第13話

「おっ待たせー! こっちがAお肉コースでこっちがBお魚コースよ」


 イブは自身の両掌上の皿から漂う美味な薫りを、胸いっぱいに吸い込むと、お肉の皿をハロルドの前に、お魚の皿を馭者の前に軽やかにサーブした。シリオ自慢の気まぐれメインディッシュである。


「こりゃ、うまそうだあ」


 年配の馭者はパセリを散らした大きな川魚のソテーを目の前に、早くも頬を緩ませた。バターの輝きが見た目にも食欲をそそりにきている。

 ハロルドがナイフで切り込みをいれたのはマッスルディアのステーキだ。サッパリしていて栄養価も高い。特にこの時期のマッスルディアは冬に向けて筋肉を蓄えており、良質な肉が取れやすかった。


 どちらもベルが今朝獲ってきたばかりの朝どれ産地直送品である。彼には山の神の加護ががっつりついているので、この手の狩りなど朝飯前。まったく山の神様様である。


 こうして、ベルが狩ってきた獲物をシリオが調理し、イブが客人にサーブする。『リストランテ・シリオ』においてイブの仕事が1番楽である。


 しかし、そもそもイブは公爵夫人。本来は使用人と一緒になって働くような立場ではない。紅茶でも飲みながら、ひねもすのたりしていていいのだ。本来は。


 キッチンからイブを呼ぶシリオの声が聞こえてくる。


「夫人ー! 『酸っぱいマリネ』出来たので早く運んでくださーい!」

「はい喜んでー!」


 イブは食事する2人をゆっくり眺める間もなく、身を翻した。長年の貧乏貴族生活で、自ら労働することに喜びを感じる体になってしまっている。貴族にあるまじき生態。残念貴族。染み付いて離れない貧乏根性。


 次から次にシリオが料理し、次から次にイブがサーブする。さらに、イブは空いた皿を片付け、洗って、拭いて、乾かす。合間でシリオの作った賄いを食べるのも忘れない。見事なまでの手際の良さ。イブもシリオも何も疑問に思わないから、全く困ったものである。


 馭者は、ついにイブが公爵夫人とは知らぬまま、コース料理をぺろりと平らげ、「おいしかったよ、お嬢さん」とたらふくになった自身の腹をポコンと叩いてみせ、再び馬車馬の世話をしに戻っていった。


 ◇


 イブがハロルドとゆっくり話せるようになったのは、ハロルドがこの邸に到着してから実に1時間半は経ったころだった。シェフから執事に戻ったシリオが紅茶のお代わりを注いでいる。室内は紅茶のフルーティな香りで満ちていた。イブは、シリオの隣に並ぶと、ようやく我が執事を紹介した。


「紹介が遅れたわね。彼がこの邸の新しい執事、シリオよ。それと、今日から『リストランテ・シリオ』のシェフでもあるわね」


 水色けむくじゃらのシリオがおずおずと頭を下げる。ハロルドはシリオのつま先から頭の先までを眺め回していた。その舐めるような視線には遠慮の欠片も何もありはしない。


(「やっぱり先に伝えておくべきだったかしら」)


 イブは新しい執事を雇ったことを手紙で伝えてはいたが、それが「モップ族」であることを伝えていなかった。あえて伝えなかったのは、わざわざ執事の種族を書くことが、そもそも差別のような気がしたからだ。それに、なんだかんだ言ってシリオの実力に実際触れてみれば誰も文句は言えないだろうと高を括っていたところもある。


 しかし、ハロルドの視線に居心地悪そうにもぞもぞするシリオを見て、イブは少しばかり胸が痛んだ。面倒でもなんでもイブが事前に話を済ませていれば、シリオにこんな気持ちをさせることは無かっただろう。雇い主としての自覚が足らなかったかもしれないとプチ反省。今さら遅いかもしれないが、イブはシリオを庇うように前に進み出た。


「あんまりジロジロ見ないでくれる? 失礼じゃない」


 イブの不快感を露わにした言い様に、ハロルドはハッとしたように眉間の皺を緩ませ、ゆったりと笑った。


「これは失礼。やはりモップ族は難しいな。つい観察してしまった。でももう、だいたい分かった」


 イブとシリオが揃って首を傾げる。


「何が?」


 ハロルドが片肘をついてイブを見返した。余裕すら感じさせるハロルドの笑みにイブの心臓が一瞬ドキッとする。彼のアメジストの瞳に見つめられるとどうも調子が狂ってしまう。頭がぼうっとするような。体が軽くなるような。妙な高揚感――


