第9話 もう一人の自分と夕凪
浩平が子供の頃の思い出を懐かしく思っていた頃、千鶴は喫茶「アルプス」に通うようになっていた。
「私は、あなたのお友達の妹なんです」
と告白された。
――やはり――
と千鶴は思ったが、このことは誰にも言ってはいけないことなのだと思っていた。同じ時間に、もう一人の千鶴が、喫茶「アムール」で浩平に、
「友達の妹に会ってほしい」
などということを言っているなど、まったく思いもしなかった。
もう一人の自分が存在していることは、何となく分かっていた。浩平の態度が自分の知っている浩平ではない時があることを分かっていたからだ。
――浩平にもう一人の彼がいるのか、自分がもう一人存在しているのかのどちらかなのかも知れない――
信じられないことだが、そう思えば、いろいろなことが解決してくるように思えた。もちろん、この間待ち合わせをした時に、浩平から、
「時間までに行ったのに、君は帰っていたんだ」
と言われたのを聞いた時だ。
ただ、同じ場所で待ち合わせていたのに、もう一人の相手と会う約束をしていて会えなかったということは、もう一人の自分、あるいは千鶴が存在している世界は、今の世界ではないのだろうと思う。
――捻じれた世界――
というと大げさであるが、二人の間に、何か見えない力が働いていると思うと、不安や恐怖が襲ってくるのも分からなくもない。
それなのに、そこまで怖いという感覚はないのだ。
子供の頃から、絶えず、不安や恐怖に怯えていたような気がする。その思いが、今の自分の感覚をマヒさせているのかも知れない。
――今さら、恐怖や不安に怯えてどうするというのだ?
夢とも現実ともつかない感覚が、漠然としたものとして、浩平の中に存在しているのだった。
――あの時のお嬢さんが、今訪れている、不安と恐怖を和らげる効果をもたらしてくれたのかも知れない――
実際に、彼女の存在自体が、本当にまったく知らない人だったのかどうかというのも疑問である。
――知らなくても、どこかで深く関わっている相手なのかも知れないと思うと、それを運命の悪戯という一言で片づけていいものかどうかだな――
と考えていた。
もし、彼女と、あの時の運転手が、自分の守護神のようなもので、守ってくれているのだとすると、自分の知らないところで千鶴と会っている「もう一人の自分」は、どういう存在なのだろう? 守護神のようなものであれば嬉しいのだが、それを知るすべを、一番近い存在でありながら、会うことは許されない自分に、分かるのであろうか? そう思うと、やはり、不安と恐怖は拭い去ることは、そう簡単にできるものではない。
浩平は、自分が時々会っている千鶴が、幼馴染として知っている千鶴なのかということに疑いを持つようになっていた。
考え始めると、堂々巡りを繰り返しているのか、それとも、果てしない迷路に迷い込んでしまったのか、気が付けば、また同じところに戻ってきている。
今まで千鶴と待ち合わせて、判で押したように、千鶴が約束の三十分前、そして浩平が十五分前に現れるのは、「お約束」の展開だった。
それをまったく不思議に思わず、この十五分の違いを当たり前のように感じ、もっと真剣に考えてこなかったことが、十五分という時間の溝から、何か不安と恐怖を煽るものに結びついたのではないかと思えた。
十五分という時間、浩平にはあまり意識はなかった。だが、それを教えてくれたのが千鶴だったのだが、それは翌日になってからのことだった。
翌日、千鶴といつものように待ち合わせをした。同じように千鶴が三十分前、浩平が十五分前に、喫茶「アムール」に現れた。
店には相変わらず誰もいなかった。千鶴は浩平を待っている間、マガジンラックから雑誌を持ってきて読んでいた。その本は、文明に関しての本で、千鶴は「カリオス文明」の項目を興味深げに読んでいた。
浩平が店に入ってきたのは、その時だった。
「もう十五分経ったのね」
と、千鶴は浩平の顔を見て、すぐにそう言った。挨拶もそこそこだっただけに、浩平もその言葉に共感を覚えていた。
「早いと感じるか、遅いと感じるか、微妙な時間なのかも知れないね」
もし、千鶴から、最初に十五分の話を持ちかけられなければ、十五分が微妙な時間だったなどと、想像することもなかったであろう。
「私、子供の頃、浩平の後ろをいつも歩いていた時、十五分、浩平より早く前を歩いていれば、ちょうどいいかも知れないと思ったことがあったの?」
「それはどういう意味だい?」
「ほとんど同じ時間だったら、すぐに追いつかれちゃうでしょう? 十五分くらい前を歩いていれば、私の姿は見えるはずもない。だから、安心して浩平の前を歩けるって思ったの」
「それにしても、十五分は長すぎるだろう?」
「私も最初はそう思ったんだけど、十分だったら、私が振り向いてから、身構えるまでに間に合わないのよ。だから十五分なの」
なるほど、先を歩いている人間は、前しか見えていない。後ろを振り向いて体制を整えるまでにはどうしても、さらに時間が必要だ。それが十五分ということなのだろうか?
