あれから10分程歩いただろうか、今俺達は灰色の外壁をしたアパートの前に立っていた。

 眼前にそびえ立つそのアパートは、外階段の付いた2階建て構造になっており、1階に3部屋、2階に3部屋があるごく普通の造りをしたアパートだった。駐車場には3台の車が停まっている。

 外観は塗装が剥げている箇所が散見されるものの、全体的に見ればまあまあ綺麗な方だ。

「ここが俺の家」

「瀬名の部屋は何階?」

「2階の角部屋だよ。隣は空室」

 俺はその部屋を見上げる。なるほど、確かに隣の部屋は〈入居者募集〉という張り紙がしてあった。

「隣が空き部屋ってなんか怖くないか?」

「いや、全然。隣の生活音聞えなくて快適だよ。しかも2階だから上の住人の音が聞こえるって事も無いし」

「そうか、でも俺だったら落ち着かないかな」

 別に隣人の生活音が聴きたいという訳ではもちろんないが、隣が空だとなんだか怖い。ちなみに俺が今住んでいるアパートの部屋の隣には入居者がいる。

「さ、どうぞどうぞ」

 瀬名がふざけた様子で言ってくる。その瀬名の様子は純粋にふざけているというより、何かを誤魔化そうとするかの様だった。

 俺が最初に外階段を上っていく、階段を上る乾いた音が夜の空気に溶けて行く。

 瀬名の部屋の前に差し掛かった時、丁度俺のスマホが鳴った。スマホを取り出し、ディスプレイを確認すると、表示されていたのは会社の同僚の名前だった。

「すまん、ちょっと同僚から電話かかって来たから出るわ」

 そう伝えた後、俺は瀬名に背を向け、少し離れた所に移動して電話に出た。

 内容はなんて事の無い、飲みの誘いだった。『人集まらなくてさー盛り上がらないからお前も来てくれよ』と電話越しにでも分かる程に酔っぱらった同僚の誘いを断り、電話を切った。会社で言ってくれれば良かったのだが。

「いやーすまんすまん、なんか飲みに行こうって誘い——瀬名?」

 

 振り返ると瀬名は消えていた。


 最初、瀬名はふざけて物陰にでも隠れているのだと思った。けれど、瀬名の性格から考えてその様な事をするのは想像がつかない。

 想像がつかないのだが、。そう思った俺は、瀬名の部屋の周辺とアパートの周辺を探した。「おーい瀬名、どこにいるんだ?」そう呼び掛けながら、1階から2階、さらには駐車してある車の下まで探した。

 周辺を一通り探し回った挙句、俺は1人でアパートの前に戻って来ていた。

 結局瀬名は見つからなかった。一体どこに行ったんだ?

 俺が電話をしていたのは正味3分程だった。その短時間でこんなに綺麗さっぱりと消える事が出来るはずがない。少なくとも俺にはこの短時間で消える方法なんて思いつかなかった。

 しかも、電話中に背後で階段を下りる音はおろか、人が動く気配すら全くなかった。そう、瀬名は忽然こつぜんと姿を消したのだ。まるで神隠しの様に。

 不安と恐怖がジワジワと湧き上がって来るのを感じる。俺は一旦瀬名の部屋の前まで戻ってみる事にした。外階段を上る音がやけに大きく、耳に刺さる。

 階段を上っている内に、瀬名が部屋の前に何てことは無い顔をしながら立っている事を期待した。しかし期待は期待でしかない事を俺は直ぐに思い知る。瀬名の部屋の前には誰もいなかった。

 本当にどうしたものか……。あ、そうだ。

 俺は肝心な事を忘れている事に気づいた。「そうだよ、瀬名に電話をかければいいじゃん」なんで俺はこんな一番の解決策を忘れていたのか。

 俺はスマホという文明の利器に初めて感謝の念を抱いた。

 早速瀬名のチャットアプリのアカウントをタップし、電話をかける。

 呼び出し音が鳴る。すると、丁度同じタイミングで携帯の着信音が瀬名の部屋から漏れ聞こえて来た。

「……え?」

 なんで瀬名の携帯が部屋の中にある?瀬名は今部屋の中にいるのか?っていうかいつの間に部屋に入ったんだ?俺が電話をしている最中に?あの短時間で?

