雨竜さまのお嫁さん

たつみ暁

第1話:雨の中、竜を待つ(お題:傘)

 ざあざあ、ざあざあ。

 雨が降り注ぐアーゼル山奥の湖畔で、わたしは水色の傘を差しながら、ぼんやりと立ち尽くしていた。

 ほかに持ち物は無い。

『たどり着けばまかなってもらえるから』

 そう言われて、傘ひとつを手に、山へ踏み込んだのだ。


雨竜うりゅうさまに嫁いでもらえないか』


 突然見知らぬ場所に放り出されて、途方に暮れるわたしに、ご飯と服を与えてくれた人たちは、そう告げた。

 なんでも、このフェアン国では、わたしみたいにいきなり異なる世界からやってくる『稀他人まれびと』は初めてではないらしい。

 最初の稀他人はいつだったか。それはもう伝承の彼方ではっきりしないが、ただ一つ、たしかなことがある。稀他人は、女性であることだ。

 そして、初代稀他人は、フェアンに太古から住む『雨竜』と友好を交わし、友情はいつしか愛情になって、竜のもとへ嫁ぎ、国に竜の雨の加護をもたしたという。

 その逸話通り、フェアンの恵みを守るため、稀他人が訪れるたびに、彼女らはアーゼルの山脈へ赴き、雨竜の花嫁としての役目をまっとうしたという。

 これが年頃の少女だったら、

「そんなの嫌! うちに帰して!」

 と、泣きわめくところだろう。だがあいにくわたしは、元の世界に大きな未練を持ってはいない、だらだら生きていたところで先の見通しも立たない派遣社員だった。それが、鏡を覗けば、肌艶良く、若々しく愛らしい、十代の少女になっていたのだ。異世界転生とはかくやと驚嘆しているところに、嫁入りの話が来た。どうせ元の世界に帰れないなら、人外の嫁でもなんでも引き受けよう。否やは無かった。


 ざあざあ、ざあざあ。

 雨足が強まる中、池を眺めながらたたずみ、わたしは思考を巡らせる。

 雨竜とはどんなひとなのだろう。いや、竜に「ひと」という単語を使っていいのかわからないけれど、他に表現のしようが無いから仕方ない。花嫁というのは実は建前で、ぺろりと一口に呑み込まれて終わり、なんてこともありうる。

「まあ、それでもいいか」

 誰に聞かせるでもないのに、思わず音に出してつぶやいた時。


『なにが、よいのか?』


 鼓膜の奥に直接響くような声がして、びょう、と強い風が吹き荒れる。「あっ」とちいさな悲鳴をあげて手の力をゆるめた隙に、傘は紙きれのように舞い上がって空に吸い込まれる。

 その空を見上げて、わたしはぽかんと口を開け、目をみはってしまった。


 竜。


 元の世界では空想上の生物として、本の中やアニメやゲームでしか描かれない、牙と鱗と翼の生き物。人間の十数倍はあろうという体躯を持ち、蒼い鱗に包まれた、想像通りの姿の竜が、透き通った水色の目で、空中に羽ばたきながらわたしを見下ろしている。

 お互い視線を外さないまま、ゆっくりと竜が降りてくる。わたしは竜に歩み寄ってゆく。竜の腕は丸太より太くて、これを振り回したら、わたしの身体なんて簡単に吹っ飛ぶだろう。大きな口からは、ひとつひとつが刃物みたいな牙が見えて、かまれたら痛そうだな、という考えが呑気に浮かんだ。

『また、稀他人が来るような時が流れたか』

 竜は軽く嘆息したのだろうが、ぶうう、とわたしの髪を吹き上げる強さの吐息が顔にかかった。

『娘。われは花嫁を必ずしも望まぬ。そんな盟約など無くとも、フェアンの良き友たちのために、雨の恵みはもたらす。そなたは好きなように生きて良いのだぞ』

 そう言いつつも、水色の目が、寂寥感に満ちて細められる。それを見て、わたしの決意は固まった。

「じゃあ、好きなようにします」

 両手をのばして、竜の顔に触れる。鱗がざりざりして、ひんやり冷たい感覚が伝わる。

「そんな寂しそうな顔をしているひとを、放っておけません。わたしがお世話します」

『お世話』

 竜が目を真ん丸くして、おうむ返しにしてくる。それから、ふう、と吐息をもらす。

『ヒトがわれを世話するか。面白い。気に入ったぞ、娘』

 おや、意外とすんなり気に入られた。今度はわたしが呆気にとられている間に、竜の口の両端が持ち上がる。笑った、ようだ。

『娘、名は何という?』

乃亜のあ茶川さがわ乃亜です」

 ノア、と。コントラバスで吹くかのような竜の声が、わたしの名前を呼ぶ。

「よろしくお願いします、ええと」

『雨竜、で良い』

 呼び方に迷っているのを察したのだろう。竜は答えて、それから、遠い場所を見つめるかのように、頭をもたげて、彼方を見やる。

真名まなの記憶など、とうの昔にすりきれて、忘れてしまったものよ』

 いつの間にか、雨はやんでいた。

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