第2話 あの世のこと
綾子が最近見る夢は、半分忘れてしまっているが、何となくだが、どんな夢だったのか、少しは覚えていることが多い。その夢というのは、
――あの世――
というイメージのものが多く、天国と地獄の夢を交互に見ているように思えていた。
これまであの世のことについて意識したこともあったが、夢に見たという意識はなかった。小さな頃に最初に感じたあの世へのイメージは、どこかの神社の祠にあった地獄絵図だった。
ハッキリと見た時期までは覚えていないが、確かに母の田舎だったように思う。祖母がまだまだ元気だった頃で、一緒に散歩に出かけた時に初めて見せられた気がした。その時は大きな額に描かれた絵の大きさに度肝を抜かれたこともあって、恐怖の半分はその大きさにあった気がする。祖母がどうしてそんな絵を見せたのか分からなかったが、子供には衝撃の大きかったことに間違いはないだろう。
「綾子ちゃんはこの絵を見たことを、ずっと忘れないでいるような気がしてね」
と祖母は言ったが、正直、こんな怖いものを見せられて嬉しい気分になるわけもないので、祖母の真意がどこにあるのか分からなかった。
「ここに来たことはおばあちゃんと綾子ちゃんの二人だけの内緒だよ」
「どうして? お母さんにも言っちゃダメ?」
「ええ、ダメ。特にお母さんには言わない方がいいわ」
「お母さんもこの絵を見たことがあったの?」
「ええ、あったわよ。でもおばあちゃんが見せる前にお母さんはこの絵を見ていたみたいなの。だから、最初におばあちゃんがここにお母さんを連れてきた時、少しビクビクしていたのが分かったわ」
「お母さんも見たんだ」
と子供の綾子が言うと、
「ええ、今の綾子ちゃんと同じくらいだったかしらね。お母さんは、どうしてこの絵がここにあるのかって、そのことをおばあちゃんに聞いたのよ」
「おばあちゃんは何て答えたの?」
「こういう絵はここだけに残っているものじゃなくって、全国にはたくさん似たような絵が残っているのよって答えたわ」
綾子は少し解せなかった。
「それは本当なの?」
「ええ、ただ、ここのように祠に展示する形になっているのは少ないかも知れないわね。それぞれの神社で、宝物のような形で残っているものはたくさんあると思うの。実際に隣の村にある神社では、宝物として残っていると聞かされたことがあったわ」
「その宝物は、見ることができないの?」
「ええ、一般的には見ることはできないの。だから宝物として保管されていて、その神社の言い伝えとして、一般公開をしてはいけないということになっているらしいのよね」
「じゃあ、その神社でだけ言い伝えられているということなの?」
「そのようね」
「じゃあ、同じようなものかどうかって分からないじゃない。見たことはないんでしょう?」
「ええ、おばあちゃんもここ以外の地獄絵図は見たことがないわ。もっとも、おばあちゃんはそんなに行動範囲が広くなかったので、他の村には行ったりしたことがなかったからね」
「それなのに、どうして同じような地獄絵図だって思ったの?」
「だって、言い伝えられている地獄というのは、そんなに種類のあるものではないでしょう? 少なくとも言い伝えられているもの以外が保管されていれば、誰かが言い伝えに何かを言うような気がするのよね」
その言葉に綾子は子供ながらに違和感を感じた。
――どうして、そんなに簡単に信じちゃうの?
と感じた。
そして、それをどう聞こうかと考えていたが、
「神社で誰にも見せずに保管しているということは、言い伝えと違っているから公開できないものだって私は思うんだけど、違うのかしら?」
と綾子が言った。
「そうかも知れないけど、地獄絵図のようなものは、怖いものだというイメージもあるけど、どうしてそんな怖い世界が存在しているのかということを考えると、この世への戒めのように感じたのよね」
「戒めって?」
「この世で悪いことをしていると、あの世に行った時は、こんな怖い世界に行かされてしまうということよね。だから、なるべく一般には公開しないようにして、神社だけで家法のようなものとして保管しているのよ」
「それって、神社の人にしか分からないということよね? 他の人は知らなくてもいいことなの?」
「昔はそう思っていたのかも知れないわね。要するに神様を信じていたり、神社を敬う人だけがあの世でも極楽に行けるという意味で、そういう人だけには戒めを与えることで、神社にかかわっている人だけが極楽に行けるという考えなのかも知れないわね」
「それって自分たちだけがよければそれでいいっていう考えなんじゃない?」
「その通り、昔は今と時代が違うのよ。すべての人間を救うなんて今も昔もできっこないのよ。救われるのは選ばれた人だけということになる。今の綾子ちゃんにはまだ分からないかも知れないけど、少しずつ成長していく中で分かっていくことになると思うわ」
祖母の話は分かったようで分からなかった。話が難しすぎるというのもあるが、どうしても解せない思いが強かったからだ。
「学校では、世の中に生きている人すべてが平等にできているって習ったのに」
というと、祖母は少し苦笑いをした。
「確かに学校ではそう教えるわよね。でもおばあちゃんは、そんなことはありえないと思っているの」
「どうして?」
「その理由はいろいろあるし、その理由は一つの結論に結びついていると思うんだけど、今の綾子ちゃんに説明しても難しいと思うの。だからね、こう考えればいいのよ。『天国と地獄、両方あるのはどうしてなのか』ってね」
と祖母が言った。
なんとなくの禅問答のようで、すぐには理解できなかったが、要するに、
「皆が天国に行けるのなら、地獄という存在があるはずがない」
ということが言いたかったのだろうと感じた。
確かにその通りだった。
綾子は、大人になってから、その時の祖母の言葉を思い出すことがあった。そのたびに少しずついろいろな疑問が湧いてくる。そしてその疑問が解決することもなく新しい疑問が湧いてくる。次第に疑問が増えていってしまったので、その端から忘れていくのだが、何かのきっかけで一つの疑問を思い出すと、いろいろと考えてしまう。その考えの中で次第に増えていった疑問がよみがえってくる。考えていると時間の感覚はマヒしていき、思いついたことが結びつくことはなかなかなかったので、もちろん結論が出ることもなかった。
その時のことを誰かに話そうという気にはなからなかった。なぜなら、その時に考えたこともいったん我に返ってしまうと、その時に何を考えていたのか、忘れてしまっているからだった。
――まるで夢の世界のようだわ――
夢の中で見たことも、夢から覚めるにしたがって忘れていくものではないか。そう思うと、綾子は誰かに話す以前の問題のような気がしていた。
だが、これが夢と同じようなものだと考えれば、前から夢についていろいろ話をしたことがある裕子に話したことがあった。
「確かにおばあちゃんの言うように、すべての人が天国に行けるのなら、地獄の存在意義ってないわよね。それにそもそも宗教なんていうものの存在意義もない。そう考えると、神社やお寺の存在意義すらないように思えるのは、奇抜な発想すぎるかしら?」
と裕子は綾子の話を聞いて、そう答えた。
「そうなのよ。大人になって考えるといろいろな考えが思い浮かんでくるのよ」
と綾子がいうと、
「そういえば、綾子はこんな話をするのは私が初めてだって言ったけど、本当にそうなの?」
と裕子が妙な勘繰りをしてきた。
「ええ、もちろんよ。どうしてそんな風に思ったの?」
「いえね。綾子は男性の友達が多いでしょう? しかもその相手というのが、気が弱い人で、そして潔癖症の人が多い。綾子はそんな男性を今では結構毛嫌いしているようだけど、綾子はそんな彼らと共通点があると思うのよ」
という裕子の言葉を聞いて、頭にきた綾子は言葉を遮った。
「そんなことはないわ。共通点なんてあるわけないわ」
と言って捨てた。
「そんなに怒らないで聞いてよ」
裕子にそう諌められると綾子はすぐに落ち着いた。
「ごめんなさい」
「今まで綾子のまわりにいた男性は、綾子の考えていることが結構分かっていたような気がするの。私が見ていると、結構相性が合っていた人もいたような気がしたのよ。綾子の方が一方的に毛嫌いしていたようなので、私は何も言えなかったけど、そんなに生理的に受け付けなかったの?」
「ええ」
「それなら仕方がないけど、世の中って意外とそんなものなのかも知れないわね。自分と同じ性格の人を生理的に受け付けない人っていうのも結構いると思うしね」
「それって、磁石の同極が反発しあうような感じ?」
「ええ、その通りね。綾子を見ていると特にそう思うわ。まるで鏡に写っている自分を嫌いだと思っているかのような感覚ね」
確かに綾子は鏡に写った自分の姿が嫌いだった。
「裕子はどうなの? あなただって女性ばかりなんでしょう?」
「ええ、そうね。でも、私の女性との相性と、あなたの近づいてくる男性との相性は、同じくらいに大切なものだって私は思っているんだけどね」
「彼らにだって私は自分の考えていることを話したことなんかないわ。毛嫌いしている相手なんだから当然よね」
「でも、彼らには綾子の考えていることって結構分かっていたような気がするの。綾子にはそのつもりはなくとも、自分の考えを結構表に出しているからね。そんな彼らにだったら、綾子の考えていることに対して何らかの意見をしてくれると思うわよ」
「そうなのかしら? でも、皆それぞれで意見が違うって思うんだけど?」
「私もそう思う」
「えっ? それじゃあ意味がないじゃない?」
