第14話:わたしの知らないだれか(お題:お下がり)

 わたしが雨竜のもとに来て、そろそろひと月が過ぎようとしていた。

 アーゼル山の鳥獣たちはみんなわたしに好意的で、山ごもりで退屈していないかと、雑談の相手をしに来てくれたり、食材を探しにいくと、山菜がよく生える場所まで案内してくれたりする。熊に出くわした時はさすがに身がすくむ思いだったが、相手は意外と気さくで、川で魚釣りをする方法を教えてくれた。今ではすっかり、並んで釣り糸を垂らす仲だ。

 そしてなにより、雨竜はやさしい。朝はわたしが目覚めるより早く起きていて、夜はわたしが寝落ちるまで、かたわらで見守っていてくれる。時折ひとの姿を取っては、一緒に食事をする。

「ノアと一緒にいると、安心する」

 きれいな顔をほころばせる笑みは、ときめきをもたらしてくれる。

 雨の守護者であるこのひとの性質上、一日に何度か空が泣くことはあるが、さすが千年を生きる存在。ある程度は天候も自在に操れるようで、雲が去れば、あたたかい太陽の光が注ぐ。

 その合間に、わたしは籠を持って、今日も今日とて食材探しに出るのだ。


「今日は、あっちに行ってみようかな」

 それは本当に、たまたまの思いつきだった。ひとりごとをつぶやき、いつもとは違う道を選んで、未知の領域へ踏み込む。草がぼうぼうに生えているが、竹も見受けられる。流しそうめんの竹の用意は雨竜に頼んだけれど、このあたりから持ってきたのかもしれない。春だったら、雨後のたけのこがたくさん採れそうだ。でも、今はあいにく夏へ向かう季節。来年以降のお楽しみにしよう。

 そう考えながら、足を進めようとした時。

『おや、ヒト風情が、こんなところまでやってくるとは。怖いもの知らずか、礼儀知らずかね』

 妖艶ようえんな声が耳に届いて、わたしは、声をかけてきただれかがいるとおぼしき方向へ顔を向ける。

 銀の毛並みの狐だった。ハーヴィ王が来た時や、流しそうめんの時に集まった顔ぶれにはいなかったはずだ。

「はじめまして。雨竜さまのもとでお世話になっている、茶川乃亜です」

『ああ、いいよいいよ、自己紹介なんて。しょせん、数十年もすれば消えてしまうヒトの名前など、おぼえる気はない』

 にっこり笑いかけてみせても、狐はそっけなく目を細めて、ゆるゆると首を横に振る。よくよく見れば、その尾はここのつに割れている。なるほど、通常の獣のことわりを超えたひとなのか。

 わたしが納得する間に、狐はため息をつき、『それにしても』と、底の知れない黒い目で、じっとわたしを見つめてきた。

『あの子のお下がりを着せるなんて、雨竜の引きずりっぷりにも、困ったものだねえ』

「あの子?」

 首をかしげる。たしかに、今わたしが着ている松葉色の服は、衣桁にかかっていた、まだ着られそうな一着だった。昔の稀他人の誰かが着ていたのだろう。古そうだけれど、かなり丈夫にできているので、ハーヴィ王からの厚意でもらった日用品に入っていた裁縫用具を使い、ほつれを直したのだ。

『あたしの口からは語れないよ』

 狐はそう言い置くと、ついと顔をそむけてきびすを返す。

『知りたければ、雨竜自身を問い詰めるんだね。「アズサ」という娘の名前を出してみな』

 その言葉に、胸がざわつく。そういえば文鳥も、『忘れられないくせに』と言っていたことがある。

 アズサ。それは、だれ?

 わたしの知らない、雨竜の忘れられないだれかの名前に、心臓がばくばく言う。

 そらが曇り始める。しとしとと小雨がおとずれても、わたしはしばらくのあいだ、その場に縫い留められたかのように立ち尽くして、動くことができなかった。

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