第3話 天啓③
その後、リホは僕の家を訪ねるようになった。まずはお友達から、というやつだ。天気のいい日は縁側でお茶とお菓子を食べる。曇りの日はアパートの周りを散歩。雨の日は絵を描く。なぜか、そう決まっていた。
「お菓子は好きだけれど、毎日では
「お菓子代くらい、どうにかなるよ」
「私、かびたお菓子なんて食べたくないもの」
頬が緩む。
「今日は曇りだね。でかけようか」
僕の小さな友達は勢いよく駆けていく。これでは散歩ではない。竹林の手前でリホが手を振る。リホに急かされ、仕方なく僕も小走りする。そして、リホの手をとりようやく歩き始める。
「今日は私の家を紹介するわ。いとこの
「まさか中には入れてもらえないよね?」
「親がいなかったらね。そしたら、善治に紹介してあげる」
さすがに一度は自分を殺して犯そうとした男は両親には紹介してもらえないらしい。
「リホのいとこは学校には通っていないの?」
「体が弱いからね。でも、安静にしてさえいればいいだけで、入院するほどではないの。今は、学校の先生のほうが家まで教えに来てくれている」
「学校の先生がそこまでしてくれるものかなぁ…」
ふいにリホが笑い声を上げる。
「善治はね。頭は悪いけれど、普通に学校に通っている同級生よりもはるかに勉強ができるのよ」
「ああ、だから先生が気に入っているのか」
リホの言う「頭が悪い」とは勉強ができないことを指す訳ではないらしい。
「気に入っている、ね。確かに先生も善治を気に入っているのかも」
何だか雲行きが怪しくなってきた。
「まさか、その先生も…?」
「どうかしら。ただの憶測よ」
リホが握っていた手を解き、二、三歩だけ前に行き、振り返る。
「善治も聡明と同じで、男に好かれやすいだけよ」
確かに幾度か、同性からそういう目で見られた経験がある。重いため息をつく。
「だったら、善治くんの担任は女性にしてもらったほうがいい」
「そうね」
そう言うと、リホは再び前を向き、歩き始める。リホの後姿。どう見てもただの女の子だ。ベージュの制服に赤いランドセルがよく映える。私立小学校の学費がどのくらいかかるかだなんて、僕には全くもってどうでもいい話だ。しかし、きっとリホの家は裕福に違いない。明日にでも僕の家に訪ねてきたリホを拉致して、身代金要求したならば一体どれほどのお金をリホの両親は用意するだろうか。そして、金を奪った上にリホを殺害、強姦。
違う。それがしたいのならば、リホに声をかけたあの日に実行していたはず。せっかく、リホと毎日、顔を合わすまでの関係になれたのだ。何も焦ることはない。リホが成長するのを待てばいい。
でも、一体いつまで…? リホが結婚できる年齢になるまで? リホが十六歳になるまで、こんなことを続ける…? 本当にそれで満足できるのか? どんどんなまめかしい体つきになっていくリホを目の前にして? それまでのリホとの信頼関係を全て無にしてまで? そもそも大学を卒業したら、僕はこの地を去るつもりでいた。だめだ。それでは、リホが十六歳になる前にみすみす僕はリホを諦めることになってしまう。では、僕はここで就職するのか? 考えられない。僕はそもそも東北の人間なのだ。この土地に来たその日に僕はここではやっていけないことを自覚した。ここはもはや異国だ。一刻も早くここから出たい。今でもその気持ちは変わらない。だったら、リホを僕の居るところまで呼ぶ?
「リホはここを出るつもりはある?」
「今の家は出るだろうけど、関西は離れたくないわ」
やはり、そうか。僕にとっての異国はリホにとっての生まれ故郷だ。同じ苦しみをリホには味あわせたくない。リホも東北での暮らしも手に入れるだなんて、どだい無理な話なのだろうか。いや、選択肢はある。しかし、その選択肢だけは絶対に選んではいけない。
「聡明、ここが私の家」
「瓦だ」
リホが不思議そうに僕を見上げる。
「ここでは雪が降らないの?」
「降りはするけれど、積もらない」
雪が積もらないだなんて、冬がないのと同じだ。僕が生まれ育った場所は、一年のうちほぼ半分が冬だった。人生の半分が冬。ここでは本物の冬が来ない。ならば、秋と春は同じものなのか。
リホは門の前で待っているように言い、僕は一人残された。
古い家だ。僕の下宿の築年数が確か、僕の年齢の倍くらい。少なくとも、僕の年齢の三倍以上は経っていそうだ。門の正面に立ち、見慣れぬ建物を睨む。瓦だなんて寺か神社くらいにしか使わないと信じていた。だから、どうしても一般家屋に見えない。
「聡明」
リホが手招きする。どうやらリホの両親は不在らしい。門の前に突っ立っていた時点で充分、怪しかっただろう。念のため、左右を確認してから、門を潜った。
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