「そんなことはないわ。逆に、十人が十人、同じことを答えたとして、それで綾子は納得する?」
と裕子に言われて、ドキッとした。
「確かに皆判で押したような同じ答えだったら、却って信憑性に欠けるような気がするわ」
「そうでしょう? それが綾子なのよ。多数意見をそのまま信用しないのが綾子でしょう? 逆になんとなくだったり、中途半端な回答の方が、却って信憑性を感じるんじゃないかって思うのよ」
綾子は裕子の言葉に喉が詰まってしまった。
――裕子の言うことは、いちいち合っていて、憎らしいくらいだわ――
と綾子は感じていた。
「ねえ、裕子はどうしてそんなに私のことが分かるの?」
と綾子が聞くと、
「どうしてなんでしょうね? 私は綾子を見る時、まるで自分を見るような気分になって見ているからかも知れないわね」
「それって、鏡の中の自分を見るような感じ?」
「それとは違うわ。鏡の中の自分は私にとって怖い存在なのよ。だから私は必要以上に鏡を見ないようにしているの。そういえば、ここ最近は、本当に鏡を見ていないわ」
女性が鏡を見ないというのはよほどのことである。しかし、裕子の話を聞いていると鏡を見ないことに納得できる。世間一般の考え方として、女の子が鏡を見ないのはおかしいという方が、間違っているのではないかと感じるようになっていた。
「裕子にとって私はどんな風に写っているのかしらね?」
「鏡にも種類があるんじゃないかって思うのよ。本当に自分を映すものと、自分以外の自分を映すものとね」
「二種類の鏡があると?」
「二種類かどうか分からないけど、少なくとも目に見えない鏡のようなものがあると私は思っているわ」
「それって、結界という意味かしら?」
「そう言ってもいいかも知れないわね。見えているものに信憑性を感じられない時、目の前に結界を感じる。それが、もう一つの鏡だと思うのはおかしな考えかしら?」
という裕子に、
「裕子の話を聞いていると、本当に思えてくるから不思議だわ」
と綾子は答えた。
「この間見た夢なんだけど」
と裕子が言い出した。
「ええ。覚えている夢なの?」
「うん、夢というとほとんど覚えていないというのが私の中での感覚なんだけど、その夢だけは印象として残っているの。しかもその夢で、私は誰かと話をしていたという感覚なんだけど、それが誰だったのかは分からない。でも、初めて出会った人だということは分かったんだけど、いずれまたどこかで会える気がしたのよね」
「それは夢の中でということ?」
「それは分からない。ただ、出会った時、私がその人のことを分かるのかどうか、自信がないの」
「じゃあ、どうして出会えると思ったの?」
「私がその人に出会えるかも知れないと思った時、その人も私とまた会えるって言ったのよ。ほとんど同じタイミングだったので、私も無視してはいけない感覚に思えたのよ」
裕子の話は、今まで真面目に聞いてきた。
この話も真面目に聞いていたのだが、信憑性という意味ではハッキリと確信ではないと思えた。そもそも夢の話など他人が聞いても。それこそ他人事であり、他人事として聞いてあげる方がいいと思うようになっていた。だから綾子も他人事として聞いていた。それが一番だと思ったからだ。
「その人と出会えるといいわね」
と気軽に言ったつもりだったが、言った瞬間に、自分が明らかに他人事として言った言葉だと自覚したことで、
――しまった――
と感じた。
勘の鋭い裕子には、当然綾子の言葉が明らかな他人事だということが分かったはずで、気まずくなるのではないかと思うと、裕子の顔をまともに見れない自分を感じた。
下から垣間見るように裕子を見ると、綾子のそんな心配は無用だったかのように、裕子は綾子のことを気にしている素振りはなかった。裕子の方も相手に話を聞いてほしいと思いながらも、自分の世界に入り込んでいるかのようだった。
――何かを思い出しているのかしら?
その表情には思いつめているかのような深刻ささえあり、ただ裕子の表情はどちらかというとポーカーフェイスなので、他の人には分からない感覚であろう。
――綾子だから分かる表情――
それが二人が親友であるということの証明のようであり、裕子にも彼女にしか分からない綾子の表情があるに違いない。
少し考えているようだったが、裕子はおもむろに話し始めた。
「今思い出したんだけど、その人がおかしなことを言っていたのよ」
「どういうこと?」
「私は、死んだのよって言ったのよ」
「えっ?」
「その言葉を聞いたから、私はそれが夢なんだって思ったんだって気がした。確かにその時に見ているのが夢だという先入観で話を聞いていると、納得がいくこともあったように思うの。もし夢だって思っていなかったらどう感じていたのかを考えてみたんだけど、想像がつかなかったのよ」
「それはそうでしょうね。でも、話をしているうちに、結局どこかで夢だって気付いたんじゃない?」
「そうかも知れないけど、もし最初に気付いていなかったら、夢は途中の中途半端なところで終わっていたと思うのね」
という裕子に対して、
「でも、夢というのは、ほとんどが中途半端に終わるものなんじゃないかしら? 私はずっとそう思ってきたけど?」
「覚えている夢は確かに中途半端なところで終わっていることが多いわね。でも覚えている夢というのは怖い夢が多いでしょう? 怖い夢を中途半端に終わらせるというのは、ありがたいことよね。最後まで見るなんて想像もできないことですものね」
「ええ、それは私も思っているわ。楽しい夢は覚えていないことが多いんだけど、そんな夢でも、中途半端なところで終わってしまって、もっと見たかったのにって思うことが多い。覚えていないくせに、もう一度続きを見たいと思ったのは確かなことなのよね」
「楽しい夢って本当に覚えていないのかしら?」
という裕子だったが、綾子としては、
「私は目から覚めるにしたがって忘れていくものだって思っているの。だから完全に目が覚めきる前に感じることはできると思う。その思いだけは夢から独立しているので、ハッキリと覚えているんだわ」
と考えていた。
「綾子の意見は正しいと思う。私もそうだと思うわ。でも目が覚めると完全に忘れてしまっているのはどういうことなのかしらね?」
「記憶の奥に封印されるんじゃないかな? 記憶は夢の中であっても、現実世界であっても、同じところに格納されると思うと、見た夢が現実世界の延長のようなものだったら、きっと夢での記憶なのか、現実世界での記憶なのかが曖昧になって、意識として記憶されるものではないような感じなのよね。ところで、その人が死んだというのは、どういうことだったのかしらね?」
と綾子が話を戻した。
「その人は確かに言ったの。自分は死んだんだってね」
「その時の顔を覚えてる?」
「表情としては覚えていないのよ。そんなに怖い顔をしていたような気がしないの。だから無表情だったんじゃないかって思うのよ」
と裕子がいうと、
「無表情……。無表情って何なのかしらね?」
と綾子はいきなりの問題提起をした。
「その表情に喜怒哀楽が含まれていない表情なんじゃないかしら?」
「それも言えるかも知れないけど、相手に何を考えているか分からないと思わせることが無表情なんじゃないかって私は思っていたわ」
と綾子は言った。
「でも、それって言葉は違うけど、同じことを言っているような気がするのよ」
「そうかしら? 私は少し違うような気がするの」
裕子と綾子、今までに意見が合わないこともあったが、この時の相違は二人にとって、どこかぎこちなさが感じられた。
どちらの方が違和感があったのかというと、綾子の方が違和感と強く感じていたのではないだろうか。
「その人は、それから何て言ったの?」
綾子は、渋滞しそうになっていた話を進めた。
「自分は死んだんだけど、あの世に行ったわけではないっていうのよ」
「それは、この世を彷徨っているということ?」
「ハッキリとはそう言わなかったけど、そうなのかも知れないわね。ただ、この世に未練があるようには思えなかった」
「じゃあ、この世で生まれ変わる準備中だったんじゃないかしら?」
「えっ?」
綾子の話に裕子はハッとした気がした。
「だって死んだ人は絶対にあの世に行かなければいけないって誰が決めたの? そもそもあの世だって本当に存在するものなのか分からない。想像でしかないでしょう?」
という綾子の意見は、実は裕子も以前に考えたことがあるものだった。
「そうなんだけど、すべてを否定してもいいのかしら?」
と裕子はどこか消極的だった。
「別に否定しているわけではないわ。ただ、あの世に行かずに、この世にいる間に誰かに生まれ変わることができないわけではないと思うのよ。だって、あの世って死んだ人が行く世界なんでしょう? あの世で死んだ人で溢れたりしないのかしら?」
綾子の発想は大胆だ。
「確かにそうよね。この世では、生まれる人もいるから死ぬ人もいる。死ぬ人がいるから生まれる人もいる。人口は徐々に増えてはいるけど、急に増えたり減ったりはしていないものね」
「この世の尺度であの世を思うから、あの世は死んだ人が行くところで、いずれその人たちはこの世で生まれることになるという考えになるんでしょうね」
「でも、あの世の話を聞いた時、この世で生まれてくるという発想をする人はあまりいないわよね。この世で善行を行えば、あの世で天国に行けて、悪いことをすると、地獄に落ちるという発想しかないものね」
「ええ、でも輪廻転生という言葉もあるくらいだから、あの世とこの世は繋がっていて、どっちも行き来するというのが一般的な考え方なんじゃないかしら?」
