第10話 違和感という意識
千鶴は時々、
――自分が二人いるのではないか?
という思いを抱くようになっていた。
この思いは、浩平と同じ天井が割れる夢を見て、天井から自分が覗いているのを見てから、ずっと頭の中にあったことだった。
――でも、そんなバカなことがあるわけないわよね――
と、自分に言い聞かせているのも事実で、実は浩平も、もう一人の自分がどこかにいるのだということを感じているなど、思いもしなかった。
浩平の方も、同じようにもう一人の自分を夢の中で感じていたのだが、それが夢だけではなく、夢と現実の狭間が存在していて、そこに落ち込んでいるのではないかということを自分で納得させたいと思っていた。
夢と現実の狭間は、一日の中にあると思っていた。その入り口が夕凪の時間なのではないかと思っているのだが、その根拠が、モノクロに見えるという事実である。
実際にモノクロだという意識はないにも関わらず、モノクロに見えるという意識もない。
さらに一日の中にあるという思いは、もう一人の自分と、今の自分が時々入れ替わっているのではないかと思うことがあった。堂々巡りを繰り返しているような気がするのは、そのせいである。
入れ替わるには、もう一人の自分がいる世界と、定期的に窓口を解放する必要があり、一日のうちの数分であれば、ちょうどいいのではないかと思えてきた。
――案外、時間帯というのは、必要に応じて、決まったサイクルになっているのかも知れないな――
と、浩平は感じていた。
千鶴も夕凪の時間を意識していた。
夕方の時間、風のない時間が存在し、交通事故が多いということまでは意識していたが、モノクロという意識まではなかった。
魔物に会う時間としての「逢魔が時」という言葉は知っていたが、
――不気味な時間帯――
という意識を与える要素になっていることだけを感じていた。
夕凪の時間になってから、足元から伸びる影から、目を離すことができなくなってしまうのではないかという恐怖を感じていた。そのために、なるべく足元を見ないようにして歩いているつもりだったが、気が付けば足元を見ながら歩いている自分に気付いてビックリさせられることがある。
その時間帯が本当に夕凪の時間だったのかどうか、ハッキリと分からない。
千鶴にとって、夕凪の時間帯は、漠然としたものだった。
――風の吹かない時間――
としての意識はあったが、モノクロを意識しているわけではない。モノクロに見えているかどうか分からなくても、浩平には夕凪の時間の最初と最後は意識できるようになっていたのに比べて、千鶴には、いつが夕凪の始まりで、いつが夕凪の終わりなのか、ほとんど理解できないでいた。
――気が付けば、日が暮れていた――
ということも少なくない。もっとも、夕凪を意識しようという時は珍しく、ほとんどが、何も考えずに夕日が西の空に沈んでいることが多かったのだ。
夕日が沈んでしまってからの方が、意識はしっかりしている。夕凪を意識することがなくても、夕方は身体がだるくなる時間帯だということを、今までもずっと意識してきていた。
千鶴が夕方になって、身体にだるさを感じるのは夏の間だけだと思っていたのは、子供の頃のことだった。元々、夏よりも冬の方が好きで、
「夏は、暑さで意識が朦朧とすることがあるから、嫌いなの」
と、夏が苦手な浩平と同じだった。
浩平の場合、同じ夏が苦手であっても、若干理由が違っている。
「夏は、汗を掻いてしまい、そのせいで、身体がだるくなるから嫌なんだ」
と、言っていた。汗が身体の体温を奪ってしまうことが原因だということを、浩平は分かっているようだ。
浩平は子供の頃、家族で海水浴に出かけた時、帰って来たら必ず発熱していた。一度発熱してしまうと、汗を掻いて気持ち悪いというイメージと重なってしまい、海水浴の時以外でも、汗を掻いて身体に重たさを感じた時、
――また、熱が出てくるかも知れない――