浩平は、その十五分を、夕凪の時間だと思っている。
最近、千鶴と待ち合わせをする時に、やけに夕凪を意識するようになったからだ。
――でも、そんなに毎日意識しているわけではないはずなのに、いつも意識しているように感じるのは、それだけ頻繁に待ち合わせをしていると思っているからなのかも知れない――
以前に比べれば、千鶴との待ち合わせは頻繁ではない。千鶴と待ち合わせをする時は、必ず何か目的がなければいけないと思うようになっていた。
浩平は、夕凪の時間帯が、本当に今の世界なのか、疑問に感じることがあった。
――普段と違ってモノクロに見えるのが夕凪の時間帯――
だというではないか。
テレビドラマなどでもモノクロ映像というと、昔の倉庫から引っ張り出してきた昔の映像を思わせ、知らない世界をより不気味にさせる。
色がついていないだけに、想像を掻きたてるのだが、血の色でも、真っ赤な血の色よりも、モノクロで映し出された方が気持ち悪く感じることがある。それだけカラー映像に見慣れているせいなのかも知れないが、
――人間の想像力には限界がない――
と感じさせるところが、モノクロの力でもある。
風がない時間帯という意識は、夕凪の定義としては持っていても、実際に夕凪の時間帯に遭遇すれば、風がないと気付くことは稀だった。
風がないことに気付いた時は、その日何か特殊なことが起こるという意識があった。
先日のように、
――千鶴がいないかも知れない――
とまでハッキリとしたことは分からなかったが、
――何か普段と違ったことが起こるかも知れない――
という意識に繋がる何かがあったのだ。
さすがに、「逢魔が時」と言われるほど、読んで字の如しで、魔物に会う時間帯と言われるだけに、不気味さが不安と恐怖を呼ぶのだ。
浩平は、その二つに、さらに孤独というキーワードが含まれているのではないかと最近感じるようになった。
孤独は浩平に現れるものではなく、千鶴に現れるものだった。いつも一人で大人しくしているというイメージをまわりの人が持っていると感じていることで、
――俺は千鶴に孤独を感じていない――
と思っていたはずなのに、千鶴に夕凪をかぶせてイメージしたことで、すでに孤独を重ね合わせて見てしまっていることに、今さらながらに気が付いた。
夕凪の時間帯というものは、どうしても昔の記憶を思い起こさせる作用があるようだ。
――初めて見るはずなのに、以前にどこかで見たような気がする――
いわゆるデジャブと言われる現象であるが、デジャブといわれる現象は、実際に自分で見た記憶と言っても、実はどこかで絵画を見たり、映像を見たもので、自分が行ったものとして記憶されたものなのかも知れない。
そこには、
――行ってみたい――
という願望が、
――行ったことがある――
という錯覚を招くことで、記憶の中の辻褄を合わせようとする現象なのかも知れない。
デジャブという現象が、頭の中で何かの効果を生んでいると感じた時、夕凪の時間帯が、ただ、不安と恐怖を掻きたてるだけではないような気がしてきたのは、気のせいであろうか?
