第6話

「あっこおばちゃんおはよー」


「おはようってもうこんにちわの時間やで、あーた」


 西のプチ歓迎会の次の週の日曜日。ゆいなは愛車の鍵を指でくるくると回しながらあけこの家を訪れた。


 あけこは庭で作業していた。後ろにカバーがついたつばのある帽子を被り、腕には長い手袋。日よけ対策ばっちりだ。


 彼女はたくさん生えているセンニチコウを切っていた。赤く小さなとげとげが集まったそれは、実は花ではない。赤い部分は葉が発達したもので、花びらはすぐに散ってしまう。


 あけこは茎をつまむと下の茎に脇芽という、小さな芽がついているかを確認しながら鋏を入れる。


「何してるの?」


「センニチコウがほしいって人が今から来んのよ」


 あけこは小さなバケツに赤いセンニチコウを挿していく。中をのぞくとピンクのものも混ざっていた。


「暑い中お疲れ様」


「あーたはこんな時間からどこ行くん? 13時やろ」


「あっまぁちょっとね……」


「なんやねん、もったいぶらんと教えてーな。そんな格好して」


「あ、これ?」


 ゆいなは自分の姿を見下ろすと、ワンピースの裾をつまんだ。


 白地に花柄のワンピース。ふくらはぎの半分まで丈があり、細いリボンはウエストできゅっと結ばれている。ふんわりとふくらんだ袖は二の腕を隠していた。


 いつもは三つ編みにしている髪はゆるくウェーブをかけた。


「しのちゃんと選んだんだ。かわいいでしょ」


「珍しいな、あーたがスカートなんて。ウチに来るときはいつもジャージみたいなんばっかりやん。化粧もせんと」


「それは内緒にしといて……!」


 ゆいなは他に誰かがいるわけでもないのに、シッと唇の前で人差し指を立てる。


 彼女は休みの日はもっぱら安物のTシャツと、ジャージ素材のカンフーパンツ。この時期なんかは楽だし涼しくていい。


 もちろん、友だちと出かける時用のおしゃれ着だってある。スキニーパンツとちょっとしたブランドのロゴ入りTシャツばかりだが。


「もしかしてゆいな、あーた……デートか!?」


「デートじゃないけど今から植物園に行ってくr」


「私は朝そんな早く起きられへんから、自分でシャッター開けるんやで? そんで静かに停めてな、車」


 ゆいながおどけてその場で一回転してみせると、あけこは立ち上がって車庫を指さした。


「いや、帰ってくんの夕方だけど」


「朝帰りになるかも分からんやん」


「なるかー!」


 あけこが鼻で笑う様子に、ゆいなは顔を真っ赤にさせた。なんてことを言うおばはんなのだろう。


 あけこは帽子のつばを腕で押し上げると、肘でゆいなのことをつつき始めた。


「で? 相手は誰なん? 最近同じ部署になった子か? あーたと同い年や言うてたなぁ」


「西さんのこと? 絶対ない」


「ほな誰や」


「木野さんです……!」


 名前を言うとゆいなはうっとりとした表情で手を組んだ。


 今日も暑いがあの優しいほほえみを思い出すと、気にならなくなる。


 休みの日に推しに会える。なんて素敵な日曜日だ。


 彼はどんな感じで現れるのだろう。服は、バッグは、どんなものが好みなのか。


 頭の中がお花畑なゆいなとは打って変わり、木野の名前を聞いてあけこは絶叫した。


「え、例のおっさんとデートぉ!?」


 ゴトッ、と園芸ばさみが落ちる。あけこは震える指でゆいなのことを指さした。なんならもう全身が震えている。


「てかもう時間だから行くから! お迎えに上がるの!」


 ゆいなはあけこの肩をバシンと叩き、小走りで車庫に向かった。











 時はさかのぼること先週の金曜日。西のプチ歓迎会の帰りのことだ。


 お開きとなり、ゆいなと木野は方向が同じなので一緒に駅のホームへ入った。


「楽しかったですね!」


「うん。瀬津さんが騒ぎ過ぎだったけど」


 皆が来る前から居酒屋で呑んでいた瀬津。ゆいなたちが二杯目を呑まない内から出来上がっていた。


 木野が額に手を当ててため息をついたのに、ゆいなは頭を下げた。