という意識を感じ、気分が悪くなってしまうことが多かった。それこそまるで、「パブロフの犬状態」だと言えるだろう。
夕凪の時間が、どんなに涼しい時間であっても、その時間には汗が滲んでいた。もちろん、夕凪を意識した時は当然なのだが、意識していない時でも、汗が滲んでくると、
――夕凪の時間だ――
と、発汗作用から、逆に時間帯を意識してしまうこともあった。
――夕凪の時間帯とは、風が吹かない時間帯――
という認識は、後になって知ったことだ。それまでは、海水浴の時の身体のだるさが汗を掻かせているものだと思っていた。その影響が一番強いのは当然のことだが、夕凪の時間帯は風が吹かない時間帯だという認識も大いに、浩平の意識の中に強くあった。
喫茶「アムール」で、浩平に対して、
「友達の妹に会ってほしい」
と言った千鶴は、明らかに普段の千鶴とは違っていた。
どこが違うかというと、漠然としてしか分からないが、浩平以外の人であれば、普段の千鶴と違っているということすら、分からないに違いない。
――千鶴が、人に会ってほしいなど言うのもおかしい気がする――
普段、大人しい千鶴が浩平の前でだけ饒舌なのを、浩平は嬉しく思っていたが、それでも、千鶴が「自分のこと」を訴えようとしているから、可愛らしさがあった。
普段、大人しく感情を内に籠めているので、内に籠めている感情を素直に出せる相手が浩平なのだ。だから、千鶴が饒舌で、しかも訴えるようなことを口にするのは、自分のことでしかないと思っていた。
確かに、友達の妹の存在は、話を聞いているだけでは、気持ち悪い存在のように感じられた。それを千鶴も分かっていて、気持ち悪い存在という意識を浩平の中から排除したいと思っているのかも知れない。
だが、訴えているのは、自分のこととしてではなく、
――あくまで相手のことを考えているんだ――
と言いたげであった。
浩平から見れば、どこか言い訳がましいところがあり、あまり好感の持てるイメージではない。
もし、相手のことを考えていたとしても、それを言い訳がましく口にする千鶴ではなかった。それは、
「千鶴が自分のこととして、訴えている姿勢が見られれば、素直な千鶴を見ることができる」
と考えているからであろう。
千鶴にとって、友達の妹の存在がどういうものかは分からないが、浩平にとっての千鶴とは、
――少なくとも、自分の前では素直な自分を出すことができる――
というイメージなのだ。
喫茶「アムール」で、、浩平と二人きり。言葉にすれば、いつもと同じであり、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、実際に映像として見てみると、明らかに違う雰囲気を醸し出していた。
その時、浩平は夢の中にいるような感覚に陥っていた。自分の目が自分の身体から離れ、第三者として、二人が鎮座している姿を眺めていることで感じたものだった。
見る距離もきっと微妙なのだろう。
遠すぎるとハッキリと見えてこない。当たり前のことだ。しかし、近すぎると、今度は感情が入り込んでしまい、偏見や思い込みが頭の中から離れなくなってしまうだろう。
浩平自身が、自分の身体から離れたことで、自分がどんな態度を取るのか分からない。千鶴の態度よりも、自分の対応の方が気になってしまうのも仕方がないことだ。
だが、第三者のように見てみると、いつもの千鶴と違っているのが、分かってきたような気がする。
それは浩平が二人だけの空間しか見えていなかったからで、そうさせているのは、明らかにいつもと違う千鶴の態度にあった。
しかし、千鶴の態度を見ているうちに、
――二人とも、まるで抜け殻のようだ――
と思うようになった。
そう思って見ていると、二人の空間が、何か薄いシートに包まれているように思えてならなかった。
――他の人には見えないようにしているのだろうか?
