2章 訣別――標なき旅路


「ねぇカイリ、本当に私にしか見えてないの?」


「らしいな。このとおり…他の奴らは見向きもしねぇし」


 菖蒲の部屋の縁側に腰掛けて、カイリは菖蒲お手製の胡桃餅を頬張っている。

 どうしてもカイリと並んで食べたくて使用人の目を盗んで夜半に台所に忍び込み、試行錯誤の末に完成した渾身の自信作だ。


「美味いな、これ」


「本当? ありがとう。ねえカイリ、こうして並んで座っていると、何だか私たちって、秘密の友達みたいよね」


「友達?」


 嬉しそうに笑う菖蒲に、カイリはどこか意地悪そうな笑みを浮かべた。

 含んだ感情の意味を教えてやる気はないが、友とは案外悪くないものなのだという深い感慨が、胸中にゆっくり沈んでいく。


「あら、違うの? 毎日訪ねてくれるのは」


「友達か…。案外、そうなのかもな」


「そうよ」


 目元を和ませるカイリの傍らで、菖蒲も花咲く様に笑う。

 それがなんとも可愛らしくて、カイリはわざと突き放すような口調になった。


「お前なあ、それは強引っていうんだ」


「いいの~」


「よくねえ…。おいアヤメ、誰か来るぞ?」


 母屋から離れていても届く雑で乱暴な足取りに、菖浦は渋面を浮かべる。

 傲慢で乱暴な振る舞いをする人間など、この家に一人しかいない。父親だ。


「父上だわ。ごめんなさいカイリ、少しここにいて」


 菖蒲はそそくさと縁側を立つと伴って立ち上がったカイリを奥の自室に隠し、静かにしているよう言つけて雪見障子を閉めた。

 しかし、基本的にカイリ自身は縁を結んだ者以外の目には映らないのである。


(まあ、どちらにせよ目に映んねえんだが。心配だから行くか…)


 ―――ばちん!


「!!」


 何食わぬ顔でアヤメの部屋を出て堂々と回廊を歩いていたカイリの耳朶を、裂帛した衝撃波が打った。

 何事だろうかと反射的に発生源を覗き込むと、頬を赤く腫らせたアヤメが廊下の中ほどに座り込んでいた。

 殴られたのは明白で、添えた手の下からのぞく頬は痛々しく赤い。


「アヤメ?!」


 思わず駆け寄れば、菖浦はくしゃりと苦笑を浮かべて目を細める。

 黙っていろ、と音もなく言ってきつく引き結んだ唇には血が滲んでいた。


「いい加減にしろ、この恩知らず! どこまで儂の面目を潰せば気が済むのだ!」


 アヤメは、横座りにくずおれた格好のまま、打たれた頬をそのままに己が父をうらみをもって睨みつけている。

 怯えた素振りもなく、毅然とする娘の態度に気を悪くしたのだろう。睨み付ける眼光は、飢えた獣のようだった。


「面目! 体面! 責任!? そんなのあたしには関係ない。縛られるなんて真っ平なのっ。それに、好いてもいない男となんか同じ空気を吸いたくもない!」


「もういい! 親に向かってよくもそんな口を……この恩知らず。まったくお前には失望した、どこへなり好きな場所に行くがいい。家督は妹に譲る代わりに、お前には金輪際、我が家の敷居は跨がせんからな!」


「望むところよ!」


「…っ、顔も見たくない。すぐに、荷物をまとめて出ていけっ!」


 荒々しく床板を踏み鳴らしながら部屋を出ていった菖浦の父親の背を見送って、カイリは踞ったままの菖蒲の腕を引いた。


「娘の顔を殴るなんて、非道い親がいるもんだ。立てるか?」


「ごめんなさい…ね? みっともない所見せちゃった。私って、やっぱりダメな子」


「気にすんな。それより、本当にここを出るのか?」


「あんな啖呵きってしまったもの…そうするしかないわね。ねえカイリ、貴方に初めて会った日のことを、覚えているかしら」


「ああ」


「あの日はね、父の得意先の子息とのお見合いだったの。いわゆる政略結婚の段取りね。あんなもの、壊れてくれて清々したわ。それにね、いつか、こうしようとは思っていたから…案外平気よ」


 鞄に着物を詰めながら、菖蒲は思い詰めた微笑を浮かべた。

 今にも泣き崩れそうな、危うい感情が結んだ縁を通って伝わってくる。


「それが平気って顔かよ、バカめ」


「バカで結構よ。…でも、もうこの部屋ともお別れなのは寂しいなぁ」


 幼い頃から慣れ親しんだ家具、そして部屋から見える庭の景色。それら凡てに篭る思い出を、いま手離してしまった。

 声もなく静かな涙を流す彼女を、カイリはただ見つめることしかできず横を向いて苦い顔をする。

 カイリは少なからず、この少女を気に入っていた。おかしな意味合いにではなく、一人の人間として全うに評価している。


「ついてこい。一人ではどうにもならんだろ?」


「心配してくれるんだ」


 含みありげな問いに、カイリは背中を向けたまま憮然と言い返す。


「…ちょっと、気になっただけだ」


 下手な詮索や慰めは、却って彼女を傷つけるだろう。冷たいくらいが、丁度いいのだ。


「…優しいのね。うん…一緒にいこう」


 差し出された大きな手を、菖浦の柔手が強く握りしめた。

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