第3話

 週明け。しのに木野と呑んだことを話したゆいなは、脇腹をつつかれまくった。


「やったじゃん。 私も行けばよかった~……」


 この日の昼休憩は仕事の打ち合わせも兼ねて、ゆいなとしのと真由子で昼食をとることにした。


 この会社はカフェを併設している。


 カフェは従業員だけでなく、一般の人も利用できる。さながら大学の学食だ。今日も席がほどよく埋まっており、子どもを連れたママ友同士やおばあちゃまたちが大半だ。


 カフェではパスタやハンバーグなどの洋食の他に、自社の新商品やテスト商品を提供している。


 ここで働いているのは、子育てから手が離れた主婦や元従業員で女性率が高い。


 ゆいなはコーべ支店に来た時にここでもあいさつをしたが、『よう来たな!』と、おばちゃんたちに歓迎された。


 何度かここを利用する内に、おばちゃんたちと木野の話をするようになった。しかし、ゆいなの木野推し談の熱さに圧倒されたおばちゃんに『木野ちゃんは渡さん』と宣言されている。


 木野がここで昼休憩をする時はおばちゃんたちが代わる代わる話しかけ、ご飯を大盛りにしたり飲み物のおかわりをこまめにサービスしてるらしい。


 ゆいなたちはお疲れ様、と言われながら広いソファ席に案内してもらった。 三人とも日替わりランチを注文し、雑談をしながら待つ。


 先にお冷の代わりのルイボスティーが運ばれ、それを置いたおばちゃんはお盆を体の前で持った。


「中野ちゃんは相変わらず木野ちゃん推しなん?」


「もちろんです!」


「なんか〜、中野ちゃんは木野さんと呑んだらしいですよ?」


「なにっ、親密になっとるやん!」


「いっいやっ、たまたまですから!」


 素早く反応したおばちゃんに、ゆいなは全力で手と首を振った。


 ゆいなに顔をずいっと寄せたおばちゃんだが、目を細めたまま口角を上げた。そして首をゆっくりと振りながら顔を離していく。


「木野ちゃんモテモテやから、一回呑んだだけじゃまだ付き合われへんよ〜? 中野ちゃんが来る前、バレンタインにチョコめちゃくちゃもろてたし。もちろん私たちからもあげたし」


 ちょっと得意げなおばちゃん。近くを通りかかった別のおばちゃんに二の腕をはたかれたが。


 対するゆいなは目を輝かせ、両手を組んだ。


「えーさすがです! どんなんもらったんだろ……」


「え? 悔しがるとこやないの?」


「推しがチョコを受け取った時の反応が気になります」


「は〜……変わった子やね……」


「中野ちゃんはこういう子なんです」


 目が点になったおばちゃんの前で、しのはゆいなの肩に手を置いた。


 おばちゃんはお盆を持ち直すと、静かにしている真由子の肩をたたいた。


「……茶番はさておき、今は高槻ちゃんやもんね」


「あ……えぇ」


 真由子は気まずいような困っているような、曖昧な笑みでそれ以上は話そうとしなかった。


「照れちゃって若いなぁ。ま、お幸せにな」


 おばちゃんは”ゆっくりしていきや”と言い残すと、厨房の方へ消えた。 


 何が、とは言わないがなんとなく察したゆいなとしの。


「やっぱりそうなんですね! 呑み会の時に見たんですよ! そーかそーか〜」


「で、中野ちゃんはやっぱり悔しがらないのね」


「恋人としての木野さんはどんな感じなんですか? 真由子さんにしか見せない顔とかあるんですか? ありますよね?」


 目をキランと光らせて真由子の顔を見るゆいな。真由子は焦った表情で回りを素早く見渡し、小声でたしなめる。


「中野ちゃんしっ! 声が大きい……!」


「まゆこりん、私らには話してくれてもいいじゃん。いつの間に付き合ってたの?」


「しのちゃん、無理に聞いちゃダメだって」


「自分はちゃっかりいろいろ聞こうとしてたくせにぃ〜?」


 しのに詰め寄られたゆいなは、彼女の前で両手を広げて目をそらす。


「そ、それはその場のノリってヤツで……」


 悪ノリが過ぎたと反省したゆいなは”ごめんなさい”と頭を下げた。


 しかし、真由子は首を振る。


「待って二人とも……。私、本当は木野さんと付き合ってないの」


「え?」


「え、でもさっきおばちゃんに聞かれた時……」


「付き合ってるのを装いたいの。でも二人には話しておくね」


 真由子は深刻そうにうつむき、目を伏せた。そして"小田君対策なの"とぽつりとつぶやく。


「私も人見知りだから、小田君の愛想の悪さは人見知りからくるものだと思ってた。邪険に扱う人もいたけど、優しくするようにしてたの。せっかく同期入社した同い年の人でもあるから。そしたら段々心を開いてくれて。最初はただ笑うのがヘタなだけで本当は優しい人なのかな、って思ってた。でもその笑顔は私にしか向けないものって気づいたら急に気持ち悪くなっちゃって。怖くて距離を置くようになったら会社から駅まで着いてくるようになって……」


