第8話 妹……
喫茶「アムール」で、千鶴から、
「友達の妹に会ってほしい」
と言われた浩平は、しばし考えて、その申し出を断った。
浩平は、相手の女の子が可愛い子だとすれば、千鶴との間で自分が天秤に掛けてしまうのではないかと思うと、それが怖かったのである。今までの浩平であれば、もっと気軽に会ってみてもいいと思ったかも知れないが、それだけ千鶴に対して気を遣っていたのだろう。
それよりも気になったのは、千鶴が本当にこんなことを言い出すなど信じられないという思いがあったからだ。大人しくて、あまり人の言うことには逆らわない千鶴だが、それは逆らえないのではなく、逆らわないのだ。下手に逆らって波風を立てることと、逆らわずに、相手の話を聞いたことで自分が被る被害とを冷静に考え合わせて、どちらが被害が少ないかを考えている。
――本当に目の前にいるのは、俺の知っている千鶴なのだろうか?
と、疑いの目を向けてみた。疑いの目に対して、千鶴は何ら怪訝な顔を示さない。確かに千鶴は大人しく従順なところが目立つが、結構嫌いなことは、嫌がる方だった。特に相手が浩平であれば、嫌なことはハッキリ嫌だと、態度に示していた。
積極的な態度を見せる千鶴を見るのは久しぶりだった。
他の人には決して見せない千鶴の積極的な態度は、自分の中に押し込めていた感情を、浩平だから表に出すのだという構図を、浩平は喜んで受け入れている。甘えてくれるのが嬉しいのは、きっと妹が欲しかったからなのかも知れない。
浩平が小さい頃、妹が病気で死んだ。まだ浩平が幼稚園に上がる前だったので、人の死というものがどのようなものなのかなど分かるはずもなかったが、
―今まで目の前にいた人が急にいなくなって、二度と会うことができなくなった――
ということだけは分かった。
なぜなのか自分でも分からないのに、涙がこぼれてくる。その時がひょっとすると、感情から流した、生まれて初めての涙だったのかも知れない。
浩平が友達の妹に会ってほしいという千鶴の申し出を断ったのも、今まで千鶴を妹の代わりに思っていたのに、もう一人妹の代わりになりそうな女の子が現れると、自分の中での妹に対してのイメージが破壊され、今後千鶴とどのように接していいのか分からなくなるからだった。
とにかく今日の千鶴は饒舌だった。ただ、普段饒舌な時の千鶴と、いかに違うかということを、浩平には分かっていた。
もし、浩平でなければ、この違いは分からないだろう。
千鶴が浩平の前で饒舌になるのは、他の人の前に出た時、大人しい性格を表に出すために、溜まってしまったストレスの発散が主であった。
千鶴も相手が浩平であればこそ、言いたいことが言えるのだ。
ということは、千鶴は浩平に対して、「自分のことを訴えている」のだ。
――普段から表に出すことのない自分を解放してやりたい――
という気持ちが、浩平には手に取るように分かる。だからこそ、今回のように、
――人のために――
千鶴が、浩平に何かを訴えるということは、あまり考えられないと思っていた。千鶴本人には、そこまでの気持ちが分かっていないのかも知れない。日ごろから他の人と話すくせがついていれば、人のことを頼んでいる自分が、まるで余裕を持っている人間のように思えて、満足感に浸れるのだが、日ごろ大人しい人間には、人のことを頼んだとしても、それが自分のストレス解消にならないのだから、却って不満が残ってしまう。
――そんな中途半端なことを、千鶴がするはずがない――
と、浩平は思ったのだ。
しかも、浩平がもし乗り気になったとすれば、どうするつもりだったのだろう?
