02

「黄昏に雨かい。ますます陰気だ。クチが開いたか…」


「くち…?」


「そうだ。ホラお前にも見えるだろう、あれが」


「!」


指差す方角に目を向けた菖蒲は、その異様さに小さく息を詰めた。薄闇の降りた往来には人通りはなく、その代わりに往来を行くのは形のない影や、異形のものばかりだったのだ。


「静かに、静かにな。……声出すなよ? 通り過ぎるまで息潜めてろ」


小刻みに何度も頷く菖蒲に『よし』と残して、カイリは懐から宝珠を取り出した。

とろりとした青い色の宝珠は、見るからに触れると心地良さそうな気分を抱かせる。

とんとん、と軽く手首を叩く菖浦に、カイリは結界を張ると囁いて笑った。


「奴らに知れたら、ただじゃ済まねぇからな。水結界…縛咒」


彼の投げた宝珠は菖蒲を内へ封じ込めると、その体積を増す。つまり、菖蒲の背丈分だけ宝珠が巨大化したのだった。

堅固な水結界は、完全に菖蒲の存在を覆い隠す。


「なにこれっ……水の中なのに、私…息ができてる」


それに、人間と変わらぬ様子で町を歩いている異形の者は何なのだろう。

それらと親しげに話す彼は、一体何者なんだろう。


【大正】の新しい年号になった現在いまとなっては、そんなあやふやで不確かな旅人だなんてとんと見なくなったというのに。


よく考えてみれば、それも可笑しな話だ。

ふい、菖蒲の脳裏にとある言葉が浮かんで消えていく。

陰と陽の間から生じし者達は人心を惑わせ、魂を喰らうという“人ならざる者”アヤカシ。


「カイリ、貴方まさか…」


呆気にとられた菖蒲の口から1つ、水泡が浮かび上がる。束の間、ふわりと風が頬を撫でたのを感じた菖蒲は封が解けたのを悟った。

さっきまで異形が闊歩していた薄暮の往来には、家路を急ぐ人々が忙しなく行き交っている。


「もういいぞ。どうした? 青い顔して」


「カイリ、貴方…もしかして、人間じゃないのかしら?」


小刻みに震える菖浦の姿を認めたカイリは、ふむと一人合点した。

初めてかどうかは知らないが、似て非なる者を見た彼女は、おそれをいだいたのだろう。

 

「何か怖がらせちまったみたいだな。だが人の姿をしているから『人間』とは限らんものだ。俺は人と妖、その間あわいに棲む者さ」


「だから、雨にも濡れていないの?」


雨脚は弱まったものの、雨はまだ完全に止んではいない。木陰から離れて佇むカイリは、雨の中で浮き上がって見えた。


「そうだ。悪いことは言わねぇ、早く帰るといい」


「まさか、女一人に夜道を行かせるつもり?」


肩越しに振り向いた菖蒲の目は、確かな怒りをその色に露していた。


(……また、物好きもいるもんだ……)


怯えていたかと思いきや、掌を返すように気丈に振る舞う彼女の気骨をみたカイリは、密かに心中で感心した。

 

「仕方ねぇ…。送るが、俺は人の家にゃ入れねぇから、入口までだぞ」


「ありがとう、優しいのね」


「お前……表裏ありすぎ」


「女って、こういうものなのよ」


「そうか?」


なにやら満面の黒い笑みを浮かべる菖蒲に、カイリは肩を竦めた。



「おや、ここにいたかい。お茶が入ったよ」


 菖蒲は庭の大桜の枝に座っていたカイリを見つけて手招きする。


「雨に当たる、中入ってろよ」


「これ位、なんでもないよ。あんたが来るまで動かん」


「やれやれ、仕方ねぇ頑固だ。分かったから中に入れ」


―――カイリ、早く中に入ろうよ!


 傘を掲げて呼ぶ彼女に、ふわりと少女の面影が重なった。


(アヤメ…)


「あんたは、昔のまんまだ。変わんないねぇ」


 茶碗から湯気の立つ茶を啜りつつ、菖蒲はしみじみと呟く。その声には寂しさが滲んでいた。


「こういうモンだしな」


「そろそろ、あんたが掛けた『魔法』が切れる頃だ。覚えているかい? あの約束」


「ああ…覚えているとも」


 遠く雨に煙る曇天を見つめながら、カイリはゆっくりと溜息をついた。



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