第7話 千鶴のくせ

 千鶴は、喫茶「アルプス」で、超常現象の本を見ながら、本能と予知能力について考えていた。

 喫茶「アルプス」に今日来ることになったのは、偶然のようだが、それだけではないような気がする。何年も前に来ただけの店だったはずなのに、店に入って時間が経つにつれ、前の記憶がどんどん最近のように思えてくるのを感じた。

 しまいには、

――まるで昨日のことのようだわ――

 とも感じられた。

 ウエイトレスの女の子のことを見ていると、確かに友達の妹のように思えてならない。あまりジロジロ見てはいけないとは思うのだが、気になるのは仕方がない。見ないようにしているつもりでも自然と視線がいく。その割りに、目が合わないのが不思議だった。

 本に目を落としていると、彼女の視線を感じたことで、最初は本に集中できなかったが、すぐに感情は本に移っていた。それだけ気になるような内容の本だったのだが、本当はSFっぽい雑誌は、自分よりも浩平の方が好きな内容のものだった。

 超常現象や、SFの話は中学時代の浩平がいつもしていたような気がする。本屋に行っても、いつも超常現象の本を探していたような気がする。もっとも、中学時代にそんな話を聞かされても、頷いているだけで、分かったようなふりをしていただけだった。浩平は、本当に千鶴が分かっていると思ったのだろうか? 千鶴にはそれが謎だった。

 ただ、最近の浩平は超常現象の話はまったくしない。本当に興味がなくなったのか、千鶴の前でしても同じだと思ったのか、どちらにしても、浩平は千鶴が、今超常現象の話に興味を持っているなどと、想像もしていないことだろう。千鶴としても超常現象に興味を持ち始めたのは最近のことで、それまではまったく興味もなく、想像すらすることもなかったのだ。

 それがなぜ急に興味を持つようになったというのだろう?

 それは千鶴もきっかけがあったことは分かっているが、詳細に分かっているわけではない。それが夢の中の出来事だったからだ。

 その時の夢も、他の夢と類に漏れることはなく、目が覚めるにしたがって忘れてしまっていった。しかし、確かに超常現象を信じている自分の夢を見た。目が覚めて、ゾクゾクっと身震いしたことも、千鶴の考えに拍車を掛けたのだ。

 千鶴は浩平の顔が夢から覚めても残っていることが不思議だった。他のことは忘れているのにである。

――浩平の何かを夢に見たんだわ――

 しかも、その時の浩平の顔が中学時代だったことで、超常現象の話を得意げにしていたのを思い出したのだ。

 その瞬間、夢で超常現象を信じていた自分を思い出したのだ。超常現象を信じることがその後の自分に影響を与えるというような話だった。気落ち悪かったが、千鶴の性格では、こういう夢を見た時は、信じないと気が済まない。それは理屈ではなく。信念のようなものだった。

――因果な性格なのかしら?

 と思ったが、信じてみるのも悪くないと思ったのも事実だった。

 超常現象の雑誌の、その時の特集は、

「失われた古代文明」

 と題されたもので、昔から信じられているムーや、アトランティスなどの話が描かれていた。

 千鶴は、以前同じような話を読んだことがあったので、復習のつもりと、あれから新しい研究がなされているのかも知れないという思いとで、興味を持って見ることにした。

 内容としては、数年前に読んだ本と、さほど変わっていなかったが、最後の方のところに、

「今までに知られていない古代文明」

 という内容で、聞いたことのない文明の名前がいくつかあった。

 その中に、

「カリオス文明」

 というのがあった。

 それは、中東と欧州の中間くらいのところに位置していて、ちょうどローマや、ギリシャの北部に位置しているところにあった。

 天変地異で、滅びたと書かれていたが、海に面したところではないので、少し疑問もあったが、少し興味を持ったのだ。

「カリオス文明」

 再度、口にしたが、何か遠い記憶の中に燻っているものに思えてならなかった。

――きっと夢で見たのかも知れないわ――

 と思ったが、名前まで同じものを想像したというのは、

――ただの偶然で済ませていいものだろうか?

