第36話 水面下の計画
風の音と虫の鳴き声だけが残響する夕闇に、下草を踏む音が混じる。真っ直ぐに向かう先は、荒れた庭。手入れの行き届いていない、後宮の端だ。地面を滑る上衣が雨露に濡れて足首に纏わりつく。
「――そこの貴女?」
暗闇に沈む
「……貴女は」
「わたくしは
影が四阿から出てくる。桃春が明かりの落ちる場所まで歩いてくると、その長く癖のない髪が光を反射する。桃春は目を見張る。
「瑶様がどうしてこちらへ?」
「侍女と少し口論になってしまって……。怪我の手当が終わって
「怪我はよろしいので?」
「ええ、ほんの少し切れただけですわ」
上位の妃ともあろう者が伴もつけず出歩くことが許されるのか疑問ではあるが、桃春も瑶もどちらも独り歩きをしている時点でお互い様である。特に触れることもなく、瑶はにこりと微笑むと四阿の中に入って腰掛ける。
「少しご一緒してもいいですか?」
「もちろんですわ」
桃春も瑶と向かい合うようにして腰掛けた。桃春は自分より一回りほど小柄な瑶を横目で一瞥する。
瑶の滑らかな肌が日を受けて白磁のように輝いてる。伏し目がちな目元に睫毛が影を落とす。幼さはあるが妖艶な雰囲気を持った少女だ。
これが分家から金家本家に送り込まれた
本人の気質なのか、瑶の言動は全ておっとりとしていて品がある。笑うときも鈴を転がすように笑い、歩くときは音を立てず滑るように移動する。本当にお手本のような姫だ。
苦労を何も知らない、美しいものに囲まれて育てられた蝶。……誰かさんとは大違いね。
桃春は奥歯を噛んだ。殿下の渡りもあるとなると、いよいよ太子妃争いはわからなくなってくる。
「何か考え事ですの?」
瑶がことんと首を傾げる。その仕草すら愛らしい。
「瑶様は、私の姉が燕妃、藍柊月であるのはご存知ですか?」
ふと口をついて出た言葉に瑶は一瞬驚いたようだったが、すぐににこりと頷く。
「もちろんですわ。それがどうかなさいましたか?」
瑶が先を促すように桃春を見上げる。桃春は腹に溜まった汚泥を吐き出すが如く低い調子で続ける。
「私は……姉が太子妃になることが許せないのです」
「どうしてですか?あんなに素敵な方なのに」
「素敵?どこがですか?」
桃春の口端が僅かに持ち上がる。
「教養も振る舞いも、何もかも後宮に相応しくない。太子妃は瑶様がなるべきです」
「そんなに仰ってくださるのは嬉しいのですけれど」
戸惑ったように瑶の細い指がそっと桃春の頬に触れる。
「お顔色がよろしくないですわ。ご気分が悪いのでは?」
桃春は頭を振ると、瑶の手を取った。
「姉が太子妃になるくらいなら、死んだほうがマシです」
桃春は目を閉じる。その瞼の裏には柊月がいる。出来のいい、優秀な姉が。表情の乏しい彼女がちらと桃春を見やり、すぐに踵を返す。涼しい顔で桃春を見下ろし、桃春の手の届かない高みへ登ろうとしている。両親からの関心も、皇太子からの寵愛もただ一人で独占して。
そんなこと、許さない。
瑶は桃春の手を握り返す。
「藍家のご両親はよろしいんですの? 姉君が太子妃となれば、藍家のご両親も大層お喜びになると思いますわ」
桃春の目が薄っすらと開く。そして、じわじわと眼尻に涙が溜まっていく。
「両親は柊月は柊月はと、文を寄越しても使者をやっても姉のことばかり……私のことなんてもう気にもしていない……。私はもういらない子なんです……そんな家のことなんてどうでもいいですわ……う、ううっ……!」
桃春の本音が漏れる。
両親の関心も期待もなくなった今、桃春には最早後宮での存在価値はなかった。柊月を足蹴にして許されていたのは、桃春に価値があり、柊月に価値がなかったから。今や立場は逆転し、藍家で一番重要なのは柊月、桃春はただの予備品と成り下がってしまった。藍家にとって一番大事なものは、桃春から柊月にすり代わってしまったのだ。
「今の両親にとって、不出来で愚図と罵っていた姉の方が私より大切なのです!酷い、私だって頑張っていたのに……!!」
「………まあ………桃春様、おかわいそうに」
ポタポタと涙を落とす桃春の肩を瑶が抱く。そして、瑶はとろけるような微笑みとともに桃春の頬を両手で包み込んだ。
「ねえ桃春様、わたくしのオトモダチになってくださらない?」
「おともだち?」
「ええ。もしわたくしが太子妃となることがありましたら、桃春様を今より良い待遇してほしいと上に進言いたします。だから、ご自身に価値がないように仰るのはおやめになって?」
「ありがとうございます……」
涙を流す桃春に瑶が優しく頬を撫でた。
桃春は内心ほくそ笑む。
瑶は金家に養子に来たというだけで、所詮は年下の箱入り娘だ。世の駆け引きや苦労ならば、桃春の方が上である。涙一つでコロリと落とせるのだから安いものだ。
桃春にとって、いつでも自分が一番だ。もし瑶が太子妃となれば、柊月は今より扱いが悪くなる。
瑶はふふと笑うと、桃春の頬から手を離した。
「早速オトモダチの桃春さまにお手伝いしていただきたいことがあるんですけど、よろしいでしょうか?」
「なんなりとお申し付けくださいませ、瑶様!」
嬉しそうに目を細める桃春を、瑶は硝子のような作り物めいた澄んだ瞳でじっと見つめて、また微笑んだのだった。
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