第21話:なくしたものは(お題:朝顔)

『もしもし、茶川乃亜さんの携帯で、お間違いないですか』

 それは、ベランダの朝顔に水をやっていた時、突然スマホに着信した。知らない番号には出ないようにしているので、留守録に入っているメッセージを再生して、聞いたのだ。

『ご家族が』

 続いた言葉に、手からじょうろがすべり落ちた。


 わたしの家は、特に変哲のない、ごくごく一般的な家庭だった。会社員の父、専業主婦の母、いつつ年下の弟。わたしは就職難で正社員になれず、派遣社員で働いていたけれど、それでも一家が平凡な暮らしをするには困らない、家族仲も悪くない、本当に普通の家庭だった。


 ある暑い夏だった。弟が大学の夏休みに、海に行きたいと言い出したので、父も有給休暇を取って、皆で海辺のホテルに泊まりにいこうということになった。

 家族旅行はわたしが高校生だった時以来で、ひそかにかなり楽しみにしていたのだけれど、前日になって、職場の先輩が、夫が怪我をして入院してしまったから、そのお世話と、家の諸々で、休まざるを得なくなってしまった。運悪くそこに、彼女とわたししか処理できない仕事が、舞い込んだのだ。

『ごめん、茶川さん! この埋め合わせは必ずするから、今回だけ、お願い!』

 そう代打を頼まれては、いやだとは言えない。わたしは仕事を取り、家族には、『三人で楽しんできて』と、送り出した。

『おみやげ買ってくるから』

 母は苦笑し。

『夏休みのない仕事は大変だなあ、姉ちゃん』

 弟は、絶対同情していないだろう哀れみの軽口を叩いて、父の運転する車に乗り込んだ。

『そろそろベランダの朝顔が咲くだろうから、お水やっといてね』

 母ののほほんとした笑顔が、やけに印象的だった。


 事故は、帰り道だった。トンネルの中で猛スピードを出した対向車がぶつかり、車十数台を巻き込む大規模な玉突きだった。爆発も起きたという。わたしがタクシーで現場についた時には、まだ黒煙がただよっていて、パトカーも消防車も救急車も殺到し、事故に巻き込まれたひとたちの家族が、たいせつなひとの名前を涙声で叫び呼んでいた。次々と担架に乗せられて運び出されるひとには、全身を覆うようにシートがかぶせられて、血まみれの青白い手がはみ出ていた。


 その後は、よく覚えていない。

 伯母が葬儀の全てを取り仕切ってくれて、なにか励ましの言葉をいくつもいくつももらったけれど、わたしの耳はそれを拾わずに流れていって。

 ひとりには広すぎる家で、喪服のままシャワーを浴びもせずに、ぼんやりと視線をベランダに移せば、朝顔は、すっかり枯れていて。

 それを見たとたん、麻痺していた悲しみと孤独感が一気に胸の奥からせりあがってきて。

 わたしは、だれもいないのをいいことに、大声をあげて泣いた。なくしてしまって、もう戻ることのない喪失に、わんわんわめいて、涙がかれて、声もかれるまで、慟哭を放ち続けた。

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