番外編 芙二宮精肉店
芙二宮精肉店 1話
「――――――――なあ君、ここで死んでは駄目だよ。故郷に好いた人がいるのだろう?だったら生きなきゃ駄目じゃあないか」
――――――けど、食うものが無い。
「ああ―――――なんだ、そんなことか。………あるじゃあないか、目の前に」
――――――――お前、それ。
「どうせ俺だってもう長くは無いのだ。だったら誰かの糧になるのが良い。それに」
―――――――それに?
「君はきっと、俺を食ったことを後悔するだろう。罪の意識を感じるだろう。それって、記憶の中にいつまでも俺がいるということじゃあないか。うん。それが良い。」
―――――――エゴだよ、それは。
「はは、俺は元からそうだよ。どうしようもないエゴイストだ。だからさあ、君。俺を食えよ。俺は、君に生きて欲しいんだよ。これだって、エゴだ。なあ―――――――」
■■■
「千草くん、おはよう」
「あ、おはようございます!」
「お肉屋のおにーさん、おはよーございます」
「はい、おはよー。気をつけて学校行くんだぞ」
商店街は朝から活気がある。洋服屋に靴屋、喫茶店に魚屋に八百屋。それぞれの店が開店し、学生や勤め人が歩き、通り過ぎていく。商店街を通り抜けるとすぐ駅があるので、このあたりに住んでいる人間は大体ここを通るし、顔なじみになっていく。おかげさまで学校帰りの子供は少ない小遣いの中からコロッケやメンチカツを買ってくれるし、疲れたサラリーマンは晩酌の供に焼き鳥を数本買っていく。近所の奥様はグラム単位で肉を買い、家に帰って家族に振舞う。そうやってこの店―――――「フジミヤ精肉店」は、近隣住民に愛されつつ営業している。
「さて、と」
表の掃き掃除を終え店内に戻ろうとすると、「千草くん、おはよう」と横から声がする。首を傾けてみれば、隣人である八百屋の奥さんである。ちらりと目線を奥にやれば、瑞々しいお野菜がずらりと並べられ、大変な絶景が広がっていた。俺は素直なので「今日も美味そうっすねえ、お野菜」なんて言葉がふいに出る。
「あはは、千草くんは食いしん坊だねえ。なんか買ってく?」
「あー、手空いたらちょっと見に来ちゃおうかな。おばちゃん、胡瓜残しといてよ胡瓜。浅漬けにするから」
「うち、取り置きはやってないんで………」
「ちぇ、けち」
わかりやすく唇を尖らせれば、おばちゃんはくすくすと笑って「考えとくよ」なんて嬉しいことを言ってくれた。それにこれまた素直に「やったあ」なんて言えば、おばちゃんは少し目を細めて笑う。
「すっかり元気になったね。正直言うと、ちょっと心配してたんだよ」
「あはは……まあ、辛くなったからって辞めるわけにはいかないし。俺ひとりでもやってやりますって!」
「そう?でも、困ったことがあったらちゃんと言うんだよ」
「わーかってるって。じゃ、肉出してくるわ」
ひらひらと手を振って店に引っ込む。笑顔は徐々に真顔になっていく。
「………うん。俺ひとりでも、やってかないと」
父が死んだのは一か月前の話だ。
母は俺が幼いころに亡くなってしまった。病弱だったらしい。それから父は男手ひとりで俺をこの年まで育ててくれた。そんな父に恩返しがしたかったから、幼いころから俺は肉屋を継ぐ気でいたし、実際に継いだ。まさかこんなにすぐ代替わりがあるとは思わなかったけど。
父はフレンドリーな商店街の大人たちより、少し落ち着いた人だった。俺が寝るとこっそり酒を飲んで項垂れていたのを覚えている。ひとり親というのは、俺が考えているよりずっとずっと大変だったのだろう。
「(けど、…………………なんでだろうな)」
ガラスケースに牛を並べる。豚を並べる。鳥を並べる。並べながら、考える。
「(…………親父は、俺の知らない『なにか』で……苦しんでたんじゃないか?)」
親の苦労のすべてを知ることが出来ないから、それは当然のことかもしれない。けれど俺はこの疑念に対して、ちょっとだけ確信めいたものというか―――――種のようなものを持っていた。
一度だけ、父の晩酌に付き合ったことがある。
とはいっても酒は飲ませて貰えなかったので、おつまみのするめを齧っていただけだが―――――とっくに歯磨きを済ませたというのに、深夜にものを食べる。その背徳感にドキドキして、なんの変哲もないスルメイカがこの上なく美味しかったのを覚えている。
そして「美味しかった」という感情は時として、別の出来事の記憶を紐づける。
『千草、俺はさ――――――――やってはいけないことを、したんだよ』
やってはいけないこと。
『ひとを、殺したの』
父は戦争に行っていた。俺は戦後生まれだから、戦争で何があったか―――――なんてのは、自分事ではない。けれど「父が戦争に行っていた」それはわかるし、それを言うなら八百屋の旦那さんだって喫茶店のマスターだってお客さんだって、戦争に行っていた。だから俺はそういう聞き方をした。ちがう、と父は首を振る。本当に、本当に苦しそうな、悲しそうな声を振り絞って言葉にする。
『違うんだ、俺は―――――――――』
『……………父さん?』
『…………だから肉屋を始めたんだ、忘れられなくて、はは………普通ならそんなことあったら、二度と肉なんて食いたくないはずなのに。俺はどうしようもないから、忘れたくないと思ってしまったんだ。俺の罪は、忘れてしまったら本当に無くなってしまう。無くなるのは、だめなんだ。俺は肉屋を続けることで、ずっと自分を責め続けている。それが、自己満足でも―――――――そうするしかないんだ』
酒に酔った父は、やたらと多弁で。それなのに要領を得なかった。幼い自分にその言葉に秘められたものはわかるはずがなく―――――けれど、するめいかを齧るたび、あの時の父の姿が目に浮かぶ。父は、何を罪と言ったのだろう?父は、どうして肉屋を始めたのだろう?
父は、なにを隠してこの世を去ってしまったのだろう。
いずれにしても、父はもういない。だからこの疑問だって、きっと永遠に解けない。それはもう、確定していること。だからふとした拍子に考えてしまうことも、無駄だとはわかっているのだけれど。
「(でも、気になっちゃうんだよなあ…………)」
この疑問が解き明かされなくても、俺は今日も、明日も変わらず肉を売る。俺にできることはそれだけだし、生活のためにはもうちょっとお金を稼ぎたい。そうだ。そんな些細な疑問より、どうしたら売り上げが伸びるかを考えた方が良い。
「(お惣菜系、もっと増やしてみようかな……肉団子とか作ってみるか?)」
商品を増やすと言うのはアリだ。肉の種類も増やせないかな?いや、さすがに三大肉以外は無理か。でも馬とか、羊とか。そもそも食えるのか?あるいは―――――――
「やあ」
「わっ!」
思いっきり考え事をしていたせいで来客に気づかなかったらしい。がばりと顔を上げれば、俺より少し年上ぐらいの青年がニコニコ笑顔で立っていた。俺としたことが客の存在に気づかないほど熟考していたらしい。
「すいません、気づかなくて。どれにします?今日はどれも仕入れたばっかだよ」
「はは、わからないか。そりゃそうだな、十年近く経っているし」
「?」
青年はくすくすと笑い、俺を見た。
「久しぶりだな、『フジミヤ』」
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