第10話 天啓⑩
僕は僕の願いを誰かに話さずにはいられなかった。わざと鳥居を外れた道を歩く。
「もしも、相思相愛の恋人たちが居たとして」
僕は唐突に呟く。
「お互い、愛し合っているのにだよ? 女の人は、男の人と肉体関係を持ちたがらない」
そのまますぎるかと思った。
「女の人は結婚まで、純潔を保ちたいのかもしれません」
「今時、時代遅れだよ」
僕は鼻で笑う。
「ですよね」
幸くんも愛想笑いする。
「何でかな。どうして、女の人は…」
「女の人は経験がなくて、恐いのかもしれませんね」
僕は唸る。いくら恐いからといって、だったら、自分を殺してからにしろというのでは、筋が通らないような気がする。何も僕は無理やり襲ってしまおうとしているのではない。処女が強姦されるくらいなら、殺されたほうがまだマシだというのは理解できるが、僕は本当にリホの本心が解らないでいる。
「その女の人はね、言うんだよ。私とどうしても、そういうことをしたいのなら、それは、私を殺してからにして下さいと」
幸くんは、数回まばたきする。そして、笑顔で言うのだ。
「なら、男の人は、女の人の言う通りにするべきですよ」
「えっ」
僕は予想外の答えに、呼吸をするのも忘れる。そんなことをしてもいいのか。許されるのか。この目の前の少年は、一体、何を考えているのか。
「やだな。これは、
「ああ、そうだよ」
僕は慌てて、笑ってみせる。
「僕は欲しいモノが目の前にあったなら、必ず手を伸ばす努力をします。たとえ、その努力が社会的には悪だとされるモノだとしても」
僕はひきつった顔面を悟られぬよう、歩調を早くする。
「幸くんはそこまでして、一体、何が欲しいんだい?」
「幸せ、です」
「幸せ」
僕は噛み締めるように、その単語を反芻する。
「幸という名前は住職である父がつけてくれたのですが、僕は生まれてこの方、一度も幸せだと感じたことがないのですよ。ああ、一回だけあったかもしれない。でも、それは、偽物の幸せだとすぐに気付きました」
僕はつばを飲み込む。
「前橋さんも一度きりの人生なのだから、自分が幸せになる道を選べば良いと思います」
「ああ、そうだね」
僕は視線を落とし、ある決心を固めた。
リホが中学生になったばかりの五月だったか。ここしばらくは、離れではなく、僕のアパートにへとリホが訪ねてくることが常になっていた。
リホが珍しく、髪飾りをつけていた。リホは無駄な装飾を好まない。
「どうしたの、それ」
僕はリホの頭の、橙色の髪飾りを指差す。
「ああ、妹がくれたの」
「妹。オカリナちゃんだっけ?」
リホは笑って頷くが、目が笑っていない。
「あの子、自分の名前が気にいらないって言うの。今までは、大好きなリホお姉ちゃんにつけてもらったのだって、喜んでいたくせに。楽器の名前で変だって、友達にからかわれたのですって。馬鹿にしてるわ」
僕は気付いていた。リホは、妹の話をするときは、決まって不機嫌になるのだ。
「ところで、中学校生活には、もう慣れた?」
「学校の花壇で、マリーゴールドを育てているの」
リホが目を輝かせる。
「マリーゴールド…?」
花壇で、育てているのだから、花には違いないが、花を綺麗だと感じたことのない自分は、どんな花か即座に思い出せない。というか、そもそも、その花を知らない。
「このリボンのバレッタと同じ色の花よ」
僕は首を傾げる。
「僕はバレッタという言葉も、マリーゴールドという言葉も知らなかった」
「でも、存在はするのよ」
「リホが言うなら、そうに違いない」
リホは僕の神だからだ。
「おおげさねえ」
リホがほがらかに笑う。僕も笑う。
その日から、ずっと、リホはマリーゴールドと同じ色のバレッタをつけている。
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