「んまっ! 小田の野郎、前から真由子さんにだけは愛想いいと思ってましたけど! 付きまとうなんて!」


「中野ちゃん……あなたからしたら一応先輩だからね?」


 鼻息を荒くして腕を組んだゆいなを、真由子はたしなめた。しかし、眉をぐっと寄せていかつい表情になった彼女の怒りは鎮まらない。


「人の嫌がることをするヤツを先輩扱いする必要はありません! ねぇしのちゃん」


 しのは深くうなずき、申し訳なさそうに眉を落とした。


「私も同感。愛想ないけど仕事はちゃんとやるから多目にみてたけど……。ていうかまゆこりんがそんなに悩んでたなんて、気づけなくてごめんね」


「ううん。ちゃんと話してなくてごめんなさい」


 ぺこり、と頭を下げるときれいな黒髪がはらりと落ちる。顔をカーテンのように覆ってしまったそれを払い、しのは仕方なさそうに笑った。


「もうまゆこりんは……仕事以外のことでもガンガン頼っていいのよ?」


 真由子はちょっと泣きそうになったが、目頭を押さえて小さくうなずいた。 先輩らしく慰めるしのの横でゆいなは拳を握った。背後に炎が見えそうなくらい目を怒らせている。


「私も真由子さんが怖い思いをしてるなんて嫌です。この後小田を殴る許可をください」


「よしいってこい」


「だめ! しのちゃん、中野ちゃんはそういう冗談真に受けちゃう! 危ないからだめ」


「は〜い……」


(木野さんと真由子さん、付き合ってないんだ)


 ゆいなは話を聞きながら、胸をなでおろした自分に驚いた。


(なんで今"ほっ"って……)


 二人はお似合いだと思う。


 真由子は29歳でゆいなより木野に歳が近い。そして何より、落ち着いていて大人っぽい。……って、それもなぜ自分基準で考えてしまうのか。


 邪念ばかり浮かんでくる。ゆいなは机の下で自分の手の甲をつねった。


「……にしても、彼氏役を引き受けてくれる木野さんは本当に優しいですね〜。私の推しって実は菩薩なのかも」


「木野さんの方が先に声をかけてくれたの。小田君が仕事の邪魔になってない? って気にかけてくださって。私が嫌じゃなければって帰りに送ってくださるようになったの」


「本気でうらやましいけど……他の女性社員の反感買ってない?」


「うん。ほとんどの人は気づいてないと思う」


「逆に木野さんも反感買ってない? このまゆこりんよ、会社で美人番付があったら一位になるしかないこの女よ? フリとは言え付き合ってる、って知られたらねぇ……」


「それは大丈夫だと思う。私、実は男の人はちょっと苦手なの……。誘ってもらっても大した反応できないから、何回も声をかけられることってない」


 美人だからさぞ付き合った男の数も多いだろう……とみたが、実際はそんなことはないらしい。そんなギャップでゆいなはますます真由子のことが大好きになった。


 ゆいなはバッと勢いよく挙手し、キリッと勇ましい表情になる。


「じゃあ私も真由子さんを守ります」


「ダメだよ、中野ちゃん。危ないよ」


「警察は? 相談したんですか?」


「そんな大事にはしたくないよ……彼がいろいろ失うことになっちゃうでしょう。会社にいられなくなっちゃうんじゃ」


 まだ優しさを見せる真由子に、ゆいなは机の上に拳を並べた。


「そんなんどうだっていいですよ! 人にこんなに怖い思いをさせてるのにっ……!」


「落ち着きなさいな。血気盛ん過ぎ。まずはご飯にしよう?」


 早くも日替わりランチが運ばれ、しのは落ち着けさせるようにゆいなの頭をなでた。


 三人はそれぞれ箸をつけ始める。カットしたトマトときゅうり、マカロニサラダ、豚の生姜焼き、丸く盛られたご飯。バランスのいいランチを食べながら、午後からの仕事を話し始めた。


