第3話 喫茶「アムール」への道
浩平は、すでに喫茶「アムール」には、千鶴が待っていることは分かっていた。千鶴を待たせるために、中途半端な時間を利用して、喫茶「アルプス」に立ち寄ったのだからである。
喫茶「アムール」では、千鶴が本を読んだりすることもなく、いつものように表を見ながら浩平が来るのを待っていた。すでに日は落ちていて、あまり視力のよくない千鶴には、浩平が現れたとしても、扉を開けて中に入ってくるまでは、見えないに違いなかった。
すべてが、千鶴にとっての、いつもの通りの時間経過であった。
表に白い影が見えても、それは浩平ではない。浩平はいつも千鶴の分からない時に入ってくるのだ。
「一度くらい、私に分かるように入ってきてよ」
と、微笑みながらいうと、
「そんなむちゃくちゃな」
と、やはり微笑みながら浩平が返事を返してくる。
こんな他愛もない会話が最初に少しあるのがいつものことだった。普段からあまり会話の少ない千鶴にとって、浩平は長く会話ができる唯一の相手だった。
幼馴染というと、どうしても、子供の頃の恥かしいところを知られてしまっていることが多いので、お互いにそのことに触れないようにしているが、浩平は結構面白がって、わざと触れてくることがある。千鶴も顔から火が出るほど恥かしいことでも、浩平に言われる分には、さほど気にはならない。逆にそれが二人の間での会話の「肴」になっているわけなので、千鶴にとって、大きな問題ではない。
浩平を待っている時、千鶴は違和感があった。それは、今自分が喫茶「アムール」で浩平を待っているということが分かっている中で、どこか違う店のイメージが頭に浮かんできた。
それは、大学時代に学校の近くにあった喫茶店のイメージだった。
――丸太を基調に、三角屋根の、まるで山小屋のような喫茶店――
もちろん、浩平の大学の近くにあった喫茶店とは違うところであるが、案外大学の近くには、そういう雰囲気の喫茶店が多いのかも知れない。千鶴は行ったことがなかったが、表から見ていて雰囲気だけは想像できた。
――どうして行かなかったんだろう?
気になっているなら、行ってもよかったはずなのに、結局卒業するまで、一度も行かなかった。
確かに、大学生活の中で、道を外れた時期もあったが、店が気になった時期があったのも事実。気になったなら、すぐに行ってみようと思う千鶴にとっては、信じられないことであった。
同じ時期に、毎日のようにランチを食べに行っていた浩平が、同じような店を気にしていて、すぐに立ち寄ったことを知らない千鶴だったが、もし知っていれば、そんな気分になるだろう。
――やっぱり同じものを気にする二人なんだわ――
と、思った後で、
――気にはするけど、態度に表すか表さないかということが、私と浩平の一番の違いなのかも知れないわ――
と考え、納得するかも知れない。
知らないだけに、比較のしようもないので、千鶴は、漠然と疑問に感じるだけだった。
千鶴の考え方の原点には、
――浩平との比較――
が常に付きまとっているようだ。
浩平にとって、千鶴と比較することより、千鶴のとっての浩平との比較の方が、頭の中の割合としては、かなり大きなものであったようだ。この時に浩平が入った喫茶店のイメージが千鶴の頭の中に描かれたというのも、神秘的な話だが、千鶴にしてみれば、別に不思議なことではない。
神秘的な話として自分の中の感覚を確かめるために役立つのであれば、それはそれでいいと思っている。まるで夢のような話だが、夢だって、浩平が出てくれば、
――これって本当に夢?
と疑いたくなるほどだからである。
真っ暗な中でいつも浩平を待っている千鶴だったが、浩平の方は、まだ日が落ちていないことで、
――まだ時間はあるな――
と思っていた。
もちろん、時計を見るのは当たり前のことで、待ち合わせ時間まで、まだ三十分近くはある。
――そろそろ千鶴は、「アムール」に入った頃かな?
