第9話 天啓⑨
「善治は私と遊ぼう。だから、伏見稲荷には、
僕は幸くんと目を合わせ、頷き合い、立ち上がる。離れの玄関口で、幸くんが遠慮がちにリホに声をかける。
「あの、僕、どこにあるかわからないんだ」
「JRで行ったら良い。JR稲荷駅で降りたら、すぐ目の前がおいなりさんだから。迷うほうが難しいわよ。あ、でも、快速は止まらないから、途中で、普通電車に乗り換えなきゃ駄目よ」
幸くんはわかったと頷く。おみやげ、よろしくねとリホが手を振る。
「幸くん。先に行って門のところででも、ちょっと待っていてくれないか」
幸くんは訝ったが、素直に言うことを聞いてくれた。
「リホ、一体、どういうつもりだ」
「どうって、二人に仲良くなってもらいたいだけよ。他意はないわ」
リホには肩をすくめる。僕はリホの言葉に過敏に反応する。
「二人で歩いていたら、変な目で見られないかな」
「兄弟にしか見えないわよ。聡明と幸、似ているから」
僕は首をひねる。
「僕は幸くんほど、顔のつくりが繊細だと思わないが」
リホは顔の前で、手を振る。
「顔ではなくて、雰囲気ね」
僕は顔をしかめる。
「でも、女子小学生とは散歩できるくせに、男子中学生とは駄目なのね。やはり、聡明は私なんかより、幸のほうがいいのかしら」
僕の顔が一気に赤くなる。
「違う。僕が好きなのは、リホだ」
リホは満足そうに頷く。
「それは良かった。安心して、未来の旦那さまをお送りできるというものよ」
リホにからかわれた気がして、不快だ。僕は何も言わず、離れを後にした。
そういう訳で、幸くんと僕は今、電車に乗っているのだ。
六地蔵駅で普通電車に乗り換える。稲荷駅は小さいが、神社みたいに朱色をして、なかなかかわいらしかった。こんなに小さな駅なのに、エレベーターがついているのは、やはり、伏見稲荷を訪れる観光客の数が多いからだろうか。私鉄は、多少、大きな駅でもエスカレーターだけで、エレベーターがついていないことが多い。エスカレーターがついていなくても困らないが、世の中にはエレベーターがついていないと非常に苦労する人たちもいるはずだ。こういうことが差別へと繋がっているのを僕は知っている。僕は少々、差別に敏感すぎるかもしれない。
伏見稲荷大社はリホの言ったとおり、JR稲荷駅を降りてすぐのところにあった。狭い道路は観光客と車とでごった返している。交通整理をする人に、車を止めてもらい、でんと構える大きな鳥居のあるほうへと、急いで渡る。
「千本鳥居ってどこにあるのかな」
幸くんは首をひねる。とりあえず、境内の中へと進む。入ってすぐの右のほうを見たら、専用の宿泊所がある。どうやら、全国から泊りがけで参詣にくる人があるようだ。さすが、稲荷神社の総本社だと訳もなく興奮する。手水舎で口と手を清め、奥へ進む。そこで、伏見稲荷大社の全体が描かれている地図を発見する。
「頂上まで登ったら、二時間だって。どうする?」
これでは、心臓が悪いらしい善治くんの参詣は無理だろう。リホの決断はやはり、正しかったのだと思う。
幸くんは明らかに、青ざめた顔をしている。
「でも、せっかく来たのだから登らなくては」
目的の千本鳥居は、幸いなことに、山の低いところにあった。適当なところまで行ったら、途中で引き返そうと決める。伏見稲荷大社というくらいだから、狐ばかりがいるのかと思いきや、本格的な夏に向け、安値の浴衣を売るテントと、朱色の鳥居が連なり始めるその前には、馬が居る。本物の馬ではない。
「馬の耳にも念仏?」
と唱える観光客がいて、なるほどと思った。白い馬には、人参が捧げられている。そして、その住みかの床には大量の学生証と思しきものがある。二人は学業祈願をして、朱色の鳥居を潜り始める。ところどころに、占いをする人がいるが、あまり若いうちに手相を見てもらっても仕方ないと思うので、無視する。一般的なサイズの鳥居には、趣のある灯篭が下げられてある。夜見たらとても綺麗だと人は言うのだろうが、夜の山歩きほど恐いものもまたないと思われるので、想像するだけで終わる。狛犬の代わりに居るびゃっこ(白狐)さんと呼ばれる眷属を見かける度に、写真を撮る。途中、小さな鳥居が二つの道に分かれる。学校の廊下なんかよりもずっと狭く、校舎と校舎の間を繋ぐ、渡り廊下くらいの大きさだ。
「これが千本鳥居ですね」
幸くんが声をかける。
「この小さな鳥居の回廊だけが、千本鳥居って言うのだよな。僕はずっと、全体の鳥居のことを指して、そう呼ぶのだと思っていたけれど。これだけでは、千本もないし、全体では千本以上あるのだろう」
「千という字は、とても多い数という意味らしいですからね」
適当に立ち止まっては写真を撮りながら、進む。びゃっこさんの絵馬があった。やや長い三角形の顔は白く、耳の赤さが目につく。顔は自分で描くらしい。
「しかし、鳥居の損傷がひどいな」
根元から腐っているようなのもある。鳥居は新旧入り乱れていて、ついさっきペンキを塗ったばかりのものもあって、触らないようにと張り紙で注意を促している。時たま、地面からすぐのところで切断されたのがあって、もうすでに次に鳥居を贈る人の名前が書かれている。伏見稲荷大社にこんなにも多くの鳥居が寄進されているのにはもちろん、訳がある。商売繁盛の神様とされている稲荷神社で、願いごとが「通りますように」もしくは「通った」お礼にと鳥居が贈られるのだ。いくつ目かの池だか沼だかを通り過ぎて、神妙な顔をしたびゃっこさんが小さな小さな社の中にいる。鋭い眼光で睨みつけるびゃっこさんを撮影する観光客がいたが、僕はそんな無礼なことをしたらただではすまないのではないかと、気が気ではなかった。時計を見たら、稲荷駅に着いてからちょうど一時間が過ぎていた。
「どうせ上まで行ったって、同じだよ。こういうのは、気持ちだ。もう疲れたから、帰ろう」
僕はそう言い、踵を返す。顔を上げた僕は息を呑む。無数の、人々の願いがそこには在った。ああ、尊い。何よりも、尊いものは、人々の願いなのだ。鳥居の裏には、全国各地から商売繁盛を願う人々の住所と名前とが刻まれている。静寂な稲荷山に連なる朱色の回廊、そこはキラキラと輝いている。伏見稲荷大社、御鎮座千三百年。人々の願いだけは決して、途切れることがない。
僕は涙を禁じ得なかった。
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