第10話

「あんたが山の神…」


 ベルは目の前の少女を驚きの眼差しで見つめていた。山の神は醜女だと聞かされていた。だから、女が山に入ると、自分がどれだけ望んでも手に入れられない美しさを前に嫉妬で怒り狂うのだと。


 しかし、彼女ときたらどうだ――


「すごく美人さんね…」


 触り心地の良さそうなクリーム色のくせっ毛。地面まで続きそうなその長い髪は、地面すれすれを宙に浮かせ渦巻いている。透き通るように白い素足も地面から離れ、汚れの一つもない。髪色と同じ睫毛はツンと上向き、瞳を一層思慮深そうに飾っている。粘性の高い蜂蜜色の瞳は、星を散らした銀河のようで、見るものの心に神の神秘さを感じ入らせた。


 背丈は小さく、年はイブよりも幼く見える。しかし、神や精霊の類のものに見た目と年齢は関係ない。イブとベルはしばらく目の前の少女に見惚れていた。


 荘厳な空気が漂う中、最初に口を開いたのは山の神だった。


「それで…名は…?」


 イブは、はっと我に返った。


「イブ・ラ…オークラン―」

「小娘の名は聞いておらん。その男…男の名だ」


 イブは呆けたままのベルを揺すった。ベルもようやく我に返ったようだった。


「ベル・ヘイズル。俺の名はベル・ヘイズル…です…」

「ベル…ヘイズル…とても…良い名じゃ」


 なぜか片言の山の神は、そう言いながら頬を赤らめた。イブの予想通りだ。きっと山の神はベルに惚れている。ピンチはチャンス、大チャンス。このチャンス逃してなるものか。


「山の神、今日はお願いがあって来たの」

「小娘、そなたはベルから離れよ」

「だって、離れたら私のこと殺すわよね?」


 山の神の視線からビンビンに殺意の波動を感じている。否定しないところをみるに本当に殺すつもりかもしれない。イブはベルの背中にピッタリくっついたまま山の神を睨み返した。


「さっきも言ったけど、私、ベルには男としての興味はないの。だって、私、新婚だし。新婚ほやほやだし。それはもう…ほやほやだし…」

「小娘なぜ泣く」

「と、とにかく! 私とベルはあくまでビジネスパートナーなの! だから、誤解を解いて欲しくって。ベルは私が雇った『山の管理人』。つまり、雇い主と雇われ人、ただそれだけの関係よ」

「山の神、俺からも頼む…頼みます。彼女の話を聞いてやってくれませんか」


 山の神は不貞腐れたようにそっぽを向いた。ベルからの頼みであればそうそう無下にはできない。しばらく唇を尖らせていたが、ついに山の神は諦めたようにため息を零した。


「ハナ丸、もういい」


 すると、イブの後ろから何やら物音がした。振り返れば頭上で木の葉が揺れている。咲き誇る大きな白い花がドサッと地面に落ちてきた。イブの半歩横に落ちたその花はムクリと起き上がり、大きな複眼でギロリとイブを一瞥した。背丈はイブと同じくらい。白いカマキリが自慢の鎌を見せつけながら、山の神の方へ向かい、そのまま森の奥へと消えていった。


 イブの心臓がドキドキ鳴り出す。


「やっぱり殺す気マンマンだったじゃない!」

「昨日は結局助けたじゃろ。クモ之丞には悪いことをしたがの。いいから、早くベルから離れよ」

「油断も隙もありゃしない…」


 恐る恐るベルから離れてみる。うん…大丈夫そうだ。今のところ死んでいない。山の天気は変わりやすい。だからきっと、山の神の機嫌だってそうに違いない。この広間に穏やかな木漏れ日が差している間に片をつけてしまわねば。


「単刀直入に言うわ。私、この森で林業をしたいの。でも、私もベルも知識がなくて。だから、あなたに指南して欲しいの」


 山の神は不満げに腕を組んだ。


「林業? 何のために」


 そんなの答えは1つしかない。


「お金が欲しいの。生活への不安で、夜中にふと目が覚めることのないくらい十分なお金が」

「…そなた公爵夫人なんじゃろ?」

「へへへ…まぁ…」


 山の神が胡散臭そうにこちらを見てくる。そりゃそうだ。逆の立場ならイブだって不審に思う。イブがへらへら笑っていると、山の神が肩をすくめた。


「まぁいい。しかし、林業は儲からぬぞ。金が欲しいなら琥珀や香木を探すがいい。この山にはまだ結構ある」

「琥珀と香木…」


 山の神は頷き、自身の背後の岩を撫でた。ベルが水と花を供えた、いわば祭壇の岩である。


「これだって琥珀の一種じゃ。隙間から光沢が見えよう。貴重なブルーアンバーじゃ。これ1つでも相当な額になる。香木も貴族連中が好むらしい。高値で売れるはずじゃ。場所は教えるからとっとと持って出ていけ」

「ありがたくいただきます!」


 イブはペコリと頭を下げた。つられてベルも頭を下げていた。顔をあげたイブは揉み手をしながら神を見上げた。


「それで…林業のご指南の方は…」


 その瞬間、陽だまりの広間に影が差した。空気が電気を帯び、またしても髪が上へ持ち上がっていく。山の神の声は低かった。


「林業は儲からぬと言ったろう」

「でも、せっかくこんなに立派な木がたくさんあるのに…」

「そもそも、人ごときが山を管理しようなどと、その発想が気に食わぬ」


 あ、そういうこと? 地雷踏み抜いちゃった感じ?