千鶴を見ていて感じた孤独、夕凪にも感じられたことで千鶴に孤独を感じたのか、それとも、千鶴に孤独を感じることで、夕凪に孤独を感じることを意識させられたのか、曖昧であるが、切っても切り離せない関係になることは、忘れてはならない事実のように思える。
夕凪に未来を想像してみたことがあった。
自分が親になって、帰宅途中のある日のこと、自分を迎えに来ようとしている子供と、同じ道を歩いていたはずなのに、会うことができずに、自分は帰宅していて、子供は駅に着いてしまった。
お互いに見つけることができなかったことで、
「どこの道を通ったんだ?」
と聞いても、やはり同じ道を通っているのだ。
しかも、二人とも同じ人に出くわしていて、その人も、
「ああ、二人とも見かけたよ」
と、その人の言葉は、二人が同じ道を通ったことを示していた。
それなのに、出会うことができなかったのである。
父親である自分は、
「こんな不思議なことがあるものか」
と言って、信じられないということを、家族の前で必死に訴えるが、息子の方は、キョトンとしている。
「別にいいじゃない。ただ合わなかっただけだよ」
「合わなかった? 会えなかったじゃなくて?」
「ああ、そうだよ? 合わなかったんだ。お互いに相性がその時合わなかったから、会えなかった。それだけのことだよ」
「おい、おかしなことを言うね。同じ道を歩いているんだから、会えないはずはないんだけどな」
「会えなかったとは一言も言ってないよ。会えてはいるのさ。ただ、相性が合わなかっただけだよ」
話をそれ以上しても、平行線を辿るだけだ。
「分かった。少しお父さんも考えてみよう」
そう言って、考えてみた。
「そういえば、今までにも会いたいと思って、同じ道を歩いていたはずなのに会えなかった人もいたような気がする」
息子の話を聞いて思い出してみると、確かにそんな記憶もあったような気がする。しかし、どうして思い出せなかったのか、自分でも分からない。その時はそれほど大変なことだとは思わなかったのだろうか?
いや、これも一種のデジャブに近いものがあるような気がする。
――一度も行ったことがないのに、行ったような気がする。そして、一度も感じたこともないのに、感じたことがあるような気がする。同じようなことではないか――
夢を見るにも何かの教訓が必要だとすれば、まさに、この夢には「デジャブ」の応用型の様相が含まれている。
――結論から、先に考えて、小説のストーリーが生まれたような感じだな――
小説を読むことを趣味にしている浩平らしい考え方だ。ただその中で、夕凪の時間に限定しているというのは、それだけ夕凪を恐れているからでもあるのだ。
さらにこの夢には、続きがあって、自分の息子だと思っていた相手は、実は自分だったということである。本当は息子の方が夢を見ている自分で、頭の中で考えている親は、夢が作り出した虚栄であった。
息子は自分の潜在意識が作り出した夢なので、ある程度、
――何でもあり――
が夢なのだと思っていた。
それでも潜在意識の範囲内であることに変わりはなく、デジャブと夕凪を日ごろから意識していることで、このような夢を作り上げたのだろう。
――それにしても、俺もなかなかすごい発想をするものだ――
と、感じていた。夢というものが、現実世界と違って、想像していることを形にできるので、それだけ想像の中の限界を超えることができるのだろう。
想像の中の限界とは、言わずと知れた「堂々巡り」であり、
――堂々巡りをするから、現実世界なんだ――
と、浩平は感じたのだった。
夢はいつの間にか覚めていて、気が付けば、汗をぐっしょり掻いていた。
夢であったことにホッとした自分もいるのだが、最初から夢だと分かっていたような気もする。
それこそ、自分の中の意識の限界を、現実世界の自分が知っているからではないだろうか。
浩平は夢と現実の狭間で彷徨っていた自分を意識したことがある。それがその時だったような気がするのだが、それもデジャブの夢を見たという意識があるからなのかも知れない。
夕凪の時間というと、身体にだるさを感じる時が多かった。道を歩いていて感じるのは、自分も知らない時代のことだった。それは、テレビで見た四十年代あたりの光景であろうか。まだまだ子供は外で遊ぶというのが当たり前だった頃の記憶が頭の中に残っていた。
――親の世代くらいかな?
親が見ていた記憶が子供に遺伝するなどという話は聞いたことはないが、印象に残っていることが、子供に遺伝しないというのは却って不思議な気がする。
もっとも、
――遺伝のタブー――
として、意識の限界を形成しているのだとすれば、納得しないわけにはいかないだろうが、きっと、誰もそのことについて疑ってみたことがないので、暗黙の了解として、
――遺伝しないんだ――
と言われたとしても、誰も疑うことはないだろう。
意識しないことも、何かの力が働いているとすれば、例えば、自分のことであっても、母親のお腹の中にいた記憶が残っている人が一人もいないというのも、何かの力が働いているのかも知れない。
生まれ落ちてから、最初に見たものを親だと思う動物がいるが、生まれ落ちるまでの記憶があるかと言えば、きっとないのだろうと思う。
母親の胎内というのは、表の世界とは次元が違っているのかも知れない。
表に出てくれば、呼吸も食事もすべて自分でやらなければいけない。確かに親に手伝ってもらっているとはいえ、胎内にいる時のように、へその緒から栄養を吸収できるわけではない。意識がなくても、生きられるのが、母親の胎内というものだ。
へその緒から吸収できるものが、本人の意識の外であるとすれば、親からの意識の遺伝もないと考えて不思議はない。やはり
――遺伝のタブー――
なのだろうか?