 いや……そんなはずはない。俺は試しに一旦電話を切った。すると瀬名の部屋から聞こえていた着信音も止まった。……やはり瀬名の携帯は家の中にある。

 瀬名が携帯を家に忘れた可能性も考えたのだが、直ぐにそれはあり得ない事だと分かった。

 駅前で待ち合わせをしていた時、瀬名はスマホをいじりながら俺を待っていたのだから。

 とにかくこうしていても仕方がないと思った俺は、インターホンを押して中にいるであろう瀬名を呼ぶことにした。

 部屋の前に立ち、インターホンを押す。——反応が無い。

 もう一度インターホンを押す。——また反応が無い。

「おーい、瀬名、居るんだろー」近所迷惑にならない様に気を付けつつ、声もかけたがこれもダメだ。返答が無い。

 一体どうしたものか。そう考えていると、瀬名の部屋の玄関ドアがほんの少しだけ開いている事に気づいた。俺はドアノブに手をかけ、そっと開ける。

「瀬名―。俺だ、いたら返事してくれ」

 呼びかけるが返事が無い。玄関から真っすぐに伸びる廊下の突き当りにある、リビングに続くドアも少しだけ開いている。そのドアの前に瀬名のスマホが落ちていた。

 家の中はやけに静かだった。人が居る気配が全くしない。

 俺はこの状況に胸騒ぎを覚えながらも室内に踏み込んだ。玄関には瀬名の靴が置いてある。さっきまで瀬名が履いていた靴。

「入るぞー」

 未だに返事は無いが、そのまま進んで行く。フローリングを踏みしめる音が室内に響く。ドアの前まで来た俺は、落ちている瀬名のスマホを手に取った。なぜこんな所に落ちているのだろうか。スマホが落ちている場所にしては少し不自然に感じる。胸騒ぎがどんどんと大きくなっていく。

 俺はそのままリビングに続くドアに手を掛けた。流石に瀬名はこの先にいるだろうと思いながら、そのままドアを開く。

 。青白い顔で目を見開き、地面に倒れた瀬名が。


 最初はその光景がとてもじゃないが現実の物とは思えなかった。

 だって、さっきまで一緒にいた瀬名が目の前で倒れているのだ。そんなことあり得ないだろ?

 だからこれも何かの冗談だと思った、そう思おうとした。そう思いたかった。だが……明らかに目の前に倒れている瀬名の様子は

「瀬名!!!」

 俺は瀬名の元に駆け寄る。さっき買ったもうどうでも良い酒を放り投げながら。

 手首に手を当て、脈をとる。脈は殆ど感じられなかった。でも、わずかにまだ拍動が感じられる気がする。——まだってなんだよ、まだって……俺は何を考えてんだよ、瀬名は元気なはずだろ?さっきまで一緒に話してたんだからよ!——おい、寝てんじゃねえぞ瀬名!

 その自分の思いとはうらはらに、俺は気付くと自動的に救急車を呼んでいた。

 救急車は6分位で到着した。「早く、早く運んで下さい!」俺は救急隊員にそう強く懇願こんがんした。しかし、なぜか救急隊は瀬名を運んで行くことはしなかった。なんだ、なんで呑気に電話なんてしてるんだよ……。瀬名を早く運んでやってくれよ……。

 その後、俺は救急隊から告げられた言葉の意味を理解するのに暫くかかった。

 その内容は、瀬名はもう死んでいるという事、ここから先は救急隊の管轄外であり、警察が介入して来る事。

 瀬名が死んでいると聞いても俺は泣く事すら出来なかった。さっきまで瀬名と一緒に話して、歩いてたから。——なぁ、その人間が死んだと聞かせれてその事実を素直に飲み込める訳がないだろう?


 その後の警察からの事情聴取で俺は信じられない事を聞かされた。

 それは瀬名の死亡推定時刻が午後4時頃だという事。

 午後4時は瀬名から『今日会おう』というチャットが来た時間だった。しかもその後俺は普通に瀬名と会って会話して瀬名の家まで歩いているのだ。じゃあ俺が話していた瀬名はいったい? 俺は死んだ瀬名と話していたというのか?