 ゆいなは腑におちない表情だったが、仕事の話が始まったら別。しのの指示にうなずいたり、時々メモを取った。











 事件はそれからすぐに起きた。


 ゆいなは家に帰ってから忘れ物を思い出し、私服姿で自転車に飛び乗った。






「遅くまですみません……」


 真由子はキーボードから手を下ろすと、背中の席に座る木野に頭を下げた。 振り返った彼のデスクもパソコンが光っており、画面上に資料がいくつか同時に開かれている。


「いいんだよ。俺もまだやることがあるから。残ることを支店長に報告してくるよ。そしたらコーヒーでも買ってくる。ブラックでいい?」


「ありがとうございます」


 彼は立ち上がると自販機がある三階を指さした。


 この会社は定時で上がる人が多い。基本的に残業は勧められていないからだ。


 しかし、真由子はどうしても今日中に終わらせたい仕事があった。明日からはしのとゆいなと合同で取り組む仕事がある。


 小田は例にもれず定時で上がったので、今日の帰りは大丈夫だと思った。しかし木野は、"約束したから"と今日も最寄りまで送ると申し出てくれた。 本当は嬉しいし、今日もそうしてくれたら……とひそかに期待していた。


 あの木野に優しくされて惹かれないわけがない。正直、男性と仕事以外で関わるのが得意でないのだが、木野には唯一心を開いていた。それも入社した年から。


 しかし、しのや職場の先輩たちから”誰かいい人見つけた!?”と聞かれても、いつも曖昧にほほえむだけ。


 しかし、木野と結ばれることはないだろう。彼の優しさは平等だ。誰に対してもあの柔和な笑顔を向け、力になろうとする。


 真由子はその内の一人で、今はワケありだから共に過ごす時間が長いだけ。木野はそれ以上のことは考えていないだろう。


 優しくしてくれるから、という理由で好きになったら小田と同じになってしまうだろうか。


 その男のデスク────右斜め前の席に目をやり、重い息を吐いた。


「遅くまでお疲れ様、高槻さん」


 突然鼓膜に飛び込んできた声。真由子はハッとして息を呑んだ。


 爽やかさを装った声はぞっとする気持ち悪さがある。 息が荒くなるのを感じた。呼吸がしづらい。それどころか、動くこともままならない。


 背後の声の主は真由子の状況を知ってか知らずか、ゆったりとした足取りで近づいてくる。


「もう皆帰っただろ、君も無理するなよ」


「……小田君……!」


 振り向かないでも分かっていた。


 声を聞くだけでこんなにも拒絶反応が出る。


 真由子は石のように硬くなった体で、椅子ごと振り返った。音もたたないのろさなのに、息は切れ切れで動悸が激しい。


 振り返った先には、こちらに近づいてくる同期の男。長い前髪が揺れると目がのぞく。


 小田のその目が怖かった。どこを見ているのか分からない。黒目がぐるぐると回っているように、時々前髪の間の白い空間に黒が走る。


 足取りもどこかおぼつかない。酔っ払いのようだった。


 スーツの右ポケットは重たそうで、足をうごかしてもそこだけが浮かない。


 彼は誰にも見せない笑顔────真由子も見たことがない、にたにたと音が出そうな粘着質のある笑みを浮かべた。


「驚かないでよ。それともそんなに集中してた?」


「……来ないで」


 先ほどの動きとは違い、素早く口が走った。ほとんど反射で。


 小田は確実に帰ったはず。荷物を持ってここを出ていくのを見た。木野も会社の玄関先で瀬津と話しながら、小田の背中を見送ったらしい。


 真由子は本能で危険を感じ取り、キャスターつきの椅子ごとあとずさる。


「怯えないでよ。同期の仲じゃん」


 小田が追うようにひたひたと歩み寄る。彼はスーツの右ポケットをなでていた。そこには妙なでっぱりがある。


(こわい……!)