 山の神の目は据わっていた。


「しかも、ここは広葉樹林ぞ。人ごときが管理などせずとも、古い木は勝手に倒れ、切り株からは新芽が生え、空いた隙間に種が落ち、育ち、生き物たちの食料、棲み家となり、そして、時がくればまた朽ち果てる。そのサイクルに人なぞいらぬ。自然を人ごときがどうこうできるなど思わぬことじゃ。おこがましいにもほどがある」 


 空はすっかり重たい雲に覆われていた。完全に山の神の逆鱗に触れてしまった。念のため、イブはベルの隣にくっついた。ここまで来て死にたくない。


「ともかくじゃ。琥珀と香木は分けてやろう。ベルの名を知った記念にな。金が欲しいならそれで十分なはずじゃ」


 山の神は、これにて話は終わりとばかりに背を向けた。呼び止めたのはベルだった。


「俺はこの森にもう長いこと住みついてます。あなたはその俺に、いつでも山の恵みを分けて下さいました。だから、一人でもここまで生きてこられたのです」


 山の神が後ろを向いたまま何やらぼそぼそと呟いた。


「そ、それは…ベルは…その…特別だからじゃ…」


 しかし、声が小さすぎてベルとイブには聞こえていなかった。ベルは話を続けた。


「俺はこれからもここに住み続けたい。だから、彼女の仕事を引き受けた。それに、昨日ふと思ったんです。この森の良さを他の人にも知ってほしい。この気持ちを共有したい。そして、これからの人たちがこの森とずっと一緒に生きていけるように、俺が今やれることがあるならやっておきたい。今はそういう気持ちもあります」


 山の神は不思議そうに振り向いた。


「これからの人たち…?」


 イブが口を挟む。


「琥珀や香木は確かに手っ取り早くお金になるけど、量に限りがあるでしょう? 木だって限りはあるけれど、ちゃんと管理しながら採れば自然のサイクルを壊さずにすむはずよ」


 山の神は「心配するな」とばかりに手のひらをひらひらさせた。


「小娘が生きている間くらいは琥珀と香木が尽きることはあるまい」

「だから、、なのよ。山の神とベルが結婚して子どもができたらどうするの? その子たちに資源を残しておかなくて良いわけ?」

「「なっ!?」」


 イブはぶっこんだ。

。明るい未来を想起させるいい言葉だ。昨夜の時点で、露ほどもそんな素振りは無かったので、ベルがそこまで先を見据えていたとは正直思わなかった。

 ベルが思い描くは別に自分の子孫という意味では無かっただろう。

 だけど、これはチャンスだと思った。だから、渡りに船とばかりにイブはぶっこんだ。

 

 案の定、ピンと張り詰めていた空気は一変した。山の神は顔を真っ赤にし、ベルは首の後ろを気恥ずかしそうにぽりぽり掻いている。すっかり空気はゆるゆるである。


「我とベ、ベ、ベルの子ども!? け、け、結婚!!?」

「そうよ。ありえなくは無いでしょ? それとも山の神は人間と結婚できないとか?」

「そんなことは断じてない!」

「じゃあ、可能性の1つとしてそういうことも考えておかなきゃ。子どもに苦労させたくはないわよね?」

「それは、そう」

「それに山の管理人の仕事を奪ったら、ベルは無職になっちゃうの」

「まぁそれは、我が養うから問題ない」

「ベルだって、山の神に林業のこと、手とり足とり教えてもらいたいわよね?」

「うん…まあ…是非」

「キュン!」


 顔を真っ赤にした山の神が蜂蜜色の瞳を泳がせながら、こほんと咳払いした。天空は雲一つなく澄み切っている。


「まぁ、そんなに言うなら教えてやらぬこともない…手とり足とり…うむ…それで、何人いるんだ。まさかベル一人にやらせるわけではあるまい」


 イブは指折り数えた。ベル、イブ、シリオ…


「3人。ベルと非力なのがあと2人…」

「舐めてるのか」


 指折り数えるまでも無かった。イブの周りにはまだまだ人が少ない。林業するにも、何をするにも、これからの発展のためには人材確保は避けて通れない。どんどん優秀な人材をスカウトしていかなければ。イブは心に決めた。


 全ては悠々自適な公爵夫人ライフのため。離縁されてもお金に困らないようにするため。それに――


「私が死んで、万が一、この地に転生してしまったときに、お金に困らないような豊かな土地にしとかなきゃ」

「この小娘、ずいぶんと奇妙奇天烈じゃな」


 山の神が呆れ顔で呟く。ベルは少し微笑んで頷くと、山の神に同意を示した。

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