「瀬津さんをタクシーに突っ込むのお疲れ様でした……」


 瀬津はお開きとなる頃にはベロベロに酔っ払い、ずっと木野に寄りかかっていた。トレードの丸メガネはずれ落ち、かろうじて鼻で引っかかっているだけ。


『きぃ〜のくぅ〜ん……いつ結婚すんのぉ〜』


『はいはいいつかね』


 瀬津は中瓶を胸に抱き、木野の二の腕に頬ずりをしている。


『あれやったら僕と結婚する〜?』


『きっしょ! 何言うてんのこのおっさん!』


 木野はここぞとばかりに瀬津の頬を張ると、女将にタクシーを手配してもらうよう頼んだ。


『木野ちゃん大丈夫なん? そんなんでも上司やろ?』


 女将は受話器を取りながら木野と瀬津のことを交互に見る。


 瀬津はむにゃむにゃ言いながら、中瓶を大事そうに抱えていた。


『大丈夫です。ここまで酔ったら次の日なんも覚えてないですから』


 木野は至って冷静で、"瀬津さんの奥さんに電話しておきます"と言い残して店の外に出た。


「あんだけ酔っ払った瀬津さんは初めて見ました……」


「俺も久しぶりに見たよ。会社の大きな呑み会なら節度を保ってるけど、少人数だとハメ外しまくりだからね。ひどい時はキスされそうになるし」


「うべぇ……ドン引きです……」


 とんでもない絵面を想像しかけ、ゆいなは頭をブンブンと振った。


「もっとひどいのはウチの睡蓮池に落ちそうになったことだな」


「え!? 木野さん自慢の!?」


「そ。西君が腕を掴んでくれなかったら片足は突っ込んでた」


 その時のことを思い出したのか、木野は頬をピクピクさせていた。


 本人には悪いが、レアな怒り顔は”いただきましたよぉ!”と拳を高く掲げたいところである。


 しかし、木野はげっそりしているように見えた。瀬津相手なので気疲れではなさそうだが、精神を削られたのかもしれない。呑み会の後半はずっと瀬津にダル絡みされていた。


「す……睡蓮と言えばこれからがピークですよね! 私のおばちゃん家には睡蓮鉢があるんです」


 木野を癒すにはやはり植物の話だろうか。ゆいなはスマホの写真フォルダをスクロールし、最近撮影した睡蓮鉢を見せた。


 骨董品の茶碗のような柄の陶器鉢。水面には丸くてV字の小さな切込みが入った葉っぱがいくつも浮いている。


「睡蓮鉢もいいよねぇ……」


 木野がゆいなのスマホをのぞきこむ。背が高いので腰を屈めながら。


 普段、接近することがない彼の顔が近くなり、思わず後ずさりそうになる。


 しかし、距離が縮まったことを意識したのをバレたくない。ゆいなは平静を取り繕い、画面の中央を指さした。


「これから花が咲くのが楽しみなんですよ!」


「これは……姫睡蓮かな」


「名前は知らないですけど木野さんがそうおっしゃるのなら正解じゃないでしょうか」


「今度おばちゃんに聞いてみてよ」


 木野の顔が綻ぶ。睡蓮の花もこんな風に優しく花を開くのが楽しみだ。


 この話題で瀬津へのストレスは和らいだだろうか。彼の横顔はほんのり赤く、優しかった。


「木野さん家の睡蓮池はすごいんでしょうね……」


「じゃあ見に来る?」


「え?」


 あまりにもあっさりとした誘いに、ゆいなは”推しの家!?”と騒ぎ立てるのではなく素でポカンとしてしまった。当の本人も何を言ったのか自覚し、口元を手で隠して目を泳がせている。


「あ、いや……瀬津さんとかがたまに来るから。皆で吞むんだよ。その時に中野ちゃんもどうかなって。さ、篠山さんも一緒に!」


 ゆいながあまりにもまっすぐに見つめているからか、木野はそっぽを向いてしまった。その首は真っ赤だ。


「ぜひ……お邪魔したいです」


 ゆいなはこくりとうなずくと、上目遣いになった。スマホを胸の前で大事そうに抱きながら。


「ホント? こんなおじさんの家でも?」


 ゆいなの返答に木野が振り向く。照れくさそうに鼻の頭をさわりながら。「推しの家なんて行きたいに決まってるでしょう! 推しが普段どんな暮らしをされているのか気になります。広いお庭も見てみたいですし」


