第2話

 会社付近で飲み屋を開拓しよう! とゆいなは思い立った。


 デスク周りを片付け、いそいそと会社を出る。本当はしのを誘ったのだが、今日は旦那が張り切ってご飯を用意してくれてるから……とのこと。


 ということで、一人で駅前のある一軒の飲み屋に入ることにした。


 入り口の前には小さな小さな花壇があり、赤土色で素焼きのレンガで囲まれていた。


 そこにはユリに似た大きな花が咲いている。花弁はピンクと白が綺麗に混ざり合わないまだら模様に見えた。しかし、よく観察すると花弁の真ん中に白い線が走っていた。さらに驚くことに一本の太い茎から二、三輪ほど花をつけている。


 横向きに咲いた花は、初めて来たゆいなを歓迎するように笑いかけてくれているようだ。


「こんばんは〜……」


 初めて一人で入る店にはそれなりに勇気がいるタイプだ。ゆいなは紺色ののれんをくぐって網戸を開け、会社では使わないか細い声を喉から絞り出した。


「らっしゃい! おひとりさん?」


「は、はい!」


 蚊のような声とは対称的に元気な声が響いた。それにつられて喉が開く。


 ねじり鉢巻をしめた角刈りの大将が、カウンターの中から笑いかけてくれた。小太りで、白いティーシャツが丸い腹に張り付いている。


 カウンター席だけの小さな飲み屋。先客がいるのか、中央の席にはお冷とおしぼりが置かれている。氷が入った小さなグラスが汗をかいていた。


「いらっしゃい。ここ、どうぞ」


「あ……ありがとうございます」


 奥ののれんから、首の後ろで髪をまとめた女性が出てきた。


 勧められるがまま席につき、バッグを机の下の板の上に押し込む。


 大将の妻だろうか。彼女はゆいなの手元にお冷を置き、お疲れ様と言いながらおしぼりを渡してくれた。そんな気遣いが心にしみる。実家に帰ってきたような安心感に包まれた。


 ゆいなの母親より年上だと思うが若々しく見える。白髪はなく、茶髪がつややかだ。


「初めて見る顔やね。新入社員には見えへんけど……」


「三月に転勤してきたんです」


「あぁ、どうりで。今日はゆっくりしていってな」


 ほほえみかけられ、ゆいなは頭を下げた。こんなアットホームな飲み屋は初めてだ。


 ゆいなはレモンチューハイと焼き鳥を頼み、出されたお通しに箸をつけた。


 ほうれん草と油揚げの煮びたしだ。ほどよい油がおいしい。


 カウンターからは見えないが、大将は肉を串に刺しているようだ。手元を真剣な表情で見つめている。


 ゆいなは飲み物を女将に渡されると、外を指差した。


「外のアマリリス、とても立派ですね」


「あ、あぁあれね。毎年育ててるのよ」


 大将は焼き台に串をのせたようだ。”ぃよしっ”と小さくつぶやくと、ゆいなたちの前に移動した。


「お姉ちゃん詳しいな! 今な、そこのお客さん外に出てんねんけどな、兄さんも花とか好きやねん。でっかい家に一人でいろいろ育てとるらしいわ。ほなおもしろそうだから隣に行きや!」


