第24話:溺れる中から引き上げるのは(お題:ビニールプール)

 息ができなかった。

 肺に水がたまっているんじゃないかってくらい苦しくて、吸い込むことも、吐き出すことも、全然うまくいかない。

 もうろうとする意識の中で思い出すのは、まだ小学校にあがったばかりのこと。

 家のベランダに、父がビニールプールを広げて水をため、わたしと弟は喜んで飛び込んだ。

 ばしゃばしゃと水しぶきをあげならがらはしゃいでいるうち、たまたま父が目を離していた時に、弟が足をすべらせて、プールの中に倒れ込んだ。

 子供でも顔を上げれば、なんてことのない浅さ。だけど、びっくりした弟に強い力で腕を引かれたわたしも、冷静さを失った。

 ふたりそろって、ビニールプールの中にひっくり返った。目を、耳を、口をふさぐ水に、なにもかもがわからなくなった。

 がむしゃらに手足をばたつかせても、ビニールのふちは頼りなくへこむだけ。つかむこともできない。ぼうっと低音が鳴り続ける中に、弟のぎゃんぎゃん泣く声が混じる。

 苦しくて、息ができなくて、このままなのかと思った時、背中から抱き上げられて、立たされた。青い顔をした両親が、服がびしょ濡れになるのもかまわずわたしたちを助けてくれたのだ、と理解するのに、しばらくの時間が必要だった。

 それ以来、家だけでなく外でも、水遊びをする時、親は決してわたしたちから目を離さなかったし、わたしたちも、親の目の届かない場所へは決して行かなくなった。


 今、わたしをさいなむ『静かな毒』の苦痛は、それをひたすらに思い出させる。静かなんて嘘だ。こんな苦しさを与えられて、おとなしくしていられるはずがない。縛られたからだをよじって転げ回り、叫びを解き放とうとするけれど、死にかけの蝉みたいな声しか出ない。

 フィールドワークで何度かヒヤリとする場面に陥って、その時はことなきを得たけれど、さすがに今度ばかりは、死神の気配をかんじる。

 暗い視界の中に、ぼんやりと、蒼い巨体と水色の目が浮かんだ。

 雨竜。わたしの大好きな、旦那さま。迷惑をかけてごめんなさい。どうか、あなたは幸せに生きて。


 本当は、わたしが、あなたを笑顔にしてあげたかったけれど。


 残してゆく悔恨に流れる涙の感触さえ遠い。いよいよわたしも家族のもとへ旅立つ時が来たのだろうか。諦めの雲が、苦しい胸をさらに圧迫した時。

 ちくり、と。

 また首筋に注射針の感覚がおとずれた。だめ押しか。帝国兵も容赦のないことで。浅いため息をつくと。

 ふうっと、重たかった肺が軽くなる。あれだけ責め苦だった息苦しさが、消えてゆく。

 開けた視界に、ランプのあかりがともっているのがわかる。それをかかげている人物が、おもむろに口を開く。

「ご無事ですか、ノア様」

 鎖かたびらは、フェアンの兵のあかし。少し胸のふくらみがあるのは、女性兵だからか。

 視線を上げて、相手の顔を見る。めがねに見覚えがあるような気がして、ぼんやりとする頭でしばらく考えを巡らせ、ある瞬間に、かちりとパズルがはまる。

「もしか、して」

 目を見開き、まだ回らない舌で、言葉を紡ぎ出す。

「まだ、名乗ったことはございませんでしたね」

 女性は、わたしが思い至るのを待っていたかのように、不敵にほほえんだ。

ハルヴェルト王あのバカの側近を勤めております、キリム・ショウクロスと申します」

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