「さっきの夢に出てきた人が、もし生まれ変わりの準備をしているとすれば、もう一度どこかで会える気がするというのも分からないわけではないわよね」
「ええ、そうだと思うわ。でも私はその人に気付くことができるかどうか自信がないのよ」
と裕子がいうと、
「それは相手も同じなんだって思うわよ。楽しい夢の続きを見ることができないのと同じ発想なのかも知れないわ」
「どういうこと?」
「楽しい夢の続きを見ることができないわけではなく、楽しい夢を忘れてしまっているので、もう一度続きを見ることができても、それがあの時の続きだって気付かないのよ。それが夢と現実世界の間に敷かれた結界のようなものなんじゃないかって私は思っているわ」
と綾子は言った。
「そう考えると、私がその人に出会ったという思いは今は持っているけど、実際にその人に出会うまでにその記憶は消えているということよね」
「ええ、それもきっと再会したその瞬間に消えてしまうんじゃないかって思うのよ」
「どうして?」
「その方が話としてはインパクトがあるじゃない」
と言って、綾子は笑った。
綾子はこんなところで冗談を言うような女性ではないはずなのに、そんな言葉を口にしたのは、きっと裕子にはこの言葉が冗談では聞こえないと感じたからだと思っている。
綾子は、あっけにとられている裕子をよそに話を続けた。
「あの世を経由せずに、この世で生まれ変わった人は、生まれ変わるのは人間に確定なんじゃないかって思うの。もしあの世に行ってしまえば、生まれ変わるのは人間とは限らない。動物だったり、植物だったりするんじゃないかしら? それを決めるのが、天国だったり地獄だったりするその世界を仕切っている人なんじゃないかしら?」
というと、
「人とは限らないでしょうけどね。天国なら神様だし、地獄なら閻魔大王というべきでしょうね」
という言葉を聞いて、綾子は何かに閃いたように、
「そうだわ。あの世って本当に天国と地獄の二種類だけなのかしら?」
「どういうこと?」
「さっき話したように、死んだ人が皆あの世に行くとすると、生まれ変わりという発想がないと、あの世は溢れてしまうと言ったわよね。でも、あの世が二種類だけではなく、もっと他に存在しているとすれば、生まれ変わりという発想は、根底から覆るのかも知れないと思ってね」
「じゃあ、他にどんなあの世があるというの?」
と裕子に聞かれて、少し考えていた綾子だったが、
「これは前に本で読んだことだったんだけど、あの世というのは、宇宙にあるんじゃないかっていう発想だったわ。あれはSF小説だったんだけど、面白い発想だと思ったもの」
この話を聞いて、裕子も自分が綾子の話のペースに引き込まれるのを感じた。
――それでもいいんだ――
主役は綾子でも自分も参加していることに裕子は満足していた。
「宇宙だったら、果てしないものだもんね。死んだ人が宇宙のどこかに行くとすれば、分からなくもないわ。でも、そうなると、生まれ変わりという発想はありえなくなってしまうかも知れないわね」
「ええ、だから天国と地獄という発想の場合は生まれ変わりは必須なんだけど、宇宙という発想になると、生まれ変わりはありえないということになる。両極端だよね」
確かに両極端ではあるが、極端な発想が却って今までになかった自分を掘り起こすことができるような気がしてきた。
「でもね、どっちが正しい。どっちも間違っているという発想も極端なのよ。どちらも融合できる考えなのかも知れないでしょう? 宇宙は三つ目のあの世だっていう発想ね」
「じゃあ、生まれ変わりたくないと思う人が宇宙に行くということ?」
「そう、孤独を望んだ人が行くところかも知れないわね」
「そんな人っているのかしら?」
「私はいると思うわよ。この世の人との関わりにウンザリして、死んでからはずっと一人でいたいと思っている人もいるかも知れない」
「信じられないわ」
と裕子がいうと、
「いや、裕子も心のどこかで孤独を悪いことではないと思っているはずなのよ」
「どうしてなの?」
「それは私を話をして理解できているからよ」
「綾子は孤独を望んでいるの?」
「ええ、そうよ。あの世に行った時は、孤独がいいと思うわ」
「どうしてなの?」
「だって、人間、いや動物というのは、元々が孤独なんだって思うの。それなのに、この世で生きている時は、『人は一人では生きていけない』って教えられる。だから孤独は悪いことのように言われているけど、本当なのかしらね?」
綾子の考えは極端に思えたが、理に適っているような気が裕子にはした。
「確かにそうかも知れないわね。この世では言われていることが真実のように思われるけど、実際に言い伝えられてきたことだって、実際には違ったりすることが多いのも事実、それまで信じられてきたことが間違いだとすると、それを否定しなければいけなくなって、必要以上に否定を強くするものですものね。そう考えれば、何を信じていいのか分からなくなるわ」
裕子の言う通りである。
「だから、最後に決めるのは本人なのよ。本人の責任において決めることなので、誰にも否定はできない。でも、そのためにどうなるかは、本当に自己責任になるのよ」
「ちょっと怖い気がするわね。だからこの世では、一人では生きていけないと言われているのかも知れないわね。そして共同生活をするんだから、そこには一本筋の通ったものがなければ統制が取れない。そのために何が正義で何が悪なのかをハッキリさせなければいけない。そして、決まった正悪に対して守らなければいけないという戒律が必要になる。ただの戒律だけでは不十分で、そのために、あの世として天国と地獄という正反対の世界を作った。いいことをすれば天国に行けて、悪行をすれば地獄に落ちるってね。あの世の創造というのは、案外そんなものなのかも知れないわね」
裕子は淡々と話した。
裕子としては、綾子の言いたいと思っていることを代弁したつもりだった。綾子は黙って聞いているだけで、それに対して何も意見を言わなかった。裕子は綾子が理解して、納得したのだと思っていた。
「でも、どうして天国と地獄という発想が生まれたのかしらね。誰が天国と地獄を創造したっていうのかしら? 宗教によっていろいろなあの世が存在していると思うんだけど、当然、天国と地獄という発想ではない宗教もあるんじゃないかって思うのよ。『人は死んだらどうなる』というテーマはそれぞれの宗教で持っているんだろうけど、私たちが知らないだけなのかも知れないわね」
と綾子が言った。
「あの世って、本当に天国と地獄だけなのかしら?」
裕子が呟いた。
「私たちの知っている宗教で考えて、天国と地獄以外に別のあの世が存在しているかも知れないということ?」
「ええ、私はあると思うの。たぶん、綾子もそう感じているんじゃない?」
と言われた綾子は、ニッコリと笑った。どうやら裕子には綾子の言いたいことが少しだが分かっているようだ。
「私は、そこが本当の孤独になれる場所だって思うのよ」
「それは宇宙のような世界ということなのかしら?」
「ええ、果てしなく広いところで、広さがすべてを凌駕しているような世界。ブラックホールのようなすべてを飲み込むという発想が当たり前に存在していて、ひょっとすると、ブラックホールがあの世とこの世を結ぶ出入口なのかも知れないとも思うわ」
「その宇宙というあの世の定義は孤独ということなのね?」
という裕子に対して、
「宇宙という言葉自体が、何か果てしないものに対しての代名詞のような気もするの。だから、宇宙と書いて『ひろし』と読ませる名前もあるでしょう? 人は宇宙に対して誰もが言い知れぬ憧れのようなものを持っているような気がするの」
と綾子がいうと、
「そうかしら? 私は宇宙というと恐怖の方が強く感じられるわ」
と裕子がいうと、
「恐怖と憧れって紙一重で、しかも背中合わせのように感じるのは私だけかしら?」
と綾子が答えた。
「それって、私のイメージとしては、長所と短所のイメージに近いものがあるわ。長所と短所も紙一重で、背中合わせだって言われているでしょう?」
「そうね。でもその両方を一緒の次元で考えている人は少ないと思うわ。その両方を長所と短所として考えないと、大どんでん返しが生まれるような発想になるんじゃないかって思うのよ」
「やっぱり発想は両極端なものよね。長所と短所、それにあの世へのイメージ」
「だから、あの世の発想としては二つしかないのよ。天国と地獄、つまりは両極端なものが存在していることで均衡を保っているかのようにね」
と綾子がいうと、
「均衡を保つというのが人を洗脳するには一番いいのかも知れないわね」
と裕子が言った。
裕子は言いながら、
――人を洗脳するなんて発想、まさかこの私が感じるなんて思わなかったわ。やっぱり天国と地獄を含めたあの世という発想は、果てしないものがあるのかも知れないわ――
と感じていた。
そういう意味では綾子の言ったもう一つのあの世である宇宙という発想は、それほど奇抜なものではないような気がしてきた。
「私はね。孤独というものに憧れを持っているの」
と綾子は言った。
「孤独という言葉の定義がどこからくるものなのか、教えてほしいわ」
と裕子がいうと、
「私が教えるというよりも、裕子が自分で感じることが必要なのよ。だから私の話すことは私の感性であって、人に強要するものでもなければ、共有できるものでもないと思うのよ。これこそ、人それぞれということね」
と綾子が言った。
ごく当たり前のことを言っているようだが、綾子がいうと、言葉の重みが違っている。
――当たり前って何なのかしら?
