第9話
翌日、ベルは朝早くにクエルクス公爵邸を出ていった。昨夜までの大雨はすっかり止み、頭上には薄水色の空が広がっている。下草に留まった水滴がベルの足元を執拗に濡らした。
ベルは大きな布袋を背負い直し、森の入り口で仁王立ちした。
「やっぱりこういうのは大事だからな」
いつもの時間にいつもの場所で。湧き水を汲み、陽だまりに育つ花を摘む。そう、いつもどおり。
ベルは、昨日イブと出会った場所に来ていた。蜘蛛の欠片は雨で洗い流されてしまったようだ。そこには黒い焦げあとだけが残っていた。
布袋を背負い直し、白い石に導かれるまま
ベルの胸ほどの高さはある黄色み掛かった大きな岩。フレア状の白花が対生に咲き誇る大木に囲まれ、その大きな岩は苔むした広間に鎮座していた。
尾の長い極彩色の鳥が頭上を飛びたち、羽ばたきが森の静寂を破る。この祭壇の広間付近にしか現れない鳥だ。
ベルは岩の前に蹲ると、汲んできたばかりの水を昨日のものと入れ替え、その横に花を添えた。いつも彼なりに選んだ花を捧げるようにしている。今日は花弁の縁が濃い紫で金魚のヒレのような可憐な花にした。
岩にはところどころ裂け目がある。その裂け目から覗くコバルトグリーン、ブルーグリーンの光沢は見るものの心に荘厳な気持ちを湧き立たせる。
自然とベルは頭を垂れ、静かに手を合わせていた。
「山の神、今日も山の恵みを少しばかりお分けください」
これが彼のモーニングルーティンだ。毎朝決まった時間に、決まった作法で。この森に爺さんと住み始めたときから、欠かさずにやってきた。
実際、これまで神の姿を見たことはない。しかし、大きな怪我もなく、飢えることもなく、ここまで生きてこられたことは、やはり神のご加護あってこそ。そう感じざるを得ない何かが、たしかにここにはある。
いつものように清らかな心で祈りを捧げたベルの後ろから、肩を抱くように腕が伸びてきた。
「はぁ〜、あっつ…少しなんて控えめなこと言ってないで、もらえるだけもらいましょうよ」
「イブ!? そうだ、忘れてた…」
振り返れば布袋から頬を上気させたイブが顔を覗かせ、腕をだらりと出している。
その瞬間、さっきまでの晴天はどこへやら、二人の頭上を黒い積乱雲が覆い、雷鳴が轟き始めた。
◇◇
「やっぱり本当にいるのね」
イブは布袋から這い出し、ベルの背中にピタリとくっついた。後ろから手を回し、ベルの体をがっちりホールドする。一方ベルは、腰から鉈を抜き出し、周囲を見回していた。
「やっぱり、じゃないだろう。これからどうするつもりなんだ」
「大丈夫。考えがあるって言ったでしょう?」
黒い雲の間を青白い光が龍のように走り回っている。イブの髪とベルの髭が空気を纏ってゆっくりと上に持ち上がった。静電気だ。
次の瞬間、ドンッと衝撃音がして、二人のそばの大木に雷が落ちた。斜めに入る深い亀裂の中で火が燃え盛っている。生木を瞬時に滾らすほどの高電圧。雷鳴轟き、地が裂けるとはまさにこの事。それほど激しい女神の怒り。
誤解は早々に解いたほうが良さそうだ。
イブはベルにくっついたまま、天に向かって叫んだ。
「私はイブ・ラベ…んんっ…イブ・オークランド。この森の領主であるクエルクス公爵の妻よ」
雷はまだ唸りをあげている。イブは命乞いを続けた。
「しかも、ただの妻じゃないのよ。新妻よ、に、い、づ、ま! 新婚ほやほやラブラブなのよ」
天地神明に誓って嘘だ。少しもラブラブではない。なんなら夫の顔すら知らない。
呆れ顔で見下ろしてくるベル。イブは一瞬自嘲の笑みを浮かべ、そしてベルをガクガク揺らした。
「だから正直、この男なんて全く興味ないの。そもそも顔も年齢も性格もマッチョ具合も全部タイプじゃないわ!」
「こっちだって興味ないんだが…」
(「もっと大きな声で言いなさいよ!」)
イブはベルの足を踏みつけた。「理不尽」とでも言いたげな表情を浮かべたベルに、軽く頷く。大丈夫大丈夫。だって、雷鳴はさっきより確実に小さくなっている。
「それに私、お金持ちにしかときめかないの。あなた素寒貧でしょ」
「スカンピン…」
「じゃあ聞くけど、逆にあなた、どんな人が好きなのよ?」
「どんな人…?」
ベルは腕を組んで考えこんでしまった。山暮らし一人ぼっち上級者には少し難しい質問だったかもしれない。この微妙な間に、雷鳴はすっかり鳴りを潜めていた。まるで聞き耳を立てているかのようだ。イブは助け舟を出した。
「じゃあ、年齢は上と下どっちが好き?」
「んー…上だろうか…」
その瞬間、黒雲が消え去り、一瞬にして青空が蘇った。
「上って言っても、離れすぎているのはちょっとなぁ」
黒雲がもくもくと青空を再び覆い隠す。イブは慌ててベルを揺すった。
「背は? 背丈は? 自分より大きい人と小さい人どっちがいい?」
「こだわりはないが、小さいほうかなぁ」
ベルはクマのように大きい。彼より大きな女を探すほうが大変である。
空はまたしても光を取り戻した。
「(危なかった…)じゃあ、お料理できる人とかはどう?」
「別に食えれば何でもいいが…まぁでも出来る人はいいと思うな」
イブは空を仰ぎ見る。黒雲と青空がせめぎ合っていた。ちょっと悩んでいるのだろう。
「あぁ、でも、シリオの料理は今まで食べた料理の中で一番おいしかった。嫁に貰いたいくらいだ」
イブとベルを突然のスコールが襲った。うかつだった。料理の話をすればシリオの話になることは目に見えていた。今朝だって、美味い美味いと言いながら具だくさん水餃子を食べてきたのだから。
「シ、シ、シ、シィリオは男よ、男! そもそもまだ結婚できる年じゃないの! 少年よ、少年! 捕まるわよ!!」
「何をそんなに焦ってるんだ? 冗談に決まってるだろう」
「冗談だってー!! 聞いたー?? 冗談だってよー!!」
イブは天に向かって声を張り上げた。とたんに雨が止み、恥ずかしそうに太陽が顔を覗かす。このやりとり、さすがにもうしんどい。ため息一つと引き換えに、イブは、えいやっと腹を括った。
「山の神様、近くにいるんでしょ。姿を見せてくれないかしら。この男に聞きたいことがあるなら直接聞いたほうがいいわよ」
ベルが首を振った。
「山の神が姿をお見せになるはずがない」
「でも、会ってみたいでしょ。来る日も来る日もここに祈りを捧げに来てたんだから」
「まぁ…」
ベルと目が合う。期待と不安の入り混じった瞳がこちらを見下ろしている。イブは黙ってコクリと頷いた。
「今の聞いてたでしょ。彼も会いたいって。出てきてくれたら彼の名前も教えてあげる」
その瞬間、祭壇の岩の裂け目から、眩い光が漏れ出した。青とも緑ともつかぬその光輝は一瞬にしてあたりを包み込む。
「我を呼びつけるとはいい度胸じゃ、小娘」
光の中に現れた人影。傲岸不遜な物言いとは裏腹に、その声音は若く瑞々しい。光から出てきたのはあどけなさすら感じさせる一人の少女だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。