「えぇ?」


「あの子も初めて来た時にこんなこと言うてたわね。今のうちに隣にしたろ~」


 大将の提案に女将はノり、ゆいなの席から一つ空けた席にお冷とおしぼりを移動させた。


「いいんですか勝手にそんなことして!」


「大丈夫大丈夫、兄ちゃんええ歳こいて一人モンやから。こういう時に出会いを作ってやらんと。お姉ちゃんもどうせ彼氏なんていいひんやろ?」


 大将は焼き台の火加減を見ながら親指を突き出した。


「まっ、あんた失礼なことを……」


「本当に失礼なんですけど……事実なので反論できません……」


 長年彼氏がいないことをコンプレックスに思っていない。一人でいるのは気楽だ。もちろん誰かと過ごすのも楽しくて好きだ。


 ゆいなはそわそわしながら焼き鳥を待ち、時々女将と大将と話をした。






「大将、女将さんごめん」


「待ってたでー」


「えぇ!?」


 入ってきた人物を見るなり、ゆいなはひっくり返りそうになった。背のない椅子なので壁と頭が衝突した。


「あ……中野さん。大丈夫?」


「なんや知り合い? ちょうどよかったわ! 木野ちゃん、ビールでええな?」


 腰を屈め、のれんをくぐって現れたのは木野だった。


「中野ちゃんいうんやね。木野ちゃんええ男やろ?」


 女将は新しいおしぼりを木野に渡しながら笑いかけた。


「はい! 私の推しです!」


「推し? 若い子がよく言うとるヤツか〜。木野ちゃんやるやん。転勤してきたばっかの子のハート掴んどるやないか!」


「いてて……女将さん、あなたのは張り手並みの威力があるんだから手加減してくださいよ」


 背中を思い切りはたかれた木野が文句を言うと、女将は腹の底から笑い声を上げて奥に引っ込んだ。


 ゆいなは木野がのれんをくぐったところからずっと凝視していた。


 のれんを分ける手の大きさ、ゆいなのぶつけた頭を心配してくれる優しさ、背中を叩かれて文句を言った時のちょっとおもしろがった顔。どれもまだ拝んだことのないレアなものばかりだ。


「中野さん。こっちの支店はどう?」


 ボーっとしていたら木野が生ビールを片手にこちらを見ていた。いつもは遠くから見ることが多い優しいほほえみを浮かべて。


 やっぱり癒し効果があるに違いない。今の木野の確定ファンサで一週間の疲れが吹っ飛んだ。


「毎日新しいことばかりで楽しいです! 勉強になることも多くて……富橋時代の先輩が一時期、コーベ支店でお世話になったことがあるそうです。その時にいろいろ学べて、今役立っていると言っていました。本当にその通りだと実感してます」


 木野がビールジョッキを持ち上げたのに合わせ、ゆいなもチューハイのグラスを軽く掲げる。


 まさか木野とサシで呑む日が来るとは思わなかった。


「その先輩ってもしかして天木さん?」


「そうです! セイラさんです! なぜご存知なのですか?」


 懐かしい名前を聞いてゆいなは激しくうなずく。


 やりたいことがあると言って、数年前に海外へ渡った先輩。正直言うとずっと一緒にいたかった。社内の誰よりも、入社以前に出会ったどの先輩よりも大好きだった。


 そんな彼女のことを久しぶりに共有できて嬉しい。しかもあの木野と。


「天木さんがコーベ支店で働いていた時、転職の先輩だからって俺が彼女の教育係になったんだよ。おとなしそうだけど言うべきことは言う。しっかりとした女性だったな……」


 すると、大将の腕が伸びてきてゆいなには焼き鳥、木野には串揚げが渡された。


「ここはどれもうまいんだよ。大将も女将さんも気さくでいい人でしょ」


「はい! 早くもこちらの常連になりたいと思ってます」


「おうおう、いつでもおいで。今度は木野ちゃんと会社から一緒においで」


「大将……」


 木野は大将に向かって半目になり、手で空中を叩く。


「なんやねん自分、せっかくのチャンスを無駄にするんか!?」


「大将さん、待ってください。私は推しと結ばれるのは解釈違いなんです。木野さんのことは遠くから見ているだけで眼福なんです」


「ほんで中野ちゃんは何言うとんねん」


 ゆいなはグラスを引っ掴むと、チューハイをがぶがぶと喉に流し込んだ。半分ほど一気に飲み干すと、ダンッと激しい音を立ててグラスを置いた。


「木野さんの推しポイントはなんと言っても笑顔! そのほほえみで三百人は救える癒し効果があるんです。いやそれ以上かも。事実、富橋支店では木野さんが出張で来てからというもの話題にする女性が絶えなかったんですよ! それにはやっぱり見た目と声が起因しているんです。身長百八十センチ越えはポイント高めです! あんまり大柄だと萎縮してしまうこともありますが、そう思わせないのが木野ボイスマジック! 低くて耳に心地よい声に女性は皆癒されるはずです。割とガチでASMRにしたらバズるんじゃないでしょうか。You〇ubeなんかに載せたら百万再生は余裕で突破するでしょうね。そして四十代後半のいい感じにくたびれているところもいいんです! 他の人だったらおっさんがよぉ! になるでしょうが、木野さんはそれが魅力の一つだと思います! あとそれから……」