 と、感じたほどだった。

 ここ十年くらいで発掘が進んでいるらしいと書かれていたが、考古学界では、結構斬新な研究として注目を浴びているのかも知れない。雑誌には数行しか書かれていないので、そこまでしか発表できないほどしか分かっていないのか、それとも、他の研究者に分かってしまっては困るので、ある程度まで緘口令が敷かれているのかのどちらかであろう。

 千鶴は、こういうことには疑り深い。当然後者だと思っているが、どうせなら、これ以上、世間に知られたくないという気持ちになってきたのも事実だった。

――どうして、そんなことまで感じるのかしら?

 と思ったが、今は夢の中にあることを引っ張り出すのが少し怖い気がした

――だったら、いつがいいの?

 と自問自答をしてみたが、分かるはずもない。自分への回答もできないほどの困惑状態になるだけだった。

 千鶴は、「カリオス文明」の話は抜きにして、他の文明の話を読んでみた。知っているはずの文明の話が、まるで初めて読んだ時のような新鮮な気持ちで読むことができたのは、自分でもビックリしていた。

 その中で、ギリシャやローマの文明には、必ず神の話が出てくる。

 神の力によって滅ぼされた文明もある。しかも、それは人間が悪いことをしたというよりも、神の方での一方的な都合や、あるいは嫉妬のようなものが原因だったりする。

――人間の汚い部分のようだわ――

 力があるだけに始末が悪い。

 ほんの少しでも神を怒らせてしまったら、神の力で、どんなに素晴らしい文明であっても、地球上から滅んでしまう。それを悲劇として描くのも、人間である。

――ひょっとして、神というのは、人間が創造した人間の汚い部分なのかも知れない――

 とも感じた。

 人間を作ったのは神だというが、創造神であれば、できあがったものに、枝葉が付いても、それを潰すのは正当化されるのだろうか? ということである。

 そう思うと、人間のやっていることと変わりはない。人間への痛烈な批判が、神を創造するということなのかも知れないように、千鶴は考えていた。

 特に、その日、文明の話を読んでいるうちに、その考えが以前から頭の中にあって、燻っていたことに気が付き、改めて考えさせられたと感じたのだった。

 千鶴は、夢で思い出したこととして、自分が古代文明の姫として、古代遺跡が栄えていた頃の世界で生きている夢を見たことだった。

 姫として大切にされてはいるが、そこに自由はなく、束縛さえ受けていたが、目の前に広がっている文明を作っているのは、多くの人夫であった。

 彼らに自由はなく、束縛ばかりか、鞭で身体を打たれて、倒れても働かされる運命だけを背負っている。

 それを当たり前の光景として目の前の光景をまるでテレビのように見ているのだ。

 もちろん、テレビなどある時代ではないのに、夢の本人が現代人なのだから、文明が頭の中で交錯しているのだ。

 不安を感じながら、目の前の光景を見ている。

――一歩間違って生まれていれば、自分はあの中にいるんだ――

 という意識があった。だが、それでも平然と当たり前のように見ている自分がいる。その心境が恐ろしく、不安の一端を担っていた。

――これも神の仕業なのかしら?

 姫となった千鶴は、神の存在を意識していた。

 自分の運命、そして目の前の人すべての運命は、神の思いのままであり、指を一本動かすだけで、この世から消されてしまうこともあるのではないかと思うのだった。考えてみれば文明として後世に残っていることは、決して後世に残すためだけのものではない。本当の理由は、神に対しての怯えから、大きな建造物を作って、祀るのがその一番の理由だろう。宇宙人説も否定できないが、千鶴の思いは、すべて神の存在なくしてはありえない古代文明への発想だったのだ。

「お客さんは、文明とかに興味があるんですか?」

 話しかけてきたのは、さっきコーヒーを持ってきてくれた女の子だった。

「ええ、どちらかというとある方だと思いますわ」

 と、店を一通り見渡しながら、戸惑いながら答えた。

 店の客は千鶴一人だった。店に入った時も一人で、誰も入ってきた様子はなかったのだから、一人に間違いはないはずなのに、どうして再度店の中を確認したのか、彼女には不思議なようだった。

 千鶴の行動は癖だった。

 誰もいないと分かっていても、本に集中している時には、まわりが見えていないということと、急に話しかけられて、返事を迫られた時、まわりに視線を感じてしまうという癖があったのだ。