実際にはその空間には誰もいなくて、身体を離れたことによって見えているように思っているのかも知れない。
浩平自身がいるのは間違いない。ただ、そこに千鶴が本当にいるのかどうか疑わしく感じられた。
そう思って見ていると、自分が、一点しか見ていないことを今さらならが思い知らされた。
まわりを気にして見ていると、もう一つの目が、二人を捉えているのを感じた。その目は浩平の視線よりも鋭いような気がする。その視線が千鶴であることに気付くまで、しばらく時間がかかった。千鶴の視線にこんな鋭いものがあったなど、今まで感じたこともなかったからである。
「千鶴?」
目だけしかないのに、声が出るわけもない。もう一つの目は、浩平が見つめていることなど知る由もなく、二人を見ていた。
――そもそも、その目に見えているのは、目だけになった俺と同じものなのだろうか?
という疑問が浮かんでいた。
それは、目の前にいる千鶴を、目だけになった千鶴が捉えているかどうかということでもある。
浩平は、自分の身体から目が離れてくるような感覚を感じていた。だから、目の前にいる自分が抜け殻のように感じたのだ。しかし、千鶴の場合は訴えようとしている自分に抜け殻を感じることができるかが疑問である。
もう一人自分がいるのではないかと千鶴が感じたことを浩平は知らないが、千鶴も同じように目だけになっている自分を感じているのかどうかを考えていた。
もし感じていたとしても、自分が目だけになっているという意識はないかも知れない。第三者として見ている目は、浩平のように、
――夢の中での感覚――
として捉えているとすれば、それをもう一人の自分として結びつけるまでは至っていないに違いない。
浩平は、今自分の前に鎮座している千鶴をいつもの千鶴と思っていない。
――もう一人の千鶴――
として見ている。
――これは夢なのかも知れない――
と、思えば、そのまま目が覚めたはずだ。そして、目を覚ましてしまえば、その時考えたことがすべて消えてしまうであろう。
最近の浩平は、いろいろなことを考えすぎる。それも昔の記憶がすべて影響している。記憶が交錯してしまっていることが分かっていて、交錯してしまったことで、記憶が過大に印象深い記憶としてよみがえってきているのかも知れない。
自分の横で目だけになって二人を見ている千鶴を感じた時、千鶴がもう一人の自分の存在を意識しているのかも知れないと思った。すべてが自分の勝手な妄想であるにも関わらず、その中でちょっとした意識の違いが大きな感覚の違いに感じられる。
千鶴の目を意識したのも、子供の頃に行った博物館の天井が割れて、千鶴の場合そこに自分の顔を感じたという記憶が、意識として、浩平の中に生まれたに違いなかった。
そこまで考えてくると、浩平に、不安や恐怖、孤独という感覚はマヒしてきた。妄想として浮かんだだけのことで、夢がいつかは覚めるように、妄想にも限界があるはずで、堂々巡りを繰り返してしまうのではないかと思った。
――ひょっとして、この間、二人が会えなかったのは、それぞれもう一人の自分が出会ってしまったために、会えなかったと錯覚したのかも知れない――
それは、まるで今日浩平がいつもと違う千鶴と会っているのと同じ感覚だ。
――これは妄想なんだ――
と、どこかで感じてしまったことで、お互いに夢から覚めたように、記憶から消されてしまったのかも知れない。
いや、記憶から消されたわけではなく、記憶の奥に封印されたというべきであろうか。しかも、封印された記憶を引き出すことはできない。なぜなら、引き出した記憶は、見えない力で操作されていて、捻じれた記憶として封印されているのだと思っているからだ。
――思い出してはいけない記憶――
を封印するには、捻じれた記憶として、本人にも誰にも分からない「暗号化」がなされているという考え方もできるのではないだろうか。
浩平は、捻じれた記憶の中で、千鶴がお姫様になっているのを感じていた。
浩平はお嬢さんを思い出していた。西洋館の屋敷に連れて行ってもらい。お姉さんが来れなくなって寂しいと言っていたお嬢さんである。
千鶴が言っていた友達の妹というのが、その時のお嬢さんなのではないかと思ったのだ。
今日、浩平の前にいる千鶴は、先日喫茶「アルプス」にいた千鶴だった。あの時久しぶりに喫茶「アルプス」を訪れていたと思っていたが、今日、喫茶「アルプス」にいる千鶴は、
――この店に来たのは、久しぶりだわ――
と思っている。
喫茶「アルプス」に入る前は、先日来たという意識があったはずなのに、久しぶりに来たとう意識になったのは、今日、喫茶「アルプス」にいる千鶴は、
――第三者の目――
を持っている千鶴なのかも知れない。
千鶴に限らず浩平も、時々何かのタイミングで、もう一人の自分と入れ替わっているのだ。そのことを理解できていなかっただろう。
鏡のような媒体を通してでなければ見ることのできない自分の顔のように、もう一人の自分と会うということは不可能なのかも知れない。
――だが、そのことを意識できてしまうとどうなのだろう?
