第3話 彩りの草原2
――青い空の下で緑の中を走る二つの立花明日美。文字の方の明日美は真っすぐ進むだけでなく時折カーブしてみせた。柔軟な? 体を活かして右に左にと動き、明日美もつられる。
「はあっ、はあっ」
息切れが始まりわき腹を抱えながら走る。追う速度が落ちていき文字とはどんどん遠ざかっていく。
「――……うぅ」
疲れが限界に達し、たまらず腰を折りその場で座り込む。
書ききった文字とは不動の成果であり書いてからもじっくりと向き合えるものだと思ってきた自分にとって、文字が勝手に動き出すなどもっての外だった。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
息を整える。体が熱い。いつからか、この草原を緩やかに撫でていく風が自分を冷ましているのに気が付いた。
心地良い風だ――。
気持ちが良い。気が緩んだ明日美はその場で仰向けになる。深い青の空に癒されていく。
一通り動いた後で休んだ後の頭は爽快な気がする。柔らかい草を枕にしながら自然と思いが浮かんでいく。
――文字とは。
同じものでも書き方によって変わるのは知っている。膨大な漢字を組み合わせるとあらゆる象意を表せる。変幻自在の世界で、強く堂々と自らの思いを込めて表せる事を魅力に思っていたのかもしれない。
私は。習字をやってきたけれど。
まだ字というものを知らなかったのか。見慣れたものであっても、常識を超えた可能性を秘めているのか。偏見など知らぬという様に、人を平然と置いてけぼりにしてみせるものだったか。私が知らなかったのか。文字は動くものだと。そうだと思っていたものは実はそうではないのだという……。
風が髪を揺らしていく。草の発する匂いを吸い込んでは吐き出す。良い気分だった。
(私の名前。つまり私自身の中に知らぬ間に名前が動き出した原因があるのか)
そもそも何故明日美という名前を付けられたか思い返してみた。
両親からはっきりと聞いた覚えは直ぐに湧いては来ない。しかしよりよい明日を美しく生きる子とか、そんな風に前向きな意味で名付けた人は名付けたのでは無いだろうかと想像した。
……未知なる世界でも前向きに明日を見て生きるという言葉が自分に似合ったとしてもだ。それで動き出した名前に説明が出来そうになかった。
――。
ふと、視界が輝いて見えた。上体を起こす。
見間違いではなく、本当に輝いていた。草は金色に。
いつのまにか、黄金の草原に座る自分に気が付いた明日美。
「草の色が変わった……」
草原は金色に輝いていた。先程までの草らしい緑の色は何処へやら。短時間で見渡す限りそうであった、緑の大海原は金色の穂で埋め尽くされたかの如く明るく身も心も軽くなる場へと盛大な変化を遂げていたのだった。
「――……」
考えるよりは感じた方が良いと思ったのだろうか。明日美はそよぎこちらに話しかけてきそうな金色の草達を上体を起こしたまま静かに見つめていた。草の色がいきなり変わる事などありえないと解っているのに狼狽する素振りはしない。視界から強く魅了してくる美しい柔らかい輝きを受容している内、脊髄反射の様に立ち上がる。
一歩踏み出す。明るく前向きな気持ちで自然と無言で歩き始める。
時刻は正午だろうか。頂点に登らんとする太陽の威光を以て、それを受ける金色の地も相まって益々輝いた。その中を何処か楽し気に弾む様な足取りを進める明日美只一人。立ち昇る大地の気によって今にも体ごと浮き上がりそうな夢見心地のまま、明日美は目的も決めず只歩き続ける。
――……そうしていると時刻は二時過ぎになる。黄金の光を発する草々は縮むように明るさを潜めていく。
代わりに灯るは青の色。大海に居るかのような青色の草原に立つことになった明日美。
風が吹くと本物の波が押し寄せる様に草々が動く。誰か人を探すことも忘れ、揺らめく水の草原の只中を流されるみたく彷徨っていた。
たゆたう青の草面を見ながら歩く。一際強く風が吹いて揺れる草原。大きく足元の波が揺れたと錯覚した明日美は足を取られた様な感覚に陥りつんのめって前へ倒れた。溺れた、と一瞬思ってしまい呼吸の心配をするがすぐにその必要はないと気づく。
顔を上げる。無数の青い草達が合わさり視界に広がる面となって、ここが水中であるかの様に見せていた。
――涼しい。清涼さを感じさせる色合いになったこの場所が心地よく明日美は再び仰向けになった。青い揺らめきに包まれているうちに自分もその一部になりそうだった。何も差異の無い平和で穏やかにたゆたうだけだ。
冷たくて気持ちが良くリラックスした明日美は目を閉じる……そして意識は沈んだ。
無意識の中、泳ぐ様な感覚に包まれて夢の中へ。
……。
――時刻は午後四時頃になる。
すうっと、水の底から上がってくる如く明日美の意識は浮上した。
(……どれ位眠ったかな。二時間くらい?)