「中野さんストップ! マジでやめて恥ずかしいから! 恥ずか死ぬから!」


「え~そうですかぁ~……? こっちに来てから女性社員たちと木野さんの魅力について語り合ってるから、ご本人にもお伝えしようと思ったのですが」


「いらないいらない! あと俺のことをそんなに話すな!」


 木野の口が珍しく荒くなっている。あの優しい木野の不意の知らない一面は、ゆいなにとってご褒美でしかない。


「私はわかるんやけどな、中野ちゃんの気持ち。やっぱり会社でもようモテるんやなぁ、木野ちゃんは」


「女将さんまで……」


「中野ちゃん、またいつでも来てな。木野ちゃんがいない時に推し語りしよな」


「やったー! 今度は木野さん推しの人妻も連れてきますね!」


 ゆいなと女将はハイタッチ。しのもきっとこの店が気に入ると思う。濃いめのお酒を出してくれる居酒屋が大好きだからだ。


「それ篠山さんでしょ……」


「なんや木野ちゃん。自分推しの女子のことチェックしてるやん。やらしいわ~」


「そんなんじゃないって」


 木野はビールのせいか女将の言葉のせいか、赤くなった顔でジョッキを一気に空にした。


 そしていつの間にか自分もカウンター席に座り、蕎麦焼酎の蕎麦茶割を飲んでいる女将におかわりを頼んだ。


「こういうの楽しいな~……」


 しみじみとした様子のゆいなを見て、木野は串揚げをかじりながらジト目になる。顔には照れが混じっていて、おじさんなのに可愛く見える。


「人のことをネタにするのが?」


「それもありますけど、こういう居酒屋は初めて来たんです。富橋にいた頃は車移動が常だったので、外で吞んだことはほとんどないんです。その場に言わせた人と話しながら過ごす居酒屋……すごく楽しいです!」


「よかったね。俺もあの中野さんとゆっくり話せてよかった」


「え?」


「俺が富橋に行った時、最後に見送りに来てくれたじゃん。その時に小鳥が君の周りを飛んでてなんか感動しちゃった。だから君のことはよく覚えてる」


 あの日、セイラと会社の外に出た時のこと。どこからかシジュウカラのつがいがやってきて、ゆいなを中心に一周した。そしてまたどこかに飛んでいった。セイラも驚き、今の動画撮ればよかったねともったいなさそうに笑っていた。


「鳥が好きだからですかね? たまにあるんですよ。子どもの頃はしょっちゅうだった、って両親が言ってました。でもハトがいっぱいいることで有名な神社で、餌を持ってないのに囲まれた時はさすがにギャン泣きしたらしいです」


