第4話
支店長からの説明により、真由子が小田に襲われた事件は瞬く間に社内に広がった。
そして小田が、二度とこの会社に足を踏み入れないことも。
朝礼が終わるとしのは、特に仲がいい後輩二人の空いた席を見つめた。しばらくの昼休憩は他の人と、あるいは一人で過ごすことになる。それはそれで楽しいが、やはりあの二人といるのが一番楽しい。
ゆいなが何かとぼけたことを言い、しのがツッコむ。真由子はそれを見てほほえむ。いつもの景色だ。
『篠山さん。申し訳ないけど例の件、木野君に頼んだから一緒にやってもらっていいかな』
いつもの三人で取り組むはずだった仕事は、木野と二人でやることになった。やはりベテランなので、予定より早く終わらせることができた。と、同時にゆいなに自慢するネタができたと心の中で笑った。
『もしよかったらお昼をご一緒してもいいかな』
二人の休暇が始まった次の日。木野が遠慮がちにランチに誘ってくれた。しのは二つ返事で了承し、彼と外に出た。
またゆいなに自慢できるネタができてしまう。果たして彼女は休みが明けたら地団駄を踏むのか、木野の様子はどうだったのかと目を輝かせるのか。
しのは歩幅が大きな男の後を追いながらくすっと笑った。
『木野さんが女性社員を誘うなんて珍しいですね』
『だろ? 旦那さんには話を通しておいたよ』
そんな気遣いができるところもモテる要因なのだろう。
旦那は嫉妬こそしないだろうが、しのが木野にホレてしまわないか心配しているかもしれない。
優しいので男性社員からも人気のある木野だ。西のような信者が生まれるほど。しのの旦那も入社当初から木野には良くしてもらっている、とよく話している。
二人が入ったのは会社のカフェとは趣が違う、喫茶店と呼ぶのが似合うお店。
小さな茶色の紙に手書きで書かれたメニューを二人で眺めた。日替わり定食、焼き魚定食……焼きそば定食なんてものまである。
近くの席に座るサラリーマンたちの元に運ばれたのはちょうど、焼きそば定食なるものだった。お盆に大盛りの焼きそばと大盛りのごはん、ほかほかと湯気をあげる合わせ味噌の味噌汁がのっている。
若いサラリーマンたちは嬉しそうに手を合わせると、ご飯を片手に焼きそばを豪快にすする。ソース色に染まったキャベツがシャキシャキしているようでいい音を立てていた。
しのたちは日替わり定食にしようか、と頼んだ。
『話したいことがあるんじゃないんですか?』
お冷を挟んで向かい合い、しのは切り出した。
返答を待っていると、やっぱり女性は鋭いねと木野が額に手を当てた。困ったように笑いながら。
彼は例の襲撃の詳細を教えてくれた。
自分があの場を離れなければ真由子とゆいなに怖い思いをさせずに済んだのに、と。後悔の念をもらしたのは初めてだろう。彼のほほえみの中に苦悶が入り混じっている。
『木野さんは悪くないですよ。最後は二人を救えたんでしょう?』
『そう……なるのかな。でも、高槻さんを助け出したのは中野ちゃんだよ』
ゆいなの名前を出した瞬間、木野の表情が若干和らいだ。
ゆいなの無謀とも言える勇敢さには驚いた、あんな無鉄砲じゃ放っておくのは危ないね、と苦笑した。
木野は会社に戻ってきてから誰もいないゆいなの席を見つめ、仕方なさそうに笑った。その表情にしのは”お?”と眉を上げ、ニヤリと笑った。
「え? 木野君が中野さんのことを意識してるって?」
もうすぐ定時、という時間にしのは作成したデータを渡しながら瀬津に語った。声の大きさは抑えながら興奮気味に。
「呼び方が変わっているんですよ! 木野さんは女性社員のことをちゃん付けで呼ぶことは絶対にしないでしょ? 中野ちゃんがこの前、木野さん行きつけの居酒屋にたまたま入って意気投合したらしいですし。会社外で仲を深めてるかもしれませんよ?」
「なんだって! これはおもしろい展開になってきたじゃないの!」