このあたりから、考えてみたいと裕子は思った。
小さい頃から、親から、しつけや教育として、
「どこに出しても恥ずかしくないようにならないとね」
と言われた。
――どこに出してもって、まるで私は親の所有物みたいじゃないの――
という思いがあったが、抗うつもりはなかった。その言葉に納得はできないが、理解はできたからだ。
子供の頃の裕子は、納得はできなくとも理解できることに対して逆らってはいけないと思っていた。ただそこには理不尽さが残っていて、その理不尽な思いが自分を納得させることができないのだと思った。
理不尽という言葉は、そのまま同意語として矛盾に結びついていると子供の頃は思っていた。だが、それが少し違っていることに気付かせてくれたのが綾子だった。
「理不尽に感じていることって、自分の中に閉じ込めて、決して逆らうことをしないようにしようという思いがあるでしょう? でも矛盾というのは、逆らうだけの余韻を残したものじゃないかしら?」
「えっ、そうなの? だって矛盾というのは、どう考えてもどうにもならないことが矛盾というんだから、逆らうことなんかできないんじゃない?」
「そんなことはないわ。矛盾だって感じた時点で、矛盾のどちらに自分が属しているかを考えると、まわりが見えてくる。その矛盾の部分以外を変えることで、矛盾を矛盾じゃなくすることだってできるのよ。でも、理不尽に感じることというのは、自分で理不尽なことに納得させようとしても結局できなかったから、理不尽でしかないの。そうなると自分が変わらない限り、理不尽を克服することなんてできないのよ」
「自分を変えれば、理不尽なことも解消できると?」
「自分を変えるなんて、そう簡単にできることではないわ。一歩踏み出す勇気が必要なんだし、それは自分にしかできない。もし少しでも人を頼りにして考えたなら、きっと考えがまとまらなくて、無限ループに入り込むかも知れない。それを無意識に分かっているから、人はそう簡単に自分を変えることなんかできないのよ」
という綾子の表情は怖いくらいだった。
「確かに綾子の言う通りだわね。でも、今の私は話を理解できたとしても、納得までできるかどうか分からないわ」
と裕子がいうと、
「それはそうでしょうね。だって裕子は私じゃないんだもの。裕子には裕子の理屈が存在していて、それが理解はできるけど、納得できるかどうか分からないって言っているんだって思うわ。人の意見を簡単に鵜呑みにする人というのは信じられない。だって、人の意見でコロコロ変わるんだったら、いつ自分の敵になるか分からないでしょう?」
裕子は、まさか綾子の口から敵という言葉が出てくるなど想像もしていなかった。
――まさか、あの綾子が――
と感じた時、綾子の冷徹さを垣間見た気がした。
裕子はその時の印象が残っているので、綾子の口から出てきた、
――孤独――
という言葉を無視してはいけないものとして認識し、裕子の中にある、
――孤独を垣間見ることができるのではないか――
という思いを浮き彫りにされた気がした。
「私には、裕子にも孤独への憧れがあるように思うの」
と言われて、ビックリしたが、それも一瞬だった。
――そうかも知れないわ――
と感じた。
ビックリしたというのは、意外だった言葉を言われてビックリしたわけではない。むしろ自分の考えていることを、まさにリアルなタイミングで看過されたことにビックリしたのだ。
――綾子ってまるで千里眼のようだわ――
千里眼という言葉、聞いたことはあったが、まさか自分が使うようになるなど思ってもみなかった。
今までに聞いた言葉のほとんどは、自分に関係のないこととして他人事のようにする―することが多かったが、改めて思い出したかのように使うこともあるのだと思うと、何とも不思議な感覚があった。
千里眼という言葉、先のことを予見したようなイメージだが、それだけではない。人には見えていないような他人の心の奥を看過した時にも、千里眼という言葉を使うものだと思った。むしろ、
――他人の心の奥を看過した時にこそふさわしい言葉ではないか――
とさえ思えるくらいだった。
そういう意味では、まさに今裕子は綾子に千里眼として心の奥を看過された気がしたのだ。
裕子はそこまで考えてくると、
――千里眼という言葉が似合う人こそ、孤独に憧れを持っている人なのかも知れないわ――
と感じた。
さらに、そんな千里眼という言葉を思い浮かべることのできた自分も、十分に孤独に憧れを感じることのできる資格を持っているように思えたのだ。
――私って、本当に綾子の影響を受けていうrんだ――
と思った時、さらに不思議な感覚が思い浮かんできた。
――私の前世は、綾子だったのかも知れないわ――
裕子は綾子と話をしていて、綾子の考えていることが手に取るように分かる。
しかし、それは一緒にいて話をしている時だけで、普段はまったくと言っていいほど、綾子を意識することはない。つまりは裕子は綾子と一緒にいる時だけ、別の自分になっているかのように感じるのだ。
裕子は綾子と一緒にいる時、
――自分が孤独だ――
と感じるようになった。
それは綾子から、
「私は孤独に憧れている」
という言葉を聞いてからのことだったが、その言葉の真意はすぐには理解できなかった。
――ではいつ理解できたのか?
と聞かれると、裕子が自分も孤独であることを再認識してからのことだった。
それまでは、孤独というと、寂しさを伴っていて、
「人は一人では生きられない」
という当たり前になっている言葉を、他の人と同じようにずっと信じてきた裕子にはすぐに理解できるものではなかったからだ。
「私は人と同じでは嫌だと思っているのよ」
と、綾子と知り合ってから少しして綾子に言われたことがあったが、最初はその言葉を聞いて、
――この人変わっているわ――
と思ったが、自分でそう思ったわりに、自分で感じたことに理解も納得もできなかった。
そう思うと、
――私と同じだわ――
と思うと、それ以外の発想が綾子に対してできなくなってしまった。どうやら裕子は自分が理解もできて、納得もできる相手に巡り合えたということに気付いたのかも知れないと思った。
「孤独って寂しいわけじゃないのよ」
と言われた時、裕子は目からウロコが落ちたような気がしていた。
――この人と一緒に話をしているのは、もはや理屈じゃないんだわ――
と思うことで、裕子は自分が自分自身を凌駕できる存在になれそうな気がしたのだ。
裕子は綾子に言われた孤独というものに思いを馳せていた。その時に思い出したのは、子供の頃に見たアニメだった・
あれは、妖怪もののアニメで、昔話やおとぎ話の派生方のような話だった。正義の味方がいるわけでも、悪い妖怪がいるというわけではない。そういう意味では子供が見るには少し恐怖を煽られるものだった。
裕子は、本当はホラーやオカルトのような怖い話は嫌いだった。しかし、なぜかそのアニメだけは毎回見ていた。他の友達と話をしている時、
「怖がりのくせに、どうしてあのアニメだけは見ることができるの?」
と聞かれた時に祐子の答えは、
「別に怖いとは思わないけど」
と、あっけらかんとしたものだった。
「えっ、あんなに恐ろしさを煽るようなアニメなんかないわよ。何と言っても正義の味方が出てきて、悪い妖怪をやっつけるというような内容というわけではないんだから、普通は怖いと思うわよ」
「どうしてなのかしら? あの話を見ていると、何が怖いのか分からなくなるのよ」
「だって、あんなに現実離れした話をリアルに表現しているんだから、それが怖いといえるんじゃないの?」
と友達は言ったが、普通の子供ならその話に納得することだろう。
しかし、裕子は話を理解はできたが、納得はできなかった。そのため、何が怖いのか、相手の話が見えていなかったのだ。
ただ、裕子は口にはしなかったが、
――寂しさを伴わなければ、基本、怖いとは思わないんだわ――
と感じていた。
しかし、そんな裕子にもその恐怖を感じる時がやってきた。それはそれまで感じたことのなかった寂しさを感じたからだった。ただ、裕子が感じたのは寂しさではなく孤独だったのだが、子供の頃の裕子には、そこまでのことを理解するだけの力はなかった。
あの時の話は、最初から、
――何となく怖そうな話だわ――
という予感めいたものがあった。
裕子はあまり自分の予感を信じる子供ではなかったのだが、その理由は、あまり必要以上のことを考えない子供だったからだ。必要以上のことを考えないということは、ただ毎日をその日暮らしで過ごしていると言い換えることもできただろう。
――いちいち恐怖を感じないというのも、その日暮らしで過ごしているからなのかも知れないわ――
と、子供心にも分かっているつもりだった。
その感覚は当たらすとも遠からじというところだったに違いない。
番組としては三十分番組で、その中に一回コマーシャルが入るのだが、その間で一つの話になっていて、一日二本の短編形式になっていた。
その話のタイトルまでは覚えていないが、何とか少年だったような気がした。話の中に一人の少年が出てきて、その少年が妖怪なのか主人公なのか、すぐには分からなかった。
話が始まってからすぐに少年がどっちなのかは分かった。主人公と思しき一人の男性が最初に出てきたのだが、その男性は子供ではなく、どうやら木こりのようだった。木こりはいつものように山に入って木を切っていたのだが、そのうちに雨に降ってきた。普段にはないような猛烈な雨で、あれよあれよという間に、土の部分が水溜りと化していた。
「こりゃあ、たまらん」
とばかりに、男は雨宿りの場所を探そうと必死になっている。
前方が見えないほどの激しい雨で、しかも雨の装備などまったくしていなかったので、目を開けることも困難なくらいになっていた。
勝手知ったる山の中とはいえ、さすがに前が見えないまま闇雲に雨宿りの場所を探そうとしたのだから、自分のいる場所が次第にどこなのか分からなくなる。雨は次第に小降りになっていき、視界も晴れてくるようだった。
――どれくらいの時間が経ったのだろう?
まず男は時間のことが気になったようだ。
前が見えるようになってくると、すでに雨宿りの必要がないほどに雨が止んできていた。すると次に感じたのが、
――俺はいったいどこにいるんだろう?
という思いだった。
男はまず、空を見上げる。木々の隙間から空が見えるが、すでに空は晴れていて、雲はほとんどないような状態だった。
「いったい何だったんだ?」
今度は声に出して呟いてみた。
すると、呟いただけのはずなのに、こだまが返ってくるのを感じた。
――よほど空気が透き通っているんだろうな?
とまた独り言を言ったが、男にとって空気が透き通って感じることはそんなに珍しいことではなかった。
今までにも何度か、いきなりのにわか雨に遭遇したことがあり、その時も晴れ上がった空を見上げて、透き通った空気を感じたことがあった。今感じているのは、その時のデジャブであった。
ただ、今までとは明らかに違っていた。
――どこが違っているんだろう?
男は考えてみたが、すぐには分からなかった。
ただ、自分が今どこにいるのか分からないという事実が今までとは違っていることだけは間違いないようだった。
男はとりあえず正面を向いて歩くことにした。少なくともその場所は、男にとって知っているといえる場所ではなかったことに間違いはなかった。
少しずつ歩いていくと、知っているところに出てくるだろうという思いもむなしく、どうも知らないところに迷い込まされているかのように思えた。
――いったいどこに向かっているんだろう?
そのうちにどこかに出てくるのは分かっていたが。そこが自分の知っているところであってほしいと長いながら歩いていたが、実際に残念ながら願いは薄いようだということを自覚していた。
どれくらい歩いたのだろうか? 結構歩いたような気がするのだが、男はなぜか疲れている様子ではなかった。
「こんなに歩いているのに、疲れないなんて」
男はそう呟くと、もう一度空を見上げた。
「えっ?」
男はその時、何かに気がついたようだ。
「同じところをグルグル回っているようだ」
空を見る限り、グルグル回っているという感覚はないはずだった。
ということは、この感覚は男だけのものであり、信憑性の有無に関しては男にしか分からない。ただ、男がそう思ってしまったことで、曖昧だったことが確定してしまったのかも知れない。
男はいったん腰を下ろして休むことにした。
――別に疲れているわけではないのに、腰を下ろすということは、却って疲れを増幅させることになるのではないか?