「かわいいじゃない」


「大量のハトのおぞましさをなめちゃいけません……目の前でバッサバッサ飛び交うんですよ? 羽音もすごいしにおいもするし……」


「ハトじゃなくて君が、なんだけど」


 机に両肘をつき、組んだ手にこめかみを当てる。


 目線が同じ位置になった彼の目はとろん、と細められた。


 実は酒に弱いタイプなのだろうか。会社では見ないような可愛らしい表情を見せられている気がする。


 ゆいなは数秒目を合わせた後、机に思い切り額を打ち付けた。


「私……? や、やだ。推しにかわいいとか言われるし実は長年認知されてたなんて胸が苦しい……心の準備してないとしんどい……」


「そんなイケメンに言われたとかじゃないんだからさぁ」


 ゆいなのオーバーな反応に木野がまた狼狽える。額に手を当てて苦笑いをもらした。


 大将は串揚げを五本のせた皿をゆいなに差し出す。野菜の串揚げだ。揚げたてでまだ音を立てている串揚げに反応し、ゆいなは顔を上げた。


「中野ちゃんはどこから通ってるん?」


「アマです」


「もっと近くに住もうとか思わなかったん?」


「親戚が住んでいて好きな町なんです。そこに住みたくて転勤を決めたようなもんですから」


「木野ちゃんはアシヤやったなぁ。でっかい家に一人で、なんやろ」


「そう。祖父母が父をすっ飛ばして、生前に俺に譲ってくれたんです」


「そろそろ寂しいやろ? 一緒に帰ってくれる人とか待っててくれる人とかほしいんとちゃうん?」


 いつの間にかカウンターの中に入り、食器洗いを始めた女将が顔を上げた。


「そういえば木野ちゃん。中野ちゃんも花に詳しいみたいやで。さっき花壇の花をほめてくれたわ」


「アマリリスを?」


「自分急に食いつくやん」


「親戚のおばちゃんが庭で花を育てているので。いろいろ教えてもらったんです」


「な? 若いのに大したモンやわぁ。店の前を掃除してると若い子たちなんか歩きながらスマホばっか見よるし、耳にイヤホンぶっさしとるし。自然に目を向けられる子なんてホンマに珍しいわ」


 そんなに褒められるとさすがに照れる。ゆいなは氷だけになったグラスを軽く回すと、はにかんだ。


 あと一杯だけと言って呑んだ後、二人は火照った頬で駅へ向かった。


 たまたま入った居酒屋が大当たりで、しかもそこは推しの行きつけで。推しとゆっくり話しながら呑み、一緒に帰る日が来るなんて。ゆいなは木野の顔を見上げてにっこりと笑った。酔いのせいか、見つめていることがバレても恥ずかしくない気がする。


 木野はゆいなの心情には気づかず、肩にかけたビジネスバッグの位置を気にしていた。




 木野たち以外にも、仕事終わりに酔いどれになった人がいるようだ。駅前の道は人通りが多く、街灯がたくさん並んでいる。


 ゆいなはまくりあげていた上着の袖を戻しながら、街灯の下に咲く花を指さした。


「あれはカラスノエンドウ。サクラソウ、わ……これってハナミズキの木ですよね!? ハナミズキの花、見てみたいな……」


「詳しいなぁ。よく知ってるね」


 彼女は大抵の野の花は名前が分かるらしい。しかも花をつける木まで。


 見たかった、と憧れの念を口に出す様子は、彼女の純粋さを表しているようだ。


 植物に詳しい人と一緒に歩けるのが嬉しい。


 ゆいなは世間では雑草と呼ばれるような花を観察している。楽しそうな彼女の様子を見下ろし、木野はほほえんだ。


 不意にゆいなが顔を上げ、ぱちんと目が合う。見つめていたのがバレて気持ち悪がられるかと思ったが、彼女は相変わらず楽しそうに頬を紅潮させていた。


「都会にもこんなにお花が咲いてるんですねぇ……木野さんのお家ではもっといろんなお花を育てているんですよね?」


 楽しそうな、嬉しそうに弾んだ声で名前を呼ばれ、木野は顔を反対側に向けた。無邪気さにあてられて心臓がはねた気がした。


「木野さん? 木野さん!」


「あ……もっかい」


 自分は何を言ってるんだ。木野は両手で顔を覆った。


 彼女の純粋さが眩しい。透明感があって鈴が風に揺れたような声が耳にくすぐったい。


「木野さん?」


「中野ちゃんに名前呼ばれるのめちゃくちゃいい」


 その明るい声とわくわくとした表情で。これではまるで自分がゆいなのことを。


 実を言うと、瀬津から彼女に推されていることを聞いて以来、妙に意識してしまっている。年甲斐もなくこんな若い女の子に。


 今までもかっこいいだの声がいいだのと褒められてきた。しかし、ゆいなからのは他の人とは違う。


 自分のことを見過ぎだし観察し過ぎだと思ったが、それ以上に自分のことをよくわかってくれそうな気がした。


────きっと本当は、木野が育てたラベンダーをあんなに大事そうに受け取ってくれた瞬間から彼女のことを。


 酔いのせいだろうか。妙に気持ちが高ぶっている。まだ言わない方がいいことを言ってしまいそうだ。


 心の中で葛藤していることにゆいなは気がついていないのだろう。彼女は”そうですか?”と、”かわらかわないでくださいよ”と笑った。


「木野さんの声の方が素敵ですよ。絶対声優になれますよ」






「俺は君の声の方が好きだけど」


(……へっ!?)


