第18話 悪戯
「それでは私のこともニーラスとお呼びください。……サヴィーネ」
突然ニーラスはそんなことを言いだす。
サヴィーネは目を見開きラピスは天井を仰いだ。
まだ出会って2日である。
関係を詰めるのが性急すぎるという話をしたはずなのに、ニーラスは全く気にしていないようだった。
お互いに身分が高い者同士の恋愛には社交儀礼もあれば踏むべき段階もある。
ニーラスの父母は他界しているのでそちらの両親の意向は気にしなくても良かった。
しかし、サヴィーネはローリンエン皇帝の養女扱いであり、皇帝の命を受けてダルフィード国にやって来た立場である。
困惑した顔のサヴィーネの顔をチラリと見るとラピスが文句を言った。
「お兄様。さすがにちょっと前のめりすぎだと思うのよね」
「なんでだ。お前だって同じように呼んでいるじゃないか」
「だって私たちは女の子同士だもの。ね~?」
困惑顔だったサヴィーネも僅かに首を縦に振る。
その様子にニーラスはショックを受けた顔をした。
「なんでラピスが良くて私はダメなんだ?」
心底理解できないという様子にラピスは頭を抱える。
許嫁がいるサヴィーネを異性が個人名で呼ぶということは家族でもない限り許されることではなかった。
ラピスは説得を諦める。
「そういうルールだから」
とても不服そうだったが、サヴィーネも首をコクコクとするとニーラスも不承不承ながら引き下がった。
「では仕方がない。エスターテ嬢、お疲れのところと思うが、この後は竜騎士3名の浄化をお願いしたい。一度結ばれた竜騎士と長い間触れていないと不安になるのでね」
「畏まりました。別に疲れてはいないですし大丈夫ですよ」
竜騎士を集めておいた引見室にサヴィーネを連れていく。
辛そうにしていた3人はサヴィーネの手に触れるとたちまちのうちに元気を取り戻した。
そして、あろうことか手の甲にキスをするものが現れる。
サヴィーネは今日はドラゴンに乗った後だったので革の手袋を外しており、レースの手袋もしていない素手だった。
「お前、何をするんだ!」
思わず手を引っこめたサヴィーネの態度から事態を悟ったニーラスはその竜騎士の襟首をつかんで引きずり倒す。
「ちょっと悪ふざけをしただけじゃないですか」
そう言った男はニーラスの憤怒の表情を見て凍りついた。
「あ、いえ……」
バービスがその男の肩を抱き立ちあがらせる。
「あっちで話をしようか?」
顔は笑っているが目は笑っていない。
「いいですか。やっていいこと悪いことの区別ができるのが大人というものです」
がっちりとホールドされた男が連行されていく。
どこからともなくアンナが酒瓶を持って現れた。
「カラの根から作った酒を蒸留しました150プルーフの火酒でございます」
ニーラスはハンカチを取り出すと火酒をたっぷりと浸す。
立ちつくすサヴィーネの近くに跪いた。
「お手を拝借します」
お調子者ものがキスしたと思われる場所を熱心にハンカチで擦り始める。
ハンカチが触れた場所がスッと冷えた。
「あの、もう大丈夫ですので」
「そんなわけにはいきません。あのような戯け者に触れさせたというだけでも忸怩たる気持ちです。さらにお手を汚すとは。これは重罪です。火あぶりの刑だ」
「それはさすがに」
「では縛り首で」
口走るものが死刑しかない。
「触れたといって手の先ですし」
「それでは私がしても問題はありませんか?」
サヴィーネとしては大袈裟にしたくないという気持ちで言ったのだが、正しく伝わらなかったことを悟る。
「いえ、そういうことではなく……」
すぐにニーラスの目が昏くなった。
これは良くない徴候だと感じたサヴィーネは言葉を探す。
「えーと、あの、その場所は先ほどの方が……。火酒も残っているでしょうし」
間接キスになってしまうと指摘されればニーラスも鼻白んだ。
しかし、サヴィーネがバーディッツに気があるのではないかという疑惑が生じたあとである。
そう簡単に引き下がれなかった。
サヴィーネの手をひっくり返すと手首の内側に形の良い唇を寄せる。
熱い感触にサヴィーネはみるみるうちに真っ赤になった。
人間は手の甲と内側では皮膚の感度も違うし、口づけを落とす意味合いも違う。
「キャンバルトン伯。それは……」
さすがにあまりに長くしては嫌がられるかもしれないという常識が働いて、ニーラスはようやく唇を離した。
もうすでに触れていないにも関わらず、サヴィーネの手首にははっきりと官能の余韻が残っている。
ニーラスはサヴィーネに微笑みを向けた。
「手の先であれば許していただけるのでしょう?」
「しかし、キャンバルトン伯は手首の内側にされました」
「外も内も大きな違いはないでしょう」
澄ました顔でこともなげにニーラスは言うが、サヴィーネは動揺している。
ローリンエン帝国においては、甲へのキスは尊敬を、手首の内側は愛情を示すという違いがあった。
サヴィーネは大きく息を吸って心を落ち着かせる。
実質的に既婚者同様の立場であるサヴィーネにしてみれば、愛情を示す行為というのは受け入れがたい。
ただ、まったく悪びれるそぶりも見せないニーラスの様子からキャンピオン族では違うのかもしれないと納得することにする。
しかし、その実、キャンピオン族においてもその意味するところはローリンエン帝国と変わらなかった。
ニーラスはその場に残っている竜騎士にさっと視線を送る。
私のしたことの意味合いは理解したよな、と言わんばかりの圧をかけた。
先ほどのお調子者とは違って真面目な性格をしていた2人はごくりとつばを飲み込む。
さっと敬礼をすると部屋を出ていった。
ニーラスはサヴィーネの方に向き直る前に忙しく表情を変える。
柔らかな笑みをたたえて声をかけた。
「エスターテ嬢の寛大なお心のお陰で竜騎士を処罰せずに済みます。ますます惹かれてしまいそうですよ」
厳罰を主張していた当人が前言を棚にあげ微笑む。
サヴィーネは表情を消して何事もなかったかのように振る舞うことしかできない。
ニーラスの言葉は領主としてサヴィーネの歓心を買うための巧言にすぎないと思っていたのだが、なんとなくそれだけではないのかもという気がし始めていた。
手首に残る感触がそれを補強するかのように熱を帯びる。
本気でニーラスが自分に好意を寄せているという考えは、サヴィーネに色んな感情を呼び覚ました。
愛想のない冷血女、祖国に売られた生贄を好きになるはずがないという気持ちは相変わらず強くある。
その一方で、それが本当だったなら、それはそれでダルフィード国に嫁いできた立場からすると困ったことになるのだった。
その愛を受け入れることは大命を蔑ろにすることになる。
サヴィーネは悩んだ末に自分の思い違いだということで納得することにした。
その頃、ケールデンの城門外に勢ぞろいした約2万の兵士と40体ほどの装甲獣を前にザーラム2世は檄を飛ばす。
「思いあがったキャンピオン族どもに思い知らせてやるのだ。キャンバルトンを捕らえるか殺した者には、やつが治めていた土地をそっくり与えよう。我が妻は髪の毛1本傷つけるなよ」
配下の将軍が命令を発し大軍は長蛇の列を作って行軍を始めた。
その中ほどに馬に乗ったザーラム2世も加わる。
魔術師に送らせた文書により帝国も兵を発しているはずだった。
キャンピオン族は勇猛とはいえ動員兵力はせいぜい千程度であり、病魔に侵されている。
勝ちを疑わずに戦後の楽しみを思うとザーラム2世の顔に自然と笑みが浮かんだ。
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