「君の植物好きは本物なんだなぁ……」


「そうですよ。推しと接点を持ちたいからとかじゃないですからね。植物園とか温室に行くのも好きなんです」


 ゆいながいつもの調子になると、木野は目を細めた。その口元は穏やかで、夜空に浮かぶのと同じ三日月形をしていた。


「じゃあさ、今度一緒に植物園に行きませんか」


「へ!?」


 本日何度目かのゆいなの素っ頓狂な反応。木野はおもしろそうにうなずいた。


「さっき女将さんに言われたからじゃないけど……君と行ったら楽しそうだなって」











 今週は週末の約束を思い出しては仕事中にニヤニヤが止まらなかった。しのに何度、仕事中に頬をつねられたことか。


 しかも彼女は”推しとのお出かけなら服も気合入れなきゃ!”と一緒に服を選んでくれた。まるで自分のことのように張り切って。


 そして迎えた約束の日。


 ゆいなはアシヤ駅へ向かうべく、車を走らせていた。


 来たばかりの時は都会を走るなんて怖いと思っていた。しかし、たまに行っていたナゴヤよりずっといい。やたら車線が多くて右折や左折でさえ一苦労、なんてことはない。突然現れるバスレーンに惑わされることも。


 きっとそれは、あけこに”コー〇ン連れてって”、”関〇ー行くで”、”今日はラ〇フに行こか”とパシ……誘ってもらったおかげだろう。


 だいぶ見慣れてきたアマの町を走り、高速に乗る。


 高速を下りると景色がガラリと変わった。見たことのないおしゃれな店や高級そうな住宅が立ち並ぶ。その住宅に停まっている車がまた、ゆいなでは名前が分からない高級車ばかりだ。


 こんなところに住んでいるなんて木野は本当に何者なのだろう。


 ナビがアシヤ駅に近いことを告げる。ゆいなは車を減速させると、周りをチラチラと見ながらハンドルを握った。


 すると、先の方で大柄な男が立っているのが見えた。


「あ。うわぁ……!」


 周りの通行人よりも大きくて目立つ木野。


 体よりも一回り大きめなマリンブルーの半袖シャツ、ブラウンのチノパン。いつもはワックスで整えている髪はそのままで、下ろした前髪はさらさらとしている。


 ラフ過ぎず堅すぎず。ゆいなの中の休日の木野と解釈一致だ。彼はゆいなに気が付くと手を振った。その優しいほほえみはいつもと変わらない。


 今から推しを乗せる。車内のにおいは大丈夫だろうか。出発前に車内の布という布製品に消臭剤を振りかけまくった。


 ゆいなは木野の前に車を停めると鍵を開けた。


「ありがとう、中野ちゃん」


「いえ、お待たせしました!」


 木野が斜め掛けにしたボディバッグを押さえながら助手席に乗り込んだ。


 彼がシートベルトをしたのを確認すると、ゆいなは車を発進させた。


「迷わなかった?」


「はい! ほぼ道なりだったので」


 何気なく答えると、木野が息を吞んだようだった。


 横目でちらっと見ようとしたら、その前に言葉が返ってきた。


「迎えに来てもらっちゃってごめんね」


「大丈夫ですよー。駅から離れたとこに行くんですから、車の方が楽じゃないですか」


 そうやって気遣ってくれる木野の優しさが嬉しい。


 ゆいなは赤信号で止まると、改めて木野の私服姿を横目で観察した。


 いつもスーツ姿が様になっていてかっこいいのだが、今日のようなラフな格好もよく似合っている。


 膝にのせた左手には緑のバンドの腕時計。会社でつけているのとは違う物だ。


 細かいところもおしゃれなんだ……はぁ眼福……、とゆいなは心の中で手を合わせた。


「帰りは俺が運転するよ」


「大変ありがたいのですが……保険の関係で私と家族しか運転できないんです」


「あ、そっか……」


「木野さんの運転する姿を見たかったです……」


「何それ」


 残念がると木野に笑われた。






 本当に良かったのだろうか。日曜日にこんなおじさんと出かけて。


 目的地に着き、隣を歩くゆいなのことを木野はこっそり見下ろした。


(……可愛い)