そう思いながら目を開けると視界がやや茶色かった。
「! ――」
起き上がる。寝る前までは安らぐ青の草々で出来ていた世界は、木を思わせる茶色になっていた。風は既に止んでおり茶色になった草々が大地の如く停止していた。
当然ながら思う。
(何故草の色が変わるのだろう。太陽の光の当たる強さ、時間、角度によって変わるのか。それとも根差しているこの大地が特殊な養分を与えているのか……それか人が不自然な手を加えたか)
あれこれ考えてその場に半立ちになりながらとどまっていたが、そろそろ今までの不思議な出来事についてはっきりさせようと思い立ち上がった。この草原といいあの文字といい……そしてこの様な場所に停車したあの列車についても知りたい。
よくパニックにならずに済んでいるものだと頭の何処かで思いながら先程の家に戻る事にした。
賑やかだった金色、どこか楽し気に揺れていた青、そして今度は落ち着きを取り戻したかの如く動きの少ない茶色の草原。枯れ色。木々の落ち着いた色合いを見せて草の皆がシンと立っている印象だ。
明日美の方も一通り気を揉ませて落ち着いた心身のまま小屋に向かっていく。まだまだ先に行けば建物などが見つかるかもしれないが、衣食住や情報などが頼りないと感じる状況の為、寝食を中で行えるあの列車から遠く離れてしまいたくはなかった。
なので唯一この地の説明が得られそうなあの家に行くことにした。そして家の近くまで来て足を止めた。ドアの前の地面に何か黒い細長いとぐろを巻いているものが見える。
「あっ」
自分が書いた文字である。明日美はそっと近づいていく。――隣に立っても身動きしない。しゃがんで好奇心のまま触ってみる。滑らかな感触であり外見は水道に使うホースみたいだった。
寝ているのか、そもそも生きていると言えるのか。それを確かめようと思い体を掴んでみる。確かに実体を感じられる。押すと押し返す弾力を持っている。やはり感想はホースの様なそれ、というものだった。握りながら確かな存在感を味わう。
(これが私の書いた文字だっていうの。しかも私自身を表す名前だ。何でこんな風になるんだろ)
握る手に力が籠る。これが自分の行動の結果だ、自分の名前のなれの果てだ……頭でそう考える。しかし否定の気持ちもある。
これは自分の意志ではない、何か別の存在から影響を受けてこうなったんだ。ワタシハ、カンケイナイ――。
認めようという考えと、頑として自分の知る理から外れた現象を受け入れる訳にはいかないという考えが圧し合った。
「……」
撫でたり揺すったりしてみたが電池が切れたように動かない。寝ているのだろうか。
考えていても接触を試みても望む様な進展が見込めそうにないので一旦立ち上がった。ドアノブに手をかける。開けて中に入る前に先ほどまで元気よく動き回っていた文字を見やると、とぐろを巻いて気を沈めているかの如く身動きしない。明日美は頭をかきながら再び屋内へ。
先程途中までしか読めていなかった本を読み始める。この旅に出た人の語り。読んでいたが奇妙で不可思議な現象が文として散見される。
【見慣れた道でもある日踏み入ると返ってくるのは固い感触ではなく、弾力ある素材を踏んだかの如き感触が足に伝わってくる】
【庭に植わっていた花が一日を通して色を変える、本来は一色のままのはずの品種がだ】
【建物の壁を、床を、小動物かの如く走って見せるひび割れ。ひびがあるなと認めた瞬間に素早く移動する様子が見られる。後を追っても追い切れず見失う。発見時の場所に戻ってきた時には壁のひびは嘘か幻の如く消えている】
読み進める程に戸惑う。
「……何だ、どういう世界なんだ」
文章の中で世の中の不可思議な変化に戸惑う著者の訴えを見る。時を忘れて読み入る明日美。家の周りは徐々に帳を下ろされていくかの様に暗くなる。徐々に視界が、本が見えずらくなると思われたその時にある単語を発見。
【ネア】
自然と口に出して読む。その見慣れない単語が散見されていく。
【ネアは何がしたいのだろう】
【ネアは何処から来たのだろう】
【ネアと共にあるこの世界で我々はどうすればいいのだろう】
【全てはネアの意志か、意志のネアか。散々言われ議論されつくしてきた事を私も改めて口に出したくなる。声を大にして天に向かって問いたくなる。この世は意志かネアかと……】
