第5話 千鶴と喫茶「アルプス」

 千鶴は、その日、朝から落ち着かなかった。

 浩平が約束の時間になっても来なかったからだ。普段なら、六時を少し過ぎたくらいまで待つはずなのに、昨日はそんな気分ではなかった。

 いつになくイライラしていた。なぜイラついていたのか、すぐには思い出せなかったが、その日は、浩平が何か伝えたくて呼び出したのだということを意識していたのだ。電話ではずっと待っていたと言ったが、約束の時間を過ぎてまでとは言っていない。そんな言い訳がましい自分にも少しイライラしていたのかも知れない。

 千鶴には、浩平の気持ちの半分は確実に分かっていた。ただ、それは浩平が自分の気持ちとして意識していない部分も若干入っているが、そのほとんどは、浩平自身が分かっていることである。

 それは、千鶴に対しての思いが、

――そばにいることがすべて――

 という意識であった。

 しかし、浩平の中でその思いと矛盾した考えがあることを千鶴には分かっていた。浩平自身は気付いていないが、千鶴に対してそれ以上の気持ちがあるということだ。だから、お互いに結婚を考えた時にどうなるかが、恐ろしいと思っているのだ。

 その理屈は千鶴にしか分かっていない。

 かといって、千鶴も自分のことを、それほど分かっているわけではないので、浩平のことをあれこれ言える立場ではない。ただ、それも幼馴染であれば少し違っているだろう。

 仕事をしていても落ち着かなかった。

 千鶴と浩平は、今まで立場的に微妙だった。どちらかが、上にいて、どちらかが下だったということが多い。幼い頃は、同等だったが、成長するにしたがって、お互いに紆余曲折があった。それぞれの人間として浮き沈みがあるのは当然だが、二人とも良い時、二人とも悪い時というのは、ほとんどなかった。だが、それだけにお互いを支え合うという意味ではよかったのかも知れない。

――そばにいることがすべて――

 という意識が浩平に生まれたのも、当然と言えるのではないだろうか。

 上下関係の入れ替わりを浩平は千鶴ほど意識していない。それは無意識に、

――意識してはいけないこと――

 として感じているからなのか、それとも、浩平の性格なのか、千鶴は考えていた。

 結論として、

――そのどちらも半々で、浩平は持っているんだわ――

 と感じた。落としどころとしては、ちょうどいいところである。

 浩平に比べて。千鶴の方が、

――熱しやすく、冷めやすい――

 という性格であることを気にしていた。

 熱しやすいのは自分で分かる気がするのだが、冷めやすいというのは、自分の嫌なところでもあった。

 嫌なところだという意識があるのに、どうして、冷めやすくなってしまうのか考えてみたが、浩平がそばにいることが影響しているのかも知れない。

 他の男性を意識して少し気持ちが舞い上がったとしても、いつの間にか浩平と比較しているのを感じる。比較していることで、急に相手が頼りない男性にしか見えなくなる。そんなにまわりが頼りになるという話をしても、浩平と比較すれば、頼りなく見えるのだ。

 だからといって、浩平が誰にでも頼りになるなど思っていない。千鶴だけに感じることなのだ。

 千鶴はその気持ちに暖かいものを感じた。そして、その気持ちを大切にしたいと思うようになっていた。その気持ちが千鶴の中でも大きな地位を占めていて、

――そばにいることがすべて――

 という浩平の気持ちに匹敵するものではないかと思うようになっていた。

 大学を卒業してからの千鶴は、以前のような浮き沈みの激しさはなくなった。落ち着いてきたというべきなのか、それとも、あの頃がそういう時期だったと言えばいいのかを考えた。

 やはり、これも半々という結論に行きついた。あの時期にあれ以上崩れなかったのは浩平がいてくれたからで、逆にあそこまで崩れたのも、浩平の影響がなかったかというのを考えると、一概に否定できないところがあるように思えてならなかったのだ。