 いつもパンツスタイルの彼女のワンピース姿は珍しい。


 髪型もいつもと違うし、これだけ可愛い格好をしてきてもらえたのは、彼女が今日の約束を楽しみにしていてくれたということだろうか。


 植物園の入り口で入園料を払い、中に入る。チケットの半券を一枚渡すと、ゆいなが恭しく両手で受け取った。


「入園料ありがとうございます……私ったら……」


「車出してもらってるんだから。これくらいさせてよ」


「いやいや大したことでは! むしろお金を払いたいくらいなのですが……推しとのお出かけはなんぼお支払いしたらいいのでしょう……」


「その”推し”ってヤツ今日は禁止ね!」


 木野はたしなめ、ゆいなが入口でもらった園内地図を二人で眺める。広い公園のようになっており、温室もあるようだ。


 園内は洋風の作りで、通路はすべて石畳。大きな噴水や、蔓性の植物を這わせたアーチが設置されている。


 石でできた大きなパフェグラスのような鉢植えに、小さな花がたくさん寄せ植えされている。ピンクのニチニチソウ、薄紫のトレニア。鮮やかな黄色とオレンジのマリーゴールド。よく庭先の花壇や鉢植えで見かける花ばかりだ。


 木野はしゃがみ込むとスマホで写真を撮りながら、”こういう組み合わせの植え方もいいな……”と見とれていた。


「木野さんは自宅のお花を一人でお世話しているんですよね」


 ゆいなの問いかけに答えながら立ち上がった。


「うん、今は。おじいさんとおばあさんが生きてた頃は三人でやってたこともある」


 歩き出し、道の横の柵を眺めた。柵の向こう側には、白樺でかたどった動物が何匹も並んでいる。トナカイの角は細い枝で表しているようだ。


「よく遊びに行ってたんですか」


「遊びに行ってた、ってよりは半分住んでたようなもんかな。両親は仕事で海外に行くことが多くてよく預けられていたから」


「かっ海外! 木野さんの素性がますます謎になってきました……」


 ゆいなが震えていると、木野は苦笑交じりに眉を下げた。


「別になんでもないよ……」


「少なくともウチとはるかに違うと思います」


 真顔になったゆいなだが、不意に木野の後ろを指さした。


「後ろ! 木野さん後ろ!」


「え? なんか懐かしいこと言うね」


 後ろになにかトラップでもあるのか……と振り向くと、柵の向こう側が直植えのコーナーになっていた。そこには我が家で見慣れたキキョウが数輪、咲いている。


「ピンクのが咲いてますよ! この前木野さんが教えてくださった……」


 ひょろりと伸びた緑の先端に咲く青紫の花。まだ開花していない花は蕾が袋のように膨らんでいた。


 その中に一輪だけ薄桃色の花が咲いていた。一本だけ長い茎で、周りより薄い花の色を目立たせるように。


「あ……」


 本当だ。


 その言葉が続くのが正しいのだろうが、木野は固まった。


 視線はピンクのキキョウを眺めるゆいなの表情に奪われた。


『白やピンクのキキョウもあるんだよ。園芸品種だと八重咲のものも。中には青紫と白の半々で咲くのもあるんだって』


 以前、会社でキキョウを水切りしていた時にゆいなにそう教えた。


 彼女は覚えていてくれたのだろう。何気なく言ったことなのに、見つけて嬉しそうに笑っている彼女の表情に釘付けになった。


「柔らかいピンクで可愛いですね」


「……うん」


 自分が教えた花を見つけて報告してくれた君の顔も。


 腕を伸ばして彼女の頭をなでそうになったのをこらえた。






 温室には大きなオレンジの羽の工業用扇風機が置かれ、通りかかる人の髪に強風を吹きつけている。