一通り読んだ本を閉じて顔を上げる。家具の少ないガランとした部屋は仄かに赤かった。窓から差し込む残照。自身の中に湧く【ネア】という存在への興味。夕方、部屋の中で【ネア】について考えを巡らせる。
ネア、ネアとは。頭の中で検索するが特にヒットはしない。知らない単語だった。それでも何か無いのかと引き合わせようとすれば思い浮かぶのはネアンデルタール人、である。大昔に地球上に居たとされる旧人類の絶滅種、又は亜種とされている存在。
――ネアは、本の中では何かしらのありえない変化を起こす存在として書かれているがそれとネアンデルタール人が関係しているとはとても思えなかった。接点が見当たらない。
一息つく。ネアという存在が変化を起こし著者の生活感が変わってしまうという内容だった。変化。もしも著者の頭がどうかなってしまったのでなければ、書いてある通りの事が起きていたというなら、何処かここでない別の場所へ旅に出たいという気持ちになってもおかしくない。
変化、そう変化といえば。
あの草原の色合いだ。そして自分の書いた文字……草の色が変わり文字が動くのがネアという存在の影響ならばネアというのは何なのだろう。本の中ではその正体や具体的な形というものは説明されていなかった。ネアという存在が居ると、或いはあると、どうして周囲の物体を変化させるのだろう。解らない。
十代半ばまで生きてきてネアなどというのは初めての事象だ。小一時間、夕日に当たりながら考え込むも答えは出ず。なので再び外に出る事にした。
(もう一度あの自分が書いた文字に触れてみよう。もっと隈なく調べて……)
そう思いながら扉を開ける。
そして口を開けて唖然とする。
「ああ……」
日は沈みかけている。家の中が鮮やかで明るくなっていたのは夕日のお陰だと思っていたがどうもそれだけではなかったらしい。
そこにあったのは暖かみのあるオレンジ色の草原だった。じんわりと暖めてくれる草の群。鮮やかな橙色のお陰か辺り一帯の気温が上昇しているかに思えた。
「……」
美しい光景に見とれていると草々が不自然な揺れ方をするのを見た。草をかき分けて移動するものがある。そのものはバッと跳躍し草むらから姿を現す。黒い長身が天に向かって伸びる。自分の文字だった。
そのまま体は地を離れて羽根も無しに向こう側へ飛んでいった。明日美は意欲に駆られる。励まされる様なオレンジの只中を当てもなく日が沈むまで走り続け始めた。
――鳥の如く飛翔する、文字だったものが大空を旋回し上空に豊かな広がりを与えている。その下で溜まった疑問を体で解決して晴らそうと、明日美が只管足を動かし走っていた。夕日が照らす橙色に染まった草原を切り分けるみたく駆けていくと、それまで思いあぐねていたのが嘘の様に吹っ切れていく。
息があがる度、何も考えられなくなる。顔に当たる日光が熱く心も熱くなっているかに感じる。
気分が良かった。
「はあっ! はあっ! ……」
当てもなく身を任せ、この美しいひと時の光景を見せる大地を体全体で味わえているのだ――。
黄昏の大地は何処までも続いていて、我を忘れて疾走出来るのだ――……そう思えた。
走り続けた。
「はあっ、はあっ……」
日が沈み、暗くなっていく。どれ位走り続けただろうか。足取りは重くなっていき遂には先程の建物から少し離れた場所で立ち止まり、荒い呼吸を繰り返した。
地平に沈みゆく日が最後の残照を投げかけたかと思うと、急に闇が形を持った。見渡す限りの環状の暗闇が明日美を取り囲む。日が沈んだせいか、自由に飛んでいる文字も徐々に高度を下げて明日美の傍に音も無く着地した。
闇の中で立つ明日美と文字の明日美。
オレンジの光が徐々に薄まり草原を包み込む暗さを強く意識せざるを得なくなっていく。脆弱でか細いホタルみたく光を放つ草々も、より闇を濃く重く感じさせるだけであった。微かな下の光と圧倒的な上の暗さ。
先程の黄昏を全身で堪能していた時と打って変わった心細さのまま、辺りを見回し家に戻ろうかという時。
火の粉が舞った。
「え……」
そう思った。
スウッと草の色が変化。重い闇に少し俯きがちだった明日美の姿勢が反動で跳ね上がるように伸びた。穏やかな励ます様なオレンジとは違う。
人が本能と共に興奮が駆け上がる赤い色の草になったのだ。
