第35話 励まし




「はあ…………」


 自分の宮に戻ってきた途端どっと身体が重くなった気がして牀榻に倒れ込んだ。


「お疲れ様でございました」


 明睿めいえいが私の足から転げ落ちたくつを拾う。普段なら行儀が悪いと叱られるところだが今日は何も言われないところを見ると、明睿も疲れているのだろう。


 ようの傷の具合が気になる。痕に残らないことを願うことしかできないのが歯痒い。楚花そかが気にするように後宮で女性の顔は命の次に大事だ。私が間抜けなせいで瑶を巻き込んでしまった。


「先程は何があったのです」


 明睿が牀榻の横に膝をつく。

 私と瑶の様子を遠巻きにしか見ていなかったからきっと驚いただろう。私は着崩れた衣類もそのままにのそりと身体を起こす。

 

「私の落ち度なんですが……」


 思うように動けなかったと伝えた。 

 緊張していたせいだろうか。最近は姿勢や足さばきの練習のおかげで転ぶこともなかったのだが。自分で話していて不思議に思ってしまう。

 明睿に叱られると思っていたが、予想に反して明睿は落ち着いていた。


柊月しゅうげつ様にお怪我がなくて安心しました。もし何かあったら悧珀りはく様に絞められます」


「瑶に怪我をさせてしまった時点でものすごく絞められると思います」


 明睿はどうでしょうねと返してきた。

 

「私の主は悧珀様と柊月様ですから。柊月様がご無事なら悧珀様は何も言わないと思います」


「どうだか……あ、明睿。瑞香宮ずいこうきゅうに訪問の通達がなかった件、本当のところどうなんですか?」


 今後のためにもどこかで連絡の行き違いが起こったのなら確認しておかなければと思ったのだが、明睿は難しい顔で首を横に振った。


「確実に連絡いたしました。あの場にいた瑶様の侍女の中に、直接私とやりとりをした者もいました」


 明睿は嘘をつかない。少なくとも私はそう信じている。

 明睿の言う通りなら、今回の行き違いの件は先方がということだ。

 

「そうですか」


「やられましたね」

 

 誰の画策だろうか。瑶のあれも演技だったのだろうか。それとも瑶の侍女の画策か。

 他の妃も見ている前で私が瑶のもとを突然訪れて圧力をかけたように演出する。それによって瑶に同情が集まり、私に対する心象が悪くなる。結果、瑶の株が上がり私が悪女となるわけだ。

 燕子えんしが二人揃った時点で後宮内は荒れると思っていたが、こんな早々にぶつかるとは思わなかった。しかも件の転倒事故が重なったことで更に状況は悪くなった。他の妃にも見られたことだし、色んな噂が流れそうだ。

 

「柊月様、お気を悪くされないでください。相手を蹴落とすために嘘をでっちあげるやり方は、後宮ではよくあることです」


 明睿がため息混じりに頭を振る。


「柊月様と瑶様の転倒も、瑶様側の罠かもしれません」


「そんな……そこまでしますか?」


「するんですよ。ここはそういう場所です」


 後宮を知る明睿が言うと真実味が増す。あらためてとんでもない場所にいるのだと痛感して胃が痛くなる。

 

「柊月様は何もお気になさらず。何があったとしても、私も阿子あこも柊月様のお側におります」


 明睿の真っ直ぐな言葉が沁みる。こんな私にここまでしてくれて。藍家にいたときにはこんなこと考えられなかった。

 

 でも、ふと我に返る。明睿のこれだって悧珀の命令があってのことだ。私が用済みだと言われたら、いつ見限られてもおかしくはない。

  

「……明睿は、今後悧珀様の命がなくなったら私のもとを去るんですよね?」


 意地の悪い質問だ。でも瑶が登場してからずっと考えていた。はっきりバッサリ切ってくれた方が私も気が楽になる。

 そう思っていたのに予想に反して、明睿の動きが止まった。声音が固い。

 

「どういう意味です?」


「そのままの意味です。悧珀様から、もう私の護衛は必要ないと言われたら――」


「ちょっと待ってください」


 顔を上げると難しい顔をした明睿と目が合う。

 

「何故護衛を外す想定の話が出るのです?」


「ありえない話ではないでしょう。燕子はもう私だけではないのですし」


「いいえ、悧珀様が柊月様から護衛を外すなどありえません」


「何故?」


「何故、とは……」


 明睿が頭を抱えて唸りだした。もしかして触れてはいけないところだったのか。


「この人達はお互いがお互いにどう思っているんだか……」


「はい?」


 明睿が何事か呟いたがうまく聞き取れなかった。明睿は何度か口を開きかけては閉じるを繰り返している。

 珍しく明睿が言葉を選んでいる。何を言われるのだろうと身構えてしまう。


 ようやく顔を上げた明睿は、いいですかと諭すように前置きをして私の手を掴んだ。手袋越しのため彼の真意は言葉からしかわからない。

 

「貴女の価値は……いえ、価値という表現をすること自体間違っています。燕子であることを抜きにしても、悧珀様は貴女様のことを大切にしておられます。第三者が口を出すことではありませんが、あー……大丈夫ですよ」


 明睿が私を励まそうとしている。滅多にない光景に感動すらしてしまう。なるべく心配をかけないようにと口角を上げた。


「気にしないでください。私は大丈夫です」


「いえ、何といいますか、本当に――」

 

 明睿が頭を振って何か言いかけたが、後半は聞き取れなかった。外で歓声が上がったからだ。女性達の高い声が走廊に響いて私の部屋にも響く。


「チッ、次から次へと一体……!」


 明睿の素が出ている。苛々した様子で扉を潜って外を確認しに行く明睿の後ろから私もそっと顔を出す。


 そこには走廊の奥に固まって外を覗く宮女の群れがあった。


「殿下よ、お渡りだわ……!」


 誰かのそう囁く声が聞こえた。


 お渡り。後宮の妃のもとへ通うこと。

 つまり、殿下がどこかの妃のもとへ向かってるということだ。

 

 まだ日の落ちきらない申の刻のうちから後宮の門が開くことは珍しい。普通の渡りなら、夕餉か、夕餉の終わる宵の頃の訪問が常だ。私のところへ来たのは数回だが、悧珀の訪問は市井に降りた件絡みを除くといつも遅かった。


 皆の視線の先を辿ると、確かに見慣れた頭と背格好の男が供を引き連れて歩いていた。供の中には緑紹りょくしょうの姿らしきものもあった。目的地は私の桂花宮けいかきゅうではなさそうだ。方向的に考えると向かっている先はおそらく――。


「――瑞香宮」


 私の心を代弁するように明睿が呟く。


「私の言っていたこともあながち間違いではないでしょう?」


 明睿の顔を覗き込むと、明睿は渋い顔をしたのだった。

 私は私で、妙に胸が落ち着かなかった。

   

 

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