第2話:透き通った水晶のような(お題:透明)

 わたしは雨竜に連れられて、アーゼル山のさらに深くへ踏み入った。

 そこには竜も入れる大きな洞穴があって、地面には直に触れないように、干し草が敷き詰められている。

『歴代の稀他人たちが整えた、すみかだ』

 雨竜の言葉通り、洞穴の中には、歴史の教科書でしか見たことのないような、かまどや風呂釜、衣桁、草を編んだ寝床など、ひとが暮らせる設備がそなえられている。とはいえ、わたしの前の稀他人は何年前までいたのだろう。それらはほこりをかぶって、干し草も湿っているにおいがする。

 このまま暮らすには、あまりよろしくない。

「雨竜さま!」

 わたしが名を呼ぶと、雨竜は水色の目の瞳孔を細めて、わたしを見下ろしてきた。突然わたしが大声をあげたので、びっくりしたらしい。

「この洞穴の中に、雨を降らせられますか?」

 さらに言い募れば、雨竜は軽くこうべを傾けた。わたしの意図が伝わっていないのだろう。ぎゅっと両のこぶしを握りしめて、宣誓する。

「お掃除をします。全部洗い流して、その後に、しっかり乾かしましょう。ほら」

 そしてわたしは洞穴の天井を指し示す。そこには大きめの穴が空いていて、外の天気がうかがえる。さっきまで降り注いでいた雨はやんで、昼下がりの太陽が顔をのぞかせていた。

「あの太陽が沈む前に、ちゃちゃっと片づけちゃいましょう」

 その言葉に、『チャチャット』と、平坦な声音で雨竜がくり返す。

『そなたは、今までの稀他人にはない、面白い言葉を使うな』

 それだけ、『そちら』で時代が移り変わったということか。

 雨竜はぽつりとつぶやいて、それから宙をあおぎ、ひゅうっと息を吸い込むと、腹の底に響くような咆哮を轟かせた。あまりの大きさに耳鳴りがしたので、両手で耳をふさぐ。

 一瞬後、ざあっと洞穴内に雨が降り注いだ。設備どころか私までびしょ濡れになったが、今のうちにやることをやらねばならない。立てかけられていたほうきと雑巾を手に取ると、湿った草を掃き出し、かまどや風呂釜の汚れをごしごし拭き取って、桁にかかっていた服は、まだ着られそうなものはぴんと伸ばして掛け直し、もうだめそうなものは切り裂いて新たな雑巾にした。

 ざあざあがしとしとに変わって、やがて静かに終息する。太陽が暖かい光で洞穴内を照らす。いつの間にか、雨竜は新たな草を集めてきてくれたので、床が乾くまで一箇所にまとめておく。

『ノア』雨竜が感心したように息を吐いた。『そなたは働き者だな』

「当然ですよ。暮らす場所をきれいにするのは、人間が生活するのに必要なことですから」

 元の世界にいたころも、家どころか職場まで掃除役を買って出て、

『茶川さんにまかせていれば安心ね』

 と、お局さんに、本気なのか揶揄なのかわからないお言葉をちょうだいしたことがある。

「雨竜さまだって、ものぐさのお嫁さんはいやでしょう?」

 問いかけると、水色の瞳がまた真ん丸くなった。そんなに意外だろうか。小首をかしげると。

『ノア。そなたは本気で、われに嫁ぐ心づもりなのか?』

 雨竜はまだ半信半疑のようだ。ためらうような問いかけに、わたしは胸を張って答えてみせる。

「元の世界に帰れるわけでもないんです。なら、与えられた役目を果たすのが、道理ってものですよ」

 わたしの決意をどう受け取ったのだろうか。雨竜は深い深い長息を吐くと、『手を』とだけ返す。言われたとおり、右のてのひらを上に向けて差し出すと、雨竜はそこにみずからの大きな手をかざして。

 ころん、と。

 透き通った水晶のような、牙の形をした透明な石が、てのひらに転がった。

『それは、われの雨が凝り固まったもの』

 雨竜は低い声で告げる。

『竜は、つがいに己の力を持つ牙を渡す。それがあれば、どれだけ遠く離れても、相手の居場所がわかる』

「へえー……」

 透明な牙をかざしてみる。透き通ったそれは、太陽の光を受けて、まぶしく輝いている。わたしはしばらくそれをためつすがめつしていたが、ふと、雨竜の言葉を反芻して、はたと動きを止めた。

 つがいに渡す、ということは。

「雨竜さま! わたしをお嫁さんって認めてくれるんですか!?」

 好きなように生きていい、つまりは帰ってもいいって言われたばかりなのに。半分は驚き、半分は、嬉しさだ。わたしはここにいてもいいのだ。居場所をくれるんだ。

『まあ、おぬしといれば、しばらくは退屈しなさそうなのでな』

 雨竜が牙を見せる。笑ったのだ。じわじわと、胸の奥が温かくなる。

「はいっ! 退屈させませんよ!」

 わたしはお嫁さんとして、この竜とともにいよう。そう決意を固めた。

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