鏡を見るのが怖くなってきた。後ろにもし、自分が映っていたら、後ろを振り向くことができなくなり、鏡に映っているもう一人の自分から目が離せなくなるだろう。鏡にうつぃっているもう一人の自分は、微動だにしない。こちらを見ながらニヤリと笑っているだけだ。
微動だにしないくせに、その表情は微妙に変わっていく。不気味な表情からは、奇声が聞こえてきそうだ。
そういえば、夢で見た「カリオス文明」の中で、いつも千鶴は鏡を見ていたような気がする。一日に何回も鏡を見ていて、誰かを探していたように思った。
――もう一人の自分の存在に気付いていて、その人を探していたのかな?
と思いながら、さらに考えてみると、
「カリオス文明」の人たちは、皆、もう一人の自分の存在を知っていた。知っているからこそ、巨大な文明を築き上げることができたのだ。そのことを千鶴は夢の中で知った。もう一人の自分が、自分の存在をアピールするために見せたのであろうか?
昔から鏡は神聖なものであったり、悪魔を呼ぶものだと言われてきたり、賛否両論いろいろある。三種の神器などは、神聖なものとして奉っているのだろうが、神社に奉納されているものなどは、妖気が乗り移っていたりして、
「鏡の中から髪の毛の妖怪が現れると……」
などという昔話を聞いたこともあった。
西洋の童話でも、鏡に映った自分よりも綺麗な女性に、魔法を掛ける魔女の話があったりと、恐怖を煽るものの代表のように言われるのも鏡だったりする。
――やはり、鏡は正直なのかも知れない――
と、千鶴は感じた。
隠しておきたいものであっても、必ず真実を映し出すという意味で、本人が一番知っている相手でありながら、まわりには知られたくない相手でもある。ただ、一番よく分かっているだけに、うまく使えば「カリオス文明」のように、大きく栄えることもできる。しかしそれは諸刃の剣でもある。一歩間違えると、自らを滅ぼしてしまう危険性が一番高い。もう一人の自分の存在を知っていたとしても、そこまでの危険性を意識しているかどうかが問題で、一人がしている時は、もう一人の方は、まったく心配をしていない。あくまでも光と影の関係なのだ。
千鶴は、過去に戻る夢をよく見る。それは自分の過去に限ったことではなく、見たこともない場所に置き去りにされてしまった感覚を味わうことになるのだが、それが過去だということを最近は疑うようになっていた。
景色が昔の風景なので過去のように思うだけで、本当は未来なのかも知れないと感じるのだ。
――時間も堂々巡りを繰り返している――
そこには時系列というものが存在しているのだろうか、もし堂々巡りを繰り返しているとすれば、どういう単位で繰り返しているのだろうか?
一日単位なのか、一か月単位なのか、それとも一年単位なのか? あるいは、一時間なのかも知れない。
しかし。時間や日にちの単位というのは、どこまで精神的なものに影響を与えているというのだろう?
一日という単位は、地球の自転であり、一年は太陽を回る周期である。大昔、
「それでも地球は回っている」
という言葉を迷信としていた時代に、一年という単位は存在していた。何か知らない力が働いていて、一年という単位に説得力を持たせていたのかも知れない。堂々巡りが力として存在している証拠ではないだろうか?
過去の夢の中で、同じ日を繰り返した夢を見たこともあった。この夢が最近見た夢の中で一番怖かったかも知れない。
夢の中で、もう一人の自分を見つけた気がした。それは、午前零時になった瞬間、前の日に戻ってしまう時に感じたのだ。
もう一人の自分だけが、先の日に行ってしまった。過去に戻る瞬間に見えた自分の背中は、触ることができそうなのに、絶対に触ることのできないという、まるで果てしなく広がっている雲一つな青空に手を伸ばしているかのようだった。
そんな時に思い出すのが、人口太陽のあった博物館の、空が割れた夢だった。その時にもう一人の自分が空から覗いていたのを感じたが、その一方で、空から見下ろしている自分の視線も感じたのだ。
一度に両方を感じることは普通はできない。しかし、その時に限っては感じられた。
――だから夢だと分かったのかも知れない――
と、千鶴は感じたのだ。
その時に違和感があったのを、千鶴はずっと気にしていた。その違和感がどこから来るのか、しばし忘れていたが、「カリオス文明」を思い出すと、また気になってきたのだった。
どうやら、浩平には千鶴が何かの違和感に包まれていることは分かっているようだったが、その違和感がどこから来る者なのか、分かっていななかったのである。
千鶴が違和感を感じる時、いつも浩平を意識している。
――浩平も分かっていることなのかしら?
浩平が分かっていることであれば、千鶴にも分かるのではないかと思っていた。浩平も同じことを感じているようで、
「俺は何か違和感があった時、千鶴が分かっていると思うと、俺にもすぐに気付くんじゃないかって思うんだ。だから、俺が違和感を感じて、それがどこから来るかすぐにピンとくるようなら、それは千鶴にも分かっていることだって思うようにしているんだ」
と、言っていたことがあった。
他の話のついでだったので、あまり深く話を聞いていなかったが、千鶴の意識と同じものなので、その都度思い出すことができる。それが、千鶴と浩平の関係の中でも大きな部分を占めているのではないかと、千鶴は感じていた。
千鶴がその時に感じた違和感は、天井が割れて、一度ガラスのように粉々に飛び散った破片が。最後はテープの逆回しを見るかのように、元に戻ったことだった。
特撮映画などではよく使われることなので、違和感を感じる人と感じない人、それぞれなのだろう。浩平が違和感がないとすれば、
――映画のスクリーンを見ているようだ――
と思うからだ。
千鶴も最初はそう思って見ていたが、どうにも釈然としない。確かにありえないことではあるが、それを言うなら、天井が割れて、そこに人の顔が映っているというのもおかしな話だ。
おかしな話をまともに見ようとすると、神経もまともでは見れないだろう。
――これは夢なのだ――
と割り切っているから見れるというもので、その中で特撮の映像で見たことを再度見たとしても、マヒした感覚の中では別に違和感を感じることもない。
だとすると、違和感は目の前に見えていることを、そのまま解釈することで感じるものではない。
――では一体何なの?
千鶴は考える。
子供の頃にもあったような気がする。
違和感は感じるが、それがどこから来るものなのか分からない。
――違和感って、元々目の前に展開される映像をまともに見て解釈するだけでは、決して感じるものではないのかも知れないわ――
と感じるようになったのはいつからだったのだろう?
子供の頃は、目の前に映ることは、ほとんどが初めて見るものだ。それが正しいのか、おかしなものなのか分からない。交通事故を目撃したりした時のように、考えるよりも先に強烈な印象を植え付けられた時などは、大きな違和感が生まれるかも知れない。
しかも、違和感など、そうしょっちゅう感じるものではない。たまにしか感じないから違和感なのだ。
だからこそ、強烈さは十分なのだ。
小学生の低学年の頃の千鶴は、目の前に見えていることであっても、自分が納得できないことを承服できるほど素直な子ではなかった。
それは自分が一番分かっている。
学校で、
「一足す一は二です」
と教えられる。算数の基礎中の基礎だ。そこからすべてのことが始まるのだから、ここを分かっていなければ、算数に入っていくことすらできない。しかし、千鶴は、
「どうしてそうなるんですか?」
と、先生に詰め寄る。
詰め寄られた先生も困惑する。
「そういう風になっているんだ」
としか答えられないだろう。
もっとも、これは先生だけではなく、
――そう思うことが理解することだ――
と、誰もが無意識に感じていることだろう。だから、誰も疑問を感じることなく、入っていけるのだ。最初に疑問を感じるか感じないかということが、本当に重要なことなのであろう。
違和感という言葉は、こういうことをいうのだ。
最初に理解できるかできないかで、納得できないまま入り込んでいくと、違和感があっても、それを違和感として捉えられない人になってしまう。
感覚がマヒしてしまっているのだろうが、マヒしてしまった感覚を、マヒしないようにすることができるのだろうか?