そのまま相手のことを好きになってしまったら、千鶴は完全にピエロになってしまう。――自分の顔を化粧で隠すピエロのような千鶴は、心の中で、道化を演じているのではないだろうか――
浩平も千鶴ほどではないが、あまり人と話をするのは好きではなかった。話題の中心になったりすることも多く、一見、人から人気があるように見えるが、浩平自身、
――俺こそが道化師のようなものだ――
と思っている。
人からおだてられると嫌とは言えない性格である浩平は、時々人から利用されていることに気付いていた。それでも、自分ではストレスが溜まっているような気がしないので、それも仕方がないと思っていたのだ。
浩平は、今までに千鶴以外の女の子を妹として見たことがあったように思うのだが、それがいつのことだったのか思い出せない。まだ小さい頃のことだったような気がする。
ちょうど、千鶴の家に遊びに行った帰りだっただろうか。
「夕方近くになったのに、まだ暑いな」
と思っていた時期だったので、残暑の残る九月か十月上旬くらいだったかも知れない。身体にだるさを感じ、アスファルトから容赦なく照り返してくる暑さにウンザリしていたのを覚えている。
「風がないな」
と感じたことを思うと、夕凪の時間だったのだろうか。
その日は、そんなに急いで家に帰る必要はなかった。母親も外出していて、父親は仕事で出張だったのだ。母親から、
「夕食は表で食べなさい」
と、言われてお金ももらっていた。
その日、家に帰っても誰もいないことを千鶴に告げれば、
「ごはん食べて行ってよ」
と、言ってくれただろう。
しかし、その日、浩平は千鶴にそのことを告げなかった。わざと告げなかったわけではなく、本当は最初に言えばよかったのだろうが、最初に言いそびれてしまったために、
――もういいや――
と思うようになり、
――商店街の中にある喫茶店や食堂に行くのもいいかも知れないな――
母親が外出して、帰っても誰もいないことは、たまに感じた。この間は一膳飯屋のようなところに寄ったので、今日は喫茶店でもいいと最初から思っていたのも事実だった。
――ひょっとして、喫茶店に行ってみたかったので、千鶴には何も言わなかったのかも知れないな――
と思ったほどだった。
千鶴の家から、商店街までは、徒歩で注五分程度である。普段なら、それほど億劫に感じないが、その日はなぜか足が重たかった。
重い足を引きづりながら、道を歩いていると、普段に比べて車が少ないような気がした。その日は平日だったので、夕凪の時間というと、夕方の交通量の多い時間である。
ちょうど裏道になるようで、普段から車の量は多かった。
――最初から多いと思っていたので、思ったよりも少ないと、余計に少なさが目立って感じるのかも知れないな――
と思った。
ただ、億劫な気持ちに変わりはなく、まわりの様子を気にしている余裕がないほど、身体にだるさを感じていた。
――腹が減っているのに、それ以上に気持ち悪さが気になる――
少し熱っぽさはあったが、病気というわけではなさそうだった。これくらいなら、熱が急に上がったりすることはないだろう。
それまでの経験から、自分の体調も分かるようになってきていたので、さほど心配はしなかったが、せっかくこれから食事をしようと思っているのに、食べてもおいしくなかったら、面白くないと思っていた。
商店街へ抜ける道は、途中で曲がることになる。曲がってしまえば、それこそ交通量は少なくなる。商店街へ抜ける道でも、こちらは完全に歩行者のためと言えるほどの裏道だった。車の数が疎らしか目立たなくなり、歩くにはそれほどきついわけではない。
――この間に少し楽になればいいが――
やはり、車の排気ガスがなければ、かなり違う。さっきまで、それほど掻いていなかった汗が、道を曲がると、背中に吹き出してくるようになった。毒素が出てきているようで、汗を掻いているというのも、気持ちのいいものである。
発熱した時、熱が上がりきるまでは、なかなか汗を掻かない。身体に熱が籠ってしまって、意識が朦朧としている時間である。
しかし、上がりきってしまい、後は下がる一方になってくると、今度は一気に汗が吹き出してくる。そんな時、意識が戻ってきて、
――ああ、これでスッキリできる――
と思い、下着を頻繁に変えることと、汗を拭うことさえ欠かさなければ、後は快方に向かうだけであった。
道を曲がって背中に掻いている汗を感じてくると、快方に向かっている時のことを思い出すのだった。
「君、ちょっといいかい?」
後ろから白い大きな高級車が徐行しながら近づいてきているのを、その時初めて気が付いた。
「僕ですか?」
他に誰がいるというのだろうか? まわりを見渡しても、歩いている人は自分しかいない。
「ああ、君のことだよ」
と言って、運転手と思しきその人は、口調は普通だったが、姿勢は低姿勢に感じられ、一体どこの誰なのか、車の後部座席に白いものが見えていた。
運転手は、浩平を制するようにしながら、後部座席に座っている人に、何か話しかけているようだった。すぐに浩平のところまでやってくると、浩平に車に近づくように話し、後部座席の窓ガラスがゆっくりと、静かに開くのが分かった。
「あなたは?」
見覚えのある顔だったが、一瞬、その人とどこで会ったのか、分からなかった。その人は女性で、白く見えたのは、白いワンピースに白い帽子を手に持っていたからだった。何もかも白い色に包まれた彼女の肌は、服や帽子の眩しさに負けないほど白く、そして、どこか透明感を感じさせた。それはきっと、
――白い色が光を反射させるからだ――
と思っているからに違いない。
確か、彼女と出会ったのは、その日から一月ほど前のことだったのではなかったか?