 その日も仕事を無事に済ませた千鶴は、それ以上でもそれ以下でもない充実感に包まれて、しばし、一人になりたいという気分になっていた。

 今まで、一人になりたいと思った時、いつも浩平と待ち合わせをしている喫茶「アムール」に行くこともあった。

 必ず浩平がいないといけないという感覚に陥りそうなのだが、一度近くまで偶然行った時、喫茶「アムール」でコーヒーを飲んだ。

――浩平がいなくても大丈夫なんだ――

 とその時初めて感じ、喫茶「アムール」は、自分だけの「隠れ家」という様相も持つようになっていたのだ。

 その日は、イライラした気分を紛らわしたいという一心だった。浩平のことを頭に描いてしまっては、却ってイライラを紛らわすことはできない。浩平に電話でヒステリックに答えたのも、無意識のうちに、一人になりたいという気持ちが働いたからなのかも知れない。

 ただ、その日、千鶴は何にそんなにイライラしたのか、ハッキリとは分からなった。たまに訳もなくイライラすることがあったが、それが周期的に訪れるもので、精神が不安定になるのは、躁鬱症の気があるからではないかと思っていた。

 確かに躁鬱症なら訳もなくイライラするのかも知れないが、それにしても、何かきっかけがありそうなものだ。

 そのきっかけが、いつも同じところから来ているのではないかと、最近感じるようになった。以前から継続して気にしていることと言えば、浩平のことくらいだ。訳もなくイライラするほど、人のことを好きになったこともないし、元々、熱しやすく冷めやすい性格なので、継続する感情は、そうたくさんあるわけではない。

 千鶴は、自分の中で、複数の感情が入り組んでいることは分かっていた。躁鬱症だけではなく、二重人格もあったのだとすれば、救いようがないようにも思えた。しかし、躁鬱症の影に二重人格という性格が潜んでいるというのも必然なのかも知れない。ただ、二重人格と躁鬱症は共通しえるのかと言われると疑問で、二重人格に見えるのは、躁鬱症が原因にある場合や、逆に躁鬱症に見えるのは、本当は二重人格が及ぼしている見え方なのだとすると、それぞれ背中合わせだという考え方は違ってくるように思える。

 千鶴は、複数の感情がそれぞれ表裏一体であると思っていることから、二重人格なのだろうと、最近は思うようになった。

――イライラの原因は、表に現れていないところで燻っているから、きっかけになったことも分からない――

 と考えると辻褄が合ってくる。自分の中に相容れないもう一人の自分が存在するのだ。

 千鶴がそんなことを考えているなど、浩平は知っているのだろうか?

 浩平は、千鶴が自覚する以前から、千鶴の性格を理解しているに違いない。

――それでも一緒にいてくれているのは、浩平も同じ二重人格者なのかも知れない――

 と思うと、少し複雑な気がした。

 それでも、相性の合う二重人格であれば、それでいいような気がした。どちらかが悪い時、どちらかがいい、そんな関係であるから、お互いにいつも補っていけるのだろう。

 理屈では分かっていても、やはり一人になりたい時は絶対にあるものだ。それは浩平も同じことで、お互いにプライバシーを大切にするというのは、二人の間での暗黙の了解でもあるのだ。

 その日の仕事はイライラしている割には、早く終わったような気がした。イライラしているといつも時間が経つのが遅いのに、どうしたことだろう? 普段が遅いと思っていて、今日が早かったということは、プラスマイナスゼロで、結局、早くも遅くもなかったのかも知れない。

 会社を出た時は、日は暮れていない。隣のビルの窓ガラスに夕日が当たって眩しいくらいだが、直接夕日を感じないと、ビルの谷間に吹く風が、冷たく感じられる。

 身体が前屈みになってしまい、背中が丸くなってしまうのを感じると、歩くスピードが知らず知らずに速くなるであろうことは分かっていた。

 ビル街を抜けると、そこから先は夕日をまともに浴びることになる。さっきまで冷たく感じたビル風とは打って変わって、日差しの強さを背中に受けて、丸まってしまっていた背筋がピンと張っているのに気が付いた。

 汗ばむ陽気とはまさにこのこと、気が付けば風も吹いていない。

――夕凪にしては、少し明るい気がするわ――

 夕凪についての知識は千鶴にはある。もっとも浩平に夕凪の話をしたのは、他ならぬ千鶴だった。浩平は、千鶴から聞いた話に興味を持って、本で読んでみたり、自分で感じたことを好き勝手にいろいろと想像したりして、イメージを膨らませていた。そこが男性と女性の違いではないかと、浩平は思っていたのだ。

 千鶴は、浩平がそこまで思っていることは知らない。自分が話した程度の知識しかないだろうと思っている。浩平が千鶴と違うところは、話を聞いただけではなく、そこから発想を巡らせるという貪欲さがあることだった。それが精神的な余裕に繋がっているということを、さすがの浩平本人も分かっていなかった。

 千鶴が喫茶「アムール」へ行くのは、ある程度曜日が決まっていた。イライラを収めようと行く時でも、なぜか決まった曜日の範囲内だった。

――やっぱり曜日の周期が私にはあるのかしら?