しのの見解に瀬津の声が大きくなる。何人かの社員が振り向いたので、しのは彼の肩をはたいた。
瀬津は咳払いをすると木野の様子を盗み見た。彼には聞こえてなさそうだ。懸命にキーボードを叩いたり、資料の紙を見比べている。
しのは声を潜めるとにんまりと目を細めた。
「これはくっつけるしかないんじゃないんですか?」
「……しかないねぇ! 」
二人はこっそりとグータッチをすると意味深に笑い合う。
「名付けて木野君の花嫁大作戦!」
瀬津は人差し指と親指を立ててアゴに当てる。眉を上下に動かし、本人的にはキメた顔らしい。
「……だっさ。そういうのはいいから」
「ま、まぁまあ……こういうの学生みたいで楽しいなぁ!」
「それは同感ですけど」
「皆さん、お休みを頂きありがとうございました。そしてご迷惑をおかけしてすみません」
頭を下げると、首の後ろで一つにまとめた髪が一緒に流れた。
艶やかで長い黒髪。この会社を出たら心機一転、切ってしまうのもいいかもしれないと思った。
真由子は顔を上げると、至って明るい声で皆を見渡した。
「実は今回、支店長から”シゾーカ支店へ行ってみないか”というお話を頂きました。ぜひ受けようと思っております」
休暇を終えた彼女は、出社するなり部署で挨拶をした。休んでいる間に穴を埋めてもらったことと、別の支店への異動を希望したことで。
「そんな、どうしたって急に……」
上司の瀬津は驚き、残念そうにメガネの奥の目を伏せた。
しかし、真由子は決めていた。中途半端な意志だったら大勢の前で口にすることはしない。
「私も成長したいんです。他の支店へ行っても堂々と立ち振る舞えて、なじめるようになりたいんです」
そう言いながら彼女は、ゆいなのことを見た。
ゆいなもまた、驚いて言葉が出てこないようだ。目を見開いて口元を手で押さえている。
コーベ支店が他の部署から人を呼ぼう、と決めたのは妊娠して辞めた女性社員がいるから。その穴を埋めるためにやってきたのがゆいなだった。
彼女は誰もが思っていた以上に仕事ができて、すぐに誰からも好かれた。いい例が、しのとタメ口で話すのを許されていることだろうか。
ゆいなは真由子の憧れだ。歳下でおちゃめで可愛らしいのに、仕事に取り組む姿勢は誰よりも真剣で。真由子が彼女と同じ歳の時、果たしてそこまでしっかりしていたかと問われると、即答できない心の迷いがある。
「まゆこりん! せっかく安心して仕事ができる環境になったのに……」
誰よりも長く一緒にいたしのは泣きそうになっていた。こちらに駆け寄ろうとしたが、大きな手が遮った。
木野だ。しのが振り返ると、優しい顔に残念さを含ませてそっと首を振った。
「人の決断を迷わせることを言っちゃダメだよ」
木野の一言に課長である瀬津がハッと、顔を上げた。そして自分に言い聞かせるように一人で話し始めた。
「そ……そうだね。高槻さんを応援しないと、だよね。……よし。幸い、ウチは中野さんが来てくれてずっと頑張ってくれてる。高槻さんが転勤してもやっていけると思う。もしもの時でも支店内で引っ張ってこれるだろうし……。でも……寂しくなるね…………」
瀬津の最後の一言に、皆がこくりとうなずいた。
口々に惜しんでくれる声が嬉しかった。この部署での存在意義があったことを知ることができて。
しかし、木野の切なさそうな表情に真由子の心がきゅっとうずく。
あなたに少しでも惜しまれたかった。ここにいたらいいじゃない、と一瞬でも引き留めてほしかった。
真由子を困らせないよう、それ以上は口を閉ざした木野の優しさが今は痛い。
真由子が転勤を決めてから、西がこちらの部屋へ異動することになった。
元々こちらにいた時期もあるし、今でも出入りすることが多い。彼が適任だろう、というのが瀬津と筋肉部長の見解だ。
西は木野と同じ部署であることを喜んだのと同時に、ゆいなの監視をできることに不適な笑みを浮かべた。