 俺はその事を警察に伝えた、しかし、死亡推定時刻と俺の話に大きな齟齬そごがある事から最初はだいぶ疑われた。だが瀬名の死因は自然死だという事、現場検証の結果、事件性は無い事が判明した事から、俺はショックで気が動転しているのだろうとみなされ、その後解放された。

 警察署から出た時にはもう日付が変わろうとしていた。聴取前には止んでいた雪がまた降っていた。正直家に帰る気力も無かったのだが、警察署に泊まる訳にもいかず、俺は重たい体を引きずる様にして歩き出した。

 正門を出て右に曲がった時、正門の外壁に寄りかる様にして立つ姉を見つけた。

「あんた、大丈夫? ……な訳ないよね、ひどい顔してる」

 俺を見た姉はそう言って心配そうに駆け寄って来た。ああ、そういえば聴取前に姉に連絡していたんだっけ。 

「色々大変だったね」

「うん……なんだか実感が全くない」

「とりあえず歩こう」

「分かった」

 俺と姉は二人で歩き始めた。

 しばらくの間、姉との間には重い沈黙が流れていた。その沈黙を最初に破ったのは姉だった。

「ほら、今日、じゃなくて昨日か、仕事帰りのあんたと丁度鉢合わせた時あったでしょ」

「ああ、あったね」

「その時、あんないきなり逃げる様に帰って悪かったよ」

 姉の方を見ると申し訳なさそうな表情をしていたが、同時に何か言いたげな様子でもあった。

「いや、別にいいけど……他にも何か言いたい事あるんじゃないの」

 そう俺が聞くと、姉は意を決したように口を開いた。

「あのね、あの時、あんたは瀬名君と話してたみたいだけど……その、あたしには瀬名君の姿は全く見えなかったの。あんたは何もない空間に向かって話しかけていた」

「だからまるで瀬名君が今隣にいるかの様に振る舞うあんたを見て、正直段々と怖くなって来て……、だから逃げる様に帰っちゃったの」

 俺は姉の言葉を聞いても驚かなかった。瀬名の死亡推定時刻を聞いた時から察しはついていたから。そうか、だからあんなに視線を感じたのか。そりゃずっと何もない空間に向かって話しかけ続けていたら無理もないか......。

 けど、あの時の俺の隣には確かに瀬名がいた。俺は瀬名と話していた。

「うん、でも俺の隣にはあの時、確かに瀬名が居たんだ。あれは冗談でもなんでもない。俺は瀬名と話してた」

「そっか」

 姉はそれ以上聞いて来なかった。

「あ、でも瀬名にはちゃんと謝った方が良いかもね。あの時の瀬名困ってたから」

「それと、姉ちゃんが帰った後、瀬名が『美香さん久しぶりに見たけど元気そうでよかった』って言ってたよ」

 そういった後、しばらく姉から言葉が帰って来る事はなかった。言葉の代わりに、姉が鼻をすする音が聞こえて来た。

「……うん、わかった……けど、元気な瀬名君に会っておきたかったなぁ」

 震える声を必死に抑えながら話した姉に「そうして」と俺は答えた。

 泣いている姉を見て、不謹慎だが少しうらやましいと思った。俺はまだ泣けない。それは多分、直前まで話していた瀬名の “死”という非常な現実を受け入れる事が出来ていないからだと思う。泣く事が出来た時、それは瀬名の死を受け入れる事が出来た時だ。まだ少し先になるかもしれない。

 瀬名はどうして死後、俺の前に現れたのだろう。見つけて欲しいという思いからだろうか。実際、瀬名がこうして俺の前に現れてくれなかったら、倒れた瀬名の事を見つけるタイミングがもっと遅れていたかもしれない。だがいくら早く見つける事が出来たとはいえ、瀬名が一人で死んだという事実は変わらない。事件性は無い自然死、死んだ場所は一人暮らしのアパートという事から分かるように、あいつが死んだ時には近くに誰もいなかった。

 もっと俺が連絡を取っていれば。もっと瀬名の事を気にかけていれば。こんな事にならなかったはずだ。瀬名が一人で死ぬなんて事にはなっていなかったはずだ。近くに住んでいながら俺は一体何をやっていたんだ!

 あごを何か生暖かい物が流れ落ちたのを感じた。

 俺は顎を拭う。すると指の一部が赤く染まっていた。

 無意識に俺は血が出る程に唇を噛みしめていた。

この事は俺が死ぬまで後悔し続ける事になると思う。この事は決して忘れてはいけない。

 だけど……瀬名と最後に話したあの時間ときは楽しかった。本当に楽しかった……。

 

 ああ、もう一度お前と話したい。

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再会した友人は遠くにいた 彩羅木蒼 @sairagi

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