と男は感じた。
実際にその考えは当たっていた。いったん腰を下ろしてしまったことで再度腰を上げようとすると、今度は身体が重たくて、すぐに動くことができなかった。
――こんなに身体が重たいなんて――
身体の重たさがそう感じさせるのか、それとも身体が固まってしまったかのように動かすことのできないという苛立ちが、重たさに結びついているのかも知れない。
男はさらに進んでいくと、藪のようなものを見つけた。その奥には少し広くなった場所があることを見たこともないくせに分かっているような気がしていた。実際にその場所に行ってみると、その奥には確かに広い場所があるのが分かった。
だが、予期せぬものがそこにはあった。その広っぱの中央に、一本の案山子が立っていたのだ。その案山子は後ろ向きに立っていて、
――よく案山子だって分かったな――
と感じるほどであった。
後ろから見ると一瞬、大きな蓑虫のように見えた。蓑をかぶっていて、少し猫背に見えた。しかしその足は一本の細い木であり、一本の木に蓑が刺さっているかのような光景だった。
男はなぜかそれが後ろから見ているのだとすぐに分かった。その不気味な蓑に、生き物を感じたからだった。恐る恐る前に回ってみると、そこに立っているのは、一人の少年だったのだ。
「これが、少年なんだわ」
と、テレビを見ながらやっとここで少年が出てきたことを知った。
ここで少年が出てきてくれたことで、どこか安心した気持ちになったが、その少年の顔は口が耳まで避けているような恐怖を感じさせる顔だったのに、裕子は恐怖よりもその少年に寂しさを感じさせられたのだ。なぜならその少年が主人公の男を見た時の顔が、ニコリとはしていたが、何とも冷徹に感じられたからだ。
孤独だった自分の前に人間が現れて嬉しいという気持ちと、それまxでずっと表情を変えていなかったので、表情を変えることがどれほど緊張することかということをいまさらながらに思い知らされたのか、引きつった顔になっていたのだ。
「やあ、こんにちは」
少年は男に向かって語りかけた。
男は恐怖で顔が引きつっている。その恐怖というのは得体の知れない少年に出会ったという恐怖というよりも、もっとリアルに少年の引きつった顔が怖かったということになるのだろう。
男も引きつった声で、
「こんにちは」
と声を返した。
一瞬、沈黙の間があったが、最初に口を開いたのは主人公の男の方だった。
「君は何者なんだい?」
といういきなりの核心を掴もうとする質問に少年は、
「僕はここの主とでもいうのかな?」
「ここって、どこからどこまでの?」
「この森全体とでも言おうかな? 僕がここにいることでこの森は僕を主として認めてくれているんだよ」
という少年に対して、
「でも君は歩けないんだろう?」
「ああ、そうだよ。僕はここから歩けない。つまり移動できないのさ。だからここの主ではあるんだけど、この森に拘束されているとも言えるんだ。お互いに持ちつ持たれつというところかな?」
と少年は言いながら笑った。
その表情にはさらなる引きつりを感じさせ、男はもう笑うことができなくなってしまったかのように自分が硬直していることを感じた。
このあたりから、裕子の頭の中で、自分の妄想が重なり合ってしまったのか、どうやら記憶が錯綜しているようだった。それは今思い出している状況の中で、綾子との話を織り交ぜて勝手な妄想が頭を巡っているからなのだろうか。
いや、ひょっとすると、裕子はこの状況の中に自分がいるのを想像しているからではあにかと思った。ただ、そこにいる自分は少年でもなければ、主人公の男でもない。あくまでも表には出てこない黒子のような存在だった。
「こんなところに一人でいて、寂しくないのかい?」
という男の言葉に、
「もう、寂しいなんて感覚なくなっちゃったよ」
と答えたのを聞いて、
「君はいったい、ここにどれくらいいるんだい?」
「そうだなぁ。性格に数えたわけではないから分からないけど、三百年くらいかな?」
「三百年?」
それを聞いて、やはりこの少年は妖怪なのだと気付いた。
「そんなにビックリすることではない。僕の感覚としては、人間の感覚の数ヶ月くらいのものだって思っているんだよ」
「どうして君が人間の感覚が分かるんだい?」
と男が聞くと、
「失礼だな。僕はこれでも人間なんだよ」
と、少年は恐ろしい信じられない言葉を口にした。
「人間が三百年も生きられるわけないじゃないか」
ともっともなことをいい、一瞬しまったと思った。
――この状況で、何をいまさらまともなことを想像しようとしているんだ――
と、思ったからだ。
「君は前は人間だったということ?」
「ああ、そうだよ。そしていつの日にか、もう一度人間に戻れる日を夢見て、ここに立っているのさ」
「元に戻れると?」
「ああ、戻れるよ。でも最近はここまでくれば、元に戻らなくてもいいんじゃないかって思ってもいるんだ。せっかく長生きできているのに、いまさら人間に戻ると、あっという間に死に向かっていくことになるからね」
「君は死にたくないんだ」
と少年は言われて、
「うん、死にたいなんて人間、そんなにいるわけじゃないでしょう。僕はここで森の主になるまでは、どんなことがあっても、不老不死はありがたいものだって思い込んでいたからね」
「今は思わないんですか?」
「前ほどの感覚はなくなりました。死に急ぐことはないけど、死ぬことが怖いことだとは思わなくなったんですよ」
少年は、ここに三百年いるという。しかも少年のままで。ただ、見た目は少年だが、細かいところを見ると、少し褪せているように感じるのはいったいでどうしてであろうか?
「あなたは、僕が年を取っていないことが不思議なんでしょう?」
「ええ、どう見ても少年にしか見えないので、ここに来た時から年を取っていないとしか思えない。あなたは三百年いると言ったけど、三百年という年月から比べれば、人の成長の一年や二年というのは、本当にあっという間のことなんでしょうね」
「そうでしょうね。でもその間に急に年を取ってしまうんですよ。それは肉体的なものもそうなんでしょうけど、精神的にも年を取る。それはきっと人と関わりを持つからなんでしょうね」
と彼に少年は言った。
「あなたは、ずっとここにいて、人と関わってこなかったんだよね?」
と男が言うと、
「そうだよ。ここに誰かが来たのは、僕がここにいるようになって初めてのことだから、三百年ぶりということになる」
「実に奇跡的な確率になるんじゃないかな?」
「そうかも知れませんね」
「でも、君はどうしてそんなに何でも分かるんだい? 人と関わっていないにも関わらず、人間のことを、人間よりも詳しく知っているように思うよ」
男のいう、
――人間よりも――
という言葉を聞いて、少年はどう感じただろう。男は目いっぱいの皮肉を込めて聞いたつもりだった。
「お前は人間なのか? それとも妖怪なのか?」
と聞きたいのはやまやまだったが、そこまでできないのは、まだ彼に人間としての尊厳を感じていたからだろう。
「君は、元に戻らなくてもいいと言ったけど、それは人間に戻りたくないということなのかい? それとも人と関わりたくないという気持ちからなのかい?」
という男の質問に、
「僕は人間なんだよ。でもここにずっといることで、人間ではなくなってしまっている自分を感じる。人間でいたいという気持ちと、人間に戻りたくないという気持ちが交互に表に出てくるようで、その気持ちが堂々巡りを繰り返していることで、時間の感覚もマヒしてしまい、三百年という年月も苦にならなくなってしまったんだよね。でも……」
と、少年は急に口籠ってしまった。
「でも?」
と男が覗き込むように聞くと、少年は少し戸惑いながら、
「三百年ぶりに人に出会うと、自分はやっぱり人間だったんだって思うようになって、木が付けば時間の感覚が戻ってきたような気がしています。その証拠に、最初に感じていたことと今とでは、かなり考えが動揺しているように思えてならないんですよ」
「それは、三百年の間、怯むことのなかった気持ちに、何かの揺らぎが生じたということなのかな?」
「そういうことなのかも知れないですね。僕はここにいる以上、他の人間よりも長く生きてきたことを誇りのように思ってきたんですが、それが自分が寂しく感じないための言い訳のように思っていたんですよ。自分に自信を持ちながら、その自信を裏付けるためには、根拠が必要なので、その根拠が言い訳であっても、それは仕方のないことだと思うようになったんです」
「それは、君に限ったことではないよ。そういう意味では君はやっぱり人間なんだと思うよ。人間以外の何者でもない。むしろ一番人間臭いと言ってもいいかも知れない。僕の知っている人間臭い人というのは、お世辞にも褒められたような人ではないんだけど、僕は嫌いじゃないんだ。だから僕は君のことが好きだし、ここで出会えたのも何かの縁なんだって思うんだ」
その言葉を聞いて、少年は何かを思い出したようだ。
少年は頭をもたげながら、顔に歪みを感じさせた。先ほどまで感じられた自信に溢れていた少年からは想像もつかないような表情である。
「大丈夫かい?」
男は少年をねぎらった。
「ええ、大丈夫です。僕はきっとあなたから見れば、僕がどんなに人間だって言ったとしても、妖怪にしか見えないんでしょうね。だからそんな僕を人間臭いと言ってくれた。その感覚に懐かしさを感じるんです」
「どういうことなんだい?」
「僕がまだ人間だった頃、つまり三百年前の僕も、あなたと同じような気持ちになった時があったんですよ」
「それはいつのことなんだい?」
「ちょうど、僕がここで妖怪になってしまった、その時……」
「えっ?」
少年はそう言うと、男の手を掴んだ。
「何をするんだ?」
急に男の表情に恐怖が浮かぶ。
このあたりから、裕子の妄想は、前に見たテレビの内容に戻ってきた。戻ってくるまでの時間がどれほどのものだったのか、自分でも分かっていない。