「中野ゆいなぁ……残念だったな。俺の目が黒い内は木野の兄貴に近づけさせないからなぁ!」
「目が黒い内って! 近づくってなんですか!」
西はゆいなと席を一つ空けた隣。西はふんぞりかえってゆいなにドヤ顔を見せつけている。彼の方が木野の席に近いのをアピールしたいらしい。
ゆいなは震えながらバインダーを盾にしている。
木野は西の席の後ろに立つと、彼の太い肩をもんだ。
「君たち同い年なんでしょ? 仲良くしてね」
「私はそのつもりですけど……」
「中野ゆいなは監察対象です」
鼻息を荒くした西に、ゆいなは短い悲鳴を上げて青ざめる。同い年なのに敬語を使う辺り、ゆいなは新たな部署の仲間に怯えているようだった。
「に……西君! 引継ぎしたいことが多いの。小田君の分のことも。今日からよろしくね」
「はいッス!」
真由子は二人の間に割って入ると、西を連れ出した。
ホッとした様子のゆいなと笑い合うと、西にUSBや独自に作ったマニュアルを渡した。
「君は同い年の子たちより長いから分かることが多いと思うけど……」
西はうんうんとうなずき、真由子が説明することに質問することなくおとなしく話を聞いていた。
さすがは入社八年目。引継ぎをスムーズに進めることができた。
あっという間に真由子のコーべ支店最終日を迎えた。
あがったらすぐにシゾーカへ向かう。
すでにあちらで部屋を見つけ、荷物も運び出している。
しばらく休みなんだし実家でゆっくりしたら、と親には言われたが、早く知らない土地の空気に慣れたかった。
この機会に親に甘えたら、二度とここから出られないような気もした。
「まゆこりん、今まで本当にありがとうね」
「しのちゃん……こちらこそ。また連絡するから」
「うん、いつでも」
仕事を終え、部署の人たちと口々に別れの言葉を交わす。
特に仲がよかったしのとゆいな、世話になった瀬津と木野が外まで見送ってくれることになった。
「送別会、本当にやらなくていいの?」
「はい。名残惜しくなるといけませんから」
「瀬津さんの場合は呑みたいだけでしょ」
「それもそうだけど……高槻さん、遠くに行っちゃうからさぁ……」
木野にツッコまれた瀬津が汗をかいている。
呑み会ではふざけた態度の上司だったが仕事には真面目で、真由子も鍛えられた。きっとこの先も役立つだろう。
「真由子さん、来たばかりの時から仲良くしてくださってありがとうございました。すごく心強くて嬉しかったです」
ゆいなが泣きそうな顔で駆け寄った。
彼女のこめかみの傷は癒え、痕も残っていない。
"ケガなんてたいしたことない"と言ってただけに、彼女は横髪を伸ばしたりワックスでかためるのをやめなかった。
「中野ちゃんこそ、コーべ支店に来てくれてありがとう。短い間だったけど、一緒に仕事ができて楽しかったよ」
ゆいなが本気で泣きそうになる。
彼女は不自然に上を向き、目をとじた後に真由子の手を握る。
ありったけの笑顔を浮かべると、"真由子さんにたくさんいいことがありますように"と、小さな声で祈ってくれた。
真由子は最後に木野と向き合った。
彼はいつもの優しいほほえみで真由子のことを見下ろしている。これを拝めるのも今日が最後だ。
「頑張ってね、高槻さん。シゾーカは海が綺麗でいいところだよ。すごく楽しいと思う」
「はい。私も楽しみにしているんです」
うなずくと、木野の笑顔が一層深くなる。この優しさに何度助けられ、何度もどかしい気持ちになったことか。
仕事で失敗したときに助けられ、”大丈夫だよ”と安心させようとほほえんでくれた。
変な男に好かれてしまい、”いつか必ず君のことを純粋に想ってくれる人が現れるよ”と励ましてくれた。
────その人、は木野さんではダメですか。私が純粋に想い続けても、木野さんを振り向かせることはできませんか。