 一瞬、言葉に詰まった。というより、”好き”という単語の余韻に浸ってしまった。きっと深い意味なんてないだろうに。


 ゆいなはわずかに目を見開き、真正面を向いた。ずっとゆいなのことを見つめる木野の視線から逃げたかった。いつもだったら”今推しが私のことだけ見てる!”とはしゃいでいたはずだ。


 心が揺れたのがバレたら恥ずかしい。さっきまで推しからの認知を知って、喜びながらも戸惑うただのオタクのムーブをかませたのに。


「……っあ、あの木はなんていうんですか?」


 不自然だろうが話題を変えようと、大きな街路樹を指さした。


 背が高くて幹からは皮が細かくめくれあがっている。三又の小さな葉が根元に落ちていた。


 木野はゆいなの指の先を追うと、目を細めた。


「トウカエデ。ウチにも小さいのが生えてるよ」


 ゆいなの実家の周りにもよく生えている街路樹だ。


 それの名前を教えてくれたのが木野、というのが嬉しい。きっと見る度に彼のことを思い出してしまうだろう。


 改札に入り、同じ路線の同じ方向の電車に乗る。席はこの時間帯らしく埋まっている。二人は車両の真ん中辺りで吊革につかまった。


 電車が動きだし、アシヤで木野が先に降りた。


 ゆいなは窓の外の流れる景色を見ながら、今日のことを振り返った。


(せっかく一緒に帰ったのに、高槻さんと付き合ってるのかどうか聞くの忘れちゃった……)


 だが今は、その答えを聞くのが少し怖い自分がいた。











 ゆいなのマンションのすぐ向かいには一軒の家が建っている。二階建てのそこそこ大きい家で、広い庭にはいろんな花が植えられていた。


 庭を囲うように取り付けられたフェンスのそばにはどんぐりの木が生えている。秋になると歩道側にたくさん実が落ちるので、近所の子どもたちが拾いに来るらしい。


 ここはゆいなの親戚のおばちゃん、あけこの家。


 あけこはゆいなの姉の夫のお母さんで、バツが四つついている。四人の子どもたちは皆、手が離れて彼女は一人で暮らしている。


 姉が結婚したのはゆいなが高校生になった頃。


 あけこと親戚になった時からゆいなはいたく気に入られ、よくここへ遊びに来ていた。アマに住むのを後押ししてくれたのも彼女だ。血がつながった親戚ではないが、一番仲良くしていて信頼している。


『おばちゃん、私そっちに住もうか本気で悩んでるんだ』


『だから思い切ってこっちに来たらええやん。私がいてるんやから』


『そうなんだけどさぁ……やっぱり実家が遠くなっちゃうし、ちゃんとやってけるかなって……』


 ある冬の夜。会社でコーベ支店への転勤者を募集している話を聞き、ゆいなは居ても立っても居られなくてあけこに電話をした。


 大好きだった先輩のセイラが海外へ旅立ってから数年が経った。


 自分はいつまでもここでくすぶっていていいのだろうか、とセイラの背中を思い出す。


 ゆいなには夢や目標があるわけではない。あるとしたらアマに住むことだろうか。楽しく、後悔しないように生きていけたらと漠然と考えていた。


『あんた、そんなこと言うてたらいつまでたっても変わられへんよ。二十代なんて何やっても失敗しても大丈夫よ。私はその内還暦やけど今が一番青春やで』


『あぁ、ドライフラワーの?』


 あけこはブロガーで、育てている花をブログで紹介してそこそこ名前が知られている。こんな性格なのでオフ会では人気者だそうだ。近辺に住むブログ仲間をこの家に呼んでプチオフ会を開いたこともあるらしい。


『せやで。ドライフラワーにしたりお茶にしたり……近所やったら生花の販売もしてんねや。今は通販とご近所さん相手の商売やけどな、この歳にして株式会社を立ち上げよう思てん。だから今が一番の青春やな!』


