第5話

「止まれ」


 咳払いのあと、今度はもっと明瞭な声でそう聞こえた。イブは恐る恐る振り返った。10メートルほど先だろうか。大きな男が弓を構えて立っていた。その風貌はまるでクマ。男のボサボサの髪とヒゲがよりクマ感を醸し出している。


 彼は間違いなく不法侵入者だ。

 不法侵入者がイブに矢を向けているのである。


 イブは帽子を抱える手にぎゅっと力を込めた。キノコがいくつかはらりと落ちた。足の震えは止められなかった。


「あなた、誰?」


 こんな状況にも関わらず、毅然とした声を出せたと思う。我ながら褒めてやりたい。


「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るのが礼儀だろう」


 初対面の少女に現在進行形で矢を向けている男に礼儀云々言われたくない。しかし、そんなつまらない指摘をして射殺されでもしたら元も子もないのもまた事実だ。


「私はイブ・ラベイ…じゃなくて、イブ・オークランド。クエルクス公爵、つまりこの森の領主であるキルシュ・オークランドの妻よ」


 この地で最高レベルの肩書き、公爵夫人。最高にして最強の切り札。これで相手はもう何も言えやしまい。イブは勝利を確信した――が、


(「びくともしてない?!」)


 男は変わらず弓を引き、険しい視線を前髪の隙間から覗かせていた。その表情はやはり縄張りを侵されたクマにしか見えない。


「わ、私は名乗ったわ。で、あなたは誰よ?」


 こんなことで動揺してはいけない。怯んで目を逸らしたが最後、喰い殺される。イブはすでに本物のクマと対峙している気持ちになっていた。男の口から犬歯が覗く。


「忘れた。そんなもの無意味だろう」

「なっ」


 なんなのだこの男は! 

 男が先に名乗れと言ったから名乗ったのに、おちょくっているのだろうか。怒りの言葉が口から飛び出そうになる。いや、待てよ…イブはとんでもない仮説を閃いた。


「あなた…もしかして、クエルクス公爵キルシュ・オークランド…?」


 であれば、彼がこの森にいる理由も納得できる。彼の領土に彼がいて何の不思議もない。そうなのか!? どうなのか?!


 見やった男の顔は無表情を貫いていた。


「それはあんたの夫だろう? あんた、自分の夫の顔も分からんのか」

「ぐう…」


 その結果、男は弓を引く手に力を込めたようだった。これではどっちが不法侵入者か分かったものじゃない。矢を向けられているこの状況は精神衛生上

、非常によろしくない。どうにか上手く逃げられないものか。視線は逸らさず、じりと後退ろうとしたその瞬間、


「だから動くなと言ってるだろう」


 男の低い声が今までで一番怒気を含んでいた。たくましい腕には青筋が浮いている。いつでも弓を放てる状態だ。


「ゆっくりこっちに降りてこい。ゆっくりだ」


 矢を向ける、名乗らない、乱暴な言葉遣い。こちとら初対面のレディーである。あまりに失礼すぎやしないか。どうして自分がこんな男の言うことを聞かなければならないのか。イブはだんだんイライラしてきた。


「どうして私があなたの言うことを聞かなきゃならないのよ」


 男が面倒そうに舌打ちした。


「あんたが女だからだ」

「カッチーン」


 それはこの世で1番嫌いな言葉だ。モップ族だから、貴族だから、貧乏だから、一人娘だから、女だから、だからだから――だったらなんだというのだ。


「あなたのこと嫌い言うことなんか聞かないわ」

「はぁ? こんなときに何言ってんだ…」

「暴力で何でも支配できると思ったら大間違いよ」

「……あんた、蜘蛛は好きか?」

「は? 好きじゃないけど」

「そうか。俺は好きだ。だから射ちたくない」

「はぁ? こんなときに何言ってるの」

「いいから、こっちに来い。ゆっくりだぞ」


 全く意思疎通ができない。もう我慢の限界だ。イブは大人気なく地団駄を踏んだ。


「だから行かないってば!!」


 その瞬間、頭上が一際暗くなった。何事かと振り返れば、イブの倍はある白蜘蛛が、脚を振り上げ、今にもイブを抱き込もうとしている。鋭い鋏顎が重なり合い、イブの細い首をまっすぐ狙っていた。


