第74話 変調〈3〉

「時間も押してしまうし、そろそろ海を渡りましょうか」


 朱音の提案に皆が頷き、店を後にする。気配を探ると離れた場所に魚の気配を感じてその場所を目指した。繁華街から離れて少し落ち着いた隣駅に近づいたところで、透明な魚が緩やかに人が近づいていくのを目にする。


 それを見て先日の光景が脳裏に蘇った。和真は咄嗟にこっちに来いと思念する。

 その思いに感化されたのか魚はゆるりと方向を変えて和真たちの元へとやってきた。魚を連れ、人目のない場所に移る。


「あ、ちょっと待って」


 魚に触れようとした時、桃香が声を上げた。何事かと思って皆が振り返る。

 桃香は気にすることなく朱音の手を握って目を閉じる。少ししてから拓海、修司、和真と順に同じことをして手を離すと笑った。


「おまじない。一回だけだけど、みんなのこと守ってくれる空間組んだから。あ、修司君に頼んで色々検証済みだから安心して。性能は折り紙つきだよ!」


 想像もしていなかった発言に和真は呆気に取られてしまう。朱音と拓海も同じようような反応だ。三人が戸惑う中、修司がさっぱりと返す。


「一回だけだけどな」


「繰り返さなくていいから、そこ!」


「一番重要なところだろ。あと、この空間障壁は身に危険が及ぶ攻撃の際に展開するようになっている。だから軽いものだと反応しない。いざという時のものだと思っていて欲しい」


 修司の補足を聞いて、拓海が残念そうな目を桃香に向けた。


「もも、説明ガバガバだよ?」

「説明しようと思ってたと・こ・ろ!」


 三人のやりとりを見てこういう感じだったなと、自然と笑みが零れる。

 不甲斐ないと思うことがある中でも、それぞれができることをいつも模索していた。目の前の出来事に囚われすぎて、離れている時はそんなことすらも忘れてしまっていた。あの時やるべきだったのは、塞ぎ込んで無闇に歩くことではなかった。


 浮かぶのは後悔。けれど、今するのはそれではない。視線を向けると皆が頷いた。


「行こう」


 海を渡ることに抵抗がないと言えば嘘だ。それでも先に進まなくてはいけない。

 真実が知りたい。魚がどうして存在しているのか。なぜ命を喰らうのか。どうしてそれを自分は見ることができるのか。できることなら、根本的にこの件を解決したい。

 指先が魚に触れる。波に体が押されると同時に目眩がした。覚えのある感覚に襲われ、ある予感を抱きながら和真は閉じていた目をゆっくりと開ける。





 見知らぬ部屋の中に立っていた。机や本棚といった主要なものはあるが飾り気はなく、簡素な部屋だ。

 自室から出るとリビングでは音量が落とされてクラッシック音楽が流れていた。リビングにある机で突っ伏している母親を見て、仕方がないなと思いながら肩を揺する。


「母さん、こんなところで寝ないでよ」


 母親はうーんと微かに声を上げて身じろぎすると、ゆるりと顔を上げて笑った。

 比較的若くして子供を生んでいるので笑顔は衰えを見せず華やかだ。傍目から見ても美人と言われる部類の人だと思う。


「どうしたの? 眠れないの?」

「それはこっちの台詞。なんでこんなところで寝ているの」


 そう言いながらもテーブルの上に置かれている空き缶の類を見て事情は察していた。普段母親は至って真面目なのだが、精神的に参った時はこうして酒に溺れていた。


 ただ、苦労を知っているが故に何も言えなかった。子供を生みたいが故に大学を中退せざるを得なくなり、その後の幸先はよくなかったらしい。傍若無人な従兄に名を借りられて借金を背負わされるという不運も重なった。


 何よりも父親が不明だったことで親戚から不興を買った。祖父母は父親が誰であるか知りたがったが、母親はそれを強く拒んだらしい。集まらなければならない正月などの行事で親戚が事あるごとに話をしていれば、嫌でも己の立場というものが理解できるようになる。


 父親不明の子供を生むと決めたのは母親なのだから、その苦労は当然だと皆が思うだろう。けれど、そうは思えなくて無言のままテーブルを片付ける。


「飲むのはいいけど、程々にしなよ」

「はぁい」


 酔っているためかふにゃりと笑い、甘い声で返事をした。やれやれと肩を落とすと残っていた皿とコップを洗う。洗い終えたところで不意に母親が背後から抱きついてきた。今日はやけに絡んでくるなと思う。


「何?」

「ふふ、随分おっきくなって、格好よくなってきたなぁって思って」


 中学生。まだまだ大人とは言われるには程遠い年齢だ。歯痒さしかなくて、腕から逃れると不貞腐れたように返す。


「別にそんなことないと思うけど」


 するりと頬を撫でられる。撫でる指先が妙に色気を纏っていた。


「そんなことない。うん、でも、ほんと……あの人に似てきたなぁ。あの人そっくり」


 うっとりと蕩けるような笑顔は女そのもので。

 何よりも、言われた言葉が自分ではなく、別の誰かを見ていることを示していて。

 言いようのない不快感が全身を巣食う。

 鈍い音が響き、我に返る。突き飛ばされた母親の顔は青ざめていた。


「……あ、ご、ごめ――」 


 詫びの言葉を拒絶して家を飛び出す。

 今はただの一秒もそこにいたくなかった。体を虫に這われるような不快感はきっと忘れたくても忘れられないだろう。


 家を飛び出しても当然行くところはなく、真夜中の公園で一晩を過ごす。翌日になって街をうろついているところを補導され、挙げ句の果てに母親が亡くなったと知らされた。


 酒が入っていたから正常な判断ができなかったのだろう。道路を横切る時に自動車に撥ねられて救急搬送されたらしいが、打ち所が悪くてそのまま亡くなったのだという。


 葬式の時、涙は出なかった。

 ただ、人は必ず死ぬものだと。人の命などあっけないものだと思った。


『――あの子、母親が亡くなったっていうのに泣きもしない。怖いわ』

『そもそも、あいつが原因なんだろ。本当にどうしようもないな』

『本当ね。まったく、父親はどういう人なのかしら』

『ほら、あの人、若い頃水商売していたんでしょう? そういう関係の人なのかもねぇ』

『あれを爺さんや婆さんが引き取るんだって。いやあ、大変だ』


 罵詈雑言ばりぞうごん


 向けられる音が鬱陶しくて、横髪を伸ばしてイヤホンを耳にした。

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