急に戻ってきた記憶の中で、裕子は自分が妄想の中にいたことを感じた。
――私はまた――
裕子は過去のことを思い出すたびに、自分の妄想の中にいることが多かったのをいまさらながらに感じた。
裕子は、妄想しやすい女性だったが、そのほとんどが過去の記憶を思い出した時に感じるものだった。懐かしさを感じることで妄想に発展するのかどうかまでは分からなかったが、我に返った時に感じるのは、懐かしさという感覚だった。
テレビの映像はいよいよクライマックスになっていた。どのあたりから自分の妄想に入ってしまったのか、そして自分が介在したのがどこからだったのか、懐かしさを感じた瞬間に忘れてしまう。まるで目が覚めるにしたがって忘れてしまう夢のようだ。
――夢というものが、目が覚めるにしたがって忘れてしまうという感覚があるから、忘れるという感覚がいつでも自分の中にあるかのような錯覚を覚えるのかも知れないわ――
と裕子は感じていた。
テレビの映像でよみがえってきた場面は、男の手を妖怪少年が握った瞬間だった。
「えっ?」
男は完全に虚を突かれてしまい、初めて触った少年の手の感覚に、自分の身体が痺れてくるのを感じているようだった。
本当はどうなのか分からなかったが、映像の効果からなのか、痺れているかのようにしか見えなかった。
痺れの中で、男は自分の意識が遠のいてくるのを感じた。完全に逝ってしまったかのような表情は、あの世を見てきたかのように思えるほどだった。
――どこかに行ってから戻っていきた感覚だわ――
と感じた。
どこかに行ったそのどこかが、その時の裕子には分からなかったが、綾子とあの世や夢の話をした後だったので、今ではあの世だったように思えてならない。そして、テレビを見た時にどこに行ったか分からなかったことで何となく覚えた苛立ちの正体が何だったのか、今は思い出せるような気がした」
テレビ画面は、白い閃光が放たれたかと思うと、元に戻った画面では、男と少年が入れ替わっていた。
――やっぱり――
裕子はこんな結末になるのを分かっていたような気がした。
そして、結末がこれ以外だったとすれば、こんなに後になるまで、この話の記憶を覚えていることはなかっただろう。覚えていようと思っても記憶がそれを許さなかったに違いない。
結末として、他の子供は納得がいくだろうかとも裕子は思った。
――結末がどうであったとしても、その途中の恐怖に満ちた映像は、褪せることはなかったように思うわ――
要するに、結末に到達する前に、この話は終わっていたように感じるのだった。
「結果は最初から決まっているんだよ」
という言葉は、大人になるにしたがって、いろいろな人から話を聞くことがあった。
今までに実感したものとしては、受験があった。
――試験を受ける本番までに、結果は決まっているのかも知れないわ――
と感じた。
試験本番までにどれだけ勉強したかということが一番で、もちろん、本番当日の体調や精神状態も大きなものではあるが、それも準備段階でやるだけのことをやったという自信を持っていれば、揺らぐことのない本番環境を維持することができるに違いないと思うのだった。
それに、囲碁や将棋に凝っている友達がいて、
「将棋も囲碁も、最初に並べた布陣が一番鉄壁な布陣なんだよ」
と聞かされた。
確かに動かなければ何も起きることはない。動いてしまうとチャンスも起これば、ピンチにも陥る。それを思うと、最初から決まっているという話には、自分の中でもかなりの信憑性を感じることができる。
白い閃光に包まれた二人が入れ替わってしまったというのも、最初から分かっていた。むしろそうでなければ、この話の結末として、どんな結果になろうとも苛立ちが残るものだったように感じられて仕方がない。
この思いはきっと裕子だけではなく、他の人も感じることだろう。ただ、どこまで意識して感じることができるかが問題で、その度合いがその人と他人との関わりに比例しているのではないかと思えた。
――いや、反比例かも知れないわ――
裕子はどちらなのか今でも分かっていない。きっとこの結論に関しては、ずっと分からないだろう。そういう意味では、最初から結果が分からないことに関しては、そのほとんどは、ずっと分からないまま推移してしまうことになるのではないかと感じるようになっていた。
綾子はそんな裕子の性格を分かっていて、
――私も同じなんだわ――
と裕子を見て、感じているようだった。
テレビ画面を思い出していると、
「これで、僕は人間に戻れるんだ」
と言って、晴れやかな表情になっている少年がいた。
その表情を見ながら、男は苦虫を噛み潰したような顔をしている。ただ、男としては、悔しいという思いではない。今少年に聞いたような思いを、今度は自分がしなければいけないと感じたからだ。
――やっぱり俺は人間臭い男だったんだな――
そう思い、諦めとは違う何かが男の気持ちの中に芽生えたのを、裕子は妄想していた。
それが男の本心なのかどうか分からなかったが、少なくとも手を繋いだ瞬間に、少年の遺伝子が受け継がれた気がした。
――そうか、これで年を取らないわけが分かった――
そう思ったが、今度は年を取らないことに急に恐怖がこみ上げてきた。やはり諦めがつかないと思ったに違いない。
男が本当に恐怖を感じたのかどうか、画面を見る限りでは分からない。裕子が漠然と考えて、恐怖以外には考えられないと思ったのだ。
――私はテレビとあの時、リンクしていたんだろうか?
と考えたが、これも少年と男が入れ替わった感覚に似ているのではないだろうか?
男と少年が入れ替わったことと、画面を見ながら、勝手に妄想を抱き、まるで自分が男の立場になったかのようになったのは、今から思えば無意識だったはず。それをいまさら思い出させたのは、その時に入れ替わった感覚がまだ残っていて、裕子は何かあるごとに、自分が一本足の妖怪になって、誰かが来るのを待ち望んでいる感覚を味わっていたのかも知れない。
もちろん、それは無意識だったが、そのたびに、
――私は孤独でも、寂しくもないんだ――
と思っていたことだろう。
だからこそ、寂しさは自分には無縁だという根拠も信憑性もないものを信じていたに違いない。
元々、裕子は自分で信じられないものは、誰が何と言おうと信じることのできない人間だった。だから、テレビ画面が頭の中にぐっていて離れないという事実を感じたくないという意識と絡まって、漠然と考えることが無意識に繋がっていると、半ば強引に考えていたに違いない。
裕子はその時、綾子と話をしている間に、このことを思い出して、自分の中の妄想に思い路はせていたはずなのに、綾子はその間、何も言おうとしなかった。裕子を見ながら、綾子はその様子を垣間見ることで、何かを感じていたのだろう。もちろん綾子の本意を裕子が知る由もないし、そもそも綾子が裕子の考えていることが何であるかなど、想像もつくわけはないのだった。
――想像できるとすれば、夢の共有くらいだわ――
夢の中では何でもありなはずがないのに、夢を共有できる相手がいる場合は、夢というものが万能に思えてくるから不思議だった。
裕子は、綾子が孤独というのを想像している間に、子供の頃に戻ってしまい、その頃に見た妖怪少年を思い出していた。その頃には分からなかったことを思い出したつもりだったのだが、実際には子供の頃から、
――大人になったら、こんなことを考えるに違いない――
と思っていたことを思い出したに過ぎないのではないかと思っていた。
孤独という言葉を最初に感じたのは、このアニメを見た時だったように思う。子供だとしても、孤独という言葉は聞いたことがあったが、それがどういう状態なのかということを想像することはできなかった。
――まさか、アニメで感じるなんて――
子供の頃には感じなかったそんな思いを、その時になって初めて感じた。
時系列への感覚がマヒしているという思いは、以前から持っていたが、子供の頃のことを思い出すようになると、余計にそのことに気付かされるようになった。
子供の頃のことを頻繁に思い出すようになったのは綾子と知り合ってからのことだった。時系列への感覚のマヒは、昨日のことよりも去年の今日のことの方がまるで直近のように思い出せるからだった。
たとえば、今日がクリスマスだったとして、昨日のことよりも、去年のクリスマスの方が、まるで昨日のことのように思い出される。なぜかというと、それだけ去年のクリスマスから何も起こっていないということであり、クリスマスの前になれば、他の人と同じように浮き浮きした気分にさせられ、完全に世間のお祭り騒ぎに乗せられているだけだと思いながらも、街に出ればイルミネーション、テレビを見ればクリスマス特集と、いやが上にもクリスマスを煽られる。
そんな状況なのに、実際にクリスマスになると、何が起こるというわけではない。人に言わせると、
「クリスマスのために、日ごろから努力をしているのよ。事前準備を怠らなかった人の勝ちなのよ」
と言われる。
つまりは、
――その日を迎えるまでに、結果はすべて見えていた――
ということだ、
それこそ受験と同じではないか。
――待てよ――
さっきも同じようなことを考えていたのではないか?
裕子はどういうシチュエーションでそれを感じたのか忘れてしまっていたが、確かに受験を想像したのを思い出した。
――想像というのは、巡ってくるものなのね――
と自覚した、
裕子は、綾子にあの世という発想では負けたくないと思っていた。
裕子は自分が孤独だと最初に感じたのは、アニメを見ていた時だったが、それは綾子とは違う感覚だったと思う。人それぞれに発想の違いがあるのは分かっているが、裕子はあの世の発想だけは負けたくなかった、なぜそんなに綾子に対抗意識を燃やすのか分からなかったが、少なくとも綾子はあの世の発想を地獄を中心に考えているのは間違いないようだ。
――じゃあ、私はどっちなんだろう?
と、天国を思い浮かべてみた。
――あれ? 天国って、どんなだったっけ?