――誰もいないはずなのに――

 という不安が怯えに変わった「時、千鶴は確認しないでは居れなくなるのだった。

 まわりを見て、誰もいない確認が取れると、やっと安心して、答えることができるのだか、返答も曖昧にしか答えられない。それだけ質問が突飛であったのと、質問をしたタイミングが唐突であったことが原因であった。

「私も以前、よくサイエンスの本が好きで読んでいましたよ」

「そうなんですね。私は、大学の時に立ち寄った喫茶店で、芸能雑誌の付録についていたのを読んで、興味を持ったんですけどね」

「へぇ、私も最初に読んだのは喫茶店だったですね」

 彼女は、自分の中で千鶴と意気投合したような気分になっているようだ。

 千鶴の方は、戸惑いながらも、いつの間にか彼女のペースに引き込まれていた。本当は、彼女が、友達の妹であることを確かめたいという気持ちがあるのだが、唐突さと突飛さに正直圧倒されてしまって、確かめるまでには、到底及ばない気がしていたのだ。

「私は、時間に興味を持っているんですよ」

 いきなり時間の話をし始めた彼女だが、唐突さは若さゆえなのか、それとも、いつも何かを考えていて、それを人に話さないと我慢できない性格なのかも知れない。

 後者の方が千鶴には分かりやすく感じる。実は千鶴自身がそうだからである。そして、千鶴が話す相手というのは決まっている。そう、言わずと知れた他ならぬ浩平であった。

 浩平は、千鶴の話を嫌な顔せずに聞いてくれる。それでも最近は、少しウンザリしているように感じられるのが気になっていたが、考えてみれば、それも当然だ。浩平も相手が千鶴でなければ、いつかそんな役は御免こうむることになるのは分かっている。

 千鶴にとって、浩平はただの幼馴染ではない、自分のことを一番理解してくれて、痒いところに手が届く相手でもあった。そして、千鶴も浩平に対して、癒しという形で返していることを、漠然としてだが、分かっていた。だからこそ、千鶴も浩平もお互いに遠慮はしない。特に子供時代はそうだった。

 それでも社会人になってくると、そうでもない。お互いに気を遣うことが多くなっていた。今まで気を遣ったことのない相手だっただけに、どのように気を遣っていいのか、戸惑いも隠せなかった。気を遣うというのを自然とできなくなったのは、大人になったからだろうか? それであるならば、

――大人になんか、なりたくない――

 と思うのは、千鶴の考え方だった。

 千鶴は大人になって、会社であまり気を遣うことの苦手な女性だと思われているようだ。それでも、一生懸命なところがあるから、人から嫌われるということはない。ただ、仲間意識に入れないところがあるので、人とうまく付き合うことができない。

――私が気を遣うのが下手だからだわ――

 と、少し違った発想を抱いてしまって、そのせいもあり、会社では余計に孤立してしまっていた。

――意固地になっているわけではない――

 と、本人は思っているが、別にグループの中に属さなくてもいいと思っている。別にOL仲間に入らなければ、仕事ができないわけではない。男性社員は優しく教えてくれるし、女性社員から妬まれているという意識もない。

――会社では、この程度の付き合いでいいんだ―― 

 と思っているが、それでも溜まってくるストレスはどうすることもできない。

――浩平がいてくれれば、他に何もいらない――

 とまで思っているが、ここまでハッキリ感じてしまうと、さすがに千鶴も、意固地になっていないとは、ハッキリ言えないのではないかと、思うようになっていた。

――浩平にだって、会社での付き合いがあるはずだから――

 と、自分に言い聞かせているが、心の中では、

――浩平も私のように孤立していれば、二人だけの世界が、二人にとって、かけがえのないものになるはずだわ――

 と密かに思うようになっていた。

 千鶴は、以前から、読書が好きだった。

 好きだったというのは、少し違うと本人は思っている。好きだというよりも、「逃げ場」というべきであろうか。読書をしていれば、一人の世界に入れるからだ。

 だが、千鶴は、本当は読書は得意ではない。自分の中で焦りがいつも頭の中にあり。結論を先読みしてしまう癖があったからだ。

――小説を読んでいても、ついついセリフからしか読まないようにしてしまう――

 そのために読んだつもりになっていても、記憶している内容がまったく違った話になっていたり、自己満足で終わってしまうことで、せっかく読んだ小説を話を他の人との会話には使えない。趣味だと誰にも言えないのが読書だった。