 電話越しでも大口を開けて話しているのが目に浮かぶ。


 いつもそれを見てると、つられてがっはっはと笑ってしまう。あけこの周りに人が集まってくる理由が分かる。


『こっち来たらええやん! 行かずに後悔するより来て後悔した方がええんとちゃうの?』


『……それもそうだね』


『せやろ? 家賃があれやったらウチに住んだらええわ。ゆいなは私の子どもたちと同じくらい大事な子や、食費はもらうけど好きに過ごしたらええで』


 その後、両親にも相談しながら上司に申し出て転勤を決めた。


 姉の結婚がなかったら知ることができなかった町。今では地元と同じくらい道が分かる。


 いくら行き慣れていても住むとなると話は別だ。しかし、あけこという心強い知り合いのおかげで、富橋に帰りたいと思うことはなかった。


 結局、ゆいなはマンションでの一人暮らしを決めた。あけこの家にはよく泊まっていたので一緒に暮らすのは何も抵抗はない。しかし、一人でちゃんと頑張りたいから、と下宿は辞退した。


 それを伝えて家探しを手伝ってもらった。彼女は残念がることはなく、『まぁ彼氏ができたら連れ込めへんな!』と笑っていた。そしていい条件がそろっていたのは、なんとあけこの家の目の前のマンションだった。


 一人で頑張ると言った割には弁当や晩御飯などよく食べさせてもらっている。休みの日にはよく入り浸っている。今日もそうだ。






 洗った空の弁当箱を持ったゆいなは、あけこの家を訪れた。


 広い庭にはアンティークレンガを敷き詰めたS字状の道がある。くねくねと歩き、自分の家のようにドアの取っ手に手をかけた。


 玄関に入ると、音に気が付いたらしいあけこが出迎えてくれた。


 ゆいなは彼女に弁当箱を渡して靴を脱いだ。


「あっこおばちゃん、昨日の弁当の筑前煮おいしかったよ」


「あーそお? 一度に大量に作るから今度はもっと多めに入れたるわ」


「ありがと! 今度はチューリップも食べたいな」


 立ったままではうまく靴が脱げない。玄関先に座って後ろを向きながら靴紐をゆるめた。


「鶏なら手羽先の方が食べ慣れとるんとちゃうの?」


「それナゴヤの名物だし。私は食べないよ」


「そうなん? 昔ナゴヤで世界の〇ちゃん行ったなぁ」


 あけこは空の弁当箱を持ってゆいなをリビングに通した。


 花の柔らかな香りがする家だ。リビングの床まである大きな窓を開ければ、たちまち部屋に季節の花のにおいがたちこめる。


 勝手知ったる家のようにリビングの椅子に腰かける。テーブルは庭を一望できる位置に置かれていた。


 その上にはピンクのカンパニュラの花が花瓶に生けられている。釣鐘のような形をした可愛らしい花だ。さかさまにしたら裾が広がった妖精のドレスのよう。さっき庭で色違いが咲いているのを見た。


「昨日はコーベ駅の近くでいい居酒屋を見つけたんだよ。焼き鳥も串揚げもおいしかったなぁ」


「ええやん。ちゅーか食べ物の話しかせぇへんやん」


 あけこはオレンジジュースが注がれたグラスと、せんべいを入れた小さな籠をテーブルに置いた。彼女はステンレスのタンブラーを片手にゆいなの隣に腰かける。


 ゆいなは”ありがとー”と言いながらグラスに手を伸ばしたが、飛び跳ねてテーブルを叩いた。


「あっ……あ! そこ私の推しの行きつけの店だったの! 一緒に呑んだの! 推しと呑めて幸せ過ぎたから私が出します、って言ったのに楽しかったからって木野さんが払ってくれたんだよ! やばくね? 推しが楽しかったって! 私と呑んで!」


 急にテンションぶち上げたゆいなを細目で見ると、あけこは半笑いでタンブラーを傾ける。


「あー……あんたがよう話しとるおっさん?」


「おっさんじゃない! 木野さんです」


「でももういくつだっけ? あーたと相当離れとるやろ? 立派なおっさんやん」


「うぐっ……おばちゃんも実際に木野さん見たらメロメロになるよ! めちゃくちゃかっこいいもん。あの顔に笑いかけられたらたまらんよ?」


 笑うと細くなって見えなくなる目、目じりのシワ、柔らかい笑い声。そのすべてが尊い。


 でも、昨日たくさん見たのは文字通り破顔した笑顔。手を叩きながら引き笑いしたり、顔を覆って突っ伏して肩を震わせたり。


 いつもかっこいいとか癒される、と思ってる笑顔よりも昨日見た木野の笑い方のほうが好きだ。誰かの話を遮ってしまわないように、と優しく気遣った笑顔とは違う。彼の心からの笑い方。それを引き出せたのが嬉しい。もしかしたら彼が来慣れている場所だから、かもしれないが。


