第20話:世界はそんなにやさしくない(お題:甘くない)
雨の中をひた走る。空を飛ぶ雨竜の速さは、ひとの足では到底追いつけないだろう。それでも、一刻も早く、できるかぎり早く、彼もとへたどり着きたい。その一念が、わたしのからだを動かしていた。
こんなに全力で走るなんて、ゼミのフィールドワーク以来だ。大学を卒業してからはデスクワークに移ってしまったから、ジムに通って維持をしたくらいなので、最盛期の体力はない。さらには、転生して「むこう」のわたしよりちいさめになってしまった、このからだ。思うほど足が前に進まなくて、もどかしい。
どしゃ降りの雨は服を重くして、ぬかるみに足を取られる。でも、でも、わたしは前に進まないといけない。雨竜のお嫁さんとして、フェアンには竜の加護がある、と帝国に知らしめないといけない。
わたしがやらないと。わたしが。
そのあせりが、油断を生んだのだろうか。
「あっ」
ずるり、と。足元が崩れて、小さな悲鳴をあげた時には、立て直す暇を失っていた。足を取られて、斜面をすべり落ちてゆく。
幸い、高い崖ではなかったが、かなりの距離をすべった。ふだん来ない場所なので、ここがアーゼル山のどこだかわからない。まわりには深い木々が生い茂って、爆発のあった方向も見えなくなっていた。
「……どうしよう」
ばかはやってはいけないと自戒したのに、やらかしてしまった。途方に暮れたひとりごとがもれてしまう。泥まみれになった服は、雨がある程度洗い流してくれるけれど、見失った道はわからない。
せめて、雨竜にわたしの居場所が伝わるだろうか。巾着から、透明な牙を取り出そうと、指先が触れた時。
「こっちか?」
「ああ、あの斜面が大きく崩れるのが見えたぞ」
あきらかに、雨竜のものでも、山の獣たちのものでもない会話が聞こえてきて、わたしは木の陰にとっさに身を隠す。そして、おそるおそる、近づいてくる声の主たちをのぞき見た。
黒い鎧姿の男が、ふたり。フェアンの防具は鎖かたびらのような軽装だった。鉄板を叩き伸ばして防御力を高めたのだろう鎧は、やはり。
「宰相閣下も必死だよな。シャリア陛下を完全におさえ込むために、フェアンの竜を捕らえようなんて」
「小娘と見くびってたら、なかなかどうして、したたかだから、あせってるんだろ。相手も番犬を抱えてるから、甘くないってことさ」
帝国兵はのんきに会話を交わしながら、こちらに近づいてくる。わたしは息を殺して、祈りのように願う。頼むから、このまま過ぎ去って。わたしに気づかないで。
兵士たちは世間話をしながら、わたしが隠れる木の前を通り過ぎてゆく。心臓の音が聞き取られていないか、不安がつのる。変な呼吸をしたら、聞きとがめられてしまう。息を止める。
兵たちがびしゃびしゃと、金属の靴で泥をはねながら、目の前を通過してゆく。その背が遠ざかりはじめて、ほっと息を吐き出した時。
がつん、と。
後頭部をなにか固いもので殴られて、視界がぶれた。全身から力が抜けて、その場にくずれおちてしまう。
「甘いぞ、貴様ら!」
通り過ぎたはずの兵たちに怒鳴りつける、別の声。
「娘ひとり見つけられないのか! こいつは黒髪黒目、稀他人だ。雨竜の嫁だぞ!」
最悪の展開になってしまったことを、わたしは遠ざかる意識の中で確信する。
ああ、わたしはどうしていつも、大切なひとたちが大変な時に、寄り添っていられないんだろう。
どうして、世界はこんなにも、やさしくないんだろう。
どこかで誰かの泣く幻聴を最後に、視界が暗転した。
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