いや、その記憶も曖昧だった。一月と思って、その時を思い出そうとした時、まるで昨日のことのように思い出せたからだった。
なぜ昨日のことのように思ったのかというと、心当たりがあった。
その日も同じように昼の暑さが収まらない中での夕凪の時間、同じように歩いていたことが最初に記憶からよみがえってきた光景だった。
ただ、それが彼女との記憶の一番最初というわけではなかった。途中だったように思うが、その途中でなぜ、自分が一人になったのか、思い出せなかった。
少しずつ、記憶が明らかになる中で、記憶が一か月どころではなく、何年も前ではなかったかと思った。その時浩平は中学一年生、記憶の中にある自分は、まだ小学生だったのだ。少なくとも、一年は経っていることになる。
こうなったら、記憶が一年前でも二年前でも、たいして変わりはないように思えた。要するに、
――自分が小学生だった頃の記憶――
ということさえ思い出せればそれでよかったような気がしたからだ。
あの日は、学校の帰りだった。放課後、少し先生に呼び出されて、簡単な面談をしていた。怒られていたわけではなく、どんな話をしたのかは、今からは記憶を引き出すこともできそうもなかった。
別に思い出すほどのことではない。それよりも、教室に入ってくる西日がやけに気になったことが記憶に深かった。
話が終わり、校舎を出ると、さっきまであれだけ眩しかった西日がすでに建物の影に隠れていて、日が暮れる寸前だったのに気が付いた。
だが、その割りには、歩いていて、なかなか暗くなってこないのは不思議だった。その頃には夕凪という言葉は知っていて、風がないのも意識していた。
風がない時間、身体に熱が籠ってくるのを感じていたが、そのせいで喉がやたらと乾いていた。
近くに公園があり、水飲み場があったので、そこまで行って水を飲むと、それまで歩いていて、意識が曖昧だったことに気が付いた。
――公園の水飲み場の水くらいで、ここまで頭がスッキリするなんて――
と思って、フッと一呼吸すると、急に身体にだるさを感じた。ベンチに座りたいと思ったのだ。
後ろを振り向くと、さっきまで誰もいなかったはずの公園に、一人の女の子がベンチに座っているのが見えた。
彼女はピンクのワンピースに白い帽子を手にしていた。そして、浩平の方を見て微笑んでいるではないか。
浩平も彼女から視線を離せなくなり、ニッコリと笑ったが、なぜかその笑顔が引きつっているのを感じた。
――おかしいな――
そこに恐怖があるわけでも、不安があるわけでもない。確かに可愛い女の子ではあるが、千鶴を思い出してしまうと、可愛いという言葉が何かウソっぽい感じを受けたのを感じていた。
――やっぱり千鶴を思い出すんだ――
と思うと、思わず苦笑いをしているのを感じた。
今度の苦笑いは、心からの苦笑いで、決して引きつっているわけではない。
「こんにちは、ごきげんよう」
彼女は、そういって挨拶してくれた。
「ごきげんようって、今会ったばかりなのに?」
と思わず口にすると、彼女はキョトンとして、不思議そうな顔をしたが、それは一瞬だった。彼女からすれば、
「ごきげんよう」
という言葉は、出会った時の挨拶なのだろう。そう思うと、彼女がいわゆる上流階級の女の子のように思えてならなかった。
――今の時代に、そんなのってないよな――
と思いながら、それでも目の前にいるのだから、浩平は興味をそそられても無理のないことだと思った。
自然に、彼女の隣に腰かけた。何を話していいのか分からない中で、何となく会話が続いていた。どうやら彼女は、学校に行っている雰囲気はない。何か病でも患っていて、この近くにある別荘地で、療養中だというのだった。
お姉さんのように見えていたが、どうやら、年下だということを聞いてビックリした。そして同時に嬉しい気分になった。
――今の間だけとは言え、妹ができたんだ――
本当なら、連絡先を聞いて、また会ってみたいという気がしたのだが、止めておいた。どうにも自分と彼女では住む世界が違っているようだ。
それは話しながら気が付いたことで、今だけなら、対等にいられる時間だと思った。