もちろん、人それぞれなのだろうが、千鶴としては、ほとんど無理なのではないかと思っている。常に疑問ばかりを考えているのもどうかと思うが、
――疑問なくして、納得などありえない――
感覚がマヒしている人に、納得という観念すらないかも知れない。言葉では分かっていて、
「自分はすべてを納得しているのよ」
と、言ってみたところで、それはしょせん、絵に描いた餅のようなもので、説得力もあったものではない。
千鶴は算数という学問に最初から挫折してしまった。納得できないものを理解しろというのは無理なことだった。
それが小学校二年生の頃のことだったのだが、五年生になる頃には、算数が好きで好きでたまらなくなった。
何かのきっかけがあり、
「一足す一が二」
を納得したのだ。
納得すれば、算数ほど楽しい学問はない。なぜなら、
――算数とは、答えさえ合っていれば、途中はどんな解き方をしてもいい。しかも、その解き方が学問としては重要なのだ――
ということを理解したからである。
答えも解き方も一つでは。これほど面白くない学問はない。
――納得できない――
と言っても過言ではないが、千鶴は決まった答えをいかに導き出すかということに面白さを感じた。
――それこそが学問なのだ――
という考えが、自分の中にある学問という概念をすべて納得させてくれたのだ。
それから千鶴は勉強が好きになった。
「勉強は裏切らない。やればやるほど、点数に反映してくるから」
と思った。
だが、進学すればその考えが甘いことに気付かされた。
自分一人で勉強している時はいいのだが、まわりと比較されるようになると、そうもいかない。
特に進学校に入学すると、まわりのレベルは以前に比べて上がっている。それだけ試験も難しくなり、今まで勉強すればするほど点数に反映していたが、難しい問題では、どうしても点数が上がらない。
それも分かっていたはずのことなのに、そこに身を置くと戸惑ってしまう。無理してでもレベルの高いところに入ったのが間違いだったのだが、それも人それぞれである。
まわりを絶えず意識して、まわりと競うことを勉強のやりがいだと思っている人には、これほどの環境はないだろう。
「自分のレベルを確かめることができるというのは、私には天職のようなものだわ」
と、平気で言っている人もいた。
――こんな人たちと私は鎬を削るなど、できっこないわ――
と、千鶴は思っていた。
それでも何とか頑張っていたが、成績は下がる一方、待っているのは挫折だけだった。
どうすれば楽になることができるかを考えていくと、結局、何も考えないのが一番である。人は、
「逃げているだけだ」
と言うかも知れないが、自分にはそれしかなかった。
もちろん、まわりからは、
――逃げているだけの生徒――
というレッテルを貼られることだろう。その頃に、千鶴の中から、違和感というものが消えていた。
それは、小学生低学年の頃の、算数に納得できなかった自分とはまったく違う。大人になってからの感覚のマヒには、
――挫折――
という言葉が重くのしかかってくるからだった。
千鶴が天井の割れるのを感じた博物館を訪れたのは、自分に自信を持っていた時期だった。
あの頃は考えれば考えるほど、納得することができ、勉強すればするほど、成績に現れていた。
――世の中、こんなに面白いことはない――
と思っていた頃だったのかも知れない。
妄想をすることがあっても、その頃は狭い範囲だった。
妄想する必要がなかったからで、普通に考えることがそのまますべて納得できるのだから、そこに妄想の入り込む余地はなかった。
しかし、夢というのは妄想するものだ。千鶴は自分の見る夢が結構強い妄想であることは分かっていた。だが、夢なのだからそれでいいと思っている。夢でなければ妄想する必要もないのだから、夢くらいなら、妄想することを許そうという自分中心の考え方だったのだ。
天井が割れる発想ももちろん妄想だ。
千鶴にはセンセーショナルな発想で、すぐにそれが夢だということが分かった。
夢ではあまり何も考えていないように思っていた。
――どうせ想定外のことを見ているのだから、何かを考えたとしても、それはすべて妄想の中に吸収されて、起きてから覚えていることでもないんだわ――
と感じていたからだ。
では、一体天井が割れることのどこに違和感があるというのだろうか?