と感じていた。
ただ、気になっていたのは、いつもよりも日が長いのではないかということだった。いつもなら、もうとっくに日が暮れてもいい時間なのに、まるで夕凪の時間がいつもよりも長く感じられた。
夕凪というと、浩平よりも、千鶴の方が意識していた。怖がりな千鶴は、夕凪の時間の今にも死にそうな夕日を見ていると、何とも言えない気分になってくる。疲れていなくても、身体に襲ってくる脱力感は、空腹を伴うもので、お腹が減っているにも関わらず、食事を見ると、急に胸がいっぱいになってしまって、食べることができなくなってしまうことが多かった。
夕凪という時間に交通事故が多いのは知っていた。どうして多いのかということは、夕凪という自然現象を調べれば分かることだった。
――その時間は、光と影が交差して、色がなくなってしまう――
と思っている。
モノクロに見えるのだから、当然事故も多くて仕方がないだろう。しかも夕方という疲れが一番溜まりやすい時間。それも、事故に結びつく要因なのではないかと考えた。
昔から、この時間帯は、
――風のない時間――
つまり空気が流れない時間であることも千鶴には、気持ち悪かった。昔の人は、
――逢魔が時――
と呼んで、魔物と出会う時間帯という意味で恐れていたということも知っていた。
そんな時間は、一日の中ではあっという間である。
――まるで夢に似ているわ――
千鶴は、夢と比較してみた。
夢というものは、どんなに長い夢であっても、目を覚ます前の数秒で見るものだということを聞いたことがあった。それが本当であるとするならば、毎日訪れる時間帯なのだが、あっという間に終わってしまう夕凪と似ているのではないだろうか。
夕凪の夢までは見たことはなかった。しかし、千鶴は夕凪の夢を見たことがある人が、すぐそばにいることを知らなかった。他ならぬ、浩平だった。
浩平は、夕凪を意識しているわけではなかったのに、夕凪の夢を時々見る。少し怖い夢であったが、目が覚めてくるにしたがって、ほとんど内容は忘れているが、夕凪の夢を見たということだけは意識としてはあるようだ。
千鶴は、意識しているのは、当然怖いからであった。それなのに夢を見ていないというのはおかしいと思っていたが、
――夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れてしまうことが多い――
ということを思い出せば、夢を見ていたとしても、忘れてしまっているのかも知れないと思うと、今度は忘れてしまいたくないと感じるようになった。
怖いものは、見たくないという意識があるが、怖いものでも、見ない方が却って怖いこともある。夕凪の夢など、その一つではないだろうか。
怖い夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れてしまうことの多い人と、怖い夢だけを集中して覚えている人と二通りではないだろうか。たまに、
「同じ夢を何度も見ることがある」
と言っている人がいるが、それが本当に怖い夢なのか、それとも、同じ夢を何度も見ること自体が怖いことなのか、話している本人にも、感覚的に分からないことがあるようだ。
浩平は、怖い夢は覚えているものだというが、千鶴は忘れてしまっている。
――千鶴は都合のいい夢ばかり、覚えているんだな――
と、浩平に冷やかされたことがあったが、苦笑いするしかなかった。
確かに、同じ夢を何度も見たという経験はない。ただ、夢の中で、
――どこかで見たような光景――
と、まるでデジャブのような感覚に陥ったことがあった。現実世界での思い出なのか、それとも過去に見た夢が回想しているからなのか、その時は俄かに分かるものではなかった。
――怖い夢と、夕凪の時間――
それは切っても切り離せない関係ではないかと感じていたのは、千鶴の方だった。
夕凪の時間はあっという間である。気にしていないと、いつが夕凪だったのか、分からないだろう。
――風の止まってしまった時間帯――
である夕凪は、風の流れなど、よほど強い風でないと、吹いていようが止まっていようがあまり気にならない人が多い中、あっという間に過ぎるのだから、余計に気が付かないはずだ。
ましてや、モノクロに見える時間など、夕凪の時間を意識していても、
――いつだったんだろう?