無数の草々が力を合わせて天に昇ろうとしている光景の只中に明日美と文字は立つ事になっていた。見ているとこちらの体中が熱で膨張しそうな、燃ゆる赤の草原。風が吹く度に揺れる草の先から火の粉が放たれるかに見えている。
「おわあ……っつ」
実際赤々とし始めた草は触れていても熱くはないのだが、それでも触れた部分が火傷していないか確認してしまう。
「っ……!」
燃えているかの如き色合いの中で立っている事に耐え難くなって家の中へ避難する。だが文字の方はピチピチと陸に上がりたての魚の如く飛び跳ねていた。
家の中から椅子を引っ張り出し外に出て草の生え際の傍に置く。椅子に腰かけ火の様に燃え盛る姿に見える草原と、その中で火炎の躍動するエネルギーを表しているかの動きをしている文字。熱くて仕方ないというより、興奮して仕方がない、じっとしていられないという風に――只管弾んでいる文字である。見ているとこちらまで熱くなってきそうな光景が目の前で繰り広げられている。
(随分可笑しな所に来たもんだな)
見ていて時間が過ぎるのは早く、飽きなかった。
そして盛大にキャンプファイヤーをしているかに感じるといった言葉では物足りなくなった。
暗闇の中の鬼火、猛火を演じる草原は人々が普遍的に抱くであろう地獄が顕現したと見えなくもない。吠え鼓舞し続ける紅の草原はこの夜によく映えた。
――……これからどうしようか。元の場所に帰れるのだろうか。生きている内にこんなものが見られるなんて、今日という日を体験出来るなんて、自分の人生の転換期なんだろうか……両親は今頃どうしているだろうか。
実際は火の如く熱源を前にしている訳ではないのに額に汗をかいていた。椅子に座り前傾姿勢で肘を膝の上に置いて燃ゆる如きの草っぱらを眺める。様々な思いを巡らしていたが、ふと考えるのを止めたせいか気が緩んだせいか、何かが決壊したように涙が噴き出した。目の前で充満した涙という液が零れた。次々に溢れていく。
光景に感動したのか、色々と訳がわからないからせめて泣いたか。明日美は何故泣いているのかよく解らないまま、一呼吸して夜空を見上げる。
星が涼しそうに瞬いていた。
――。
二時間程そうしていただろうか。夜空模様と気温からして午後九時は回っていそうだ。草の色は激しく騒いでいた火炎の色具合から徐々に落ち着きを見せる。薄くなった赤色の草々。鎮火した雰囲気が漂い、燃える草原のダンスを見ていて昂っていた明日美の気持ちも少しずつ冷めていく。辺り一面草っ原の何処か解らない場所であるこの地域を奔る風も手伝って、心身共にクールになる。
気が落ち着くと急にお腹が空いている事に気が付く。
(食用の植物が列車の中にあった。あれを食べさせてもらって今夜は凌ぐか。味は想像つかないが人間が拒否するようなテイストじゃないはずだ)
そう思って椅子から立ち上がり額の汗を拭く、とその時。
草原が怪しい光を灯し始めた。
「おお……わあ」
先程の赤と違った意味で衝撃的で開いた口が塞がらない。
言葉なしに魅了させる、紫の草原が顕れていた。
またしても変わって見せる草の色を目の当たりにして、落ち着き始めていた明日美の心が揺れた。上手く思考を働かせる事が難しい。列車の方へ向きかけていた足が止まり紫の群に目が引き寄せられる。微風でユラユラ揺れる紫炎。
今にも巨躯な女性を思わせる体つきのシルエットが現出して、こちらに向けて手招きし始める光景が想像された。
蠱惑……。
闇の中では尚いっそう。
美しい紫に光る草は、魅力的で思考を忘れる。風ではなく自身の意志によって動いているかに見える草の群は時折怪しげな光沢を見せて惑わせる蠱惑的であるもの。草原全体が艶めかしく踊る女体の動きを思わせて魅惑的であり、明日美は官能的に反応した。
又、ある草の群は男性的に力強く腰を振るう姿を思わせる。青と赤、陰と陽、男女の営みを強烈に想起させる一夜の草原の光景。明日美は頭がクラクラしてきてその場にへたり込んでしまった。地面に手を付き一息整える。
(自分がどうかなってしまいそうだ。列車の中に行こう)
揺らめく紫の草原は魅力的過ぎた。
……ホームを構成する石と石の隙間の草は緑だったはずだが、今は紫になっている。妖艶な紫な炎が這いあがろうとしてるかに見える。
明日美は列車の中へ――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます