第2話 彩りの草原

 暗闇の空間から急に明るくなった。


 車窓の向こうの空間は明るい。見ると何処かの駅らしい光景が見えた。光景が停止して見える事からして列車は停まったらしい。

 明日美は立ち上がり出入口に近寄った。明日美は怖さもあったがそれ以上にワクワクしていた。平凡な自分の人生にいきなり不思議な体験が介入した事を嬉しく思っているのかもしれない。

 ドアが開く。


 何処かの駅のホームの様な場所に降り立つ。石を積み重ねて作られたよく見るホームだ。所々、石と石の隙間から緑の草が生え生命力を見せていた。

「……わあ」

 周囲を見渡すとそこには鮮やかな緑が視界一面に広がっていた。

 あの暗闇だった空間から何処をどう通ってここに辿り着いたかは解らない。いきなり意図せずしてここに連れてこられたが――それでもいずこから吹いてくる風に揺られる草原を見ていると清々しい気持ちになった。


 ……。

 深呼吸した後、明日美は歩を進める。石段を下りて道なりに行く。駅員や改札口は見当たらない。只、鳥居の形に似た白い門がありそこを潜っていく。

 その先に見える光景に改めて目を瞠る。

 何処もかしこも見晴らしの良い緑一杯の草原。耳を澄ませる。人の出す音は聞こえない、生物の気配も特に感じられない。

 只一人。この草の原に立っている自分。

 ――段々と何処なのか解らないという状況は、明日美に情報を求めさせた。再び歩みを始める。

 風が青々とした緑の海をかき混ぜていく。足元を見ていると波打つ緑に足を取られそうになる。気温は少し寒く空は白んでいる。まだ寝起きと言った時間帯と思われた。

「春の朝方か」

 見知らぬ地の朝に穏やかな草原に立ち、一句を詠みたくなった。


 ふと目に入った一軒家に注目する。明日美は自然とそちらへ足を向けていく。列車関係以外の人工物、家に誰かが居るかもしれない。

 家というよりも木で出来た小屋といった感じだ。近づきドアの前に立ってノックをして呼びかける。

「誰かいませんか?」

 もし人が出てきたらここは何処なのかを聞こうと思い、立って待つ事三十秒。

 反応は無しだった。物音も話し声も聞こえない。

 少し肩を落としながら他の場所へも歩いてみようと思うが、見えるのは草原だけといっても良かった。少なくとも見えうる視界の中では建物はこの家しか見当たらない。

 明日美は振り返り家のドアを見る。この地に関する情報がありそうなのはこの家位しかない。

(ここは何処なんだ。もしも私がここで降りる事が列車側の望みなのだとしたらここで何をすればいいんだ)

 情報を求める明日美は強引だと解っていても行動に出た。ドアが開くかだけでも試したいと思いノブに手をかけて力を込める。

 ドアは開いた。

 隙間から顔を入れて大きめの声で言う。

「誰かいませんかっ」

 反応は無しだ。

 明日美は思い切って中に入ることした。不法侵入という意識はあったが不思議な状況に置かれている自分を免罪符にしたのかもしれない。

 勝手に入るのは気が引けるがもしかしたら空き家かもしれないと希望的観測をする。家主が帰ってきたら弁明すればいいと思い、ドアを開け放ち一歩足を踏み入れる。とにかくこの地に関する何かしらの情報が欲しかった。


 ……中はがらんとした、だだっ広い空間だ。玄関を見て履物を脱ぐ様式では無いと捉え、備え付けのマットで汚れを落として土足のまま入る事にした。窓から入ってくる朝の光が屋内を照らしており、入ってきた明日美の存在によって近くの床の厚い埃が巻き上げられて舞った。

 手で埃を払いながら思う。

(空き家か、でも机がある。長旅で留守にしているだけかもしれない)

 少し軋む床を踏みしめて、一歩進むごとに歓迎する様に舞う埃達を手で払いつつ服で鼻を覆う。この部屋の中で目立つ机の前に立った。随分と使い込まれた机という印象を受ける。

 表面には乾いたインクの数々。傍の棚にかけられた本。相棒の如く寄り添う年季の入った椅子に腰を沈めながら、持ち主は数多くの読み物書き物をしてきたのだろうと想像する。

 本に興味があったがまずは家の中を調べていく。バス、キッチン、トイレがあり一通り屋内を見て回ったが誰もおらず、長い間人が住んでいない有様であった。

「……」

 家主が戻ってこない、何か為になる話が聞けないと知って明日美は落胆する。が、すぐに先程の棚にむかって歩き始める。棚には数冊の本があり適当な一冊を手に取って中を見てみる。日本語で書かれているらしく明日美にも読む事が出来た。


【この移り変わる世においてどの様に生きていくのが適切であったのか、長きに渡って思いあぐねてきたが遂には解らなかった。考えていても解らないので旅に出る事にした】


 ……。

 読んでいるとどうも世の中に戸惑い悩み、自分探しの旅に出た人の思いを綴ったもののようだと解る。

 仕事のやり方が変わり、上司の気分が変わり、建築の様式が変わり、流行の商品が変わり、為政者が変わる……そんな経験をしてきた様だ。

(こう言っては何だけど普通の悩みだな)

 読んでいてふと思う。この人はここから旅立ったのか、それとも旅をしている最中、ここに辿り着いたのかどちらなのだろうかと。一見してこの家の周りには特に煩わしいものなど見当たらない故に。

 暫く読み進めていたが著者の一人語りであまり世界観が見えてこない。この地に住む人々の日々の感想も大事だが、そういった人の内面よりも普遍的事実を書き記したものが欲しかった。

 明日美はひとまず本を置いて首を巡らしてみた。本はまだ読み終わっていないが一旦閉じる。すぐにこの地に関する事が知れるモノは無いか。そして傍の机の引き出しをまだ調べていない事に気が付く。本を置き、一番上の引き出しを開けてみる。

 紙とインクがあった。明日美はそれを注視する。

 自然と手に取っていた。自分の特技を思い出す。


 ――習字だ。


 書家や書道家という程ではなく資格も持っていないが――それでも筆をとり字を書いてしたためるのが好きだ。勿論予期せぬ移動をしてきた今もである。

 色々と不明な場所であるが自分が習字が好きだという事は、はっきりとしていた――机の上に紙を一枚広げインクの蓋を開ける。そして自分の背負っているカバンから愛用の筆を取り出す。椅子に座り姿勢を正し、深呼吸する。

 不思議な列車に奇しくも乗る事になり清々しい草原の中の小屋で、高揚しつつも何処か故郷から離れた不安な気持ち含めて、唯一の特技である習字で整理しようとする。

 筆を握りながらも力は入れすぎず、紙面に集中して。手慣れた作業でインクを筆に浸し。

 紙に置く。

 すうっと、インクは紙に馴染んだ。染み込んでいく。

 自分の思いを染み込ませ徐々に沈ませていく感覚と共に、自分の名前を書いた。立花明日美と。

 即興だが上手く書けたと思う。名前を紙に書くことで自分という存在を一旦置いて休めるような気がした。まじまじと紙の上の名前を見つめる。


 だから変化にはすぐに気が付けた。

「……?」

 何処かははっきりとわからないが文字の印象が最初と違って見える。紙を持ち上げて全体を眺めた。自分がつい先程書いたものだが見ていれば見ているほど何かが違っていると感じてならない。

(異変の原因は? 気のせいだろうか、文字が揺らいでいる様に感じる。こう、厚みがあるみたいだ)

 違和感は強くなりより集中して見ているとはっきりとした異常が起こった。

 紙を持ち上げているせいか、インクを基にした名前が垂れてきている――。

「っ!」

 慌てて机の上に紙を置いて平行にする。しかしそれでもインクの流動はじりじりと進んで止まらなかった。戸惑いつつ手で空を切るも意味は無い。美という末尾の字を先頭に五文字達は下方に向かって移動し……。