――決して交わることのない平行線が、奇跡的に交わったのかも知れないな――
とそんな気分にさせられたのだ。
そして、彼女と別れて、その日から一週間、彼女のことを意識していたが、それ以上は、まるで何もなかったかのように、記憶の奥に封印された。そして、夕凪の日に車に呼び止められるまで、思い出すことはなかった。
車に呼び止められてもピンと来ることはなかった。
彼女の顔を見て、
――まるで昨日のことのようだ――
と感じたのも事実だが、それも一瞬だった。昨日のことのように思ったのは、その日のことを思い出したからではなく、その日の後の一週間、彼女のことが頭から離れなかった時の記憶がよみがえったからだった。
――こんなおかしな記憶の仕方というのもあるんだな――
と浩平は感じていた。
記憶がよみがえった浩平は、またしても、顔が引きつっていた。最初に彼女の笑顔を見た時と同じであることを思い出した。
――ということは、今あの時に戻ることって可能なんじゃないかな?
と浩平は思った。
運転手のおじさんがいるが、二人だけの世界には変わりがない気がした。運転手のおじさんは彼女には従順で、気を遣ってか、何も話すことはなかった。
車がゆっくりと走り出して、どうやら彼女の家に連れて行かれるのが分かったが、浩平には不安はなかった。ただ、しいていえば、
――期待という言葉の不安がないとは言えない――
と自分に言い聞かせていたのは分かっていた。
浩平にとって、車に乗ること自体、珍しいことだった。家には車がないので、車に乗ることはそれだけで感激だったのだ。
静かに走り出した車は、浩平と彼女を載せて、スピードを上げた。それほどの時間が経ったのか、ハッキリとはしないが、彼女の雰囲気と、車の中の雰囲気、まるで盆と正月が一緒に来たような気がした。
車が彼女の家に到着した時、まだ夕日は暮れていなかった。
「どうぞ、こちらに」
車が屋敷の玄関前に到着し、扉を開けてくれた女性が手招きしてくれた。
――何という大きな屋敷。テレビでは見たことがあるけど、初めてこんな大きな屋敷に入った――
正面は和風の家になっているが、その横には西洋風の屋敷もあり、和風の家の瓦屋根にある瓦の数を思わず数えてみたくなるほどだった。
和風の廊下を通らないと、西洋風の屋敷にはいけないようで、
「私の部屋はあっちなんですよ」
と、西洋風の建物を指差した。
――何もかもが未知の世界――
彼女は、浩平を西洋館に招き入れると、広い食卓に案内してくれた。食卓は、三十人くらいは座れるくらいの席になっているが、そこに彼女と浩平だけの二人が腰かけているだけで、最初はスープから始まって、高級料理が次々に運ばれてくる。
――こんなにたくさん、食べられるわけはない――
と、思っていると、やはり彼女は一口、二口食べただけで、次が運ばれてくるのを待っている。
――お姫様のようだ――
と思って見ていると、彼女はニッコリと笑って、
「私には姉が一人いるんですけど、私が身体を悪くしたために、こちらで療養することになったんです。だから、いつも寂しく一人での食事なんですけど、今日、そのお姉さんがこっちに来てくれることになっていたんですけど、急に今日来れなくなったということで、また一人での寂しい食事になるかと思っていたところに、あなたをお見かけしたので、失礼かと思いましたが、お食事に御招待申し上げたという次第なんですよ」
すべてに浮世離れした感覚のある彼女だったが、寂しいという言葉は分かるような気がした。
「こんな僕でよかったら、いつでも呼んでください」
と、今まで知らなかった世界を、夢を見ているかのようではあるが体験できることは、素直に嬉しかった。特に寂しいという彼女の気持ちは、無駄に広すぎる部屋に、一人取り残されたことを想像すると、分かる気がしてきた。
浩平は、以前同じような気持ちになったことがあった。
あれは、家族で海水浴に行った時のことだった。まだ小学校の低学年の頃、民宿に泊まって、二日ほどゆっくりしようというのが、親の考えだったようだ。
子供の浩平は、別に海水浴が好きだというわけでもない。却って、暑い中、
