しておいてもらえば、今度自分が結婚すると言った時、反対されずに済む。恩を売っておくのも悪くないわ」

 という打算的なものもあっただろう。

 二十二歳といえば、それくらいの年ごろである。すぐに結婚するしないは別にして、結婚を考える年齢としては、決して早すぎるわけではないからである。

 松田と優子、そして、真美と優子。それぞれに立場は違って、まったく知らない関係であるこのトライアングルは、本当に偶然の賜物なのだろうか? 均衡が取れている今の関係を崩すとどうなってしまうのか、この時は誰も気づくはずもなかったのだ。

 最初に崩れるのはもちろん、松田と優子、二人は出会った瞬間から、付き合うことを意識していたかのようだった。それは最初に一緒に食事をした時に、松田が言いたかったことだったからだ。

「ええ、私も実は、松田さんとは、こうやって、お食事にでもお誘いいただけただけでも嬉しいなって思っていたんですよ」

「それはいつからですか?」

「今から思えば、最初からだったかも知れませんね。こんなことって今までにはなかったし、食事に誘ってほしいなんて思える相手、今までに現れたことありませんでしたからね」

 と言っていた。

「ウソでも嬉しいですよ」

 本当はウソだなんて思ってもいないのに、思わず口から出てしまったが、

「ウソなんかじゃありませんよ」

 優子もムキになって答えた。

「ふふふ」

 お互いに目を見て安心したかのように、思わず笑いがこみ上げてきた。女性と一緒にいてこれほど楽しかったことなどあっただろうか? 別れた女房とも、付き合い始めた頃にはなかったように思う。

 若かった頃は、いろいろデートするにも場所はあった。

 ショッピングに付き合ったりするのはもちろんのこと、遊園地やゲームセンターなどで無邪気に遊んだこともあった。また博物館や美術館で、しっとりと、それでいてまったりとした時間を過ごしたこともあった。

 今なら、博物館や美術館であろうか?

 若い頃なら、それだけだと我慢できなかったかも知れないが。今であれば、しっとりと、そして、まったりとしたい時間をありがたいと思うのかも知れない。

「それにしても、この年でのデートなんて」

 有頂天にはなっているが、どこに行けばいいのか分からないところは、悩みの種でもあったのだ。

 待ち合わせに使う喫茶店は決まっていた。二人は、それぞれ常連にしている喫茶店はあったが、敢えてそこを使わず、最初に入った、今までに二人が入ったことのない喫茶店を待ち合わせ場所にした。それは、個人の隠れ家ではない、「二人の隠れ家」を持ちたいという松田の意見だったが、優子もまったくの同意見だったのだ。

 ただ、隠れ家というほど、奥まったところにあるわけではなく、駅前にある喫茶店だった。最近では珍しい純喫茶の雰囲気のある店は、朝などは、モーニングセットを出してくれる。年配の二人には懐かしさの残るこういう店が、一番似合っていた。

 優子のお気に入りは、クリームソーダで、松田はレモンスカッシュだった。まるで昭和を思わせるこの店の客は、やはり年配が多いようだった。

「私ね。実は、松田さんと知り合う前に、何人かの人とお付き合いしたことがあったんですけど、いつも最後には私がフラれてしまっていたんです」

「それは、どうしてなんですか?」

 本人が、意を決して話してくれたことに対して、率直な疑問だとはいえ、いきなり聞き返すのは失礼だったかも知れない。自分で理由が分かるくらいなら、同じ失敗を何度も繰り返さないのではないだろうか。

「それがよく分からないんです」

 確かにそうとしか答えは返ってこないだろう。

「すみません。分かりきったことを訊ねてしまったようですね」

「いえ、いいんですよ。確かに理由が分かるくらいなら、他の人とすでにお付き合いしていますからね」

 そう言って、はにかんで見せた。今の返事は、今度は松田に対して失礼だったかも知れない。付き合い始めるかも知れない相手に、

「他の人とすでに付き合っていたかも知れない」

 などというのは、失礼な言葉に違いないからだ。

 だが、優子のはにかんだ表情は、少々失礼なことを言われても気にならないほどの心地よさを感じさせる。

――天然なんだ――

 と思えば、痘痕もエクボで、許せる気分になってくるのだった。

 優子を見ていると、彼女の魅力は年齢の割に、あどけなさがあり、無邪気なところがあることだ。

 だが、逆に言うと、無邪気であどけなさは、相手に失礼になる言動を引き出してしまう。彼女が最後にフラれてしまう理由はそこにあるのだろう。実年齢よりも若く見えることが、彼女にとって、よくもあり、悪くもある。どちらに影響してくるかは、相手にもよるだろうし、その時の環境にもよるだろう。松田に対しては、どっちに転ぶのだろう?

 優子と松田の会話は、どこか噛み合っていなかった。ぎこちなさがあったが、それも最初だけだと思われた。お互いに大人なのだから、すぐに慣れてくるというものだ。それよりも、お互いに緊張しているからなのかも知れない。それだけ恋愛に対しては、ウブなところがあるのではないだろうか。

 確かに、お互いに失礼な言葉を掛けるのは、緊張からであろう。まるで、見合いの席のような雰囲気を感じているのかも知れない。二人とも、見合いの経験はないようだが、松田は結婚相談所からの紹介を受け、数人とお付き合いをしたことがあるので、そんなに緊張するはずはないと思っていたが、やはり、実際に知り合うのと、紹介とでは、まったく出会いの性質が違っているのだろう。

 結婚相談所で紹介された女性たちは、結婚を焦っている雰囲気を相手に感じさせないようにしようとしているのだが、意識しすぎているのか、明らかにみえみえの雰囲気を感じさせる。

 気持ちに余裕を感じさせない会話には、失礼だが、見苦しさすら感じさせられ、それでも、相手に合わせて会話をしている自分が次第に情けなくなってくる。

 人に合わせて会話をしていても、心地よい時がある。相手に余裕が感じられる時だ。余裕が感じられないと、どれほど見苦しいものかを、松田は、最近知った気がした。

 特に女性同士の会話などで、

「私はあなたに対して気を遣っているんだ」

 ということを思わせるのは、第三者が見ていても分かるくらいのものが、どれほど情けないか。分かっていないのは、本人たちだけであろう。

 松田は、優子との会話で、

――付き合っても最後にはフラれてしまうという話をしていたが、理由は話が噛み合わないところにあるのかも知れない――

 と、思うようになった。

 最初は噛み合わなくても、愛嬌で何とかなっても、次第に一緒にいるだけで苦痛に感じられることもあるだろう。そう思うと、優子は、損な性格なのかも知れないと感じるのだった。

 優子と話をしていると、どこか上の空に見えることがある。特に二人きりで話をしている時に感じる思いが強い。なぜ上の空になるのか、それは、優子が、見た目よりも若く見えること、そして、最後には男性にフラれてしまうことに影響していることを、その時まだ、松田は知る由もなかったのだ。


 真美は、父親が再婚の意志を強く固めていることを、何となく分かっていた。相手がどこの誰かまでは分からなかった。隠そうとすればするほどボロが出てしまう松田は、娘から見れば、隠そうなど無駄なことであった。

 確かに再婚してもいいとは話していたが、相手がどんな人なのかが気にならないわけではない。

 真美にとって、母親が本当にほしかった時期にいなかったので、母親と言われてもピンと来ない。だから、父親が再婚する人がいても、自分にとっては他人であり、表向きに義理の母親として見ればいいだけであった。

 父親も娘のことは、あまり心配していない。勝則が彼氏であることも気にならないし、本当ならもっと心配してもいいのだろうが、なぜか、真美に対しては気になっていなかったのだ。

 自由奔放に育ったと言えば、それまでだが、真美は学生時代から、好きなことをするのが一番だと思っていた。

 本当は一つのことに熱中できるような趣味を持てるのが一番なのだが、それがなかなか見つからない。いろいろなことに手を出して、中途半端に終わってしまっていることが多かった。

 芸術的なことには、いろいろ手を出してみた。一番最初に諦めたのが音楽だった。

 クラシックや、ジャズなどを聴くのは好きだったが、ロックやポップスは、どうも好きにはなれなかった。クラシック、ジャズをある程度聞き慣れてしまうと、ロック系の音楽が、馴染めないものとなってしまっていた。

 それにロックバンドのパフォーマンスや、衣装を見ていると、

「とても私にはできない」

 としか思えなかった。

 クラシックやジャズは、好きだからといって趣味でできるようなものではないと思っている。

「やるからには極めないといけない」

 という思いが強く、自分に極められるわけなどない。そう思うと、音楽を趣味に持つのは難しかった。

 次にやってみようと思ったのは絵画だった。

 実際に美術部に入部し、コンクールで入選するくらいの実力があったので、趣味としては、自分が望んだ最高の形を手に入れることができたことが嬉しかった。

 学校も美術には力を入れてくれていて、真美の実力は評価してくれていた。環境としては申し分なく、しばらくは、美術に打ち込む時間ができていた。

 しかし、次第に自分の中で重苦しさを感じるようになった。

 最初はどこから来るものなのかも分からないくらい、その頃も真美は、何も心配事はないはずだった。

 学校の中で期待されていることも、別に他人事のように思えていたはずなのに、ある日を境に、急に重たいものを背負っていることに気が付いてしまったのだ。

 一度気付いてしまうと、気付かなかった時期を、

「本当は気付いていたのに、自分をごまかそうとしていた自分がいたのかも知れない」

 と思うようになった。

 ごまかそうとするには、何かごまかさなければいけないものが存在し、どのようにごまかそうかと頭が回転するはずのものだ。それなのに、頭が回転するどころか意識がないのだ。

 意識のない中で、何を目標にしていたというのだろう。その頃から真美は、

「目標は達成するためのものではなく、持続して頑張るためにあるものだ。達成は夢のようなものだ」

 と、自分に言い聞かせてきた。

 達成してしまった時の自分を何度となく想像する。妄想と言ってもいいかも知れない。どんないいことが待っているのか、顔がほくそ笑むほどだ。

 ただ、それとは逆に達成してしまった自分が、どんな顔をしているのか、分からないものだ。逆光を浴びたかのようにシルエットが掛かっていて、表情は口元が歪んだように見えるだけで、他はまったく分からない。

――達成することって、悪いことなんだろうか?

 と思えてくるほどで、目標に到達してしまった自分のそこから先が、何をしていいのか、何をするべきなのか一切分からなくなってくるのだった。

 それでも、趣味の域を超えていたのかも知れないと思ったが、趣味の域を超えたと思った瞬間から、

「あまり長く続けるものでもないかな?」

 と思うようになっていた。趣味はあくまでも嗜みの世界。域を超えてしまっては、楽しめるものも楽しめなくなる。

 趣味とは楽しむものだと、誰かから聞いたことがあった。ひょっとしたら、母親からだったかも知れない。性格のほとんどは、父親からの遺伝だと思っているが、制御を掛ける考え方は、母親の影響が強かった。

 結局、真美はこれといった確固とした趣味を持ったわけではなく、適当位楽しむ趣味をいくつか持つことを選んだ。進学の際、先生から、

「美大に進めばいいぞ。推薦状を書いてあげよう」

 と、言われたが、

「いいえ、普通に短大に進みます」

 と言って、家の近くの短大に進学する道を選んだのだった。

 先生は、

「どうしてなんだ? せっかくの才能を伸ばせばいいじゃないか」

 と言ってくれたが、その言葉の意味がハッキリと分からない。

「才能を伸ばして、どうするんですか?」

 先生は言葉に詰まった。まさか、そんな返事が返ってくるなど思ってもみなかったからだろう。

「だって、お前。絵画を始めたのは、目標があって始めたんだろう? 目標に向かってまっすぐに進んでいるんだから、その路線に乗るのが一番自然だと思うんだが、先生の言っていることに間違いはあるかい?」

 と、言われたが、

「間違ってはいませんけど、根本的なところで、考えが違います」

「どういうことだい?」

「私は、目標を持って、絵画を始めたわけではないんです。ただ、何か打ち込める趣味が見つかればいいと思っていただけなんですよ」

「でも、せっかく才能があるのが分かったんだから、それを伸ばそうとするのが、自然なんじゃないかい?」

「そうですね。でも、私の目指すものはそこにはなかった。と、それだけのことではないでしょうか?」

 先生は目を白黒させ、真美のような考え方の人は初めてだったのだろう。きっと、

――こんな人もいるんだ――

 と、単純に思ったに違いない。

「お前がそういうなら、それでもいいが、もったいないな」

 と、本当に残念がっていた。

 真美はその気持ちも分からなかった。自分のことでもないのに、どうしてそんなに人のことを考えられるのか? それが先生という職業だからなのだろうが、人の成功を影で助ける役まわりは嫌だった。また、影で支えるだけなら百歩譲って許せるが、自分が表に出るというのは、許せなかった。

 それはプライドの問題なのか、それとも人がちやほやされるのを見るのが耐えられないのか、きっと後者であろう。

「プライドなんて、いくらでも捨てられるわ」

 と、真美は思う。それよりも、目の前の成功者を、指を咥えて見ていなければいけない気持ちは、情けなさに通じるものがある。それを思うと、

「本当にお父さんに似たんだわ」

 と、思うのだった。

「俺は、出世は望まないけど、何かの賞を貰えるようなものには、貪欲に挑戦したいと思うんだ」

 と言っていた。

 ただ、才能がないのか、努力が足りないのか、賞を貰えるような功績は、今のところ何もなかった。

 そういう意味では、学生時代にコンクールで何度も入賞している真美は、

「本当にお父さんの娘なのかしら?」

 と、思うほどだった。

 そういえば、真美が賞を受賞したと言った時の松田の表情は、明らかに困ったような顔だった。分かっているつもりだったが、露骨にそんな顔をされたのでは、がっくりくるのもしょうがない。相手が父親であっても、優越感を感じることができるのは、父親と性格が似ているからではないだろうか。

 真美が美大に進まないと言った時、実に複雑な表情を父はしていた。もっともその表情は想像していたものとさほど変わりのないもので、本当に似た者親子だと再認識させられた。

 短大に進んだ真美は、そこで、文章を書くことを覚えた。小説を書くことだが、

「真美は絵の才能があるんだから、どうしてそっちに行かなかったの?」

 毎度おなじみの質問に半分ウンザリしながら、

「だって、プロになる気なんて、さらさらないから」

 と、あっさりと答えた、

 下手をすると、プロを目指して一生懸命に絵を描き続けている人に対しての冒涜になるのだろうが、真美は、それが自分の生き方なのだからと思って、気にもしなかった。

 確かに才能があったり、実力が開花したりすると、まわりの期待は大きくなる。

 だが、その期待というのがどこから来るものなのか、真美には分からなかった。

「自分が目指すものでもないのに、他人に期待するというのは、どういうことなのだろう?」

 プロになって、商品価値が生まれると、そこからは関わった人はビジネスとして、関わり続けなければいけないのだろうが、まだ商品価値があるわけでもないのに、期待するというのが分からない。

 そういう意味では、まわりが勝手に期待しているだけなので、プレッシャーなど感じる必要などないのだろうが、真美は感じていないつもりのプレッシャーが、勝手にのしかかってくるように思えて仕方がない。

「謂れのないプレッシャー」

 これほど面倒臭いものはない。

 だから、自ら身を引くのが一番なのだ。

 かといって、絵を描くのをやめたわけではない。一人で趣味として描いては、相変わらずコンクールに応募したりしている。入賞することもないが、趣味としてやっている分なので、真美は満足だった。

 短大で覚えた小説を書くことは、絵を描くよりも簡単なことだと、最初は思っていたが、想像以上に難しいものだった。ただ、自由な発想で、ただ書き続けているのが楽しい。絵画との共通点は、

「真っ白い何もないところに、一つ一つのマスを埋めていくようなところだ」

 と思っている。

 真美は短大で、サークルに所属しているわけではなかった。一人で勝手に小説を書いているだけなのだが、友達に話すと、

「私も、高校時代に、少し小説を書いてみたことがあるのよ」

 と、言っていた。

 どうやら、大なり小なり誰もが高校時代に、何かしらの芸術に親しむことをしてきたのではないかと思った。

――いや、それとも似た者同士が集まるようになっているのかも知れないわ――

 これも、真美の考え方の一つであった。

 性格的に似た者同士が、何か惹き合うものを持っている。自分か相手のどちらかが、必ず気付くものであって、相手は、意外と気づいていない。相手に声を掛けられて初めてお互いに惹き合うものがあることに気付く。そんな関係が存在するのだと思っているのであった。

 小説を書いている友達は、学生時代に書いたものを見せてくれた。

 ファンタジーが一番近いジャンルなのだろうが、ジャンル一つにまとめてしまうには、あまりにも曖昧な内容になっていた。だが、真美はその話を読んだ時、

「私が書きたいと思っている小説は、こういう路線なんだわ」

 と感じた。

 プロになって、やっていこうとするのであれば、売れる小説を書くことが不可欠なのだろうが、趣味として続けていく分には、如何様にも好きに書くことができる。

 友達の小説は、既製の形にこだわらず、自分独自の「味」を醸し出している。真美も自分独自の「味」を出すために、いろいろな小説を読み込み、好きなものを選りすぐり、自分独自のワールドを作ることに専念していきたいと思うのだった。

 小説の挿絵に自分の描いたイラストを載せるのも楽しみなことだった。最初はサークルに所属せずに一人で書いていたが、それでは、発表の機会がない。そこで、文芸サークルに籍を置き、そこから発行している機関誌に自分の作品を載せるようにした。

 サークル活動は、ほとんど自由参加で、ほとんどの部員が、アルバイトとの併用になっているので、まとめるのが却って大変かも知れない。一応、部長はいるが、大変ではないような運営にしていることで、イベントとしては、機関誌発行が主だった。

 部長の目標は、編集の仕事に就きたいということだったので、機関誌発行は、その勉強としては持ってこいだ。部員の作品を読んで、発行に際して問題のありそうな部分だけは編集していた。もちろん、作者了承の上でである。

 真美は自分が芸術に親しまれながら、毎日の生活が送れていることに満足していた。短大に入学したのは、こんな学生生活を送りたいと思ったからだ。そういう意味では充実した学生時代だと言えるだろう。

 小説は、さすがに絵画の時と同じように入選することはなかったが、絵画よりも面白いと思っている。

 絵画が、目の前にあるものを忠実に描くものであれば、小説は、自由なイメージだ。絵画でも空想画であれば、自由な発想であるだろうが、真美は普通の写実であった。

 小説もノンフィクションもあれば、フィクションもある。真美は小説を書く時はノンフィクションを書くことはない。ノンフィクションにするくらいなら、小説を書くのをやめようと思っている。

 絵画にしても、空想画を描くくらいなら、最初から絵画などしていないだろう。同じ芸術でも描き方を自分なりに決めていることで、より自分にふさわしいものを見つけようとしているに違いない。

 ただ、写実の絵画を描きながらでも、小説をかじったことにより、

「目の前にあるものを忠実に描くだけではなく、時には、大胆に省略することもあるのが、私の作風なのかも知れないわ」

 と思うようになった。新たにないものを書き加えることは自分の中でのルール違反になるが、省略はその限りにあらずで、新しい自分独自のジャンルを築き上げることができそうな気がしていた。

「また、絵画にも力を入れてみようかしら」

 と思うようになり、今度は大胆に省略して描くようになると、まわりの批評が賛否両論になってくるのが、真美には面白かった。

 急に変わってしまったことで、才能が逆に進むことを懸念する批判的なものもあれば、新天地開拓に期待してくれている批評もあった。批評を見ているとまるで他人事のように思えてくることが、真美には面白かったのだ。

 短大時代に合コンで、一人の男性と知り合った。彼も同じ芸術家肌で、他の人から見れば、

「変わってるわね」

 と、言われがちだが、考えてみれば、真美も同じ芸術家肌。他の人がどのように見ているから、分かったものではない。それなら、同じ芸術家肌同士、付き合ってみるのも悪くはないだろう。

 彼が芸術家肌と言われるゆえんは、ほとんど喋らないところにあった。

「別に不必要なことを喋る必要はないだろう?」

 というのが彼の持論で、真美も反対ではない。

 だが、実際に付き合ってみると、彼の考えが分からないところが随所に見えてきた。そんなところを彼の口から聞きたいと思っても、なかなか口を開こうとしない。

「ひょっとして、私から逃げてるのかしら?」

 と思うこともあるくらい、何も話そうとはしない。相手が誰であれ、分け隔てないと言えばそれまでなのだが、真美に対しては、少なくとも付き合っている相手である。少しくらいは語ってもいいのではないだろうか。

 普段は静かでもいいのだが、肝心なことも口をつぐんでしまうと、今度は相手に対しての、何も信じられなくなってしまう。それを思うと、彼に対してどう接していけばいいのか、分からなくなってしまうのだった。

 それに一番気になったのは、彼があまりにも男っぽさがあることだった。

 女性が男を感じるのは、性的なものを含むのは当たり前のことだが、性的なものだけを見てしまうと、真美には気持ち悪さしか残らない。

「私は男性が嫌いなのかな?」

 と一瞬感じたほど、彼の雰囲気はあまりにも、男っぽかったのである。

 その人とは、自然消滅だった。最初から別れるとすれば、自然消滅しかないと思っていた。相手が彼以外であっても、最初に付き合った男性とは、自然消滅していたに違いないと思った。それだけ、真美も自分の気持ちを男の前で晒すことはしないからではないだろうか。

 逃げることが悪いことだとはあまり思っていない真美だったが、それは、相手が男だからであった。女性に対しては、そこまで感じない。ただ、今までに親しくなった友達はいるが、親友というのを作った経験がない。男同士で親友がありえるが、女同士での親友はありえないと思っている真美だったからだ。

 もちろん、男女の間での親友関係は、もっとありえないと思っている。親友という言葉は、高校時代まで、まったく自分にとって無縁だと思っていた。自分には、趣味ややりたいことがあれば、それだけでよかったと思っている。絵画は真美にとって、「やりたいこと」の一つに過ぎなかったのだ。

 真美は、勝則と出会って付き合い始めた時、彼に「オトコ」を感じなかったことが、付き合い始めたきっかけだった。

 性格的に、女好きではなく、ストイックに見えて、それでいて物静か。真美が付き合う男性には共通した特徴があった。

 だが、真美は相手を好きになって付き合うのではない。何か惹かれるものはあるが、

「男を感じるのか否か」

 で、決めているような気がする。

 見た目は男臭いが、性欲という意味ではストイックである。そのことをどこまで真美が理解していて、自分がそのうちに何かに目覚めるのを予感しているようだった。

 その何かは、想像の域を超えていた。ただ、後から思えば、

「他人のことなら分かるのに、自分のこととなると、なかなか分からないものだわ」

 と、思うことであった。

「この人とも自然消滅なのかしら?」

 真美は自分の将来、特に男性との将来に関しては、想像がつくようだった。きっと、想像通りの自然消滅であろう。それは自分が相手を嫌いにならないからで、なぜ嫌いにならないかというと、本気で好きになったわけではないからだ。

 そこまでは理解できているつもりだった。

――それなのに、どうして男性と付き合おうとするのだろう?

 それは男性と付き合うことで、今まで自分が分からなかった自分の中にある何かを引き出そうとしているからに違いない。

 真美は、その原因を、

「父親に育てられたからだ」

 と思っていた。

 父親に、男らしさを感じたことはなかった。人間臭い人だとは思っていたが、男らしさを感じることも、女好きの雰囲気も感じない。真美が好きになる男性がいるとしたら、それは、

「父親とは、似ても似つかない人」

 ということになるのではないだろうか。

 今さら、母親が恋しいなど思いもしないが、自分が女であることを、時々忘れることがある。

「お母さんのようになりたくない」

 というのが本音であるが、気付かない間に、母親に自分が似てきているのではないかという思いがしてくるのが怖かった。

 真美の母親は、元々ブティックを経営していた。店が傾き始めたことから、店を売却し、自分はスナックで働き始めた。

 最初は家のために健気に働いているのだと、母親に感心の念を抱いていたが、いつの間にか、男性と付き合い始めるようになってから、少しずつおかしくなっていったようだ。

 離婚してから付き合い始めているので、別に悪いことをしているわけではないのだが、娘としてはやりきれない気持ちだった。

 やはり、男と付き合っても、すぐに別れて、また誰かと知り合って、すぐに別れて、というのを繰り返していた。

 長続きしないのは、分かる気がした。自分の性格を顧みれば、母親の気持ちも分からなくはない。ただ、その気持ちで付き合えば、よくて自然消滅、悪ければ、泥仕合のような結末が待っているだろう。

 それでも真美は、母親が嫌いなわけではない。同じ女として同情すべきところもあるし、同調する感覚もある。ただ、年齢差は如何ともしがたく、どうしても受け入れられないところも多くあるので、

「お母さんのようになりたくない」

 という気持ちが強いのも当然であろう。

 真美は、最近、母親がほしいという感情もあった。父親が、優子と付き合っていることを知らなかった頃は、優子を見て、

「この人が母親だったら、もっと違った人生だったかも知れないな」

 と思った。

 母親とは似ても似つかない雰囲気に、まず父が優子と接点を持とうなど、想像もしていなかった。ただ、優子に対しての憧れのようなものが、真美の中には存在し、その思いが近い将来、まったく違った形で、真美に襲い掛かってくるとは、その時の真美に分かるはずもなかった。

 真美が、他の人との接点にこだわるのは、同じような性格である父の遺伝のように思えたが、そうではない。本当は、父のそんな性格を分かっていて、

「あんな風にはなりたくない」

 という気持ちを強く抱いてしまったことで、却って似て来てしまったのだ。まるでミイラ取りがミイラになってしまったかのようではないか。

 真美が、父親と優子が付き合っているのを知ったのは偶然だった。

 なかなか言い出す勇気を、松田は持てないでいたのは、この年になって恥かしいという思いが強かったからだ。

 人間、年を取ると子供に戻るという。五十歳近くになっても、会社にいても、新入社員の頃のような新鮮さがあったり、若い女性を見ると、ドキッとしてしまうこともあったりするくらいだった。

 新入社員の女の子たちは、娘よりも若いにも関わらず、娘を見るような感覚には、とてもなれない。五年くらい前であれば、娘を見る感覚で見ていたはずなのに、おかしなものである。

 ただ、どうしても話にはついていけない。電車の中でも、街を歩きながらでも携帯電話を弄っている姿を見ていると、その心境がどうしても分からないのだ。年を取ったという意識がないというだけで迂闊に話しかけると、結果として自分が年を取ってしまったことを自分からではなく、まわりから思い知らされるようになるのだった。

 それでも、まわりに若い連中を従えていると、ウキウキした気分になるのは、気持ちが若いからだと思っている。妄想に近いものであろうが、そのギャップが、娘に対しては、恥かしさとして残ってしまうのだった。

 優子の勤めている花屋に、毎日のように立ち寄っている。すでに仲良くなっているのだから、別に花屋による必要もないのだが、知り合うきっかけになった花屋に立ち寄ることは、自分の気持ちの原点を探るのと同じである。

 真美も、最近花屋に立ち寄る機会が多くなった。理由があるわけではない。ただ、花を見ていると気持ちが落ち着くのだ。その同じ思いを、父親の松田が感じているなど、真美も松田も想像もしていなかったのだ。

 もし、花屋で顔を合わせれば気まずい気持ちになるのは、当然松田の方である。

 真美は、自分が花屋に寄っていることを知られるのに、何の恥かしいことがあるわけもない。それなのに、真美が花屋に寄る時、何か緊張感が存在するのだ。花屋というお店に感じていることなのか、店員さんの中の誰かに感じていることなのか、分からない。花屋が精神的に余裕を与えてくれる場所だということは、真美にも十分に分かっている。まさか、ここで父親の影を見ることになるなど、想像できるはずなどないと思っていた真美は、自分が見ているのが、父親の背中であることに、一抹の寂しさを感じたのだった。

 優子の方では、松田と真美が親子であるなど、まったく予想もしていなかった。似ているところはあまりなく、真美は、どちらかというと母親似だったからである。

 ただ、性格的には父親似ではないだろうか。二人を知っている人は皆そういうだろう。だから、優子を父親の松田が引き取ることになった時、母親は別に異存はなかったのだ。

 真美は、松田と似ていると言われるのに、子供の頃は抵抗があった。中学の頃は、いつも父親に逆らっていたが、それは単に反抗期というだけではなく、父親に似ていると言われることに対しての苛立ちがあったからだ。

「本当に嫌いなものは、他の人が気にならないことでも、すぐ敏感に分かるものさ。だから好き嫌いの多い人は、何事に対しても敏感なのかも知れないな」

 と、言っていた人がいた。

「嫌いな食べ物は、どんなに他のものと混ぜて、気付かれないようにしようとしても、少しでも入っていれば絶対に分かるものさ。ごまかしは効かないということさ」

 匂いなのか、それとも、口当たりによるものなのか、口に入った瞬間に、嫌いなものが入っていれば、どんなに微量でも、ごまかすことはできない。それだけ嫌いなものに対して繊細な意識を持っていて、何よりも怯えがあるからに違いない。そういう意味では、怯えのない人生ほどつまらないものはないのかも知れない。

 怯えがないということは、感情に起伏がないのと同じことではないだろうか。感情に起伏がないと、喜怒哀楽を感じることもなく、何を目標に、そして楽しみに生きているのか分からない。

 楽しみがないと、きっと毎日がまったく同じにしか見えないだろう。

「今日は、昨日なのか、明日なのか、分からない。昨日が今日であり、明日である。繋がっているのは分かっても、何によって繋がっているのかなど、分かるはずもない」

 そう思うと、毎日同じ日を繰り返しているのではないかという錯覚に陥り、頻繁に同じ日を繰り返している夢を見てしまうのだ。

 そんな怖い夢を今までに何度見たことだろう。一番多く見たのは高校時代だったように思う。あの頃は、毎日が同じ繰り返しのように思っていたが、それはそれでよかった。規則正しい生活に思えたからだ。

 だが、それは同じ日を繰り返しているという具体的な思いではなく、もっと楽天的に感じたことだった。

 同じ日を繰り返すということは、日付が変わった瞬間に、二十四時間前に戻るということだ。戻った先は、前もって知っている世界である。要するに一日という単位ではあるが、「リピート」したのだ。

 戻った世界に、

「もう一人自分がいるのではないか?」

 という思いは浮かんでこない。

 本当であれば、最初の直感で気付くはずである。しかし一瞬で気付かなければ、永遠に気付くことはない。気付かないと、同じ日を繰り返しているという感覚に怖さまでは感じるのだが、

「もう一人の自分の存在」

 というものには、気付くことはない。

 優子は、毎日を繰り返す夢を見ながら、気が付けば、数日後に出ているのではないかと思うようになっていた。

 それは、時間を飛び越したという表現が一番ピッタリで、それ以外の表現は皆無に思えた。

 数日後の自分は、見失っていた自分の後ろ姿を捉えた瞬間だった。身体をしばし離れた感情が、ある日を数回繰り返し、何かを持って、再度数日を飛び越した。そんな感覚であった。

 もちろん、夢で見たものだが、夢という感情すらなかった高校時代で、ちょうど同じ頃、松田も似たような感覚に襲われていたことなど夢にも思っていないに違いない。

 その頃の松田は、自分の高校時代を思い出していたのだ。その時、同級生で、自分に似た性格の女の子がいたのを思い出した。

「私、同じ日を繰り返す夢を何度も見るの」

 と言っていた。まるで、高校時代の真美と同じ感覚だった。

 その女の子のことを好きだったことを、今さらながらに思い出した松田は、正直、その時付き合いたいということを、感じなかったことを後悔している。付き合うことができたかどうかは分からないが、もし付き合って結婚したとしても、真美が生まれてくるように思えたのだ。それほど、性格的に真美と、その女の子は似ていたのだ。

 真美を見ていると、自分も高校時代に戻ったような気がしてきたことが、今までに何度もあった。だが、真美は自分の娘である。しかも、もし真美が自分の娘ではなく、自分も年が似ていたら、果たして付き合いたいと思うだろうか?

 好きになりかかるかも知れないが、どうしても自分の中で、相容れない気持ちが生まれてくることに気が付いた。

「娘でよかった」

 それは、逆の意味でのホッとした気持ちである。本当に好きになりそうで怖い自分を、娘だからという理由で諦められたら、よかったと思うだろう。

 真美が自分の娘ではなく、新しく友達になった女の子だったとすれば、二人きりで話になると、きっとドキドキして何も言えなくなってしまうかも知れない。話しているうちに性格が似ていることに気付くだろうし、気付けば、何を話しても、すべて相手に気持ちを見抜かれそうな気分になり、何も言えなくなってしまう。

 攻めの姿勢に入ることができないと、守りに入った自分が、小さく見えてくる。どこから見ても全体を見ることができ、逃げ場のない箱庭の中で、もがいているかのようだ。

 将棋の布陣は、意味があって決まっている。最初に並べた形、それが一番隙のない形で、一手指すごとに、少しずつ隙が広がってくるのだという。隙を作りながら進んでいくのだから、攻めの姿勢がなければ、必ず防御できなくなる。

「攻めは最大の防御」

 という言葉も頷けるというものだ。

 真美が生まれた時、それまで自分が子供が嫌いだと思っていた松田は、これほど子供が好きになるなど思ってもみなかった。まるで別人になったかのようで、誰よりもそれは元女房が一番感じていたようだ。

 子供ができたことを喜んでくれるのだから、本当は喜ばしいことなのに、あまりの変わりように、少し怖くなったのも事実だったようだ。

 元女房は、普段は毅然としているが、急に気が弱くなることがあった。それが女性らしいところでもあり、可愛いところでもあったが、結婚してしまうと、その性格はマイナス面でしか影響していないようだった。

 怖くなると、まわりの雰囲気を一変させる。重苦しい空気が漂い始め、暗雲を立ち込めらせる。俄かに曇った空から、今にも雨が落ちてきそうな時、アスファルトから、雨の日特有の匂いが発せられる。その匂いが元女房にはあった。

「曇天に雨が似合う女」

 という湿った暗いイメージしか感じさせない時が時々あったのだ。

 真美には、そんなところはまったくなかった。それどころか、立ち込めてきた暗雲を、睨みつけて跳ね返そうとでもするところがあった。

「性格的には父親に似た」

 と言われるゆえんであり、両親が離婚して、どちらに着くかと言われて、

「お父さん」

 と即決できるゆえんであった。

 きっと、母親と二人では、息苦しいだけの生活でしかないだろう。もちろん、それは母親も同じことで、想像もつかない家庭になってしまいそうな気がした。

 両親が離婚したのは、真美が中学の頃、まだ一年生の頃だった。まだまだ子供の真美は、離婚の理由よりも、自分の好き嫌いで、どっちが悪いのか決めていた。そうなると、悪いのは母親だとしか思えなかった。

 母親への未練は、別になかったのに、中学二年生の時、

「もし、お父さんが誰か他の人と結婚したら、嫌かい?」

 と、聞かれたことがあった。今思えば、父としては、なるべく子供の気を遣って、言葉を選んでいたに違いないが、却って、子供には不信感を抱かせるに至った。

「どうしてそんなことを聞くの?」

「あ、いや、新しいお母さんができることになるんだけど、真美は嫌なのかな? と思ってね」

「何言ってるのよ。訳分からない。変なこと言わないで」

 と、取りつく島も与えなかった。

 それ以来、父親が、その話をすることはなかったが、しばらく父の背中を見るのが辛かった。どういういきさつだったのかも知れずに、ただ拒否しただけだったので、

「話くらい、聞いてあげればよかった」

 と、反省もしたが、あとの祭りだった。

 ただ、話を聞いたとしても、その場で喧嘩にならないという保証はない。下手をすると、しばらく口も利けないほどに、険悪なムードになってしまったかも知れないと思うと、とりあえずは、それでよかったと思うしかなかった。

 中学二年生から三年生に掛けての頃は、かなり精神的に不安定で、意味もなく、イライラしてしまっている時期もあった。運悪くそんな時期だったらいけないと、父もかなり気を遣ってくれていたのは、本当は分かっていたのだ。

 分かっていても、精神的にはどうにもならない。毎日を同じような気持ちで過ごすことなど到底できない時期。家にいるだけならいいが、学校にいけば、まわり皆が精神的に不安定さを抱えている人ばかりなのだ。自分だけでどうにかなるものでもないのが、この時期であった。学校の先生は、さぞかし、やりにくかったに違いない。

「あの時、もし父に再婚の話をされたら、絶対に断っていたかも知れないな」

 そして、父親は二度と再婚を口にしないようにしないといけないと思ったに違いない。高校生になって絵画を始めてからの真美は、少し人間的にも精神的に余裕ができていた。中学時代に思っていた苛立ちはなくなり、父親に対しても、再婚したければ、別に反対することはしないと思った。

「父は父、私は私」

 だと思っていたからだ。

 だが、それは父親の本当の意志に逆らうことになる。父は真美を含めたところでの新しい家庭なくして、再婚はありえないと思っていたからだ。

 真美がそのことに気付いたのは、短大を卒業してからだった。就職して今で三年目。二年目あたりから、少しずつ精神的に落ち着いてくると、それまで見えていなかったことがどんどん見えてくるようになっていた。

 それまで見えていなかったのが、ウソのようである。

「こんなにクッキリと見えているのに、どうして、学生時代までは見えていなかったんだろう?」

 確かに社会人になると、精神的な面での余裕をハッキリと感じることができるようになった。学生時代に不安定だった気持ちが瓦解していくようで、真美の中で、父親との日々が、立場的にも少し近づいた気がして、一緒に話をしてみたいと思うことが多くなった。それまでの目線がまったく違っているのである。

 下から見上げていた視線が、今度は対等に近いところから見ることができる。眩しくて浮かんでくるシルエットでは、表情が分からないので、口元が歪んだような気がすると、気持ち悪さだけが残ってしまう。対等に近い目線だと、表情がハッキリ見えて、怖いという感覚はなくなっていく。

 父親が再婚をしたいと言い出すのを待っている気がしてきた。それは、中学の時に父に感じてしまった後ろめたさが、そのまま自分の中でのトラウマになってしまっていることで、再度同じシチュエーションがなければ、元に戻すことができないと思うからだ。