ただ、夕凪の時間の記憶というのは、やはり親の記憶を引き継いでいるような気がする。時代的にも親の子供時代の世界であることに違いはないのだ。
子供の頃、学校が終わって帰り道で、夕日を背中に浴びながら帰っていると、表で遊んだりしたわけでもないのに、身体にだるさという違和感があった。
休み時間に、表で遊ぶことがあまりなかったのに、身体にだるさだけが残っているのは、最初は違和感があったが、次第にそれが当たり前のように感じてくると、帰り道にある土手に座って、しばし、河原を見ていることがあった。
そんな日は、急いで帰っても、何もする気が起こらないと思っていた日だった。テレビゲームをするでもなし、テレビを見るでもなし、ましてや、帰ってすぐに宿題を片づける気になど、なるはずもなかった。
河原の向こうには、マンションが立ち並んでいるが、親が子供の頃に見た光景では、きっと工場が建っていて、煙突から空に吸い込まれるような灰色の煙がモクモクと立ち上っているのを想像できた。
――煙って、どうなっていくんだろう?
そんなことを考えていると、自分が親の世代の子供に戻って、妄想を膨らませていた。
空が煙を吸収している。大きな雲になって、空全体を覆わんばかりの薄暗さなのだが、煙はそれでも容赦なく、空に侵入していく。
侵入された空は、それ以上色を濃くするわけでもない。最初からどす黒くて。色が変わることはない。浩平はそう思った時、
――早起きして、煙が舞い上がる前の空を見てみたい――
と思って、妄想の中で、早起きをして、いつもの河原に出かけていた。
しかし、見える景色はまったく変わらなかった。どす黒い色の空は、いつの時間に行っても同じことで、煙を吸い込もうが吸い込まない時間帯であろうが、まったく変わらないのだ。
――時代が進歩して、煙を吹き出すことがなくなったとしても、空の色は変わらないんだ――
と思った。
そこで我に返って、もう一度空を見ると、やはりどす黒い雲が浮かんでいる。目の前に工場などなく、あるのは、マンションだけなのだ。
――空というのは、いつの時代も変わりなく、どす黒いものだ――
それは、一度汚れてしまったら、修復は困難であることを示していた。ただ、それが他の場所で見た空に言えることではなかった。他の場所から見た空は、時には雲一つない真っ青な空を演出している。どす黒さが消えないのは、河原の土手から見た光景だけだったのだ。
それがいつも夕凪の時間だった。いつも河原を通りかかるのは夕凪の時間。それ以外の時間に通りかかることはほとんど稀で、自分にとっての夕凪の象徴でもあった。
ただ、同じ夕凪の時間に違う道を歩くこともある。この間のように千鶴と待ち合わせをしている時などそうなのだが、その時にどす黒い雲を感じることはないが、身体のだるさと、不安、恐怖、孤独は感じる。逆にどす黒い空を見た時には、不安は感じる時もあるが、恐怖と孤独を感じることはない。恐怖と孤独は、どす黒い空が吸い取ってくれているように思えてならないのだった。
夕凪の時間に、自分が父親になって子供と同じ道をお互いに反対から歩いてきているのに、二人とも気付かないという奇妙な現象であるが、今考えれば、夕凪の時間は、前を見て歩いているつもりでも、気が付けば、空を見上げて歩いていることが多かった。ただ、ずっと空ばかり見上げているわけではないので、会えないことへの直接的な理由にはならないが、空を見ていると、空が果てしなく広がっている感覚と、手を伸ばせば届くのではないかと思える感覚とが、数秒刻みくらいで、堂々巡りを繰り返している感覚に陥ることがある。
前を見ているつもりでも、気が付けば、空を見上げている。空への遠近感を感じなくなることで、急に視線を、正面に戻した時、見えるはずのものが見えなかったとしても、浩平には、それが不思議なことではないのではないかと思えてくるのだった。
――空に吸い込まれそうな気がする――
身体が宙に浮くような感覚をそのままに、正面を見ると、少ししか歩いていないはずなのに、かなり歩いてきたように思えてしまう。
――身体のだるさはそこにあるのかも知れない――
かなり歩いているのに、少ししか歩いていない感覚を持っていると、身体のだるさを自分の中で納得できない。それを納得させるために、夕日によって掻いた汗が、気だるさを誘うという理屈で、正当化させようとしていると思うと、全面的に納得できないことでも、ある程度は納得させることができるのだという意識を持ってしまう。