――何が嬉しくて、日が照っている中で海に入らないといけないんだ――
日に焼けると、風呂に入る時も、ひりひりして痛いし、母親は日光浴でもしていればいいのだろうが、子供が誰でも海水浴に行ければ嬉しいなどと、勝手な解釈をされても困ると思っていた。
父親は、気ままに釣りに出かけて、大人にとって自由な二日間は嬉しいのだろうが、子供にとっては、こんな田舎に連れて来られて遊ぶところもない。テレビもそんなにチャンネルが映るわけでもない。何よりもその気持ちを抑えて、黙っていないといけないのは耐えられなかった。
親が一緒にいても寂しい。親が一緒にいるからこそ寂しいという気持ちになった。その頃は、いつも千鶴と一緒に始めた頃だったように思う。
千鶴と一緒にいないのが寂しいということに、まだ気付かなかった子供の頃である。
その日の夜、どこかの西洋のお城の中に浩平はいた。それは、中世のお城ではなく、テレビアニメで見た、どこかの星の宮殿だったのかも知れない。だが、そこに一人鎮座していて寂しそうな顔で食事をしているのが千鶴だと分かった。その時の千鶴は普段の千鶴とは違い、大人の雰囲気を醸し出していた。きっと、寂しそうな顔が大人のイメージに見えたのだろうが、浩平が、
――俺は、千鶴から離れることはない――
と最初に思った時があったとすれば、それは夢の中だったのかも知れないと感じるほどだ。
千鶴が大人しい性格で、誰ともあまり話をしなくなったのは、この頃だった。それより前は普通に友達と話しをしていたのに、この夢を見てから千鶴の様子が変わって行った。その頃から浩平は、
――俺が千鶴の夢を見ると、夢に見たような性格に千鶴は変わっていくんだ――
と、思い込んだ時期があった。
本当の性格は違っているのに、浩平が勝手な想像をしてしまうことで、千鶴の性格を勝手に決めつけてしまったという思いが強く、それが千鶴への後ろめたさにも繋がっていた。千鶴に対してそばにいることは、自分の義務のように感じるようになったのは、その時からだっただろう。
どうして、千鶴がお姫様のような格好をしていたのか分からない。大人しそうな雰囲気が、お姫様を想像させたのだろうと思っていたが、本当にそれだけなのだろうか……。
浩平は、大人になるにつれ、子供の時の記憶が封印されていくのを意識していた。この記憶も結構早くに封印されていた。小学校低学年の頃の記憶なので、当然なのだが、逆に考えてみて、封印が早かったから、子供の頃の記憶だったのだと、自分に言い聞かせていたのかも知れない。
記憶の封印の順番というのは、本当に時系列に従っているものなのだろうか? 浩平は不思議に思っていた。
彼女のお姉さんが来れないと聞いた時、彼女が可哀そうだと思ったのも、当然なのだが、それ以上に、
――お姉さんに会ってみたい――
と思ったのも、正直な気持ちだった。
いくつくらい年上のお姉さんなのか分からないが、その時浩平が想像したのは、高校生くらいのお姉さんであった。
高校生ということであれば、かなり年が離れていることになるし、大人というイメージを感じさせるに十分であろう。
その頃に初めて女性というものを意識したような気がする。
――彼女がほしい――
というような発想ではないのだが、一種の憧れであり、甘えたいという気持ちが強かったのも事実だ。
お姉さんと、会ってみたいと思うようになると、お姉さんの雰囲気が、高校生になった時の千鶴に思えてくるから不思議だった。
高校生になった時の千鶴の雰囲気を想像できたのは、夢で見たことがあったからだ。
自分はまだ小学生の低学年、千鶴だけが高校生になっているという設定だったが、なぜか高校生の千鶴は、小学生の自分の後ろをただ黙ってついてくるだけだった。
「どうしたんですか?」
相手は千鶴だと分かっているつもりだったが、さすがに高校生のお姉さんに対して、いつもの千鶴のように接することができず、敬語を使っていた。
「いえ、浩平さんの後ろにいると、なぜか安心するんです」
千鶴の視線が、浩平の目を捉えていないことを不思議に思っていたが、千鶴の視線は浩平の顔よりもずっと上、自分の顔よりもさらに上を捉えていた。
――どこを見ているんだ?
