第12話
クエルクス公爵邸には大小合わせて30近くの部屋がある。主に貯蔵室となっている地下1階、イブやシリオの自室、客人の寝室が連なる2階、そして客人をもてなす広間を擁した―今まさにイブとハロルドがいる―1階である。
イブはこの邸に来た当初からずっと思っていた。部屋数多いなと。元々王都から寄越されていた使用人たちを帰してからはさらに思っていた。部屋数多すぎるなと。
腐るものでもないし、イブの信条として「大は小を兼ねる」があるとはいえ、使っていようといまいと掃除は必要になる。幸い、イブもシリオもテキパキしているほうだし、日々の掃除の甲斐あって手間はそれほど掛からないのだが、イブの嫌いな「宝の持ち腐れ」であることに変わりはない。
だから、クエルクス公爵から使者を寄越すという手紙が来たあの日、イブは以前から温めていた計画を実行に移すことに決めた。
「『リストランテ・シリオ』、ついに開店よ」
◇
イブはハロルドを窓辺の席に通した。
そこは、あの日ベルとシリオと3人で豪雨の晩餐を共にした部屋であり、いつもシリオと2人で食事を取る部屋である。元は大きなテーブルが1つあるダイニングルームだったが、昨日シリオと2人で分解し、代わりに少人数用のテーブルセットをいくつか搬入しておいた。とりあえず邸にあったもので対応したが、そのうちそれなりの物を揃えようと思っている。
開け放たれた窓から見える庭園は、未完成ながらシリオの手入れが良く行き届いている。こちらに来たばかりのときには蔦まみれで荒れ果てた状態だった庭。イブも手伝いながら、蔦を払い、土の状態を整え、小道を作り、花を植え、灌木を植え、日々完成形へと近づいている。
シリオの目指す庭はシンメトリーの人工的な物ではなく、自然の風景に近い、毎日変化の見える庭らしい。元々あった井戸や四阿が良いアクセントになっている。来年にはバラのアーチも咲き誇る予定だ。花だけでなく、野菜やハーブも植えているところが実用的で、なんだかシリオらしかった。
「なかなか良い庭だな」
片肘をつき、庭を見つめたままハロルドがぽつりと呟いた。その態度とぞんざいな物言いにイブは少しギョッとした。一応自分は公爵夫人なのだが、この男はそのことを分かっているのだろうか。
しかし、不思議とイブのことを軽んじている気はしなかった。なんなら常に敬語だった元執事ドロシーの方がイブを軽視していた気がするくらいだ。
イブ自身も相手の年齢や性別によって態度を変えることは好まない。そう思っていたはずなのに、王都からの使いに妙に気を張っていた自分に気が付き、心の中で苦笑した。
命の掛かった山の神との会話より、お金の掛かったクエルクス公爵秘書との会話の方が緊張するとは、我ながら金の亡者だ。
そう考えたら、すとんと肩の力が抜けた。イブは両手で自身の頬をパチンとやった。不思議そうに顔をあげたハロルドにニコリと微笑む。
「あぁ、ごめんなさい。気合を入れ直したの。やっぱり、いつもどおりやらせてもらうわ。少し待っててもらえる?」
ハロルドは興味深げにイブの顔を観察すると、ふっと口元を綻ばせた。
「どうぞお構いなく」
「ありがとう。じゃあ、待ってる間に決めといて」
「…これは?」
時刻はちょうどお昼時。イブがハロルドに渡した紙には、AとB、2つのコースが書かれている。すでに部屋の出口まで駆けていたイブは、振り返りざま説明した。
「『リストランテ・シリオ』のメニュー表よ。良かったら馭者にも声を掛けてあげて。それと、今日はオープン記念で半額よ」
イブはキョトンとしたハロルドを残したまま自室へ上がって行った。
◇
部屋に入るなり、髪を解き、櫛で梳く。髪をアレンジするのは実はそれほど得意ではない。イブの髪質はサラサラで、まとめようとするとスルリと手の隙間から逃げてしまうのだ。どうにかまとめても、時間とともに崩れかねなく、気になってしょうがない。だから、普段から結ばず、そのままにしていることが多かった。鏡の前で髪先を遊ばせる。手の中をスルリと抜けて元の位置に収まった。うん、OKだ。
バカに重たいイヤリングを外し、耳たぶを労る。ネックレスもシンプルなものに付け替えた。
薄紫の格式ばったドレスをごそごそと脱ぎ、作業着を手に取る。
(「さすがにあんまりね」)
鏡に映る自分に向かって肩をすくめる。結局、作業着を戻し、普段使いの動きやすいドレスに着替えた。
これにてようやく完成。鏡の前でぐるりとターンし、こくりと頷く。
やっぱりこっちの方がしっくりくる。変に気を張らず、最初からこうしていれば良かったのだ。
窓の外を見下ろせば、年配の馭者が馬に飼葉と水を与えていた。そこにメニュー表を持ったハロルドがゆったりとした足取りでやってきた。遠慮がちに首を振る馭者を、ハロルドはどうやらなだめすかしているようだ。
しばらくその攻防が続いていたが、結局馭者が根負けして、気恥しそうに帽子の下の頭を掻いていた。ハロルドが馭者の肩を抱き、邸に二人して戻ってくる。
イブは上機嫌で階段を駆け下りていった。
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