空ばかりを見ている感覚がないのに、実際に空を見ている。しかも、空も覚えていなければ、前を見ているはずの景色も意識がない。
意識があるとすれば、それはいつも通っている道としての意識であって、その時に見た意識ではないのだ。だから、人と同じ道を反対から歩いてきても、出会うことがない。お互いに違うところを見ているからだ。
それを、解釈として、
「違うところを歩いてきたんじゃないの?」
という飛躍した発想になるのだ。
確かに、二人とも違う方向を見ながら歩いているなど、誰も想像しないだろうから、それよりも違う道を歩いていたのではないかと思う方が、まだ納得させられるかも知れない。勘違いということがあるからだ。
どうしても、納得させないと気が済まない時に、結局結論が見いだせない時、
――堂々巡りを繰り返しているからだ――
という解釈をしてしまう。
堂々巡りという言葉で、すべてを解決しようと思っているわけではないが、納得させるために必要な要素として重要な位置を占めていることは間違いないようだ。
子供の頃に見た夢で、空が割れる夢を見たことがあった。
空は果てしないという意識を持ちながら、
――モノには、必ず果てはある――
という発想を持っているからなのかも知れない。
社会科の教科書で、
「世界の果て」
というのを見た時は、印象深く感じたものだ。
海の向こうは滝になっていて、近づけば滝に飲まれてしまうのだ。それを見た時は、センセーショナルな印象だけだったが、今考えてみれば、そこには教訓が含まれていた。
「世界の果てには近づいてはいけない」
という教訓である。
近づけば、明らかに滝に飲まれて、命はないのだということであるが、そのことは子供の頃にも意識していたはずなのに、子供の頃にはそれが教訓であることを意識していない。
見た目のインスピレーションだけを素直に見る目と、どうしても疑念から入って見ることが先決だと思うようになった目とで、子供と大人の目線の違いだとすれば、
――大人になるというのもあまり嬉しいことではない――
と感じるようになっていた。
空が割れる夢を見たのは、世界の果てを教科書で見たことが影響しているように思っていたが、本当に空に果てがあるという発想だけのものだったのだろうか? 他にも似たような夢を見たか意識があったかなのではないかと思い、さらに記憶を巡らせてみた。
その時に見た記憶は、学校から博物館に行った時のことだった。屋上に庭があり、雲一つない、真っ青な空だった。
「おかしいな、今日は雨が降りそうな天気だったのに」
と、一人の生徒が気付いたのだが、その時、博物館の引率の先生が、
「いいところに気がついたね。ここの空は、実は人口太陽なんだよ」
と教えてくれた。
「ここで、いろいろな作物を育てているんだけど、うまく育つかどうか研究しているんだよ」
と、教えてくれた。
その日は、博物館の展示物よりも、屋上での人口太陽の方が印象深く、夢に出てきたのだった。
その夢では、空だと思っていたところが、まるでタマゴの殻が割れるようにヒビが入り、割れたその先に見えたのは、引率してくれた先生だった。先生の顔には笑みが浮かんでいて、他にもたくさん生徒がいるのに、自分だけを見ているように思えた。
どこへ逃げても、その視線は追いかけてくる。まるで浩平を目の敵にするかのようだった。
ただ、それだけなら、
「怖い夢を見た」
というだけで終わるのだが、その時に一緒に行った千鶴も同じ夢を見たという。
同じように天井が割れて顔が覗いていたというのだが、それが誰だったのかということは覚えていないという。ただ、自分だけを見つめていて、どこに逃げても同じように視線が追いかけてくる。千鶴はその視線が自分だと気が付いたというが、浩平には違う人の顔だったことで、
――俺と千鶴は根本的なところで、潜在意識が違うんだ――
と、感じた。
ただ、その話には続きがあって、割れた天井が、しばらくすると、ビデオテープを撒き戻すように、剥がれたところが、再度くっついていくのを見た。そのすべてが、元に戻った瞬間に、浩平の目は覚めていた。
――すべてのものは、元に戻ろうとする習性がある――
浩平は、そう感じたのは、その時が初めてだった。この思いが浩平の性格を形作っていて、今後の自分の行く末をも左右するのではないかということを、知る由もなかったのだ……。
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