脳と記憶とクリームパスタ

高いものが全部美味しいわけではなく、かといって安いものが全部美味しいわけでもなく。

私の舌は、自分で言うのもなんだけど面倒くさい。大抵の食事がピンと来なくて、たまに琴線に触れるものがあればそればかり食べてしまう。そして、急に飽きる。

そんな生活肌にも体にも良くないというのは、ぼんやりとしか認識していない。ただお腹が減った時に何かを食べれば解決。ただやっぱり接客業だから、肌もスタイルも整っていないといけない。だから食事が雑な分、化粧品やサプリメントでどうにかするしかない。

本当は栄養をしっかり摂って運動すればいいんだろうけど、そんなのは時間も余裕もお金もある人がようやくたどり着ける場所だ。少なくとも私は、そこに至れはしなかった。


まあ、なんというか。私は元来、食事に興味が無かったのだ。


「ゆのちゃん、今日はイタリアンにしようか」

「はい!ふふ、いつもありがとうございます」

「なんか俺、ゆのちゃんが食べてるの見るの、好きなんだよね。綺麗に食べるっていうか、品が良いっていうか。だからお夕飯に誘っちゃうのかも」

「優先順位、そっちですか?ご飯じゃなくて、私が食べる所?」

「ダイレクトに聞くね。そうだよ。本当は何を食べたっていいんだ、君がいればさ」

心の中で溜息を吐く。言葉としては百点なのに、言ってる人は四十点。六十点の減点原因は、目の前にいる男性……雄二さんはべつに私の恋人というわけではないということ。私はキャバ嬢で、彼はお客さんで、これはデートじゃなくて同伴ってだけなこと。

ただ、「この人も食事に興味ないんだな」ってのはかなり安心感があると言うか、仲間のような気がした。別にお互い、食事がしたくて一緒にいるわけじゃない。彼は私と一緒にいたくて、私はお金が欲しいだけ。たまたま夕飯の時間だから、まあ腹ごなしにはなるかなというだけ。

だから―――――――イタリアンといっても、全く期待はしていなかった。



「…………………え、」

メニューの中で「それ」は燦然と暗い輝きを放っていた。あまりにも衝撃だったので、思わず「雄二さん、これ見て」と声を掛けてしまった。

「うん?なにか気になるメニューでもあった?いいよ、奢りだし」

「あ、そういうわけじゃなくて。ちょっとびっくりするメニューがあって………」

「どれ?…………えっ?」

雄二さんは目をまんまるにして、メニューを凝視する。

そこには「フジミヤの脳を使ったクリームパスタ」と書いてあった。

「……脳って、食べられるんですか?」

「食べる所がある……とは聞くけど。いやあ、俺も初めて見るなあ。しかもパスタ。パスタかぁ………」

「………………………」

私はなぜか、それから目が離せなくなっていた。食事には興味が無い。けれど、好奇心という感情が無いわけではない。ただ、その好奇心が食事に向いたのは久しぶりかもしれない。

『これ』を試してみたい。

「…………雄二さん」

メニューから目を離し、目の前の客を見る。好奇心が、こちらにも発動した。


「私が脳味噌食べるところ、見たくないですか?」




「お待たせしました。クリームパスタです」

「…………………ありがとうございます」

ウェイターさんの手から離れたそれは、一見普通のパスタだった。ただ、真ん中にとろりとしたクリームと共に細かくミンチにされた肉が混ぜられている。さすがに脳のあの形がそのまま出てくるということはないか。私はほっと胸を撫でおろす。冷静に考えればそのまま出てくるなんてことは姿煮でもない限りありえないのだけど、そんなことを考えて若干不安になってしまうくらいには私は脳料理について詳しくなかった。

スプーンとフォークを手に取る。スプーンの上でくるくるとパスタとクリームを巻いた。ちらりと雄二さんを見れば、イタリアンにしては鬼気迫った顔でこちらを見ていた。思わず内心で笑う。何それ。そんな表情初めて見たんだけど。

「(雄二さん、絶対シリアスな顔してた方がカッコいいって。いつもみたいなだらしない顔じゃなくてさ)」

……そんなことをふと思ってしまうくらいには、状況が面白かったので。

私はぱくりと、それをとくべつだとは思わないようにして、食べた。


「…………………」

「………ど、どう?」

「………ちょっとこってりしてるかも。でも、うん。食べた事ない感じ」


とろりとしたクリームとこってりした脳は、正直やりすぎ感がある。けれどそのおかげか、脳というものに対する印象―――――臭みだとか触感だとかに対する忌避感――――みたいなものが極限まで抑えられている。なんというか、「食べやすい」。乳製品と脳は親和性が高いのだろうか。違和感なく食べられる。このパスタももっちりとした平たい麺で、クリームと脳のまったり感によく合っている。途中で付け合わせのサラダを食べると、丁度良く口の中や喉がさっぱりする。どちらかといえばくどいくらいに優しい味のパスタ。それに赤ワインをぶつければ、程よくバランスが取れる――――――――