 大きなビニールハウスのような温室は太陽光を受け、明るくなっている。その分、熱もこもっていた。


「暑くない?」


「はい!」


 ゆいなの方へ振り向いた木野の前髪が勢いよくあおられる。


「風があるので平気ですよ」


 温室には熱帯植物が多く展示されていた。ど派手な色合いのものばかりだ。


 温室の中には滝を模したものや池、噴水があり、水の近くは少し涼しかった。


 二人で歩き、後ろから来る人たちを何度も見送った。


 歩き進めると、ゆいながバナナやパイナップルの木が植わっているコーナーで、上を眺めたり茂みをのぞきこんでいた。


 どうやら果実が成っていないか探しているようだ。その様子に木野は爆笑した。


「……ッ。そんな必死に……! 果物好きなの?」


「は……はい。てか笑いすぎですよ!」


「ここで採っちゃだめだからね」


「そんなことしませんて! 成ってるとこを見たいだけです!」


 ゆいなは両手を顔の横に上げ、首を振った。


 温室にはベンチや東屋風の休憩できる場所がところどころ設けられていた。ゆいなは洋風の東屋で、テーブルに肘をついて座った。


 木野は相変わらず植物の写真を熱心に撮りながら、ゆいなの後を追った。


「木野さんは写真を撮るのもお好きなんですか?」


「んー……その日に見つけた植物を、家に帰ってから振り返るのが好きなんだよ」


 彼はスマホをゆいなに見せた。今日撮った植物の写真は、ゆうに百枚を超えている。


「君は自撮り? とかしないんだね」


「しないですねー。撮ったところで何をするわけでもないですし」


 ゆいなはそう言って、東屋の柵に沿うように生えた緑の葉にふれた。近くにぶら下がった説明書きには『バニラ』と記されている。


 東屋のそばにはカカオの小さな木が鉢植えで置かれている。


 カカオの方にはアメフトボールによく似た形の実が、バニラには緑の細長いさや状のものがぶら下がっていた。


「バニラ、カカオ……アイス食べたくなってきちゃいますね」


 椅子から離れたゆいなはカカオに顔を近づけ、”チョコのにおいしない……”と観察している。


 その瞬間、シャッター音が響いて木野はスマホを落としそうになった。


 石畳に落とす前になんとかキャッチすると、アイコンをさわってしまったのだろう。写真アプリが開き、一枚の写真が目に飛び込んだ。


(なんで……!)


 葉や実を傷つけないようにそっとふれるゆいなが、スマホ上でほほえんでいた。周りが緑で囲まれていて、フレームのようになっている。


 どうやら無意識に彼女のことを撮影してしまったらしい。


 今のシャッター音を不審に思われなかっただろうか。ゆいなはこちらには目もくれず目の前の小さな木を眺めている。


「あ……後で売店に行こうか。ソフトクリームの置物あったし暑いし……」


 罪悪感から明後日の方を向いて返事をした。


 何かの拍子にこの写真がバレてしまわないように消そう……と首を動かす。


 すると、真っ赤な花のようなものが目に飛び込んできて二度見してしまった。


 東屋の先にソアマウス・ブッシュという植物の鉢植えがあった。鮮やかな緑の葉っぱからのぞくように、真っ赤な二つの楕円形が重なったのを見て木野はぎょっとした。


 人間の唇によく似ている。唇お化けと呼んでしまいそうなほど。


 横にある手書きのポップには『中南米の熱帯地方に生息する植物。現地ではホットリップやウェディングキスと呼ばれている』と書かれていた。


(こういう時にそういうピックアップしないでほしい……)


 今度はバニラのさやのにおいを嗅ぐゆいなの唇が目に入った。


 会社にいる時よりも華やかなメイク。リップの色も違う。唇はいつもより艶やかだ。


 彼女はバニラも想像と違うにおいがしたのか、首をかしげていた。


 木野はスマホをポケットにしまうと、手で顔をあおいだ。暑くなったのは温室の気温のせいだけでない。


 今すぐ巨大な扇風機の前に立ち、顔の火照りをごまかしたかった。






 温室の外に出た二人は、売店の先にカフェを見つけて入った。


 おやつの時間だからか、それほど多くない席は九割方埋まっている。店内は涼しく、暑い中歩き回った体を休めるのにちょうどよかった。


 二人は店員に向かい合わせの二人席に案内され、メニュー表を眺めた。


 アイスを食べたい、と言っていたゆいなはフルーツタルトとカフェラテを注文した。


 様々なベリーがこぼれそうなほどたっぷりと乗ったタルト。店内の照明に照らされてつやつやと光るベリーに負けないほど、ゆいなの瞳も輝いていた。


 木野の視線を感じたらしいゆいなは顔を上げると。恥ずかしそうにうつむいた。


「す、すみません……心変わりしてしまいまして……」


「おいしそうなのが見つかってよかったね」


 肘をついてほほえむ木野の前には、おしゃれなグラスに盛られた半円状のバニラアイス。横には氷がたっぷりと入ったアイスコーヒー。


「中野ちゃんはそういうの好きなの?」


「はい! ブルーベリーとかラズベリーって好きです」


 ゆいなはさっそくフォークを手に取ると、一口サイズに切って口に運ぶ。小さな一口を堪能し、目を閉じている。


「木野さんはアイスはバニラ派なんですか?」


「そう……かな? アイスとコーヒーが好きなんだよ。フロートがある喫茶店なんかは最高だね」


「じゃあクリームソーダもお好きそうですね!」


「うん。最近はいろんな色のがあるらしくて心惹かれるんだけど……おじさん一人でそういう店に行くのはどうしても気が引けて……」


「じゃあ今度一緒に行きましょう!」


「それは……次もあるって期待していいの?」


 ゆいなはフォークを置き、神妙にうつむく。頬は真っ赤に染まっていた。温室で見つけた唇のように。


 お互いに含羞を帯びた顔色になり、いたたまれない空気になる。


 初々しい雰囲気が照れくさい。木野はうつむいたままのゆいなにぎこちなく笑いかけた。


「こっこの後さ、どっかで晩御飯食べてから帰ろうか。中野ちゃんは何が好き?」


「ハンバーグが好きです……」






 やっちまった、というわけではないが何を言っているのだろうとは思った。ゆいなはうつむいているのをいいことに、下唇にぐっと力を入れた。


 本当は居酒屋によくあるようなメニューが好きなのに。何をおしゃれぶっているのか。


 しかも、また一緒に出かけたいというニュアンスの言葉を発してしまった。


 木野とは何度か呑んで慣れているはずなのに、今日は度々緊張してしまっている。


 彼はゆいなが答えた言葉を疑わず、帰り道にいい店があるといいね、と柔らかい声で返した。






 ソファのカップルシートに通され、ゆいなは内心ドギマギしていた。周りにはそう見えるのか、と。 


 植物園内を一通り回った二人は車で移動し、小さなカフェに入った。


 昼間は通常のカフェ営業、夜になるとアルコールも提供するらしい。


 メニューはグラタンやハンバーグなどの洋食、ちょっとつまめるようなアラカルトなど。


 ゆいなは木野にアルコールのメニューをすすめたが、彼は頑なに首を振った。


 運転してもらってるのに一人だけ呑むことはできない、と。


 そんな気遣いが嬉しいし、初めてだった。


 前の会社では呑み会の足になることがしょっちゅうだった。自分は呑めず、人が呑んでるところをうらやましい、と思うことはないからだ。


 ゆっくりと食事をし、植物園での話をした。


 木野はゆいなの話をうんうん、と優しくうなずきながら聞いてくれた。






「ほんっとーにごちそうさまでした!」


「こちらこそ。運転ありがとね」


「おまかせください! 木野さんを安全にお家までお届けします!」


 ゆいなは運転席で敬礼をしてみせた。


 結局今日一日でゆいなが支払ったのは高速代だけだ。食事代は木野が全て出してくれた。"歳上なんだからそれくらいかっこつけさせて"と笑っていた。


 車を走らせると時刻はすでに19時。昼から出かけた、というのもあるが木野とのお出かけが楽しくて夜になるまであっという間だった。


 赤信号で止まると、木野が"あ"と声を上げた。


