第6話

 邸へはイブの足で歩くより倍も速くたどり着いた。豪雨は森だけでなく、邸の周辺まで続いている。今朝シリオが磨いていた窓を、扉を、地べたから跳ねた泥水が早速汚していた。


「夫人ー!!」


 窓辺でイブの帰りを待ち続けていたのだろうか。雨の中、シリオが邸から飛び出してきた。


「キノコ狩りに行くって言ってたのに自分が狩られてるじゃないですか!」

「お尻に喋りかけないでくれる? 言い返しにくいじゃない!」


 イブはようやく男の肩から降ろしてもらった。足の傷は疼くが男が途中で手当してくれたので、歩けないほどではない。相変わらず毛むくじゃらでシリオの表情は掴みにくいが、おそらく心配していたのだろう。なんだかいつもよりほっそりして見える。いや、確実にほっそりしている。え、そんなにやつれるほどに、心配してくれてたの…?


「水に濡れると細身になるだけです」


 猫かな。


「まったく、傘くらい差してきなさいよね」

「慌てていたので…で…そちらはどなたです?」


 シリオが男を仰ぎ見た。男はシリオに手のひらを突き出し、それ以上の詮索を拒絶した。


「俺はただの通りすがりだ。もう帰る」

「ちょっと待って」


 イブは男の太い腕を掴んだ。男の鋭い視線がイブを突き刺す。しかし、イブは男の腕を掴む力を強め、深く深く頭を垂れた。


「ここまで運んでくれてありがとうございました。あなたは命の恩人よ。だから、お礼をさせてほしい」

「別にいらない」

「聞きたいこともあるの」

「何も話すことはない」

「正直に言うわ。私の元で働かない?」

「なんでそうなる?」


 男にとってこの申し出は予想外だったらしい。前髪から覗く翠の瞳が困惑の色を隠しきれていない。シリオがブルブルと体を震わせ、大粒の水しぶきを二人に浴びせた。


「とりあえず中に入りませんか。お風呂も沸かしてありますし、夕飯もできています。豆たっぷりの肉煮込みシチューですが」


 シリオの料理にはたいてい具体的な名前がついていない。しかし、どれも抜群に美味しいから何も問題はないのだ。イブは戸惑った様子の男の背中をぐいと押した。


「絶対胃袋つかまれるから。覚悟してね」


 ◇◇◇


 シリオと男が風呂に入っている間、先に済ませていたイブは夕飯の準備をしていた。といっても、朝シリオが焼いたパンの残りを温め、サラダをとりわけ、シチューを注ぐだけである。お酒は無いので、男には悪いが、ハーブウォーターで我慢してもらう。クソ田舎のいいところはただの水がべらぼうに美味しいところだ。バラノスの井戸水は今までイブが飲んだことのあるどの水よりも、冷たく美味しかった。


 窓を叩く雨音は未だ衰え知らずである。とどまることを知らない雷光からの雷鳴が、山の神の収まらない怒りを物語っていた。


(「すっごく怒ってるわね」)


 山の神とは何だろう。イブは今までそのような存在に出会ったことはない。ラベイユ家の領土内にも小さな山があり、イブがまだ幼い頃には家族でキノコ狩りを楽しんだものだったが、そんな話は一度も聞いたことはなかった。


 しかし、あの白蜘蛛はどこか気品を感じさせるところがあった。そもそもあんな大きな蜘蛛がこの世にいるなんて聞いたこともない。


 あの山の固有種だろうか。しかし、あんなに大きな固有種が今まで世間に知られていないなんてことがあるだろうか。最近現れた突然変異種ということも考えられなくはない。


 もしくは、あれが山の神…いや、あれは雷に打たれて死んだのだ。そのおかげで男と自分は奇跡的に助かった。つまりは、その奇跡を起こしたのが山の神。蜘蛛の出現も落雷もタイミングが良すぎる。


 今日の出来事は偶然か奇跡か必然か。それを確かめる必要がある。偶然ならば、まあそれで良し。奇跡ならば、それは必然だ。必然にできる。ピンチはチャンス。大ピンチは一発逆転の大チャンスなのだ。


 そのためにも、あの男は必ず手中に納めなければならない。


「湯加減はどうだった?」


 男が頭から湯気を出しながらほくほく顔でやってきた。隣のシリオもおそらくほくほく顔であろう。風呂とはそういうものだ。男は蕩けそうな目をして呟いた。


「湯船なんて初めてで…あれはずいぶんと良いものだな…」

「お気に召して良かった。ささ、夕飯にしましょう」


 イブはフルスイングの笑顔で男を席へと案内した。

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