「今度こそ、お父さんには幸せになってもらいたい」

 という娘らしいしおらしさを、自分の胸に秘め、父に似合う再婚相手が見つかることを祈っていた。

 父が結婚相談所に登録していることは知っていた。最初、松田は隠そうとしていたが、そういうことは意外とバレるもので、

「すまない。本当はお前に言わなければいけなかったんだが」

 と、謝ってくれたが、真美に言えないのも無理のないことだった。

「いいのよ。お父さんが、ちゃんと幸せになってくれれば、私は嬉しいんだからね」

 二十二歳にはなっているが、親から見れば、まだまだ子供、自分の再婚には、娘の賛成は不可欠だと思っていた。

 ただ、二十二歳という年齢は、大人ではあるが、特に女性は、一番寂しい年齢ではないかと松田は思っていた。高校時代の同級生が大学を卒業して入社してくる。そんな時期に精神的に取り残された気分になるように思えてならなかったのだ。

 取り残されるというのは、語弊があるかも知れない。まわりにばかり目が行ってしまって、自分のことを顧みると、その時に寂しさを感じるのだろう。

 真美は、友達と話していて、

「彼氏がいても、このくらいの年齢の女は、寂しくなることがあるのよ」

 と言っていた。彼女には彼氏がいるが、いない人から見れば、皮肉にしか聞こえないと思うことでも、真美にはどこか納得いくところがあったのだ。

「寂しいというよりも、臆病なのかも知れないわね。誰か支えてくれる人がいても、どうしても不安な気持ちが抜けないのよ。それが以前から知っている人であればあるほど、不安に感じるの。やっぱり、自分だけが取り残されている気持ちになるからなのかも知れないわ」

 と、言っていた。真美はその言葉を噛み締めるように聞いていたが、自分に置き換えてみると、少し違っている気がしたのである。

 真美にとって就職した時と、二十歳になった時のどちらが大人になった気がしたかというと、正直、二十歳になった時だった。就職には覚悟があったが、二十歳になる時、これといった意識を最初から持っていたわけではなかったからだ。

 それなのに、二十歳になった時に意識したのは、まわりの人を意識して見たからなのかも知れない。

 真美は、父親が優子を意識しているなど、まったく知らなかったが、真美自身も、優子に興味があった。

 今までの友達とは、どこか違ったところがある。年齢は相当離れているのに、年齢差を感じさせない会話に、真美は陶酔していたと言っていいかも知れない。

 真美は優子から、時々食事に誘われた。断る理由などあるわけもなく、当然のごとくついていく。こんなに嬉しいことはないと有頂天になりながら、いつも食事の時にしてくれる話が面白いと思って聞いていた。

 食事は、パスタが多かった。

 馴染みのお店も何軒かあるようで、ワインにパスタ、ピザと言った今まであまり食べたことのないものを新鮮な気分で食べていた。

「じゃあ、真美ちゃんは、あまりパスタやワインは食したことがないのね?」

 と言ってニコニコ笑っていた。学生時代に芸術に親しんでいたので、少しは欧州かぶれでもいいのかも知れないが、あまりミーハーにはなりたくないという気持ちもあり、自分の中で避けていたところがあったのだ。

 だが、優子の話は、真美が知らない昭和の話が多かった。昭和でも、かなり前の話で、「お父さんなら分かるんだろうな」

 というような話が多かった。

 ただ、真美には、その時代への興味はあった。テレビドラマでたまに昭和の話が出てくるが、興味を持っていつも見ていた。父親が生きた時代と、今の自分の時代。無意識にでも、その二つを比較しながら見ているのが、楽しかったのだ。

 真美は、優子の本当の年齢を知らない。と言っても、二十二歳の小娘から見れば、三十代も四十代も、かなり年上というイメージしか湧いてこないのだ。年齢をあまり口にしないことで、真美が気を遣っていることに気付いたのか、

「三十代は早く過ぎたわね。でも、四十代はもっと早いかも知れないわよ」

 と、漠然としてだが話をしてくれたことで、少なくとも四十歳は過ぎているのは、間違いないようだ。

「私は、今までにあまり年上の人と話をしたことがないんですよ」

「どうしてなの?」

「私が中学に上がる頃に、両親が離婚したからかも知れないですね」

「それがどうして?」

「私は、父に引き取られて、父親に育てられたからですね」

 と言った時、一瞬、優子の脳裏に松田の顔が浮かんだが、

「まさか、そんな偶然あるわけないわ」

 と、頭に浮かんだことを打ち消し、

「私の周りには、男性が子供を引き取る人が多いってことなのかも知れないわね」

 という解釈をしたのだった。

 その時に優子が真美に対して、自分が母親になったような錯覚を覚えたが、同時に、まったく別の意識を持ったことも分かっていた。それは真美にとって人生を狂わせる危険なものであったのだが、その時は、夢にも思わなかった。実際に、優子も意識はしていたが、まだ煮詰まった意識ではなかった。

「優子さんは、結婚しないんですか?」

 真美は、失礼にあたるのは承知の上で聞いてみた。女性から見て魅力を感じる女性が、結婚していないということに、興味というよりも、他人事ではないような気がしてきたからだった。

 優子は、表情を変えることもなく、淡々と話し始めた。

「そうね。どうして結婚しないのかって言われたら困るかも知れないわね。他の人なら、いい人が現れないとか、仕事が楽しくて、婚期を逃したとかいうんだろうけど、私の場合は少し違うのよ。きっと真美ちゃんにもそのうちに分かる時が来るわ」

 と、ここまでいうと、今までの無表情に、何とも言えない表情が浮かんだ。

 それは笑みにも見えるが、何かを含んだ笑みである。意味深に思えてくるのも、複雑な心境だった。

 今の言葉が現実味を帯びてくる頃には、真美はすでに自分が変わっていくことに気付いて、そんな心境になるだろう。想像もつかなかったが、嫌な予感だけはしていた。

「私は、まだ結婚は考えられないと思っているんだけど、まわりには、結婚を焦っている人もいて、結婚ってそんなにいいものなのかな? って感じるんですよ」

 真美が、優子の何を気にしているのか、自分でも分かりかねていた。

――何か分からないけど、どうしても気になってしまう相手――

 それが優子であった。

 優子はそんな真美を、これまた「漠然とした笑み」で見つめるだけだった。

 どこにでもいるような一般的な笑みである。そのせいで、何を考えているのかが分からない。真美は、そんな優子を見ながら、自分のことを優子も気にしていることを、次第に悟ようになってきた。ただ、そのことが自分にとっていいことなのか、それとも悪いことなのか、その時の真美には、まだそのことの重大さに気づくすべがなかったのであった……。


 真美は、優子という女性が、女の目から見て、本当に理想の女性ではないかと思うほどに感じられた。それなのに、結婚しないという。これから結婚を考えていこうと思っている真美にとっては、優子が結婚しない理由が気になって仕方がなかった、

 優子に聞いてもお茶を濁した回答しかしてもらえない。

「好きになっても、最後にはいつも相手からフラれるのよ」

 これは、本当は優子の本心だったのだが、真美には信じられない。優子を好きになる男性がたくさんいるのは分かるのだが、そのほとんどすべてが、優子を最後にフッてしまうなど、信じられることではなかった。

 確かに中には、女性を相手にする時と、男性を前にしている時とで態度がコロッと変わってしまう人もいるが、優子にはそんな雰囲気は感じさせない。男女、分け隔てなく付き合って行ける相手だと思っている。ただ、それが表と裏を持っていて、裏では何か違う優子を、付き合っている人だけが見てしまい、そのまま付き合っていくことができなくなってしまう状況を想像してみた。

――どうして、こんな想像ができるのかしら?

 理由や実際のやりとりを想像することはできないが、漠然と状況を想像することだけはできた。状況だけでも想像することができたということは、優子の中に、真美には本能で感じるものがあり、表現するまでには至らない雰囲気を垣間見ることができているように思えるのだった。

 真美は、学生時代に描いていた絵で、人物画を描く時の被写体は、必ず女性だった。男性を描くことは自分にはできないと思っていたからで、男性の微妙な身体つきの違いを、未熟な自分では描けないと思っていた。

 だが、それは間違いだった。描けないのではなく、描きたくないのだ。

 心の中では否定しているのだが、男性を、

「汚らしいもの」

 というイメージで見ていた。美学からはかけ離れていて、まるで野蛮な下等動物のようだとも思っていたのだ。

 男性と付き合っても、身体を許すようなことは絶対にしなかった。誰も信じてくれないだろうが、真美は処女だったのだ。

 まるで自分を、マリヤ様にでもなったかのようにイメージしている。真美の悩みはそれだけ大きいのだ。

 では、なぜそこまで男性を毛嫌いするようになったのか?

 それは父親を見ているからなのかも知れない。

 父親だけに育てられたことで、父親に対して、相手を男性としての意識にマヒしていたところがあった。極端な話、裸で一緒にその場に立っていても、父親だからとして、男であることを感じないだろうと思っていた。

 父親の松田も同じで、娘に対して、女を感じることなどないと思っていたのだろう。

 真美が高校生の頃、夏の暑い日、父親は無防備の生まれたままの格好で、脱衣場にいたのを、真美は知らなくて入ったことがあった。風呂から上がって、少しのぼせたのか、父は裸のまま、ボーっとして佇んでいたのだ。

「お父さん、着替え、ここに置くね」

 と言って、脱衣場の扉を開いた真美は、やはり男として感じられないと思った父親の裸を見ても、最初は何も感じなかったのである、

 だが、父親もボーっとしながら、

「おお、ありがとう」

 と、平然と答えていたつもりだったのに、身体が反応していた。

 大きくなった男性自身を、真美は目の当たりにしてしまったのである。

 その時、顔がカッと熱くなっていくのを感じた。どうしていいのか分からずに、そのまま佇んでいると、先に父親が我に返り、身体を反転させて、見られないようにした。その態度がさらに真美の気持ちを刺激した。

――どうして? どうして、隠さなきゃいけないの? 親子でしょう?

 と、言いたい言葉を飲み込んだ。

 そのまま、ぎこちない時間がどれほど続いたのか分からないが、真美は、その時から、男性恐怖症になってしまったのだ。

 父も、気まずいと思いながらも、

――すぐに、気持ちも晴れるだろう――

 と、簡単にタカをくくっていたが、実際には、そんな簡単なものではなかった。

 真美は、それから、男性を意識しなくなり、いや、できなくなったと言った方がいいだろう、まともに男性の顔を見ることができなくなったが。元々が男性を意識していなかった真美なので、彼女の微妙な変化に気付いた人はいたかも知れないが、心の奥底まで見通せる人など、いるはずもなかった。

「もしいるとしたら、優子さんだけかも知れないわ」

 優子のどこに、それだけのものがあるのか、根拠もないのに、そう思えてきた真美は、自分が父親に対して持っている感情と、男に持っていた感情が、今まで違っていたはずなのに、今は同じものであった。どちらも、

――低俗な動物――

 とまで思えてきたから不思議だった。

 真美の男性恐怖症を知っている人は、誰もいないだろう。男性恐怖症なのに、どうして勝則と付き合っているかというと、真美とすれば、

「男性恐怖症のカモフラージュ」

 だったからだ。男性恐怖症を人に知られたくもないし、ましてや父親にも知られたくはない。

 父親が元凶なのに、どうして父親に知られたくないと思うのか、それはいい意味ではなく悪い意味で感じるからである。

 もし、自分が男性恐怖症だと知ると、きっと、何とかしてあげようとするに違いない。それは自分が元凶であるという意識がないからだ。意識があれば、何とかしてあげようとは思わずに、少し距離を置こうとするに違いない。同じ家に住んでいて、その置かれた距離も、真美には耐えがたいものがあった。別に父親が悪いことをしているわけではないので、真美とすれば、いたたまれない気分になるのだった。

 勝則を彼氏に選んだのは、自分と同じような性格であるということが分かったのと、彼には女性に手を出すことのできない理由があるのを分かっていたからだった。

 彼も女性恐怖症を持っているようだ。そのことを最初に彼から聞かされた。そして、自分からは告白できたのに、相手も何か訳アリだと分かっているはずなのに、それを聞こうとはしない。

 聞いてしまうと、さらに自分が惨めになってくるからなのかも知れないが、それなりに想像はできる。まわりから見れば普通のカップルなのだが、内情はまったく違ったものになっているのだ。

 真美は、優子が気になって仕方がなくなったのは、結婚しない理由がハッキリ分からなかったからだ。男性に対して、ぎこちなさもなく、普通に接している。普通に接しているつもりでも、どこかぎこちなさを自分自身で感じる真美とは、明らかに違っているのに、なぜ、結婚しないのだろう?

 聞けばお付き合いしている人はいるという。さらに、今までにも何人もの男性と付き合ってきたにもかかわらず、結婚していない。最後に、相手からフラれることばかりだというが、本当だろうか?

 そんな疑問を抱いている中で、ある日、父親から、再婚をしたいという話を聞かされた。

「別にいいんじゃないの? 私には関係のないことだから」

 突き放したような言い方だが、実際に言葉通りなのだから、他人事のような言い方でも悪くはないだろう。それでも、父の顔を見ていると、どこか寂しそうな顔になっているのを感じると、

「どんな人なの?」

 と、助け舟を出してしまう。

「真美なら、きっと気に入ってくれると思うんだ。見た目は年齢よりもずっと若いので、まるでお姉さんのような感じで話ができるかも知れないと思ってね」

「えっ?」

 真美は、優子を思い浮かべた。その頃には、優子の年齢を知っていたからである。しかも優子は、お付き合いしている人がいると言っていたが、まさか、それが自分の父親だというのか? 偶然にしては、あまりにもではないか。

 話を聞いていくうちに、どうやら優子ではないかという想像が、現実のものになってきたようだ。

「彼女は花屋の店員で……」

 と、いうところからは、もう、間違いのないところまで来ていたのだ。

 真美は父の話を黙って聞いていた。父にとって真美は、よき理解者だと思っていたので、気に入ってくれるものだと思って、疑うことはなかった。だが、まさか、二人が知り合いなどと思ってもみなかったので、真美が何にそんなに驚いているのか分かるはずもない。まるでハトが豆鉄砲を食らったかのような娘の顔を、初めて見たようだ。

 真美が、高校時代に、

「私、花屋の店員さんになってもいいかな?」

 と言っていたことがあった。

 その時には、絵の才能をまわりが認め始めていた頃で、少しずつ真美の存在がまわりに知れ渡っていた頃だった。

「どうして、花屋なんだい?」

「私は絵が好きでしょう? でも、プロになるとか、絵で食べていくって気はしないの。好きなように描いていければいいんだけど、お花屋さんなら、店番をしながら、お花の絵を描いていられるような気がして、そんな生活を夢見ているところなのよ」

 実際には、花屋の店員が、絵を描きながらできるほど、楽なものではないだろうと思って見ても、

「花に囲まれて、絵を描くことができれば、どんなにいいことだろう」

 という想像をすることは、別に悪いことではない。

 駅前には前から花屋があったのは知っていたが、なぜ今まで立ち寄らなかったのかが、一度立ち寄ってしまうと、普通にコンビニにでも立ち寄るかのような気軽さが生まれてくる。

 絵を描いている頃の真美は、花屋さんの前を通ると、どうしても、被写体としてしか見ることができなかった。花を普通に、観賞用として見ることができないのではないかという危惧が、真美にあったからなのかも知れない。

 被写体としての花は、色彩を中心に、どうしても見てしまうので、バランスが取れている花を、さらにいかに自分の中にあるバランス感覚に置き換えようかという、余計な感覚が邪魔をして、目の前にある花の本当の姿が、見えなくなってしまうのではないかということが怖いのだった。

 花についての知識は、さほどなかった。絵を描いている時は、被写体になる花くらいは分かっているつもりだったが、花屋さんになりたいと思うほどの知識は持っていなかった。勉強すればいいのだろうが、本を読もうという気にもなれず、ただ、花を見つめているだけのイメージを自分自身の中で持ったのだった。

 そういえば、小学生の頃から、理科の授業はあまり好きではなかった。それなのに、花を好きになるというのもおかしなものだが、考えてみれば、芸術に興味を持ち始めたのは中学の頃からなのに、小学生の頃は、図工が嫌いな授業の一つだったというのも、おかしな因縁である。

 花屋さんの店員になりたいという気持ちを持っていた時期は、本当に短い間だけで、そんなことを思っていたということすら、最近まで忘れていた。だから、駅前に花屋があるのは知っていたが、意識したこともなかったし、花屋に優子がいなければ、そのままずっと意識することもなく、過ごしていたことだろう。

 真美は花屋の店員を諦めていたが、花屋に優子を見つけてから、また、花の絵を描いてみたいという思いに駆られた。

 優子のお店から、一鉢の花を買ってきて、今部屋に飾っているが、部屋で花を見ながら、デッサンしている。イラストのようなものだが、同じ花を、少しずつ角度を変えて描いてみると、不思議なことに、大きさや色までもが違った花に見えてきた。出来上がった絵も、それぞれ雰囲気が違い、一枚一枚に甲乙つけがたい雰囲気があったのだ。

 優子の部屋には、出窓がついているので、日が差す時間帯、夜、蛍光灯の光で見えている時間帯。角度というだけでなく、時間帯によっても、様々な顔を持つ花は、まるで意志を持って、自分に語り掛けてくるかのようだと、真美は感じていた。

 真っ赤な花は、最初、部屋に映えるものだと思っていたが、明るい時には、真っ赤が違う色に感じられる。赤い色に光が当たっただけの色ではなく、プラスアルファの色を作り出しているように思う。

「赤という色の本質は、暗い場所で目立つということではないかな?」

 と、絵画の先生が話していたが、まさにその通りなのかも知れない。

「私の部屋は、女性だけしか、今までに入ったことがないのよ」

 と、優子は言っていたが、その割りには、少し殺風景な気がした。確かに年齢的には母親くらいの年齢なので、質素なのは分かるが、独身で、しかも花屋さんの店員というと、もう少し色調も明るい部屋なのかと思っていた。雰囲気としては紫が基調になっているようで、妖艶ささえ感じさせられて、少し優子に対してのイメージが変わった気がした。だが、そのイメージの変化に何も感じなかった真美は、まだ、優子のことを、ほとんど何も知らなかったのだということに気付いていなかったのである。

 殺風景ではあったが、いくつか絵が飾られていた。その絵を見ていると、どこかで見たことのあるような絵に思えてならなかったが、それは、景色に見覚えがあったからだ。

 描かれている景色は、どこかの山小屋のようだが、それと似た絵を自分でも描いたことがあった。

 実際に現地で描いたわけではなく、写真を見て描いたのだが、それは絵を描けるようになるために本屋で買ってきた風景写真を手本に描いたものだった。

「以前にも見たことがあるような気がする」

 いわゆるデジャブ現象であるが、どこで見たのか思い出せない。その思いを今、一瞬感じたことで、逆にその風景を自分で描いたのを思い出したのだった。

 優子が結婚相談所に登録していることは知っていたが、結婚相談所で紹介された人と、一度も付き合ったことがないという。

――ということは、お父さんとは、結婚相談所で知り合ったんじゃないんだ――

 と思ったが、二人の出会いに結婚相談所が関わっていないことが分かっただけでも、よかったと思っている。結婚相談所が悪いというわけではないが、知り合うシチュエーションは、やはり花屋であってほしいと思うからだった。

「お父さんが再婚したいと思っている人に会ってもらいたいんだ」

 と、父親に言われた時、真美は、ドキッとしてしまった。

 優子とどのように向き合えばいいのかということと、今後の父親と、どのように接すればいいのかを、考えあぐねている。特に父親との関係が、少しでもぎこちなくなることは、真美にとって、少しでは済まされない気がしていた。ただ、親子の間でのこと、すぐにほとぼりが冷めるのは分かっていたが、今まで自分に向いていた目が、優子に向いてしまうのは、少し寂しい気がする。

「私も子供じゃないんだから」

 とは、思うのだが、軽いとはいえ、男性恐怖症なところがある真美には、優子の存在が、なくてはならない存在になってしまっていることで、父親に天秤に掛けられるような真似は、されたくなかった。

 父親が、真美に再婚したいという意思を伝えてから、二週間ほどしてから、真美と会う段取りをつけてくれた。

――真美さんはどんな顔をするだろう? さぞかし驚いた表情をするのだろうか? それとも、優しそうな表情で、出迎えてくれるだろうか?

 それによって、真美の表情も変わってくる。笑顔を見せるにしても、引きつった表情なのか、自然に笑顔が出てくるものなのか、想像しただけで、胸の鼓動が聞こえてきそうだった。

 父が選んだレストランは、以前、二人で出かけたところだった。

「ここは、真美と初めて二人で来たレストランなので、今後は、真美と二人きりになりたいと気だけ利用するようにしようかな?」

 と言っていたが、それから十年近く過ぎたが、ここに来るのは、これで四度目になる。数年に一度、忘れた頃に父が連れてきてくれる。ステーキのおいしい店をして有名で、予約をしておかないと、いつも満席で、入ることができない。

「前に来た時は、真美の就職祝いだったな」

 そう、父親とここに来る時は、すべて、真美の記念日だった。その前は短大入学の記念だった。今回初めて、父親の記念日になるかも知れない日になったのだ。

 しかも、今回は二人きりではない。

「二人だけの場所だと言っていたんじゃなかったかしら?」

 真美は皮肉を込めて言った。

「そうだよ。今でもここは二人きりの場所だと思っているよ。でも真美に彼女を会わせる場所としては、ここしか思い浮かばなかったのさ。真美もそう思っているなら、どうして、他の場所にしようと、最初から言わなかったんだい?」

 それを言われると、真美は返事に困った。相手が優子であることが分かっているので、彼女であれば、この場所に連れてきてもいいと思った。他の女性であれば、きっと断ったに違いない。

 そんな真美の気持ちを、父親は察しているはずだ。それなのに、敢えてここを選んだということは、これから親子になるであろう相手に、最初から、

「家族が二人から、三人に増えるんだよ」

 ということを、意識させようと考えていたに違いない。

 相手というのは、真美であり、優子である。優子に対しても、父のことだから、この場所が、今までは親子二人の場所だったということを知らしめる必要があったのではないかと思うのだ。

――どんな顔をすればいいのだろう?

 優子が驚くイメージはなかった。あくまでも真美が想像する中ではあったが、少々のことでは、物動じをしない性格でなければ、真美が気に入る相手ではないと、どうしても自分の物差しで、尺度を図ってしまう。

 そうなれば、真美も、敢えて驚く必要もないだろう。何もかも分かっていたかのような表情を、優子が本当にできるかどうか、真美には興味があった。

 少し早目に出向いていたので、まだ、優子は来ていなかった。約束の時間をほとんどたがわずに現れた優子は、颯爽と歩いてくるように見えたのだった。

 やはり優子は、真美の方をチラッと見て、一瞬目を見開いたかのように思えたが、それを感じることができるのは、最初から想像していた真美だけだろう。楽しみに待っていた父には、そんな素振りはまったく感じさせず、二人を引き合わせたことで、不安に思っていたことが解消されることを信じて疑わない表情の父親は、実にめでたい人間に見えたのだ。

 父親は、真美を意識しながら、なるべく普段二人きりで話をしているような雰囲気で話をしていた。二人ともを知っているのは父親だけなので、当然仕切るのも父親の仕事だった。

 優子の知っていることで、差し障りのないところを父親は話をしていたが、

「そんなことは、全部知っているわよ」

 と、言いたげな表情の真美は、父親に対して、してやったりの気分だった。優子も真美のそんな気持ちが分かっているのか、父親の子供っぽさに付き合ってあげているという気持ちで、目を合わせて、微笑み返していた。

 その時の父親の気持ちが一番分かるのは、優子だったのだろう。

 優子は、三十歳代の頃、自分が大人になりきれていないということで悩んでいた。

 記憶も、学生時代のものが一番近く、最近のことであっても、学生時代から続いている記憶でない限りは、学生時代よりも昔の感覚に陥ってしまうのだ。

 その感覚は、実は父親にあったものだった。

 真美が父親のその性格に気付いたのは、真美が二十歳を超えてからだった。二十歳を超えると、大人になったような感覚になったが、学生時代の友達と話している時が、本当の自分を見つけることができると感じた時、二十歳を超えても、大人との分岐点に差が生じるのは仕方がないかという話も出ている。

 子供の頃を思い出してみると、自分の理想の女性のタイプは、実は娘の真美だったような気がする。娘だからどうしても贔屓目に見てしまうが、逆に、意識してはいけないという思いから真美を見てしまうことで、自己嫌悪に陥ってしまうこともあった。 

 自己嫌悪は、罪悪感を引き起こす。人に知られたくないという思いから、まわりに対してぎこちなくなるが、目を逸らしてしまうほどの罪悪感は、他に経験のないものだった。

 再婚を考えた一つの理由は、自己嫌悪から逃れるには、娘とは違った人を好きになることであった。

 同じタイプの人ではダメだった。どうしてもその人の後ろに娘の影が見え隠れしてしまい、自分を制御できなくなってしまいそうだったからだ。

 真美は、元女房とは似ても似つかない雰囲気で、いつもおどおどして、自分に自信がなさそうな態度を取っていた女房とは正反対で、まるで竹を割ったような性格に、決断力の早さが、男女分け隔てなく、頼りがいのある人と、言わしめる女性であった。

「誰に似たのだろう?」

 松田は、自分に似たとは思えなかった。確かに会社では部長職についていて、仕事上ではそれなりの判断力は持っているつもりだが、それも今までの経験から身についたもので、持って生まれたものとは違っていた。

 だからこそ、いつもおどおどしているような女房に惹かれたのかも知れない。若い頃は、自分に自信がなかったくせに、自分よりも実力が上だと思う人とは、なかなか付き合うことをしなかった。

 付き合っている頃、女房に対しては、絶対的な立場を持っていて、そのことに有頂天になっていた。

「この人以外とは、付き合うことなど、僕にはもうできない。なぜなら、他の人相手だと、こんなに有頂天にはなれないからだ」

 と思っていたのだ。

 ただ、他の人から見れば、どこか茶番に見えていたようだ。

 ハッキリと口に出して言われたことはなかったが、

「二人だけの世界を作って、誰も入り込めない。バリアを張っているつもりなのかも知れないけど、ちょっと環境が変わってしまうと溶けてしまうオブラートに包まれているだけなのだ」

 と、言われているようだった。

 オブラートは、透けて向こうが見えている。自分が張っているつもりのバリアも同じである。決定的な違いは、オブラートは、溶けてしまうということだ。必要がなくなると溶けてしまって、その存在を知られずに済むという意味で、一時的なカモフラージュにはちょうどいいのだが、肝心な時に溶けてしまっていたことに気付かないという点で、完全に諸刃の剣だと言えるであろう。

 いつもおどおどしている妻を見ていると、付き合っている時は、可愛げがあって、しかも自分にだけ従順な人であることを、まわりに対してバリアを張っていることなど、思いもよらなかった。

 二人だけの世界を意識的に作り上げ、出来上がった世界を、松田にだけ見せることで、二人だけの世界と、表の世界とのギャップを感じさせないように、女房は操作していたのかも知れない。

「いや、そんなことはない、俺の考えすぎなんだ」

 と、松田は自分に言い聞かせる。

 女房の性格は分かっているつもりでいたが、自分に対してだけ作られた性格だなどと思いもしなかった。人によって性格を変えることができるとしても、必ず、どこかで歪みが生まれることは、松田にも分かっていることだった。

 離婚にしてもそうだったが、考えてみれば、最初から最後まで、女房のやり方に振り回された。女房が離婚を考えていることを知った時には、すでに取り返しのつかないところまで来ていたのだ。

 それが女性の性格だと言えばそれまでだが、態度に出した時には、すでにすべてを決意した後で、何を言っても、覆るものではなかった。女性の側からすれば、揺らぐ可能性を残して、別れを切り出すことは、覆る可能性を少なからずに残していることになり、後ろ向きになってしまうことを意味している。すでに決心したことで、再度苦しめられるのは、勘弁してほしいという気持ちなのだろう。

 しかし、男からすれば、それは卑怯ではないかと思えてくる。いや、男だからというよりも、

「何があっても、二人は一緒」

 という思いで結婚したのであれば、この仕打ちは、完全に裏切り行為だ。

 だが、相手からすれば、

「その原因を作ったのは、あなたでしょう?」

 と言いたいのだろうが、

「じゃあ、どうして、ここに至るまでに相談してくれなかったんだ?」

 と、当然のごとく、言いたい、

「だって、あなたに相談できる雰囲気がなかったんですもの。もう少しでも、私の方を見てくれたら、私だって、相談したわよ」

 というだろう。

 そうなれば、言い返すことは、難しくなる。なぜなら、ここから先は、すべての言葉が後手に回ってしまって、言い訳にしか聞こえなくなるからである。

 言い訳は、アリ地獄の様相を呈してくる。言い訳を一度でもしてしまえば、相手はいくらでも責める言葉を持っていることだろう。こちらは、言い訳を言い訳ではないようにしようと、さらに言葉を進めると、それは言い訳の積み重ねになってしまう。

「ウソを隠すには、九十九の本当の中に隠せばいい」

 と言われるが、それをウソの中に隠そうとすると、何が本当で何がウソなのか、自分でも分からなくなってしまうからではないだろうか。

 夫婦間の言い訳は、許される言い訳と、許されない言い訳に明確に別れているような気がする。ひょっとすると、夫婦間のみならず、男女の関係では、すべてが言い訳の中に成立しているのかも知れない。それが許されるものなのか、許されないものなのかの違いで、表れる結果がハッキリとしてくる。

「世の中はしょせん、男と女」

 そんなフレーズを聞いたことがあるが、それが、恋人同士、夫婦関係、親子関係、それぞれで立場が違えば、言い訳の度合いも違う。

「一体、俺はどれだけの言い訳をしてきたというのだろう?」

 まるで言い訳で固めてきた人生を歩んでいるようで、思わず苦笑いをしてしまった。松田くらいの年齢になると、苦笑いも味があるようにまわりから見られるようだ。

 松田が、簡単に自己紹介と、娘のことを話した後、優子が意外なことを話し始めた。

「私は、実は以前から、真美ちゃんのことを知っていたんですよ」

 別に隠すつもりはなかったが、何を言い出すのかと思っていたが、どうやら、優子の話そうとしていることは、真美の思っていることと違っているようだ。

 優子は続ける。

「私は、以前、喫茶店でウエイトレスをしていたんですけど、その時に、真美ちゃんを見かけているんですよ」

 真美にとっては意外だった。だが、優子の口にした喫茶店の名前は確かの高校時代、友達と何度か行ったことのある喫茶店だった。その場所は、真美にとって、忘れかけていた場所だったが、楽しい思い出など、ほとんど持っていない真美にとって、その喫茶店で、友達と過ごすひと時は、楽しいと思える数少ない機会であった。

 その頃の自分を知ってくれているのは、真美にとっては嬉しかった。ただ、楽しいと思っている中にも、どこか訳ありな表情をしていたはずである。優子にそれが分かっているかどうか定かではないが、中途半端に落ち込んでいる時よりも、いわくありげな表情をどのように見ていたのか、少し気になるところでもあった。

 それよりも、それならどうして、花屋さんで知り合った時に、そのことを話してくれなかったのだろう?

――どうして、このタイミングなのかしら?

 と、疑問は膨らむばかりだ。

――まさか、私とお父さんが親子だということを、分かっていたのかしら?

 もし、分かっていたのだとすれば、それが最初からなのか、それとも、途中からなのか、どちらなのであろう?

 優子の一言によって、いろいろなことが想像できる。真美の頭はフル回転していた。

 松田と真美が親子であることが分かっていたとすれば、松田と知り合ったこと、そして、真美と知り合ったこと、どちらも偶然では片づけられない。どちらも作為があったとは考えにくいが、どちらかに作為があったとすれば、それは父と知り合ったことなのか、それとも、娘と知り合ったことなのだろうか?

「お父さんと、優子さんはどうやって知り合ったの?」

 これに対しては、先ほど父が話してくれたのだが、真美は、同じことを優子にも聞きたかった。

「どうやって知り合ったかというのは、さっきお父さんが話した通りで、私のお店にお父さんが来られて、それから話をするようになって……」

 表情だけを見ていれば、その言葉に偽りはなく、深読みするだけの余地もなさそうだ。父親が、結婚相談所に登録していることは知っていたし、再婚を考えていたことも分かっていたが、娘から見ていて、さほどパッとしない中年サラリーマンの悲哀を引きずっているような父を好きになるような雰囲気には見えなかったからだ。

「では、優子さんは、父のどこに惹かれたんですか?」

 初対面ではないとはいえ、ズバズバ聞いている自分が、真美は不思議だった。心の奥では、聞くことの怖さを感じているのに、まるで喧嘩腰の挑戦状を叩きつけているような自分に対して、

――一体どうしちゃったんだろう?

 と思うのだった。

 優子を尊敬しかかっていたはずなのに、この挑戦的な感覚は、誰かに対して嫉妬しているように思えた。

――誰に嫉妬などするの?

 父親を取られてしまう娘の気持ちという構図であれば分からなくはないが、そんな雰囲気では決してない。それでは、せっかく友達になった真美との関係が、義理とはいえ、母娘になってしまうことへの抵抗があるのだろうか?

 母娘になったとしても、義理である。却って他の人に義理の母親になられるよりも優子になってもらう方がよっぽどいいではないか。

 優子の表情は、普段と変わらずニコニコしている。それは気持ちに余裕を感じさせる笑顔だった。

――私はこんなに気を揉んでいるのに――

 優子の余裕の笑顔が、恨めしかった。笑顔にもいろいろ種類があり、いくつかは理解しているつもりだが、優子の笑顔には、屈託がなく、含みもない。これ以上、ありがたくも最高の笑顔があろうというものか。

――ということは、この笑顔を独占できないこと。つまり、人と分かち合わなければならないことに不満があるのかしら?

 しかも、その相手が実の父である。実の父に対して嫉妬していることになるのだろうか? それもおかしな感覚であった。

 優子は、その時の真美のことを話し始めた。それは、真美が自分では意識していなかったことであった。

「真美ちゃんは、その時、結構何かで悩んでいたように見えたんですよ。それは最初に来た時に分かったんですけどね。でも、何度か来ているうちに、次第に悩みが消えて行ってるように感じたので、私も安心したんです。元々、悩みがあった人が気になってしまうのは、私のくせでもありますし、自分が見ている間にその人が悩みから解放されていくのを見ると、さらに嬉しくなって、忘れられなくなるのも無理のないことだと思うんですよね」

 と、真美のことが気になっていた理由を話してくれた。

 それを聞いて父は、ひどく喜んで、

「そうなんですね。いや、本当に嬉しい。娘に変わって私からお礼を言いますよ。それにしても、こんな偶然ってあるんですね」

「ええ、だから私もこの偶然の悪戯を私だけの胸に閉まっておくのがもったいない気がしたんですよ。お話させていただいたのは、そういうことなんです」

 二人は、完全に有頂天の渦を作り上げていた。

 真美は、二人をよそに、まだいろいろ考えていた。

 確かに男性恐怖症の時期があり、悩んでいる時期もあった。ただ、その時真美は、自分が楽天的な性格でもあることを悟っていた。

「悩みは永遠に続くことはない。どこかに出口があって、出口が見える時が必ずあるはずだわ」

 と思っていた。

――自然治癒などありえない――

 という思いの裏側なのだろうが、悩みというものをイメージする時、必ずトンネルであることが考える際のポイントだった。

 出口に差し掛かった時の明るさは、立体感を含んでいる。トンネルの中は薄暗く、実際のトンネルで見られる黄色い明かりが、等間隔で灯っている。

 トンネルの中では立体感を感じない。壁を這うように前から後ろに流れる影が、歪な形の様相を呈しているが、それ以外には、何もない。実像がなくて、影だけが漂っているのだ。

 トンネルを抜けるのを感じた時、一瞬、暗くなるのを感じる。明るさが目の前全体に広がり、その瞬間、出口が近いことを感じるのだが、一瞬、暗くなるのを感じることに気付いたのは、最近のことだった。

 それは、トンネルを抜ける時のイメージが、実際に抜ける時以外でも分かるからだった。目の前に今まで広がっていたオレンジを含んだ黄色は、一色である。立体感を感じさせずに影だけしか見ることができないのはそのせいであろう。

 だが、トンネルの出口には、カラーが広がっている。それはまるで夢の世界から現実世界への出口でもあるかのようだったが、色には、明るい色から暗い色も存在する。少なくともトンネル内部の黄色い色は、明るさを感じさせる。それに比べて、暗黒の世界は、真っ暗で、トンネルを抜ける瞬間の一番最初のごくわずかな時間に、真っ暗を感じさせておけば、あとは明るい世界だけを見せることになる。それが、トンネルの出口であり、

「心の中にある暗雲」

 というトンネルを抜ける時も同じなのでないだろうか。

 悩みを通り越した時のことを、真美はしみじみと思い出していたが、真美はその様子を包み込むような表情で見つめてくれている。

 父はといえば、そんな二人を意識することなく、何とかこの場を仕切ろうと、いろいろな話を考えて話をしていたが、我に返った真美がそのことに気付いた時、滑稽な気がした。滑稽ではあったが、

「考えてみれば、この雰囲気が一番この場では和やかで、最高の雰囲気だと言えなくもないだろうか」

 と思うのだった。

 真美にとって優子の存在は、

「父親よりも頼りになる」

 と思えた。

 確かに父は、自分を育ててくれて、頼りになるのは分かっているが、どうしても男性だという意識が強く、何よりも相談できないことが多すぎる。友達にも相談できないことも少なくない中で、優子の存在は、これ以上頼りになる人はいないことを示していた。

 ただ、真美には一つ気になることがあった。

 それは、優子が男性と付き合っても、最後には自分がフラれているということだった。今の真美を見る限り、男性を嫌いになることがあっても、男性から嫌いになられることなどないように思えるからだ。付き合っていけば、どこかに男性との間でギャップが存在する何かを相手が発見するのであろうか? そう思うと、優子にはまだ真美が理解できていない何かがあることを思わせた。

「真美さんは、父のどこが気に入ったんですか?」

 と聞くと、

「そうですね、素朴なところが一番気に入ったところですね。優しさや力強さは人それぞれに持っていると思うんですけど、素朴さを持っている人というのは、私には新鮮なんですよ。素朴さからの優しさや力強さを感じるのが、松田さんなんです」

 しっかりとした筋の通った言葉に、説得力は十分だった。真美は、優子の迫力を感じさせる言葉に圧倒され、それ以上は何も聞けなくなる気がしてきたのだ。

 父のことをここまで想ってくれていると思えば、これ以上何も聞けないのだが、真美は、自分に対して優子がどう思っているかということも、実は知りたいと思っていた。それは、母娘としてという意味ではなく、自分にとって頼りがいのある女性として立ち振る舞ってくれることを願ってのことであった。

 それからしばらく真美は勝則と会うことはなかった。別に嫌いになったわけでもなく、もっともこれくらいのことで嫌いになるほど、元々が勝則のことを好きではなかったのだが、会わなくても真美は別に気にならなかった。

 勝則からは、最初の頃は、

「どうして会えないんだよ」

 と、何度か連絡があったが、そのうちに諦めたのか、連絡がなくなってきた。真美とすれば、連絡がないことに一抹の寂しさを感じていたが、別になくならないでも関係ないと思うようになっていた。

 興味はすでに優子に移っていたからだ。

 勝則は、真美が感じていたように、他の男性とは違っていた。

 いい意味でも悪い意味でも違っていて、いい意味では、放っておいても、さほどしつこさを感じさせないところであった。ただ、それが人によって少しずつ態度が違っていることに気付かなかったことは、真美にとっての失策だったことは間違いない。

 勝則の方としても、真美のことを、本当に好きだったのかどうか、自分でも分かっていないようだ。確かに最初会えない時期があった時は、

「嫌われたんじゃないかな?」

 と思い、焦ったようだが、それも、真美を好きだからではなく、相手が誰であれ、急に態度を変えられることに苛立ちを覚えていたのだ。その気持ちが他の人よりも大きいことで、時々自分が分からなくなることもあった。

 勝則は、真美と性格が似ていることを自覚していた。だからこそ、相手の考えていることが少しは分かるのであって、苛立ちも覚えるが、放っておいてもいい時は、焦ることもない。

 真美はそんな勝則の性格を見て、

――この人は変わっている――

 と、思ったようだが、正確には、変わっているわけではなく、自分と同じような性格であり、そのことを自覚していないことから、他の人にはいない性格を、

――変わっている――

 と、理解したのだ。

 勝則が真美のことを意識しないわけではなく、勝則も、真美同様、他人を意識し始めた。その相手を真美は知らなかったが、それこそ、

「知らぬが仏」

 であったのだ。

 確かに勝則は変わっていて、他の男性にないところがたくさんある。だが、それほど無茶なことをしない相手だと思っていたが、ただ、それは真美から見てのことだった。

 勝則は、真美から連絡がなかなかないことで、最初、真美が他の男性を好きになったのではないかと思った。

 そう感じるのは当然のことで、誰だって付き合っている女性から連絡がなかなかなければ、まず最初にそのことを考えるだろう。

 勝則は、真美に気付かれないように、真美を監視していた。

 そこで見たのは、毎日のように立ち寄る花屋であった。真美が花に興味を持つような女性であることは、何となく分かっていたが、それにしても毎日のように立ち寄っている。さらには、そこの女性店員と、時々、お茶や食事をしているのを見た時、本当であれば、安心していいのだろうが、何となく胸騒ぎを感じたのだ。

――これって、どこから来るものなのだろうか?

 そう思うと、胸騒ぎを覚えたのだ。

 それにしても面白いものである。

 真美の父親の松田が、まず再婚を考えていて、優子と知り合った。その優子と松田の娘の真美が知り合う。その時に優子への慕う気持ちが募ってくる。だが、その中で、どこか言い知れぬ不思議な気持ちが真美にはあった。

 真美の彼氏である勝則も、真美の様子の変化から、優子の存在を確認するが、優子が真美だけにではなく、勝則にも言い知れぬ胸騒ぎを覚えさせているのだ。

 知らない人がこの関係を見れば、

「まるで、ヘビが自分の尻尾から、自分を飲み込んでいるような感覚に襲われるかも知れない」

 と思うことだろう。

 こんな関係をすべて知っている人はきっと誰もいない。ただ、分かっていることは、この中心にいるのは、優子だということだ。

 松田父娘との出会いも、偶然であれば、勝則の思い入れも、優子のオーラと言ってもいいのではないだろうか。

 松田は、きっとこのまま優子と結婚し、そして、真美は義理の娘になる。ただ、そのことを真美は良しとしないことは分かっている。そうなれば、勝則の立場も微妙なものになるだろう。この関係がこのまま続くというのも考えにくい。この関係はまるで薄氷を踏むようなものではないだろうか。

 真美が、優子の微妙な変化に気付いたのは、父親と同席してから、一月ほど過ぎてからのことだっただろうか。

 その頃には、もう父と優子の結婚の段取りは形になってきていて、ただ、今さら結婚式を挙げることもないだろうから、家族だけでのささやかな食事会を開くことで、結婚式の代わりにしようということだった。

 言い出したのはどちらからというわけでもなく、

「年齢的に、お互いに気持ちが分かるものなのさ」

 と、父は言っていたが、その言葉に偽りはないだろう。優子の性格から考えても、同じことを考えていた可能性はかなり高いと思っている。

 食事会は、父が長期出張で、九州に行くというので、そこから帰ってきてからになるだろう。

 以前は出張もなかったが、最近の部署替えで、出張も仕方がなくなってしまった。それだけが少し気がかりだと言っていた父だったが、真美も、優子も別に気にはしていなかった。

「新婚になるのに、悪いね」

 と、父は言っていたが、

「大丈夫ですよ。真美ちゃんもいるし、それにいつも出張というわけでもないんでしょう?」

 確かに、ずっと出張に行くというわけではかあった。今回はたまたま結婚に引っかかる時に九州出張を言い渡されたが、間が悪かったとしか言いようがなかった。

 父が出張から帰ってくるのが、二か月後だった。それまでは、真美は一人になるが、それも寂しくはなかった。

「時々、私が泊まりに来てあげましょうね」

 と言ってくれたのが、真美には心強かったが、やはりここでも何か言い知れぬ胸騒ぎが起こっていた。

――何かを期待しているのかしら? それとも心配しているのかしら?

 と、得体の知れないものを感じていた。

 父が出張に出かけてから、四日目だったが、さっそく優子が泊まりに来てくれた。真美は以前、喫茶店に勤めていたということもあって、料理はお手の物だった。パスタやステーキ、サラダの盛り付けなど、手際よく、真美から見れば、これほど安心できる調理はないと思わせるほどだった。

「おいしい?」

「ええ、とっても」

 食卓には、白ワインが置かれていた。普段からワインなど飲むことのない真美だったので、ワインにも造詣の深い優子を見ていると、安心感を感じさせた。

 その安心感には、余裕を含んだものがあり、一緒にいるだけで、どうして優子に安心感を感じるかということが、おぼろげながら分かってくる気がしていた。

「おいしいものを食べると、おいしいものをずっと見ていたいという気持ちにさせられるのよ。そう思うと今度は、自分で作ってみたいと思う。ここから探求心というものは生まれてくるものなのかも知れないわね」

 またしても、優子の説得力のある言葉に圧倒されてしまった。

「確かにそうですね。おいしいという言葉を聞いただけで、私は、食べてなくても、感じていなくても、満足感の存在を感じることができる気がするんです」

 自分で何を言っているのか分からなかったが、優子は分かってくれたようで、

「そうなのよね。食欲とはよく言ったもので、なければいけないものなのよ。それがどんな形であってもね」

 そう言った時の優子の唇が妖艶に歪んだ気がしたのを、真美は見逃さなかった。

――やはり、何か言い知れぬ胸騒ぎを感じるわ――

 と、その時、再度感じた胸騒ぎを思い起こしていた。

 優子が作る料理は、贅沢であった。見た目も豪華で、今までに見たこともないような食卓だった。

「普段から、こんな贅沢しているわけじゃないのよ。私は真美ちゃんに対して腕を振るって、おもてなしをしたかったの。だから遠慮はいらないし、好きなだけ食べてくれれば嬉しいんだからね」

 どうやら、真美の気持ちは読まれているようだ。ただ、優子の表現は謙虚だが、言葉には力がある。それは料理に自信を持っている証拠であろう。今までは、大切な家族がいたわけでもなく、誰のために作るというわけではなかっただけに、力がこもるのも無理のないことだろう。真美も誰かのためにと思えば、実力以上の力が出るかも知れないと思うことがあった。それだけ優子の気持ちが高ぶっている証拠だろう。

 ワインもおいしかった。なかなか食事をしていて、お酒を呑むことなどなかった真美だったが、ワインであればよさそうな気がした。ただ、自分では呑もうとは思わない。誰かが段取りを作ってくれないと、自分で食事に合うお酒を選べるとは思えないからだ。

「何よりも一人で呑んでもおいしくない」

 という気持ちもあり、せっかくの食事の味が台無しになってしまいそうな気がしたからだ。

「優子さんは、どうしてずっと一人でいたんですか? 優子さんくらいなら、男の人はいっぱいいたでしょうに」

 聞いてはいけないことだったのかも知れないが、義理とは言え、まだ母親になっていない今だからこそ聞けることだった。それに父親と結婚しても、優子のことを「お母さん」とは呼べないような気がした。

 優子は、かすかに溜息をついたようだったが、淡々と答え始めた。

「そうね。確かに男性の知り合いはいたわ。でも、皆仲良くなるにつれて、私から離れて行った。これは、前にも話したことあったわね。でも、私にもなぜか分からないの。ただ、一つ言えることは、私は本当に男性を好きになる資格があるのかしら? ってずっと思っているのよ」

「どうしてなんですか? それが私には分からない」

「私は、男の人よりも、女の人の方が本当は好きなの。男の人って、ガサツで自分のことしか考えていない人が多いでしょう? それに私は、男の人に従わなけれないけないという気持ちがどうしても分からないのよ。でも、そこは、母を見ていたから、そう思うようになったのかも知れないわ」

「お母さんですか?」

「ええ、私の母は、もう亡くなったんだけど、昭和初期から生きていた人なので、男尊女卑の時代を、そのまま生きてきたのよ。父は、いつも家では威張っていたわ。しかも表にも女の人を作っていたということも分かっていたのよ」

「どうして分かったんですか?」

「父は隠すようなことはしなかった。すべてをオープンにして、それを母や娘の私に分からせようとする。今の時代では信じられないでしょうけど、いわゆる封建的な人だったのね。そのおかげで、母も私も苦しめられた。男性不信、いえ、男性恐怖症と言ってもいいかも知れないけど、そんな感じになったわね」

 真美が自分を男性恐怖症などと思っていたことが、まるで幼稚なことのようだ。

――この人は、壮絶な人生を歩んできたのかも知れないわ――

 尊敬の念とは別に、違う感覚が芽生えてきた。同情や憐みなどでは決してないこの思いは、頼りになる相手に対して抱く、本来の信頼感ではないだろうか。今までにも信頼感というのを感じたこともあるが、それとはまったく別のもの。その信頼感があるから、尊敬の念も生まれてくるのだ。尊敬とは、敬い尊ぶこと。一歩下がって相手を見なければ、全体が見えてこない。そのことをハッキリと分からせてくれた存在、だから、優子の言葉には、言葉だけなのに、態度にも匹敵する説得力を感じるのかも知れない。

 真美は、中学の頃に、学校の先生に憧れていた。相手は初老に近いくらいの男の先生だったが、先生がゆっくりと話す言葉の一言一言がワクワクさせられるものだった。

 どんなことを話していたか覚えているが、今思い出しただけでは、その時のドキドキがどんなものだったのか覚えていない。たぶん、自分が中学生であったことが、その時にドキドキさせられた気持ちの裏に潜んでいたものなのかも知れない。

 もし、その時に先生に出会わなかったら、ひょっとすると、男性恐怖症を知らずに、ここまで来れたかも知れないと思ったこともあった。

 先生と出会ったことは、真美にとって、

「尊敬できる人が、どういう人なのか、分かった瞬間」

 そして、男性というのは、先生のような人と、自分が許せないタイプの人との二種類に別れると思ったのだ。

 父親は、そのうちの尊敬できる方の人だったはず。

 確かに、尊敬に値する人なのだが、真美にとって、一番身近な男性でもあった。男性として見ていなかったことが、真美の中で甘さであった。

 きっと、両親が離婚したことで、父親の中に、母親も同時に見てしまったのだろう。同世代の女の子であれば、父親を完全に男性として意識して、毛嫌いしているはずなのに、真美にはそれがなかった。父親もホッとしたであろうが、その時になかっただけで、もっと成長してから現れたのだ。だからこそ、真美の傷は大きかったし、父子家庭の中では避けては通れないものだったのかも知れない。

 真美は普通に人を好きになり、普通に異性を意識していたのだが、どこでどう間違って軽い男性恐怖症になったのか、自分では分からなかった。

 もちろん、まわりは、真美が男性恐怖症であることは知らない。ただ、高校時代から、短大卒業まで一緒だった友達には分かられてしまった。

「どうして分かったの?」

 と聞いてみると、

「だって、真美は分かりやすい性格だからね。隠そうとすればするほど、私には分かるの。でも、きっとそれは私だけに分かるんだって思うわ」

「どういうことなの?」

「必死にまわりに隠そうとして、一番身近な人に、それがバレてしまう場合は、バイオリズムが合っている人には分かりやすいということね。それは相性ではないのよ。私は、真美と一緒にいるのは、バイオリズムが同じだからだと思っているの。性格が似ているわけでもないし、相性が合っているように思う?」

「確かに性格が合っているような気はしないわね。でも、なぜか一緒にいると、お互いのことが分かってくるような気がするのよ」

「それは呼吸が合っていて、リズムが合っている証拠なのよね。気を遣うこともないし、一緒にいるだけで、心地よさを感じる。バイオリズムが合っているということなのよ。これも一種の本能のようなものなのかも知れないわね」

「相性が合っているのとは、違うの?」

「広い意味では相性が合っていると言ってもいいかも知れないわね。でも、やっぱり相性というよりも、本能というべきなのよ。相性だったら、お互いに同じくらい、相手のことが分かるという意識があると思うのよ。真美には、その自覚がまだない。やっぱり、相性よりも、バイオリズムなんでしょうね」

 説得力は感じたが、全面的に信じたわけではない。だが、彼女が真美の男性恐怖症に気付いたのは事実なのだし、これ以上の説得力はない。真美は、その時から友達の話を真剣に聞くようになった。

 人の話は、半分聞いて、半分は疑ってみていたが、他の人もそうだと思っていたが、どうなのだろう? よほど気心が知れていなければ、全面的に信じられないし、相手の話を分析していくと、必ず、どこかで矛盾が生じてくる。

「性格が違うのだから、当たり前のこと」

 と思い、自分に受け入れられるところだけを、信じればいいのだった。

「真美のような性格は、私のように分かりやすいと思われているか、それとも、本当に、まったく分からないと思われているかのどちらかなんでしょうね」

「私もそう思うのよ。だから、私のことを分かる人が誰もいないと思っていたの」

「でも、あなたのことだから、それでいいと思っていたんでしょう? 誰も知らないなら知らないで、その方が確かに気が楽ですからね。でも、本当にそうなのかしら?」

 ドキッとしてしまった。確かに彼女の言うとおりである。

「そうなのよ。確かに気が楽なんだけど、でも、一抹の寂しさが、どうしてもこみ上げてくることがあるのよね。それもいつもというわけではなく、時々、それも決まった感覚でなのよ。躁鬱症なのかとも思ったんだけど、どうやらそうでもないようで、でも、一度不安に陥ると、なかなか解消されないのよ」

「それは確かに鬱状態なのかも知れないわね。私の感覚では、鬱状態があれば、躁状態も存在するような気がしているの。だから、あなたは無意識の中で、躁状態を向けているのかも知れないわね」

「そんなことってあるんですか?」

「ええ、でも、そのうちに、どちらも感じるようになると思うわよ」

「そんなものなのかしらね」

 と、その時は半信半疑だったが、確かに、彼女の言う通り、躁鬱症にはしばらくしてから、意識するようになっていた。

 優子は、そんな真美の性格をある程度分かっているようだった。真美が男性恐怖症になっているのを知っている素振りは何度かあった。男性と隣り合わせにならないように、必ず自分が入ってみたり、どうしても男性に挟まれてしまう時は、男っぽさを表に出している人の間に入ってくれていた。

「やっぱり分かるんだわ」

 と、思ってくると、真美が躁鬱症であることも分かっているのではないかと思うようになってきた。

 時々優子と一緒にいると、心地よさが感じられる。

「これは、以前に友達が言っていた。バイオリズムが合っている証拠なんだわね」

 バイオリズムが合っていると、何でも分かられてしまっているのだろう。隠し事はできない。できないくらいなら、相談するのが一番だ。

 ただ、いくらバイオリズムが合っているとは言え、しょせんは他人である。言いにくいこともある。言いにくいことは言わないようにしていた。

 何よりもバイオリズムが合っていることの最大の利点は、自然でいられるということである。だから、別に無理をすることはないと、思うのだった。

 優子に、何度か食事に誘われ、優子の部屋で食事をし、そのまま泊まるというパターンが続いた。一週間に一度の割合が二回になり、三回になってくると、ほとんど、家に帰るよりもここにいる方が自然に感じられるようになっていた。

 だが、優子は三度以上の誘いをかけてこようとはしない。三度までになるには、すぐだったのに、おかしなものだ。

「何か、自分の中で制限を設けているのかしら?」

 そう思って優子を見ると、少し、それまでと違った雰囲気を感じるようになった。

 優子にどこか落ち着きがなくなった。ソワソワしている雰囲気に、何か禁断症状のようなものを感じ、一瞬、妖艶な雰囲気で見られたかと思うと、次の瞬間、金縛りに遭ったかのように、動けなくなってしまった自分を感じる。

 だが、それはあくまでも一瞬で、動けなくなった自分が一枚の写真に収められ、その瞬間だけ、魂を抜かれたのではないかと感じるのだった。

 そう感じて、優子を見た時、優子が不気味に笑っている。

「そうよ、その通りよ」

 と、動いてもいない唇を見ながら、そう呟いたように見えたのだった。

 優子は、若く見えるが、本当に母親と同じくらいの年齢だ。ひょっとすると、年上かも知れない。そう思うと、優子が若かった頃の昭和の時代、おばあちゃんから聞かされた怖い話を信じていた幼かった頃の優子を感じることができた。金縛りに遭った人間を、写真の被写体として収め、魂を抜き取るなどという感覚を、優子なら感じていたかも知れない。

 そのことを、真美は、優子の視線で感じることができた。

 優子の視線は、それまで自然だった中で、一瞬見せた不自然さに思えた。

 だが、それは本当に不自然だったのだろうか?

 自然だと思っていた普通の流れにそぐわない、ぎこちなさがあったからと言って、それを不自然と言えるかどうかだが、真美は、考えていくうちに、

「これも自然なんだ」

 と、思うようになっていた。

 ただ、見つめられていると、

「まるで、ヘビに睨まれたカエル」

 になっている自分を感じ、まるで男性恐怖症に陥った時を思い出した。

「優子さんを信用していたのに、どうしてこんな気持ちにさせられるの?」

 と、思ったが、再度優子を信じてみることにした。

「記憶喪失の人の記憶を取り戻す時って、ショック療法を使うことがあるらしいと聞いたことがあるわ」

 とすると、これも優子のショック療法なのだろうか?

 そう思い、再度優子を見てみた。

 優子の表情には、いつもの余裕が戻っていた。ニコニコ微笑んでいる顔を見ると、さっきまでの表情がまるでウソのようである。たった今の表情なのに、だいぶ前に見た表情のようで、時系列に歪みが生まれているように思えてならなくかった。だが、その表情は、ずっと頭の中に残ってしまうであろうことを、真美は自覚しているのだった。

 優子と真美の距離が縮まってきたのは、それからすぐのことだった。精神的な距離と同時に、物理的な距離も縮まっている。

 優子はマンション住まいで、泊めてもらう時は、いつも同じ寝室で、布団は別だが、すぐ横に並べて寝ている。

「私はベッドで寝ることってしないのよ。やっぱり年なのかしらね」

「そんなことはないと思いますよ。私だって、いつもはベッドで寝ているんですけど、たまにお布団を出してきて、お布団で寝ることがあるんです。気分転換にはちょうどいいですからね」

 真美は温泉旅館で泊まった時のお布団での寝心地の良さを言っていた。旅行に出かけるのが好きな真美には、温泉旅館のイメージになれるお布団は、最高の気分転換であり、贅沢な気分にもさせてくれるのだった。

「真美ちゃんの男性恐怖症。治してあげたいわ」

 そう言って、真美の蒲団の中に、優子が忍び込んでくる。

 本能的に身体を固くし、

「いやっ」

 と、一言声を発したつもりだが、本当に出ていたのかと言われれば、分からない。優子は、委細構わずに布団に侵入してきたが、もし、真美が何を言っても、聞こえているのかどうか、分からないくらいに見えたのだ。

 優しく髪を撫で上げられると、気持ちよくなって、自分が分からなくなりそうだった。

 優子の顔が近づいてくる。

 よく見ていると、目は虚ろで、頬が上気している。まるで酔っているのではないかと思うほどの雰囲気に、息もお酒臭さを感じさせるほどだった。

 白ワインの香りを感じながら、自分も、先ほどの白ワインの味を思い出していた。白ワインの味を思い出してしまうと、優子の唇が近づいてくるのを、避けることができなかった。

 いや、避けることができなかったというよりも、避けようとしなかったのかも知れない。敢えて受け入れることで、自分が快感を得ようと思ったのか、それとも、

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

 ということわざにあるように、受け入れてみなければ、何も始まらないと思ったのかのどちらかであろう。

 だが、すぐに、そんなことはどうでもよくなった。そう思った瞬間に、避けようとしなかったことに対して、他意はなかったことであり、本能のまま、心地よさに身を任せている自分がいることを感じていた。

 真美にとって、優子の誘惑は嫌なものではなかった。本当なら、このような行為は嫌らしい行為として、自己嫌悪に陥ってもしかるべくだったはずなのに、あっさりと認めてしまうのは、最初に優子が言った、

「男性恐怖症を治してあげるわ」

 という、優子の口から出た言葉を、大義名分として、受け入れたからだった。

「治してください」

 その後に、そう呟いた気がする。

 嫌だと思ったことは覚えているのに、自分が認めて、優子に自分から求めようとしたことは、案外忘れてしまっているのかも知れない。それでも優子にしたがって身を任させている自分に自己嫌悪を感じないのは、

「私も、優子さんを求めていたのかも知れない」

 と、感じたからだ。

 と、いうことは、

「私は男性恐怖症だったから、優子さんと出会った?」

 もちろん、父親が出会っているので、偶然がなければ、優子のことを、

「義理の母親」

 として、認めるかどうかだけだということになってしまう。

 ただ、優子は、花屋さんに勤める前の喫茶店で、真美のことを意識していた。やはり、偶然は必然であり、どれか一つでも欠けていれば、今の優子と真美の関係はなかったであろう。

「真美ちゃん、私が怖い?」

「はい」

 正直に答えた。答えたことで、優子の表情が少し歪むのではないかと思ったが、そんなことはなかった。

「でも、怖いだけじゃないでしょう?」

「ええ、心地よさというか、余裕のようなものが感じられます。まるで魔法にでも掛かっているかのよう」

 優子は、真美のことなら何でも分かっているんじゃないかって思えるほどだったが、まるで優子は媚薬のような感じに思えてきたのだ。

「そうね。私は魔法使いじゃないから、全面的には無理でも、それでも、エッセンスくらいのものはあるかも知れないわ」

「魔法のエッセンスですね。いい言葉だわ」

「ええ、私は、いつでも、真美ちゃんのエッセンスでいたいと思っているのよ」

「じゃ、お父さんには?」

 ちょっと意地悪な質問であったが、

「そうね、お父さんにも同じように魔法のエッセンスかしらね」

「ずるい。私と同じなのね?」

 本当は、父親よりも強く思ってくれているのを分かっていての質問だった。

「だって、比較にならないんですもの。エッセンスといっても違うものなのよ。真美ちゃんは分かっていると思うけど」

「見透かされているようね」

「ええ、私には二人とも大事、そして、今は真美ちゃんが一番」

 そう言って、キスをしてくれた。

 その頃には、恐怖心はなくなっていて、優子のリードに身を任せていた。

「暖かい……」

 真美は、体温と体温が重なった時、同じような暖かさであれば、暖かく感じることをその時初めて知った。

 暖かさは、優子の指から、真美の指に伝わり、全身へと伝わっていく。最初から重なった身体で感じた暖かさとの交わりを感じた時、真美は、身体に電流が走ったような感覚を覚えたのだった。

 布団の中は暖かい。それは自分の体温で暖まったものだが、優子が入ってくると、感覚がマヒしてくるのを感じた。

――布団の肌触りがなくなってくる――

 その思いは、真美だけが抱いているものなのだろうか。

 真美がビックリしたのは、優子の身体から、汗が滲み出ているのを感じたからだ。

――自分は汗など掻いていないのに、どうしたことなのだろう?

 と思ったが、すぐにその答えは見つかった。

――あれ?

 優子が真美の身体に触れたその場所から、そこだけから、真美の身体は反応して、汗を吹き出すようになっていた。

――優子さんは、想像で汗を掻いていたのかしら?

 まるで、最初から、真美に触られていた感覚があったのかも知れない。そうでなければ、冷静な優子が、あれほど酔ったような顔にならないだろうと思ったからだ。真美にとって優子はまるで、マリヤ様のようなイメージだからである。

――優子さんは、この後、私にすることを、後になって覚えているのかしら?

 という疑念を抱いたが、真美の感覚では、覚えていないような気がしていた。その方が、優子らしいと思うし、会話が途切れたり、ぎこちなくならなくて済むと思ったからだ。

 優子は、名前の通り、優しかった。だが、優しさの中に、どこかぎこちなさもあった。それは、優子の中にある自己嫌悪なのかとも思うくらいであったが、自己嫌悪であるならば、どこかに葛藤が見られる気がしたのだが、葛藤があるようには、どうしても見えてこなかった。

――やはり、夢遊病のような感覚なのだろうか?

 もし、そうであるならば、少し寂しい気がするが、それならそれで、真美の中でも、

――夢の中での出来事、それこそ、夢で逢えたら……、の世界なんだわ――

 と思うのだった。

 優子の指は、繊細に、敏感な部分を捉える。首筋から乳首に至るまでを何度も往復し、真美の身体が反応するのを楽しんでいるようだった。

 真美が焦れったさを感じはじめると、今度は、少し強めに乳首をこする。真美は吹き出す汗を感じたが、すでに、優子の指は、真美の太ももの内側に移動していた。

「あぁ」

 思わず漏れてしまった声は、快感と、乳首に対しての攻撃が中途半端に終わってしまったことへの残念な気持ちから洩れたものだった。だが、すでに次の攻撃に移った優子には、真美に対しての容赦はないようだ。

 股間に近づきつつある優子の指を感じながら、今度は新たな攻撃が待っていた。優子が先ほど指での攻撃を行ったルートを、そのまま舌が攻撃を始めたのだ。

 上半身と下半身を同時に責めてくる優子に、真美は快感の渦の中にいて、逃げることのできない自分を、客観的に眺めている。客観的に眺めていても、快感の波は小刻みに襲ってきて、逃げることのできない自分を感じることで、宙に浮いたような快感が味わえるのだった。

「我慢できない?」

「はい」

 優子の指は、股間の一番敏感な突起をすでに捉えていた。

「ふふふ、もう少しの辛抱よ」

「えっ、辛抱しなければいけないんですか?」

 優子の容赦のない責めに喘ぎながら、真美は何かを考えているようだったが、何を考えているかなど、その状態で分かるはずもなかった。

「ええ、そうよ。その方が、快感は一気に増してくるものなの。一足す一が二ではないということが、あなたにも分かってくるはずよ」

「……」

 考えられない頭で、考えようとしている。優子の攻撃ですでに何度が小さな波を乗り越えてきたが、大きな波が襲ってくるのも、時間の問題であろう。

 優子の上半身への攻撃が、今度は下半身に集中してくる。下半身への指と、舌の同時攻撃には、先ほどまでの快感とは比べ物にならないほどのものが、襲い掛かってくる。

――あぁ、生きててよかった。こんな快感を味わえるなんて、これがオンナの悦びなんだわ――

 真美は、一気に上りつめてくるのを感じた。

「そろそろね」

「どうして、分かるの?」

「それはね。私がオンナだからよ。男には分からない女の部分を、私が知っているから……」

 そういうと、さらに攻撃の手を強めた。

「あぁ、もうダメ……」

 大きな波を意識し始めて、自分でもどこが限界か分かった気がした。今までに感じたことのない大きな波であるはずなのに、どこか懐かしさを感じる。

 しかも、その懐かしさは、ここ最近のものでもないので、時代を遡って思い出そうなどとすると、きっと、思い出す前に絶頂を迎えている。

――嫌だ。先に思い出したい――

 という思いが強く、それが自分の中の本能に反応したのか。真美は思い出したようだった。

――あれは、そう、まだ私が生まれてくる前のことだわ――

 母親の身体の中の羊水に浸かっていた時の感覚。あれが、快感の原点なんだ。原点はいつも頭の中にあり、きっと何かの弾みで時々思い出していたのかも知れない。そうでなければ、この快感の中で、すぐには思い出せるはずもないからだ。女の身体と本能、そして快感は、密接に結びついているのだろう。このメカニズムを感じた時、真美は自分が、今快感と戦っているのだと感じたのだった。

 絶頂に達した後、真美は放心状態に陥った。放心状態がどれほど続いたのか。ここまでくれば、優子はもう、何もしてこない。優しく髪の毛を撫でてくれていて、最初の心地よさに戻っていた。

 次第に意識が戻ってくるにしたがって、真美は恥かしさがこみ上げてきた。恥かしさは、羞恥心という言葉で表されるのだとうっすらと感じながら、今まで自分が思っていた羞恥心という言葉が、情けないというイメージだということを思い出していた。

――嫌だわ、本当に今の自分が、これほど情けない人間だったなんて――

 つい、さっきまでは、あれほどの快感に身を委ね、生きててよかったとまで感じたはずの頭が、ここまで変わってしまうとは、後悔だけが残ってしまうのではないかという懸念に襲われた。

 後悔は自己嫌悪を煽り、それ以上に自分をいかに今の状況から逃れさせることができるかを模索していた。

 優子は、真美の気持ちを分かっているのか、ある程度正気に戻ったことが分かったのか、思い切り、真美を抱きしめた。包み込むような抱きしめ方なので、痛みや圧迫感は感じない。快感を残したまま抱かれている感覚は、さっきも同じ感覚を感じたのを、思い出させてくれる。

――ああ、羊水の中の感覚――

 まだ、身体の中で快感が燻っている。それを逃さないように真美を包み込んでくれているのが。優子なのだ。やはり、女性同士でしか分からない何かを、優子が与えてくれているに違いない。

――こんな感覚、くせになる――

 一度味わってしまうと、逃れられなくなるのが自分でも分かっている。身体の奥からこみ上げてくる快感を、優子は逃さないように、しっかり身体で受け止めようとしてくれているのだろう。

「どう、真美ちゃん。まだ、後悔の念に苛まれている?」

「え、ええ、少しだけ」

 本当は、実際のところは分からなかった。思い切り後悔の念に苛まれた時期は、完全に抜けていたが、まったくなくなったわけでもないようだ。それは、自分を客観的に見ているからで、本当にどれほどのものなのかは、正直分からない。聞かれて困ることを、平気で聞いてくる優子に、真美は少し困っていた。

「そんなに困らなくてもいいわよ。今のあなたは、思ったことを言ってくれれば、それでいいんだからね」

 完全に見透かされていた。

「はい、思ったことを言っているだけです。でも、どうして、優子さんは私に今、こんなことをしたんです?」

「どうして、私を愛してくれたかって、聞きたいのね?」

――愛してくれた? そうか、優子さんは、私を愛してくれたんだ――

 真美は、優子の行動を、言葉にするには、どういう表現になるのか、分からなかった。

――愛している――

 この言葉は、男女間でしか使ってはいけないものだと思っていたので、まったく思い浮かばなかった言葉だった。

「愛しているという言葉、想像もつかないでしょう? 特に男性恐怖症なら、それも仕方がないことよね」

「ええ、そうです」

「でも、真美ちゃんは、処女じゃない。それは、失った時に男性恐怖症になったの?」

「私は男性恐怖症と言っても、軽いものだと思っていたんです。だから、彼と最初にした時も、そこまで恐怖は感じなかったですけど、その時から、身体が受け付けなくなったのは事実ですね」

「今付き合っている彼氏はいるの?」

「はい、最初のその人なんですけど、彼も最初に求めてきたきりで、それ以降は、それほど強くは求めてこないので、よかったと思っているんですけど、それ以降、付き合っているという意識はあるんですけど、彼氏彼女という感覚よりも、友達以上恋人未満という感覚の方が強くなったんです。本当なら、身体を重ねた時に、晴れて恋人になれる気がしたんですが、それ以前で止まってしまったんですね」

「どうやら、二人の関係は、精神面と、身体とでは、別々の関係のようね。確かにそれだと、恋人とは言えないわ。でも、私は、その関係が、今の二人にはちょうどいい感じかも知れないわね。もし、その彼が、他の女性を好きになったら、真美ちゃんは嫉妬するかしら?」

「嫉妬すると思うんですけど、心の中では、嫉妬心が本当に生まれるのかしらって思うんですよ。もし嫉妬するとしても、それは表面だけのうすっぺないもので終わってしまうんじゃないかって感じですね」

「そうかも知れないわね。真美ちゃんにとって、その男性はそれだけのものなのかも知れない。でも、彼にとっても同じで、彼は、他の女性に走ることで、その気持ちを解決しようとするでしょうね」

「私はそれでもいいと思っています」

「じゃあ、ずっと男性恐怖症を引きずったままになるわよ?」

「それでもいいと思います」

「私が、本当は治してあげたいと思っているのよ。私にできることはしてあげましょうね」

「ありがとうございます」

 今のこのタイミングでの話なのかとも思ったが、とても、普段に話ができるような話題ではない。これもやはり優子の演出なのだろうか。真美にとっては、優子の気持ちが分かってきたようで嬉しかったが、まず、今はこのまま快感を持続できることを、一番の望みとしていた。

「もっと優しくしてください」

 真美は、静かにそう訴えた。優子も愛撫は、それから始まったのだ。

 快感がさらに浮き上がってくるが、気が付けば。あれだけ溢れ出していた汗が、安全に引いていた。布団の中の暖かさが、最初の気持ちの高ぶりに戻ってきて、またしてもドキドキが煽られるようだった。

――もう一度味わえるんだわ――

 身体の奥にまだ、快感が燻っていたのだ。

「何度でも上りつめていいのよ。まだまだ夜は長いんだからね」

 その言葉に真美は反応した。そこから先は、今までの優子からだけの攻撃だけではなく、それまで遊んでいた真美の指も、優子を求めるようになっていた。

――そうだわ、私だけが恥かしい思いをする必要がないんだわ――

 この思いが、真美を大胆にさせた。

 最初に比べて快感を全身で受け止める術を覚え、何よりも、優子のどこが感じるところなのか、初めて触れる身体のはずなのに、すでに分かっていたように思えるから、不思議だった。

「真美ちゃん、上手……」

 この言葉に、真美は有頂天になった。

「優子さん、愛してる」

「真美ちゃん、やっと言ってくれたわね。そう、それが真美ちゃんの正直な気持ちなのよ」

 自分から攻撃しておいて、今では真美の攻撃に快感を覚える。お互いに上り詰める快感、それは、

「一足す一が二ではない」

 と、先ほど真美に語り掛けた優子の言葉を裏付けるものだった。

「優子さん、私、あなたの言うことすべてが信じられる気がするわ」

 快楽に身を任せているからだけではない。素直な気持ちから出た言葉だったが、優子もそれを聞くと、いたく満足そうな表情になり、

「分かってくれたようね」

 と、喜びを表してくれた。お互いに快感を貪ってはいるが、頭の中は意外と、二人とも冷静になっているようだ。

「大丈夫?」

「ええ」

 何度目かの、大きな波を通り越して、身体は、すでに限界を示しているかのようだった。グダっとなった二人は、そのまま抱きしめ合って、お互いに何度も汗が吹き出しては、引いてを繰り返した身体に、今は、完全に汗は引いていた。

 優子が与えてくれた快感に身を委ねながら、睡魔が襲ってくるのを感じると、優子も同じように、すでに眠っているかのような表情をしている。それを見ると、真美も一気に眠くなり、そのまま爆睡してしまったようだ。

 目が覚めると、すでに優子は起きていて、暖かな部屋には、甘い香りが立ち込めてくるかのようだった。

 その香りは、タマゴを焼いている匂いだった。それに気づくと、香ばしい香りを感じ、それがトーストであり、最後にコーヒーの香りがしてくるのを感じた。

 家では父親の好みからか、日本食が多かったので、とても新鮮な気がした。

「あら、起きたの? まだ寝ていてもいいわよ」

 前日が金曜日だったので、今日は出勤しなくてもいい日だ。最初から、お互いに金曜日は意識していたので、慌てることはなかったが、時計を見ると、すでに十時を回っていた。家にいて、この時間まで寝ていたなど、学生時代にもなかったことだ。

「よほど心地よかったのね。本当に気持ちよさそうに寝ていたわ。そんなあなたを起すのは忍びないと思ってね」

 優子は、リビングから話しかけてくれた。

「ええ、私もこんな時間まで寝ていたことってなかったので、自分でもビックリしています」

 優子は、真美の家庭事情は分かっているはずなので、普段にはないゆっくりした気分を味あわせてあげようと思ったのだろう。優子は、食卓に料理を並べながら、何かのスイッチを入れた。すると、部屋に音楽が流れ始め、それがクラシックであることに気が付いた。朝のひと時にちょうどいい、明るいピアノ曲が、それほど大きくない音響で、流れてきたのだ。

「私は普段から、ゆっくり朝食を摂りたいと思っているので、朝はクラシックを流しているのよ」

「朝はゆっくりできるんですね?」

「そうね。比較的ゆっくりかも知れないわね。お花屋さんには、十時までに行けばいいので、九時過ぎまで家にいられるのよ。でも、夜は八時過ぎまでなので、夜はそうもしていられないわ」

 朝ゆっくりできるというのは、真美にとっては羨ましかった。というよりも、朝は食欲もなく、気が付けば出勤しているような毎日、落ち着きというのが、どこに存在するのか、よく分からない。

 優子の部屋を改めて見ていると、なるほど、確かに朝ゆっくりできるような造りになっているように感じる。ゆっくりしたいという優子の話を聞いたから、そう見えるのかも知れないが、優子の部屋を参考にしていれば、自分も朝が少しは落ち着いた毎日を送れるかも知れないと感じるのだった。

 昨夜からのことを思い出すと、顔が真っ赤になるほど、恥かしかった。だが、優子にはそんな素振りはまったくない。考えてみれば、優子の肌のどこが、中年だというのだろう。まるで二十代前半、自分の肌とピッタリくるのだから、年齢的に若く見えるのは、顔だけではなく、身体全体が若いのだった。

――このまま、ずっと一緒にいたい――

 食事の用意をしている優子を、布団越しに見ていると、身体を起すのが億劫に感じられた。ここは、食事ができるまで、優子の言葉に甘えるのが一番なのだと思っていた。

 布団の暖かさは、昨夜のままだった。優子がまだすぐそばにいるような感覚で、身体を起すのが億劫なのではなく、もったいないという気持ちが強いことに気付いたのだ。

 昨夜はずっと緊張が続いていたので、まったく部屋の中などを見る余裕もなかったが、よく見てみると、部屋が思ったよりも広く感じられる。実際の部屋よりも広く感じられるが、それはきっと優子の感性から来ているものではないだろうか。

 マンションの間取りなど、ほとんどどこも変わらない。部屋を広く感じるのであれば、広く感じさせる作為が、そこに働いているからだ。作為は意識的であっても無意識でも関係ない。ただ、そこに人の意識が働いていれば個性であり、その人の個性を理解していれば、部屋をどうして広く感じるのかということも、理解できるというものであろう。

 部屋は白を基調に、さほど奇抜な色は使っていない。目立つのは黒い色で、白が基調になっているから、黒が目立つのだろう。まるで、鍵盤の白と黒のようではないか。

 泊まることは最初から分かっていたので、家から持ってきたパジャマを着ているので、最初は、食事が出来上がるまで寝ていようかと思っていたが、部屋の様子を見てみたくなった真美は、そのまま身体を起して、リビングまでやってきた。

 さすがに光が差してくると、白が基調の部屋だと思っていたが、薄いピンクを感じるようになった。気にしなければ分からないほどの薄いピンクだが、慣れてくると、却って目立っている色に思えて、不思議な気がしてきたのだ。

 一緒に食事をして、ワインを飲んだ部屋。やはり、昨夜よりも広く感じる。よく見ると、部屋の壁にはいくつかの風景画が飾られていて、西洋の城が描かれているもの、森の中にある大きな池に浮かんでいる真っ白いボートが見えるもの、さらには、水平線の向こうから昇ってくる朝日、

――いや、沈もうとしている夕日なのかも知れない――

 三枚の絵が懸けられていて、それぞれに味があるように思われた。

――もし私が描くとすれば、この真ん中に描かれている池の絵かも知れないわ――

 描きやすさであったり、バランスというよりも、最初から完成している絵を見て、さらにそこから、実際の被写体を思い起こし、いかに描こうかと思った時に、さらにその時に描いてみたいと思ったのなら、その絵が自分の描きたい絵であることに間違いない。

 自分が絵を描いていた時期を思い出していた。

 絵を描いている時というのは、時間の感覚が別だった。集中していると言えば、それまでなのだが、集中して一時間を費やしたとしても、実際に感じた感覚は、五分も経っていないものである。集中して描いていたのを思い出そうとすると、かなり前のことを思い出しているようで、時系列に差異が生じてしまうのだ。

「絵を描いていると、時間の感覚がなくなってくる」

 という部員が他にも何人かいたが、果たして、同じことを言っていても、皆同じ思いを感じているのかどうか、分かったものではなかった。 優子と一緒だった一晩のことは、絵を描いている時と、似たような感覚に陥っていたのかも知れない。集中していたというよりも、一点に神経を集中させたという意味では、絵を描いているよりも分かりやすい感覚に思えてくる。相手がいることなので、感覚的には自分だけのものではないので、分かりにくいかと思ったがそうではないのだ。

 寝室は、薄いピンクが基調だったのは、年齢より若く見える秘訣のようなものがあるからなのかも知れない。

 年齢より若く見えることで、男性からは好かれるのではないだろうか。特に父親くらいの年齢の男性からは、好かれると思う。

 しかし、若く見えるだけに、自分が同年代の男性では物足りないのではないかと思える。もし求婚されれば、戸惑うに決まっている。それなのに、父のどこがよかったというのだろう? どこか性格的に合うところがあったからに違いない、

 父の性格は、温厚なところが特徴であろうか、ただ、たまに急に怒り出すことがある。理由もなく怒るので、すぐに対応ができず、知らない人がそんな場面に落ち合えば、二度と話をすることはないだろう。

「俺は、友達を失うのが早いからな」

 と言っていたが、本当の友達はすでに数人いて、それ以上、友達を増やす必要はないのではないかと思うほどだ。

「友達は、気心知れた人が数人いればいい」

 と思っている真美には、それ以上増やすことは、却って煩わしさを呼ぶと思っている。友達の数で、その人の価値が決まるわけでもなし、さらに友達を増やす必要はないはずだった。

 急に怒り出す性格は、真美には分からなかった。父親のことを、もし嫌いになるとすれば、急に怒り出す性格が、凶と出た時だと思っていた。ただ、父親が娘に対しての思いの中で、頑なに自分の信念を曲げない気持ちを持っているとすれば、嫌いになる可能性も少なくはない。

 頑なな気持ちが、急に怒り出す性格を作っているのだとすれば、真美は父親に対して、考えを変えなければいけない日がやってくるような気がして仕方がなかった。

 そんな父の前に、優子が現れたことは、真美にはありがたかった。今まで一人で自分を育ててくれた父親には、今度は自分のために生きてほしいという気持ちと、急に怒り出す性格が、自分との間に最悪の結果をもたらすのではないかという危惧からも、逃れることができるからだ。

 父が、優子のどこを気に入ったのかは、よく分からない。真美の目とは違って、男性の目は、きっと違う優子を捉えていたに違いない。だが、真美の目も、他の女性の目とは違っていただろう。だからこそ、優子は真美の中にある男性恐怖症を見抜き、自分に身体を任せるように仕向けたのだ。

 普通であれば、女性同士の行為に、淫らな感情を感じることで、さらに自己嫌悪を煽るに違いないが、真美と優子の間の相性は、それを補って余りあるほど、似合っていたのかも知れない。

 真美は複雑な心境だった。

 確かに父には幸せになってもらいたいという気持ち。そして、いくら相性が合っているからといって、このまま優子との関係を続けていいのかどうか、真美には不安が残った。そして何よりも、優子の誘いの意図がどこにあるのか、不思議だった。

 本能のまま、優子が真美に近づいてきたとは思えない。何か、優子には考えがあったのであろうが、そこに打算的なものは考えられない。気持ちが優子に陶酔してしまっている今は、どうしても贔屓目に見てしまい、優子の本心を見逃してしまうかも知れない。

「確かに最初は、拒んだはずだ」

 優子が迫ってきた時、最初は拒んだ自分を、かすかだが、覚えている。それがいつの間にか、すべてを優子に任せていた。その時に感じた一番の思いは、

「ここで拒めば、優子さんが悲しい顔になる。悲しい顔をした優子さんを見たくはない」

 と感じたことだけは覚えている。

 それだけで、拒み切れなくなるものだろうか、もっとその奥に拒み切れないものがあり、真美は、素直にその気持ちに応じたのではなかったか。

 優子さんが妖艶に微笑む時、さらに若返ったかのように見えた。まるで三十代前半。真美にとっては、

「お姉さま」

 とも言えるほどの若さを感じた。

――ひょっとすると、他の女性も、女性を相手にする時、若く見えるのかも知れない。じゃあ、私も優子さんの腕の中で、幼く見えたのかしら?

 と思ったが、それは委ねる気持ちから、相手を慕う表情に、不安な気持ちが入り混じったもので、見ていると若く見えるのは、錯覚であることに気付くはずだ。

 だが、優子を見て、三十代前半に見えたのは、錯覚だとは思えなかった。

――若い女性を相手にすることで、自分を若く感じさせるような術でもあるのかしら?

 という思いを、抱かせたのだ。

――優子は、魔法使いだ――

 真美にとっての優子への表現は、そこに落ち着いてしまうのだった。

 真美は、優子の部屋に三日泊まるつもりで、最初から着替えなども用意してきた。初日から大変なことになってしまったが、家に帰ろうとは思わない。日曜日はゆっくりと過ごし、夜になるとどうなるか、真美は気持ちを落ち着かせて待つことにした。それは、真美が優子を待っている証拠であり、ただ、待っているだけではなく、確かめたいこともいろいろあるのだった。

 昼間は、優子の馴染みのブティックや、喫茶店などに出かけた。若く見えるだけあって、ファッションセンスもなかなかのものである。まだまだ若い真美は、優子の足元にも及ぶものではないことに気付いたのだが、かといって、優子は決して派手を好むタイプではない。あくまでも質素に、そして落ち着いた佇まいが、まわりに優子の気持ちの余裕を示すことで、セレブな雰囲気さえも醸し出している。

 花屋の店員として見ていた優子は、花がまわりにあることで、明るく感じられたが、実際には質素な雰囲気が映える女性であった。年齢より若く見えたのは、花屋にいる時の明るさが眩しさに変わり、その影響で若く見えていたと思ったが違うだろうか?

 花屋以外のお店で見せる優子の落ち着いた佇まいは、堂々としたものである。だが、やはりどう見ても年齢よりは幾分か若く見える。どうやら錯覚ではないようだ。

「優子さんは、時々、寂しそうな顔になって、まわりを心配させることがあるからね」

 と、喫茶店のマスターが話していた。

 優子が寂しそうな顔をする雰囲気を想像したことはあったが、実際に見たことはない。どんな雰囲気なのかを想像してみたが、まったく違う人に見えてくるのではないかと思えた。

 それも、真美の知っている人のイメージだ。

――まさか、お母さん?

 真美は、母親の顔を思い出したくもないと思っている。真美の嫌いな顔しか覚えていないのは、それだけ、普段は目立たない雰囲気だったということと、目立たない雰囲気の女性が、自分の嫌いな表情をする時、本当に憎しみに近いものが自分の中から沸々とこみ上げてくるのを感じるからだった。

 真美が、父親の再婚を反対しないのは、母親に対しての恨みも若干あるからだろう。恨みと言っても、自分を置いて出て行ったことではない。自分に対して愛情を注いでくれた記憶がない。ということは、母親らしいことを何一つしてくれていないということだ。記憶に残っているのは、ただ明るかったということ、男性に好まれるタイプだということを、感覚で悟ったということくらいである。

 確かに母親は、男性に人気があったようだ。父親がそれを見て、どのように感じていたか定かではない。あくまでも無表情で、母のことを無関心といった感じだったからだ。ただ、心根は分からない。恨みが募っていたかも知れないのだ。

 そんな両親が離婚した時、真美はもちろん、夫婦間のことは分からなかったが、最初こそ、

「離婚なんてしないでほしい」

 と思ったが、次第に、

「離婚も無理のないことだ」

 と思うようになった。娘としてというよりも、第三者として見ていると、二人の間の亀裂に修復は不可能に思えたからだ。

 根拠があったわけではない。見ていて二人の間にあるのは、膠着状態だけだった。膠着状態がしばらく続けば、必ずどちらかが爆発する。爆発してしまえば、本当に修復は不可能なのだ。嵐の前の静けさは、一触即発以外の何物でもなく、黙って爆発を待っているだけの時間なんて、何もできずにただ死を待つのみだというだけのものでしかない。

 何も考えなければ、それでいいのだろうが、そうもいかない。少なくとも家族がいるのだから、どこかで打開しなければいけないことだ。そうなってくると、離婚以外に手はないことに気付くのだ。

 家族の中で一番執着心の強いのが、父だった。それだけに離婚までに少し時間が掛かった。その分痛手も大きく、それは父だけではなく、母にも言えることで、もちろん、真美にとっても同じことだった。

「真美は、それでも、お父さんがいいの?」

 と、最後に母親から言われたのを思い出した。

「うん、お父さんがいい」

 その時の何とも言えない驚きと、寂しさ、そして不安を感じさせる母の顔を初めて見た気がした。

――ひどいことをしているんだろうか?

 思わず、真美は母を見て、自分の選択が間違っていたのではないかと思った。だが、もう決めてしまったことであり、まわりもそれで動いている。

 真美の人生の中で、「もし」が存在するとすれば、間違いなくその瞬間だっただろう。

「もしあの時、母について行っていれば……」

 まったく、想像もできない自分が出来上がっていたことだろう。

「私と母とでは、あまりにも違いすぎる」

 とにかく明るい母を見ていると、いつも不安にさせられる。父がいつも不安そうな表情をしているのは、少なくとも母親の影響があるからだろう。そう思うと、父を放っておくことはできなかったのだ。

 父が急に怒り出す性格だと気付いたのは、離婚してからだったが、元からそういう性格だったのかも知れない。その性格まで押し殺して、母と一緒にいたのだとすれば、それは情けないというよりも、

「私が何とかしてあげないといけない」

 という、使命感のようなものが宿ってくるのを感じたのだった。

 母と離れてから少しして、真美は母親に似た女性と知り合う機会があった。

 それは、友達のお母さんだったのだが、その人は、社交的な性格で、友達も同じように学校では目立っていた。

 彼女の母親は、いろいろな男性と一緒にいるところを見かけたが、別に付き合っているというわけではなさそうだ。

「お母さんは、男性の友達が多いっていうだけのことなのよ」

 母親によからぬ噂が耳に入っても、

「根も葉もない、ただの噂だから」

 と言って、聞く耳を持たない。

 そこが真美には分からなかった。

「どうして、そんなに平気でいられるの?」

「だって、本当に根も葉もないことなんだから、気を揉んでも仕方がないし、何よりも、当の本人が気にしていないんだから、それでいいんじゃない?」

 確かに、彼女の母親は、ほとんど気にしていないようだ。

 いつもニコニコしていて、明るさだけを表に出している。いかにも男性が好きになりそうなタイプなのだが、その時、

「この人は、これだけニコニコしているのに、年相応にしか見えない」

 と、真美が感じたのは、偶然だったのだろうか?

 ニコニコしていると確かにまわりに与える影響にマイナス面は何もない。明るさを振りまくことは、まわりに元気を与え、自分をまわりに綺麗に見せる効果があるのも、分かる気がした。

 どんなにいい顔をしていても、すべてがいい方に向いていると、却ってどこかに歪みが生まれるように思う。それが、年より若く見えることではないのだろうか。

 もし、年より若く見えたとすれば、まわりは、彼女に対して一点の疑いも抱くことのない女を作り上げてしまう。まわりによって作られた性格であったり表情は、思い込みを生むだろう。人それぞれで性格も違うので、見ている人の感じ方も違ってくる。彼女がすべての面でプラスであれば、その分、まわりの一人一人が感じる感覚は、最大限に広がってしまうことだろう。

 それが本人にどのような影響を与えるかを考えると、結局苦しみは、本人に戻ってくる。そう思うと、一つくらいマイナス面がなければいけないだろう。

 それでも、たまに友達の母親は、不安そうな顔をすることがあるという。それは娘にしか分からないことらしく、娘の顔を見て、我に返った時、初めて母親の顔から不安な表情が消えるのだという。

 真美はその時の友達の話を思い出していた。若く見えている優子は、心から笑顔を見せたことがないような気がした。もし、心からの笑顔を見せれば最後、魔法の効力が消え、若く見えることがなくなり、年相応の優子になってしまうだろう。

――年相応の優子は、どんな顔なのだろう?

 見てみたい気もしたが、勇気がいることで、今の真美には怖くて見ることができない。もしこれが、昨日までであれば、見てみたいという気持ちの方が強かったが、今の真美は、優子の身体に魅せられている。そんな状態で、年相応の優子を真正面から見ることができるだろうか?

――いや、ひょっとすると、優子が若く見えるのは、真正面から見ていないからだけではないだろうか?

 と、思うようになった。

 それを確かめるのは、怖いのだが、その機会は今夜訪れる。真美が拒否しない限りである。

 拒否などできるはずはない。それほど気持ちが前を向いても、横を向いても、後ろを向いても、すべてに、同じ優子の身体があるだけだ。

――包み込まれている――

 と、思っただけで、反応してしまう身体を抑えることができない。もはや、相性だけで語られるものだろうか?

 母親の羊水に浸かっているかのように思うのも、安心感を得たいからだ。優子にも安心感を求めて、委ねる気持ちになっているが、その裏には、ハッキリとした不安が募っている。

 以前に、女性に抱かれる夢を見たことがあった。夢を見ている間、身体から吹き出してくる汗に心地よさを感じていたのを覚えている。相手の女性は、寡黙だった。何も語らずに、ただ、身体を貪ってくる。

 何も話しかけてくれないことで、不安が募るばかりだった。だが、不安を払拭するのは、快感だけだった。

 それでも、最初は、必死に快感を表に出すのを躊躇っていた。表に出すことが怖かったからだ。相手は何も答えない人、快感をあらわにしてしまうと、そこで自分の負けだと思ったからだ。

 女性は女性の敏感な部分を知っている。何もかも知られているようで、男性から抱かれるよりも、ある意味、快感を味あわさせられるのかも知れない。

 そう思うと、身体から吹き出してくる汗は、快感であると同時に恐怖から湧き出してくるものなのかも知れないとも思う。

「恐怖は快感の裏返し。快感のない恐怖はあるが、恐怖のない快感はない」

 という話を聞いたことがあったが、今の真美なら理解できる。

 恐怖と不安も心理の内では似たところにある。不安を恐怖と感じることで、不安を伴う快感を、恐怖だと思い込んでしまっているのではないか。

 その日の優子は、昨日と違って、寡黙だった。朝からあまり話をせずに、表情もあまり変わらなかった。

――こんな優子さん、初めて見た――

 このまま帰ってしまおうかとも思ったくらいだが、優子の顔を見ていると、帰ろうと少しでも思ったことを後悔した。

――なんて、悲しい顔なんだ――

 最初は、寡黙で、無表情に思えたが、不安から逃げ出そうと思った瞬間、優子の表情が一気に変わった気がした。

 しかも、その顔には何かを訴えるような悲しい表情が浮かんでいた。

――まるで、さっきまでと立場が変わったかのようだわ――

 さっきまでの主導権は、間違いなく優子にあった。だが、今その主導権は、真美に移ろうとしている、考えていることと、不安が共有した時、真美の中で、相手に対しての意思表示ができたのだろう。

 初めて自分の意志が相手に通ったような気がした。

――あんなに悲しそうな表情になるなんて――

 今まで、自分に対して主導権を握っていて、真美が委ねる気持ちになっていたはずの相手が一変したのだ。戸惑いの中に、

――自分が主導権を握ってもいいのだろうか?

 という気持ちを優子にぶつけてみた。

――ええ、いいのよ――

 優子のアイコンタクトが帰ってきたような気がした。今までに見せたことのない表情であったが、一番何が印象的かと言えば、

――優しさ――

 だったのだ。

 優しさは、優子のトレードマークのように思えたが、実際に一緒にいて、優しさを前面に出した表情の優子を見たことはなかった。複雑な表情の中に、優しさを隠していたのかも知れないが、優子が複雑な表情をする時は、その時の自分の気持ちで、表に出したくないという思いがある時、いくつもの表情の中に隠してしまおうという考えがあるに違いない。

 その時は、優しさを隠した。隠さなければならない理由は、きっと優子にしか分からない心理なのだろうが、真美が見ていると、優しさを表に出すことは、身体を求めることと相反するものだという考えを優子が持っているからだと思えた。

 ただ、真美が最初に感じた優子の印象は、「優しさ」だった。今の優しさと違うものではないはずだ。確かに、同じ人の中に、違うイメージの優しさが存在しても、それは不思議なことではないだろう。相手によって優しさも違えば、同じ相手でも立場が変われば、優しさも変わってくるかも知れない。

 だが、真美には、優子の優しさは同じものであってほしかった。いくら立場が変わったとしても、同じ目で見つめられ、同じ感情をぶつけてくれた方が、不安はない。逆にそれでこそ、「優しさ」という言葉で表現できるものなのではないだろうか。

 立場が変わったことによって、真美は、優子を怖いとは思わなくなった。それよりも、愛おしさがこみ上げてきたのだが、そのせいで完全に優子にのめりこんでしまったことに、まだ気付いていなかったのだ。

 それが、優子の作戦であったかどうか分からない。意図的に、あのような悲しい表情ができるとは思わない。そこが、優子の妖艶さを引き立てるところであり、自分の身を守るための術なのかも知れない。

 真美は、優子に溺れてしまった。

「優子さんがいれば、私はそれだけでいい」

 さすがに父親には、話せることではなかった。もちろん、他人になど、話す謂れもない。

「義母さんと、仲良くしてくれて、お父さんは嬉しいよ」

 と、まったく疑っている素振りを見せない。

 ただ、気になっているのは、勝則だった。勝則は他の男の人たちとは違って、何をするか分からないところがあった。少し怖かったが、今のところ、真美に対して、何かを疑っているという素振りを見せてはいなかった。ただ、それは真美が知らないだけで、ある意味、勝則を甘く見ていたのかも知れない。


 勝則は、真美が自分との時間を、なかなか取れないことを気にしていた。

「ごめんね。今度の土曜日は、時間がなくて」

 その日は、優子の部屋に金曜日の夜から泊まり込んでいる予定である、土曜日は、朝から一緒にいて、昼頃から、ショッピングにでも出かけようと思っていた。

 表に出た時の主導権は、完全に真美だった。ファッションや流行に関しては、若い真美に適うわけもない。真美は、元々、それほどファッションや流行に聡い方ではなかったが、優子と一緒にいられるのであればと、自分なりに本を読んだりして、勉強したのだ。

――こんなにいろいろな知識を得ることが楽しいなんて、今まで感じたことなどなかったわ――

 と、真美は、今の自分が輝いていることに喜びを感じていた。人のためになることが、ひいては自分のためにもなる。以前から聞かされていたことだったが、実感はなかった。実際に人のためにしてみて、初めて分かる。楽しいと心の底から思えるのは、そんな時なのではないだろうか。

 花屋の知識は、優子から教えてもらった。

「私は、お花の知識しかありませんから」

 と、言っていたが、それだけではない。表に出た時のファッションや流行に関しては、真美に勝ることはあり得ないが、それ以外の知識は、年相応に持っているようだ。それをひけらかさないところが、優子のいいところでもあり、謙遜されると、さらに優子のことが気になってしまう真美だった。

 優子と真美の「蜜月関係」は、しばらくの間、誰にも知られることはなかった。人に知られても、別に構わないとまで真美は思っていて、

「別に悪いことをしているわけではない」

 と、思っていた。

 ただ、後ろめたさは、父にだけは持っていた。優子は間違いなく父親を愛している。真美との関係がなければ、熟年ではあるが、新婚生活を甘いものにできるであろう。残念なことに、長期出張のためか、なかなか夫婦生活を楽しめない。それでも、娘が義母と仲良くなり、父親の帰りと待ってくれていると思うと、頑張れるのだった。

「優子さんは、父のどこを好きになったんですか?」

「松田さんは、本当の優しさを持った人だと思ったんですよ。私の過去のこともまったく聞かないし、たまに急に怒り出すこともあるんだけど、それも、必ず私が悪い時であり、ちゃんとした理由があるのよ。あの人は、その理由を自分からは決して言わない。不器用なところがある人なので、そういうところを私が支えてあげたいって思ったの」

――急に怒り出す性格は、優子さんの前でも出したことがあるんだ――

 自分にだけではないと思うと、ホッとした気持ちにもなったが、他人の優子さんにこれだけ分析できる父なのに、娘の自分は、そこまで分からなかったことが、少しショックだった。

「真美ちゃんも、お父さんの悪いくせを知っていて、それがどうしてか、分からないっていう感覚を持っているんでしょう?」

――完全に、見透かされているわ――

 と思った。

「ええ、その通りです」

 一瞬、優子の動きが泊まったが、

「それはね、きっと親子だからかも知れないわね。他人には見えることでも、親子だと見えていたとしても、無意識に目を瞑ってしまうこともありますからね。それはある意味、仕方がないことかも知れないですね」

 と、淡々と話をしてくれた。

 急に怒り出す性格は、勝則も持っていた。父親で慣れていた真美はそれほど気にしてはいなかったが、勝則も真美も二人とも知っている共通の友達は、

「あんなに急に怒り出す人だとは思わなかったわ。真美ちゃん、大丈夫?」

 と、気遣ってくれたが、

「ええ、大丈夫よ」

 と、タカをくくっていた。やはり、少し甘く見ているのかも知れない。

 確かに父親であれば、威厳があるから、急に怒り出しても、それなりの理由を考えるが、勝則の場合は他人でもあり、

「どうして、そこまで言われなければいけないの?」

 と、言いたくなるほどのこともあった。

 最近は、勝則に対しての気持ちが薄れてきたのを感じてきた。他に誰か好きな人ができたわけでもなく、急に勝則が嫌いになったわけでもない。もちろん、優子と知り合う前から考えていたことなので、逆に優子と知り合ったことで、勝則への気持ちの冷め方が、加速したのかも知れないと思うほどだった。

 真美は、同年代の男の子は、どうしても見下ろしてしまう傾向にあった。いつも父親の背中ばかり見てきたからかも知れないが、どこか甘く見ているところがあるのだろう。だから、勝則以外の男性には見向きもしなかったし、今から思えば、勝則と付き合いだした時の気持ちを思い出すことができないほどに、大昔だったような気がする、

 勝則は、同年代の中でも、真美が唯一見下ろさない雰囲気のある男だった。もし、彼のどこに惹かれたのかと聞かれたら、

「見下ろす感覚がないところ」

 だと答えるだろう。

 もっとも、そんな答えを返していては、他の人を見下ろしているということがバレるだけなので、口にすることは永遠にないだろう。

 勝則という男は、人によって態度が変わるところがあった。媚びるようなことはないのだが、自分が気に入った相手と、気に入らない相手とでは、明らかに接し方が違っている。逆に言えば、分かりやすい性格でもあり、彼の性格については、賛否両論あることだろう。

 急に怒り出すというところも、逆に言えば、分かりやすい性格なのかも知れない。父の性格も分かりやすかったことを思えば、一見短所にしか見えないことでも、見方によっては長所になることもあるのだと、真美は感じたのだ。

 そんな勝則が、取った行動は、真美には想像もつかないものだった。

 元々、勝則は、自分の中の善悪に関して、分かっていないところがあった。

「他の人がやっているんだから」

 という言い訳を自分の中でしてしまっていたり、

「悪いのは自分ではない」

 と、何かにつけて、自分を正当化しようとしていた。

 その時の真美は、優子に溺れていたこともあり、感覚がマヒしていたのかも知れない。何があっても、少々のことではビックリしない。自分を正当化することで、真美の目から見て、勝則の正当性は認められているようだった。

 勝則はそれだけでは我慢ができなかった。どうして、真美が最近、自分から遠ざかっているのかを突き止めた。真美の後をつけたのだが、真美は、まさか自分が尾行されているなど思ってもいなかったので、勝則に、簡単に優子のことを発見されてしまったのだ。

 真美が甘かったのは、まさか勝則が自分を尾行しているなどと思ってもみなかったことだ。勝則の立場に立ってみれば、それくらいのことをしても当然だと思って、しかるべきである。

「あの女、一体何者だ?」

 勝則は、真美と優子の関係を、最初は疑ってはいなかった。勝則は、真美に近づいた魔性の女が、優子なのだと思っている。

「あの女から、真美を引き離さないと、真美は俺のところに戻ってはこない」

 そう思った勝則は、真美のことよりも、優子の方を気にし始めた。それは、最初から優子に気が合ったのではないかと自分で疑いたくなるほど、自然な視線を、優子に浴びせたのだった。

 優子は、勝則の視線に、最初はまったく気づかなかった。勝則の視線が自然であったということよりも、元々優子は、男性の視線をあまり感じたことがなかったのだ。

 男性に対しては、鈍感だった。ある意味、自分が男性を好きになったりすることはないと思っていたくらいで、そんな優子がどうして松田を好きになったのか、自分でも分かっていないのかも知れない。

 松田だけが、優子を普通の女性だと思っている。

 他の男性は、優子を見ると、どこが違うのかと考えるよりも先に、

――他の女性とは、違っている――

 と、思うらしい。

 優子もそのことが分かっているから、男性を好きになることもなく、男性に心を奪われないようにしようと思い、わざと鈍感な自分を作り上げようとしているのだ。

 松田は、人をなるべく差別的な目で見ないようにしていた。だから、優子が自分の中にある物差しで男性を図っていることなど、お構いなしに見ていることで、普通の女性と変わりなく見ることができたのだ。

 ただ、そんな中で、優子が実際の年齢よりも若く見えていることだけが不思議だったが、それも今度は松田自身の物差しから考えれば、不思議のないことでもあった。

「きっと、俺と知り合ったことで、イキイキした毎日を送るようになり、若く見えているのだろう」

 実に自分にとって都合のいい、いわゆる「おめでたい」考え方なのだろうが、それが松田の物差しだとすれば、優子は、松田の物差しの中にすっぽり入っていることになるのだろう。

 だが、松田以外にも、優子のことが、気になって仕方がない人が現れた。それが勝則だった。

 勝則は、優子から比べれば、相当年齢差がある。真美よりも二つ年上だというから、二十四歳であろう。ちょうど優子の半分くらいの年齢だ。

 勝則は、自分が年上の女性に憧れているということを、忘れていた。小学生の頃に学校の先生に憧れてから、年上を意識することはなかったので、忘れていたのも仕方がない。ただ、小学生の頃に憧れて、初恋だった相手が先生だったのだが、初恋は淡く消え去るのも定めのようなもので、勝則は忘れてしまうほど心に強い抑制を掛けたことで、トラウマのようになっていたのだ。

 勝則にとって、年上の女性は、母親をどうしても意識させられた。

 勝則の母親は、勝則が高校に入った時、行方不明になった。噂では、他の男性といい仲になり、二人で駆け落ちしたという話もあったが、根拠のない話だったので、信憑性は薄かった。しかし、勝則が聞いた時は、まだ根拠がないと分かる前だったので、ショックは計り知れないものだったに違いない、

――母さんは、俺を残して、出て行ったんだ――

 と、思い込んでしまったことで、その後いくら、

「あれは根拠のない話だったんだ」

 と聞かされても、いなくなったという事実だけで、捨てられたというイメージはまったく払拭されたわけではない。

 母親に対して特別な思いを持っていたわけではないのに、いなくなってしまって初めて、母親を意識していたことに気付くのは皮肉なものだった。そのせいで、母親のような年上の女性は、

「俺を裏切るんだ」

 というイメージで凝り固まってしまった。そして、今度は真美を奪ったのが、また年上の女性ではないか。トラウマの上に成り立っている女性へのイメージ。途中で歯車が狂ってしまい、優子がどんな女であろうとも、年上の女というだけで、勝則には敵対する相手としてしか映っていないのだった。

「またしても、年上の女が俺から大切なものを奪っていくんだ」

 トラウマは、大切な自分の中にある何かを奪うことだと思っていたので、年上の女に対して、共通の思いがさらに深まるのだった。

 憎しみから始まった優子への思い。それは勝則の中にある、執着心を呼び起こした。

 母親が出て行った時、自分には何もできなかったという思いが、強く残っている。説得すれば出ていくのを思い止まったわけでもないのに、何もしなかった、いや、できなかった自分に対しての苛立ちも半端なものではなかった。

 だからこそ、いつも自分を押し殺して毎日を過ごしていた。変わり者のように見られるのは、過去がどうあれ、自分を押し殺して、さらに、まわりに隠そうとしているからだったに違いない。

 まわりに対して自分を押し殺している人間ほど、厄介なものはない。人を近づけないオーラは、誰に対しても分け隔てのないもので、特に、自分に対して攻撃的なものであれば、余計に殻に閉じ籠ろうとする。学生時代はそれでもよかったが、社会人になってからは、まわりがほとんど敵だらけ、ちょっとしたことでも、すぐに反発してしまい、アドバイスや助言も効かなかったりする。

 会社の女性社員は、年上が多かった。年上と言っても、本当におばちゃん事務員で、色気も何もあったものではない。女性を感じさせるものがないだけに、却って、仕事に差し支えがないだけ、よかったと言えるのではないだろうか。

 社会人になって、しばらくは女性を意識することはなかった。通勤の最中に、高校生の女の子たちを眩しいと思うこともあったが、しょせんは手が届くものではない。それだけに、本人の中で無意識のうちに、ストレスが溜まっていったのかも知れない。

 真美と知り合ったのは、そんな時だった。まさか付き合い始めるようになるなど、思ってもいなかったので、すっかり有頂天になっていた。真美の言うことなら何でも聞いてあげたいという気持ちがあり、勝則は自分の中に溜まっていたストレスに気付いてもいなかったはずなのに、溜まっていたストレスが解消されたことに心地よさを感じていた。

 普通の性格に戻れた気がしていた。だが、勝則の中に鬱積したものが残っていたのも事実で、真美は、その鬱積したものに興味があったのだ。付き合い始めてから、少し丸くなってきた勝則に、真美の興味は少しずつ冷めていったのである。

 真美が少しずつ変わっていったのを、敏感に感じ取った勝則は、また鬱積したものが溜まってくるのを感じた。すると、真美が優しくしてくれる。真美の興味も戻ってきたのだ。

――自分が苦しまないと、真美は優しくしてくれないのか――

 皮肉な運命に勝則は悩んだ。真美が、性悪な女だというのを知っているのは、勝則だけであった。

 だが、実は真美が性悪な女であることを知っている人がもう一人いた。それは、優子だった。

 優子は、真美の性悪なところに興味を持った。もし、真美が普通の女の子であれば、興味を持つことなどなかったであろう。勝則から真美、真美から優子へと繋がる線は、一本であり、その線の中心にいるのが真美だった。こんな関係は、均衡が取れてこそ成立するというもので、どこかのバランスが崩れれば、すべてが狂ってしまうだろう。

――いや、元々が狂った関係なんだ――

 この関係を全体的に知っている人は誰もいないはずである。ただ、こんな関係もあるのではないかと思っているのは、真美だった。

 まさか自分のまわりの関係だなどと思っていないが、夢で、似たような関係を見たような気がした。あくまで夢で見たのは客観的に見たもので、全体が見渡せた。

 結末を見ることができないのが夢というもので、すべてが一方通行で保たれている均衡関係、これのどこが崩れるというのか、崩れる予感はあっても、一触即発のままで、一向に進展しないのが、夢の中だった。

 夢を見ていると気付いた時、均衡が崩れた。どこが崩れたのか分からないが、目の前に閃光が現れたかと思うと、一気に目が覚めていくのを感じた。

――まだ、結末が見えていない。目を覚まさないで――

 と、思ったが、夢というのは容赦ない。気が付けば、目が覚めていた。

――夢とは最後まで見せないから夢なのだ――

 分かっていたはずなのに、自分が夢を見ているということに気付いたのも、最後まで結論を見ることができないと思ったはずだったからだ。

 結論を見たいのは山々であるが、怖い気もしている。

――夢は潜在意識が見せるものだ――

 というが、まさしくその通りだ。潜在意識が見せるから、怖がりな自分が、見てしまったことを後悔しないギリギリのところで、目が覚めるのであろう。

 夢だから何でもありだという考えは、すでに小学生の頃からなかった。真美が、現実的だと言われるのは、そのあたりに原因があるのだろう。

 現実的な女の子は、あまり友達ができない。そのくせ、友達になる人は、ロマンチストが多い。もっとも、友達から見て現実的に見えるだけで、普通の性格であれば、それほど現実的に見えないのかも知れない。夢を語ること自体、現実的な性格とは言い難いのではないだろうか。

 真美は天邪鬼なところがあることから、現実的な会話をする人の中に入ると、夢の話を自分から始める。逆に、夢の話をする人の中に入ると、現実的な話から。夢を語ろうとする。どちらにしても、夢というものは、現実の裏返しであって、現実世界から離れた想像ができないことを示している。

 勝則は、少なくとも現実的な考えを持った男だった。変わり者だと言われるのは、現実的な考えに、夢の話を混在して話そうとするからで、現実的な話をする人から見れば、トンチンカンな発想に見え、逆に、夢の話をする人から見れば、いちいち話の腰を折られるようで、こちらも、会話に参加するには、荷が重すぎる。そういう意味で、会話に乗れない勝則を、変わり者という言葉だけで表現しようとしているのだ。

 要するに、変わり者同士が付き合い始めたのだ。

 ただ、磁石で言えば、同じ極の者同士が付き合っているようで、必ず反発するようにできているのではないか、真美にはその意識はないようだが、勝則には、反発する意識が芽生えてきた。最初にあれだけ有頂天だったのが、急に冷めてきたのは、そのせいであろう。

 それでも、真美が少しずつ自分から離れて行ったのは許せなかった。それは真美にたいしての未練というよりも、自分のプライドを傷つけられたことへの反発である。勝則は真美の様子を影から探り、ついに優子を見つけたのだ。

 その時にまたしても年上の女に裏切られたという思いと、優子が自分に勝る何かを持っていることに対しても、許せないものがあった。

――俺は女に負けたんだ――

 という思いが募り、優子がどんな女なのかを探ってみた。

 普段は別に変わった様子もない。真美と一緒にいる時は、影から見ることはしなかった。優子が一人でいる時を、勝則は観察していたのだ。

 もう、勝則の頭の中には、真美はどうでもよくなっていた。未練はないという気持ちの表れだが、真美に気がないと思ってしまえば、今度は優子に対して恨みもなくなってくる。一人の女として優子を見つめていると、何でもない普通の女だと思っていた考えに、少しずつ変化が訪れるのだった。

「俺って、年上の女に恨みを持っていたつもりだったのに、年上の女が実は好きだったんだ」

 と感じるようになっていた。

 考えてみれば、同年代の女を意識したのは、真美だけだった。それ以外は、恨みを持った女も含めると、ほとんどが年上だった。いい悪いは別にして、自分のまわりには、確実に年上の女が寄ってくる。そして、自分の人生に多大な影響を与え続けていたのだ。

 今までに、そこまで女に対して考えたことはなかった。思春期には他の連中同様に、女性に興味を持ったが、あまり気が乗らなかったのは、皆と同じように同年代の女の子しか見ていなかったからだ、同年代の女の子が子供だというわけではないが、自分にとって感じるまでに至らないのは、最初、女に興味がないのかも知れないと思ったからだ。

 だが、年上を恨んでばかりいたのでは、永遠に女性を好きになることはなかったかも知れない。それなのに、真美を見た時、他の女性と違っていたことで、それは、勝則の目から見て、真美が現実的に見えたからだ。

 女性の中には確かに現実的な人もいるが、真美の場合は違っていた。自覚しながらも、どこか現実的ではないところを求めているところが、勝則には不思議に思えたからだ。そのことは、まだ真美自身でも気づいていないことで、きっと、今までの誰も気づいていなかったことを勝則が気付いたに違いないのだろう。

 真美が現実的なら、優子はどうだろう?

 見た目はメルヘンチックなところがあり、いつも楽しそうに見える。だが、それは他の人の目から見た場合で、勝則が観察した分には、優子も真美と同じ、現実的なところを多分に持った女性であると思えてならなかった。

「真美よりも、もっと現実的なのかも知れない」

 花屋で接客している時の笑顔が、どこかよそよそしく見えている。本心からの笑顔ではなく、完全な営業スマイルである。そんな優子を見ていると、勝則には、真美や松田が感じた以上に、優子は若く見えているようだ。

 遠くからではハッキリと見えないが、肌つやもまだ二十代に見えているかも知れない。本当の年齢は最初から調べていたので、観察を続けるうちに、気持ち悪くなってきた。

 だが、気持ち悪さとは裏腹に、勝則の心の中に、優子を慕っている自分がいることに気付き始めた。

「どういうことなんだ?」

 勝則は、今までにも、自分のことが分からなくなることが何度もあったが、そのたびに、落ち込んでは、立ち直ってきた。鬱病のようなものだと思っていたが、他の人がなる鬱病とは少し違っているようだった。

「俺は、他の人と同じでは嫌な性格だからな」

 と自負しているだけに、今回の感覚も、また落ち込んで、すぐに立ち直るだろうと思っていた。

 だが、なかなか落ち込む感じはなかった。むしろ、落ち込むというよりも、人生が楽しくなるくらいの感覚が生まれたのだ。

 人生が楽しくなる感覚は、頭の中に優子を思い浮かべた時だった。優子を想像していれば、心地よい時間に包まれて、安心感が芽生えてくる。こんな感覚は今までに味わったことのないものだった。

 だが、人間には欲というものがある。それだけでは我慢できなくなる時が必ず訪れるもので、

「このまま、想像だけを繰り返していては、どうにも我慢ができなくなる」

 と、感じた時、焦りから汗が溢れてくるのを感じる時が出てきた。

 夢の中でも優子が現れる。優しく微笑んでくれる優子は、勝則に手を差し出すのだった。差し出された手に手を合わせると、そのまま優子に引っ張られたまま、身体が宙に浮く感覚が生まれてくるのだった。

 夢の中の優子は、妖艶だった。普段の花屋さんの雰囲気はなく、笑っていても、含み笑いになっている。手招きをしながら、真っ赤な唇が歪むのを見ると、自分が逃げられないのを悟った。

「逃げる気なんて、さらさらないさ」

 このまま、優子に抱かれたまま、じっとしている時間が永遠に続くのではないかと思い、不安にはなったが、

「不安の何が悪いんだ」

 と、言わんばかりに優子の膝に頭を乗せた自分が、遠くの空に手を伸ばすと、届いてしまのではないかと思いながら、また夢を見てしまいそうな気がしていた。

 夢の中で、また夢を見ようとするのもおかしなものだ。

 夢が現実の正反対であれば、現実の中にさらに現実を見つけようとする貪欲さを、どこかで感じたような気がした。

「そうだ。真美が現実の中の現実を見つけようとしているのを感じたような気がしたんだった」

 と、夢の中で真美を思い出していた。

 すると、真美が自分の知らないところで、優子と接していたことに、またしても腹が立ってきた。

「しまった」

 感情をあらわにすると、せっかくの夢の中を壊してしまう。下手をすると、このまま目を覚ましてしまうのではないかと思うほど、自分の中で危惧するほどだった。

 夢から覚めることはなかったが、ただ、優子と二人だけの夢の中に、真美が入り込んできたような気がして、今までに感じたことのない真美への恨み。これはこの間まで感じていた、

「真美を奪われたことへの優子に対しての恨み」

 それとは、少し違っていたが、本質は同じではないかと思えた。自分が大切にしたいものを、他人に邪魔される。これほど腹が立つ苛立ちはあるまい。

 勝則は、今までに、自分が何を大切にしていたのかなど、考えたこともなかった。大切なものは、心の中に自然に閉まっておくもので、必要のない時に取り出すものではないと思っていた。だが、時々確認してみないと、自分の人生が見誤ったところに行くのではないかと思うようになったのも事実だった。勝則は、いつも誰かを大切に想い、そして、邪魔する人に恨みを持つというエネルギーがなければ、人生など楽しくもなんともないのだと思うようになっていたようだ。

 ただ、今自分の中で不安なのは、今までに好きになった相手と優子とでは、何かが違っていることだった。ここまで情熱的な気持ちになったことなど、なかったのではないだろうか。

 情熱とは、燃えるようなものがあって初めて情熱と言える。勝則の中にある燃えるものは、青白い炎に包まれている。

「静かに燃える冷たい炎」

 真っ赤に燃えている炎など、想像がつかなかったのだ。

 勝則は、優子の観察を止めなかった。それが自分にとって、取り返しのつかないことになるなど、想像もしなかったことだろう。

 声を掛けようにも、真美がそばにいては掛けられない。

「どうして、あんたなんだ?」

 勝則は、自分が好きになってしまった相手を恨んだ。真美を奪った相手だといって恨んだ感覚とはまったく違う。今度は、真美が邪魔なのだ。

 真美を何とか優子から引き離したいと思っても、見るからに、引き離すことができる雰囲気ではない、勝則以外の人が見れば分からないであろうが、勝則には二人の関係が分かっていた。

 男性恐怖症である真美が、優子に惹かれるのも無理のないことだということが分かるからだ。

 優子は、勝則の気持ちを知ってか知らずか、毎日相変わらずの生活だった。そこに真美が入り込んだとしても、優子自身の時間には、何ら変わった様子はなかった。

 そのことが、却って勝則に不安を与えたのだ。

 勝則の不安は、観察すればするほど深まってくる。しかし、少しでも目を離すと、自分の知らないところに優子が行ってしまいそうな気がして怖いのだ。そんなジレンマに囲まれながら、勝則は、自分がどうしていいのかを模索してみた。結局、出るはずのない答えを探して、堂々巡りを繰り返すことになろうとは、思ってもみなかった。

 堂々巡りを繰り返していると、ある程度の時期がくれば、爆発してしまうことに、まだ勝則は気付いていなかった。ただでさえ、観察している行為は、ストーカーのようである。どうすればいいのか、分かっていないのだ。

 ただ、ストーカーは、自分がストーキングしているという意識があるのだろうか?

 追いかけている相手に対して、

「自分はあなたのことを好きになってあげた」

 という押しつけのような考えがあるのではないか。もし、そういう考えがあるのだとすれば、誰かが指摘しないと、本人には分からない。

 警察も、何かあってからでは動かないので、誰も、ストーカー相手に助言する人もいないだろう。

「私はストーカーです」

 などと、自分から宣伝して回っている人はいないだろうから、よふど、その人のことを見ていないと、ストーカーかどうか分からない。普通の友達程度では、

「まさか、あいつがそんなことしていたなんて」

 と、ストーカー行為がまわりに知れ渡って、初めて知ることになるのがオチである。そう思うと、ストーカーというのは、分かりにくく、一番陰湿な犯罪なのかも知れない。

 本人に自覚症状がないというのは、警察で言えば、生活安全課関係の犯罪には多いかも知れない。自覚症状があれば、少しは違っていたかも知れないと思うのは、実際に捕まるか、ストーカーによって、露呈した感情を知らしめられなければ、分からないに違いないだろう。

 以前にもストーカーまがいの犯罪はあったのだろうが、そんなに目立っていない。犯罪が陰湿化してきているのが原因だろうが、そこまで精神が病んでいる人間を作り出したのも今の社会であるということも言えるだろう。

 勝則は、自分に自覚症状がないまま、優子に対して、ストーカー行為を繰り返していた。何かをするというわけではないが、陰湿であることに変わりはない。ただ、言えることは、心地よい状態になっていたことは事実で、ちょっとした助言で止めることができるようなストーキングではなかった。やはり、押しつけのような気持ちが先に立ち、その思いが、自分の中で心地よさを形成していたのだ。勝則のストーカー行為は、典型的な他の人と同じ行動だったのだ。後で感じたことで、

「他の人と同じだったなんて」

 という思いが口惜しさとして残った。

 本当はそんな問題ではないはずなのに、自覚症状のなさが生んだ、一つの悲劇なのかも知れない。

 ストーカー行為を知っている人は、誰もいなかった。真美もまさか勝則がストーカー行為をしているなど、思ってもいない。しかも相手が、自分の知っている女性、慕っている女性であるなど、思いもしなかった。

 では、なぜストーカー行為が露呈したのか?

 優子が自分で、警察に言ったからだった。

 ストーカーにプロがあるならば、勝則の行為はアマチュアもいいところ、素人でしかも初心者、優子が警察に通報して、簡単に、勝則の行為が露呈したのだ。

 初犯であり、反省も十分にしているということで、あからさまな罪には問われなかったが、その時の優子の態度を見て、勝則は愕然としてしまった。

 その時のことを真美は知らなかった。優子がうまく誰にも知られないようにしたからで、そのつもりだったから、警察にも通報したのだ。ストーカー関連で、警察が動いて、こんなに簡単に、犯人が捕まるということも珍しい。それだけに、観念した勝則には、ほとんど罰はなかったのだ。

 だが、優子が警察で、何をしたかというと、あたかも自分がその男のせいで、ノイローゼに掛かり、興奮状態であったという。

「私は、あの人のために、怖くて一人じゃいられないので、女の子の知り合いに泊まりに来てもらっているの」

 と、あたかも、娘になるはずの真美を利用して、自分がストーカーに怯えているかのように振る舞ったのだ。

 優子は、警察が真美にも事情聴取するということを分かっていたのだろうか?

 真美は、優子がストーカーに狙われていたことを、その時初めて知ることになった。だが、相手が誰なのか、そして、どんな被害にあったのかということは教えてもらえなかった。

 優子に聞くのも、気が引けた。

「なるべくなら私に知られたくないと思ったのかも知れないわね。危ないと思ったから警察に通報して、私が一緒にいることを言えば、警察も動いてくれると思ったんでしょうね」

 と、事情聴取にきた警察官には、そう答えた。実際に、感じたことをそのまま口にしただけである。真美の立場からすれば、それが一番正当な回答だったに違いない。

 真美は、ストーカーの存在を知って、さらに男性恐怖症に陥った。

 ちょうどいい機会なので、ここで勝則と別れようと思った。あまり勝則に対して、恋人らしいことはしてあげられなかったので、真美の方から別れを切り出すのは心苦しい。そう思っていると、

「俺、真美と別れようと思うんだ。理由は聞かないでほしい。すべて、俺が悪いんだ」

 額面通りに聞けば、まるで浮気をして、その償いに別れようとしているかのようだった。自分が浮気をしているのに、誰に対しての償いなのかと言いたくなるが、今回は、これこそ渡りに船ともいうべき、ベストなタイミングでの話だった。

「いいわよ。別れましょう」

 勝則も、真美から何を言われるか分からないと思っていただけに、アッサリと言われてホッとしたという気持ちと、若干の寂しさがあった。そして、その時の真美のアッサリとした対応に、何か不自然さを感じないではいられなかったのだ。

 別れというのも、悲しみを伴わないものもあるのだということを、二人は初めて味わった。しかも、二人とも悲しくない別れなど、最初から何もなかったのと同じではないだろうか。

 二人とも未練はない。

 勝則には、優子のような年上の女性が自分の好みだと分かり、真美には、彼の存在が自分をさらに男性恐怖症に拍車を掛けるのではないかと、間接的とはいえ、勘の鋭さが真美にはあるということの証明でもあった。

 優子は、ストーカー被害にあってから、少し変わったようだった。真美が泊まりに来て、最初の頃のように、妖艶な雰囲気が少しなくなってきたように思えたのだ。

 正面から見ていては分からなかったが、横顔は明らかに今までと違っていた。何が違うと言って、今まで優子の一番の特徴であった、

「年齢よりも若く見える」

 というイメージが薄れてきた。横顔には憂いがあり、年相応に見えてくるから、不思議なのだ。

 ただ、その思いは、優子を誰よりも知る真美だけではないだろうか。そう思うと、さらに優子をいとおしく思う真美だった。


 しばらくすると、松田が長期出張から帰ってきた。真美は父親の帰りを待ちわびていた。ストーカー騒ぎのおかげで、さらに男性恐怖症になった真美だったが、父親に対しての恐怖症は、すでになくなっていた。

 それは、ストーカーへの恐怖心が、父親に対して元々あった恐怖心を凌駕したのかも知れない。そういう意味ではこちらも堂々巡り、真美は自分が父親の帰りを待ちわびていたことを、父親の顔を見て安心したことで初めて気づいたのだった。

 松田は、早く優子に会いたいと思った。優子から連絡が最初の頃は、毎日のように届いていたが、途中からなくなったからだ。実はそれがちょうど真美との関係ができてからで、松田に連絡をなかなかできなかったのは、優子の中で後ろめたさのようなものがあったからなのかも知れない。

 真美は、父親が帰ってきてから、しばらくは、優子に近づくのを控えていた、優子も真美を近づけないようにしないといけないと思っていたので、その思いはお互いに合致していたことで、精神的に皆の均衡も守られていた。

 三人が久しぶりに食事を共にした。本当は、優子の手料理が一番いいのだろうが、

「ごめんなさい。私、今手を怪我しているので、料理が作れないの」

「そうなんだね。それは気をつけないといけないよ。今日は皆で外食をしよう」

 ということで、松田が知っているというレストランに行くことにした。

 優子が怪我をしているなど、まったく聞いていなかったのが、真美には分かっていた。

「私に気を遣ってくれたんだわ」

 優子の食卓で何度か食事を共にしたが、その時、ずっと身体の関係が続いていたことを、優子の方で気遣ってくれた。お互いに誰にも侵されたくない領域だと思っていたのだろう。

 だが、松田が帰ってきたことを機会として、優子は真美を近づけないようにしようという決意を固めていた。

 もし、あの時、勝則というストーカーが現れなければ、考えなかったかも知れないが、優子は真美を蹂躙していて、自分の欲だけで独占しようとしていたのかも知れない。最初は、男性恐怖症の真美を治してあげようという気持ちがあったのが一番の理由で、自分の中の本能も手伝って、真美を愛したが、本当はもっと他に手段があったのではないかと後悔もしていた。それだけ、真美を自分に引き入れてしまったことは、これからの関係によいはずはないと思うようになったのだ。

 何と言っても、義理とは言え、娘である。どこかで一線を画しておかなければ、このまま修羅の道を突っ走ることになるのではないかと思うからだった。

 優子は、自分の中にある、

――すぐに精神的に乱れてしまう悪いくせ――

 を思い出していた。自分も気付いていない間に、背中合わせになっているもう一人の自分が顔を出す。その顔は阿修羅のごとく、睨みを利かせているのかも知れない。

――誰に睨みを利かせている?

 それは、表の顔の自分にであり、表の顔の自分が見つめる相手にでもあった。

 優子の裏にある阿修羅の顔は、優子の表に出ない悪い部分をすべて抱えているように思う。若く見えるのも、年相応の顔を、裏の阿修羅が担ってくれているからだと思えば、不思議のないことだった、ただ、そんなことを誰が信じるというのだろう? 優子自身も最近まで、まったく意識しいなかったことだったのだ。

 優子は、最近誰も寄せ付けないようになった。真美は、それを自分のためだと思っているようだが、それだけではない。優子自身が、自分の殻に閉じ籠っているところがあるのだ。

 勝則が起こしたストーカー事件に端を発しているのは分かっているのだが、優子自身にもなぜ自分が殻に閉じ籠らなければいけないか分からなかったのだ。

――私は、一体どうしちゃったんだろう?

 優子は、一番いとおしいと思っていた真美に対しても、遠ざけようとしている。元々真美をいとおしいと思った最大の理由がなんだったか、思い出そうとしていたが、なぜか思い出せない。どこか気になるところがあったのは間違いない。そうでなければ、妖艶な部分の自分が表に出てくるはずはないのだから。

 優子はしばらくして、ストーカーの青年が気になり始めた。自分に対してストーカー行為をしたということで、優子の中で許せない気持ちが爆発し、警察に通報して、ノイローゼを演じてみたが、考えてみれば、相手のことを一切考えていなかったことに、今さらながら、驚愕したのだ。

 ストーカー相手に、被害者が気持ちを考えるというのもおかしな話だが、優子はそこまで切羽詰っていなかったはずである。追いつめるようにしたのは、許せないという気持ちが一番強く、どうしてそう思ったかというと、その男に自分の何かを否定された気がしたからだ。

 そこまでは意識している。ムキになってしまった一番の原因は、自分を否定したことだろう。

 だが、彼は優子の何も知らないはずだ。知っているとしてもごく最近のことで、人生を否定するだけのものを知っているはずなどない。そう思うと、ただの偶然なのか、それとも、優子の思い過ごしかのどちらかであろう。

 優子は勝則が真美の彼氏で、自分が真美を彼から奪ったことでのストーカー行為などと知る由もない。ただの赤の他人だと思っている。

 もし、そのことを知っていたら、優子はどうしただろう? やはり警察に通報しただろうか? そして、真美に対して、彼の本性を明かして、別れるように諭したかも知れない。それが一番行動としては正解なのかも知れない。

 優子は真美に対して、いつまで自分の元に置いておくつもりでいたのだろう?

 考えてみれば、優子が真美と関係を持ったのは、真美の男性恐怖症を見つけ、自分が何とかしてあげようと思ったことからだったはずだ。それは義母としての責務も半分頭の中にあったからだろう。

 ただ、真美としてはどうであろうか。今までに感じたこともない感覚の連続に、マヒしてしまった部分も多い。快楽がすべてだと思った時間を、至福の刻として、身体全体が覚えてしまっていれば、優子から離れるなど、できっこないと思うに違いない。

 優子には、言い知れぬ魅力がある。一番の魅力は、やはり一番最初に誰もが感じる「若く見える」ということであろう。それだけでも十分の魅力なのだが、男性から見た場合と女性から見た場合では、かなり感覚的な違いがあるに違いない。さらに、同じ男から見た場合でも、年齢の差で、見え方も違ってくるであろう。

 真美から見た優子、松田から見た優子、そして勝則から見た優子、それぞれにまったく違った優子が瞼に写っているに違いない。

 ひょっとすると、同じ人を見ていながら、まったく違う面が写っているのかも知れない。それは優子が表に出す性格に幾種類かあるからかも知れないが、優子自身が無意識に醸し出す裏の顔が見えていることもあるかも知れない。

 時々、優子のことが怖くなると思っていたのは、松田だった。同年代でありながら、優子だけが若く見えるのは、時々怖さを誘発するには十分だったかも知れない。ただ、どうしても優子だと思えない表情を浮かべることがあるのを意識してしまうと、若く見えることなどどうでもよくなって、マヒした感覚を、逆に我に返してくれるようだった。

 それなのに、結婚を決めてしまった松田。それは怖さを補って余りあるだけの気持ちを、優子に持ったからだ。それは最初に真美が感じたことであり、優子の中に一番大きな存在として秘めている「余裕」であった。

 男性もこの年になると、余裕に対して敏感になる。

「余裕を持たないといけない」

 と思うのも日ごろのことであり、優子にだけ求めるものではなかった。

 優子に今、精神的な余裕がなくなっていることに、真美も松田も気付いていた。そして、その理由は二人には分からなかった。長期出張に行っていた松田はともかくとして、真美は、その理由について心当たりはあると思っていたが、究極のところまでは分からなかった。

 優子は戸惑っていた。自分がストーカーとして通報した青年のことを考えると、次第に自分を追い詰めたくなる自分が不思議でならない。

――私は、至極当然のことをしただけなのに――

 責め苛む気持ちがどんなものか、身体の奥からムズムズとした気持ち悪さが滲み出て、汗が吹き出してくるのを感じる。

――きっとこのまま考え続けていたら、必ずどこかの壁にぶつかって、そこから先は堂々巡りを繰り返すだけなんだわ――

 こんなに長い間生きて来て、こんな気持ちになるのは初めてだった。いや、本当は過去にもあったかも知れないが、覚えていないのだ。

 優子は、自分がそんなに簡単に嫌なことを忘れられる性格だとは思っていなかった。だが、考えてみれば、気持ちの中に余裕があったのも確かである。余裕があるということは、それだけ嫌なことを忘れてきた、嫌、心の奥に封印してきたから、先に進めたのであろう。ただ、それが本当の解決策かどうかは分からない。臭いものに蓋をして、その場を切り抜けてきただけなのかも知れない。

 それも一つの人生経験なのだろうが、教訓として次に生かすことはできないだろう。そのことを、今優子は感じていたのだ。

 余裕を持つということが、一つ一つの人生経験の積み重ねであるとすれば、今まで自分が思っていた長所としての余裕は本物なのだろうかという気になってしまう。偽りであったとすれば、優子は何を信じればいいというのだろう。自分を信じられなくなったとすれば、その時から始まっているのだ。

 教訓を生かすことができなかったから、堂々巡りを繰り返すような気持ちになることが多かったのかも知れない。

 優子は、勝則のことが気になってしまってから、当の勝則は、真美と別れていた。どちらから先に別れを切り出したのかは、曖昧だったが、お互いに気持ちはすでに相手から離れていた。

 真美の方は、優子を知ったことで、勝則への思いが冷めてしまい、勝則の方は、真美のためだとは言え、優子に対して抱いてしまった気持ちが、ミイラ取りがミイラになってしまった気持ちに、自分が許せなかった。したがって、もう真美の元に戻ることはできないのだ。

 真美は、そんな勝則を見ていて、最初の頃に比べると、少し大人になったのを感じていたが、すでに勝則への気持ちは整理されていた。勝則と別れてからは、しばらくは、男と付き合うことなどありえないと思ったのだ。

 かといって、優子とずっと一緒にいようとも思わなかった。

 真美は、優子と関係を持ったことで、自分の中に寂しがり屋の自分がいることを再認識した。最初から分かってはいたが、自分で認めるのが怖かったのだ。

 そう思った時、自分の本質は、

「いつも一人で孤独な自分」

 だと気が付いた。本当は孤独が嫌いで、孤独が不安しか生まないことは分かっている。しかし、逆にこれ以上の自由はありえないのだ。自由と不安のジレンマの中で、本当は不安の方が強いはずなのに、本質は自由を求めている自分を怖いとも感じた。怖いながらも求める孤独は、他の人とは違っているはず。

 勝則と別れて、まず孤独を感じた。不安と自由のどちらを先に感じたのかというと、やはり自由を感じたのだ。

「男と別れたからと言って、悲しがることはないんだわ。すべて自由になったと思わばいいんだから」

 不安がまったくないわけではないが、それは、寂しさを感じるからだ。寂しさを感じて悪いわけではないが、寂しさよりも先に自由さえ感じられれば、何も悲しい思いをすることはない。それが真美の結論だった。

 優子とも、しばらくして別れるつもりだが、その時はどんな気持ちになるだろう。もし別れるとするならば、

「私の方から言うようにしよう」

 と思った。

 そうでなければ、寂しさとショックが残る。女性が、男性との別れを決意する時に、すべてを決めてから話をするのは、ショックと寂しさを少しでも和らげるだけだ。男性からすれば、置き去りにされた気分なのだろうが、女性の言い分としては、

「元々、あなたが悪いのよ」

 と、最初から一刀両断の気持ちを持っていなければいけないだろう。

 ただ、真美の中には、

「他の人と同じでは嫌だ」

 という気持ちがある。他の人と同じように、何もかも自分で決めてしまって、すべて事後承諾では、真美としても、気持ちの整理が本当につくのかどうか、疑問であった。人を欺くことは、自分をも欺くことになるので、自分が納得できていなければ、本当の意味での一刀両断ではないだろう。

 優子は、真美を近いうちに手放さなければいけないと思っていた。真美の、自分に対する気持ちが変わってきたのが分かったからだ。

 気持ちが変わってきた相手を繋ぎとめようとするほど、優子は強い気持ちを持っているわけではない。あくまでも相手が自由を選ぶのであれば、それを尊重してあげようと思うのだ。

 優子は、勝則を探した。勝則は、警察でいろいろ絞られたらしいが、罪に問われることはなく、今はひっそりと暮らしていた。

 専門学校を卒業し、今は出版社で働いているが、真面目な青年として、通っているようだ。ただ、印象的には暗く、友達も少ないらしい。ストーカーに走ってしまった理由もそのあたりにあるのではないかと、優子は感じた。

 今度は、優子が勝則の観察を始めた。何かをしようという気持ちがあってのことではなかったが、一度気になって見てしまうと、今度は目が離せなくなってくる。

「ストーカーになる気持ち、分からなくもないわ」

 と、感じたが、犯罪には違いないので、容赦はできない。だが、勝則を見ているうちに、影で見つめることの暖かさを感じるようになったのだ。

「私がこんな気持ちになるなんて」

 優子は、今までに結婚経験はない。付き合ってきた男性は何人かいるし、女性と付き合ったこともあったが、決して、男性との結婚を望まないわけではなかった。だが、勝則に対しての気持ちは、同年代の男性を好きになるような、そんな気持ちではない。どちらかというと、母性本能を擽られた感覚だった。

 今まで、自分を年相応に感じたことはあまりない。若かった頃の感覚が、いまだに残っていて、二十歳の頃が、まるで昨日のことのように思い出されるのだ。

 その頃、優子は、小説を書くことに夢中になっていた。題材は、いつも未来の自分をイメージすることが多く、多かったのが、中学時代の自分が、十年後を想像して書くことだった。

 まだ十五歳くらいのイメージの十年後なので、二十五歳の自分をイメージしてなのだが、書いている本人は、まだちょうどその半分くらいまで辿り着いたところであった。対岸にいて、先を見つめている自分をちょうど、三角形の頂点のように見ている感覚を抱きながら、書いていた記憶があった。

 絵を描くのが好きな真美、そして、二十歳の頃に小説を書いていた優子、それぞれに共通点があった。しかも優子は、今でも二十歳くらいの頃を一番よく思い出す。もし、今小説を書くとすれば、男女、どちらが主人公であっても、二十歳くらいの人をイメージして書くに違いない。

 二十歳のイメージというと、どうしても恋愛になってしまう。優子が書く恋愛小説は、純愛ものが多かった。女性同士の愛を描けるほど、自分の才能はないと思っているし、いくら自分が作り出す小説であったとしても、女性同士の愛は、犯すことのできないものとして、描くことを拒むに違いない。

 実際に、優子が書いている小説は、フィクションだけだった。ノンフィクションは書きたくないという思いがあり、逆に読むのが好きな歴史小説などは、書こうとは思わない。読む作品と書く作品、優子の中では明確に別れている。真美とそのあたりが似ていて、他の人と同じであることを拒むのだろう。

 松田との共通点は、歴史が好きだということだろうか。最近でこそ、歴史に造詣の深い女性も増えてきたが、昔は、歴史が好きな女性など、珍しかった。松田に女性の友達が少なかったのは、歴史の話で盛り上がることはできなかったからだろう。歴史の話題くらいしかない松田では、なかなか女性との会話が成立することも難しかったのだ。

 松田は、学生の頃、あまり歴史に興味がなかった。友達と話をしても、基本的な話すら分からない。だが、松田の頭の中には、

「歴史の話題ができる人は、話題性が豊富で、会話が繋がる人なんだ」

 というイメージがあった。

 それだけに、歴史に疎かった自分を恥かしく思い、大学三年生くらいから、遅まきながら、本を読むようになった。

 本は高校時代の歴史の勉強のように、暗記物ではない。裏話などの興味を持たせる話が結構掲載されていて、読んでいて楽しいものだった。

 歴史の本は、フィクションもあり、歴史サスペンス関係も松田は好きだった。だが、それも史実を知っていればこそのこと、何も知らないで、ただ読むよりも、数倍面白いことを知っていた。

 そのことを優子と話すと、

「そうなんですよ。私が歴史に興味を持ったのも、そこのところで、歴史に「もし」があったら? という発想が楽しくて、本を読んでましたね」

 と、話していた。

「まさしく、その通り」

 会話が弾むとは、こういうことを言うのだと、二人で感心していたものだった。

 歴史の話から、二人は学生時代の話を始めた。結構、似たものに興味を持っていたようで、会話がまた弾み始めた。こうなると、仲良くなるのも必然で、一気に結婚の話にまで、発展していった。

「結婚とは、タイミングが問題だ」

 とよく言われるが、まさにその通りで、勢いもタイミングの一つということになるのだろう。

 結婚を最初に言い出したのは、優子の方だった。

 意外だったのは松田で、結婚の話が出た瞬間、一瞬戸惑ってしまった。

「俺は離婚経験もあって、娘もいるんだけど?」

「関係ないわ。だって、あなたと一緒にいられれば、私はそれでいいの」

 実は、まだ優子を抱く前だっただけに、松田はビックリした。年齢的にも再婚するとすれば、初婚の相手はありえないだろうと思っていたからだ。

 松田が結婚を意識し始めたことは、真美にも分かっていた。結婚相談所からの郵便を、粗末にし始めたからだ。それまでは、結婚相談所からきた手紙を、楽しみにあけていたのに、今では、手に取ろうともしない。それを見た時、

「お父さんは、誰か好きな人ができたんだわ」

 と、直感したものだった。

 真美と別れた勝則は、それからしばらく、大人しくしていた。優子の分析した通り、勝則は、別に一人でも、寂しいとは思わないタイプだった。ただ、

「自由なので寂しくない」

 というわけではなく、孤独が嫌いなわけではないのだ。

 かといって、孤独が好きな人はいない。孤独と自由以外に、孤独が嫌いではない理由は思い当たらないが、要するに、「慣れ」のようだ。

 孤独に慣れてしまっているので、賑やかだと却って自分の居場所が分からない。一人だと何とかなるという考えが強く、その日、その時が何とかなれば、とりあえずはそれでいいという考えなのだろう。

「ものぐさなのかしら?」

 と、優子は感じたが、当たらずとも遠からじであろう。

 天邪鬼な人は、まわりにも天邪鬼な人が集まるもので、ただ、天邪鬼だということを本人自身が自覚していない場合もあるので、なかなか近づいてきても分かりにくい。優子にしても真美にしても、天邪鬼だと言えるだろう。二人はお互いに天邪鬼だと意識しているので、接しやすいが、勝則の場合は、どうやら、本人の意識がほとんどないようだ。そのために、真美にも優子にもなぜ彼が近くにいるのか、なかなか分かりにくいところがあった。

 優子が気付かなければ、誰も気づかなかったかも知れない。

 優子は気付いても誰にも言わないが、オーラのようなものが発せられ、考えが分かってしまうようだ。

「分かりやすい性格」

 だと言えば、それまでなのだが、優子の考えていることは、意外と誰も分からなかったりする。

 優子が近づいてきた時、さすがに、勝則は驚いた。

「何だよ。俺はもう、あんたに付きまとったりはしないよ」

 と、完全に、びくついていた。これがストーカーのなれの果てなのかと思うと少しショックもあったが、元々は、自分が大げさに騒がなければ、よかったことでもあった。だが、あの時の優子は、普段は感じることのない中途半端な正義感を振りかざしたようなものだった。

「もし、このまま放っておけば、この人は他の誰かにも同じことをするかも知れない」

 と、そう感じたのだ。

 本当は、優子はそんなに正義感の強い方ではない。自分がこの青年に気を許した正当性を、何とか示したいという気持ちがある。それは誰に対してというわけではなく、自分に対してのことだった。

 しかも、彼は完全に、優子を敵視している。そんなところが、母性本能をくすぐるのだろうが、確かに、彼に対して申し訳ないという気持ちが強いのも当たり前のことである。

 優子は、自分に弟がいたのを思い出した。幼児の頃に病気で亡くなったと聞いたが、実際に見たことはなかった。生まれてからすぐ、母親は親戚を頼って、落ち着くまで世話になっていたらしいが、帰ってきた時は一人だった。

 親戚のところで世話になったのは、弟だけではなかった。優子も自分が生まれた時、親戚のところで世話になってことをかすかにだが覚えている。田舎町だったが、自分が生まれたところという印象が強く、家に戻ってくると、今度はどこか違う場所に連れて行かれたような気がして。怖かったものだ。

 弟も同じようにそこで一年くらいはいただろうか? 自分の時は、確か半年もいなかったように思う。

「病弱で、身体も小さな子だからね」

 と、まわりの人も言っていたが、まさしくその通りだろう。

 ということは、弟は一歳にも満たない間に死んでしまったことになる。そう思うと、弟もそうだが、両親も可哀そうであった。

 弟を見たことがないだけに、弟がいたことを時々忘れてしまう。ずっと一人っ子だというイメージのまま育ってきたので、なかなか兄弟と言われてもピンと来ないし、男の子のイメージも湧いてこないのだった。

 男性恐怖症になったことはなかったが、真美を見ていて、

――彼女、男性恐怖症になりかかっているわ――

 と、軽い症状ではあるが、男性恐怖症になっていることに気が付いた。

 実は、優子が女性を愛したのは、今までに二度目だった。真美には、何回もあるように思えたが、実際には、そんなにあるわけではない。優子も最初、同じように自分を女性同士の愛情に引きずり込んだ女性がいたことで、女性への道を見つけてしまったのだ。

 元々、男性を好きになるはずだったのに、その時は、自分が好きになった相手に付き合っている女性がいて、彼女が優子に、

「彼を好きにならないで」

 と、直訴に来たのが、そもそもの始まりだった。

 彼女がどうして、優子に食指を伸ばしたのか分からない。その頃の優子は、若く見えるようなこともなく、普通の女の子だった。どちらかというと、ボーイッシュなところがあるくらいで、ひょっとすると、ボーイッシュなところが気に入ったのかも知れない。

 だが、身を委ねている時は、完全に優子は「女」だった。最初から震えが止まらずに、触れられた場所からは、放射状にゆっくりと快感が伝わっていく。

 全身に伝わるまで、一分くらいは掛かったのではないだろうか。彼女は焦ることはしなかった。一度触れると、次に触れるまでには、少し間があったのだ。

 それでも、優子は焦れた気分になることはなかった。目は虚ろになり、彼女を見つめていたが、意識はハッキリとしていた。ただ、その間の時間が、あまりにもゆっくりと過ぎていくだけであった。

 一日があっという間に過ぎていたと思っていた頃のことであった。

 一日はあっという間に過ぎてしまうのに、一週間、一か月となると、なかなか過ぎてくれない。一週間前を思い出そうとするならば、まるで一年前くらいの感覚でしか思い出すことができない。

「きっと、それは思い出そうとするからよ」

 と、彼女に時間の感覚の話をすると、そういう風に返ってきた。

「時間に委ねていれば、時間はあっという間に過ぎてくれる。でも、思い出そうとすると、時間を逆行することになるので、なかなか思い出すまでには時間が掛かる。それは、いい思い出でも嫌な思い出でも同じこと、だけど、その過程はまったく違っているものなのよ」

 と、説明してくれた。

 一回だけでは理解できないような話でも、彼女がしてくれると、すぐに理解できた。これが最初に男のことで、

「彼を好きにならないで」

 と、訴えに来た女性であろうか。確かに潔さがあった。優子もその迫力に押されてしまったが、明らかに最初にあったしとやかさは消えていた。

 優子も、もう彼のことなど、どうでもよくなった。

 優子の中に、女性を惹きつける何かがあるのか、それとも、その時に彼女の潔さを優子も共有しているのか、優子には、その時の彼女の考え方が浸透しているようだった。

 その人としばらく一緒にいたが、すぐに別れた。お互いに目指すものが違っていることに気付いたからだ、

「優子は、男性を好きになることはないかも知れないわね」

 それが、彼女の最後の一言だった。それが、彼女と優子との違いだったのかも知れない。

 優子の人生は、それからあっという間だったような気がする。毎日は、なかなか過ぎてくれないのに、長い期間で考えればあっという間だったのだ。それは最初に彼女が話してくれたことを思い出してみると、毎日に一生懸命になって、先を見ようとしない。いつも何かを思い出そうとしていたから、一日が長く感じられたのだ。

「物忘れが激しいと感じるようになったのは、いつからだっただろう?」

 優子は、自分が物忘れの激しいと思っている。それは最初からではなく、ある時、急に気付いたのだが、実際に物忘れが激しくなった本当の時期は曖昧で、ハッキリとしないのである。

「毎日、一つずつ、何かを忘れて行っているような気がする」

 一つだけとは限らないが、確実に一つは忘れて行くという感覚に襲われた時、しばらくして、物忘れが激しくなったことに気付いた。本当なら、逆なのかも知れないが、昨日のことすら、まったく思い出せないのだ。思い出せない理由に、時系列がハッキリとしないからだというのが一番大きな理由だと気が付いたのは、またしばらくしてからだった。

 その時になって、初めて時系列の話をしてくれた彼女のことを思い出した。その時、彼女が自分から離れて行った違いの中に、時系列を曖昧にしか扱えない優子のことが、最初から分かっていたのかも知れないとも感じた。

 買い被りかも知れないが、彼女にはそれだけのオーラがあった。時間の感覚の話をしたのも、ただの偶然ではないのかも知れない。

 不思議なことだが、彼女のことだけはハッキリと思い出せる。そして、彼女のことを思い出した時、優子の中の時系列は繋がりを見せ、しばらくの間は、物忘れの激しさがなくなっている。

 優子は、真美の中に彼女を見たと思っていたが、実際にはそうではなく、見たのは、あの時の自分だった。

 すると、真美を抱いている時の自分が、あの時の彼女になっているということか?

 考えてみれば、彼女自身、本当は誰なのかと、曖昧な気持ちになっているようなことがあった。

――あの時の彼女も、私の中に、自分自身を見ていたのかも知れない――

 だから、いずれは別れが訪れる。優子も真美との別れを、必然のこととして受け入れていたではないだろうか。

 優子は、勝則を見て、初めて男性以外の男性を感じた気がした。

 男性というと、ガサツで、自分のことしか考えない人が多いと思い込んでいた。確かにストーカー行為は自分のことしか考えていない行為ではあるが、裏を返せば、それだけ相手を想っているということである。その手段が姑息で卑怯ではあるが、表現の違いだけで、彼はそれほど悪い人間ではないのではないかと思えてきた。

 そう思うと、弟のイメージが頭を巡る。思い出す弟は、学生服に身を包んだ高校生の男の子だった。なぜ高校生なのか分からないが、弟のことを想像したのが、優子が短大時代だったことがあって、優子の中で、弟を思う時間は、短大時代で止まっていたのだ。

 短大時代の友達の弟が、優子のことを好きになった。その男の子は、優子を女性として見ているというよりも、お姉さんとして見ていたのだ。

 優子にはそれが最初から分かっていた。

「もし、弟が生きていたら、この子くらいになっているんだわ」

 と思い、弟のイメージを勝手に思い浮かべていた。

 彼女もいない、あまりモテるタイプには思えない男の子で、誰が見ても、「ダサい」タイプだったのだが、優子には、それでもいとおしく思えた。

 それでも、優子は彼に男性を感じた。学校ではサッカーをやっていて、補欠ではあったが、一生懸命さが、本人はダサいと思っていたようだが、優子には男らしさと映ったのだ。

 彼が男らしいと思ったことから、男性に対してのイメージは、他の女性が感じるものとはだいぶ違ったようである。そのせいなのか、優子にはそれから彼氏はできなかった。お見合いの話も何度かあり、実際にお見合いもしてみたが、相手から断られることが多かった。

 理由を聞かされることはなかったが、表に出ている女性らしさとは違う雰囲気が、一緒にいるうちに、溢れだしてくるようだった。

「趣味が合わない」

 一言で言えば、それだけで済まされてしまうのだ。

 優子自身も、お見合いをした相手に男性を感じることはなかった。

「一緒にいてイメージが変わってくるのは、私だって同じだわ」

 ハッキリとした理由を言われれば、優子はそう言い返すに違いない。

 気が付けば、四十代も後半、もう結婚願望など、当の昔に消え失せてしまっていた。

 優子は、今、人生を時間で図っているような気分でいた。毎日を目標もなく過ごしているが、そんな時、なぜ松田と結婚しようなどと思ったのか、自分でも信じられない。ただ感じたこととしては、

「私の物忘れの激しさを、治してくれそうだから」

 と、感じたのが最大の理由だった。

 ただ、それまで波風立てずにひっそりと暮らしてきた優子が、松田と結婚を決めてから、波乱万丈を思わせる人生を歩み始めようとしていた。まるで二十代に戻ったような感覚だが、やはり頭の中で描いているのは、若かった頃の自分である。

 ストーカーになってしまった勝則を気にし始めたのも、二十代に感覚が戻ってしまったからだ。

――弟のことを思い出して――

 と、思っているが、実際には、表に出す方の感覚が、そう言っているだけだ。本心は違うところにあって、

――本当に弟なんていたんだろうか?

 という思いが、今疑念として、優子の中にあった。

 弟がいたと思っているのは、優子だけの感覚で、本当は、この世に弟など存在していなかったのではないかという疑念を抱かせたのが、勝則の存在だった。

 弟として見ると、なるほど、表向きの気持ちにウソはないが、本当の自分の中にある気持ちには偽りであった。

「弟がいたという話は、誰から聞いたんだっけ?」

 思い出そうとすると、今度は頭痛がしてくる。肝心なことを思い出そうとすると頭痛が襲ってくるようになったのは、四十代になってからのことだった。

 誰から聞いたのかということから、信憑性を図ろうとしていたのだが、その気持ちすら、頭痛を挟んで忘れてしまうのだ。根拠を忘れてしまっては、その後、何を考えていいのか分からなくなってしまう。これが、お物忘れのメカニズムではないかと、優子は思うようになっていた。

 テレビドラマなどで、よく見ていると、記憶喪失の人が思い出そうとすると、頭痛に襲われて、何も思い出せなくなるシーンがあるが、

「テレビの見すぎなのかも知れない」

 と、思うほどだった。

 弟の存在が薄れてくる中で、なぜ勝則を見て、今さら弟を思い出したのだろうか? 弟がいなかったという考えが、優子の考えすぎで、気持ちの中に迷いを生じさせているのではないかと思うのだった。

 勝則は、優子の出現で、完全にビビッてしまったが、それを見て可愛いと思う優子は、その時点で、表に出せる自分ではなくなっていたのだ。表に出せる自分は、きっと、頭痛に苛まれていて、自分では動くことのできない呪縛の中で喘いでいるのかも知れない。

 それをいいことに表に出てきた、普段は裏で潜んでいたもう一人の優子が、勝則を見て、

「弟だ」

 と思ったのだ。

 もう一人の優子の中では、まだ弟は生きていることになっている。

――物忘れの激しい私は、一体どっちなんだろう?

 ストーカーの彼に対し、警察で証言したのは、明らかにもう一人の自分だった。その時に、優子は弟を意識しなかった。まったく頭の中になかったのである。

 頭に血が上っていたのは確かなことだが、それにしても、弟の存在をまったく忘れていたなんて思えない。やはり、物忘れの激しさは、もう一人の自分が時々表に出て来ようとすることで生じる弊害のようなものではないだろうか。

 勝則の顔を見ていると、優子は弟が目の前にいるのを感じる。いとおしく感じるのは、もう一人の自分が、見たこともない弟を知っているからであろうか。

 勝則に感じた、

「男性以外の男性の雰囲気」

 とは、弟を見ているからだろう。しかし、勝則に感じるのは、表に見えているイメージではない。中にあるものが透けて見えているかのようである。

 それは勝則が見ているのも、優子の表面ではなく、中を見ようとしているからだ。お互いに共鳴し合うところがあるようで、その瞬間、時間が止まってしまったかのようで、次の瞬間から、時間が経つのがゆっくりになるのだ。

 そのことを優子は、自覚していたが、勝則も自覚しているのを知るのは、もう少ししてからだった。勝則が優子に心をなかなか開こうとしないのは、自分がストーカーとして追いかけた相手であることへの罪悪感がジレンマとなって彼を追いつめたからだった。

 優子は、弟の夢を見る時、決まって顔が分からない。逆光になっているために、顔も体型もシルエットだ。そのためか、いつも目が覚めた時、汗をぐっしょり掻いている。

 表情は薄暗く、ただ、綺麗に並んだ真っ白い歯だけが、ぼやけた表情に浮かび上がっている。気持ち悪さは、さらに増幅し、肩が揺れていると思うと、呼吸の荒さが目立っている。

「コーホー、コーホー」

 と、まるで、ガスマスクでもしているかのような息遣いだけが聞こえるのだった。

 数年前、親戚のおばさんが入院し、見舞いに行った時のことを思い出した。口元には、酸素ボンベが嵌められ、腕には点滴の針が刺さっている。ちょうど手術後だったようで、目が覚めるまで少し待っていたのだが、その間の集中治療室で見た光景だった。

 痛々しさは表情など分からない。意識が戻って話ができるようになると、まったくの別人だ。

 だから、夢の中で、顔も分からないのに、よく弟だと思ったものだが、考えてみれば、弟の存在自体を見たわけではない自分に、顔を想像するなど、妄想以外の何者でもないだろう。

「夢の中で、弟は気持ち悪さしか、私に印象を与えてくれない」

 それは、弟の夢を見ること自体、悪いことだと言わんばかりである。まるで、

「見ないでほしい」

 と言って、夢に出てきているのだとすれば、それこそ、矛盾している。それだけ無意識とはいえ、優子の弟をイメージする気持ちが強いのかも知れない。

 それでいて、弟のことを知らないばかりに、イメージすることができないジレンマが、夢の中で、

「見ないでほしい」

 と、訴えさせているのかも知れないのだ。

 弟のイメージが湧かないまま、勝則を見ていると、彼が弟のイメージに一番近いことに気が付いた。

「男性以外の男性とはどういうことなのか?」

 女性に近いというわけではない。ただ、格好はよくないが、その中に男らしさはある。男と男性の違いをイメージしてみたが、野性味があるかないかではないかと、優子は思った。

 勝則には、野生のイメージがある。野生のイメージがあるからと言って、紳士的ではないというわけではない。確かにストーカーに走ったり、雰囲気も全体的に暗いが、その中のストイックな部分を見つめると、優しさが見え隠れしているようで、不思議な感覚に襲われるのだった。

 優子が勝則を観察したのは、二回くらいだった。それ以上してしまうと、今度は自分が逆にストーカーになってしまう。ミイラ取りがミイラになったということわざがあるが、そんな問題ではない。

 だが、二回くらい観察しただけで、何となく勝則のことが分かってきた気がした。そして、本当に弟のようなイメージが深まってくることも分かってきた。

 勝則を弟としてイメージしていると、自分の中にいたはずの弟のイメージが次第に薄くなってくる。

 本当は、弟のことを、一生忘れることはないだろうと思っていたが、勝則に出会ったことで忘れることになるとは、何か因縁があるからなのかも知れない。

 だが、完全に忘れたわけではない。元々表情など曖昧だったものが、勝則によって、作り変えられて自分の中に格納される。新しい弟のイメージが、優子の中で出来上がってきた。

 そうなると、今度は、別の疑問が頭を擡げてくる。

「本当は弟なんて、いなかったんじゃないか?」

 という思いだ。

 いくら弟の顔を知らないとはいえ、他人のイメージを勝手に、弟のイメージに置き換えて、簡単に格納できてしまうのは、どこか、自分の中で、

「弟はいない」

 というものがあったのではないか。そして勝則の存在が、その思いを確信に近づけているとすれば、本当はいない弟の影を追いかけていたのかも知れないと思うのだ。

 勝則は、そんな優子が気になってしまったのだろう。勝則を観察しているうちに、勝則がストーカーができるような性格かどうか、分かるというものだ。臆病なところがあり、思い切ったことのできないタイプであろう。

 それでも、切羽詰れば「火事場のくそ力」を発揮することもあるのだろうが、勝則の場合は、そこまで切羽詰っているわけではない。やはり、優子に対して、何か気になるところがあって、抑えきれない気持ちが、ストーカーまがいな行為に身を任せることになったのかも知れない。

 ストーカーから、いい悪いの判断を除くなら、今回の事件は優子にとって、軽率だったと思っている。それも、勝則を観察して感じたことで、その時は分からなかった。

 弟が実はいなかったんだという思いを抱いて、勝則の前に姿を現すことなく、観察をやめた。これ以上観察することは、自己嫌悪を誘発することになると思ったからだ。

 そして、この時に、初めて勝則がどうしてストーカーに走ったか、分かった気がした。勝則と付き合っていたのが、真美だということを知ったからだ。

 真美の中から、彼氏がいるという雰囲気は感じられなかった。いて不思議はないのだろうが、男を感じさせるものが何もなかったからだ。

 そういう意味でも、勝則は、男性以外の男性だという雰囲気を醸し出させていたのかも知れない。

 優子から、真美は離れて行った。かといって、勝則の元に戻る雰囲気はない。真美は優子が最初に出会った時と、雰囲気が変わってしまった。

 真美には、どこか貪欲なところがあり、相手を探求しようという意識があった。本人の意識の外なのかも知れないが、意識としてはあったのだ。表情から読み取れた雰囲気は、若さが漲っていた。

 しかし、今の真美は、「大人」だった。ただ、探求心は最初のようにはなく、ギラギラしたものが消えていたのだ。ギラギラした眼差しは、表情に漂っている探求心を感じさせるものだった。それが消えてしまっていて、貪欲さが落ち着きに変わった時、真美の表情は色白で弱弱しさな中に、可憐な一輪の花を思わせる雰囲気を漂わせるのだった。

 だが、雰囲気が変わったのは、真美だけではない。真美の方から見て、優子の雰囲気はイメージを崩すものとなっていた。

 大人しくて、妖艶で、ただ、年齢よりも若く見えるというのが特徴の優子だが、年齢よりも若く見えるというイメージが、少し変わっていった。

 母親の顔になっているのを感じたからだ。

 優子は出産経験がない。若く見えるのは、そのせいもあったのではないかと思っていたが、それだけではなく、

「年齢を重ねると、大人しい人ほど、若く見えるものなのかも知れない。それは女性特有の感覚ではないだろうか?」

 と、真美は感じるようになっていた。

 真美は、父親と優子が知り合ったきっかけについて考えてみた。急に今まで興味のなかったものに興味を持ち始める父に、今さらビックリさせられることはないが、まさか、花に興味を持つなど、思ってもみなかった。

 真美も実は、急に今まで興味のなかったものが、気になるようになることは、これまでにも何度もあり、父親からの遺伝だと思うようになっていた。それでも、ほぼ同じ時期に父親と同じように花に興味を持ち始めるなど、想像もしていなかった。

「ひょっとすると、意識がなかっただけで、お父さんと同じ時期に、同じものに興味を持ち始めていたのかも知れないわ」

 と思ったりもしたが、偶然がそこまで重なることもない。それでも急に興味を持ち始めることは今に始まったことではないので、父が花に興味を持ち始めて最初に何を感じたかなど、分かる気がした。

「花というと、チューリップとアサガオやヒマワリくらいしか見分けがつかない」

 と、冗談で言っていた父は、まず最初に、色彩で花を感じようとするだろう。

 自分の好きな色の花を見つけて、それをじっくりと見る。そして、いっぱい自分の好きな色の花が咲き乱れているのを想像してみるが、次第に、飽きてくるのを感じる。目立つ色ほど飽きやすいと、よく言われているが、食べ物でも、好きなものばかりを食べていたら、いつかは飽きてくるものだ。そのうちに、

「見るのも嫌だ」

 という気分になり、せっかく好きなものを台無しにしてしまう。それは色にも言えることで、好きだからといって、そればかりを集めていては、そのうちに見るのも嫌になる。特に色は目が慣れてくると、残像として残るのは、まったく違う色だ。それが色として反対のものであれば、自分が嫌いな色だと言えるだろう。

 松田も、真美も二人とも好きな色は赤だった。

 ただ、お互いに好きな色と言っても少し違っている。松田がワインカラーのような色が好きなのに対し、真美は、深紅が好きだった。ワインカラーは、光沢があって、角度によって違う色に見えることもあるが、深紅は本当に真っ赤である。明るさは、ワインカラーにあるが、どちらが赤だと言えるかといえば、やはり、深紅であろう。深紅は、まわりの色を吸収しているかのようである。ただ、すべての色を吸収しているわけではなく、原色と言われる色を吸収しているかのようだった。真っ青であったり、真っ黒であったり、すべてのものを反射する真っ白でさえ、吸収できるのではないかと思えた。

「真っ白を吸収すると、ワインカラーになるような気がするのよ」

 色のバランスと調和は、絵を描いている時にいつも感じていた。色のバランスの取れた場所でのデッサンは、キャンバス全体のバランスをも凌駕しているようだ。真美が真っ赤を好むのも、色のバランスの調和が一番取れそうに思うからで、自分が好きな色とも重なったことは、真美を絵の世界に引き入れた最大の理由だったのかも知れない。

 今までに、花の絵を描いたことはあまりなかった。風景画を描くとしても、基調にしているのは、深緑だった。深紅と対になる色として、深緑にも興味を抱いていた。真っ赤が色のバランスを取る極右であれば、深緑は極左に値すると思っている。

 大きな池を中心に、まわりを森で囲まれた、秘境のようなところに、大きな洋館が建っている。学生時代に、友達四人と出かけたが、洋館は、まわりを真っ白に色塗られていて、光を一身に浴びることで、まわりの緑が引き立っていた。

 反射した光は、時折吹いてくる風に煽られてたなびく森の枝についた緑の葉を、明るい緑にも変えることで、まるで森全体にウェーブが掛かったかのように、遠くまで緑の架け橋を走り抜けるのを感じさせた。風に耐えられず落ちてくる葉っぱは、まわりながら、緑を光に変えていく。

 それを静止画として描くのは、最初はもったいないみたいに思えたが、描いてみると、静止画こそ、ふさわしい光景もあるのだということを、表していた。光が奏でる世界に、色というコントラストがエッセンスを交え、芸術は、初めて光り輝くものであることを知ったのだ。

 洋館は宿泊施設になっていて、ほとんどが常連客であった。真美の友達の一人が常連客ということで、泊りに行ったが、皆絵を描くことが好きな仲間なので、時間を有意義に過ごすことができた。

 二、三度訪れたが、行くたびに、雰囲気が違っている。季節が違うのだから当然なのだが、この場所は冬になって、葉っぱの数が減っても、深緑に覆われた景色に変わりはなかった。

 実に不思議な光景だと思っているのに、慣れてくると、季節感を感じさせない。夏でもひんやりとしていて、風は冷たく、冬になると、今度は、風が吹いても冬の冷たさではない。どこか温かさを含んだ風は、湿気を帯びているかのようで、ずっと表にいても、苦痛ではなかったりする。

 優子を見ていると、その時の洋館を思い出す。

 おういえば、白いドレスを着たお姫様のような雰囲気の女性を一度だけ見たことがあった。

「常連のお客様ですが、どこかのお嬢様のようですよ。ただ、病弱なようで、こちらには、静養に来られているようです」

 と、賄いさんが教えてくれた。

 激しい運動はできないとのことで、なるほど、白い衣装がよく似合う色白な肌は、白いドレスが透けて見えるほどだった。

 深緑の中に真っ白いドレス、目立っているようだが、白い色がまわりの緑に吸収されているかのようで、白い色の知られざる特徴である、他の色との調和に弱いことを示しているかのようだった。

 白は自分から力を発すれば、これに適うものはないのだろうが、内に籠ってしまうと、簡単に他の色に負けてしまう。

「白は汚れ目が目立つ」

 と言われるのも、そのせいである。

 確かに白は、他の色に馴染みにくい。それだけ、他の色から攻撃されると、汚れ目として残ってしまい、明らかに負けが決定してしまう。まるで諸刃の剣のようだ。

 年齢は、今の真美くらいだっただろうか? 見た目はまだ未成年の雰囲気だったが、遠目から見ると、二十代前半に見える。落ち着いた雰囲気を、身体全体で発しているのを見るには、少し離れないと分からないのかも知れない。

 優子を最初に見た時、その時のお姉さんの雰囲気があった。ただ、すぐに思い出せなかったのは、優子に感じた「深紅」の色の感覚が頭から離れずに、お姉さんに感じた真っ白いイメージも頭から離れないからだった。

 お姉さんの色のイメージを「真っ白」だとは感じているが、それが純白だとは思えない。純白には、汚れない色というイメージが強く、そこには他の色の影響を受けることのない白さがなければダメなのだ。

 お姉さんの場合は、純白ではない。弱弱しさがあるために、他の色から侵略され、汚れ目の目立つ白になってしまっていた。ただ、純白は、他の色を寄せ付けない威厳があるが、威厳を持ってしまうと、他の色と調和などできっこないのだ。真っ白であれば、まだ他の色と交わる力を残していて、深緑の真美とも調和が保てるのだった。

 ただ、その時、真美はもちろん、優子を知らなかったはずなのに、誰かをイメージしていた。それをずっと誰だのかを意識できないでいたが、今考えてみると、それが誰だったのか、分かった気がした。

「お母さん」

 と言っても、実際の母親ではなく、理想の母親の若かった頃というイメージである。今は実際に優子が義母となっているというのも、皮肉めいたものであるが、どうして、今さら友達と行った旅行を思い出すのか、不思議であった。

 松田がワインカラーを好きになったのは、子供の頃からではない。むしろ子供の頃は、青系統の色が好きだった。

「原色系が好きだ」

 というのは、今も変わっていないが、子供の頃から青色が好きなったのは、

「赤というのは、女の色」

 というイメージが強かった。

 子供の頃から、あまり身体も大きくなく、色白で声変わりも遅かったことから、

「女のようなやつだ」

 というイメージで見られがちだった。

 そのせいで、松田はなるべく女の子をイメージさせるものを敬遠していた。もちろん、花に興味を持つなど、女の趣味だと思っていたので、花の種類を知らないことこそが、男らしさだという間違ったイメージを持ったまま、大人になって行ったのである。

 しかも、松田は、女の子に興味を持つようになったのも、遅かった。中学の頃までは、異性に対しての興味もなく、なかなか身長も伸びなかった。色白で、学校ではスポーツも苦手だったことで、自分から、

「男っぽさがどこにもない」

 と、思い込んでしまっていた。

 スポーツが苦手なことは、男女の境には関係ないはずなのに、そこまで考えてしまうのは、それだけ松田の悩みは深かったということだ。誰にも相談できずに一人で悩んでいたが、それこそ、男らしさだというべきではないだろうか。それに気づかないというのも実に皮肉なことで、就職してもまだ、自分の男っぽさという意味で悩んでいた。

 それを払拭できたのは、どうやら、真美の本当の母親に出会ってからのことだった。

 彼女は、松田の考えのおかしなところを、遠慮なく指摘した。指摘されて驚いた松田だったが、目からウロコが一旦落ちると、素直に相手の話を聞くようになった。今まで頑なに閉ざしていた自分の中の気持ちを解き放つ一番の特効薬は、正面切って話をしてくれる人の出現だったのだ。

 それが女性だったことで、さらに松田はショックを受けた。自己嫌悪に拍車が掛かったが、一旦、自己嫌悪も限界に達すると、今度は、次第に頭が冷めてくるのを感じる。

 母親の助言に、松田は逆らうことができないでいた。母親のいいなりになることだけは、理性として保っていたが、元々母親はいいなり状態にする気はサラサラないのだ。松田が自分で気付いてくれればそれでいいのだと思っていただけだった。

 真美は知らないが、自分のボーイッシュな一面は、そんな母親からの遺伝だったようだ。遺伝については父親を見ていれば分かる。学生時代に遺伝に興味を持ち、いろいろ調べたこともあったが、なかなか面白いものである。

 二人が結婚にまで至るのを、まわりは意外と分かっていたようだ。

「二人は似た者同士だからな」

 と、言われて、二人ともビックリしたようだが、まわりからは、

「二人とも性格がまっすぐだから、分かりやすいのさ」

 と、言われて、思わず顔を見合わせ、苦笑した二人だった。

 これもまた娘に遺伝したのだろう。真美も、よくまわりから、

「分かりやすい性格だ」

 と言われていたのだ。

 分かりやすいところが似ているからと言って、実際に生活をしてみると、共通点は少なかった。趣味も合うわけではないし、好きな色も違っていた。実はその頃まで父は青色系統が好きだったのだが、母の好きな色がワインカラーだということで、自分もなるべく好きになろうと努力をしたらしい。父と母の大きな違いは、歩み寄ろうと努力をする父と、努力をしない母だったに違いない。だが、母が歩み寄りをしないからと言って、面倒くさがり屋だとか、人に染まりたくないということではなかった。

「性格の違いは個性の違い。わざと合わせようなどとする必要はないのよ」

 と思っていたのだ。

 母親の考えも一理ある。その考えは、真美と同じだった。真美も人の性格に染まろうとはしないが、その代わり、相手の性格を尊重し、敬う気持ちを持っている。頭ごなしに否定したりしないのが、自分のいいところだと真美は思っているのだ。

 個性という言葉を思い出すと、優子のことを思い出す松田だった。

 優子の個性は、独特であることは分かっている。男性恐怖症でもないのに、時々、男を見る目に怯えが走ることがあった。どうして、男性恐怖症ではないと松田が思うのかというと、本当に男性恐怖症なら、男性がそばに寄っただけでも、身体が反応するものだと思ったからだ。

 松田が子供の頃、近くに住んでいる女の子が、男性恐怖症であった。その子と仲が良かった松田は、自分がその女の子に、男性恐怖症を植え付けたと思い込んでいた。本当は彼女のことが好きだったのだが、

「好きな女の子には、悪戯したくなる」

 というのが、男の子の気持ちではないだろうか。子供の悪戯というのは、他意がないだけに、却って抑えが利いていない場合がある。相手のことを考える余裕もなく、自分の思ったままに突っ走る。それが、松田の少年時代だった。

 内容は誰もがしているようなことだった。その頃はまだ、他の人と一緒のことをするのが嫌だという気はなかったので、まわりが同じようなことをしていても意識はなかった。ただ、

――皆、どうして考えていることが一緒なんだろう?

 という疑問だけは持っていた。

 女の子が困った顔や、情けない顔をするのを見るのが快感だった。皆同じ気持ちなのだろうが、それが悪いことであるという意識はあまりなかった。それでも、困った顔を見た時、こちらに対して助けを求めるような表情を感じた時、胸に痛みのようなものを感じた。

 感じた痛みは、そのまま彼女を苛めるという形で、彼女に返す。堂々巡りを最初に感じたのもその時だった。

 その頃に感じるようになったことがたくさんあった。

「他の人と一緒では嫌だ」

 という考えは、この頃に生まれた。最初からあったわけではないのだが、女の子を苛めなくなる頃には、自分の中に存在していたのだ。

 女の子を苛めるという快感は、すぐになくなっていった。一旦、

「俺は何をしているのだろう?」

 と思い始めると、次第に女の子に対して、同情的になってくる自分を感じたのだ。だが、苛めていたという事実が消えるわけではない。相手に対して同情的だなどという気持ちをまわりに知られたくない。知られないようにするために、苛めを続けていたのも事実で、すぐにやめなかったのは、くせになっていてやめられないわけではなく、まわりに知られたくないという外的な気持ちへの表れだったのだ。

 その女の子は結局男性恐怖症になったのだが、男性恐怖症になる女の子の特徴は、その時嫌というほど思い知った。何とかしてあげようと思ってもどうしようもない。少なくとも、張本人である自分には、どうすることもできないのだ。

 それから、何人かの男性恐怖症の女の子を見てきた。もちろん、もう自分から女の子を苛めるようなことはしない。誰かにひどい目に遭わされて、男性恐怖症になった女の子は、皆それぞれに特徴があった。男性恐怖症に陥る女の子には、それぞれのプロセスがあるが、似たような精神状態で、程度の問題の違いが大きかった。

 程度の問題と、受ける本人の精神状態とが微妙に絡み合って、トラウマの大きさ、そして後遺症を生み出すのだ。

 苛めが永遠に続くことはありえない。ただ、その人の性格で、

「苛めがいのある相手」

 という認識を皆が持ってしまったら、まわりの環境が変わっても、その人にとっての地獄は終わることなく、続くのである。

 ただ、それでも必ず終わりは訪れる。結局、松田が苛めていた女の子が、それからどうなったのか知らないが、知らないだけに、ずっと松田の中にトラウマとして留まり続けているのだ。

 松田は、男性恐怖症の女性を見抜くことができるのに、肝心かなめの自分の娘、真美が男性恐怖症に陥っていることを知らなかった。血の繋がりがあるからなのか、それとも、――まさか、自分の娘に――

 という気持ちがあるからなのか、どちらにしても、真美のことを気にしていないわけではないはずなのに、どうして分からないのだろうか。

 きっと、松田は、娘が男性恐怖症であることを知ることはないだろう。そう思ったのは優子であった。

 真美が男性恐怖症であることをすぐに見抜き、松田が娘を見ている目が全体を見ていないことを分かっているのは、優子だけだった。そういう意味では、松田と結婚したこと、そして娘として真美を得たことは、松田と真美にとっては、幸いだっただろう。

 では、優子にとってはどうなのだろう?

 松田も、真美も、優子の本当の姿を分かっていないだろう。優子を妻として見る松田、優子を母親として見る真美。どちらも違和感がある。特に真美には違和感だらけに違いない。

 優子が最近、他の男の子が気になっていることを、二人は知らない。しかも相手は勝則で、真美と深い関係にある相手であることを、いまだ知らないでいるのだ。優子が勝則を気にし始めた時は、真美と別れてすぐで、

――失恋してすぐなんだわ――

 と、同情的な目にはなっても、相手が誰かなど、分かるはずもなかった。

 真美と勝則は密かに付き合っていた。どちらかというと、真美の方が秘密主義だったかも知れない。

――男性恐怖症の自分が男性と付き合っているなんて、誰にも知られたくない――

 という思いと、他の人に知られるのを、単純に煩わしいと思っている勝則との考えは、理由はどうあれ、一致していた。

 優子も真美が誰とも付き合っていないと思ったから、真美と関係を持った。もっとも、男性恐怖症の女性が男性と付き合っているなど、ありえないと思うのが自然であろう。

 優子を見る勝則の目を思い出していた。ストーカーというものに遭ったことがないので分からないが、今から思えば、それほど怖いものでも、気持ち悪いものでもなかった。それは最初から感じていたことで、本当なら騒ぎ立てるほどのことはなかったはずなのだ。

――どうして、あの時、あんなにムキになってしまったんだろう?

 優子は後悔というよりも、自分の精神状態を何とか思い出そうとしていた。なかなか思い出せるはずもない。時間を追うごとに、新たに気持ちの変化が訪れるのだ。一度変化が訪れると、蓄積されていく思いは、山のように積みあがる。どこかに避けてしまえばいいのだろうが、一旦避けてしまうと、今度はそこから必要なものを引きずり出すことが難しくなる。だから、蓄積しているものを整理することができないのだ。

「整理整頓は、捨てることから始まるんだよ」

 と言われたが、その捨てることができない。

「では、避ければいいんだ」

 と、言われても、また引っ張り出す自信がないのだから、避けることも難しい。

 だから、物忘れが激しくなる。物忘れではなく、整理できないと言えばいいのだろうが、ピンポイントで覚えていることもある。ピンポイントから思い出すこともあるので、何とかなっているのだろうが、本当に思い出せなくなったらどうなるか、想像もつかないでいた。

 勝則という青年を見ていると、暗さの奥に、人に言えない何かを隠しているように思えた。それは優子にしか分からない気がしたのは思い上がりかも知れない。

 ただ、それは、整理整頓できない気持ちが影響しているように思う。一直線で実直な気持ちが表に出ている彼の気持ちが分かることから、奥にあるものを探ることができるのだ。表に出ている気持ちを他の人も見ている、だが、彼の本質を見ているわけではないだろう。見えない膜で隠された彼の気持ちを、表に向かって叫んでいる声が聞こえるのは、自分だけだと思うからだった。

「姉ちゃん」

 確かに彼はそう言っている……ように聞こえる。そして、耳にハッキリとその声が聞こえてくるのだ。

 その声がどこから発せられるものかを落ち着いて聞けば分かるはずなのに、優子には、余裕がなかった。それほど、神経を研ぎ澄ませないと聞こえないほどの小さな声なのだ。

 実はその声は、優子の心の中から聞こえてくるものであった。他の誰にも聞こえるはずのない声、そして、心の中だからこそ、消え入るように小さな声になっているのだ。そのことを分かるには、気持ちに余裕を持たなければいけないのだが、心に余裕を持つことができる優子ではない限り、その声も聞こえない。

 弟が本当は死産であったことは、両親と親戚しか知らない。なぜそのことを優子に隠さなければいけなかったのか、それを知られるのがまわりには一番怖かった。

「死産であったからと言って、別に姉には関係のないことではないのか?」

 優子の家族の中で、親戚が集まって話をした時、出てきた話だった。至極当然の話で、誰もが思うことだったが、誰が発言したのか、その発言は、長い沈黙の後だった。

 その場では、何度か沈黙があった。そのたびに新しい議題が展開され、いろいろな話題があがった。子供が死産だっただけで、どうしてそんなに仰々しい会談をしなければいけないのか、その場に居合わせた人皆が感じたことだろう。

 だが、しないではいられないのだ。これから優子が背負っていく一生に関わることだったからだ。

 結局、優子には大切なことを何も語られることもなく、今まで来たのだが、

「このことは、墓場まで持っていくことにしよう」

 と、会談を始めた張本人が一言言って、誰もが、喉を鳴らしながら、意を決したように頷くことで、その場はお開きになったのだ。

 そんなことはまったく知らずに今まで生きてきた優子には、いつしか弟の声が聞こえるようになっていた。錯覚なのだろうが、錯覚と言うだけで片づけられない思いが心の奥にあった。

 男性恐怖症ではないが、なぜか女性を求めてしまう。それは、自分が男の感情を持ってしまったからだと感じていたが、その理由について、考えてみようとは思わなかった。考えてみるのが怖いからで、見つかった答えが自分に与える影響の代償を考えると、とても考えることができなかったのだ。

 自分の中に、男性がいるということを考えたことがなかったわけではない。ただ、同性を好きになる理由になるほど、ハッキリしたものでもなかった。ましてや、弟の存在を考えるなど、思ってもみなかった。

 会ったこともなければ、見たこともない。ましてや話をしたこともない。そんな相手が自分の中にいるなど、考えられるはずもないのだ。

 優子は勝則と話をしてみたいと思った。偶然を装うのは、あまりにもわざとらしいが、その時に勝則がどう感じるかだ。

 優子は意を決して、偶然を装ってみた。

「あら、ごめんなさい」

 わざとらしく、人ごみに中で、彼にぶつかってみた。

「あ、いえ、こちらこそ」

 そう言って、彼は優子を見ると、視線を切った。

――おや?

 この反応は、まるでまったく知らない人を相手にしているかのようである。ストーカー行為までした相手を忘れてしまったというのだろうか?

「もし、お時間がありましたら、お茶でもいたしませんか?」

 完全に逆ナンパだが、自分がここまで大胆になれるなど、優子はビックリしていた。最初は視線を切って、ぎこちなさがあった勝則だが、優子が誘い掛けると、

「いいですよ」

 と、言って、今度は優子を見つめていた。その表情には笑顔が漲っていて、一点の曇りのない瞳に、優子は吸い込まれそうな気がしていた。

――これではどちらが誘い掛けたか分かったもんじゃないわね――

 思わず溜息を洩らしたいくらいだったが、要するに、

「案ずるよりも生むが易し」

 であった。

 勝則は、優子の顔を見ていると、満面の笑みが生まれていた。まるで生まれたばかりの子供が母親を見つめるような表情に、最初感じた母性本能を思い出していた。

――錯覚ではなかったんだわ――

 という思いと、

――以前にも、こんな表情を感じたことがあるわ――

 という思いだった。

 その顔にはストーカーと化した彼の表情はどこにもなかった。ただストーカーの時の表情も、

――どこかで感じたことのある顔だわ――

 と思い、彼が悪い人間ではないことだけは分かった。それなのに、どうして騒ぎ立てて、ストーカー事件にしようとしたのか分からない。

 ただ、ストーカーとして通報しても、厳粛な制裁を加えてほしいなどと思ったわけでもなかった。

「この人が、自分だけで終わるようなら、それだけでいい」

 と思ったからだ。

 今までの様子から見ていると、他の人に対して、ストーカーをするようにも思えない。優子に対してストーカー行為をしたのも、何かしなければいけない彼なりの理由があったからなのかも知れない。犯罪だと分かっていて、彼が優子を見ていたとは思えない。かといって、彼にそれほど思慮が不足しているとも、一層思えない。

「失うだけじゃダメなんだ。無くす気持ちがないと」

 彼が呟いた気がした。

――どういうことなのだろう?

 何を失ったのか、いや、無くしたというのだろう?

 優子が考えるには、無くすよりも失うことの方が辛い気がした。無くしてしまうと、案外諦めが利くこともあり、失うというのは、多分に自分の意志を動かす効力がある。そう思うと、呟いたその言葉の意味が、どうしても分からないのだ。

 最近、優子は妄想を抱くことが多いことを気にしていた。幻を追いかけているような気がするからだ。特に、勝則を見ていると、弟を意識するようになっていて、勝則が弟に見えてくることがある。

 それだけではなく、勝則のそばに誰か他の少年がいるように見えて、その少年が弟に見えてくるのだ。妄想の中の弟は、勝則とは似ても似つかない男の子で、その子を思い浮かべる時は決まって、すぐそばにもう一人の女の子が佇んでいた。

「あれは、私?」

 自分のような気がする。何しろ、もう数十年も前の若かりし頃の自分であった。二十歳の頃の自分を姿は、今はきっと自分しか分からないだろう。だが、その姿も、鏡などの媒体を使わなければ見ることができない、それが自分の姿なのだ。

 それでも、よく自分だと分かったものである。優子は若かった頃は、ほとんど鏡を見ることはなかった。今でこそ、身だしなみだと思って鏡をみるが、若かった頃は、薄化粧で、鏡を見るようなこともなかった。それを思うと、優子は、

「自分と弟の幻を以前にも見たことがあったわ」

 というのを思い出した。それがちょうど自分の若かった頃だった。

 その時は鏡を見ないのは、薄化粧だからだと思っていたが、妄想を抱いてみると、それは間違いで、もう一人の自分を幻で見てしまったことで、鏡を見るのが怖くなったのだった。

「そんなことすら忘れてしまっていたなんて」

 妄想は、普段の自分が抱く思いとは違うものだ。それだけに、かなり昔のことでも、昨日のことのように思い出せるものだと思っていた。だから、思い出せないということは、それだけ自分が年を取ってしまったということなのか、年を取ってしまったことで、いよいよ自分の想像以上のことが自分の身に起こり始めていることなのかを予感させ、ショックであった。

 二十歳の私は、自分で言うのもなんだが、綺麗だった。だが、綺麗なだけで、それ以上のものは感じない。ポーカーフェイスは、まるで氷のような表情を感じさせ、不気味さすらあった。感情を一切表に出さないその表情は、自分ですら、何を考えているのか分からないのだろう。

 そういえば、あの頃の自分は、時々何を考えているか、分からないことがあった。今から思えば、その時、あんな表情をしていたのではないだろうか。表情は表に醸し出されるもの、無表情で氷のように見えても、それはそれで、何かの感情を表に出していたに違いない。

「負の感情」

 陽と陰という言葉があるが、感情に陽と陰があるとすれば、陽は、普段表に出している感情で、優子の場合は、他の人よりも強いものではなかったかと自分で思っている。

 それに比べて陰は、決して表に出してはいけない感情。表に出してしまえば、他人とは確執が生まれてしまい、いいことなど何もない。感情を押し殺すのに必要な、別の感情ではないかと思っている。

 陰の感情が表に出ているのを感じると、弟に対して、自分が何か違う感情を持っているのだということを思い出させるのだ。

 今まで弟をことあるごとに想像してきたが、それは本当に弟の存在を感じることでの想像だったはずだ。だが、今二十歳の頃の自分を思い出してみると、その時の自分の想像では、

「本当の弟は、最初からいなかったんだ」

 と感じたことだった。

 それが死産だったのか、それとも、もっと残酷なことだったのか。優子には、後者の方だったように思えてならない。

 今でこそ、たまにしか思い出さない弟だが、二十歳の頃は毎日のように思い出していた。知らない相手なので、思い出すというのはおかしいが、弟のことを勝手に妄想していたのである。

 そんなに頻繁に出てくるのは、それだけ何か思い出してほしい。訴えたいことがあるということなのであろう。そう思うと、不憫にしか思えず、思い出してあげることが大切なのだと思うようになっていたのだった。

 勝則と、その頃に想像していた弟が、似ても似つかない相手だということを思い出した時、勝則が自分に与えた影響は、弟を思い出させるだけではないのではないかと思うのだった。

 まだ、勝則と真美との関係を知らない。ただ、勝則だけは、真美と優子の妖艶な関係に気付いていた。それは、勝則の中にも、優子に対して並々ならぬ思いがあるからで、男と女というよりも、姉と弟の感情に近いものがあるのかも知れない。ずっと勝則のイメージが弟のイメージだと思っていた時、優子は、幻ではなく、勝則自身を正面から見ていたに違いなかったのだ。

 優子が、弟のことに気が付いたのは、ずっと前だったのかも知れない。そのことを認めたくないという気持ちが優子の中にあった。そのために、気付いていたことさえ、否定してしまって、記憶の中で抹殺しようとしていたのだろう。

 松田と結婚を考えた時、ひょっとしたら、弟の呪縛が解けるかも知れないと思った。今まで男性を見ると、弟を思い浮かべるか、自分にはまったく関係のない毛嫌いする「オトコ」という人種のどちらかであった。

 松田には弟のイメージはまったくなく、悪い意味での「オトコ」を感じさせない人物としてのイメージがあった。話が合うのもそのおかげで、やはり、男性も年齢を重ねれば、気持ちの中に余裕が感じられ、優子の中にある呪縛を解き放ってくれる人もいるのだと、思うようになっていた。

 松田が、ワインカラーを好きだというのも、優子の気に入った理由の一つだった。理由としてはインパクトに欠け、大きなものではないかも知れないが、優子にとっては、少なくとも気持ちの中に、共有できるものができたことが嬉しかったのだ。

 色に関しては、優子はあまり原色が好きというわけではなかった。

 光が当たって、光って見えたり、違う色に見えてみたりするような色が好きだった。ワインカラーやライムなどのように、薄いというよりも、淡いという表現がピッタリの色が好きだった。

 また、原色よりも、食欲をそそる色だというのも興味が惹けた。優子は、三十歳代の頃、小食になり、痩せこけたことがあった。別にダイエットをしていたわけでもなければ、精神的な悩みに押し潰されそうなことがあったわけでもない。病院に行っても、

「原因がハッキリしませんね」

 と、言われて、とりあえずは点滴によっての栄養補給と、なるべく食べれる時に、ゆっくり時間を掛けて食べることということで、半年ほど苦しんだ中で、何とか元に戻ったのだ。

 そのことを知っている人は、今ではまわりにあまりいなくなってしまった。ちょうどその頃に友達を何人か失った。

 優子のことを気にしていろいろ助言してくれる人もいたが、助言で治るくらいなら、医者がとっくに治している。医者もなかなか治せない、しかも原因不明の病気では、本人に対して、

「イライラするな」

 というのは、無理なことである。

 助言してくれる人に対し、ある日それまでの不満がついに爆発した。

「勝手なこと言わないでよ。あなたたちに私の苦しみは分からないわよ」

 と、言ってしまったのだ。

 しかも相手は、友達の中でも一番物静かな女の子で、その時の勇気を出して助言してくれたのだろう。

 まわりは一瞬、凍り付いた。誰も何もいう人はおらず、場の雰囲気は最悪だった。優子にはもう何も言う資格はなく、言われた女の子は、今にも泣きそうな情けない顔で驚いていただけだった。

 結局、その時どう収まったのか覚えていないが、それ以上悪くなることはなかった。ただ、それ以来、誰も優子の相手をする人はいなくなり、完全に孤独になってしまったのだ。

「無くしたんじゃない。失ったんだ」

 自分で、自分の首を絞めてしまったという思いは強く、きっとまわりの人は、

「他の人に言えないもんだから、一番大人しい子に言ったんだわ。彼女って、案外卑怯なところのある人ね」

 と、噂が立ったことだろう。

 優子には今さら、どうでもよかった。弁解をしても、結局言い訳でしかない。言えば言うだけ、情けなさという自己嫌悪が自分の中に残るだけだ。まわりはどうでもいい。自己嫌悪だけはごめんだった。

 病気の時に友達も失う、ショックは嫌というほど、優子に襲い掛かった。優子は誰に何も言えないまま、自分の中で処理しないといけなくなってしまったのだ。

 とりあえずは、医者のいうことを聞いて、病気を治すこと、それも藁にもすがる気持ちである。

 何とか治ったが、後遺症は、自己嫌悪として残ったことと、これからどうしていいか分からないという自分の中の葛藤をいかに乗り越えていくかであった。

 優子の中に鬱積したストレスは、異常な感情としてその時に残った。それも一つの後遺症だった。それが女性を愛してしまうという行動だったのだ。

「あれだけ、女性から攻撃されたのに」

 いや、だからこそ、自分から責める分には、何ら差支えないと思ったのだ。

 優子が立ち直れたのは、きっと、自分の中の信念があったからだろう。

 優子の中にある信念とは、「正義」だった。

 それまであまり考えたことがなかった。自分の存在自体が正義だと思っていたからだ。実際にまわりに迷惑を掛けることもなかったし、人のためにいろいろしてきた。学生時代にはボランティアにも参加したこともあった。それも含めて、自分の信念は「正義」だと思っていたのだ。

 だが、それが崩れたのは、病気になった時、たった一度苛立ちを我慢できなかったことで友達を失ったあの時、優子は自分の信念を亡くしたのだ。

 これは失ったわけではない。無くしたと思っていた。なぜなら、信念は完全には消えないと思ったからだ。もし完全に消えるものであれば、自分を許せなくなり、自己嫌悪を一生引きずると思ったからだ。だから、

「失ったのではなく、無くしたのだ」

 ただ、この方が優子には辛かった。自分の殻の中に完全に入り込んでしまったことを意味しているからだ。優子にはその自覚症状があった。あったからこそ、自己嫌悪に陥ることを嫌ったのである。

「陥ってしまったら、永遠に抜け出せない」

 と思ったからだ。

 優子の正義は、友達を保つことではなく、早く病気を治して、治った姿を皆に見せることだった。その時はハッキリと分かっていなかったが、優子が爆発した瞬間に、

「もう、言葉で何を言っても取り返しはつかない」

 ということだった。

「態度で示すしかない」

 それは、段階を踏んで考えないと思い浮かばないことだ。

 一つのことにこだわっていては、きっと分かるはずはない。一つ一つ積み木を組み立てるようにしなければいけない。それは逆に崩す時にも言える。

「組み立てる時とまったく逆を行えば、綺麗に壊れる」

 確かに、この考えは間違いではない。ただ、出来上がった後に、何も加工していないとは言えないだろう。その証拠が、強度の問題である。いかに壊れにくいかを考えながら組み立てているのだから、単純に考えて壊せるものであるようなら、強度以前の問題だと言えるのではないだろうか。そう思うと、まったく逆を行うことは、却って、強度を高めるだけなのかも知れない。

 優子は、そのことを後になって気が付いた。

 その時には、なかなか気付かないものである。

 それは、人間関係にも言えることだ。いくらいつも一緒にいても、同じことばかり思っているとは限らない。途中でどんな心変りがあっても不思議はないのだ。

 だからこそ、優子は、人間には信念が必要だと思っていた。失うのではなく無くすと思うことができる信念、それを優子は「正義」としていた。

 病気が治ってしばらくして、優子は信念を取り戻した。

 それはいつだったかというと、病気が治ってから、初めて友達ができた時だった。

――もう私は、一生友達ができなくても仕方がないところまで行ってしまったんだ――

 「正義」だけを胸に生きていくことを頭の中で描いていたが、一人でただ考えているだけで、その時の「正義」は、優子の信念ではなかった。無くしてしまった信念を、また探さなければならないのだ。

 これは、失ったものを取り戻すよりも難しい。

 失ったものであれば、形としては残っているので、後は、自分の中に取り込むだけである。だが、無くしてしまったものは、探し出したところで、同じ形なのかが分からない。そもそも自分がどんな「正義」を持っていたかということすら、覚えていないかも知れないからだ。

 優子の中の信念と正義が結びつかなければ、優子の「正義」ではないのだ。無くしたものを見つけ出すのが難しいというのは、そういうことなのだ。

 優子の病気を治すのに、一役買ったのが、「色彩」だった。やはり、食欲のそそる色の存在は、優子の中で一筋の光明を見せたことには変わりないだろう。

 優子は、食欲を取り戻し、やがて点滴の必要もなくなった。

 そんな時、よく通っていたレストランは、店内にお花がいっぱい飾ってあるお店で、その時の印象が、優子にはずっと残っていた。

 しばらくして、職場復帰を試みた時、最初に浮かんだのが、花屋での仕事だった。さすがにそれまでお花について何も知らなかったので、図書館で調べたり、本屋で本を物色したりした。その時に知り合った友達が、優子に「正義」を取り戻させてくれた友達だったのだ。

 彼女は、真美に似ていた。名前を優実と言ったが、優実は、まだ学生だったのだ。

 短大の二年生。ちょうど二十歳だった。優子は自分の二十歳の頃を思い出していたが、二十歳というと、かなり古いことの意識で、おぼろげにも思い出せない。それだけに、優実の存在は新鮮だったのだ。

「彼女の中にも信念を感じるわ」

 彼女を見ていると、自分の信念の中に、自分以外の何者かの信念も含まれているように思った。それは、病気の間、すっかり忘れてしまっていた弟への意識だった。

 弟は、いつも優子を見ていてくれていると思ったのに、病気の時は、まったく姿を現さなかった。

「幻なんだわ」

 自分の中にいる感覚はあるが、それを意識しすぎると、自分を見誤る。幻だという意識も半分必要なのだと、優子は感じていた。

 優子の思いが、弟に向いた時、優実を見ると、

――弟が生きていたら、この娘と結婚していたかも知れないわね――

 と、勝手に想像した。

 そうなると、優実は妹である。

――私が優子、彼女は優実。名前も似てるわ――

 思わずほくそ笑んだ。

「どうしたんですか? 楽しそうですよ」

 と、言われて初めて気づいた。

「いえね、名前が似てるので、姉妹みたいだって思ったのよ」

「そうですね、私も気づきませんでした」

 と言って、二人で笑った。

 優実が気付かなかったかどうかは分からないが、優子は気付いた瞬間、それまで感じていたまわりの人への呪縛が一気に解けていくのを感じた。

――これでいいんだわ。ゆっくりでいいから、順調に元に戻ってくれれば、順風満帆。これからは、前だけを向いていこう――

 と、感じた。

 優実の信念について考えてみた。何かを持っているのは分かっているんだけれど、それが何なのか分からないでいた。優子は「正義」という信念をしっかり持っている。それは優実にすぐに分かったようで、あまりにも早かったので、ビックリした。

 優実の信念は「貫徹」だった。一緒にいるだけでは、すぐには分からない。しかも、普段、包み込むような優しさを前面に押し出しているのだから、それだけを見ていたのでは、絶対に分かるはずはないのだ。

 それが分かったのは、もっと後にことだったが、その時はすでに取り返しがつかなかった……。

 優実は、優子と一緒にいることを誇りに思ってくれているようだった。そして、

「お姉さま」

 と言って慕ってくれた。

 こんなに可愛い女の子は本当に初めてみた。優子の女の子が好きだという気持ちは、優実によって完成を見たのかも知れない。そういう意味では、優実の信念である「貫徹」は、優子によっても証明されたというのは、実に皮肉なことではないだろうか。

 だが、すぐに二人が愛し合うことはなかった。

「私、待ってるんです」

「何をなの?」

「秘密です」

「嫌ね、何なのよ?」

 こんな会話が何度かあった。もちろん、同じ言葉であるわけはないが、優実が待っているものが何なのか、本当に分からなかった。

 それが分かったのは、優子が我慢できなくなって、優実に告白した時だった。

「私は優実が好き。優実はどうなの?」

「私もお姉さまが好き。よかった。本当に待っててよかった」

 優実はそういって、涙を流した。

 優実という女性は、芯の強さが半端でない、力強さがあった。涙を流すなど信じられない。優子がビックリしていると、

「私の涙、驚いた?」

「ええ、だって」

「私はこれでも涙もろいのよ」

 そう言って、優実は、優子にすべてを委ねた。熱い身体が、さらに熱くなってくる。優子は優実の目尻を舐めてみた。

「しょっぱい」

 その味を、今でも優子は忘れていない。きっとそれが優実の中での一番の思い出になっているのかも知れないと思ったほどだった。

 優実の思い出は、しばらく心の中にあったが、急になくなった。思い出そうとしても思い出せないくらいになってしまったことを悲しく思ったが、その思いもすぐに解消された。

 優子の中で、もし優実を忘れ切らないと、前を向けないことは分かっていたが、自分が前を向いていくことに、これほどの試練がなければいけないのかと、優子は恨み言を言いたい気分だった。だが、それは天に向かって唾を吐くことであり、誰に対してなのかがはキリしないことが、一番の理由だった。

 その時、優子の中にまた、弟のイメージがよみがえってきた。

――弟と、優実は、私の中で共存できないのかしら?

 確かにそのようだ。いかに優実が自分に対しての影響が大きかったとはいえ、弟に適うはずはないのだ。それは血が繋がっているかどうかということとは違う意味であることを優子は分かっていなかった。

 波乱万丈の人生を歩んできた優子だったが、真美も同じように波乱万丈だったことだろう。母親がいないということは、やはり真美の人生では大きなものだったに違いない。

 真美は、優子の人生について何も知らない。もちろん、優子が自分から話すことはないだろうし、きっと優子の人生は話し方一つで、相手が受ける印象はまったく違ったものになってしまうだろう。

「言葉で伝えるものではないんだわ」

 ということは、優子が一番よく知っている。だが、優子はなぜか真美には自分の人生を知ってもらいたいと思っている。もちろん、知ってもらったからと言って、同情や憐みを受けたいなどと思っているわけではない。むしろ、教訓にしてほしいという気持ちが強かった。

 だが、一歩間違うとまったく違った解釈になってしまうことから、迂闊に話をするわけにはいかない。それが優子のジレンマでもあった。

 そのためには、優子は真美から離れないことだった。

 なぜそこまで真美のことを思うのか、優子には分からなかった。真美も優子を慕っていて、それ以上に気持ちを委ねているところもあった。慕う以上に委ねるということは、全面的に慕っていて、自分を捧げるという気持ちの表れでもあった。

 真美も、どうしてそこまで優子に陶酔しているのか分からない。

「頼りがいのあるお姉さん」

 これだけでは言いきれない。やはり、義理とは言え、母親だという意識があるからであろうか。

 父親を見ていると、何を考えているか分からないところがあった。それは優子に対しての気持ちだが、真美が優子に馴染んでいて、親子関係がうまく行っていることに満足している。

「おかげで安心して、長期出張に行ける」

 と、出かけていったのだが、帰ってきた時は、さすがに疲れていて、安心しているとは言いながら、気にしていたことは、二人の顔を見た時に浮かべた安堵の顔を見れば分かることだった。

 父親のことは、さすがに優子よりも真美の方がよく分かっていた。

「お父さん、本当に二人のことを心配してくれていたようね」

「そうみたいですね」

「あんなお父さんの安心しきった顔、初めて見た気がするもの。私が中学の修学旅行から帰ってきた時と同じ顔だったわ」

「それはまたどうして?」

「私の初めての親以外との旅行だったし、それも母親がいなくなってからすぐのことだったからね。意外とお父さんはああ見えても、小心者なんですよ」

 そう言って、ニッコリと笑った真美だったが、それを見て、優子も同じように笑った。優子には、そんな他愛もない笑顔を安心して見ることができる人生を、今やっと歩むことができるようになったのだということを、心底喜んでいるようだった。

 優子のそんな気持ちは、心からの笑顔を見せることができないことで表現していた。それを真美は分からない。やはり人生経験と、年齢の差が、歴然としていることが、影響しているのだろう。

 優子は、真美を見ていて、優実と知り合った頃の自分を思い出していた。

 優実を好きだった自分を思い出したのだが、そのことに、何か記憶を呼び起こそうとする自分の邪魔をするものが自分の中にあるのを感じていた。

――もう一人の自分かしら?

 優子は、自分の中に、もう一人の自分を感じている。夢の中などに、時々出てくる、もう一人の自分であるが、もう一人の自分が出てくる夢を見た時、決まって、その内容を覚えていることが多い。

 夢の内容などは、ほとんど覚えていないことが多い。それなのに、もう一人の自分が夢に出てくる時というのは、その内容を覚えていることが多いのだ。といっても、もう一人の自分が出てくる夢など、そんなに何度も見るものではない。ただ、内容を覚えている夢がほとんどなく、寝ていても夢を見ていたかどうかさえハッキリしないことも少なくないのだ。

 そう思うと、もう一人の自分が出てくる夢は、ほとんどが繋がっているのではないかと思えてくる。

「以前の続きを今回見ている」

 と思うと、夢を見る頻度も、最初から決まっていたのではないかとさえ思う。

 そして、もう一人の自分の存在が、

「本当に自分なのだろうか?」

 という疑問にぶち当たる、

 確かに、目の前にいる人が、自分の姿なのにビックリさせられる。ただ、よく考えてみると、その姿は今の自分ではない。もっと若い頃、そう、二十歳前後の自分だったのではないかと思うのだ。

 夢を見ている自分も、本当に今の年齢の自分なのかが疑問であった。そう思うと、夢を見ている自分自身が、もう一人の自分で、夢の中の自分は、違う人ではないかと思うと、一人の女性が思い出された。

 それが、優実だったのだ。

 優実は、優子の中で永遠に年を取らない。いつも二十歳前後の女の子であった。優実を見ている優子も、いつまでも年を取らない。

 そういう思いが優子の中にある以上、夢の中でしか、その気持ちを実現することはできない。

「夢とは、そういう時のために、あるんじゃないだろうか?」

 と思うようになっていた。

 自分の妄想や、祈願を成就するための機会として夢が存在するのであれば、優実の存在が、優子の夢の中を作っていると言っても過言ではない。

 だが、優子の夢で、目が覚めても覚えているものは、もう一人の自分だと思っていた優実の夢だけではなかった。

「弟の夢」

 そう、優子が気にしている弟の夢であった。

 弟が、本当にこの世に生まれてきたのかどうか、優子は気になって仕方がない。生まれてから一年ほどは、他の土地で育ったという話を聞いて、優子は、ずっと生まれてから、一年は生きていたと思っていたのだが、途中から、

「弟は、この世に生を受けていないのではないか?」

 という疑念を抱くようになった。

 その理由は、夢の中で弟が出てくると、その姿が、この間ストーカーとなった青年の、勝則をイメージするからであった。もし、普通にこの世に生を受けて、病気で死んだのであれば、そんなイメージは抱かないと思ったからだ。ずっと思い描いていた弟のイメージがあって、そのイメージは似ているかも知れないが、勝則とは違ったものであるはずだからである。

 勝則の姿を思い出してみた。

 優子は、勝則の一部分しか知らないことで、彼への誤解があるのではないかと思い、彼を観察してみた。だが、本当の理由は、彼の他の顔を見ることで、自分がイメージしている弟の顔を思い出したいという気持ちが強かった。

 もし、今イメージしている弟の顔と違う顔が、頭に浮かんできたとすれば、それはきっと、弟が、一度はこの世に生を受けたということになるのだと、自分で思えるからだった。だが、そのことが、さらなる疑念を生むことになるとは、その時、優子はまだ知らなかった。知らぬが仏という言葉があるが、まさしくその通りなのかも知れない。

 勝則とは違うイメージの少年が、夢の中では出てこない可能性が高いことを、優子はずっと信じていた。ただ、

「そうあってほしい」

 という思いが先行してしまって、無意識のうちに、勝則のイメージを頭の中に焼き付けておかなければ、という思いが強かったのかも知れない、

 だから、それが勝則を観察するという形になって現れ、実際に頭の中に焼き付けた。勝則が優子に対してストーカー行為を行っていたということに遡って、優子は、勝則の存在が自分の中で、切っても切り離せない存在になっていたことを感じていたのだった。

 勝則の存在を意識すると、優子は、いつまでも夢から抜け出せないような気がしていた。今、こうやって考えているのも、

「夢の続きなんじゃないのかしら?」

 と、思ってしまうくらいだ。

 夢から抜け出せないと思うことで、どこが切れ目か分からない夢と現実の狭間で、実際の時系列も曖昧になってきている気がした。

 そのことに気付いてくると、夢の中で、出てくる青年を観察するようになった。同じような顔をしているので、同じ人間だと思ってみていると、どうやら、性格が違っているようだ。

 片や、実直な性格で、優子のことをお姉ちゃんと呼んでくれそうな雰囲気であるのに対し、もう一人は陰湿で、優子をまるで他人のように思っている。しかし、優子には興味があるのか、目が離せないでいる。どちらが目に強さがあるかと言えば、後者の方だった。

 それでも、前者の青年の目は、優子を大切にしようとしている目で、まるで優子を包み込んでくれそうな目であった。実直な性格に見えるのは、包み込んでくれそうなイメージがあるからで、お姉ちゃんと呼びそうに思うのは、そんな弟が生きていたら、そんな性格のはずだと思うからであった。

 分かっているのは、優子の中で弟はイメージされているということだ。それが勝則なのか、それとも違う青年なのかで、大いに優子に対する影響が違っている。もし、違う青年であれば、弟は、少なくとも生まれ落ちてきたのではないかと思う。そして優子の家に帰ってくる前に死んでしまった。その理由も大きなものなのであろうが、もし、そうだとすれば、優子は、イメージしたもう一人の青年と、いつか出会うことができる気がしたのだ。

――まさか、自分の子供?

 今さら、この年齢で子供を産むことはできないので、それはありえない。そう思うと、弟のイメージに実際に会う機会を逸してしまったかのように思えて、口惜しい。

 優子の妄想は果て知らずである。一度考え始めると、出口が見えなくなる。弟のことになると特にそうで、妄想は、次第に堂々巡りを始める。さっきまで考えていたことに戻ってくるまでの周期が結構早くなってくると、結論が出る前に、妄想は終わってしまう。出るはずのない結論を考えているのだから、どこかでやめないと、キリがないのは当然であった。

 自分が子供を産むという発想にまで発展してしまうと、一気に現実味を帯びてきて、我に返ってしまう。その時、初めてエスカレートしていた妄想に気が付き、ドキッとしてしまうのだった。

 男と女の違いこそあれ、優実を見ていて、

「まるで、妹のようだ」

 と、いつも感じていた。

 妹というには、年が離れていた。三十代と二十歳では優子から見るよりも、優実から見る方が、明らかに年齢差を感じているはずなのに、優実は、優子のことを、

「お姉さま」

 と呼んでくれた。

 優実は覚悟の上で、

「お姉さま」

 と呼んでいたはずだ。優子に対して願っていることを叶えてほしいという思いがあった。包み込まれたいという思いを優実が抱いていることは分かっていたからである。

 優実は、男性も知らなかった。優子に抱かれながら、

「不思議なんですけど、優子お姉さまに抱かれていると、もう一人、誰かに抱かれているような錯覚を受けるんですよ。それも女性ではなく、男性の逞しい腕を感じるんです。ごめんなさい。こんなお話をしてしまって……、私の頭がどうかしちゃったんでしょうね。おかしな話をしちゃって……」

 と、話していた。

「男性を感じるの?」

「ええ、荒々しさは感じないんですけど、逞しさは感じます。お姉さまの繊細な指使いを、逞しい腕で包んでもらいながら感じることができるなんて、私、幸せ者なのかも知れません」

 真美を抱いた時も、真美から、

「優子さんに、荒々しさを感じるというわけではないんですが、どこか逞しさを感じるんです。まるで男の人のような包容力ですね。でも、それでいて繊細で微妙なところは、女性特有だと思うんですよ」

 というような似た話をしていた。

 真美を抱いている時には気付かなかったが、優実を抱いている時のことを思い出すと、同じようなことを二人とも話していたのを思い出した。真美を抱いた時のことを思い出したが、確かに衝動的だった気はする。しかし、それだけではなく、優子にとって優実の存在は、誰よりもインパクトが強かった。挫折から抜け出せた時にそばにいてくれた人だからである。ただ、それだけではない。優実には、もっと特別な思いが、優子の中に存在していたのだ。

――今さらどうにもならない――

 その一言であった……。


 優実が亡くなったのは、知り合ってから一年も経っていなかった。知り合った時はあんなに元気がよく、自分のことをしっかりと表に出すことのできる少女だった。

 優実は二十歳にしては考え方もしっかりしていて、大人だったが、雰囲気はまだ幼さの残る「少女」だった。

 穢れなき少女という表現がまさしくふさわしい。抱きしめたくなるのは、男性以外でも優子を含めて女の子の中にはいたであろう。

 優実の中に弱弱しさを感じるようになったのは、知り合って一か月ほどしてからだった。時々、とても寂しそうな顔になり、孤独を一人で背負っている雰囲気を醸し出していた。それが、弱弱しさを引き出していたのだ。

 優子にも同じようなことがあった。

 自分の中に弱弱しさを感じることがあった。弱弱しさは、一つのことを考えていても、集中できなくさせる。それなのに、一つのことに集中しなければいけない時に限って、そんな気持ちにさせるのだ。

 集中力が散漫になるのは、弱弱しい時だけではないが、確かに集中力が散漫になってくると、強い力が減退しているのを感じさせる。

 しかも、散漫になるために考えることは、たいていが余計なことなのだ。余計なことであるだけに、心配事が多い。心配などしなくてもいいことを心配してしまって、それが自分の中で消化できなくなる。優実の場合はもっと切実だったはずなのだが、考えずにはいられないのだろう。

 それでも、たまにしかそんな素振りを見せないところが、優実の大きなところで、しっかりして見えるところだったのだろう。決して弱音を吐くこともなく、誰彼ともなく差別することなどない。それが優実の最大の魅力だったのではないだろうか。

 優実が自分の死期を悟ったのは、弱弱しさが途切れた時だ。それまでは不安ばかりが渦巻いていたに違いない。

「私は弱弱しさに惹かれたのだろうか?」

 優実の弱弱しさが次第になくなってくると、優子はその反対に優実への愛おしさが募ってきたのだ。

 まさか、優実が死んでしまうなど、夢にも思っていなかっただけに、愛おしさがどこからくるのか分からずに、身を本能に任せながら、頭の中では戸惑いを隠せないでいた。

 優実を抱いていると、まるで自分が包み込まれているような錯覚に陥る。明らかに主導権は優子にあり、優子が優実を抱いていたのは間違いのないことだった。それなのにまったく逆の心境を抱いてしまうということは、それだけ、優実の中に大きな懐が存在しているということになるのだ。

「お姉さま、ありがとう。優実は、お姉さまの腕の中で、いつまでも消えません」

「何よ、そんな大げさなこと言っちゃって、当たり前じゃないの。私は永遠にあなたをいとおしく包んであげるわよ」

「本当に嬉しいわ。ありがとう」

 そう言って、優実は恥じらいも含めて、包み込まれる快感に酔いしれていた。ここまで大胆で、しかも恥じらいをも凌駕できるほどの、「包み込みがい」があるとは。優子は、

「冥利に尽きるとはこのことなんだわ」

 それが女冥利などという一つの性別に限定されるものではないということを感じていた。優実との間に性別は存在しないとまで思えていた。

 また、そう思うと、優子は自分の中にもう一人の誰かを感じるのだった。それが自分ではないということを分かっていて、弟ではないかと思うと、

「冥利に尽きるというのが性別関係なく感じるのは、あんたのせいもあるのかも知れないわね」

 と、自分の中の誰かに語り掛けていた。

 自分の中の誰かは何も答えない。語り掛けた時には、もう姿が見えないのだ。本当に一瞬だけ表に出るその存在。一瞬しか出ることができないのか、それとも一瞬だけ出ることで、インパクトを相手に与えないようにしているのか、優子はそのどちらもなのだろうと考えたのだ。

 死んでしまった弟の死というものが、どのような形だったのか、優子にはずっと、心の中に抱えた問題だった。優子には関係ないのに、どうしてなのか分からなかった。

「生まれる前に死んだのか、それとも生まれてきてから、病気で死んだのか。それとも、病気以外の何か、例えば事故で死んだのか分からないが、弟は優子の中で、そのことを訴え続けてきたんだろうか?」

 そのことが、優実の死を知った時、優子の中で、考えさせられる何かになっていた。

 優実はいつしか、自分の死を悟っていた。それなのに、あれだけ気丈で、他の人に自分の死期を悟っていることを知られないようにしていたなど、優子には信じられない。知ってしまったら、気も狂わんばかりになり、考え事をしても、基準になるものがないのだから、人に気を遣うなどという次元の発想が生まれることはないだろう。

 優子は、優実がこん睡状態に陥ったと聞いた時、なぜか、それほど驚かなかった。死の半年前から、病気療養で、寝たきりになっていたが、入院もしないということだったので、まさか死期が近いなど、想像もしていなかった。

 入院しなかったのは、本人の意思のようで、

「自分の家で、最後を迎えたい」

 ということだったらしい。

 それこそが、優実にとっての信念である、「貫徹」なのかも知れない。最後まで自分でいたいという気持ちが貫徹には含まれているのだ。

 優子はこん睡状態に陥っても、それから一週間、膠着状態だった。最後は安らかに眠るようだったと、彼女の親から聞かされた時、救われたような気がした。

 自分も少し前まで苦しんでいた。だが、優実に比べれば、足元にも及ばない。それでも優実を見続けていられたのは、彼女がそれだけ優子を慕っていたからであろう。

 優子は、優実の墓参りには毎年行っている。今年も行ったのだが、今年は、少しイメージが違っていた。

 墓石が少し小さくなったように感じた。お供え物も質素なものにして、いつもよりも少な目だった。

「優実は、派手好きじゃなかったから、質素な方がいいかも知れないわ」

 と思ったからだ。

 質素な墓地であっても、小奇麗にしていれば、目立っている。派手でなければ目立つことにこだわらなかった優実なので、これでいいのだろう。

 優実が目立っていたのは、年齢の割に幼く見えるところだった。そんな優実のことが羨ましいとずっと思っていると、いつの間にか優子も、実年齢よりも若く見えるようになっていたのだ。

「まるで、優実が私に中にいるみたいだわ」

 と、感じたのも、まんざらではないだろう。優実のおかげで、自分の願望が半分叶ったような気がしていた。

 願望の中で、残りの半分は、どうやら、弟のことのようだ。しかも、そこに優実も関わってくることになるのだ。

 もう一つの願望、それは今もよく分かっていない。弟が願っていることなのか、それとも、弟が優子の中で叶えてくれるものなのか、それとも、弟の意志の働かないところで、優子が弟のためにすることなのか、どれにしても、優子の願望には変わりがない。

 優子にとって、弟が生きていれば、それだけのことができたかと思うと、想像もつかない。別に弟がいなかったことが自分の人生を狂わせていたわけでもないのに、なぜ弟だけに責任転嫁してしまうのか、それは、きっと自分の中で、常に弟の存在を感じているからだろう。

 優子はおかしなことを考えている。

 生まれてこなかったのなら、弟は、きっと誰かが弟の生まれ変わりになってくれているだろう。それは、自分たちとはまったく縁もゆかりもない人たちとの間の子供としてである。

 自分たちの間では、生まれてすぐに、そのまま死んだという感覚になる。少なくとも母親のお腹の中では生きていたのだ。だから、表に出たか出ていないかだけの違いであって、精神は家族の一員なのだ。

 そして、弟だけが人生を飛び越しし、本当は生きるはずだった年齢を貫徹していることになると思うと、弟は生まれてこなかったことで年齢を重ねることなくゼロ歳で死んだのではなく、生きるはずだった年齢に至ったまま、年齢を重ねずに、家族が来るのを待っているのだろう。

 だが、弟が生まれてからすぐに死んだのだとすれば、弟の年齢は、そこどまりで、ずっと年を取らないまま、置いて行かれたことになっているのかも知れない。

 それなのに、生まれてこなかったことにされてしまうと、置いて行かれたことを誰にも知られずにいることになる。

 本当であれば、生まれてから死んだ人の供養をしなければいけないのに、生まれる前の供養をしてしまうと、きっと、そのまま死の世界で、家族の誰とも会うことなく、待ち続けるという苦しみを味わうのだ。

 だから優子は、弟の死がどのようなものだったかを知らないといけないと思っている。家族に聞いても教えてくれるはずもない。誰にも言わないということは、それなりに隠す必要があるのだろう。

 これを告発して、もし自分の勘違いであれば、家族に対して取り返しのつかないことになってしまう。そう思うと、優子は誰にも相談することもできず、身体の中に弟の残像を抱え込んだまま、悩み続けなければいけないのだろう。

 それを救えるのは自分しかいない。自分を救うことで、弟も救われるのだ。

 今となっては証拠も何もないので、立証することは難しい。また、立証したところで、何が変わるというわけではない。優子が信じてあげるだけでいいのだった。

 優実にしても、弟にしても、優子とは違う世界にいる。ただ、今弟が優実を同じ世界で待っていてあげているわけではないようだ。弟は、何を隠そう、優子の中にまだいるからである。

 どこに行くこともできずに、彷徨っている。優子が病気になり、いろいろな苦労を背負い込んだ時、弟の意識を忘れてしまっている時期でもあった。それまでは、常に弟のことを意識していたのに、その時ちょうど、付き合っている男性がいて、その人から、

「痩せている人がいい」

 と言われて、ショックを受けた。

 確かに付き合い始めた頃に比べて、それほど日にちが経っていないのに、太ってきたのは分かっていたが、

「この人となら、結婚できるかも知れない」

 とまで、思っていた人から、体型だけで、罵られたことで、ショックも大きいというものだ。

「この人は、私の容姿しか見ていなかったんだ」

 と思うと、ショックを通り越して、呆れかえるくらいだ。男性恐怖症に至る以前の問題だ。

 そのあと、病気になったが、あそこまでひどい病気だとは思わなかった。精神的なショックが肉体を蝕む。それがいくつもの弊害や後遺症を生んだ。優子は、

――その時に優実と出会わなければ。どうなっていたのだろう?

 とさえ、思った。

 やはり自分の中に起こったショックなことや人生の分岐点は、優実の存在に関わっている。

――弟と、優実の存在――

 それが、優子の人生を形作っていると言っても過言ではないだろう。

 優子にとって、弟の存在が、今までにも、影響しているのを感じたことがあった。前兆というべきか、虫の知らせというべきか、何か危ないことが起こりそうな時、教えてくれるものがあるのだ。

 小学生の時は、事故だった。

 学校の帰りに、いつも通る道を、いつもの時間に帰るつもりで途中まで来ていたが、急に忘れ物を思い出した。

 普段なら思い出さないような大したものではなかったが、確かノートだったように思う。その日、ノートがなければ宿題ができないということで、どうしても取りに行かなければいけなくなったが、いつもの道を踵を返して、学校に向かいかけると、後ろで大きな音が聞こえた。

 見に行ってみると、車同士が激しく激突していて、車の破片が、歩道にまで飛び散っていた。もしあのまま踵を返さずに歩いていたら、事故に巻き込まれていたかも知れない。ちょうどその時、誰もそこを通りかかっていなかったので、歩行者に被害者はいなかったという。

 けが人がいなかったのは、ちょうどその場を通りかかる人が誰もいなかったことが功を奏したのだが、優子に限っては偶然ではなかったのだろう。確かに声が聞こえたのは、間違いのないことだった。

「ノート、忘れて帰ってるよ」

 という声が聞こえた。

 優子に聞こえたその声は、男の人の声、考えられるのは、その時に気にしていた弟のことだった。もちろん、声に聞き覚えはない。

「虫の知らせ」

 とは、まさしくこのことだった。

 しばらくすると、燃えさかる炎が見えた。何かに引火して、爆発したようだ。後ずさりしながら優子は炎から目が離せなくなった。その炎の中に、一人の男の子が見えたからだ。

 男の子は、苦しんでいる様子はない。完全に光の加減や、炎の角度によって、人の顔に見えたのかも知れないが、優子には弟が炎の中に顔を映し出したように見えたのだ。

「弟が救ってくれた」

 そう思うと、さっきまでただ、その場に佇んでいただけだったのが、急に我に返ったようになり、震えが止まらなくなった。

 震えは、恐ろしさから来た震えである。

「もし、あの場にいたら」

 という思いが改めて、優子の意識に入り込んだのだ。

 炎を見て、その中に弟と思しき顔を見た時、弟が、

「ひょっとしたら、生きて生まれてきていたんじゃないか」

 という疑念を抱かせる最初の意識となったのだ。

 後から思い出すと炎の中の弟は、ずっとそこにいるのかも知れない。火の中で涼しい顔、いや、無表情を浮かべているのだ。

 その時に、

「炎の事故に遭ったのかも知れない」

 と、少しの間、思っていたのだが、すぐに打ち消した。炎の中で煤しげな無表情を貫けるはずなどないからである。

 だが、その時の思いが今、復活してきた。子供の頃と、今とでは発想がまるで違っている。それだけ、成長の過程で、考え方や、経験が備わってきているということであろう。そう思うと、弟が何をいいたいのかおぼろげに分かってくるのだった。

 優子は、時々自分の寿命について考えることがある。

 自分の寿命は誰にも分からないが、実は自分の中にいる弟にだけは分かっているのではないかと……。

 分かっていても教えてはいけない規則が存在し、寿命を、現在生きている人間に教えるのは、最高のタブーとされているのではないかと思うのだ。

 それを思うと、優子の貫徹という信念を思い起こさせる。彼女は死期が近いのを悟っていた。寿命を知りたいと思うのは、誰もが一度は感じることだろうが、それは知ってしまってからのことを考えないから知りたいと思うのだろう。もし、

「あなたは明日死にます」

 などと宣告されてしまったら、どうするだろう。

 聞いてしまったことを後悔する。しかし、後悔しても始まらない。まず、何をしていいのか分からないだろうし、何かをする気が起こるかどうか、それ自体が疑問である。

「残された時間を有意義に……」

 などと、言っていられる精神状態ではないはずである。ましてや貫徹など、ありえない。最初からやりたいことに目標を立てるのは普通だが、切羽詰った状態での目標など、あったものではない。貫徹したところで、満足する時間など、残されてはいないからだ。

 目標は、やはり満足したいがために立てるものだと優子は思っている。優実が一体どんな気持ちで貫徹させたのか。本当に聞いてみたいものだった。

 弟のことを思い出す機会がしばらくなかったが、勝則の存在が、また弟を表舞台に引きずり出すことになった。勝則がいなかったら、表に出てくることのなかったであろう弟、何を思って、優子の中に潜んでいたのだろう。その間に優子は真美との関係を深めた。嫌だという思いはなかったのだろうか?

 ただ、勝則の行動は、勝則には悪いが、優子への弟ができる非難の一つだと思えば、理に適ってもいる。姉が女性に走るのを見て、気になって出てきたのかも知れない。それなら、優実との関係の時はどうだったのだろう? 優実に対しては黙認していたではないか。

 優実がもし今、弟と同じ世界にいるとすれば、その世界から、真美と優子はどう映っているのだろう。弟にとってはまったく知らない世界のはずである。だが、どこかに弟の生まれ変わりの人がいるとして、その人は、弟の存在を意識したことがあるのだろうか?

 今まで一度も来たことがなく、見たことのない風景なのに、

「以前に、どこかで……」

 と、いわゆるデジャブと呼ばれるものの存在を聞いたことがあるが、それも、誰かの生まれ変わりの人がいて、その人の記憶が顔を出しているのではないかと思えないこともない。

 前世と呼ばれるものとは違うのだろうか?

 前世というのは、誰もが持っているもので、今の世があって、後世がある。

「では、死んだらどうなるのか?」

 と、思うと、あの世に行くというのが一般的な考えだが、後世とは違うもののようだ。

 あの世とは、まったく今の世とは違っているものだが、後世は、同じ世界の進行形になる。時代が違うので、知っている人は誰もおらず、まったく違った人に生まれ変わっているのだ。だが、あの世は、世界がまったく違っていて、人間は同じ。後世に生まれ変わる人間と、あの世にいく人間で二種類の選択肢があるのではないだろうか。

 ただ、それを選択するのは、本人なのかは分からない。あの世、後世という考え方も、まったくの想像であって、根拠もないのだ。弟は生まれ変わった後世にいて、優実はあの世にいるのではないかと思えていた。だから、弟は、優実との関係を邪魔することができなかったのだ。

 弟の生まれ変わりが勝則ではないかというのは、あまりにも突飛な発想ではないだろうか。だが、この世の偶然は、この世の人間には作れないが、この世の者でなければ作ることができるかも知れない。

 また、弟が死産だったのか、それとも一度生まれていたのかという発想は、あの世と、後世という発想に繋がるものがある。優子は、死産だった場合は、最初、後世に繋がっていて、逆に一度生まれていたとすれば、あの世に繋がっていると思ったが、その発想には矛盾があることに気が付いた。一度、生まれついていたとしても、後世に繋がるのではないかと思ったからだ。特に炎を伴う事故で亡くなったのだとすれば、何か未練が残っていて、まだ成長しきっていない魂は、生まれ変わりの相手を探し、未練の残った気持ちだけが、優子の身体に宿ったのかも知れないと思ったからだ。

「私と、あのストーカーが出会ったのは、偶然ではないかも知れないわ」

 生まれ変わりの魂と、未練が残った気持ちが融合したとしても、不思議ではないからだ。

 勝則が、弟の生まれ変わりだとしたら、弟がそのまま生まれていて、優子のそばで育った時の性格と、勝則自身の性格が同じなのかという疑問が生まれた。

「人の性格というのは、持って生まれたものと、育った環境による」

 と言われるが、半分は似ていて当然である。陰湿で執念深そうな雰囲気を感じるが、それは、ひょっとすると、優子から見た目だからなのかも知れない。友達の輪の中に入ると、活発で、爽やかな青年なのかも知れないと思うと、優子の性格も、勝則から見たものと、他の人から見たものでは、まったく違っているかも知れない。

 勝則がストーカー行為に走ったのも、それを警察の前で怯えて見せたのも、本来の性格からなのかも知れない。だからこそ、優子は勝則が気になってしまい、観察を始めたのだった。

 優子には、優実の性格は最後まで分からなかった。二十歳過ぎまで生きたのだから、誰かに生まれ変わりを委ねるとは思えない。だが、優実の潔さは、心のどこかで、

「私は生まれ変われるんじゃないかしら?」

 という思いがあったから、死ぬことを恐れてはいても、絶望することはなかったのかも知れない。

――ひょっとすると、優実は、生まれ変わった自分を見ることができた?

 思い切り突飛な想像だが、生まれ変わりというのは、死んだ人のその瞬間から後でないといけないと思われがちだが、前もありえるのではないか。つまりは、本人が死ぬ前と、生まれ変わりの人とが同じ世界で共存できるという考えである。

 優実は偶然か必然か、生まれ変わりの自分を知ったのかも知れない。それで、死を恐れない感覚が生まれた。そうでもなければ、死を目の前にして、あれだけの余裕など、考えられるはずはないからである。

「まさか」

 それが、真美だったら……。という発想は、すでに妄想でしかない。発想の域を超えているのかも知れない。

 いろいろと発想を妄想に変えていくと、分かってきた気もするのだが、今度は、この世でもまわりの人たちとの関係がギクシャクしてきそうな気がした。

 松田との関係、真美との関係、他の人との関係もまるで紙に描いた平面上の関係に思えてきて仕方がないのだ。

 松田とは、結婚してから、一度もベッドを共にしていない。年齢的にも、身体を重ねないと、愛情を確かめられないという感覚ではないが、どうしても寂しさは拭いきれない。それが、身体からなのか、気持ちの問題なのか、ハッキリと分からないが、松田に最初に感じた包容力は、ベッドを共にしたとしても、再度感じることができるものではないと思っている。

「ひょっとすると、あの人は、私と結婚したことで、前の奥さんを思い出しているのかも知れないわ」

 悲しいのは、その気持ちである。奥さんを思い出すことで自分の若い頃を彷彿させたいと思っている。もちろん、最初からそのつもりではなかったとしても、優子を利用したということに変わりはない。言い知れぬ唇を噛み締めたくなるような苦み走った寂しさは、そのせいなのかも知れない。

 松田に対しての、優子の気持ちは、さほど変わっていない。優子はそれが悲しかった。優子も確かに松田に対してぎこちなくなり、冷たい態度を示しているのに、気持ちだけが変わらないというのは、表に出ている感覚と、実際の感覚の間で差があり、優子には不利な状況をまわりに醸し出しているのだ。

 引いていく気持ちに対し、追いかける気はないが、自分が冷めていないのは、どうにも中途半端な気がしてならない。松田と結婚して後悔をしているわけではないが、松田がなぜ冷めた気になったのか、優子には気がかりだった。

 ただ、松田という人は悪い人ではない。優子も、すでに「夢見る」などと言っている年齢ではないので、恋愛を純粋に楽しめればいいと思っていたのだが、そういう意味では、結婚は間違っていなかった。

 この年になって、少しでも心がときめいたのなら、結婚も悪いことではない。そう思って結婚したのだが、結婚自体が、どういうものなのかと、考えるようになった。

「今まで結婚しなかったのは、なぜだったんだろう?」

 いい人がいなかったから?

 いや、それだけではないはずだ。

 いい人がいたからと言って、すぐには結婚しない。一生を左右する問題だからだ。

 いい人という基準にも問題がある。性格的にいいだけでは、結婚生活は成り立たない。経済力や、家庭をまとめていく力、あるいは、生活力も考えなければいけない。要するに総合的な判断が求められる。

 知り合って、付き合って、プロポーズがあって、婚約。そして結婚となるわけだが、堅苦しいところは抜きにしても、外せないものもあるはずだ。相手を知るには時間もかかる。そして相手の家族関係まで考えると、その間に、紹介という「儀式」も入ってくるだろう。家族への紹介、そして、婚約という儀式は、堅苦しくても、外せないものの中に入ってくるに違いない。

 松田が悪い人ではないというだけで、結婚に踏み切ったわけではない。総合的に見て判断したのだ。この年になるまで結婚しなかったのだから、満を持していると言っても過言ではない。

「一度は結婚してみたかった」

 という気持ちがあったのも、正直言って、ウソではない。それだけに、相手は慎重に選んだつもりだ。付き合っている時に、

――話をしていて飽きが来ないほど楽しかった――

 これも、結婚に踏み切る大きな理由だ。だが、交際期間中と、結婚してからでは、かなり違ってくるものであるということは頭の中では分かっていたが、蓋をあけてみると、想像していたよりも、違っていたのだ。

「この人は悪い人ではない」

 ということも、結婚に踏み切った大きな理由の一つだった。

 結婚しようと思った理由は、挙げればきりがないほどあった。

 真美の存在は、気にならなかった。結婚前に紹介された時、雰囲気が誰かに似ていると思い、そして、それが優実だと分かった時、

――この娘とは、これから長いお付き合いになる因縁を感じるわ――

 と思えた。

 真美が優実の生まれ変わりだとは言わないまでも、どこかで意志を受け継いだのではないかと思えるところがある。真美に、

「初めて見た光景なのに、以前にも見たことがあるような感覚を味わったことってある?」

 と聞くと、

「ええ、ありますよ」

 と、至極当然のことのように、あっけらかんと答えてくれそうな気がする。

「私、女性が年を取らないとしたら、それは女性を好きになったからなんじゃないかなって思うんですよ」

 という話をしていた優実を思い出した。

 それは、自分のことを言っていたのかも知れない。優子に愛されて、至福の悦びを味わい。そして、優子は知らなかったが、死期を悟っていた優実には、自分は死んだら、永遠に年を取らないのだと、言っていたのかも知れない。

 最初は、照れ臭く感じられた優子だったが、優実がいなくなってみれば、その言葉の意味の重さに気付き、ずっと忘れられない言葉となったのだ。

――私も、まわりから、年齢の割に若く見えると言われているけど、それって、年を取っていないということに繋がるわね――

 と感じた。

 どこから年を取っていないのか分からないが、どこかで一旦年を取るのが止まってしまい、そこからリスタートする。それを何度か繰り返していれば、優子は年を取っていないという感覚が当然のごとくとなり、却って、意識することができなくなってしまっていたのかも知れない。

――どこかで、成長とともに、意識も止まってしまっているのかも知れないわ――

 という感覚は、躁鬱症の中で、躁と鬱が入れ替わる時に感じるものと似ていた。優子は時々、自分が躁鬱症ではないかと思うことがあるが、それは、躁の時と鬱の時とで、時間の流れ方や時間の長さの感覚が違っていて、躁と躁の間にある鬱の時間がまるでなく、ポッカリと穴が空いてしまっているように思えるのだ。

 躁状態の時と鬱状態の時では、同じ人間が感じるのに、まったく違った世界が展開されているのではないだろうか。

 年を取らない人がいるとすれば、躁鬱症の人にも言わるかも知れないと思っていた。ただ、躁鬱症の人は、年を取らない期間と、一気に年を取る期間とが、躁鬱症の切れ目に訪れ、結局最後は辻褄が合うようになるのではないかと思っている。

 優子の場合は、そうではなく、本当に年を取っていないのだ。

 そのおかげで松田と出会った。

 松田は気付いていないが、松田も優子と知り合ってから、年を取っていない。若返っているくらいに見えるのは、それだけ、優子と一緒にいると、気持ちまで若くなるからだ。若く見えるにはそれなりに理由があり、精神的なものが大きいのかも知れない。

 ただ、精神的に若返ったのか、それとも、思い出すことが若い頃のことばかりだからなのか分からないが、確かに若い頃のことが、まるで昨日のことのように思い出されて仕方がない。途中の生活がマンネリ化していて、どこを切っても同じことしか思い出さないような気がするくらいだった。

 卒業してからの方が波乱万丈の人生だったはずなのに、思い出すことは学生時代のことばかり、しかも、楽しかったことよりもほろ苦い思い出の方を思い出すというのも、おかしな気分がしてくるのだった。

 松田の学生時代には、ほろ苦い失恋があった。

 好きになった女の子には、好きな人がいて、それが松田の親友だったのだ。親友とは、高校時代からの付き合いで、平凡な毎日を過ごしている松田と違い、親友は体育会系で、サッカーをやっていた。

 サッカーばかりに熱中しているので、彼に憧れる女の子はいても、

「今はサッカー一筋」

 と、ばかりに、恋愛は、自分の中で禁じていた。

 そんな彼には、たくさんの女の子が群がったが、松田が好きになった女の子も、その中の一人だった。

 松田は、彼女のことが好きだったが、その他大勢の中の一人になることは嫌だった。

「どうせなら、他の女の子に負けないでほしい」

 という思いと、自分のものだけになってほしいと言う思いのギャップがストレスとして残ってしまう。

 しかし、逆に彼女には、他の人と同じような群がり方はしてほしくないという思いもあり、群がっている時の彼女は嫌いだという思いが、ギャップによるストレスを緩和していたのだ。

 そんなジレンマの中、自分が他の人と同じでは嫌だと思うようになると、今度は急に、好きだった彼女に対して冷めた気分になってきた。

「俺だけを好きになってくれる女の子じゃないと嫌だ」

 という思いである。

 その中には、他の人と争いたくないという思いがあった。

「争ったら、結局は自分が負けてしまう」

 という思いがあったのも事実だろう。

 松田の心の中には、消極的な部分が積極的な部分を覆い隠す傾向があったようだ。

 ただ、それを人に知られるのは嫌だという思いよりも、自分自身納得できないことが嫌だという思いの方が強く、なるべく消極的に考えないようにしようと思うと、

「他の人と同じでは嫌だ」

 という気持ちが自分の中の第一の考えだと思うようになった。

 松田は、頭の中で似たような考えをいくつも持っている。そしてその中で自分を納得させる思いが一番表に出てくるのだ。消極的な思いが出てくる時は、いろいろ考えても、どうしても積極的になれない時である。

 松田は、彼女に対しての気持ちが冷めていったことで、本当は、彼女から精神的に逃げたことで、痛手を最小限に緩和したつもりだった。だが、実際には、心の中では、

「ほろ苦い失恋」

 として残った。

 強引に自然消滅させてしまうと、彼女に対して、自分が嫌いになったという思いが残るからだ。松田自身の中では、彼女を好きなまま終わりたいという思いが強くあり、失恋ではないのも、失恋したという思い出を作り上げれば、そこには、ほろ苦さが湧いてくる。それが松田の中での、

「思い出の改ざん」

 であった。

 これをやってしまうと、他の思い出もあてにならなくなってしまう。松田には、意識としての改ざんはない。思い出のすべてが事実だと思っている。すべてが真実だと思っているが、それでも思い出が色褪せたりしないのは、

「それが事実であっても、改ざんであっても、正直な気持ちの表れであれば、それは本人にとっての真実でしかないからだ」

 もし、松田の中で改ざんが意識的に行われていたら、悩んでいたかも知れない。悩みながら、何かの答えを求めて、考えていけば、最後に辿り着く答えが、

「自分にとっての真実」

 ということになるはずである。

「正直が真実を生む」

 これが松田の信念でもあった。

 優子は、松田のそんなところを好きになった。松田は少し変わっているが、優子も自分が他の人と同じでは嫌だという気持ちを持っていた。自分とは少し違う意味で他の人と同じでは嫌だという部分を持っているが、共鳴できるところは多々あったのだ。

 松田は、そんな優子に、自分の信念を見たのかも知れない。

「彼女こそ、自分にとっての真実」

 そして何よりも、余裕が感じられ、安心感を与えられるのが、一番の嬉しいところであった。

「余裕があるから、安心感があるんだ」

 と思った。そして、その中にこそ、優子の真実を感じた。そして、優子の真実は、そのまま松田の真実でもある。一足飛びにそこまで考えたわけでもなかったが、自分の中の真実が刺激されたのも事実だった。

「この人には、他の人にはないものがあり、それがこの人の信念なんだ」

 と、感じた。

 それを意識させたのが、年齢の割に若く見えるところであったが、なぜ若く見えるのかまでは、すぐには分からなかった。ただ、分かったとしても、それは、優子の中で感じている若く見える理由とは、きっと違っているのではないかと思えた。

 それはそれでいい。なぜなら、同じ考えであれば、共鳴はしても、本人が見るのと、まわりが見るのとでは違って当たり前だという考えではなくなるからだ。

 松田にとって、若く見えることで、今まで隠してきた男としての部分が、よみがえってきた。どうして隠してきたのかというと、

「もう、女性を愛することはないだろう」

 という思いが、松田の中にあったからだ。

 人を愛することがないというのは、本当に寂しいことだ。それを思い起させたのが、優子の存在でもあったのだ。

 自分の中で勝手に終止符を打ってしまうのが、松田の悪いくせであった。それも、結構早い段階で終止符を打つ。それだけ、自分の中で自信を持つことができないものが鬱積している証拠なのかも知れない。そう思うと、悲しくなってくるのだった。

 優子は、あまり諦めの早い方ではなさそうだ。そこが、松田とは違うところだが、

「あきらめてしまうのは、いつでもできる」

 というのが、優子の持論だが、その中には、優実が教えてくれた、彼女の中にあった信念である「貫徹」の思いが大いに含まれているのだった。

 優実の考えていた貫徹とは、

「自分の一生を、最後まで全うしたい」

 という思いが込められていた。

 まさか、優実が死んでしまうなど思ってもいなかったので、「貫徹」と言われてもピンと来なかったが、死んでしまってから分かっても、あとの祭りであった。だが、優実が言いたかったことは、十分に伝わったつもりで、優子が優実にしてあげられることは、優実の信念を忘れず、自分も優実の分まで自分の一生を最後まで全うしなければいけないということであろう。

 そういう意味で、優子にとってのこの結婚は、まだまだ諦めていないという気持ちの表れでもあった。

「結婚というのを味あわずに一生を終えるのはもったいない」

 という気持ちもあるのだ。

 ただ、この結婚を考えた時、誰かが背中をそっと押してくれた人がいた気がする。それを、優子は優実だと信じて疑わなかったが、果たしてそうだったのだろうか?

 それがどうして優実だと思ったのかというと、背中を押す微妙な力加減が、男のものではないように思えたからだ。

 女性のものだとすれば、考えられるのは優実しかいない。優実が優子の結婚を応援してくれているのだ。そういえば、その頃、よく霊感が働くような気がしていた。それは、優実が優子のそばにいて、ずっと見てくれているからだと思えたのだ。

 優実の死に立ち会うことができなかった。仕事が忙しく、なかなか優実と連絡を取ることができないでいたが、その間に優実は急変し、入院したかと思うと、翌日にはすでに帰らぬ人となっていた。

 優子が駆け付けた時、病院のベッドの周りで、すすり泣く声が聞こえた。顔には白い布がかけられていて、誰も顔を上げることができないでいた。

 急変を聞いて駆け付けたが、間に合わなかったのだが、

「あと一時間早ければ」

 という言葉を聞いた時、優子は時間というものを呪い、そして、これほど大切なものはないということを、同時に感じてもいた。

 人の、しかも大切に想っていた人の死を目の前にして、冷静に判断ができる自分が不思議だったし、悔しくもあった。目頭は熱くなるのだが、なぜか涙が出てこない。普段、ドラマなどを見ていると、涙が出ることもあり、

「優子は涙脆いわね」

 と、言われて、

「女も三十後半になると、涙脆くなるものよ」

 と、若い女性事務員に対して、年齢を誇示したものだったが、そんな優子が、肝心な時に涙を出すことができない。

――涙なんて、意識して出すものじゃないことは分かっているけど、どうして肝心な時に出てくれないの?

 本当は泣きたくてたまらないのに、泣くことができない。まわりからどう思われようが、それは構わないのだが、優子にとっては、自分の中のポリシーが許せないのだ。

 心を通わせた人と、もう会えないのだという思いが胸を締め付ける。締め付けられた胸から、言い知れぬ思いが滲み出て、そこから涙となって流れ出すのが自然だと思っていたのだ。

 胸が締め付けられる思いは、ハッキリと感じる。身体に硬直が走り、汗が滲み出てくるのは、胸を締め付けられる思いがあるからで、言い知れぬ思いもあった。会えないという残酷な感情を、感覚が受け入れることができずに、マヒさせてしまう道を選ぶ。どうしていいのか分からない気持ちになるのが、言い知れぬ思いであった。

 そして、そこから涙に移る時、まず目頭が熱くなる。それも感じた。寝不足で、目頭が熱くなる時と、どこか似ていたが、涙が出る感覚とは少し違う。ただ、その時は寝不足の時に似ていた。まるで、その場から早く逃げ出して、楽になりたいという思いだ。

――そうだわ、逃げ出して、楽になりたいという思いが涙が出るのを邪魔したんだわ――

 と感じた。

 確かに、人の死を目の前にして、何もできないでいると、逃げ出したいという思いに駆られることもある。楽な方に進みたいという思い、これは誰もが持っているもので、優子にも当然あった。楽な方に進めば、諦めも自然と早くなり、いくらでも楽な道があるように感じられ、いばらの道は、狭くて暗い、そんな道にしか見えない。

 どちらがいいかといえば、それはたくさんの選択肢があって、広くて明るい楽な道がいい。しかし、そちらを選んでしまえば、それが堂々巡りを繰り返すだけの袋小路であることを、一生知らないで過ごすことになるだろう。

「貫徹」、この思いを持って死んでいった優実には、二度と会うこともできないし、すぐに記憶からも抹消してしまうことだろう。何しろ、楽な道では彼女の存在は不要なのだから……。

 この思いが、優子の中にあり、目の前の優実が死んでしまったという事実に蓋をしようとしてしまう。どんなに悲しくても、涙が出ないのは、そのせいであろう。

 しかし、この時に、優子は優実の死を受け入れようと思った。なぜかというと、まだその時優子には優実の言っていた「貫徹」のような信念が、固まっていなかったからだ。

「正直が真実を生む」

 という信念に辿り着いたのは、この時だったのではないかと思う。

 正直に、優実の死を受け入れようとウソでもいいから、涙を流そうと努力した。それまでの優子であれば、そんな努力は泥臭いもので、醜いと思っていた。それを敢えて行わなければ、堂々巡りを繰り返すだけだと思ったからだ。

「まずは、自分に正直になることだ」

 そう思うと、スーッと肩の力が抜けてくるのを感じた。肩の力が抜けると、優子は、優実の顔の上に乗っている布をはぐってみた。

「……」

 その顔は安らかだった。

「それでも死んでいるのよ」

 優実の母親が呟いた。それを聞いた瞬間、優子の目から、滝のような涙が溢れてきた。さっきまで涙が溢れてこなかったのがウソのようである。

 一気に溢れてきた涙に戸惑いながらも、やっと涙が出てきてくれたことにホッとしたものだ。このまま涙が流れてこなかったら、この場での自分の居場所を見失い、もしかすると、優実に対して、一生負い目を感じながら生きていくことになるかも知れなかったからである。

――優実は、優子に何を言いたかったのだろう?

「この娘、あなたのことをうわ言のように呼んでましてね。何かを言いたかったのかも知れません」

 と、母親から告げられて、感じたことだった。

 優子は、それが自分に対してというよりも、自分の中にいる弟の存在を意識していたのではないかと今から思えば感じる。その時、優子はどうして涙が最初出なかったのか、分からなかった。それは自分の中にいる弟の存在を知らなかったからだ。今では弟の存在も感じていて、涙が出なかったのは、弟の気持ちが左右していたのではないかと思えた。

「彼女の死と、正面から向き合いたい」

 と、弟が思ったとすれば、そこには、自分がどうして死んだのか分からずに優子の中にいる弟とすれば、人の死というものを、表から真剣に見てみたいと思ったのかも知れない。そんな時、涙など流したら、涙で見えるものも見えなくなってしまうだろうと感じたのだろう。だから、優子の身体に涙腺が緩むのを阻止したのではないだろうか。

 そう思うと、優子も納得ができた。そして、涙が出てきた瞬間、優実の思いが伝わった気がしてきた。さらに、心の中に共鳴するものがあったのだが、それが初めて自分の中に弟の存在を感じた一瞬だったのだ。

 優子の死と、弟の存在を感じた瞬間。その思いが優子の記憶の中で、一つの結論に結びつけるものがあった。

 だが、記憶が本当に時系列に伴うものだとは言い難いかも知れない。

「今から思えば……」

 という記憶は、結構都合よく作られていることがある。時系列で冷静に並べてみると、辻褄が合っていないところを強引に結びつけたところもあるからだ。

 肝心なことはこうやって思い出すことができるが、ほとんどは、物忘れが激しくなった最近では、おぼろげな記憶しかない。

 物忘れが激しくなる瞬間というのはあるようだ、

 ハッキリとはしないが、自分の中にある記憶の中で、物忘れが激しくなった瞬間というのを思い出すことができる。

 その瞬間は、最初からその日は、忘れてはいけないことがあったはずなのだ。そのことを忘れてしまった。肝心な時に思い出せなかった。だが、そのあとになって、

「しまった」

 と、後悔させられる。その時に初めて、物忘れが激しくなったことを悟ったのだ。

 忘れてしまったわけではない。心の片隅にあって、肝心な時に思い出せない。それが、物忘れだと、優子は思っている。

 完全に忘れてしまうなどということは、よほどのことがない限りありえないだろう。完全に忘れてしまうのは、記憶喪失でもなければ、あとは、記憶の奥に封印されてしまっているのだ。

 いつ、どういうきっかけで封印されてしまうのかは、その時々によって違ってくるだろう。だが違ってくる中で、時系列がバラバラになってしまうので、思い出す時に、苦労するのだろう。

 物忘れが激しいということは、本当に忘れているわけではなく、思い出す時に苦労するからなのかも知れない。そこには時系列の存在が不可欠で、記憶という装置を、使いこなせなくなってしまったのだろう。

 ある意味、整理ができていないからなのかも知れない。記憶という領域にはたくさんのものがあり、

「捨てる」

 という概念が、別の場所に封印されるのを助けることになるのだが、捨てる行為自体に、抵抗がある。

 確かに昔から整理整頓が下手で、その理由が、

「捨てることができないからだ」

 と思っていたが、それが物忘れに影響しているとは思ってもみなかった。

――女性は、整理整頓に長けているのが本当だ――

 と思っていたが、その思いが、余計に優子の中で反発を招いているのかも知れない。まわりの理屈を、勝手な思い込みとして自分の中にしまい込んでしまうと、そこから先は意固地になってしまう。物忘れの激しさは、その代償のようなものではないだろうか、優子の悪いくせの一つだった。

 優子にとって、優実の死が、その後の自分の人生にどのような影響を及ぼすか、想像もしていなかった。しかも、二十年近くも経ってからのことなので、なおさらである。

 今度の結婚に踏み切った優子の背中を押したのは、優実だっただろう。だが、そこには自分の中にいる弟の存在を無視できなかった。弟も悪い結婚ではないと思ってくれたに違いない。

 優子は、最近、少し自分の周りに起こっていることが、昔に感じたものと似てきたように思えてきた。

「昔のことを思い出すのが頻繁になってくると、年を取った証拠だというが」

 まだ五十歳で、そんなに年を取ったという感覚はない。だが、結婚したことで、優子は今までずっと自分が容姿同様、若いのだと思っていたところに、さらに落ち着きを感じるようになったことで、年相応になったのではないかと思うようになった。

 実際に、結婚してからというもの、鏡を見ると、自分が実年齢に近づいてきていることを感じていた。

――まさか、このまま一気に年を取っていくのかしら?

 と、思うようになると、結婚するということが、自分から若さを奪うことになるのだと言えなくもなかった。

 真美と身体を重ねたあの時から、まだ数か月しか経っていないのに、顔も身体も一気に数年年を取ったかのようになっていた。

――何かの呪縛が解けたのかしら?

 今まで実年齢よりも若かった分、今度は身体が実年齢に耐えられなくなったのであろうか、優子は自分が怖くなった。

 だが、まわりの人は、そんなにビックリした様子はない。それまで若く見えていた人が急に年を取って見えるようになったら、ビックリするはずなのに、誰もそのことを指摘しようとはしない。指摘しないまでも、訝しい表情になってしかるべきだ。それが誰も気づかないということは、身体の衰えを知っているのは、自分だけということになる。

――まわりの視線と、自分で感じていることに差があるのだろうか?

 今まで若く見えていたのも、本当は自分だけが感じている錯覚で、実際には、年相応に見られていたのかも知れない。

 ただ、中には、年よりも若く見えることを指摘してくれた人もいたが、あれは、ただの社交辞令だったのだろうか?

 いや、そんなことはないはずだ。

 少なくとも、松田と真美は、それぞれの目で、若く見えると言ってくれたではないか。それが実はその時に感じただけだったのかも知れない。それ以上触れることはなかったからだ。

 そう考えれば、松田が結婚してから優子を抱かないのも分からないわけではない。ただ、身体目当てで結婚したはずではないのに、男の人の心境というのは分からない。最初から若く見えていなければ、結婚しても愛しあうことに抵抗はなかったはずだ。松田は、無意識のうちに、優子の実年齢と、肌年齢の差を見知っていたのかも知れない。

 優子は、最近特に優実と弟のことを思い出し、二人のことを考えている時間が多いことに驚いていた。考え事をしているかと思うと、それはいつも二人のことであった。優実も弟も、優子をじっと見守っていながら、その実、意識させる力が増してきているようだった。

「私にとって、あの二人は一体何なのかしら?」

 死んでいった二人、その二人ともの、死の瞬間に立ち会えなかったことを、後悔している気持ちがいつも頭の中にあり、それが無意識に二人を考えてしまう理由になってしまっているようだ。

 優子は、この世での松田、真美親子と、人生を全うすることを楽しみにしていた。それなのに、弟と優実の存在が優子の意識の中で大きくなっているということは、何かの警告だと考えられないだろうか。

 二人が、今さら優子の人生に関わってくるということは考えにくい。すでに五十歳近くになっている優子は、昔の優子と違って、後の人生をゆっくり、そして余裕を持って生きようという気持ちが大きくなっていただけに、それを邪魔するようなことは、意味がないような気がした。

 心に問いかけても、二人は何も答えてくれない。

 そういえば、今までも二人に対して、心の中に問いかけて、答えてくれたことがあっただろうか?

 存在だけは意識できて、問いかけることはできるのだが、それに対しての答えは、一切返ってくることはなかった。一方通行になっているのだが、優子が想像していることで、明らかに違っていると思われることに対しては、心の奥から、警鐘が鳴った。知らせてくれているのだが、答えを教えてくれるわけではなく、自分で考えないといけなかった。

 ただ、今回の優子は、少しゾクッとしたものを感じた。

 それは、昨日、花屋で仕事をしていた時のことだった。

 いつの通りに、朝の開店準備をしながら、ホースで表に水をまいていた時のことだった。

「おはようございます。まだ早いですか?」

 その日の優子は、何か気持ちがウキウキしていた気がしたので、不謹慎ではあったが、鼻歌を歌っていたのだ。

 鼻歌が聞こえたのか、話しかけてきたのは、一人の女の子だった。彼女は、まだ高校生くらいだっただろうか。ちょうど、優子は自分が、お花に興味を持ち始めた頃だったのを思い出していた。

「大丈夫ですよ」

「よかった」

 というと、彼女は、真っ赤な色の花に興味を持っているようだった。じっと見つめるその先に見えているのは何なのか、優子には分からなかったが、遠い記憶の中で、同じように真っ赤な花に見とれて、目を瞑ったまま、意識が飛んでしまったのを、急に思い出したのだ。

「あの時の意識はどうしたのかしら?」

 女の子を見ながら、独り言のように呟いた。

 女の子はニコニコと笑いながら、優子を見上げた。まるで優子の考えていることが分かっているかのように、その瞳は優子を捉えたまま、離さない。あまりにも清純に見えるその表情は、まだ世間を何も知らない少女であり、あの時の自分がまさしくそうだったことを思い出させたのだ。

 女の子の顔を見ていると、ちょうど高校生の頃は、自分もよく鏡を見ていたことを思い出した。鏡に映った清楚な自分を、いつまでも眺めていた。それがそのうちに、清楚でなくなっていく自分が怖くなり、鏡を見なくなったが、どうしても、化粧をする時だけは見なくてはいけない。それが本当は嫌だったのだ。

 女の子は、

「お姉さんも、赤いお花、好きなの?」

「ええ、どうして分かったの?」

「だって、お姉さんのお顔。真っ赤だから……」

 一瞬、顔から血の気が引いた。

 その言葉を以前に自分が言ったことを思い出したからだ。その時のお姉さんの顔が、本当に真っ赤で、まるで血の色だった。こんなに無邪気に声を掛けられるほど尋常な顔ではなかったからだ。

「どうして、今さら?」

 昔のことを思い出して、これほど怖く感じることなど、今までになかった。

 しかも、なぜ今なのか? それも疑問である。ゆっくり考える暇もない。女の子は無邪気に答えを求めているようで、その視線は熱いものだった。そしてヘビに睨まれたカエルは、ただ、立ちすくんでいるだけだった。

「ゆっくり見ていてね」

 と言って、優子は女の子をそのままにしておいて、奥に入った。入った場所は、洗面所で、そこで顔を鏡に映して見た。

「ああ、よかった」

 そこには、彼女のいうような真っ赤な表情は浮かんでいない。だが、清純なあの娘が、謂れもなく、ウソをつくとは思えない。さっきまで、優子の顔が真っ赤だったのか、彼女の目にだけ、優子の顔が真っ赤に見えたのかのどちらかであろうが、とりあえず、安堵の溜息を洩らした優子だった。

 ついでに、顔を洗ってタオルで拭いてから、戻ってきたので、その間が少しあったようだが、戻ってくると、もうそこには女の子はいなかった。少しだけ話をしただけの女の子だったのに、妙に意識は鮮明だった。

「夢でも見ているのかしら?」

 と思い、妄想を抱いてしまったのではないかと感じたからだ。

 足元をふと見ると、そこには、影が残っているかのように思え、その少女がいきなり現れて、忽然と消えてしまったことを、今さらながらに感じさせるような、寒気を誘う出来事だった。

 自分の少女時代と、花屋のお姉さんになってから見た感覚では、かなり違っている。

 たとえて言うなら、自分の左右の手を握り合わせると、必ずどちらかの手が暖かく、どちらかが冷たいはずだが、その時に、熱い方を感じるのか、冷たい方を感じるのか、ということである。

 実際には、その時になってみないと分からないが、どちらの方が感じるかというと、ハッキリとは分からない。それは、どちらも自分の手だからである。きっと、手の気持ちになってみれば、どちらも感覚が違うのに、頭は一つだということなのだろう。伝えた感覚が違っているから、頭が混乱するのである。

 優子は、優実と弟が自分を迎えにきたのではないかと思った。その使者として、少女が現れたのではないか。優子がそのことを感じていると、翌日、またその女の子がやってきた。

 時間も同じくらいの時間で、朝開店間際だった。

「おはよう」

 優子は、女の子に話しかけたが、聞こえていないのか、何も言わない。さらに優子を無視して、店長のところに歩いていく。彼女は優子の姿が見えていないようだ。

 そして、店長に向かって、

「魔法のエッセンスをください」

 その言葉にビクッとした優子は、後ろを振り返ったが、そこには店長はおろか、女の子の姿は、どこにもなかった……。

「私の生まれ変わり?」

 生まれ変わりは、何も死んでからでなければいけないわけではない。生きている間に会うこともあるかも知れない。ただ、出会ってしまえば、その人の死期は近いのかも知れない。

「魔法のエッセンス」

 優子は、その言葉を胸に、どこに旅立つのであろうか……。


                 (  完  )

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魔法のエッセンス 森本 晃次 @kakku

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