 月の周期というよりも、曜日の周期の方が千鶴には馴染みが近かった。仕事が月単位であるのもさすことながら、週単位の方が多く関わってくることで、どうしても週単位のスケジュールに月を合わせる形になり、バイオリズムも週単位に落ち着いていた。

 精神的にきつくなるのは、大体水曜日だった。昨日は月曜日だったので、精神的に大丈夫だと思い、待ち合わせを月曜日にしたのだ。水曜日は千鶴が苛立っていることを浩平も分かっているので、浩平からの誘いも水曜日を外すようになった。

 ただ、最近千鶴は思うようになった。

――気を遣ってくれるのはありがたいけど、プレッシャーにもなるのよね――

 水曜日以外は大体大丈夫だと思われていると、それ以外の曜日にイライラできなくなってしまう。相手は気を遣っているつもりでも、却ってきついこともあるのだ。要するに、相手のことを分かりすぎていると、気を遣ったことが空回りしてしまうことが往々にしてあるということだ。

 そして、精神的にイライラしている時に、喫茶「ラムール」に行くということも、浩平は知っていた。浩平も一人で喫茶「アムール」に行くことがあるらしいが、水曜日は外すようにしている。浩平が、前の日に違う喫茶店に行き、そこを少し気に入りかけているということを千鶴はもちろん知らない。喫茶「アルプス」に浩平がまた行ってみたいと思ったのは事実だったが、そこを自分の隠れ家にしたいとまでは、まだ具体的には考えていなかった。

 実は、喫茶「アルプス」に千鶴がかつて行ったことがあった。本人も忘れていることなのだが、アルバイトの女の子のお姉さんと友達だというだけで立ち寄った店だった。

 したがって一人で行ったわけではなく、妹を紹介するという意味で立ち寄った店だったのだ。昨日浩平にコーヒーの注文を受けてくれた女の子が友達の妹で、お姉さんとは仲がいいというのは千鶴が見ていて分かった。一人っ子の千鶴にとって、姉妹が仲がいいというのは、珍しいという意識があったので、見ていて羨ましい気分になっていた。だから、喫茶「アルプス」のことは、意識的に忘れようとしていたのかも知れない。

 千鶴は、夕凪を感じながら歩いていると、いつの間にか、違う道を歩いているのに気が付いた。ここから喫茶「アムール」に行けないわけでもないが、明らかな遠回りだ。考え事をしながら歩いていたわけでもないのに、どうしてこの道を歩いているのか、理解に苦しむ。

 道は田んぼの畦道のようなところで、車一台が通れるのがやっと、舗装はされているが、道のあちこちはつぎはぎだらけで、アスファルトの色もバラバラだった。

――以前にもこの道を通ったことがある――

 とすぐに感じたが、その後今度は、

――昨日だったのでは?

 と、まったく違った発想が頭を巡った。

 気が付けば、千鶴は足元の影を追いかけるように歩いていた。細長い影は気持ち悪く、元々痩せているのを気にしていた千鶴には、この細さは十分気持ち悪さが沸々と湧いて出ているようだった。

 歩いている道は一直線で、目の前に小高い丘があり、その向こうに何があるのか、知っている気がした。

――確か住宅街があって、その手前に喫茶店があったような気がするわ――

 目を瞑ると、その光景がよみがえってきそうだった。

 確かに初めてではないこの道は、大学を卒業して、就職するまでの短い間の休みに通ったような気がした。歩いているうちに、いろいろと思い出してくるところがあったのだ。

 この道を昨日、浩平が通ったことなど、千鶴は知る由もなかった。

――昨日だったのでは?

 と思うとすれば、それは浩平の記憶であって、千鶴の記憶にどうして浩平の記憶が交錯したのか分からないが、もし知っているものがあるとすれば、

――夕凪という時間――

 なのではないだろうか。

 夕凪の時間というと、「逢魔が時」と言われて恐れられている時間だということも、当然千鶴も知っていた。

――一日の中での一番神秘的な時間――

 として意識されているのだが、最近はあまり意識しなくなっていることに、今さらながら気付かされたのだ。

 まっすぐに歩いていると、あれだけ遠く感じられた小高い丘に、あっという間に着いていた。まっすぐに見えてまわりに障害物が何もないと、比較するものがなく、果てしなく遠く感じられるのである。そのため、丘の上に着いて思わず時計を見たが、本当に時間はさほど経っていない。最初に距離を判断し、どれくらいの疲れが溜まるかを想像していたので、肩透かしを食らった感じだ。それでも疲れは同じように襲ってくる。足のだるさは、踵に集中しているのが気になっていた。

 丘までくると、見覚えのある喫茶店が見えた。三角屋根の、丸太で作られた山小屋風の喫茶店、確か名前は「アルプス」と言った。

――まだ、友達の妹はいるのかしら?

 大学を卒業して何年か経ったが、あの時はまだ妹は確か高校生だっただろうか。今は大学生になっているのか就職しているのか分からないが、千鶴は彼女がいない方がいいように思えた。

 理由は、今思い出しても彼女の顔が浮かんでこないからである。

――どんな顔だったかしら?

 妹のことを想像しようとすると、不思議なことに友達である姉の顔も浮かんでこない。もちろん、ずっと友達だったのだから、思い出せなくても、顔を見た瞬間、思い出すことも大いにありうるだろうから、あまり気にする必要はない。だが、妹の場合は一度会ったきりである。

 同じ店にいて、同じ格好をしていれば思い出すこともあるかも知れないが、考えてみれば、思い出す必要がどこにあるというのだろう? 千鶴が覚えているならいざ知らず、相手が覚えていることは、ほとんどないのではないだろうか。覚えていない相手に対し、こちらが覚えていなければいけない道理もなし、ただ、もし相手が妹であれば、姉の近況を聞きたいと思ったのかも知れない。

 卒業してから、姉の方とは連絡が取れない。就職してすぐの頃は連絡を取り合っていたのだが、千鶴の方が、仕事の忙しさにかまけてしまい、連絡をおろそかにしたことから、自分から連絡を取りにくくしてしまったのだ。

 悪いのは自分なのだから、思い切って連絡を取ってみればいいのに、年数を重ねるごとに一時期、どうでもよくなった。それでも、何かのきっかけがあり連絡を取ることができるのであれば、こんなに嬉しいことはないと思うのだった。

 千鶴は喫茶店に近づくにしたがって、以前来た店と少し雰囲気が違っているように思えた。あれから数年経っているのだから、それも当然なのだろうが、逆に年月が経っているわりには、表の扉は、まるで新品のように光り輝いて見えた。

――入り口だけ、造り変えたのかな?

 とも思ったが、掛かっている鈴は、以前はなかったような気がする。

 ただ、鈴はかなり古いものだった。錆びついているのもところどころに見えて、ここ数年でつけたものだとは思えないほどだった。

 扉を開けると、確かに重低音が響く。それだけ年季が入っているということなのだろうが、新鮮な響きにも聞こえた。中に入り扉を閉めると、さらに音が大きく響いたような気がしたのは気のせいであろうか。

 店内は暖かかった。喫茶「アムール」よりも暖かいような気がする。やはり山小屋の雰囲気を醸し出すために使われた丸太からすきま風が吹いてこないとも限らないだろうから、暖房を強めに入れているのだろう。自然な暖かさというわけではなさそうだ。

 キョロキョロしながら中に入ると、

「いらっしゃいませ」

 という元気な女の子の声が聞こえた。

――彼女が妹かな?

 と思ったが、ここまで元気のいい娘だっただろうか?

 女子大生になっているとすれば、高校生とは違って明るくても当然だ。顔を見てみると、見覚えがありそうなのだが、雰囲気として思い出すことはできない。

 店の中は、以前に来た時と変わりはなかった。前に来た時に見た壁に掛かっている富士山の絵が、いまだに飾られているのを見て、余計に店内の雰囲気が変わっていないのを思い知らされた気がした。

 以前来た時と同じテーブルに腰かけて富士山の絵を見ていると、

――全体のバランスに比べて、前に見た時の方が、富士山の絵が小さかったような気がするわ――

 と感じた。

 今回、部屋を大きく感じたのか、それとも富士山の絵を小さく感じたのか、それとも、富士山の絵が遠くに感じられ、それだけ、部屋の奥行きの広さを感じたのであろうか。それぞれに同じ意味なのだが、