と思ったが、すぐに視線の先が分かった。
――千鶴は、高校生になった俺を見ているんだ――
自分が千鶴を高校生のお姉さんとして見ているように、千鶴も浩平を高校生として見ているようだ。
そう思うと、浩平は自分が高校生になったのをすぐに感じることができたのだが、今度は、自分の目線が第三者になっていた。
高校生の浩平は自分の夢の中に存在している。そして、千鶴と対峙しているのだが、その表情は影になっていて、よく分からない。
――高校生になった千鶴の顔を想像することはできるのだが、自分が高校生になった時の顔を想像することはできないんだな――
と、浩平は感じた。
高校生というのは、大人への入り口、中学生から高校生になる間に、何か一つの世代を乗り越える必要があるような気がしていた。
その間に存在するのは、間違いなく成長期である。成長期は思春期でもあり、異性に対しての感情が、大きく揺れ動き、そして、それが身体にも影響してくる時期だということを、すでに小学生の頃に分かっていたような気がした。
それを教えてくれたのが、夢の中に出てきた千鶴のおかげのように浩平は感じることができた。
子供の頃に見る夢は、本当はその時の夢を見るよりも、未来のことを見る方が多いのではないかと思えてきた。
夢は目が覚めるにしたがって忘れて行くものだという意識を持っているが、それは大人になった時の夢を見てしまったことで、現実では想像してはいけないこととして、夢に封印してしまうのかも知れない。
浩平は、お嬢さんから食事に誘われたことすら、夢だったのではないかと思うほどだったが、夢にしてはリアルだった。忘れそうになっても、時々思い出す。それを夢と言えるのだろうかと感じていた。
しかし、本当はそれが夢というものなのかも知れない。
忘れそうになっても記憶のどこかに引っかかっている。それこそが夢だとすれば、現実に近い夢が存在することもあるのだという、妙な納得が浩平の中に生まれるのだった。
お嬢さんのお姉さんと、千鶴がダブって感じられた。それは、お嬢さんの中に自分の目線が入り込んでいるのかも知れない。
来てくれるはずの千鶴が来てくれないことで、ついつい誰か他の人を誘ってしまう。それが浩平だというのも、何かの因縁なのかも知れない。
浩平は、この間待ち合わせた時に、会えなかったことを思い出していた。小学生の頃に見た夢を今さらのように思い出したのも、きっと千鶴と会えなかった寂しさを、お嬢さんと照らし合わせたのかも知れない。
――今では、あの時のことをすっかり夢だったと認識してしまったのかな?
リアルだったはずなのに、夢として封印してしまったことで、時々思い出すようになっていた。
お嬢さんの雰囲気も運転手の雰囲気もイメージが湧いてくる。そこまでなら夢ではないはずなのに、その時、高校生になった千鶴が自分に浴びせた視線のように、お嬢さんは、浩平の顔を見る時、正面から見るよりも、上を見るようにしていたからである。
――やっぱり、そこには高校生の俺がいたのかな?
千鶴との夢のように、第三者として見ることはなかったが、どこか記憶の中で、お嬢さんと、千鶴が交錯している。お嬢さんのお姉さんと千鶴が同じ人間に思えてならないのだった。
高校生になった時、浩平はこの時の意識をすっかり忘れていた。大学生になってやっと思い出したのだが、
――どうして思い出さなかったのだろう?
と、ポッカリと自分の高校時代に穴が空いてしまったのではないかと思うほど、高校時代は、自分にとって特殊な時代だったように思う。
特に高校時代には、あまり千鶴を意識していなかったように思う。そのことが、浩平を高校時代だけ別の世界だったように思わせるのだった。
そういえば、高校時代には、毎日のように夕凪の時間を意識していた。
学校の帰りに、道を歩いていても、いつも足元の自分の影ばかりを追いかけていた。
ほとんど帰宅時間が同じだったこともあり、夕凪の時間を、帰宅時間に感じていたのだ。それは、夏でも冬でも同じだった。ただ、冬よりも夏の方が意識としては強く、身体のだるさが、そのまま夕凪の時間だという意識をずっと持っていた。
夕凪の時間を意識していた時期、千鶴のことは忘れていた。それよりも、小学生の時に遊びに行ったお嬢さんのことが気になっていたのだ。あれから二、三度遊びに行ったが、最初は、戸惑いの中で、時間があっという間に過ぎた。二回目は、緊張もなくいろいろな話ができたが、どちらかというと、三回目以降への期待の方が大きかったように感じていた。
しかし、三回目はまたしても戸惑いがあった。戸惑いというよりも不安に近かった。二回目は、三回目以降が楽しみで仕方がなかったのに、どうして急に不安が募ってきたのか分からない。不安が恐怖に変わってくると、今度は、
――四回目というのは、もうないのだ――
と感じるようになっていった。
それに呼応してか、彼女が誘いに来なくなった。
今までは浩平が、
――遊びに行ってみたいな――
と、感じた時と同じタイミングで、いつもの高級車が現れた。まるでこちらの思いを見透かされたかのようだったが、それでもよかったのだ。
こっちは子供なのだから、見透かされたと思われる方が気が楽だったというのもある。彼女の方が、
「浩平君に会いたいわ」
と言って、運転手の人に頼んでいるのか、それとも、
「浩平君が呼んでいるわ」
と言うのか。
どちらにしても、浩平の都合のいい解釈しか、頭の中にはなかったのだ。
それなのに、なぜか三回目以降は、不安や恐怖が襲ってきた。しかも、その思いが通じるのか、彼女が現れることもなかった。
三回目の時に、彼女に自分が嫌がっているような素振りは見せなかったはずだ。それは、浩平が嫌がっているのではなく、不安や恐怖に感じていることをその時に気付いていなかったからなのかも知れない。
嫌ではないはずなのに、どこか、彼女に会うことに対して気遣うような気がしていた。それが恐怖や不安であることに気が付いたのは、だいぶ後になってからだった。
嫌でもないのに、会うことを躊躇っているのは、不安や恐怖があるからだという理屈に繋がるまでに、何段階か要するのだ。まるで昔話の中にあった「わらしべ長者」の感覚である、
その間に意識していないと思っていたはずの千鶴の存在があったことも事実だった。千鶴の存在を考えた時、自分の存在がどういう位置にあるのかを考えると、彼女とは身分不相応だと思い始めたのだ。
今の時代に身分がどうのなどというと、笑われるかも知れないが、その人の持って生まれた遺伝子の中に、意識しなければいけない感覚が備わっているかも知れないと思うと、先祖は、さほど裕福でなかったことが想像つく。
――そのことを思い知らせるために、彼女は俺の前に現れたのではないか?
という思いが頭をよぎったことが、不安と恐怖を駆り立てたのではないかと思ったほどだ。
それにしても、お嬢さんのお姉さんとして現れた千鶴のイメージがあまりにも嵌っていたのにはびっくりした。
――千鶴の先祖は、裕福だったのかな?
と感じたが、発想として浮かんできたのは、日本の昔ではない。西洋のお屋敷のイメージであった。浩平は千鶴が「カリオス文明」を意識していることを知らない。ただ、千鶴のイメージが日本風のお姫様というよりも、西洋のお姫様の方が似合っているように感じていたのは事実だったのだ。
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