(「あ、死ぬ」)


 そう思ったのと、白蜘蛛の深紅の眼が男の放った矢に射抜かれたのが同時だった。硝子を爪で引っ掻くような不快な悲鳴をあげ、仰け反る蜘蛛に2矢、3矢。弧を描き次々に刺さっていく。


「早く逃げろ!!」


 気づけば、腕を男に掴まれていた。我に返り、急かす男とともに身を翻す。一歩踏み出した瞬間、足に激痛を感じ蹲った。


「…っ!」


 見れば、太ももに蜘蛛の脚先が食い込んでいた。みるみるうちにズボンに赤いシミが広がっていく。男が腰から鉈を取り出し、躊躇うことなく振り下ろした。蜘蛛の脚から飛び散る緑の液体がイブのズボンをカラフルに染め上げる。


(「わぁ…まさかのクリスマスカラー。ていうか蜘蛛の血のせいで蜘蛛人間になったりして」)


 命の危機だってのにバカみたいな考えが頭を過った。


「早く今のうちに!」


 バカなことを考えている場合ではない。差し出された手に、こくりと頷き、掴まろうと顔をあげた―その時。


 イブは絶望した。

 男の真後ろに白蜘蛛の狭顎が大きく口を開けて迫っていた。男も殺気を感じたようだった。上空は重たい雲に覆われ、隙間から帯電の光をちらつかせていた。


 イブは動けなかった。男を助ける方法も、自分を助ける方法も、何も思い浮かばなかった。だって、狭顎はすぐ目の前だ。考えている暇もない。しかし、男はそれでも諦めていなかった。イブに手を伸ばし突き飛ばそうとしていた。


「逃げろっ!!」


 その瞬間、イブの目の前が真っ白になった。同時に地面を割るような爆音が耳を劈いた。


「―っ!?」


 瞬間、滝のような雨が落ちてきた。イブと男はあっという間にずぶ濡れになった。白蜘蛛がいたはずの場所には黒く焦げた跡があり、そこかしこに欠片と思われるものが飛び散っていた。見上げれば白い稲光が龍のように天空をのたくっている。ゴロゴロと鳴る唸り声にイブの腹の底が震えた。


「助かったの…?」


 まだこの状況を理解しきれていない。言葉も自然と疑問系になる。イブの横で男が大きなため息をついた。


「近くに俺の小屋がある。怪我の手当を―」


 そこまで言って男は少し考えるように押し黙った。そして言い直した。


「あんた、麓の公爵家から来たんだよな。家まで送ろう」


 次の瞬間、イブの体が宙に浮いた。男がイブを持ち上げ肩に担いだのだ。


「ちょ、ちょっと、何するのよ」

「この方が早い」


 そう言って男は森を鹿のように軽やかに駈けていく。この森のことを知り尽くしている人間の業だった。


 しかし、イブはこれでもれっきとした公爵夫人だ。この森は公爵のものであることに変わりはないし、見知らぬ男にこんな物みたいな運び方をされるのも癪にさわる。イブは担がれながら男の背中をポコポコ殴った。


 命を助けてくれたとはいえ…そういえば…あの白蜘蛛は何だったのだろう。


「あそこには祭壇があるんだ」


 男が小川をざぶざぶ進みながら呟いた。来るときはほんの小さな水の流れだったそこは、今や茶色い濁流となっている。イブは黙って背中を殴り続けていた。


「白い岩に導かれるまま階段を登ると祭壇があって、山の神を祀っている」

「…」

「山の神は女神なんだ。嫉妬深くて女を嫌う。あんたみたいに若くてきれいな女は特にな――だから止めたんだ」


 イブの頭に男の言葉が蘇った。


 ―あんたが女だからだ―


(「そういう意味…」)


 イブはため息をついて男を殴る手を止めた。


「あなた言葉が足りなすぎるのよ…」

「ん?」


 それからのイブは海鼠のように男に身を任せきって黙って大人しく担がれていた。

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