第75話 変調〈4〉
「――なにここ⁉︎」
その声で唐突に現実に引き戻される。誰かの記憶を見ていたと思ったのも束の間、天を見上げて和真は息を呑んだ。
「空が真っ赤……!」
拓海に続いて桃香が声を上げる。
桃香が言ったように夜空は真っ赤に染まっていた。空に浮かぶ満月は煌々と輝いていて、それが異常さを引き立てている。
それだけではない。五人の目の前には無数の――それこそどのくらいいるか分からないほどの異形たちがいた。獅子、狼、鷲、牛型などさまざまな種類の異形が集まっている光景を見て、感じたことのない怖気に襲われる。
それと同時に透明の異形たちが一斉に動き出した。
和真は拓海に肉薄した猫型の異形に一陣の風を迸らせる。消失するのを一瞥し、自身に飛びかかってきた狼に蹴りを見舞った。狼が土埃を上げて地面に着地するのと同時に、正方形の空間が体を取り囲むと断裂して消えていく。
気を取り直したのだろう。拓海も地面に手をつけて結晶の楔を隆起させ、異形を消失させた。和真は拓海と共に前線に立ち、中衛で修司が援護する。
「気をつけて! できるだけ群れを統率しているものを狙いましょう!」
朱音の一声に応じるように青い一閃が遠方を飛ぶ小型の竜を穿った。立て続けに竜の体に吸い込まれるように中る。地上では結晶の波が隆起し、突進してきた猪の群れを飲み込んでいった。
朱音が目を凝らし、その瞳が僅かに青の光を帯びる。
群れの中で青焔が立ち上がった。その炎は異形の身を焼き、印を刻む。
「刻印を目印にして!」
すかさず立方体が数匹の印付きの異形を囲う。内側から空間を破壊するために暴れるものの、水が圧し、駄目押しと言わんばかりに空間が引き裂かれた。
一斉に異形の目が朱音に向く。
それは当然の反応だ。前に出ていた和真は咄嗟に朱音の元に向かおうとする。それを阻もうと一部の異形が和真に狙いを合わせた。瞬時に結晶の壁ができて異形の進行を阻むと共に、水が飲み込まんと立ち上がる。
「和兄、行って!」
津波と相違ない水が大群を飲み込んでいくのを横目に、和真は空を駆ける。
朱音は地を割りながら向かってきた植物の根を焼き払い、肉薄する異形数匹を消失させた。しかし、捌ききれずに虎に似た異形が牙を剥く。
「朱音さん、そのままで!」
朱音の目の前に展開されたのは正十二面体の空間。異形の体が弾け飛ぶと同時にそれは消失する。それを見届けた桃香はすかさず朱音のそばに立ち、新たな空間を生み出した。腰を落として耐えるものの、突進や爪が空間に当たる度に桃香の体が不安定に揺らぐ。
しかし、それ故に和真への狙いは皆無となる。
鳥型の異形を足場にしながら切り落として腕を薙ぐ。二人を狙う異形を風の爪が喰らうが、そこから逃れた
「ごめんなさい……!」
桃香の言葉に動揺せず、朱音は狒々をあえて懐に迎え入れる。
愚直に突っ込んできた狒々は事前に組まれていた空間障壁に強く弾き飛ばされた。土埃を上げて転がる異形を青い炎が捕らえて焼き尽くす。朱音と桃香のそばに着地し、和真は異形の群れに目を向けた。
「……まだまだッ! 周りのことは任せてください!」
「ええ!」
「頼む」
和真と朱音は一度目を見合わせるとすぐに異形たちに視線を戻した。朱音が目を伏せて息をつくと、彼女を中心として濃密な力が周りに集約していった。和真はそれに合わせて風を制御する。
風元素が担うのは呼吸とエネルギー。それならばと考えて、以前に相談していたことがある。
空間が弾ける音、異形の断末魔の咆哮、何かが地を穿つ喧騒。それらをすべて埒外にするほど集中した後、朱音は和真に目配せし、異形に向かって手を向けた。
「これで……!」
各方面で光が宙を舞う中、青焔が天から飛翔する。
流星のようなそれは風のエネルギーを乗せ、火力を爆発的に上げて異形たちに降り注ぐ。一気に異形たちが灰塵と化し、群れが機能しなくなった。
「もう少し! 気をつけて!」
「はい!」
和真たちは残った異形たちを屠っていく。気を抜けばその先には死が待っていた。
どれくらい経っただろう。周囲が明るくなり、赤く染められていた空は淡い東雲色へと変わり始めていた。
和真が狼型の異形を仕留めた時だった。光を伴いながら形が崩れると、辺りが白と青の風景に変わった。この風景が今以上に安堵感を与えてくれることはないだろう。
「戻ってきた……」
立ち止まり、和真は肩で息をする。息を整えながら冷や汗か普通の汗か分からないものを袖で拭った。
和真の怪我は既に治癒していたが、所々にある血の跡が先刻までの出来事を生々しく語っていた。息を切らした拓海はその場に座り込んで、全身から力を抜く。
「もも、ありがとう。海を渡る前にやってくれたやつ、すごく助かった……」
「ううん。本当、役に立ってよかったよ……」
幸い和真は桃香が付加してくれた空間障壁の世話になることはなかったが、皆あれのお陰で大事に至っていなかった。感謝してもしきれない。息が少し落ち着いたところで和真は座り込む皆に目を配った。
程度は違うがそれぞれ怪我を負っていた。前線に出ていた拓海と修司は細かいけれど傷が多い。あれだけの数の異形を相手にしたのだ。むしろ、大事がなかったのが奇跡と言ってもいいかもしれない。
和真は座り込む修司の背に手を当てる。手に柔らかな光が宿り、擦り傷や打撲が癒えていった。傷が癒えたと分かった途端、修司が困惑と不服が混じった声を上げる。
「一ノ瀬、お前――」
「今日は異常事態だったんだ。このくらいはいいだろ?」
不平不満を言われる前に離れ、和真はすぐに朱音の元に歩み寄った。酷使したのだろう、目を伏せたまま息を整えていた。ちょっとごめんと一言かけて朱音の目元に触れる。温かな感覚に朱音が少しだけ肩を震わせ、程なくして手を離す。
「五十嵐、少し落ち着いたか?」
「え、ええ。ありがとう……」
朱音は目を開け、困惑した様子で返事をする。拓海、桃香と順に声をかけた後、和真は腰を下ろして一息ついた。
皆誰も喋らないが、休んでいるうちに徐々に平静を取り戻して気力も戻ってきた。極度の緊張から解き放たれて気が緩む。落ち着いたところを見計らって、朱音が周囲を確認してから声をかけた。
「今日は大分無理をしたから、もう戻りましょう」
「はい、今日はもうまともに動けないです……」
身が重いようでゆるゆると桃香が立ち上がる。皆で境界に向けて歩き出したその時だった。
得体の知れない感覚が体を駆け抜け、先ほどまであった緩い空気は凍りついた。振り返ってあるものを視界に捉えた瞬間、体が動かなくなる。
人影だ。しかし、一目見てそれが異常であることを全身で理解する。
そこにあったのは、全てを塗り潰す黒。
今まで感じてきた恐怖を塵と化してしまうほどの、混沌として殺意に塗れた視線がそこにあった。
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