 目だ。目がおかしい。いつも真由子にしか見せない笑顔を浮かべているが、目は焦点が合っていない。


「一人なんでしょ? 早く終わらせて一緒に帰ろうよ。今度こそ行きたい店があるんだ、君と」


「悪いけど木野さんと約束してるの……」


 か細い声で言い切った。まるでおまじないのように。


 木野、という名前を出すだけで安心感が生まれる。あの笑顔で何度救われたことか。小田にしつこくつきまとわれる度に木野は間に割って入り、さりげなく壁になってくれる。


 しかし小田は黙った。


 スン、と無表情になったかと思いきや歯を見せて唇をかむ。うなるような声を上げると、突然髪をかきむしった。


「木野さん木野さんってさぁ……あのおっさんのどこがいいの? 君につきまとう気持ち悪いおっさんじゃん」


 木野になんてことを……! 真由子は椅子から立ち上がると、小田のことを睨みつけた。


「気持ち悪いのはあんたよ!」


 自分でも驚くほどによく通る声が出た。これが仕事中だったら全員が振り向いていただろう。


 性格は控えめな高槻真由子が、キツイ顔に似合う口調になったと。彼女は初対面の人に”意外と優しいんですね”と言われることがある。なんとも失礼な話ではあるが。


「誰があんたなんかと仕事が以外で会いたいと思うの! その長ったらしい前髪を見てたら吐き気がする……」


 これではゆいなのことを言えない。自分もなかなかに心をえぐるようなことを言ってしまった。


 しかし、小田はショックを受けるでもなく、口の端を上げるだけだった。


「君も俺のことをそう言うんだ……そっか」


 彼はおもむろにスーツの右ポケットに手をやった。そこから出てきたのは鈍く光る細身のナイフ。


「はっ……!」 


 先ほどまでの威勢はどこへやら、真由子は再び固まってしまった。そんなものが出てくるなんて。彼を逆上させるようなことなんて言わなければよかった。


 小田はナイフを振るとズカズカと真由子に迫り、彼女の胸倉を掴んだ。ナイフを瞳に突きつけ、唾を飛ばしながら激昂する。


「どいつもこいつも人のことを気持ち悪いってよぉ! 変われねぇんだから仕方ねぇだろうが! お前も美人だなんだと囃し立てられていい気になってるだろうが、大したことねぇよブス! せっかく誘ってやってんのに全部断りやがって。お高くとまってんじゃねぇ!」


 大声で怒鳴り散らす彼の目は血走っていた。口はわなわなと震え、端には唾がたまっている。


 理性を失った彼は獣のようだった。


 対する真由子は恐怖で体が動かなくなってしまった。もしかしたら次の一言で目を一突きされるかもしれないのに。震えることさえできず、荒い呼吸でナイフの刃先を見つめることしかできなかった。