千鶴は、夢を思い出そうとしていた。子供の頃に見たかなり古い記憶、しかも、それが夢と言う妄想の世界のことだ。
――逆に古いことでも、妄想なら思い出せるのではないか?
そう考えたが、まんざら間違いでもないようだ。夢というものに、時系列の概念が元々ないのだ。古い記憶をまるで昨日のことのように思い出すことだってあるではないか。そう思うと、千鶴の記憶は夢の中に入って行っているように感じた。
夢の中で、再度あの時の記憶が思い出された。
まず最初に感じた屋上のスペース。最初は、
――何て狭いスペースなんだろう?
という思いだった。何が狭い感覚を与えているのか分からない。狭さの概念は、目の前に映っている光景全体のことなのか、それとも、屋上のスペースだけのものなのか分からなかった。思わず逆さから見てみたいという衝動に駆られたが、さすがに皆のいる前ではできなかった。
どうしてそう思ったかというと、前に田舎道を歩いている時、高い山が目の前に見えていた。思わず逆さから見たその時、あれだけ山が高く感じられ、空が圧迫されているような意識があったのに、逆さから見ると、山は全体の二割くらいにしか見えなかった。
――逆さから見ると、こんなに見え方が違うんだ。これって、やっぱり錯覚なのかな?
と思った。
確かに錯覚なのだが、それだけ普段から視線が空を「無視」しているという証拠なのかも知れない。無視しているという意識がないのは、
――あって当然――
という意識があるからだ。
それこそ、感覚のマヒとは言えないだろうか?
――なかったら、どうなる?
などという発想が浮かぶことはない。それはまるで、
――心臓は動いていて当然なんだ――
というのと似ている。動いていることすら意識することがない。もちろん、止まってしまうなど、想像する人もいないだろう。当たり前に感じ、納得するという以前の問題になるのだ。
問題意識すらないものに対して、その時は違和感があった。だから、人工太陽という話を聞いた時に、すぐに空を感じ、違和感が空にあることを、無意識に意識したのかも知れない。
そして、いよいよ違和感に包まれる瞬間が訪れた。
天井が割れた時は意識はなかった。だが、夢ならそこで終わっていいはずだ。一番大きなインスピレーションを受けた時で終わるのが夢だと思っているからだ。
それなのに、夢はさらに続いた。
割れた天井の欠片を意識していて、その欠片が、逆回しに戻っていったのだ。そこで、目は覚めていた。
すると違和感は、天井が戻った時である。これを違和感とすぐに感じなかったのは。
――あって当然――
という空への意識からなのだろうか?
いや、それだと納得がいかない。千鶴は自分を納得させるために、今考えている。
――何が違和感なのか?
ということを……。
そして千鶴は違和感の正体を発見した。それが、
――モノには、元に戻ろうとする習性がある――
ということだったのだ。
そう思った時、千鶴の中で何か大きなものが納得できたような気がした。やはり、違和感というのはいつ起こっても不思議のないもので、感覚がマヒしていることは、もっとたくさんあるのではないかということを違和感と同時に感じているのだった……。
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