 浩平はそのことで千鶴が悩んでいるのを知っていた。それだけに本の話を一切しないようにしている。浩平もあまり本を読む方ではないので、千鶴と本の話をすることもない。それだけに、千鶴と浩平の仲を知っている人は、

「あの二人、いつもどんな会話をしているのかしら?」

 と思っているに違いない。

 浩平は、千鶴以外にも知り合いがたくさんいるが、本当に本音を言える相手は千鶴だけだった。千鶴は、浩平以外には知り合いはほとんどいない。千鶴の中から醸し出される孤独の雰囲気は、まさに見て、そのままの性格だったのだ。

 千鶴が会話下手だというのも、その一つだ。読書をしていても、結論から先に見てしまう性格であることも災いしていた。会話というものは、一つの話をきっかけに膨らんでいくモノなのだが、千鶴には、会話を膨らませられるボキャブラリーが不足していると思っている。本当は思っていることを素直に言えばいいだけなのに、それができないのは、今まで孤立していた自分の思ってきたことが、到底他の人に受け入れられないものだと思っているからだった。

 千鶴はよく夢を見る。

「カリオス文明」

 という言葉が頭の中に響いているまさにその夢だった。この夢は、起きている時に意識することはない。目が覚めれば忘れてしまっているからだ。しかし、喫茶「アルプス」で7見た文明に関しての雑誌、いかにも、

「思い出してほしい」

 と言わんばかりの内容に、記憶がよみがえってくるのを感じた。

 夢の中で千鶴はお姫様になっている。お姫様は、自由がないというところまでは先に書いた内容として思い出してはいたが、その時感じた孤独感が、今の千鶴を形成しているように思う。

 しかし、釈然としないところもあった。

――私は誰かを忘れているような気がする――

 夢の中でいつも誰かを探していたような気がするのだ。それが浩平であることを、今ならハッキリと分かる。夢の世界にまで、浩平を求めるというのは、たとえ夢とはいえ、どこか寂しさに対して耐えられない自分を感じているのかも知れないと思うからだ。

 ただ、現実世界では、自分のそばにはいつも浩平がいてくれる。それなのに、まだ満足できずに孤独を感じている。

――浩平がいてくれればそれでいいはずなのに――

 と思っているが、寂しさは不安をも巻き込んでいるように思え、不安に中には、誰か本当はもう一人そばにいてくれるはずの人を、探し続けている自分がいることに気付いていたのだ。

 それが一体誰なのか、すぐには思い出せないでいる。だが、喫茶「アルプス」にきて、それが漠然としてだが分かってきたような気がした。

「カリオス文明」

 この言葉がキーワードになっているのは事実だった。

――自分はお姫様なんだ――

 そのお姫様に仕えてくれている女性の姉妹がいたのを思い出していた。と言っても、顔が思い出せるわけではないが、とても従順な姉妹。知らない人が見れば、二人はまったく同じ性格に見えるかも知れないが、絶えず一緒にいる千鶴から見れば。二人は正反対に見える。

 そう、一人が光であれば、一人が影。しかも、いつも同じ人が光だとは限らない。その時々でうまく入れ替わっているのだ。千鶴から言わせれば、

「二人で一人だと言えるのではないかしら」

 と思っている。一人二役を、それぞれが演じていて、巧妙に入れ替わってるというのは、まるでミステリーのトリックのようにも感じられたが、そういう意味では、ミステリー作家も、同じような人物を創造し、一つの作品の骨格なら占めているのが、分かった気がしていた。

 千鶴が「カリオス文明」のお姫様になった夢を見ているなど、誰も知らないはずである。浩平にはもちろん、そんな子供じみた夢を見ているなど、言えるはずもない。浩平以外のまわりの人からは、大人しい性格だというイメージがこびりついているのだろうから、こんなメルヘンチックな夢を見ているなど、想像もできないに違いない。

 千鶴は、その日に二時間ほど雑誌を読みふけっていた。自分では、そんなに長くいたという意識はない。三十分くらいの意識だったのだ。

――集中していると時間を感じさせないっていうけど、本当なのね――

 と、今さらながらに感じていた。

 今までにも何度も何かに集中して、時間を感じさせなかったことがあったにも関わらず、今さらながらに感じたのは、初めて一人で来た喫茶「アルプス」の店の雰囲気もあったのかも知れない。

 秋から初冬にかけて、

「読書の秋」

 と言われるほど、夜長を読書で楽しむということであろうが、千鶴は中学の頃、寝る前に読書をしていたことがあった。読んでいたのは、ミステリーが多かったが、それ以外の小説を読む気にはなれなかった。表面に現れるインパクトの強さを求めたのだ。普段から大人しい性格である千鶴は、小説くらいインパクトの強いものを読もうと思っていたのだ。

 最初は恋愛小説を読もうと思ったのだが、本屋で見た文庫本の恋愛小説は、憧れを感じるようなものではなく、大人のドロドロした男女の感情が入り乱れたものが多かった。そんな小説を、ほとんど恋愛経験のない自分が読んでも、ピンと来るはずもなく、これから経験するであろう恋愛に対して、間違った偏見の目を持ってしまうことを嫌ったのだ。

 ミステリーもところどころに男女の関係が描かれているが、それが中心ではない。あくまでも導入部分だと思って読めば、さほどドロドロした気分になることはない。トリック重視で読める作家の作品を選りすぐればいいからであった。

 そんな千鶴が文明の本を読むようになったのは、夢を見てから、それが気になって本を探したことが原因だった友達が、学校の図書館で文明の本を見ていたのを、後ろから話しかけたことが最初だった。その友達は喫茶「アルプス」に最初に連れてきてくれた友達で、妹がここでアルバイトをしていると言って紹介してくれた。「カリオス文明」を気にしている千鶴を見て、気になって話しかけてきた彼女、やはり友達の妹なのかも知れない。

 そう思って彼女を見ていると、やはり初対面ではないのかも知れないという思いが強くなってきた。ただ、まだその話をするには、もう少し確証がほしかった。

 秋の夜長に布団の中で本を読んでいると、眠気が差してくる。千鶴は、その頃から眠気覚ましにコーヒーを愛飲するようになったのだが、最初はおいしさなど、まったく分からなかった。

 確かに香りは香ばしくて嫌いではない。それなのに、飲んでみると、こんなに苦いものなのかと思うほど、舌の感覚がマヒしてしまうのではないかと思うほどだった。

 中学時代というと、クラスメイトの中で、コーヒーを飲めるという人は、半分もいないのではないかと思う。もし、アンケートでも取れば、飲めるという人は七割くらいになるかも知れないと思ったが、中には飲めることにしたいと思っている人もいるだろう。そう思うと、千鶴ももしアンケートに答えるとすれば、飲めなかったとしても、飲める方に丸をつけるかも知れないと感じた。

 コーヒーの方が、お酒やたばこよりも大人への入り口にふさわしいと思うのは、お酒やたばこが法律でハッキリと飲める年齢が決まっているからだ。コーヒーに関しては決まりがない。

――どこが違うのだろう?

 と思ったが、他の人に言わせれば、

「そんなの当たり前だろう」

 と答えるだろう。

 しかし、さらにどうしてなのかを質問すると、誰も納得の行く答えを返してくれる人はいないに違いない。

 そんな時、千鶴は、

――してやったり――

 という気分になるに違いない。

 コーヒーの香ばしさを大人だけのものだとは誰も思わないだろうが、コーヒーが「大人の飲み物」だという考えの人はたくさんいる。少しニュアンスを変えただけで、矛盾した答えになってしまうが、それだけに、コーヒーという飲み物が神秘的なものなのだと、千鶴は考えたのだ。

 本を読む時は、コーヒーが欠かせなくなってしまった。

 それでも、夜布団に入ってから、コーヒーを飲むと、今度は眠れなくなってしまう。今まで寝る前に読んでいた本を、朝起きてから読むようにした。寝る前にも読むことはあるが、それは眠れない時の睡眠薬変りの様相を呈してきた。

――早く寝て早く起きる――

 そうすれば、ゆっくり朝の時間を使うことができ、朝食も摂れるようになった。前は朝食を摂ることはしなかったのだが、それは起きてからすぐでは、胃がもたれてしまって、気持ち悪くて食事など摂れなかったからだ。

 ゆっくりと目を覚まし、顔を洗ってスッキリすると、すぐに腹が減ってきて、朝食を食べることができるようになった。

 メニューとすれば、コーヒーにトースト、ハムエッグに、レタス中心のサラダであった。コーヒーとトースト、さらにエッグの香ばしい香りが入り混じって、

――朝ってこんなに暖かなものなんだ――

 と感じるようになった。爽やかさよりも暖かさを求めるのは、千鶴の性格なのかも知れない。

 千鶴は普段から、自分がまわりから、

――大人しくて、暗い女だ――

 と思われていることを自覚していた。

 大人しいのは分かるけど、暗いというのは、どうかと思っていた。確かに明るいわけではないが、明るくなければ暗いのだという理屈は、納得がいかなかった。ただ、本当にそう思われているかどうか分からない。思われているとすれば、心外だと思っていた。

 そういう意味で、爽やかさよりも、暖かさに敏感な千鶴は、自分の性格だと思いながらも、自分が暗いと思われていることに対しての感情だと、直接的な結びつきだとは考えていなかった。

 コーヒーを飲むようになったことと、読書をするようになったことで、間接的に暖かさを求めている自分を感じるようになったのは、悪いことではないと思っている。

 それからの千鶴は、喫茶店が好きになった。

 高校時代も、あまり学校から、喫茶店に行くことは感心できないと言われていたが、平気で立ち寄っていた。さすがに校則違反ではなかったので、問題はなかったが、先生からは、あまりよくは思われていなかっただろう。

 高校時代は、少し転落人生を味わったが、すぐに持ち直したことで事なきを得たが、その時にやはり一緒にいてくれた浩平と、喫茶店でのひと時の暖かさを千鶴は大切にしたかった。

 浩平は千鶴が喫茶店に通っているのを知っていたが、浩平も一緒に行こうとは思わなかった。

――千鶴を一人にしてあげよう――

 という気持ちがあったのも事実だし、喫茶店にいて、何を話せばいいのか分からないだけに、一緒に行くことに抵抗を感じていたのだ。

 高校時代というと、中学時代まで浩平よりも千鶴の方が成績もよく、見た目の大人っぽさがまるで浩平の姉であるか、あるいは、保護者とでも言えるくらいに雰囲気だったが、高校になると逆転していた。

 背伸びして入った高校の勉強についていけず、

――いかにして、自分の精神状態を平静に保てばいいのか――

 ということばかりを考えていた。

 それまでに感じたことのない初めての挫折、浩平もどうしていいのか分からない様子だったが、

――そばにいるだけだ――

 という結論しか出てくるわけもなく、それが功を奏したのは、千鶴の理性と、浩平の暖かさが、それ以上千鶴を迷わせることがなかったことだった。

 千鶴も浩平も、それぞれ読書を趣味にしていた。それがお互いのプライベートな時間の持ち方で、知らず知らずに同じ趣味を持っていたというのは、面白いものだ。ただ、浩平が絵画にも興味があるのを知ってはいるが、千鶴には絵画のセンスはないように思われた。遠近感やバランス感覚が自分にはないことは分かっていたからだ。

「やっぱり芸術って、センスが一番大切なのかも知れないわね」

 いくら興味を持ってやってみようと思ってみても、持って生まれたものがなければ、努力だけで何とかなるレベルというのはたかが知れているように思えた。それでも、たかが知れているという中で自分を試してみるのも悪いことではない。どうやら、浩平もそこから入ったのではないだろうか? 最初から自分に絵のセンスがあるなど、浩平も想像しているわけではなかったからである。

 千鶴も読書以外に他にも趣味を持ってみたいと思っていたが、いろいろ考えたが自分にできそうなものはない。読書のように受け身ではなく、自分から何かを生み出す趣味に憧れを持つ千鶴だった。

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