裕子は天国の想像が急にできなくなってしまったようだ。
綾子の発想では、釈迦のいる場所で、そのほとりには蓮の花が咲いているといっていた。それは裕子も同じ発想だった。裕子も綾子も、天国も地獄もほぼ同じ発想をしていたのを話しながら感じていた。
しかし、
「私は、皆と同じ発想をしたくないの」
と綾子は言っていた。
「それは私も同じなのよ。だから、いろいろな天国や地獄を思い浮かべてみたんだけど、どうしても無理なの」
と裕子は言った。
それに対して綾子の意見は、
「私も同じなのよ。でも最近、何となくどうしてなのか分かってきたような気がするのよ」
と綾子の言った言葉に、裕子は少し不安を感じた。なぜなら、綾子が今言おうとしている言葉は、裕子が考えているのと同じことだと思えてならなかったからだ。
「どういうこと?」
と、裕子は分からないふりをして聞いてみたが、
「どうやら裕子には分かっているようだけど、それは、天国と地獄を創造しようとして、それぞれ自分たちが意識している世界以外というのは、孤独以外の何者でもないと思うのよ」
という綾子の言葉に、裕子は一瞬後ずさりした。
――やっぱり――
考えていることは同じだった。
裕子はそれでも口を挟んだ。
「私は孤独を悪いことだとは思っていないんだけど、孤独が果てしなく奥の深いものだって思っているの。それが恐怖であるんだけど、それでも悪いことだって思わないのよ。だから、天国と地獄という両極端な究極の発想には、孤独を絡ませたくないの。綾子も分かっているようね」
と、裕子の方が今度は挑発的になっていた。
「そうね。孤独というのは、果てしないもので、果てしないものを究極の発想に結びつけることは、永遠に解くことのできない問題に挑戦するようなものだからね。私にはとってもできないわ」
と綾子が言った。
「でも、それは臆病だからできないわけではなくて、ただ、天国と地獄には孤独なんて存在していないと思いたいだけなのよね。本当の孤独は他に存在していると綾子は考えているんじゃないの?」
「ええ、天国と地獄以外に、もう一つ究極の存在があるんじゃないかって思うのよ」
「それがさっき話していた宇宙に通じるものなの?」
「ええ、そうよ。宇宙って果てしないものじゃない。孤独の果てしなさは宇宙の果てしなさい。そして宇宙は今のこの世界とも直結していると思うのね」
「じゃあ、あの世と呼ばれている天国と地獄とは直結していないの?」
「いいえ、私は直結していると思うわ。裕子もそうでしょう?」
綾子に言われると、ウソには聞こえない。
もっとも、同じ発想は裕子も持っていて、綾子と同じ内容のものに違いない。
「宇宙って昔は天体が回っていると思われていたでしょう? でも今は地球が回っているといわれている。世の中の常識が覆った瞬間があったんだけど、そのためにたくさんの人の犠牲から成り立ったものよね。そもそも天体が回っているという発想も、すべてが自分たちが中心であり、それはまわりのことを何も知らなかったという発想と、世の中を統治していくための洗脳の道具としてのプロパガンダが、そこに存在しているからなのよね」
と綾子が言うと、
「言ってしまえばそういうことになるんでしょうけど、味気ない発想にしかならないのは、どうにもやるせない気分だわ」
と裕子がいう。
裕子は自分で言いながら、
――この発想は、元々自分の方がいつもしていた発想なのに――
と感じた。
相手がいくら綾子だとしても、自分のキャラクターを奪われた気分になると、癪に障った。
ここから先、綾子の発想が暴走し始めるのだが、裕子にはそこまでまだ想像もしていなかった。
――綾子って、時々いきなり奇抜な発想になって、手がつけられなくなるわ――
と感じていたが、これも虫の知らせのようなものだったに違いない。
裕子はそんな綾子を頼もしく思いことがあった。普段から自分が裕子の話の「つっこみ担当」のように思っていたが、それも相手を頼もしく思っていないとできないことだ。
だが、本当は「つっこみ担当」よりも「ボケ担当」の方が、相手を信用していないとできないことだ。そう思うと、頼もしく思うことと、相手を信用することとでは正反対の感情なのかも知れないとも感じられた。
「そういえば、裕子は生まれ変わったら何になりたいって考えたことはなかった?」
綾子からすれば、「まとも」な質問だった。
――こんな質問、綾子らしくない――
と思ったが、改めて言われると、考えてしまった裕子だった。
「そうね、考えたことはなかったわ。たぶん、人間に生まれ変わるって思っていたからなのかも知れないわね」
と裕子が言うと、
「それは、今私が唐突に質問したから、そう答えたんじゃない? ひょっとすると、裕子は普段は生まれ変わるという発想すらないんじゃないの?」
と言われて、裕子はハッとした。
――誘導尋問に引っかかってしまったのかしら?
と考えたが、これこそいわゆる、
――バーナム効果――
というものなのかも知れない。
バーナム効果というのは、誰もが当て嵌まるような質問をして、あたかもそれが自分だけのことのように思うことで、相手の会話の術中に嵌ってしまうことを言うのだが、これは一種のマインドコントロールのようなものとして例に出されることが多い。
――まさかここで綾子にバーナム効果を仕掛けられるとは――
と裕子は考えたが、実際には裕子の考えすぎだった。
綾子は裕子を誘導するという発想までは持っていたが、バーナム効果を引き出すことになるなど思ってもいなかった。もっとも綾子の中には、裕子に対してバーナム効果など通用しないという思いがあったようだ。無意識ではあるが、結果的にはバーナム効果というのは、裕子の考えすぎだった。
今までの二人の関係性は、こんなところにも現れている。
綾子は裕子を何らかの発想の元に、自分の発想へ誘導しようとしているところはあったようだ。しかし、だからと言って、マインドコントロールのようなものがあるわけではなく、せめて考えていることとしては、
――裕子は、私が想像していることの反論を述べてくれたり、付加価値をつけてくれることで、私の発想がどんどん膨らんでくれると嬉しい――
と考えていた。
天国と地獄の話、そして、そこから派生するあの世の話、そこに関連しての生まれ変わりや輪廻転生の話、さらに結びついてくる感情としての、孤独や果てしなさという思い。その中で綾子と裕子は自分の発想を膨らませていくのだった。
「そういう綾子は、何かに生まれ変わるとは思っていないの?」
ささやかな抵抗を裕子も試みた。
なるべく気にしていないように質問したが、すべては綾子の手のひらの上で踊らされているという思いが消えるわけではなかった。
「私は生まれ変わると思っている。ただ、それは人間に限らない。人間が人間にしか生まれ変わらないという発想は、私の中にはないのよ」
「どうして?」
「生まれ変わるということは、完全に全盛をリセットするということでしょう? もし生まれ変わった人が、前世の記憶が少しでも残っているとすればどうかしら?」
綾子の発想は、
――女心――
を感じさせるような気がした。
「そこには孤独という発想が出てくるのかも知れないわね。前世も記憶が残っていたりなんかしたら、自分だけがそこに存在していて、誰にも出会うことのできない自分が、他人の中で意識だけを持ち続けるわけでしょう?」
「じゃあ、生まれ変わった人がまた人間に生まれ変わったら、三世代前からの記憶を保持しているということになるわよね」
「そうね、これって何の罰なのかって思いたくなる。肉体はまったく違う人になっていて、しかも、その人の人生なんだから、自分にはどうすることもできない。生まれ変わってなんかほしくないって思うわよね」
裕子はそれを聞いて、
――そっか、私が死んだら生まれ変わりたくないと無意識に感じていたのは、この思いがあるからなのかも知れないわ――
そう思うと、またしても思い出したのは、三百年も同じ場所に立って、死ぬことも老いることもできずに果てしない孤独と、誰かが身代わりになってくれるのを待ち続けなければいけないという希望なのか、それとも強制された義務への恐怖なのか、まったく正反対の意識が同居する果てしない時間と空間を過ごしている自分を想像してしまう。
「あともう一つ考えていることがあるの」
と綾子はどんどんいろいろな発想を口にしてくる。
「まだ何かあるの? これだけでも発想が落ち着かない様子なのに」
と裕子がいうと、
「私も思い出したことを口にしてしまわないと、永遠に思い出すことができないような気がして、どうしようもない気分なのよ」
と言った。
「それはどういうものなの?」
「この世では、動物によって過ごす時間が違っているじゃない。あの世ではどうなのかなって感じるのよ」
とまたしてもさらに漠然とした発想だった。
――どこがさっきの話に結びついてくるの?