と感じ、簡単に分かるものではない。
そんな微妙な時間を気にしていると、時間の感覚がマヒしてしまって、気が付けば思っていたよりも、時間が経っていたなどということも少なくはない。特に人と待ち合わせをしている時など、夕凪のことを考えると、待ち合わせに遅れてしまう可能性もあるかも知れない。
浩平は、待ち合わせをしているその日に、夕凪のことを考えている自分にハッとした。
――普段なら、こんなことはないのに――
と思い、時計を見ると、まだ待ち合わせには少し時間があった。
というよりも、今から行けばちょうどいいくらいかも知れない。もちろん、待ち合わせに遅れる時間ではない。このまま行っても、約束の時間の、十五分前にはつけるだろう。
そう思い、歩を喫茶「アムール」に向けた。
――ここからなら、ゆっくり歩いても十五分あればつけるだろう――
という計算であった。
そして、その間に夕日が沈むこともないはずである。浩平は目の前の足元から伸びている自分の影の長さを気にしながら、歩いていた。夕日を背に、足元を見ながら歩くのだから、あまりいい歩き方ではないが、これも浩平のくせだった。
「足元ばかり見ていないで、前をしっかり見て歩きなさい」
と、子供の頃、親や先生から言われたものだったが、くせなのだからしょうがない。治そうという気にもならなかったし、危なくなければいいと思っていた。
幸い、車が多い道ではない。
スピードを出すには狭すぎる道なので、さほど車を気にすることもないだろう。
ここから喫茶「アムール」までは、一本道である。したがって、足元の影を見ながら歩いていると、
――いつの間にか到着していた――
という感覚になるだろう。
千鶴と待ち合わせをしている時、足元の影を気にしながら歩いたことはなかった。考えてみれば、足元の影を気にしながら歩く時というのは、体調が悪い時が多かったような気がする。
――足元を見て歩くのは、頭痛から頭を上げて歩くのが辛いからだ――
というイメージが強かった。
そういえば、今日も体調が悪いというほどではないが、身体がどこか重たい。そして冬のこの季節なのに、少し歩いただけで、汗が背中に滲んでいるのだ。
――熱っぽいのかな?
寒気がするわけではないので、気にするほどのことはないと思っていたが、無意識ながら、影を見ながら歩いていると、普段の感覚で、
――悪くないものまで悪くなったような気がしてくるのではないだろうか?
と、感じるようになっていた。
病は気からというではないか、シチュエーションで、体調が気になってしまうのは、気にしていないようで、いろいろ自分のことを考えているからなのかも知れない。
普段から考え事をすることの多い浩平は、気が付けば、何事も自分に照らし合わせて考えていることを考えている時の後半に気が付いて、それから少し考え方が絞られてくる。絞られるというよりも、
――いつも同じところに着地する――
と言った方がいいのかも知れない。
考え事というのは、どこから入っても、結局のところ、自分を納得させるところに落ち着こうとするものなのかも知れない。そう思うと、考え事を無意識にしていても、どこかで我に返ることがあるというころ¥とだ。そうでなければ、考え事を終えるきっかけがないような気がしていた。
その時も浩平は我に返った。
何を考えていたのか忘れてしまったが、やはりいつも同じところに落ち着いたのだと思うと、もう、足元の影を見ることもなくなっていた。
顔を上げて歩いていると、目の前には目指す喫茶「アムール」が小さく見えていたのだ。
背中に掻いた汗がスーッと引いていくのを感じた。それは、まるで最初から汗など背中に滲んでいなかったかのようで、身体のだるさも自然と消えていた。
ただ、この感覚は今までにも何度もあったことだった。喫茶「アムール」という目的地が見えてホッとしたからなのか。中に待ち人である千鶴がいるのを分かっていて、笑顔で出迎えてくれるのが、瞼の裏に浮かんでいるからであろうか。
その頃になると、やっと夕日は建物の影に隠れようとしていた。
――だいぶ日も長くなったものだな――
冬至の時なら、もうとっくに日の暮れている時間だ。春がそこまで来ているように思った浩平だった。
扉を開けて店内に入る。
店には、相変わらず人はあまりいない。
浩平は、店内を見渡したが、そこに千鶴の姿は見られなかった。
――あれ?