「なんや、いつも以上に情熱的に語るやん。もう結婚したら?」


「推すだけでいいんですー」


「ほんまかいな。おっさん、まだ独り身なんやろ。ゆいながもろたらええやん」


「私がもらうって……!」


 恐れ多すぎるあけこの発言にゆいなは震えた。なんて簡単に大それたことを言えてしまうんだろうこのおばはんは。


 しかし彼女はからかうわけでもなく、ゆいなのことを指さした。


「あーたはまりなと違うて歳上の方が合ってると思うで? ゆいなはテンションは子どもっぽいけど話し方が歳上ウケいいやろ。意外といろんなこと知ってるやん。だから私もあーたを気に入っとんねん。同い年だと物足りんとちゃう?」


 まりなはゆいなの姉だ。あけこの息子の光茂みつしげと十一年前に結婚し、今はオーサカに住んでいる。この家にも時々遊びに来る。ゆいながアマに来るのを喜んだのはあけこだけでない。


「それはあるかも……」


「せやろ?」


「でもそれとこれとは違う! ……こんな話をしに来たんじゃないのよ。自転車の空気入れ貸して」


 ゆいなは駅まで自転車で通っている。それは元々あけこの娘が使っていたもので、新しいのを買うからと家を出るときに置いていったそうだ。


 だいぶ長いこと放置されていたものだが、近所の自転車屋さんで点検してもらって使っている。最近ブレーキ音がすごく、向かいに住むあけこの家にまで響くらしい。家の中でもゆいなが帰ってきたと分かるくらい。


「後で貸したるわ。てかもう、あーたが持っててええで」


「あ、ホント? 助かる」


「その代わり明日コー〇ンに連れてってくれへん? 肥料買いたいんやけど。どうせ暇やろ? 車出して」


「いいけど……どうしてこう私は何もないように見えるかね……」


 実はゆいなは愛車をこちらに持ってきて、あけこの家の車庫に停めさせてもらっている。車庫は使う人が長いことおらず、倉庫になっていた。それを片付け、週末になると買い物のために出すことが多い。


 富橋と違い、この辺りは駐車場代も高い。だからこうしてタダで車庫を貸してもらえてありがたかった。


「まぁ私もホムセン行きたいからいいけど……洗濯物を風呂場で乾かすのにサーキュレーターがいいって聞いた。コー〇ンに売ってるかな?」


「売ってるんとちゃう? 知らんけど。買う時は安なる? って聞くんやで」


「無理に値切るのは遠慮しとくわ」


 まだそこまでこちらの人間として染まってはいない。それに今は値切るのを断る店もあると聞く。


 ゆいなはせんべいに手を伸ばした。


「この後すぐでもいいよ。お昼ご飯食べてからでも」


「明日でええねん」


 あけこは首を振った。再びタンブラーを傾けると、ゆいなの前のグラスを指さした。


「ゆいな、それのんでみ」


「え? うん……うわ! 焼酎入ってる!」


「今日は昼呑みするで」


「昼って……まだ朝の10時だし!」






 だまされたというかはめられたというか。


 開き直ったゆいなはオレンジジュース(焼酎入り)の二杯目に口をつけた。


「そういえば木野さんもお家でたくさんお花を育ててるってよ。ここくらい広い庭みたい。池でメダカも飼ってるって」


「ますます謎なおっさんやなー。どこ住んでるん?」


「アシヤ? だって」


 ゆいなが何気なく答えた地名に、あけこは獲物を見つけた猫のように目の色を変えた。


「あんた……金持ちの街やん! これは捕まえなアカンで!」


「えぇ?」


「独身でバカでかい家に一人暮らしなんてどこぞのボンボンや? あーた玉の輿のチャンスやろ! これでゆいなの将来は安泰やな!」


「何話してんのかよう知らんけど無いから!!」


 金目のことに反応する辺りこっちの人だよな……と、ゆいなはため息をついた。

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