と感じたが、無理に結びつけることはないと思った。
「この世では動物によって寿命が違っているわよね。人間は五十年以上生きるけど、イヌとかは十五年くらいが寿命だったりするわよね」
「そうだよね。動物によっては二週間ほどしか生きられない動物もいたりする。セミなんて、成虫になってから、二週間程度というから、本当に短いわよね」
という綾子の言葉を聞いて、裕子は子供の頃に見た妖怪少年が三百年一つの場所で誰かがやってくるのを待っていたのを思い出した。
「でも、闇雲に生きるだけというのも、どうなのかって思うわ」
「動物にはそれぞれに寿命というのがあって、本当はそのっ寿命をまっとうするのが本当は一番なんだろうけど、実際には寿命をまっとうできる人の数は少ないのかも知れないわね。特に弱肉強食の動物の世界では、獲物になってしまっては寿命どころではないですよね」
「人間だってそうよね。特に人間は戦争などで殺しあうという行為に及ぶものね。他の動物にはありえないことよね」
「なまじ知能を持つと、欲が生まれたりして、欲の達成のためにはまわりの人の命など、どうでもいいという感覚になる場合もあるのかも知れないわ」
「戦争という究極の精神状態に陥ると、そうなるのかも知れないわね。明日は我が身だという言葉があるけど、本当にリアルに感じれば、理性なんて吹っ飛んでしまうんじゃないかしら?」
「悲しい話よね」
「でも、それが本能だったり本性だったりするのだったら、それも人間の真実なのよ。他の動物が弱肉強食なら、人間の世界でも弱肉強食が生まれたとしても、それはそれで仕方のないことじゃないかしら?」
二人はしばらく沈黙していた。
「また話が戻るんだけど、あの世って一口に言うけど、本当にあの世があるとすれば、いくつ存在しているのかしらね?」
と綾子が言い出した。
「そうね。そもそもこの世と呼ばれているのも、今ここにいるのがこの世だから、この世って言っているだけで、他の世界から見ればあの世になるのよね」
と裕子が言った。
「その通りよ。その発想は面白いと思うわ。その発想こそが人間の発想なのよ。たとえば私たち人間と他のものとを比較する時、必ず差別化した表現になるでしょう?」
「というと?」
「たとえば、地球人と宇宙人よね。SFや特撮では、何とか星人っていうでしょう? それに宇宙人も自分たちのことを、『○○星雲からやってきた○○星人だ』なんて言い方をするわよね。でも、ある特撮映画を見た時に、『何をかしこまっているんだい? 地球人だって宇宙人の一種じゃないか』と相手の宇宙人に言われているシーンがあって、それが印象的だったわ」
「特撮やSFを考えると面白いわよね。地球人は皆名前で呼び合うのに、何とか星人同士が名前で呼び合っているところを見たことがないわ。そもそも名前なんて概念があるのかしら?」
「それを言い出せば、日本語をしゃべっていること自体おかしいのよ。それにもっと面白いと思うのは、侵略に来る宇宙人というのは、一人でやってくることが多いでしょう? 中には円盤群をよこすところもあるけどね、でもほとんどは一人でやってきて、ウルトラマンのようないh-ローにやっつけられると、すぐに侵略をやめてしまう。長年地球を研究してきて、やっと侵略に来るというのに、一人がやられただけで簡単に侵略を諦めるというのも腑に落ちないと思わない?」
綾子の発想は独特だが、裕子にも何が言いたいのか分かった気がした。
「これは宇宙人に限ったことではないわよね。他の動物に関しても同じことが言える。人間は他の動物と違って、言葉がしゃべれるし、考えることができる。だから、特殊な種族なんでしょうけど、動物は動物なのよ。それなのに、人間以外の動物を動物と言って、人間は人間という。動物ではないかのような言い方になっていることで、地球上の代表のように感じる。だからさっきの宇宙人の発想にもなるのかも知れないけどね」
裕子も日頃感じている疑問や発想を、綾子が話題にしてくれた気がした。綾子も自分なりに考えていたのだろうが、裕子と話すことで、さらなる発想の展開に思いをはせているのかも知れない。
「そういう意味でも、この世と呼ばれている世界も、あの世という広い範囲では、あの世の一種なのかも知れないと思うの。だから、今私たちは生きているというイメージでいるけど、死んだらどこに行くかというだけの違いで、今と同じ世界がどこかに広がっているのかも知れないわ」
と綾子が言った。
「それって、生まれ変わる人もいるということかしら?」
「そうね、死んだ人がその瞬間、またこの世で生まれ変わるパターンもあるかも知れないわね。いや、その可能性は高いのかも知れない。あの世と呼ばれる世界がどれだけあるかということにもよるのかも知れないけど」
綾子の発想に裕子はまたしても別のことを考えていた。
「じゃあ、あの世とこの世を結ぶ道があるとして、その間の道はどれくらいの長さなのかしらね?」
と裕子がいうと、
「その発想は面白いわね。ひょっとすると、天文学的な数字だったりするかも知れない。この世で死んで、すぐに生まれ変わるわけではなく、何十年も後に、あるいは何百年も後に生まれ変わることだってあると考えられるわよね。それは、いったんこの世から離れることで、またここに戻ってくるまでの道が遠いからなのかも知れない。そう思うと、死んでしまうと皆それぞれの世を結ぶ道に入り込んで、いつ先にある世界に出られるかで、生まれ変わりが決まってくるのかも知れないわね」
と綾子が言った。
「でも、これはあくまでも『生まれ変わり』というのが前提の発想よね。生まれ変わることができない人だっているかも知れない。その人はどうなるのかしら?」
裕子の質問に、
「生まれ変わることができない人は、この世に未練があって、死ぬことができないんじゃないかしら? いえ、肉体は死んでしまっているんだけど精神は生きていて、この世を彷徨っているというような発想になるんじゃないかしら」
と綾子が言った。
その答えを聞いて裕子は少しガッカリした。
――綾子らしくない答えだわ――
と思ったが、
――綾子がこんな教科書的な発想をするということは、この発想には何かアンタッチャブルな部分があって、綾子にその発想をする隙を与えなかったとも考えられるわ――
裕子は、自分でも考えすぎではないかと思ったが、裕子自身、この発想に関しては確かにさっきまであれだけ飛躍した発想ができていたのに、急に発想する力が衰えたように思った。
それが今まで発想しすぎたことで、ちょうど今になって冷却期間が訪れたということで、それがたまたま、
――死んだ人がこの世を彷徨うことで生まれ変わることができなかったんだ――
という発想になったとも考えられなくもない。
ただ、生まれ変わることができないという発想は、さっきまで考えていた話の大前提を覆す新たな発想だっただけに、どちらともいえないのではないかと思うと、
――この世はあくまでもこの世であって、あの世とは違った発想になるのも仕方のないことだ――
とも考えられるような気がした。
「人間の自己顕示欲が生んだのがあの世とこの世という世界の境界だと思っていたんだけど、そうやって生まれ変われなかった人の発想を考えると、自己顕示欲というのも、必要なのかも知れないと思うわ」
と裕子は言ったが、それに対して綾子も気持ちが同じなのか、何度も頷いていた。
「さっき話した孤独という考え方なんだけど、私は生まれ変わることができなかった人が一番の孤独を感じているんじゃないかって思うの」
と裕子は続けた。
「それは、あの世に行けなかったことで、一人がこの世を彷徨っているということ?」
「ええ、この世を彷徨っている人がどれだけいるのか分からないけど、その人たちはそれぞれに彷徨っている世界が違うと思うの。彷徨いながらお互いのことを知らない。だから、この世を彷徨っているのは自分だけなんだって思い込んでいるんじゃないかな?」
「面白い発想だと思うわ。そう考えると一番の孤独を抱えていることになるからね。でも、その人は一度死んでいるんだから、その次はどうなるのかしらね? 永遠にこの世を彷徨い続けることになるのかしら?」
と裕子がいうと、
「きっとほとんどの人はそう思うんでしょうね」
と、綾子は答えた。
「綾子は違った考えを持っているようね」
「ええ、少し違うわ。私はこの世に永遠なんて言葉は存在しないと思っているの。もっというと、あの世と呼ばれている世界とこの世と呼ばれている世界の違いはそこにあると思うの。あの世と呼ばれる世界がいくつあるのか分からない。でも、私が考えてこの世は一つしかないわよね。つまり永遠が存在できないのがこの世であり、それ以外はすべてあの世ということになると思うの」
「この世が一つしかないというのは、綾子の発想では、あくまでも今見ている世界からということね?」
「ええ、だからあの世と呼ばれるところにいる人は、その世界をこの世だと思っていて、そのこの世には永遠が存在しないの。つまり限界があるのよね。そしてその世界もその人にとっては一つしかない。そう思うと、あの世とこの世とは背中合わせの世界のように感じるのよね」
「なるほど、限界があるからこの世だと思うと、自分の存在意義もおぼろげに分かってくるかも知れないと思えるわね」
「じゃあ、この世とあの世の間には結界が存在し、それがこの世の限界であり、永遠を否定することになるという考え方ね」
「そういうことなの」
話題を振るのはいつも綾子だったが、途中から発想を変えて、最後に結論めいた場所に辿り着くのは、裕子の発想だという構図が、二人の間に出来上がっていた。
「また話が戻るけど、あの世では、動物ごとに時間が違っているのかしら?」
と綾子が言った。
「あの世では永遠が存在しているのだとすれば、そこに時間という概念があるのかどうかも不思議な気がするんだけど?」
「そうでもないわよ。永遠が存在するからといって、時間の概念がないというのは少し違うと思うの。逆に時間の概念があるから、その概念を超越した発想から、永遠という言葉が存在しているのかも知れない。ただ、私はあの世では、動物の垣根を越えて話ができるじゃないかって思うの。話ができることで、今まで知らなかったことを相手に教えてもらえる。ひょっとすると、あの世で人間は下等動物の一種なのかも知れない。この世では言葉がしゃべれないことを下等動物の証明のように考えているんだろうけど、言葉がしゃべれることで、他の動物の地位は十分に価値のあるものとなっているのよ」
という綾子の話を聞いて、
「まさかと思うけど、あの世では人間は言葉がしゃべれないのかも知れないわね」
と裕子が答えた。
「それは言えるかも? 完全に立場が逆だと思うと、あの世で人間は何を考えているのかしらね?」
「何も考えていないんじゃない? ただ本能だけで生きているような、この世で感じている動物のようなものなのかも知れないわよ」
「ひょっとすると、前世のことを覚えていないのは、生まれ変わる前の世界では自分の中に記憶もないかのような世界にいるからなのかも知れないわ。生まれ変わる時に記憶を誰かに消されるのではなく、消さなくても記憶は最初から存在しないと思うと、そっちの方が信憑性も説得力もあるんじゃないかって思うの」
またしても、裕子の発想は突出していた。
「裕子も結構破天荒な発想するわよね」
と綾子が関心していると、
「それは会話の相手が綾子だからよ。相手が他の人だったり、一人で勝手な妄想をしているだけなら、こんな発想生まれっこない。他の人と話をしていると限界を感じるだろうし、一人で妄想していると、まったく違った方へ向かっていて、暴走しているかも知れない。でも綾子と話をしていると私は暴走しそうになると、綾子が止めてくれるような気がして気が楽になるのよ」
と裕子がいうと、
「そうかしら? 私も一緒に暴走するかも知れないわよ」
という綾子に、
「その時はその時。暴走の中から何かが生まれて、行き着くところに行くことで、何となく鞘に収まっているような気がするの。それが私と綾子の関係なのかも知れないわね」
と言って裕子は笑った。
それを見て綾子も微笑んだが、その気持ちは、
――あなたと一緒よ――
と言っているのと同じだった。
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