 紙の枠を超えてしまった。

 明日美は唖然として硬直した。乾いていないインクが一部垂れていくというものではなく、文字そのものが漢字の体を成しながら紙面を滑りだしたのだ。立派にありえない光景だった。

 机の上に直に到達した自分の名前はその場でうねり、違う文字同士混ざりあい訳の分からない一筆書きをしたかの如き、曲がりくねった一本の筆跡となったのである。

 ……明日美の理解を待たずしてその一本は机すら超えて床に落ちる。

 埃を被った床の上を活きの良い魚みたく泳ぐ。床の上を縦横無尽に這い回る姿は好きな字を自由に己の身で以て現わそう、体現しようという意気込みを感じさせる。

 自然と立ち上がり目で追うのに精一杯だった明日美――の存在に気が付いたかの様にピタッと動きを止めた。

(自分の書いた文字が生き物の如く動くなんて――ああ、お前はどうしてしまったんだ)

 という風に、近くに寄って抱きかかえて真意を問いたいという気持ちの明日美。

 相手の些細な声や出す音も聞き取れそうな家具の少ない広めの空間で、両者、互いを強く意識し合っているかの如き沈黙を作る。張り詰めた空気が醸成される中、怖れ戸惑いながらも一歩近づかんとする明日美より……。

 先んじて動いたのは相手だった。


 にょっと、文字が持ち上がったのだ。

 上体を起こすかの如く、或いは蛇が鎌首をもたげる様に、それまで平面を沿っていた文字が急に垂直に、おっ立ってみせた。

 これにより明日美はドキリとして、前へ動かそうと思っていた足も引っ込んでしまった。突如として二次元から三次元に早くも進化した文字。常識という重りを付けたまま驚く事しか出来ない明日美を置いてけぼりにして、文字はよりダイナミックな動きを見せ始める。

 縦、横、そして高さの領域を手に入れた文字は縄を叩きつける様にビタンビタンと自身の体を床に打ち付けた。いつの間にか厚みが出てしっかりとした物質と呼べる状態になっているらしい。

 何処かの波打ち際の波に近い表現をしてみせながら、水しぶきの如く床の埃を一斉に舞い上げた。驚天動地の心境である明日美の鼻に埃が吸い込まれる。

 内部で驚きの感情を爆発させながらも思考と体がフリーズしていて口をオーの字に開けるだけで他の部位は何一つ動かせなかった明日美も、さすがに異物を吐き出そうと決めた体の動きには逆らえない。ツンと鼻にくる感覚。そして思い出したのかの様に大きく息を吸い。

「ハッ、クシュッ!」

 盛大なクシャミをしたのだった。

 そして文字はそんな事はお構いなしに、しなる鞭の如き舞いを披露する。わっと上がる埃の歓声に包まれながら建物の中で明日美のクシャミがアンコールみたく連発で響いた。


 ……。

 厚みのある文字は黒の蛇みたく、光沢を見せつつ部屋を巡回した後に家への出入り口へと向かう。くしゃみによって体を動かし、心のエンジンを再スタートさせた気持ちになった明日美。埃で埋め尽くされた部屋から出る目的も込めてドアの近くにいる自分が書いた文字へ駆け寄った。

 文字は液体であった頃の薄さに戻る事が出来るみたいで閉じられているドアの下の隙間から苦も無く滑って出て行ってしまった。明日美はドアを開け放ち外に飛び出す。


 大きく息を吸い込む。


 ――空は青く広がっている。家に入る前と変わらず穏やかに諭すようにユラユラ揺れている草をかき分けて文字蛇は往く。

 

 明日美は気を落ち着かせながら呼気を整えた後、ダッシュで自分の名前だったものを追いかけた。

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