第5話

 真由子が転勤し、早一か月。


 梅雨が明け、日差しがきつい日が続く。セミもけたたましく鳴くようになった。


 駅から会社まで歩いている間に汗が滝のように吹き出してくる。それにセミの鳴き声が足されるとたまったモンじゃない。


 ゆいなは”都会なのにこんなにセミがうるさいなんて……”と、朝一から騒がしい虫を恨めしく思うのだった。


 去年の夏は家から職場まで車で通っていたので、通勤中の暑さとはほぼ無縁だった。セミの鳴き声も風流かな、よきかな、などと呑気に楽しんでいた。今年は出勤中に容赦なく熱気がまとわりついてくる。


 しかし、会社に入ってしまえばエアコンがよく効いており、汗が一気に引いていく。


 玄関の自動ドアが閉まると、ゆいなは日傘をとじながら一息をついた。


 そんな涼しいコーベ支店の玄関には最近、キキョウの花が飾られるようになった。


 もちろんこれは木野が育てて会社に持ってきたもの。青紫色で星形の花の美しさは格別で、女性陣から人気がある。


 花を大事そうに、ほほえみをこぼしながら手入れをする木野。彼を眺めているとうざったい暑さを忘れられる。


 ゆいなは日傘をバッグにしまいながら木野にあいさつをした。


『おはようございます! 私のおばちゃんの家の庭でもキキョウが咲き始めましたよ』


『時期だからね』


 木野は花瓶に活けていたが、話しかけたら大層嬉しそうに笑いかえしてくれた。


 瀬津曰く、木野は植物の話になると永遠に話し続けるらしい。だから花を持った木野には、彼のファンでも話しかけないそうだ。


『キキョウは秋の花だと思ってました。確か秋の七草でしたよね』


『そう。でも梅雨の時期から咲き始めるんだよ』


『綺麗ですねぇ……』


『白やピンクのキキョウもあるんだよ。園芸品種だと八重咲のものもあるし、中には青紫と白の半々で咲くのもあるんだって』


 木野は花瓶に水を注ぎ、活力剤なるものをさらさらと流し込んだ。これを入れることで花が長持ちするらしい。


『こういう薬があるのは知らなかったです』


『水換えの度に入れてるんだけど、なければ漂白剤とか十円玉でもいいよ』


『え!? 十円玉!?』


 驚いたゆいなに木野は力強くうなずいた。普段、こういうことを話す相手がいないからか楽しそうだ。


『なんでって思うでしょ? 花を長持ちさせるには水を清潔に保つのが大事でね。十円玉を水に入れるとほんの少しだけど、銅イオンが溶け出すんだよ。銅イオンには殺菌効果があるから水が汚れにくくなって、花を長持ちさせられるんだって』


『へ~……なんか理系な豆知識ですね』


『昔おばあさんに教えてもらったんだよ』


 週末にあけこの家に行ったら教えてあげようと思った。


 しかしゆいなは、花瓶を持つ木野の腕に意識を取られた。


 クールビズ月間となり、男性陣はネクタイを外して半袖のシャツを着用するようになった。木野ももちろんその内の一人。


 半袖シャツからのぞく腕は引き締まっており、血管が浮き上がっていた。大きな手の平と長い指、卵型の爪はバランスがよくてきれいだ。ゆいなは喉を鳴らしそうなのをこらえながら唾を呑み込む。


 学生服を着ていた頃もそうだった。夏になると男子たちの腕を眺め放題なのが幸せだった。


 当時は腕の血管が! とか肌の灼け具合が! なんて大きな声で言うことはなかった。否、言えなかった。


 思春期真っ盛りの時代にそんなことを言ったら、あの男子のことが好きなの~?と、からかわれてあらぬ噂をたてられるのがオチだ。今は”推し”というちょうどいい言葉があるが、当時は”この人のここがいい=好き”だったので厄介だった。


 思えば学生時代に好きになった人もただの推しだった気がする。


 顔がいいとか声がいいとか、それを見つめるだけで幸せだった。











「中野さーん、脚立借りるからねー」


「はーいどうぞー」


 返事をすると脚立がガチャンガチャンと音をたてながら、どこかへ移動していった。


 ここは支店で出力された伝票や請求書の控えを保管しておく倉庫。電気をつけないと薄暗い。エアコンがついていないのにひんやりしているのが不気味さを醸し出していた。


 ほこりっぽい中、ゆいなは自分の身長くらいある高さの棚の上に座っていた。


 棚の上で足を揺らしながら、ダンボールに入った伝票をぱらぱらとめくっては戻す作業を繰り返す。


 なんでも、とある日付のデータは伝票だけが存在し、パソコンに入力されていないとのこと。しかもその伝票を見た、という人はいたが肝心の伝票は行方知れず。


 そこで、早々に仕事を終えて手が空いたゆいなが探すことになった。


『私の名前で打ち込んであったんですか?』


『そう。でも君にこの仕事はまだやらせたことがないし……何か心当たりない?』


『ないですねぇ……』


 瀬津は答えが判明するのでは、と期待に満ちた表情で声をかけたがゆいなは首を横に振った。


 一連の出来事になんで? と疑問を抱いたが答えはすぐに分かった。


『瀬津さん! 中野ちゃん! 犯人が分かった! かもしれない!』


『なんだって!?』


『犯人?』


 瀬津とゆいなの元に走ってきたのはしのだった。彼女は半分怒り、半分達成感を得た表情で肩で息をしていた。


『小田ですよ! アイツ、腹いせにやったんじゃないでしょうか。伝票の日付の前日は私たちがまゆこりんと呑みに行った日だったんです』


『そういえばあの日、小田さんが真由子さんにしつこくご飯に誘ってたような……』


『そう! 私たちがまゆこりんを連れ出した日!』


(小田ぁ……マジで許さないかんな……)


 思い出して小田への怒りで燃えた。塀の中から出てきたら浦島太郎のような気分になって時代についていけず、落ち込めばいい。


 しかし、こういう地道な作業は好きだ。パソコンと向かい合うのも好きだが、たまにはこうして部署から離れるのもいい。


 しかし、新たに開けたダンボールの中にも目当てのものはなかった。


 部屋自体は小さいが、膨大な量の紙が保管されているのでたった一枚を見つけ出すのは至難の業だ。


 そろそろ誰か手伝ってくれないかな……と出入口を見たら、瀬津が現れた。


「中野さん! 伝票見つかった!」


「ホントですか! よかったぁ!」


 慌てて走ってきたのだろう。ずれ落ちた丸メガネを直しながら瀬津が笑った。ホッとした表情で額を拭っている。


「どこにあったんですか?」


「小田君がいた席。デスク下に配線が束になってるとこがあるでしょ? そこの隙間」


「うわ地味……」


 ゆいなは顔をしかめた。のっぺりとした髪の男がやることの地味さったら。どうしてあんなのがこの会社に長年勤め続けられたのか謎だ。


「木野君が急にひらめいて、デスクの下を探したらビンゴだったんだよ」


「え、木野さんが見つけたんですか! さすがは私の推しですね!」


「あーはいはい。早く部署に戻って木野君のことを褒めてやってよ」


 ゆいなが拍手をしていると、瀬津はメガネの奥で目を細めて半笑いになった。


「とりあえずもう戻っておいで。頼みたい仕事があるから」


「はーい」


 ゆいなは手にしていた伝票の塊をダンボールの中にしまい、勢いよくふたをした。舞った埃を手で払ってダンボールを奥に押し込み、その場から飛び降りようとしたら瀬津に止められた。


「何してんのダメダメ! 危ない!」


「でも脚立貸してますし……」


「持ってくるから! そのまま!」


「はーい……」


 瀬津は念入りに何度も制止すると、慌てて倉庫を出て行った。


 これぐらいの高さなら余裕なんだけどな……多分。と、ゆいなは再び足をぶらぶらさせながら瀬津を待った。


「中野ゆいな? うぉっ」


「あ、西さん」


 また新たに人がやってきた。半袖シャツの袖が二の腕にぴっちり張り付いた男だ。


 相変わらず木野推しのゆいなのことを厳しい目で見ているが、以前ほどは敵対視されなくなった。フルネームで呼び捨てにされるのも慣れた。


 西はゆいなが高いところに座っていることに驚いたようだ。


「そんなところで何してんだ」


「下りれないんです」


「下りれない? じゃあ……ほら」


 西が背を向けた。ちっちゃいジープでものせてるのかと突っ込みたくなる太い肩を叩いている。


「ここに乗れ」


「え?」


「下ろしてやるから」


「私重いんでダメです!」


「俺の鍛え方が足りないってか?」


「そういう意味じゃなくて! 瀬津さんが来てくれるので……」


 さすがに男の人の肩に乗るのはちょっと。ゆいなはその申し出に驚きながら首を振った。


 西はムッとした表情をしながらも、その場からはなれようとしなかった。


「瀬津さんじゃあ身長足りないじゃん」


「そういう意味じゃなくて……うわぁ!?」


 瀬津が来てくれるまで粘ろうとしたら、有無を言わさずに西はゆいなの足を抱えた。そのまま肩に乗せて棚から離れると、彼は歯を見せて得意げな表情になった。


「どうだ中野ゆいな! 自称重い女を俺は肩にのせられるんだぜ?」


「す、すごいけど恥ずかしいです……」


 棚より不安定な場所のはずなのに、太ももにがっちり回されたたくましい腕のおかげで滑り落ちることはなさそうだ。


「中野ちゃん、脚立……あれ?」


「中野さん、王子様に助けてもらった~? あれれ?」


 脚立を肩にかけた木野が現れたらと思ったら、その背後に瀬津がひょっこりと顔をのぞかせた。


 木野は瀬津のことを見ると、西を指さした。


「俺は通りすがりのおじさんです。王子様はあっち」


「ただの筋肉バカじゃん。あるいは人間脚立?」


 ゆいなは息を呑むと、真っ赤な顔で西の肩をバシバシと叩いた。


「木野さん瀬津さん! 西さん早く下ろしてください!」


「あ? うん」


 西に体重を預けたのは恥ずかしいが、誰かに見られるのは構わなかった。木野以外なら。


 ゆいなは西が腰を落とすと飛び降り、三人に背を向けた。


(木野さんに見られちゃった……)


 顔を覆い、誰にも聴こえないようにため息をつく。






 木野は脚立を部署の隅に置くと、自分のデスクに戻った。


 小田がゆいなを貶めるために作成した伝票は無事に見つかった。


 粘着質のあるヤツらしい犯行だ。怒りが沸き、二度と塀の中から出られないようになってしまえばいいとすら思った。


 例の伝票はデータが本当に存在しないか再チェックした後、シュレッダーにかけた。


 怒るのもここまで……と、シュレッダーに吸い込まれていく伝票を見届けて目をとじた。


 が、見逃せない出来事がまた起きた。


 西がゆいなを肩車していた。ゆいなが棚の上から下りれなくなっているから、と瀬津に頼まれて脚立を持って行ったのに、すでに用済みだった。


(あれぐらいの高さなら俺も抱えるくらいは……)


 自慢ではないが社内で高身長の部類に入る木野。瀬津よりも西よりも身長が高い。


 西のように鍛えていないので肩に乗せることはできないだろうが、お姫様抱っこならできる。


(中野ちゃんもあぁいうことされたら嬉しいのか……?)


 西の肩から下りた時のゆいなの顔は真っ赤だった。照れているのかすぐに背を向けてしまい、一人でさっさと倉庫を出ていってしまった。


 伝票探しお疲れ様、と声をかけることもできなかった。











 金曜日の夜。西のプチ歓迎会を木野の行きつけの店で行うことになった。今ではゆいなの行きつけにもなっている、小さな花壇がある居酒屋だ。


 初めて来た時はアマリリスが咲いていた花壇は今、ヒマワリの苗が植わっている。まだゆいなの膝ほどの背丈しかないが、直にぐんと伸びて大きな花を咲かせるだろう。


 ここは料理も酒もおいしいし、大将と女将が気さくで楽しい空間。それに加え、季節の花を見れるのがゆいなのひそかな楽しみだ。


「こんばんは!」


「いらっしゃい中野ちゃん。待ってたでー」


「今日は貸し切りやからな! 存分に吞んで食って騒いでってや! 何時までも付き合うで!」


 木野があらかじめ予約しておいてくれたようだが、楽しみにしていたのはゆいなたちだけではないらしい。


 女将に勧められるままゆいなたちは席に着く。彼女は当然のように木野と隣同士で大将の前の席になった。


 ゆいなの横で女将からおしぼりを受け取ったしのが会釈をする。


「女将さん、この前はありがとうございました」


「中野ちゃんの先輩の……しのちゃんやったね。よう来てくれたね」


 ゆいなは二回目にここを訪れた時、宣言通りしのを連れてきた。せっかくだからとしのの旦那も誘って。


 しのの旦那はシャイで、別の部署なので接点はないが初めてここでたくさん話した。しのの好きな所、この会社のおもしろい人、いい人、コーべのおいしいお店など。


 彼はしのと正反対の性格をしているが、だからこそ彼女と気が合うのだろう。家で彼がしのの話をにこにこと聞いている様子が目に浮かぶ。


 しのは冷たいおしぼりで手をぬらすと、木野のことをちらっと見て空中を手でたたいた。


「あっ、今日は木野さんがいるから推し語りできませんね〜!」


「あぁーそーやなー! ほんま残念やわー!」


「わざとらしい……」


「この前は木野さんの話で大盛り上がりでしたもんね! しのちゃんの旦那さんも木野さんが一番話しやすいって言ってましたもんね」


「そんでまた君はそういうことを……」


 木野推しの三人を見ながら木野はお冷に口をつけた。まだ呑んでいないのにその顔は赤い。


「おい中野ゆいな! なんでお前が木野の兄貴の隣なんだよ!」


 出入口に一番近く、しのの横の席の西がわめく。


 女将は彼の前にお冷を置くと、二の腕をベタベタと触り始めた。


「まっ! この子えぇ体しとるわ~。なんかやってはるの?」


「筋トレをまぁ……少し」


 褒められた西はまんざらでもない表情でおとなしくなった。


「ほんま? めっちゃ仕上がっとんな! おっちゃんは贅肉が増える一方やで」


「俺も小学生の時はザ相撲少年って感じでしたけど、中学で部活を始めたら一気に痩せました」


「そら大変やわ! めっちゃモテるやろ? 凛々しいもんなぁ!」


「まぁ……それなりに……」


 肩をもんだり二の腕をなでる女将にタジタジしている西を、しのは勢いよくはたいた。”言ってやれ篠山さん!”と瀬津が口元に手を添えて声を張る。


「いってぇ……」


「何がえらそうに”それなりに”、よ! あんたなんか木野さん一直線で女子たちからドン引きされてるわ! 最近は中野ちゃんがまともに相手にしてくれるから調子に乗ってるだろ? フルネーム呼び捨てしてるけど本当は構ってほしいんだろ?」


「誰がこんなヤツになんか!」


 しのはゆいなを指さした西の首根っこを掴んだ。女将も大将もくすくすと笑っている。


「女将さん、コイツ西って言うんですけど中野ちゃんに絡みに行ったら構ってやってもらっていいですか?」


「もちろんやで。こんなかわいい子と話せるのうれしいわぁ。何呑む? 生でええ?」


 女将が西に飲み物の希望を聞いたところで全員の手元に生が届けられた。ただし、ゆいなだけはレモンサワーだ。


 ”この前も初っ端から呑んでなかったっけ?”と木野に小声で聞かれ、覚えていてもらえたことに嬉しくなる。


 木野の反対側の隣に座る瀬津がおもむろに立ち上がり、生が入ったジョッキを持ち上げた。


 女将も蕎麦焼酎の蕎麦茶割りが入ったコップを持ち、大将は焼き台から目を離した。


「えー西のプチ歓迎会選抜の皆さん、今週もお疲れ様でした。この一か月でいろいろありましたが、なんとか乗り切れましたね。筋肉が取り柄の西君も来てくれて、大きなトラブルもなく夏を迎えることができました。今年も暑い夏になりそうです。……熱中症に気を付けてこの夏を乗り切りましょう!」


「もうちょっと仕事に関係ある話をしましょうよ……」


 ゆいなたちより先に店に来ていた瀬津のことを、木野が半目で見る。


「バカヤロー! 熱中症をなめんなよ! 屋内にいてもなる時にはなるんだよ!」


「瀬津さんあんた先に呑んでたな?」


「ということでかんぱーい!」


 瀬津は勢いよくジョッキを掲げると、中身を一気に飲み干して”おかわりー!”と元気におねだりした。


「全くしょうがない課長だよ……ねぇ」


 テーブルに肘をついてため息をついた木野が、ゆいなのグラスとジョッキを当てた。


 隣だから当然だが、木野と一番最初に乾杯ができたのが嬉しい。ゆいなはコクコクとうなずいてから木野と同じようにジョッキを傾けた。


 それからは料理が出番を待っていたと言わんばかりに、それぞれの前に次々と置かれた。酒のアテにぴったりなおばんざい、大将自慢の焼き鳥、串揚げなど。酒がすすみ過ぎそうだ。


 話題は今日の主役の西のことになりそうだが、しのが振ったのは真由子のことだった。


「課長、まゆこりんのシゾーカ支店での活躍ぶりはどうですか? 噂で流れてきてるんじゃないんですか?」


「そう! 超絶美人を送り込んでくれてありがとうだってさ。美人なのにそれを鼻にかけてないし、仕事に黙々と取り組んでくれてかなり期待してるってよ。ただ……独身彼氏ナシって知れ渡ってから、男性陣のアプローチがすごいらしい。お姉様方も”美人なのにもったいない!”ってマッチングさせようとしてるとかなんとか」


「さすが真由子さん!」


 ゆいなが大きくうなずていると、瀬津がにんまりとした顔でアゴをしゃくりあげた。


「人の事言ってる場合か~? 中野ちゃん。いつまでもプラプラしてたら直にこんなんになっちゃうぞ~?」


「木野さんをこんなん呼ばわりしないでください!」


「いいんだよ……本当のことなんだから」


 木野が苦笑いすると、ゆいなはジョッキを置いて眉をキリッと寄せた。


「木野さんが独身なのも魅力の一つなんですよ! こんなに推しポインツだらけなのに独身で哀愁を漂わせているところが!」


 熱い推し語りが始まりそうな雰囲気に、西の大きな耳がぴくっと反応した。


「中野ゆいな! そういうのをいい加減に……もごっ」


「にーし~? ここの大将が焼く焼き鳥は絶品なのよ。おとなしく味わっててちょうだい」


 しのは立ち上がろうとした彼に、焼き鳥の串を持たせて座らせた。


 普段だったら西の大きな声で縮み上がるゆいなだが、酒のせいで気が大きくなっている。


 木野はいつもの光景になりつつあるゆいなの熱弁に、机に突っ伏して震えていた。






 女将は西がトイレに消えて行くのを見届けると、ゆいなと木野のことをそれぞれ指をさした。


「そんなに熱く語るんやったら中野ちゃんたち、デートしたらええやん」


「え?」


 レモンサワーをおかわりしようとしたゆいなが固まった。


 顔を上げた木野は目をこすっている。


 ポカンとしている二人の背中をたたくと、しのと瀬津が盛り上がり始めた。


「それいい! 二人って植物が好きなんでしょ? 絶対気が合うってことじゃん!」


「いいねぇ! 僕が交通費とか出すからぜひ行ってほしいわ」


「な、何故……」


「木野ちゃん、私らも心配してるんやで? 結婚を完全に諦めとるわけではないやろ?」


 女将が焼酎片手に二人の後ろに立った。


 当の本人たちは話題の中心にされ、隣の顔を盗み見ようとした。ばちんと目が合うと、お互いに反対方向に顔を背けた。


 ゆいなはグラスを両手で握ると震え始める。


「お……推しとデートなんて恐れ多くて無理です! せめてお供するとか護衛とか……」


「中野ちゃんは侍かなんかか?」


「俺もこんな若い子を連れ回すのは……俺といて楽しいと思う?」


 木野の問いにゆいなは全力で首を縦に振った。


「推しの休日の過ごし方を間近で見られると思うと! めちゃくちゃに興味あります」


「そういう意味じゃなくてさぁ……」


 木野が頭をかく様子に、ゆいなは顔に”?”を浮かべた。


 今のはわざとだ。木野とデートなんてできたら楽しいに決まっている。


 しかし、今は微妙な間柄。推す者と推される者。どういう顔をして並んで歩いたらいいのか分からない。


「瀬津さんは木野さんと休みに呑むことがあるんですよね?」


 西がトイレから戻ってきたのにいち早く気が付いたゆいなは、さりげなく話題を変えようとした。


 瀬津は大将から串揚げが乗った皿を受け取ると、メガネを押し上げた。


「そうだよ。木野君の家に行くこともあるよ」


「木野さんのお家!?」


 推しのお宅は気になりすぎる。ゆいなはグラスを握りしめて身を乗り出した。


 瀬津は串揚げにソースをかけ、ソースが入ったボトルを大将に返す。


「そ、ザ日本家屋って感じの平屋。木とか植物とか、睡蓮の池があって綺麗だった。でもさ……一個何か褒めるとめちゃくちゃ話長いんだよね。何も言わなくても勝手に説明始めるし」


「それは……すみません」


「本当だよ。家だと一人で寂しいってことだろ。でも……中野ちゃんだったら楽しめるんじゃない?」


 バツが悪そうな木野を尻目に、瀬津はゆいなのことを見た。


「僕知ってるんだよ、花瓶の水を替えてる木野君に唯一話しかけてるの」


「そっそれは朝の挨拶ついでに世間話をしてるだけで……!」


「それなら私もよく見てるよ~? 朝からお熱いことで」


 反対側からしのがずいずいと身を寄せてきたせいで、木野とぶつかってしまった。


 思わぬ接触に体がとびあがる。心臓も一緒にはねたようだ。今ので酔いも吹っ飛びそうだ。


 木野は大して気にしていないようで、ゆいなの腕で動いた皿を重ねてテーブルの中央に移動させた。

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