恋愛に奥手な真由子には、告白めいたことは言えなかった。
経緯はどうであれ、木野が彼氏を装うと申し出てくれたのは嬉しかった。そのまま本当に付き合えたら、と邪なことも考えた。
あの柔和な笑顔を少しでも独占できて幸せだった。
横に並んで歩き、真由子を見下ろす彼は優しい巨人だった。
「……え!? ちょっとちょっと! 何あのいい雰囲気!? 本当は……あれ?」
「デキてた!? ここがデキてたの!?」
木野の背中で、しのと瀬津が騒いでいる。本人たちは小声のつもりだろうが、真由子のところまで丸聞こえだ。
「中野ちゃんのライバルだったんかい!」
「二人とも声が大きい! あとライバルじゃないです! 私は推してるだけです! 仮に真由子さんがライバルだったら私は瞬殺されます!」
ゆいなは二人のことを交互に見て、”しーっ!”と人差し指を立てている。残念ながら彼女の声もバッチリ聞こえている。
「推しがいい雰囲気の時に何を言うか聞きたいんですよ! 二人は黙ってて!」
ゆいなの声に木野が小さく吹き出してうつむいた。一連の会話に聞こえないフリをしていたようだが、堪えきれなくなったらしい。
彼が後ろを振り向くと瀬津としのは視線を泳がせ、腕をかいたり手をこねくり回している。ゆいなも目を手で覆い、しのの後ろに隠れた。
木野が真由子に向き直った時、自分でも気づいていないだろう。子どものようにあどけない、というより少年のような照れた笑みを浮かべていた。
"全く……"とつぶやき、彼は咳払いをした。
「無理しないでね。すぐに周りを頼るんだよ。君は頑張り過ぎるから」
「ありがとうございます……」
木野が背中を向けたことにより、ゆいながしのの背後から現れた。
彼女は木野のことを"ただの推しです"と言い張っているが、"好き"に近い感情をさらけだせるのがうらやましかった。
真由子は再び聞き耳を立てる彼女の姿に笑った。
「木野さんも……お元気で。早く結婚できるといいですね」
ヤケクソでからかうと、木野は眉を八の字にして後頭部をかいた。
「君もそう言うかぁ……実は支店長にもこの前言われてさぁ……」
「結婚式には呼んでくださいね」
「うん、って言いたいところだけど君の方が早そうだな……」
いつもは飲み会で瀬津に言われるであろう言葉。その時は"おじさんは式は挙げなくていいです……"と弱気に返していた気がする。
「もしかして相手はいるんですか」
「っあ、いや……そういう意味では………」
聞かない方がいいだろうに、口からつるっとこぼれてしまった。案の定、木野は困ったように目をそらしてしまった。
答えはそれだけで十分だ。これで彼のことをきっぱり諦めきれる。
彼の瞳を独占することはできない。その瞳はもう、誰かのことを追いかけて────否、見つめ合っているだろうから。
真由子は深々と頭を下げ、背を向けて歩き始めた。中途半端に肩にかかった髪と、隠し続けた恋心を払って。
その後、シゾーカ支店で真由子は都会から来たキャリアウーマンとして皆の注目の的に。
彼女はその年に転職してきた歳下の男性社員の教育係になり、瞬く間に意気投合。
話をする内に仕事の合間だけでは足りない、仕事終わりの呑みの席では周りが騒がし過ぎる、休みの日に二人だけでゆっくりと話したい。いつしかお互いにそんな気持ちが強くなり、どちらからともなくデートに誘う。
順調に仲を深めた二人が付き合い、結婚するまでそう時間はかからなかった。
その頃には木野に想いを寄せていたのが懐かしい、と思えるくらい余裕が生まれていた。
いつでも彼から結婚報告を受けても問題ない。素直に心からお祝いできる。
懐かしいコーベ支店での大好きな人たちの話を夫に聞かせながら、いつか皆に会わせるのが今の夢かな、と真由子は明るく笑うのだった。
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