第4話

「亭主元気で留守が良い!」


 イブは紙幣を10枚束にするごとにその言葉を繰り返した。このお金は邸に初めてやって来た日に、ひっつめ髪のドロシーから預かったものだ。この邸での1ヶ月分の生活費を公爵がドロシーに持たせていたらしい。


(「食費、消耗品費、通信費、街までの移動費、使用人へのお給金…わりとしっかり一ヶ月分なのよね。驚きだわ」)


 公爵夫人として恥ずかしくない生活ができる1ヶ月の金額がイブの目の前にはあった。少し多めに見積もられている節もあるが、桁違いに多いわけではなく、逆に足りないということもない。絶妙な匙加減。


 ドロシーは公爵から預かってきたと言っていたが、それは言葉の綾だったのだろう。王城には優秀な経理がいるはずで、きっと彼らが勘定して持たせたにちがいない。


 そうでなければ、「クエルクス公爵は稀代の浪費家で、兄である皇太子にしばしば金をせびりに来ている」なんて噂が国中に知れ渡っているはずがないのだ。


 イブは札束を1つ1つ丁寧に重ね、角をきれいに揃えて羊皮紙に包むと、茶運び人形のようにテケテケと歩き、頑丈な金庫の中へそっとしまった。


 鍵を掛け、大きく息を吐く。


「こんな大金ぽんと渡せる神経が怖いわ…」


 金持ちにとっては、数ある邸のうちの1つの、たかだか1ヶ月の生活費なのかもしれないが、イブにとってみればとんでもない大金である。


 王都へ帰した使用人たちへの給金分を返すと手紙に書いたのだが、「その必要なし」と返事があった。


 そのうえ、イブは実家のラベイユ家宛に結納金までもらっている。それは、お人好しのラベイユ伯爵ごときが思いつく限りの散財をしようとも、そう簡単には無くならないほどの金額だった。


 新居としてあてがわれた場所こそクソ田舎だが、イブを金銭面で困らせようというつもりはないようだ。騙すようなかたちで嫁入りしたイブのことを実は怒っていないのだろうか。会ったこともない夫の気持ちは正直全く分からない。


 まぁ―


「腐るほどあるっていうならありがたくもらうけど」


 イブは実家から持ってきた年季の入ったつば広帽をむぎゅっと被った。


 ◇


「ちょっと山へきのこ狩りに」


 青空の下、せっせと窓拭きに勤しむシリオにそう言い残し、イブは邸をあとにした。


 クエルクス公爵に嫁いでからというもの、邸の中のことに忙しく、外を散策する時間がとれていなかった。


 バラノス公領はとてつもなく広い。しかし、そのほとんどが手つかずの森林だ。林業でも営めばそれなりの稼ぎは見込めそうなものだが、代々この土地を治めてきた公爵たちはどうやら興味がなかったらしい。それはそうだろう。彼らにはもっと楽にたくさん稼ぐ手段がいくらでもあるのだから。


 その結果、この土地バラノスは公爵も手をつけず、しかし公爵の持ち物である以上、庶民も手を出せず、世界から忘れ去られた領土となったわけである。


 そんな土地には人も集まらない。若者は夢と仕事を求めて都会へ行き、残されたのは年寄りばかり。未来のない土地に領主たる公爵は興味を持たず、一層バラノスへの関心は薄れる。


 負のループの出来上がりだ。


 イブは黄緑色したみずみずしい葉を茂らせる大木を見上げ、感嘆のため息を漏らした。


「まったく宝の持ち腐れね。これだけで一財産築けるじゃない」


 手を広げぐるりとあたりを見回せば、樹齢何十年、いや、何百年の木々がそこらじゅうに屹立している。


 イブは苔むした倒木に腰掛けると、邸で埃被っていた地図を広げた。


「この近くだと思うんだけど…」


 地図には赤いバツ印があった。いつ、だれが書き加えた印なのかは不明である。目印の木々や奇岩の配置を見る限り、現在イブがいるところから赤いバツ印はそう遠くないはずだった。


「わざわざ印が付けてあるってことは何かがあるってことよね。もしかしてお宝とか…!?」


 宝箱から溢れんばかりの金銀財宝を妄想し、思わず涎が垂れる垂れる。いけない、とハンカチで口元を拭い、キノコの詰まったつば広帽を抱え、再び森を歩き出す。


 さっきまで座っていた倒木の位置からは見えなかったが、少し歩くと純白の岩が規則正しく並ぶ光景が見えてきた。それは明らかに人工的で、まるでどこかへ誘導しているようだ。赤いバツ印の位置とも相違ない。近づくと、その考えは確信に変わった。


 左右均等に並べられた白い石は階段のように上へ続いていた。そこにはちゃんと道があった。獣や人が定期的に通っている証拠である。獣であれば岩を並べたりなどしないから、やはり人なのだろう。


 イブは軽く周りを観察し、そして目を見開いた。


 イブがやってきたのとは反対側の森にも、岩こそ並んでいないが何者かが何度も通っているらしい道が続いている。


「この森に誰かが定期的に入ってきている?」


 この森はクエルクス公爵の所有物である。しかし、すべての領土を公爵が1人で管理することは現実的に不可能だ。だから、実際は管理人を雇い、領土の実質的な管理を任せていることがほとんどである。


 では、バラノスはどうか。答えはノーである。管理するだけのメリットがないとして公爵自身はおろか管理人さえも雇われず、ここは長年放って置かれた土地だ。


 つまりこの森にクエルクス公爵家以外の人間がいるとすれば、端的に言えばそれは不法侵入者なのである。


 空を見上げれば、灰色の雲がいつの間にか頭上を覆い隠していた。木漏れ日に照らされていた木々の葉はその明るさを失い、森は鬱蒼と沈んでいた。山の天気は変わりやすい。イブはキノコいっぱいのつば広帽を抱え直し、肩をすくめた。


「印の場所だけ確認してさっさと戻ろう」


 ここに来るまで、優に2時間は掛かっている。また明日リベンジする元気はない。


 連なる白い岩に誘導されるまま、高みへ至るきざはしへ一歩足を踏み出した、その時だった。


「止まれ」


 しゃがれた男の声がイブの背に突き刺さった。

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