 「はぁ……明日提出する資料の最終チェックしなきゃなのに……。瀬津さんって提出期限にはめちゃくちゃ厳しいんだよなぁ……」


 私服姿で最初は誰かわからなかったが、ゆいなが現れた。こんな時間に。しかも長い独り言をぼやきながら。


 彼女はスマホをストラップで首から下げていた。片手に日傘を持っているが、外はとっくに日が暮れている。


 ゆいなははじめこちらに気付かなかったようだが、自分の席に目をやるとその場に立ち止まった。目を見開き、全身の毛が逆立ったように肩をいからせた。


 彼女のことだ、真由子を守ろうと小田に立ち向かうに違いない。無鉄砲で正義感が強い、頼れる後輩だから。


「中野ちゃんダメ……!」


「小田ぁー! なんしとんねん!!」


 真由子の制止もむなしく、ゆいなは咆哮をあげながら小田に突進した。 日傘の柄を伸ばしながら掛ける姿はさながら、少年マンガの主人公のようだった。






「うわっ……!」


 ゆいなは真由子のことを放った小田にタックルをくらわせた。


 小学生の時にいじわるな男子に囲まれた時、俊敏にタックルをくらわせたものだ。”アメフト狂暴女”とか”闘牛女”とか、ますますからかわれることになってしまったが。


 小田はゆいなが日傘で立ち向かってくるものだと思っていたのだろう。余裕綽々と言った様子でナイフを軽く振っていた。ゆいなのことを見下して下卑た笑みを浮かべながら。


 しかし彼は不意打ちのタックルをもろに受け、よろけてしりもちをついた。 小田には目もくれず、ゆいなはへたりこんでいる真由子に手を差し伸べる。


「真由子さん早く! 逃げて警察!」


「中野ちゃんも……あっ!」


 ゆいなの手によって一度は立ち上がった真由子だが、ゆいなの背後に気が付いて顔を恐怖にゆがめた。


 どうしたんですか、の一文字目を口にすることもできず、ゆいなは小田に片手で首を絞められた。


 まだ息ができる強さでよかった。激しく抵抗すれば腕を振りほどいて日傘でぶん殴ることができるだろう。


「中野ちゃん……っ」


 手始めに小田の腕に嚙みつこうとしたら、こめかみにナイフを突きつけられた。少しでも動いたら簡単に刃先が当たってしまう。


「……先輩を呼び捨てしていいと思ってるの? ねぇ」


「ストーカー野郎を誰が敬うんだよ根暗!」


 危機的状況でもゆいなの口は減らない。


 声が震えそうになるのを大声でごまかした。気迫だけでも負けていないと示してやりたい。


 目の前で真由子は首を振っていた。おとなしくしていろ、ということだろう。


 しかしゆいなは負けず嫌い。後先考えずに突っ走ってしまう暴走機関車だ。


「生意気な……高槻さんの名前、俺だって呼んだことねーよ」


「うっ……」


 小田は舌打ちをすると首に回した腕に力をこめた。一応男なだけあって腕力はあるらしい。血が首の下で止まり、顔が膨張したような気がした。


 彼の腕を引っ搔いて振りほどこうとしたら、こめかみにナイフが当たった。痛いがこの程度なら血は出ていないはず。デスクの下に落ちたペンを拾い、デスクの端に頭をぶつけた痛みよりずっとマシだ。


 酸素を確保しようとしたら咳が勝手に出た。激しい咳の勢いで吐きそうになる。


 咳でまともに声が出ない中、ゆいなは拘束から逃れようと抵抗した。小田の腕を掴み、体を何度も捻る。


「いたっ……!」


 動く度にナイフが当たった。きっと同じ傷に何度も刺さったのだろう。さすがのゆいなも声を上げ、こめかみをさわると血がにじんでいた。


「ふんっ……お前なんか大した顔じゃねぇから、ナイフでえぐった方がかわいくなるんじゃねぇの? 俺が整形してやろうか?」


 小田はナイフの背でゆいなの頬をなでながら口の端を上げた。


 おとなしくなった彼女に油断したのだろう。首を絞めていた腕の力が弱くなった。


 ゆいなは呼吸を整えるように小さな咳を二、三回した。そしてありったけのにくたらしさをこめ、にんまりと笑ってみせた。


「お前よりずっといい顔してるし……っ。お前なんて整形でどうこうできる顔じゃないからね!」


「コイツ……! バカにしやがって!!」


「真実を言って何が悪い醜男!」


「お前から殺してやる! 死ねぇっ!!」


 ナイフが勢いよく振り上げられた。さすがにこの窮地からは抜け出せない。 ここで死ぬしかないのか。


 ゆいなが諦めかけた瞬間、小田の手からナイフが滑り落ちた。ゴン、と床の上に重い物が落ちる音がした後に、カランカランとナイフが転がる音が響いた。


(ゴン……?)


「うっ……!!」


 小田は急にうめき声を上げ、頭を押さえてその場にうずくまった。その足元に転がっているのは黒い缶コーヒー。


 腕から解放されたゆいなは強引に腕を引かれ、背後に再び人肌の体温を感じた。

 小田の怒りで燃え上がった熱とは違う。春の穏やかな日差しのような、ぽかぽかとした優しい暖かさ。


 肩にのせられている大きな手に助けられたのだろうか。その手の先を目で追うが、相手の身長が高いせいでうまく顔を見ることができなかった。


「木野さん……!」


 ゆいなが拘束されてからへたりこみ、震えていた真由子が声をあげた。確かに、後ろにいるのが木野ならこの近距離では顔を見ることはできない。


 ……木野?