「…………ゆのちゃん?」

「え?」

「ゆのちゃんって、食レポとかするタイプだっけ?」

「――――――――――――え、…………?」

声に、出ていたのだろうか。今心の中で思ったあれやそれやが。ふいに冷静になって、フォークを置く。

「………やだ。私、声に出てたの?恥ずかしい」

「いや!全然恥ずかしくないよ。むしろゆのちゃんの新しい面が見られて良かったな~、みたいな。でもなんか、いつものゆのちゃんの口調じゃなかったけど」

雄二さんは続ける。固くて、評論家のようで、男のようで、言葉尻はやわらかく、………まるで、別の人が私の体を借りて喋っているようだった、と。

「……やだ~。………おかし……」

ふいに、背中に冷たいものが伝う。別の人みたいだった?なにそれ、ホラーじゃあるまいし。それよりもパスタだ、パスタの続きが食べたい。最初はくどいと思ったそれが、どんどん食べ進められていく。まったりしているのに飽きが来ない。美味しい。美味しい。美味しい。

「おいしい?蘇芳ちゃん」

「うん。美味しいよ、姉さん」

「え?」

「………えっ?」

雄二さんも私も目をぱちくりとさせる。今、私には何が聞こえた?私は、何て答えた?


今の、本当に私だったのか?


パスタを食べ進める。視界が変わっていく。目の前には古い家屋があって、机を囲んで家族がご飯を食べている。これは姉さんが作ってくれたご飯だ。いや、ちょっと待って。私姉さんとかいないし。芋の煮付け。全然食べてないなこういう系。いや、毎日食っていたな。芋は腹持ちがいいから。おやつにしていたものだ。いや誰だよ。おやつならもうちょっといいもの食えって。視界が変わっていく。砂埃。密林。お腹が空いた。今なら何だって食べられそうだ。何も無い。食料なんてとっくに尽きた。おなか、おなかすいた。でも、あなたもお腹が空いてるんでしょう。だったら俺の肉を食べな。それで生きな。だめだろ。そんなこと、友達にさせちゃだめだ。自分の肉を食べさせるなんて正気じゃない。

パスタを食べ進める。生き残ってしまった。生き残ってしまった。なんでよ、生き残ったならいいじゃん。死体だらけの道を歩く。誰か生きてるものはいないのか。いないよ。いたとして、それを食べさせちゃいけないんだよ。なんでわからないの。わかってるさ。俺の肉は美味いから。そういう話じゃないんだよ。

パスタを食べ進める。帰って来た。帰ってきたけどこんな体ではもう顔は出せないな。出しなよ、出せるよ。だって息子であることに変わりはないじゃん。きっと嬉しいよ、お姉さんだって喜んでくれるって。いいや、俺は死んだことにしよう。死ぬことのできないものが戻ったところでそれは本当の帰還ではないよ。還ることができないんだから。なにそれ、意味わかんない。

パスタが終わる。けれど食道から胃へ行くそれを止められない。


「誰か」の人生が、頭に直接流れ込んでくる。


待って。長い。長いよ。戦争。あれ、戦後。オリンピック、あれ、待ってこれ私生まれてない。ねえ、いつまで続くのこれ。頭の中が他人で埋まっていく。嫌。怖い。美味しい。流れていく、体の中を、脳が、おわりまで。いつ、終わるの?


「ごめんな。そこからだと、あと五十年くらいあるんだ」


誰かの声が聞こえた気がして。

私は、急に意識を失った。



「…………さん。佐原由佳里さん。聞こえますか?」

「―――――――――…………はい」

次に目を覚ました時には、見知らぬ天井、見知らぬナース。呼んでいる名前は、私の本名。

結局あの後私は、泡吹いて倒れたらしい。しかも、ちゃっかりパスタを全部食べた状態で。

当然の如く病院に連行。それからこっち、熱に浮かされたようにぶつぶつと何かを口走っていたそうだ。その口調はまるで別人のようだったと、後に雄二さんから聞かされて知った。

私は、佐原由佳里だ。

ゆっくりと起き上がって外の景色を見る。久しぶりに、自分が自分でいるような気がした。

「調子はどうですか?」

「………なんか、すっきりしてます。さっきまで長い映画を見ていたみたい」


ナースさんは帰り、ふいに一人になった。

ちらりと視線を移す。ベッド脇に「誰か」が座る。なんだかずっと一緒にいたような、私が彼だったような気がした。

「目を移植された人間が、元の目の持ち主が見ていた光景を見ることがあるという。だからといって脳を食べた人間が、元の人間の記憶をたどるなんてことは無いと思っていたが」

あったな、と「誰か」は言う。その他人事みたいな口ぶりに、ちょっとだけムッとした。興味のない長い映画を見させられるより退屈なことなんてない。

「そりゃあ、失礼。長かったね。なにせ百二年分だ。どうだった?退屈なだけ?」

……………そうでは、なかった。けれど。

「あんな人生、私には重すぎる」

「………ごめんね?」

「誰か」はちょっとだけ眉を下げた。今度は本当に悪いと思っているらしい。

「ところで、あのパスタだ。食べた人間にショーを見せてしまうのは致命的だが、味はどうだった?俺はそちらの方が断然気になるな」

「……………………………、美味しかった。あと」

「うん」


「…………………興味が、沸いた。………食事、に」



私はその後目についたパスタを片っ端から食べるようになったし、いわゆるゲテモノ料理の店にもよく行くようになった。

けれど、あんなものに二度も出会えるはずがなく。

あのイタリアンの店に脳のパスタが再び置かれることはなく。


私はそれからずっと、満たされない空腹に心を焦がすことになったのだった。

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