 無言で彼の方を向くと、前を指さした。それと同時にドン、と体に音が響く。


「花火だ……!」


 信号機の上で光の花が舞っていた。空中で火花が砂のようにさらさらと散っていく。


「夏だねぇ」


 助手席に座る木野を見ると、彼も見とれているようだった。目尻にシワが寄っている。


 いつもの誰かを見る優しげな表情とは違い、少年のようなあどけなさがにじんでいた。


 ちょっとかわいい、と頬がゆるむ。


 しかし、ニヤけた表情を見られたら説明するのが恥ずかしいので反対側を向いた。


 道の向こう側に浴衣姿の女子二人が歩いている。おそろいの浴衣姿だ。


 白地に黒と濃いピンクで描かれた花の華やかな浴衣。色合いが違うピンクの兵児帯を二本使い、飾り結びをしている。


「浴衣いいな……かわいい」


「今日の中野ちゃんも可愛いよ」


「ひぃぇっ! 推しに褒められた……!」


「なんちゅう声……」


 唐突な木野からの褒め言葉に跳び上がりそうになる。


 ”可愛すぎるくらいがちょうどいい!”としのにアドバイスされ、この服を選んでよかった。


 ゆいなはここぞとばかりに、自分の感想を口にした。


「木野さんもかっこいいですよ! すごく似合ってます」


 言いたくても言えなかった。なんとなくずっとタイミングを逃していた。


「これ? 今日は出かけるからさ、まともなヤツにしたんだよ。普段はもっとくたびれた格好をしてるけど」


「それはそれで見てみたいです」


 花火を眺めながら高速に乗ると、会話も少なくなった。たくさん歩き回ったせいで疲れが出たのだろう。眠気に誘われてきた。


 他の人だったら居心地が悪くなるだろう。無理やりにでも話題を作るかもしれない。


 しかし、木野と二人の空間でそんな焦りは生まれなかった。穏やかな沈黙が心地よい。


 彼から話しかけてくるまで自分は黙っていよう、と運転に集中していたら横から寝息が聞こえてきた。


 木野の大きな体がゆいな側に傾く気配がした。


(木野さんが寝てる……!)


 見たい見たい見たい。推しの無防備な寝顔! 会社では絶対に拝めない。


 しかしゆいなは運転中。しかも高速に乗っている。当分は横の様子を伺うことはできない。


 今ので眠気が消え去り、一気に覚醒した。






 やがて高速を下り、最初の信号につかまった。


 この時を待っていた……! 見てはいけないような気もしたが、欲望には抗えなかった。ゆいなはゆっくりと助手席側に顔を向けた。


 もう起きていたらどうしよう……とも思ったが、木野は目をとじて寝息をたてている。半開きの薄い唇が色っぽかった。


(いつもお疲れ様です。今日はこっちに来てから最高の一日でした……)


 ゆいなはほほえむと左手をハンドルから離した。


 無防備に広げられた彼の右手にそっとふれる。


 自分よりも大きくてあたたかい手。いかにもな男の人の手だ。


 今日の自分はいつもより大胆だった。ゆいなはゆっくり指を広げ、手のひらを重ねた。


 青信号になり、ゆいなは静かにブレーキから足を上げた。木野の家はもうすぐ。ナビに住所を入れてもらったので、彼の案内がなくてもたどりつける。


 しかし、家が近くなるにつれてアクセルを踏む足が嫌がるようだった。


 帰りたくない、というより帰したくない。


 そんな気持ちは初めてだった。






 木野はゆいなの車を降り、丁重に礼を言った。車が見えなくなるまで見送ると、門を押し開けて庭に入った。


 自宅に帰ってくるとすぐにシャワーを浴びた。暑かったので体がべたついている。


 汗を一刻も早く流したかったが、右手の感触は忘れたくなかった。


 ゆいなの車が高速を下りて停車した時、目が覚めた。しかし体がけだるく、まだ起きたくなかった。


 すると、ゆいなが自分の手にふれた。目を開けなくても小さな手だと分かる。手のひらが重ねられた時、手を握って指を絡めそうになった。


 しかし彼女を驚かせたくなくて寝たフリを続けた。


(君は一体どういうつもりで……)


 流しっぱなしのお湯で髪が顔に張り付く。シャワーを止めると髪の先からしずくが滴った。


 木野は手の平を細い目で見つめると、親指の付け根に唇でふれた。


 目をとじると、今日一日の出来事が脳裏で再生された。


 ゆいなの楽しそうな笑顔、はしゃぐ声、振り返って木野のことを見つめるきれいな瞳。


 たった半日で心はゆいなの様々な表情でいっぱいになってしまった。

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