 きっと都会の金持ちオーラに当てられているに違いない。イブは負けじと睨み返した。

 ハロルドはふっと笑って、シリオに手のひらを向ける。


「性別は男で、まだ結婚できる年じゃない」

「すごい…どんぴしゃです…!」


 シリオの声は驚きに満ちていた。そんなにどんぴしゃか? そんなに驚くことか? と思いもするが、そんなに驚くことなのである。


 モップ族の性別、年齢を当てることは人族にはあまりにもむずかしい。それは木を切らずして大木の樹齢を当てるに近い。もしくはワイン一口で収穫年を当てるようなものと言っても良いだろう。つまり、めちゃむずい。


 イブは良い事を思いついた。


「あなた、私の元で働かない?」


 ハロルドは一瞬キョトンとし、そして体をのけぞらせながら大笑いした。


「せっかくだが、もう仕えている先があるのでな」


 そりゃそうだ。彼はクエルクス公爵の付き人である。別居中の公爵夫人の元で働くわけがない。イブは肩を落とした。


「残念……ねぇ、公爵ってどんな人? 私、1度も会ったことないの」


 イブの問いをハロルドは面白そうに聞いていた。


「噂は?」

「まぁ、いろいろ耳にはするけど…」


 耳に入ってくる公爵の噂に禄なものはない。皇太子である兄に、良いものは全て吸い取られてしまったのだ、なんて言う輩すらいる。けちょんけちょんもいいところだ。


 イブの遠慮がちな返答にハロルドは微笑んでいた。端正な顔立ちに常に微笑を貼り付けている彼の心の内を見透かすのはなかなか難しい。ハロルドは崩しながらもどこか品のある所作で紅茶を啜り、ほっと息を吐いた。


「火のない所に煙は立たない……そういうことだ」

「なんだか先行き不安だわ…」


 イブは腕を組み大仰にため息をつく。


「でも、あなたみたいな優秀な人が側にいるってことは、そう悪い人でもないんじゃないかしら。うん、そんな気がしてきたわ」

「ダメだからこそ、優秀な監視がつくんだよ」

「優秀な人は大変ね」

「優秀だからね、大変でもないさ」

「ますます私の元で働いて欲しいわね…あっ!」


 イブは手を合わせた。


「あなたが無理なら他の人を紹介してくれない? 宝石職人を雇いたいの。このあたりって琥珀が取れるのよ」

「琥珀か…誰かいれば紹介しよう。だが、こんな田舎で働きたい人間がいるかだな…」

「あなたの主に言ってやってよ」


 イブのふくれっ面にハロルドは声を出して笑った。そして、思い出したように懐から大きな袋を取り出した。


「来月分の生活費。先月と同じ額だ」


 イブはチャリンチャリンと瞳を輝かせた。


「あなたの主、やっぱりいい人じゃない!」


 お金はどれだけあってもいい。


『リストランテ・シリオ』を開店した以上、イブとシリオ2人ではさすがに邸を回せなくなってきているし、琥珀を加工する職人も早く雇いたい。林業従事者も雇いたいが、そのまえに道具を揃える必要がある。それに製材所も建てなければ。香木に詳しい人間も必要だ。山では金銀財宝が発掘されるのを今か今かと待ちわびていてる。

 使用人が増えれば食事や掃除洗濯の量も増えるだろう。そうなれば、やはりイブとシリオだけでは手が足りない。まずは副執事を探すべきだろうか。

 今となっては、ここに来て早々に使用人たちを王都に帰したことが悔やまれてならない。嫌々でもつかまえておけば良かった。まったくもったいないことをしたものだ……


 イブの頭の中はやりたいことでパンパンだった。やりたいことがいっぱい多すぎる。貧乏暇無し。止まったら死ぬ回遊魚。


 彼女がお金のことなど考えず、ゆっくり羽を伸ばせるそんな日々が、果たして訪れることはあるのだろうか。

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