時計を見ると、約束の時間のまだ十五分前である。
「おかしいな」
と呟きながら、いつもの指定席に腰かけた。
浩平は無意識に座ったつもりだが、そこは千鶴が座っていた席だった。不思議なことに窓の外に広がった景色に違和感はなかった。ただ、座った瞬間、暖かさを感じたのは違和感だった。そこに誰かさっきまで座っていたのは間違いない。
――千鶴が座っていたのかな?
でも、千鶴なら、浩平が座っている席に腰かけることはない。おかしいと思いながらも、少し待ってみることにした。
約束の時間まではまだ十五分もあるのだ。メールか電話で確認してもいいが、約束の時間を過ぎているわけではないので、そこまでする必要はないだろう。
――今連絡するのは失礼だ――
親しき仲にも礼儀ありであった。浩平は、ブックラックから雑誌を持ってきて、それを見ながら待つことにした。
浩平が座ったその時は、もう夕日は沈んでいて、窓には店内の明かりが反射して映し出されていた。表を見るには注意が必要で、疲れるのが分かっていた。だから雑誌を読みながら待つことにしたのだ。
雑誌を開いて読んでいると、
――雑誌など見るのは久しぶりだな――
と思っていた。
興味深い記事として、心理学の先生が書いているものがあり、少し気にして見てみることにした。
内容は、タイムマシンについての考察のようだったが、これであれば、浩平でなくとも、誰もが興味を持つだろう。
ただ、他の人なら、それなりの研究成果を期待するかも知れないが、浩平の観点は違っていた。
――しょせん、今考えられているタイムマシンの考えには限界があるんだ。それをいかに科学的に言い訳するか、その考察なのではないかな?
というものだった。
時間を飛び越える。特に過去に戻るということは、危険を孕んでいる。過去に戻って歴史を変えてしまったら、現代はまったく違うものに変わってしまう。
また、過去に戻って、何も変えなかったとしても、今度今に戻ってくる時というのは、どこに戻ってくるというのだろう?
現代にも、一歩だけ前にも、一歩だけあとにも、自分は存在しているのである。自分の存在しない時間にピンポイントで戻ってこれるかどうか、それが問題であった。そのことについて本はいろいろ説明して書いていた。
このことは、浩平も以前から考えていたことだった。しかし、納得のいく説明ができないまま、時々考えては、結論が得られなかった。
その説にはいくつかあった。
一つとしては、過去に戻ってしまえば、結局現代に戻ってくることはできないというもの。小説やドラマでは、この点について一切触れていないものが多い。なぜなら、
「戻ってこれてよかったね」
と、ハッピーエンドで結ぶのが最高にいい終わり方である。これを下手に説明してしまうと、話が終わらなくなってしまう。いや、終わるきっかけを失うとうべきであろう。
戻ってこれないということにしてしまうと、ハッピーエンドでは終わらない。そんな小説も少なくはないが、SFファンなどであればいいのだが、一般の読者にはウケないのは仕方のないことかも知れない。
また、もう一つの説としては、戻ってこれるが、戻ってきた時には、必ず時間の歪みが生まれてしまう。それを何かの方法で辻褄を合わせようとする考え方だ。その話は、まさしく、
――浦島太郎――
のお話になってしまう。
竜宮城という別次元の世界に行っていて、戻ってきた時に、知っている人は誰もいない。つまり、時空の歪みに迷い込んでしまった形だ。
それを調整しようとして、乙姫様からもらった玉手箱を開けることで、浦島太郎はおじいさんになってしまった。それこそ、時空の歪みを解消する「特効薬」ではないだろうか。
浦島太郎の話が書かれた時代を考えると、そんなに昔から、本当に時空の歪みについて考えていた人がいるのかと思うと恐ろしくなる。
――昔に書かれたというが、本当は近代に誰かがおとぎ話として描いたものなのかも知れない――
という憶測も成り立ってしまう。
だが、逆に昔に書いたのだとすると、もう一つの説が浮かんでくる。
それは、タイムマシンを完成させた人がいて、その人は最初から現代に戻ってくる気持ちを持たずに、過去に戻って、そのまま没したのではないかという説である。その人が浦島太郎の話を書いたのではないかと思うと、それなら辻褄が合う気はする。
だが、ここには大きな落とし穴があった。
その人が過去に戻ってそのまま没してしまうのであれば、
――その人には子供がいたのだろうか?