――どこを中心に見ているか――

 ということが重要だった。

 千鶴は、喫茶「アルプス」に来てから、違和感があるのに気付いた。

――何かいつもと違う――

 という心境に陥っていた。

 理由についてはすぐに分かった。

――浩平のことを忘れていたんだわ――

 幼馴染でいつもそばにいる存在だと思っていたが、特別いつも考えているという意識はなかった。しかし、今は考えていなかった少しの時間だけにでも違和感を感じるのだ。それは、日ごろから浩平のことを考えていて、無意識であるがゆえに意識していない時があれば、漠然とした違和感として、千鶴の中に残るのだった。

 ただ、浩平のことを思い出したのは、きっかけがあったはずだ。そのきっかけが何なのか、千鶴は考えたが分からない。まさか浩平が昨日来たなどという偶然があるとは思っていないからだ。今日ここに来るきっかけについてもピンと来ない。実に不思議な日であった。

 浩平のことを考え始めると、忘れていたことに罪悪感のようなものがあった。

――決して忘れてはいけないんだ――

 と思ったくらいだが、浩平のことを思っていないといけないと思うことがプレッシャーにはならないことは幸いだった。

 喫茶「アルプス」はあくまでも千鶴の中では隠れ家にしておきたい場所だった。そこに浩平がいる必要はなく、ただ、存在だけを想像の中で感じていればいいと思っている。あくまでも空間と時間は千鶴のものであり、誰もそれを犯すことはできないものだと思っている。

――浩平にだって、自分の隠れ家があるはずよね――

 と、千鶴は考えていた。だからこそ、浩平には気持ちに余裕が持てるのだ。千鶴も、浩平が自分の中で大きな位置を占めていることは分かっているが、すべてではない。

――そばにいることがすべて――

 と言っても、精神的にそばにいるだけでいい時もある。想像の中での浩平がどういう顔をするのか、その時々で違っているような気がする。

 お互いに仕事の時間、家にいる時間まで一緒にいるわけではないので、無意識な想像をしている。

――そういえば、いつも同じ表情ではないような気がするわ――

 他の人を想像する時、千鶴は、いつも同じ表情しか浮かんでこない。それが当たり前だと思っていたが、改めて浩平のことを想像してみると、その時々で違う表情をしていることに違和感はなかった。

 千鶴は、コーヒーを待っている間、店内を見渡した後、表をボーっと見ていたが、ふと我に返ると、マガジンラックに向かい、雑誌を手にした。

 浩平を待っている時に限らず、人と待ち合わせをしている時は、雑誌を読むことはあまりなかった。それよりも、窓から表を見ている方が多い。漠然と眺めながら、人の流れであったり、日の暮れ具合を見ていたのだが、そんな目に見えることだけではなく、他に目に見えないことも見えていたような気がしていた。

 目に見えないものは、漠然として見ていることで、不思議に思わなかったが、他の人には同じ場所の同じシチュエーションでは見えないはずのものを千鶴は見ていたのだ。

 千鶴にはそんなことは分からない。もちろん、他の人にも分かるはずはない。だが、それを知っている人が一人だけいた。それが浩平だったのだ。

 それが、本来であれば、その時間に見えるはずのものではないという不思議なものであることを浩平が知っているからだ。

 浩平は超常現象を信じている。

 もちろん、すべての超常現象を信じているわけではない。そういう雑誌を読むのが好きで、一人でいる時にはよく読んだりしていた。タイムマシンの話など、一旦興味を持つと、本屋に行った時、その手の本を時間を掛けて探すこともあった。ただ、わざわざそのためだけに本屋に行くわけではない。通りかかった時に立ち寄って探すのだ。

 それだけ超常現象の話には興味が継続していて、簡単に忘れることのないもののようだ。千鶴のように、

――熱しやすく冷めやすい――

 という性格ではない。

 千鶴はその日、喫茶「アムール」のマガジンラックで、SF関係の雑誌があるのを見つけた。

――浩平が好きそうな雑誌だわ――

 と思い、自分も読んでみることにした。雑誌を手に席に戻った千鶴の姿を、遠目に見つめているウエイトレスの女の子の視線に、千鶴は気付いていなかった……。

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