第100話 切り拓く意志〈5〉
世界は何も変わっていないかのように朝を迎える。左前腕と左大腿部の手術の跡をしばらく見つめてから、朱音は着替えを済ませた。玄関の手前に朝春の姿があって足を止める。
「危険なことはやめて欲しいと言ったはずなんだけどな」
朝春は苦言を呈す。それに対して朱音は深く頭を下げることしかできなかった。
「たくさん無理を言って、迷惑をかけて……ごめんなさい」
頭を下げる朱音に兄は嘆息する。頭を上げてくれと言われて、ようやく朱音は頭を上げた。朝春はなんとも言い難い複雑な表情で朱音を見遣る。
「お前がそこまでする必要はあるのか?」
「兄さんにとっては取るに足らないことかもしれない。でも私にはとても大切なことなの。兄さんは母さんや私が目を覚まさなかったら放っておく? それと変わらないわ」
放っておくことなんてできない。友人ではあるけれど、家族と変わりなく助けたいと思うのはおかしいだろうか。
「兄さんが心配してくれているのは分かってる。けど、どうしても行かせてほしいの。お願いします」
今度は深く深く、頭を下げる。
以前のように言い争いになることは避けたい。何より、兄が心配する気持ちが今は少なくとも理解できるのだ。朝春は少しだけ寂しそうな顔をして、朱音に問いかけた。
「そんなに大切なのか?」
「今までたくさん助けてもらったの。だから……助けたい」
再び訪れる静寂。しかし、今までのような息苦しさはなかった。きっと、全てを話した上できちんと思いを伝えることができるからだろう。
しばらく沈黙が続いた後、動く気配を察して朱音は顔を上げる。朝春は諦め切った様子で腕を組んでいた。
「今まで色々我儘を聞いてきたんだ。帰ってきたら、俺の我儘も一つは聞いてくれよ」
それは必ず帰ってきてくれという、兄なりの約束だった。本当は送り出したくないと分かる声音は静かな余韻を残して消える。
兄というより父親のようだと伝えたら怒られてしまうだろうか。それでも、認めてくれたことに喜びと安堵が胸に訪れ、強張っていた気持ちが少し和らいだ。
「あれで父さんもお前のことを心配しているんだ。無理はしないでくれ」
頭にポンと手を乗せられる。幼い頃、兄がよくやってくれていたことを思い出す。
多分、兄にとってはいつまでも妹で。両親にとっては子供なのだ。
きっと理解しようとしなければ理解できないままだ。溝は簡単に埋まるものではないけれど、理解しようと思ったところからきっと何事も変わり始めるはずだ。送り出してくれる兄に応える言葉は一つしかなかった。
「……兄さん、本当にありがとう。行ってきます」
兄の見送りのもと、朱音は家を後にする。
残夏の風に秋の香りが微かに混じって寂寥感を覚える。病院の敷地内に入り、出入り口に近づくと拓海の姿が視界に入った。
拓海は朱音に気がつくと心配そうな表情で歩みを寄せた。表面は取り繕えても拓海にはお見通しのようだ。朱音は苦笑いを浮かべる。
「朱姉、大丈夫?」
「大丈夫、って言ったら怒られそうね」
「……何が不安? 話してよ」
穏やかな口調で拓海に促される。燻っていた不安に気づいていたが故に外で待っていたのだろう。年下に気を使わせてしまっているなと不甲斐なく思うが、ここでわだかまりを残してしまう方がよくない。邪魔にならないよう端に寄ってから、朱音は話し始めた。
「……あの深海にいた男の子の影に飲み込まれそうになった時のことなんだけど」
「うん」
「飲み込まれる前に一ノ瀬君の手を掴んだんだけど、振り払われてしまったの。もしかしたら、こっちに戻ってくる意思はないんじゃないかって。彼が望んでいないことをしているんじゃないかって思うところがあって……」
言葉を紡ぐごとに不安と胸苦しさが肥大していく。
存在を否定されたという少年の言葉が棘となって抜けない。殺されるということは存在を蔑ろにされていることに他ならない。そんな仕打ちを受けて、帰ってきたいと思うだろうか。
「和兄が朱姉の手を振り払う理由なんて、一つしかないよ」
拓海は何の迷いもなく、そう告げた。
巻き込みたくないが故に突き放したのだと、拓海は信じて疑わない。
その考えはもちろん頭にあった。けれど、どうしても助けを拒絶しているように思えて仕方がなかったのだ。相手のことを信頼していないのではという、なんとも言い難い罪悪感が募る。
「……まずはさ、会ってみよう。全部それからだよ」
拓海の言う通り、心配をここで重ねても変わるわけではない。二人は改めて病院内へ足を向けた。
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