という考えである。
同じ時代に、その人の先祖が存在している。何代か後の子孫に自分がいるからだ。
先祖と子孫が同じ時代に存在するということが、時間的な観念で存在できるのであろうか?
雑誌では問題ないと書いているが、浩平はどうにも納得がいかない。他の話は、ほとんどが浩平の考えとほとんど変わらなかったが、この意見に関しては、考えが真っ二つに割れた感覚だ。
浩平は、雑誌を読みながら唸ってしまった。
最初は、理屈の辻褄を合わせる言い訳のような話に終始するのかと思いきや、浩平自身の深層心理にまで食い込んできそうな話を読んでいると、本から目が離せなくなってしまった。
浩平は勉強が嫌いな時でも、いつも何かを考えているようなところがあったが、ここまで詳細に考えていたわけではないにも関わらず、結構次元の話や、タイムマシンのような、現在、過去、未来の関係について考えることが多かった。
中には同じようなことを考えている友達もいて、時々会話に熱を帯びさせることもあったが、一人で考えている時の発想ほど、深く抉ることはない。それでも会話で熱を帯びたのは、忘れてしまわないように会話の中で考えを確認することが大切だと思ったからだった。
ただ、これを学問として研究しようとは思わなかった。自分で考えている分にはいいのだが、これを科学的に解釈しようとは思わなかった。
それよりも学問にしてしまうことが怖かったというのが本音かも知れない。
――突き詰めれば突き詰めるほど、抜けられなくなる――
この気持ちが怖さに繋がったのだ。
雑誌を読んでいる時間、そしてまわりの空間は、完全に浩平が占有していた。他に客がいないのは、そういう意味では幸いだったのかも知れない。
もちろん、こんな話をできたのは、学生時代の友達だけで、
――こんなことを考えていることを知っている人など誰もいないだろう――
と思っていたほどだ。
だが、どこかで千鶴も浩平が考えていることを分かっているようだった。浩平ほどではないまでも、千鶴の方でも、少し興味を持って、本を読んだりしているようだった。
もちろん、浩平も千鶴が自分が興味を持ったことに対して、同じように興味を持っているなど、知る由もなかった。
浩平が興味を持つことがなければ、果たして千鶴も興味を持つことはなかったのだろうか?
もし、千鶴が興味を抱いていることに浩平が気付いていたとしても、
――俺が興味を持ったからだ――
としか思わないだろう。
それほど、浩平にとって、この思いは自分独自のものであり、千鶴であろうとも、
――犯してはいけない聖域のようなものだ――
という認識でいるに違いない。
浩平は、千鶴が来るのをずっと待っていた。
浩平は人を待たせることもするが、自分が待つことに対しても、さほど苦にしない。本当は気が短い性格なのだが、遅れてくる人を待つことにイライラすることはない。待っているということ自体、嫌いではないのだろうか?
それでも、一時間近くは待った。さすがに現れないのはおかしいと思い、メールを入れてみる。
返事は返ってこない。
――どうしたんだろう?
ここまで来れば電話してみるしかない。携帯に電話を入れる。
「お掛けになった電話番号は、電波の繋がらないところにいるか、電源が切れているかで繋がりません……」
というアナウンス。
電車などでの移動中なら、留守電のアナウンスにいつもの千鶴ならしているはずだ。今日に限ってし忘れているのだろうか? 気にはなったが、連絡が取れないのであれば仕方がない。今日は帰ることにするしかないと思い、店を出た。
表は完全に夜のとばりが下りている。住宅街のわりに明かりが少ないことで、余計に寂しさが募ってきた浩平は。さっきの夕凪の時間とは打って変わって強くなった風を感じながら、家路を急いだのだった……。
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