「でえぇぇぇ木野さん!?」


 推しと急接近したことに気づいたゆいなは、奇声を発しながら小田を踏みつけて距離をとる。途中で缶コーヒーも踏みつけて転びそうになった。


 手の置き場を失った木野は腕を下ろすと、二人に向かって勢いよく頭を下げた。


「ごめん! 俺が支店長と話し込んでいたばかりに二人を危険な目に遭わせて……」


「何も木野さんが謝ることでは……」


「私だってたまたま居合わせただけですし」


 木野は大層申し訳なさそうに眉を落としていた。特にゆいなのことを見ると、唇をかみしめた。


 彼はその場にしゃがみこんでヤンキー座りになると、のびている小田の首根っこを掴んだ。頭がまだ痛むのか、顔をゆがめている。


 木野は落としていた眉を音がしそうな勢いでぐっと寄せた。そして誰も聞いたことがないような大声を小田に浴びせた。


「何しとんねんこのあほんだら!!」


 自分が怒られたわけでもないのに、ついつい姿勢を正してしまう怒声。体が大きいからなのか、木野の声は特に響く。


 彼は深い怒りをためた息を吐きだし、小田の胸倉を掴んだ。その表情は普段の穏やかな様子からは想像できないような、鬼のような形相に変わり果てていた。


 小田は木野の気迫に気圧され、何も言えないようだった。目を見開いて小刻みに震えている。木野の言うことにただただうなずくことしかできないようだ。


 木野は目を鋭くさせると尚も続ける。


「やったらアカンことやったな。そんな簡単に人を傷つけて、親が泣くで。特に嫁入り前の女の子たちや。お前の傷のせいでこれからに影響が出たらどう責任取るつもりなん? ……それと、好きな子がおんねやったらこそこそしてないで真正面からぶつかれ! 男やろ! 最近の若いヤツときたらホンマに……」


「木野さん、おじさん出てます」


「と……とにかく! 君のことは通報するから」


 ゆいなの一言でいつもの木野に戻った。彼は咳払いをし、再び小田を床に伏せさせた。






 その後、木野が通報して小田は警察に連行された。


 同時に支店長に全てを報告した。支店長は小田を解雇すると宣言し、真由子とゆいなに頭を下げた。そして二人はしばらく休暇をもらえることになった。


「助けてくれたのに何もできなくてごめんね……」


「だっ、大丈夫ですよ! 怖くて動けなくなるのは当たり前です!」


 先ほどから何度も頭を下げる真由子に、ゆいなは両手と首を振った。


 三人は駅に向かっていた。ゆいなを間に挟んで歩いている。


 すっかり夜になってしまった。こんな時間にここを歩くなんて呑み会の時くらいだ。


「ケガさせちゃったし……」


「これくらいどうってことないですよ。髪を伸ばしたら隠れるし、そもそも傷なんて気にしませんよ!」


 責任を感じているらしい真由子はずっとこの調子だった。肩を落とし、何かと謝る。


 本当に気にしてないから、真由子にも気にしてほしくない。


 どうしたものか……と、おろおろしていたら頭の上から声が降ってきた。


「中野ちゃん、ありがとうね。高槻さんを守ってくれて」


「いえ……」


 優しい月の光のように穏やかな声がゆいなに降ってくる。


 先ほど激怒した様子は微塵も感じられない。いつもの木野だ。


 しかし、お礼を言った木野の笑顔がいつも以上に柔らかく感じた。優しく、こちらがとろけてしまいそうな。


 木野の目は優しく細められ、目尻に皺が寄る。今にもゆいなの頭をなでそうな雰囲気さえある。


 ゆいなは迫ってくる鼓動に、呼吸ができなくなる感覚に陥った。体中のエネルギーが心臓の早い動きのために持っていかれているようだった。


 彼女は視線を泳がせ、一歩前に出た。ぺこぺこと二人に向かって頭を下げる。


「……あっ、じゃあ私先に帰ります! 用事を思い出したので!」


 ゆいなはその場から駆け出した。二人の返事も聞かずに。


 改札に飛び込むとちょうど来た電車に飛び乗った。これならあの二人と結局同じ電車に乗って気まずくなることはないだろう。


 空いている席を見つけ、腰を下ろして息を整えようとした。心臓がバクバクしているのは走ってきたせいだけじゃないだろう。


(そんな顔で見つめられたら……!)


 ゆいなは唾を吞み込むと、両手で頬を押さえて下を向いた。


 絶対真っ赤になっている。きっと頬だけじゃない。顔全体が、首が────心が。


 推しからの確定ファンサは嬉しい。最近は何度かあったし、そろそろ慣れてきたような気もする。


 それなのに今日のは、いつもと違うような気がした。


 しかしゆいなはヘドバン並みに首を振った。


 木野に助けられたこと、方言を聞けたことと怒った様子に実はキュンとしたことを思い出し、邪念を追い出そうとする。


 しかし、一度顔をのぞかせた感情は簡単には蓋ができない。


 ゆいなは真っ赤な顔で目をぎゅっととじると、再び心臓が暴れだすのを抑えようとした。心臓が破裂しそう、という表現は今こそ使うべきものだろうか。


(おっ推しをす……すきにっ、なるとか解釈違いが過ぎるぞ中野ゆいな……!)


 これはきっと都合のいい夢だ。神様がいたずらをしているんだ。いいや、もしかしたら罰なのかもしれない。


 推しと結ばれたら……なんて一ミリでも考えた自分への。


「……あっ。書類忘れたわ」

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